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カテゴリ:(巡礼)西国三十三ヵ所( 58 )

西国(19番)札所【行願寺革堂】20140125

西国(19番)札所【行願寺革堂】20140125


行円上人が寛弘元年(1004年)に一乗小川に堂を建てたのが行願寺の創始と伝えられているが、行願寺という正式名称よりも革堂とという名称の方が一般にはよく知られている。
理由は行円上人が鹿皮を身につけていたことによるといわれている。

本尊が行円上人の作であるのが真実とすれば、約千年もの長い間、何回もの火災の難をくぐり抜けてきたことになる。由緒あると思われるこの仏像が、何故か文化財の指定がない。きっと真意の決め手がないのであろう。

御池通りの京都市役所の北にあり、寺町通りにはお寺が多数あるが、西国三十三ヵ所巡礼地はここ革堂のみである。
山門前にはかつて一条小川に革堂があったことを示す石碑が置かれている。

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「本堂」正面には「革堂観音」と書かれた「大提灯」が下がっており、印象的である。
納経所は本堂にある。 また、本堂には御本尊である千手観音像がまつられており、毎月17、18日ご開帳される。

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*8月22~23日には幽霊絵馬が供養公開される。この幽霊絵馬の逸話は、
「これはとある質屋の主人が子守りとして近江からきたおふみという名の女性を雇ったが、その女性が子どもをあやすときにここ革堂にきてはご詠歌を口ずさんでいた。
無信教の主人はこれを気に入らず、やめるように言ったがやめず、さらには子供が主人の前でまで歌うようになり、とうとう我慢の限界となった。
主人はおふみを折檻をしたが、度を超してしまい殺してしまう。
主人は遺体を埋めて隠して「駆け落ちして逃げた」とおふみの両親には報告した。
ある日おふみの幽霊が両親に現れて、殺されたことと、自分を愛用していた手鏡と一緒に革堂で埋葬して欲しいことを告げた。
その後、遺体を発見した両親は愛用の手鏡と絵馬を奉納して供養したという。
そのときの絵馬がこの幽霊絵馬で、この絵馬には手鏡がはめ込まれており、板におふみが描かれているという。」




この項 <完>

by mo-taku3 | 2014-01-25 14:35 | (巡礼)西国三十三ヵ所 | Comments(2)

西国(18番)札所【頂法寺六角堂】20140125

西国(18番)札所【頂法寺六角堂】20140125


「六角さん」の名称で、京の町の人々に昔から親しまれてきた六角堂は、寺号が紫雲山頂法寺。
西暦587年、聖徳太子を開基として創建されたと伝えられている。
本尊は太子の護持仏といわれる御丈1寸8分(約5.5cm)の如意輪観世音菩薩で、平安時代から霊験をたたえた記録や説話も数多い。
平安遷都の折、東西小路のひと筋が通る所に六角堂があたってしまい天皇が使者をたてて今少し南北どちらかに御動座頂くよう祈願されると、礎石(へそ石)一つ残し御堂がにわかに5丈(約15m)ばかり北へ退いた話は有名。
境内東北隅には聖徳太子を祀った太子堂があり、2才の頃の南無仏像が安置されている。
この地は、太子沐浴の池の跡ともいわれ、池のほとりに小野妹子を始祖とする住持の寺坊があったところから「池坊(いけのぼう)」と呼ばれ、この池坊代々の執行によって池坊いけばなが完成されました。つまり、六角堂は池坊いけばな発祥の地である。

六角堂は西国巡礼三十三所の第十八番札所でもある。
花山法皇が996年正月、六角堂へ行幸されたのが巡礼の始めと伝えられ、観音信仰が盛んになるにつれて霊場として庶民の信仰を集めるようになった。
六角堂は創建以来、数度の火災にあっており、現在の建物は明治10年(1877年)の建造物とのこと。

