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カテゴリ:(巡礼)西国三十三ヵ所( 58 )

長谷寺(西国8番札所)20180418

長谷寺(西国8番札所)20180418



長谷寺は、奈良県桜井市初瀬にある真言宗豊山派総本山のお寺です。

本尊は十一面観音、開基は僧の道明とされる。西国三十三所観音霊場の第八番札所であり、日本でも有数の観音霊場として知られています。

朱鳥元(686)年、道明上人が天武天皇のために銅板法華説相図(国宝)を西の岡に安置したことが始まりといわれています。

平安時代には貴族、江戸時代には徳川家の崇敬を集め帰依を受けて栄えました。

本堂(国宝)は舞台づくりとなっており、徳川家光によって再建され現在に至っています。

ここには、本尊十一面観音像をはじめ、約千点にも及ぶ文化財を所蔵されています。

仁王門を抜け、本堂へと続く登廊(重要文化財)399段に渡る石段になっており、天井には楕円形の灯籠が吊られていますが、登廊の両側には4月中旬から5月上旬に見頃をむかえる牡丹に彩られ、通称、牡丹のお寺ともいわれます。

また、花の寺としても有名で牡丹の他、シャクナゲ、桜、秋には素晴らしい紅葉が見られ、年中人が絶えないお寺です。

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この項 <完>





by mo-taku3 | 2018-04-18 12:55 | (巡礼)西国三十三ヵ所 | Comments(2)

西国33ヶ所1300年草創「善峯寺」20180416

西国33ヶ所1300年草創「善峯寺」20180416




西山 善峯寺(よしみねでら)は、京都・大原野にある西国三十三所第20番札所のお寺になります。宗派は善峰観音宗といい天台宗系単立寺院です。

お寺に伝わる『善峯寺縁起絵巻』等によれば、長元2年(1029)、比叡山源信上人の弟子にあたる源算上人が創建しています。

桜や紅葉の名所になっているとともに境内各所から京都市街、京都市、比叡山を一望できる西山の斜面をなめるように伽藍が立ち並ぶお寺です。
日本の巡礼道といわれる西国三十三ヶ所草創1300年の今年から、これにちなんだ特別の朱印がいただけるということで、三回目の西国札所巡りをすることにしました。そしてその最初のお寺として日本一の松で有名なこの善峯寺を参拝してきました。
京都の東山は平安遷都以前から多くの寺社が建てられていますが、ここ西山には殆ど大きな伽藍の寺社はありませんでしたが、藤原氏のテコ入れもありいくつかの寺社が建てられてきました。そのためもあり、ここは多くの法親王が入山したこともあり西山門跡として門跡寺院となってます。また桂昌院の覚えめでたく数々の寄進が行われており、あちこちのその形跡が見られます。



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この項 <完>





by mo-taku3 | 2018-04-16 12:49 | (巡礼)西国三十三ヵ所 | Comments(2)

西国札所【満願霊場】「谷汲山華厳寺」20170603

西国札所【満願霊場】「谷汲山華厳寺」20170603



谷汲山華厳寺(たにぐみさんけごんじ)、このお寺を訪れるのは2回目となります。

この華厳寺は日本最古の観音霊場「西国三十三所観音霊場」の第三十三番札所で結願・満願のお寺として知られ、春にはには紅葉の名所として賑わいをみせています。

今回は2回目の巡礼ですが、前回は昭和56年(1981年)から4年かけて周り1984年の満願時行っております。

全く記憶を呼び戻すものはなく、今回しっかり記憶に刻んできました。

華厳寺は永禄3年(1560年)成立の『谷汲山根元由来記』によると、

「華厳寺は延暦17年(798年)、会津黒河郷の豪族大口大領なる人物によって創建されたという。

大口大領は都の仏師に依頼して自らの信仰する十一面観音の像を造立した。

彼は観音像とともに会津に帰ろうとしていたが、途中、美濃国の赤坂(現・岐阜県大垣市)で観音像が動かなくなってしまったという。

赤坂の北五里の山中に観音所縁の霊地があるというお告げを受け、大口大領は同地に草庵を建立し、延暦末年に、当地で修行していた僧・豊然上人(ぶねんしょうにん)の協力を得て華厳寺を建立した。」

