軟式野球発祥の地

軟式野球発祥の地


今日はひな祭りだが、桃の花ではなく、梅の花をカメラに収めようと、ネットで見た五分咲きの梅宮大社と北野天満宮に行ってきた。
ともに情報通り、梅の花が生き生きと咲いていた。
しかし、雨模様になってきたので、早々に引き揚げてきたが、その途中、家の近くでこんな石碑を、偶然見つけることができた。

ここは、下京区烏丸通り高辻 にある、学校統合で廃校になった「成徳小・中学校」の跡地である。
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ここは、写真に写っている通り、【軟式野球発祥の地】となっていた。
高校時代野球部に入っており、使っていたボールも軟式だったので、急に懐かしさがこみ上げてきた。
“そうか、ここが軟式野球の発祥かぁ”。

文献を調べてみると、
「野球は 明治初年にアメリカから伝わり, 1915(大正4)年に開催された全国中等学校優勝野球大会などにより 全国の青少年の間に普及していった。
この頃 本格的に硬式ボールを使えない子供たちは, テニスボールなどで野球を楽しんでいたようだが, 重量が軽くてスピード感が伴わず, 耐久性も不足するなどの欠点があった。
大正4年, 第1回全国中等学校優勝野球大会 (現 全国高等学校野球選手権大会) において京都二中が見事初優勝を飾り, 京都の少年達の間に一気に野球熱が高まった。
少年達がより安全かつ安価に野球を楽しめるよう, 京都市の小学校の教員が中心になり「京都少年野球研究会」が結成され, 京都文具商業組合長の鈴鹿栄氏(平成15年野球殿堂入り)が要になって野球用ゴムボールの開発が行われた。
ボールは大正7年に完成し, 翌年7月に京都市第二高等小学校(下京区 元 成徳小学校。戦後, 成徳中学校に) において, 京都少年野球研究会が軟式野球大会を開催したのが, 我国はもとより, 世界に普及した軟式野球の始まりである。」


また、隣りには、【栄養給食先駆けの地】という石碑もあった。
具体的な意味は分からないが、きっとカロリーなどの栄養を考えた給食を始めたのだろうか。
石碑を建てる位だからそれなりの意味があると思う。
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京都は昔から教育には熱心だったようだ。
小学校・幼稚園も京都発の初物だった。
近くに、「学校歴史博物館」があるので今度行ってみるつもりでいる。




この項 <完>

by mo-taku3 | 2012-03-06 00:22 | 京都発の初物 | Comments(2)

日本初の電機鉄道と京都の市電

日本初の電機鉄道と京都の市電


京都では、明治28(1895)年2月1日~昭和53(1978)年9月30日の83年間,市電、いわゆる路面電車が走っていました。
先の①でも述べましたが、明治28(1895)年,民営の京都電気鉄道会社(京電)が東洞院塩小路下るの七条停車場(京都駅)と伏見町下油掛間の営業を開始されました。
すなわち、京都に日本初の路面電車が誕生したわけです。
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しかし、明治45(1912)年6月に京都市営電車(市電)の営業が開始され,京電と激しく競合しましたが,大正7(1918)年7月,京都市が京電を買収し,競合区間があった路線が市電で統一されました。
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昭和30年代の後半(1959~1964)になると,市電と競合する市営バスや民間会社バスが増加し,更に自動車も多く走りはじめこともあり,路線変更の自由がきかない市電の経営は徐々に行き詰まりを見せ始めました。
昭和45(1970)年3月31日,日本最古の路面電車路線だった伏見線(塩小路高倉と中書島間)と稲荷線(勧進橋と稲荷間)が廃止されたのをはじめとして,路線が次々と廃止されていき,昭和53(1978)年9月30日には,残る外郭線(北大路・西大路・九条・東山・七条・河原町の各線)すべてが廃止され,京都の路面電車の歴史に終止符が打たれました。
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(こぼれ話)
1) 電気鉄道事業発祥の碑(下京区塩小路通東洞院南西角 )が京都駅に・・・。
伏見線は,明治28(1895)年2月1日,日本で初めて開通した路面電車で,下京区東洞院通東塩小路踏切(旧東海道線)南側を起点とし,この地点までの約6キロメートルを走りました。
その石標が,日本最初の路面電車伏見線開業80周年を記念して昭和50(1975)年に、東洞院塩小路交差点に建てられています。
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2) 疏水による電力で起動してました。
京電は琵琶湖疏水による水力発電によって電力が供給されていました。疏水の流れが止まってしまうと,京電もとまってしまいました。
京電の定期休業日は,疏水の掃除に併せて組まれていたようです。その他,水利事務所の機械故障や琵琶湖の増水などによっても電車が止まりました。
明治32(1899)年,東九条村(現南区東九条東山王町)に火力発電所が開設され,その結果、輸送能力が一気に向上しました。