山門の前には、「西国18番霊場 六角堂」 の大きな石碑が建っている。

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山門を入ってすぐ正面に本堂、右手に「へそ石」、親鸞堂、納経所、本堂裏には聖徳太子沐浴の伝説にちなむ池や太子堂がある。

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礎石。

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いけばな池坊の説明が載っている。

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御朱印は御詠歌で書いていただいたが、なかなかの達筆である。

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この項 <完>

by mo-taku3 | 2014-01-25 13:30 | (巡礼)西国三十三ヵ所 | Comments(2)

西国(番外)札所【法起院】20140124

西国(番外)札所【法起院20140124


天平7年(西暦726年)徳道上人によって創立された。
元禄8年(西暦1695年)総本山長谷寺塔頭開山堂として現在にいたっており、三十三観音霊場の創始者である徳道上人にちなんでここが番外として追加されている。
徳道上人は三十三観音霊場の創始者である徳道上人は、奈良時代、斉明大皇の二年(六五六年)、播磨国揖保郡の生まれ。

上人はある日仮死状患に陥り、閣魔大王の御前に呼ばれる。
閻魔大王は、人心の乱れを憂い、観音信仰をもって仏心の開花を望まれ、徳道上人に三十三の宝印を託し、観音霊場開創を依頼した。(その故、観音巡礼者が冥府へ赴いたとき、三十三ケ寺の宝印が押された笈摺や納経帳を守持していれば、閣魔大王により無条件で極楽へ導かれる)
仮死状態から戻った上人は、上人は三十三ヶ所の霊場を設け、観音信仰を広めようと奔走したが、当時の人々にはなかなか受け入れられず、機が熟するのを待つため、摂津国中山寺に宝印を納めている(埋めたといわれている)。

二百七十年後の永延二年(西暦九八八年)に、花山法皇がこの宝印を掘り出され、今日の三十三ヶ所を復興している。

法起院は長谷寺に向かう門前町筋の右側やや奥まった場所にある。

「山門」の左側には金文字で『長谷寺開山 徳道上人御廟所』と書かれている。長谷寺の事実上の創始者と考えられる道明上人の廟所と比べ、こちらの方は格段に立派である。右側には『総本山長谷寺開山坊 法起院』と書かれており、長谷寺の塔頭、開山堂としての位置付けを明確にしている。

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「西国巡礼開基 徳道上人霊廟 番外札所 法起院」と書かれた駒札が立てられている。

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法起院の規模は小さく、従って、「本堂」(写真)も小ぶりである。本尊は徳道上人像であり、像は徳道上人が自ら造ったものといわれている。
「本堂」は珍しい北向きに建っている。
これは北側にある長谷寺の方向に向けて意識的に建てられたのではないかといわれている。
法起院は長谷寺の塔頭であり密接な関係にあり、写真からもわかるように本堂に吊り下げられている灯籠も長谷寺形である。

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何処にも説明が載っていないがほっとする石像がおかれていた。

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本堂の左手奥に徳道上人の供養塔である「御廟十三重石塔」が建てられている。
西国三十三所観音霊場と書かれた横に「お砂踏み」とある。

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その一角には、珍しい「はがきの木」があった。
葉っぱの裏を使ってはがきに見立てている。

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この項 <完>

by mo-taku3 | 2014-01-24 11:40 | (巡礼)西国三十三ヵ所 | Comments(2)

西国(8番)札所【長谷寺】 西国三十三所ここから始まる。20140124

西国(8番)札所【長谷寺】西国三十三所ここから始まる。


長谷寺(はせでら)は、奈良県桜井市初瀬にある真言宗豊山派総本山の寺。
本尊は十一面観音、開基は僧の道明とされ、西国三十三所観音霊場の第八番札所でもあり、日本でも有数の観音霊場として知られている。
大和と伊勢を結ぶ初瀬街道を見下ろす初瀬山の中腹に本堂が建つ。初瀬山は牡丹の名所であり、4月下旬~5月上旬は150種類以上、7,000株と言われる牡丹が満開になり、当寺は古くから「花の御寺」と称されている。
また『枕草子』『源氏物語』『更級日記』など多くの古典文学にも登場する。中でも『源氏物語』にある玉鬘の巻のエピソード中に登場する二本(ふたもと)の杉は現在も境内に残っている。