とあります。

西国三十三ヶ所霊場の満願所と定めたのは、中興者と言われる花山法皇ですが、徒歩で巡幸し、禅衣、杖、及び三首の御詠歌を奉納したと伝えられています。

また鎌倉時代には後白河法皇が花山法皇の跡を慕って巡幸したといわれています。

また、ここの山号と寺号は醍醐天皇が下賜したものです。

延暦20年(801年)、桓武天皇の勅願寺となり、天慶7年(944年)には朱雀天皇が鎮護国家の道場として当寺を勅願所に定め、一万五千石を与えています。

以上ですが、上記内容に異説もあります。また開山後3年で勅願所になることも何らかの朝廷とのつながりが感じられます。

さて参籠は、総門をくぐると、左右にソメイヨシノの桜並木、土産物店、飲食店、旅館などの立ち並ぶ非常に長い参道が続き、距離にして約1km、徒歩10分ほどで仁王門に達する。

仁王門から本堂まではゆるやかな登りの石畳の参道となり、右手には放生池、地蔵堂、茶所、一乗院、十王堂、羅漢堂、英霊堂、三十三所観音堂、左手には法輪院、明王院、一切経堂、観音勢至像、本坊などがあり、本坊の一画には大師堂、内仏客殿、庫裏が建ちいかにも古刹という感じで迫る。

参道突き当りの石段を上ると本堂があり、その右手に鐘楼堂があります。

そこからさらに左手に進むと阿弥陀堂、笈摺堂、子安堂があり、お遍路さんが満願で奉納した、白衣・金剛杖・菅笠などが沢山置かれていました。

更にその奥に行くと、石段を上った先に満願堂が建っています。

全体として、歴史を感じる素晴らしい古刹でした。

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この項 <完>





by mo-taku3 | 2017-08-07 10:13 | (巡礼)西国三十三ヵ所 | Comments(2)

西国(第1番)札所『青岸渡寺』(那智勝浦町)20160814

西国(第1番)札所『青岸渡寺』 (那智勝浦町)20160814


西国三十三ヵ所第一番札所である青岸渡寺(せいがんとじ)は、和歌山県東牟婁郡那智勝浦町にある天台宗の寺院で、山号は那智山、本尊は如意輪観世音菩薩。
本堂および宝篋印塔は国の重要文化財。ユネスコの世界遺産になっている。

熊野三山の信仰が都の皇族・貴族に広まったのは平安時代中期以降であるが、不思議と青岸渡寺および隣接する熊野那智大社について創建の時期等についてははっきりとは伝わっていないようだ。
伝承では仁徳天皇の時代(4世紀)、天竺(インド)から渡来した裸形上人による開基とされ、同上人が那智滝の滝壺で得た金製の如意輪観音を本尊として安置したという。
しかし、仁徳天皇の実在性が疑問視されるなか、特に4世紀というと殆ど日本には資料がなく時期を特定するのは難しいだろうと思う。
後に推古天皇の勅願寺となり、6世紀末~7世紀初に生仏聖(しょうぶつひじり)が伽藍を建立し、丈六の本尊を安置して、その胎内に裸形上人感得の如意輪観音を納めたといことが伝わっているが、あくまでも伝承である。
ただ現地を見ると、那智滝を中心とする自然信仰の場として早くから開けていたのではないかと思われる。中世から近世にかけて、隣接する熊野那智大社とともに神仏習合の修験道場であり、如意輪堂と称されたその堂舎は、那智執行に代表される社家や那智一山の造営・修造を担う本願などの拠点であったといわれている。

明治時代に神仏習合が廃されたとき、熊野三山の他の2つ、熊野本宮大社、熊野速玉大社では仏堂は全て廃されたが、熊野那智大社では如意輪堂が破却を免れ、のちに信者の手で青岸渡寺として復興されたとのことである。
寺号は秀吉が大政所の菩提を弔うために建てた高野山の青巌寺に由来すると言われる。