3) 告知人制度
京電が開業して後、雑踏や街角,橋上では事故が起こったため、昼は旗,夜は提灯をもち「電車がきまっせえ。あぶのおっせえ」と叫びながら線路を走る告知人がいました。
告知人は,12歳から15歳の少年で構成されていて,先走りと呼ばれました。
仕事は危険な上に汗とほこりにまみれての重労働なことや,少年が電車にひかれるなどの危険がともなったため、この告知人制度はやがて廃止されました。




この項 <完>

by mo-taku3 | 2012-03-01 15:23 | 京都発の初物 | Comments(4)

日本電気鉄道事業の発祥

日本電気鉄道事業の発祥は京都


たまたま京都駅まで史跡らしきものを見つけ、読んでみると【電気鉄道事業発祥地】の記念石碑でした。

内容は、
明治28年2月1日に京都駅の200m位北にあたる、七条東洞院通り~伏見下油掛通り(南に6km位)までの区間を、日本で初めて電気鉄道が走ったと刻まれておりました。
この成功が元で、全国の電気鉄道事業が進み、今日では新幹線に至っているわけだそうです。
JRの電化よりも早かったということですね。
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この記念碑が建てられたのは、37年前で、字も読みづらくなっていました。
この碑が建てられた当時は、京都の市電はまだ残っていたようで(1978年9月末全廃)、その数年後に市電が無くなってしまったとき、関係者は複雑な想いだったのではないかと思います。

私は京都に住んで、京都人の気骨を感じることがあります。
自分たちだけの伝統を大切にすることが京都人と思っておりましたが、どうしてどうして、京都は新しいことに積極的に取り組む新進気鋭の精神が脈々と流れていることが、京都を知れば知るほどわかってきます。

また、京都には外車が多いことと、外人の多さには驚きます。
私が住んでいるマンションの駐車場は、半分が外車です。
ということから、京都発、世界への発信が多くみられるのは頷けます。

京都には未だ未だ興味深いことや、日本初というものもあるようです。
都が江戸(東京)に移ってからの、京都人の合言葉は、「第二の奈良にしない」ということでした。

また、東京遷都にあたり、明治天皇は色んなことに気を使っています。東京としたのも東の京ということで、企業でいう、東京本社ということではないかと思われます。
知らない人が多いと思いますが、平安時代に日本は今の満州あたりにあった“渤海国(韓流ドラマ:テジョヨンで有名)”と盛んに交易しておりました。
この渤海国の首都も何度か変わりましたが、東京・西京などが遷都の度につけられました。
都が移っても、東京ならまた戻ってくるとの、かすかな期待を持たせたのではないか思います。
明治天皇の気持ちにも、大都市の人心を安定させる意味の遷都ではなかったかと感じることもあります。
天皇が武家の本拠地に移るということは、本来屈辱だと思うのが普通でしょうから。

「時代祭」も明治天皇のお声がかりで、京都の歴史を忘れないためにやらせたとのことです。
しかし、残念なことに時代祭は、明治天皇の思いを汲まない一部の政治家や町内会のボスが、途中から個人の名声のために利用したようになったのは情けない。

等々、これから京都にまつわる事象を、できるだけ歴史的な見地から検討し、今後とも追々調べて掲載していきます。




この項 <完>

by mo-taku3 | 2012-02-29 23:01 | 京都発の初物 | Comments(2)

日本初もの、その2(続き)

日本初もの、その2(続き)