3年前から西国札所を40年振りに回りなおしているが、実は第一番札所でありながら最後の方になってしまったことは、ご利益が飛んでしまうかもしれない。
でも、今は一安心で残る33番目の札所「谷汲山 華厳寺」(岐阜県揖斐郡揖斐川町)を回って善光寺参りをするだけとなった。
年内には回りたいと思っている。

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この項 <完>

by mo-taku3 | 2016-08-14 15:20 | (巡礼)西国三十三ヵ所 | Comments(2)

西国(第6番)札所『壺坂寺』(奈良県高市郡)20150927

西国(第6番)札所『壺坂寺』(奈良県高市郡)20150927


真言宗。西国三十三所観音霊場第6番札所、神仏霊場奈良25番。
703年元興寺の弁基上人が修業をしていたところ、愛用の水晶の壺を坂の上の庵に納め、感得した像を刻んで祀ったのが始まりといわれている。
717年に元正天皇より八角円堂が建てられ南法華寺の正式寺号を賜る。

伽藍は傾斜を利用して階段上に配置されている。

仁王門、多宝塔、灌頂堂、慈眼堂は2003年壷阪寺開創1300年を期して再建・建立されたもの。
八角円堂は日本で初めて建立された八角堂ではないかという学説も出ているが、現在の八角円堂は江戸時代の再建と言われる。

沢山の石像が建てられている。
大観音石像 1983年3月開眼、全長20m、全重量1200トン。
大涅槃石像 1999年安置、全長8m。どちらもインドハンセン病救済事業の縁でインドから招来したもの。
このように、立像・坐像・涅槃像が揃っているお寺は珍しい。

比較的新しい建物が多かった。
電動リフトの設置など身体の不自由な方にも比較的行きやすいところ。
ここは、盲老人ホーム発祥の地といわれ、1961年に「養護盲老人ホーム慈母園」が造られている。

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この項 <完>

by mo-taku3 | 2015-09-27 11:48 | (巡礼)西国三十三ヵ所 | Comments(2)

西国(第26番)札所『一乗寺』(兵庫県河西市)20140920

西国(第26番)札所『一乗寺』(兵庫県河西市)20140920


一乗寺(いちじょうじ)は、兵庫県加西市にある天台宗の寺院。西国三十三所第26番。山号は法華山、本尊は聖観音菩薩である。
寺伝では孝徳天皇の勅願で650年に創建、開基(創立者)は法道仙人とされる。 国宝に指定されている三重塔(1171年建立)は平安時代後期を代表する和様建築の塔であり、日本国内屈指の古塔である。 境内は山深く、春は桜、秋は紅葉の名所としても知られている。
資料によると、
一乗寺の開基とされる法道仙人は、天竺(インド)から紫の雲に乗って中国、百済を経て日本へ飛来、播州賀茂郡(兵庫県加西市)に八葉蓮華(8枚の花弁をもつハスの花)の形をした霊山を見出したので、そこへ降り立ち、法華経の霊山という意味で「法華山」と号したという。
法道は神通力は都でも評判となり、白雉元年(650年)、時の帝である孝徳天皇の勅命により法道に建てさせたのが一乗寺であるという。
創建当時の一乗寺は現在地のやや北に位置する笠松山にあったといわれている。
笠松山の山麓には古法華(ふるぼっけ)石仏と称される奈良時代の三尊石仏(重要文化財)があり、「古法華」とは「法華山一乗寺の旧地」の意味と思われる。

一乗寺は中世、近世には何度かの火災に遭っているが、平安時代の三重塔をはじめとする古建築がよく保存されている。本堂は姫路藩主本多忠政の寄進により、寛永5年(1628年)に建てられたものである。

山間に位置する境内は長い石段が続き、数段に分けて整地されている。
バス通りに面した境内入口には山門はなく、正面に石造笠塔婆(県指定文化財)が立つ。


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重要文化財の本堂は、大悲閣または金堂ともいう。
入母屋造、本瓦葺き。斜面にせり出した懸造とし、内部は広い外陣と、閉鎖的な内陣、脇陣、後陣からなる、密教仏堂の典型的な平面をもつ。

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三重塔は国宝である。
伏鉢(屋根上、相輪の下部にある半球状の部材)の銘から、承安元年(1171年)の建立と判明する。平安時代にさかのぼり、建立年代の明らかな塔として日本でも稀有のものである。

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鐘楼。

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中をのぞくと鐘が床に置かれているように見える。

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この項 <完>

by mo-taku3 | 2015-09-20 16:03 | (巡礼)西国三十三ヵ所 | Comments(2)

西国(第9番)札所『興福寺南円堂』(奈良市)20150818

西国(第9番)札所『興福寺南円堂』(奈良市)20150818


興福寺南円堂は西国三十三所観音霊場の第九番札所です。

弘仁4年(813)に藤原冬嗣(ふゆつぐ)が父内麻呂(うちまろ)の冥福を願って建てた八角円堂です。
基壇(きだん)築造の際に地神を鎮めるために、和同開珎(わどうかいちん)や隆平永宝(りゅうへいえいほう)をまきながら築き上げたことが発掘調査であきらかになりました。
この儀式には弘法大師空海(こうぼうだいしくうかい)が深く係わったことが伝えられます。

興福寺は藤原氏の氏寺でしたが、藤原氏の中でも摂関家北家の力が強くなり、その祖である内麻呂・冬嗣親子ゆかりの南円堂は興福寺の中でも特殊な位置を占めます。
そのうえ本尊不空羂索観音菩薩(ふくうけんさくかんのん)像が身にまとう鹿皮は、氏神春日社(かすがしゃ)との関係から、特に藤原氏の信仰を集めました。

創建以来4度目の建物で、寛政元年(1789)頃に再建されました。
八角の一面は6.4m、対面径は15.5m、本瓦(ほんがわら)葺きの建物ですが、その手法はきわめて古様です。
堂内には本尊不空羂索観音菩薩像、四天王(してんのう)像(いずれも国宝)が安置いるようです。

桓武天皇の長岡京遷都までは、南都仏教の中心勢力であった。
このお寺は、戦国時代頃まで、藤原系の皇族だけでなく、足利 義昭なども座主に迎えられており、僧兵を主体とした一大武力を保持していた。

今回の目的は南円堂なので南円堂に直接つながる階段から上がることにした。

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御詠歌で書いていただいた御朱印。

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興福寺から春日大社に向かう途中に興福寺の本坊があった。
ここはあまり知られていないし、目立っていない。

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東金堂(国宝)。
ここには、薬師如来、日光・月光菩薩などの重文。
国宝の文殊菩薩坐像、維摩居士坐像、維摩居士坐像、十二神将立像などがある。

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見事な五重塔。
外人さんが全景を入れるためいろんな角度でスマホ写真を撮っていた。

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右の五重塔の肥大が東金堂。
手前の基壇がこんどうのようだ。

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なかなか味のある鐘楼。

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南円堂の前にあった手水舎。

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現在盛んに復刻中で規模も大きいため時間がかかりそうです。

御朱印
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この項 <完>

by mo-taku3 | 2015-08-18 11:30 | (巡礼)西国三十三ヵ所 | Comments(2)

西国(第27番)札所『書写山円教寺』(姫路市)20140920

西国(第27番)札所『書写山円教寺』(姫路市)20140920


書寫山(書写山、しょしゃざん)圓教寺(円教寺、えんぎょうじ)は、兵庫県姫路市にある寺院で、天台宗の別格本山であり、西国三十三所第27番札所である。

このお寺は歴史上にもしばしば登場し、先頃、NHK大河ドラマ「黒田官兵衛」にも登場している。
また、記憶が新しいところでは米国映画の「ラストサムライ」にも使われている。
ここは、西の比叡山」とよばれるほど寺格は高く、西国三十三所中最大規模の寺院で、中世には比叡山、大山とともに天台の三大道場と並び称された巨刹である。
そのためか、京都から遠い土地柄でありながら、皇族や貴族の信仰も篤く、訪れる天皇・法皇も多かったようである。

境内は、仁王門から十妙院にかけての東谷、摩尼殿を中心とした中谷、三つの堂のある西谷に区分される。
山内には姫路藩本多氏の墓所である本多家霊所があり、本多忠刻に仕え殉死した宮本武蔵の養子宮本三木之助などの墓もある。
また、室町時代から明治時代までは女人禁制だったため、女性は東坂参道の入り口にある女人堂(現・如意輪寺)までしか行けず、そこに札を納めて帰っていた。