先日、京都に日本初の小学校を紹介させていただいたが、全国に“初もの”が色々な形で存在しているようだ。
最近京都市内を散策するとき、石碑にはかなり目が向くようになった。
そこで早速だが、昨日・今日と散策していると、近所の2つの中学校の石碑が開校明治2年とあった。

まず、一つ目は、尚徳小学校。
今は、尚徳中学校から、下京中学校に統合されているが、石碑がしっかり残っていた。
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太政大臣三条実美 軌跡の石碑、
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明治天皇行幸の碑、
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続けて二つ目は、修徳小学校。
ちょっと石碑が見づらいが、やはり明治2年開校となっている。
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同窓生が、校章の碑を建てている。
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やまり、ここにも明治天皇が行幸されている。
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ここに掲げた2校のほかにも京都市内に数10校あると思う。統合や改編が繰り返されてきているから、忘れられているのもたくさんあると思うが、明治元年に京都府ができた年に、町の区割りができ、XX番町という名称になった。 小学校も第xx番町小学校として開校したようだ。
それが後に固有の名称に改編されていったのではないかと思っている。




この項 <完>

by mo-taku3 | 2012-02-11 23:00 | 京都発の初物 | Comments(2)

京都発の日本初もの(幼稚園・小学校)

京都発の日本初もの(幼稚園・小学校)


天気が良かったので久し振りに、京都市内の散策に出かけました。
京都は東京遷都までは長いこと都だったこともあり、日本初のものが多いのではないかと常々思っていたが、以外と明治以降の初ものがあるのには少し驚きを感じている。

そこで、今回ご紹介するのは幼稚園・小学校の初ものである。

「京都市中京区柳馬場通御池上ル虎石町」というところに、公立ながら小中一貫教育の【御池中学校】というのがある。
小学校は同居はしてないが、高倉小学校・御所南小学校との一貫教育なっている。
またこれに、堀川高校も一枚かんでいるように見える(未確認)。

さて、「明治元(1868)4月に京都府となり、翌年には町組改正が行われ、上京33,下京32の65の町組が決められ,町組毎に小学校が設立された。上京27番組では同年9月仮校舎で授業が開始され,翌年5月21日中京区富小路御池角守山町に上京第27番組小学校として日本最初の小学校授業が行われた。明治6(1873)年にこの地(中京区柳馬場通御池上ル虎石町)に新築移転し,以後柳池小学校と称した。昭和22(1947)年新学制により柳池中学となる。この石標は日本最初の小学校である柳池小学校を示すものである。」と資料にはある。

さて、日本初の小学校の石碑がある場所は、「京都平安京創生館」の横にある。その前にきれいな、寒桜が咲いていた。
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桜の横をすり抜けると、このような石碑があった。
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よく見ると当時の建物が彫られている。
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更に目を移すとその横に、【柳池幼稚園の記念碑】がある。
当時は【柳池幼稚遊技場】といったらしい。ここに書かれている字は非常に難しい。
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その石碑には、開園が明治8年12月、閉園が平成8年3月とある。つい最近まで現役だったということらしい。
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更にならんで、京都市立堀川高等学校専修夜間部跡と言う石碑があった。
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文献によると「京都市立堀川高等学校専修夜間部は,戦前からのその母体として市立商工補習(夜)学校(明治45年創立)・市立商工専修学校(明治45年創立)・市立専修高等学校(昭和10年開校)が石標に記されている。昭和23(1948)年,新学制による高校再編成で市立堀川高等学校が創設され,夜間部が設置されたが,昭和54(1979)に廃止された。この石標は京都市立堀川高等学校専修夜間部の跡を示すものである。」とある。
非常に優秀な高校として京都に君臨している。
卒業生には、門川京都市長は立命、堀田力弁護士は京大法科、またかの有名なヴァイオリニストの葉加瀬太郎もここから東京芸大に進んでいる。


これらの石碑の後ろの建物には、小中一貫教育校【京都御池中学校】、御所南小学校・高倉小学校 という表示があった。
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またその左端の方に保育園の入り口もあり、市立の教育校の集まりであった。
ますます、初物を探す意欲がわいてきた。




この項 <完>

by mo-taku3 | 2012-02-09 22:30 | 京都発の初物 | Comments(6)