圓教寺の境内は、姫路市街の北方に位置する書写山(371メートル)の山上にあたる。
1958年に東坂に沿ってロープウェイが開通してからは、ロープウェイ山上駅から仁王門を経て、本堂にあたる摩尼殿へ上る参道がメインルートとなっている。
西国三十三所観音霊場の札所でもある摩尼殿が中心となる御堂であるが、大講堂や開山性空の像を祀る奥之院も、信仰上重要であるとされる。

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さて、ロープウェイを降りてから途中幾つかの塔頭を通り過ぎ東坂の終わりに仁王門がある。
これより境内である

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湯屋橋を渡ると「はづき茶屋」にでる。
直ぐ前が、摩尼殿(まにでん;本堂の代り)前の結構急な階段がある。

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階段を上りきったところに、摩尼殿がある。(御朱印はここでいただく)
沢山の人がいたのにはびっくり。

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摩尼殿の前から下を覗くと「はづき茶屋」から階段を上ってくる人たちが見える。

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3つの堂(大講堂、食堂(じきどう)、常行堂(じょうぎょうどう))のある広場にでる。ここがラストサムライのロケ場所である。

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食堂の中にはロケ当時の模様が写真などで説明されている。

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御朱印。

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この項 <完>

by mo-taku3 | 2015-06-14 16:05 | (巡礼)西国三十三ヵ所 | Comments(2)

西国(第3番)札所『粉河寺』(和歌山県紀ノ川市)20140914

西国(第3番)札所『粉河寺』(和歌山県紀ノ川市)20140914


粉河寺(こかわでら)は、和歌山県紀の川市粉河にある天台系の寺院。山号は風猛山(ふうもうざん、かざらぎさん)。宗派は天台宗系の粉河観音宗総本山。
西国三十三所第三番札所である。
本尊は、千手千眼観音菩薩で、伝承によれば創建は宝亀元年(770年)、大伴孔子古(おおとものくじこ)によるとされている。

草創の縁起は『粉河寺縁起絵巻』(国宝)に伝えられている。
「粉河寺縁起」には2つの説話が語られている。
1つ目の話は粉河寺の草創と千手観音の由来に関するものである。
紀伊国の猟師・大伴孔子古は宝亀元年(770年)のある日、山中に不思議な光を発する場所を見つけて、そこに小さな庵を営んだ。これが粉河寺の始まりという。
その後のある日、孔子古の家に一人の童子(童男行者)が訪ねて来て、一晩泊めてくれと言う。
童子は宿を借りたお礼にと言って、7日かけて千手観音の像を刻んだ。8日目の朝、孔子古が見てみると童子の姿はなく、金色の千手観音の像だけがあった。孔子古は殺生をやめて観音を信仰するようになったとのことである。
2つ目の話は千手観音の霊験説話である。
河内国の長者・佐太夫の娘は重い病で明日をも知れぬ命であった。
そこへどこからともなく現れた童行者が千手千眼陀羅尼を称えて祈祷したところ、娘の病は全快した。
喜んだ長者がお礼にと言って財宝を差し出すが童行者は受け取らず、娘の提鞘(さげざや、小太刀)と緋の袴だけを受け取り、「私は紀伊国那賀郡におります」と言って立ち去った。
長者一家が那賀郡を尋ねて行くと、小さな庵に千手観音像が立ち、観音の手には娘の提鞘と緋の袴があった。長者一家は、あの行者が観音の化身であったことを知ってその場で出家し、大伴孔子古とともに粉河寺の繁栄に尽くしたとのことである。

平安時代中期には観音霊場として著名であり、平安時代後期には、その頃から始まった西国三十三所観音霊場巡りの札所の1つとして栄えた。
粉河寺の本尊千手観音像は絶対の秘仏とされ、公開された記録はない。
2008年から2010年にかけて、花山法皇一千年忌を記念して、西国三十三所のすべての札所寺院において秘仏の特別公開が行われているが、粉河寺の本尊はこの際にもご開帳されなかったという。


さて、境内の入口に建つ大門(重要文化財)である。
入母屋造、本瓦葺きの楼門(2階建て門)で、仏師春日作と伝える金剛力士像を安置される。

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中門(重要文化財) - 入母屋造、本瓦葺きの楼門。左右の間に四天王像を安置する。
棟札によれば明和(1764 - 1772年)頃から長い年月をかけて天保3年(1832年)に完成した。
「風猛山」の扁額は紀州十代藩主徳川治宝の筆

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本堂は西国三十三所の寺院の中で最大級の堂宇で、中門の先、一段高くなった敷地に建つ。
享保5年(1720年)上棟する。
本尊千手観音(秘仏)を安置する正堂(しょうどう)と、礼拝のための礼堂(らいどう)を前後に並べた形式になり、西国札所として、多数の参詣者を収容する必要から、礼堂部分を広く取っている。
外観は高さの違う入母屋屋根を前後に並べ、千鳥破風を付し、さらに唐破風造の向拝を正面に付した複雑な構成になる。

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千手堂(重要文化財) - 宝暦10年(1760年)建立。
本堂の左に建つ宝形造(ピラミッド形屋根)の小堂である。本尊の千手観音立像は秘仏で、2008年10月1日から10月31日までの間、217年ぶりに公開された。


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粉河寺庭園 - 国指定の名勝。中門から約3メートルの高さの石段を経て本堂に至る、その両翼に土留め石垣を兼ねた石組の庭である。
緑泥片岩を主とし、琴浦(ことうら)の紫石、龍門石(りゅうもんいし)などの紀州の名石を含む、多数の巨大な岩石が変化に富む手法で堅固に、美しく組まれている。ツツジの刈込みで石の間隙をうずめ、さらにビャクシン・シダレザクラ・ソテツなどの植栽が組み合わされている。
石組全体の構成は向かって左手に重点をおき、枯れ滝・石橋・鶴亀の島などを象徴的に表現し、右手にゆくに従って石の扱いは軽くなっている。このような構成は庭園としては異例のものである。作庭の年代も不明であるが、手法からみて桃山時代の豪華な作風が如実にあらわれており、江戸時代初期を下らないころの作であると推定される

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紀ノ川市指定の「保存木」楠木の大木。

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御朱印はS56年のと、御詠歌のを併せて載せた。

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この項 <完>

by mo-taku3 | 2015-06-10 15:09 | (巡礼)西国三十三ヵ所 | Comments(2)

西国(第2番)札所『紀三井寺』(和歌山市)20140914

西国(第2番)札所『紀三井寺』(和歌山市)20140914


紀三井寺(きみいでら)は、和歌山県和歌山市紀三井寺にある。
紀三井寺は通称で、正式名は紀三井山金剛宝寺護国院といい、西国三十三所第2番札所である。

伽藍は山の中腹にあって、境内から和歌山市街を一望できる抜群の景観である。
山内に涌く三井水(吉祥水・清浄水・楊柳水)は、「名水百選」に選ばれており、また、境内は関西一の早咲き桜として知られるとおり、観桜の名所として名高く、日本さくら名所100選にも選ばれ、桜の開花時期をこの桜で決めている。

さて、本寺は宝亀元年(770年)、唐僧の為光が、日本各地を行脚していた時、名草山山頂から一筋の光が発せられているのを見た。
その光の源をたどっていくと、名草山にたどり着いた。そして為光は、そこで金色の千手観音を感得した。
為光は自ら観音像を彫刻し、胎内仏としてその金色千手観音像を奉納し、草堂を造って安置したのが紀三井寺の始まりであるといわれている。
また、名草山に三つの霊泉三井水(吉祥水・清浄水・楊柳水)があることから「紀三井山」という山号になったという説もある。 がしかし付近の地名「毛見(けみ)」が転じたものとも言われ定かではない。

真言宗山階派勧修寺の末寺であったが、昭和23年(1948年)3月20日、救世観音宗を開創して本山より独立している。

楼門は重要文化財である。
参道正面、境内への入口に建つ2階建楼門は、室町時代中期の建立で、寺伝では永正6年(1509年)の建立となっている。

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長い階段上の参道が続く。

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この参道の謂れとして「結縁坂」説明が載っている。

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三井水
紀三井寺の寺名のもととなったとされる「清浄水」「楊柳水」「吉祥水」の3つの湧き水である。
これらは名水百選に選定され、「清浄水は参道石段の途中右側にある小さな滝水」。「楊柳水はそこからさらに小道を入った突き当たりにある井戸」。「吉祥水は境内からいったん楼門を出て右数百メートル行ったところにある井戸」。

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本堂は江戸時代、宝暦9年(1759年)の建立。観音堂ともいう。
入母屋造本瓦葺き、柱間は正面側面とも五間で、千鳥破風を付し、正面には唐破風形・三間の向拝を設けている。
元々本堂にあった秘仏本尊の十一面観音像、千手観音像などは、現在裏手の大光明殿に移されている。
(非公開)

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この日は晴れていたので見通しもよく、景観も抜群だった。

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鐘楼(重要文化財)は安土桃山時代の建築で、寺伝では天正16年(1588年)の建立。

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仏殿
鉄筋コンクリート造3階建の新仏殿で、建物全体の形は五輪塔に擬している。2000年に起工し、2002年に竣工。高さ25メートル。内部には高さ12メートルの木造千手観音立像(寺では「大千手十一面観世音菩薩像」と呼ぶ)を安置する。この観音像は仏師松本明慶の工房の作品で、京都の工房で制作した寄木造の像を現地で組み上げたものである。耐震性を考慮して、内部には鉄製の心棒を立て、枠木で像を固定している。寺では、寄木の立像としては日本一のものであるとしている。像は2002年から制作を開始し、2007年に完成、2008年5月21日に入仏落慶供養が行われた。


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多宝塔(重要文化財)- 室町時代の建築。史料により文安6年(1449年)の建立と推定される。和様を基調としつつ、唐戸、花頭窓などを用いている。

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*大光明殿(資料より)
本堂の裏手に棟続きに建つ耐震耐火の収蔵庫(原則非公開)で、昭和58年(1983年)に完成した。
大光明殿内中央の厨子内には向かって左に十一面観音像、右に千手観音像が安置される。紀三井寺の本尊とされるのは十一面観音像だが、千手観音像も本尊と同様に崇敬されている。
両像とも50年に一度開扉の秘仏である。
厨子外の向かって右には梵天像と本尊とは別の十一面観音像、左には帝釈天像と毘沙門天像を安置する(毘沙門天像を除く5体は重要文化財)。
•十一面観音立像 - 像高161.5センチメートル。当寺の秘仏本尊。一木造、素地仕上げ。
 頭部のプロポーションが大きく、素朴な彫法の像で、平安時代、10世紀頃の作と推定される。
•千手観音立像 - 像高183.0センチメートル。平安時代、10 - 11世紀の作。
 本尊とともに安置される秘仏で、一木造、素地仕上げとする。千手観音の彫像は42手をもって千手とみな  すのが通例だが、本像は奈良・唐招提寺像などと同様、大手42本の他に多数の小手を表す「真数千手」像 である。
•梵天・帝釈天立像 - 像高163.9及び161.2センチメートル。平安時代、10 - 11世紀の作。
 本尊の両脇に安置され、「梵天・帝釈天」と称されているが、条帛(じょうはく)、天衣、裳を着けた像容は菩  薩像のそれであり、本来観音菩薩像として造られた可能性が高い。梵天像は彫法が素朴で、彩色はほとん ど剥落し、頭上には円筒形の冠があるのに対し、帝釈天像は衣文の彫技が細かく、彩色がよく残るなど、両 像の作風には明らかな相違があり、元来一具ではなかったとみられる。
•十一面観音立像 - 像高156.7センチメートル。平安時代、10 - 11世紀の作。一木造、彩色はほとんど剥 落。大光明殿内の向かって右端に安置。衣文の彫りが簡略で、素朴な作風の像である。






この項 <完>

by mo-taku3 | 2015-06-06 11:13 | (巡礼)西国三十三ヵ所 | Comments(2)