とにかく大きなお寺である。なた城構えの城壁があり、坂道があり迷路ありで往時の僧兵の動きが眼に浮かぶようだ。
この奥に山門がある。

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山門。

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登廊は上・中・下と三つの登廊となり、かなりの坂道をあがることとなるが、ボタンの時期には7000盆といわれる花が、咲き乱れる。

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中登廊を上りきったところに紀貫之の詩とそれにちなんだ梅の木が植えられていた。

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本堂。国宝である。

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登廊の途中の右には、古今集・源氏物語などで詠まれた「二本(ふたもと)の杉」や「藤原俊成・定家の塚」がある。

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参道の商店街。

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大和七福八宝めぐり(三輪明神、長谷寺、信貴山朝護孫子寺、當麻寺中之坊、安倍文殊院、おふさ観音、談山神社、久米寺)の一つに数えられる。




この項 <完>

by mo-taku3 | 2014-01-24 10:30 | (巡礼)西国三十三ヵ所 | Comments(2)

西国二十八番札所【成相寺】(丹後)

西国二十八番札所【成相(なりあい)寺】 (丹後)


約35年前に、西国33ヶ寺をやく2年かけて回ったことがあった。
多分それ以来の訪問であったと思う。
実際、訪れてみると全く記憶がなく、通った道も覚えがなかった。
そうゆう意味では、新たな記憶として残すにはいい機会だったと思う。

今回は車で上ったので、急な参道は登っていないが、実際はケーブルカーを降りたところから、急な参道が続いているようだ。

ここに写っている鐘楼は、「撞かずの鐘」と言われている。駒札には、
「撞かずの鐘は古来、慶長十四年(一六〇九)、山主賢長は、古い梵鐘にかえ新しい鐘を鋳造する為、近郷近在に浄財を求め喜捨を募った。
一回、二回と鋳造に失敗し、三回目の寄進を募った時、裕福そうな女房が「子供は沢山おるがお寺へ寄附するお金はない」と険しい目の色で断った。
やがて鐘鋳造の日、大勢の人の中に例の女房も乳呑み児を抱いて見物していた。
そして銅湯となったルツボの中に誤って乳呑み児を落としてしまった。
此の様な悲劇を秘めて出来上がった鐘を撞くと山々に美しい音色を響かせていた。
しかし耳をすますと子供の泣き声、母親を呼ぶ声、聞いている人々はあまりの哀れさに子供の成仏を願って、一切この鐘を撞く事をやめ、撞かずの鐘となった。」
とある。

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車で上るとかなりの部分まで行くことができ、ここから本堂に向かうことができる。

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本堂のすぐ下から本堂をみあげると、

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本堂の内部には、左甚五郎作の「真向の龍」がある。

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順礼堂。

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このお堂には、右に閻魔大王、左に孔雀明王が鎮座している。

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成相寺鎮守堂。
鎮守は熊野三所権現で、寺伝によると延宝4年(1678)堂を建立したという。

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撞かずの鐘の横の石段を上がった場所、本堂のちょっと下の左側に「一願一言地蔵(ひとことのじぞう)さん」が安置されている。
この地蔵は今から約600年以上前に造られたかなり古い地蔵らしい。
この地蔵にただ一つの願いを一言でお願いすれば、どんなことでも必ず叶えてくれると伝えられている霊験あらたかな地蔵と言われている。
また、安楽ポックリの往生も叶えられると伝えられているようである。

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このお寺は、ここには載っていないが、再建なった五重塔・立派な山門がある。




この項 <完>

by mo-taku3 | 2013-03-20 13:30 | (巡礼)西国三十三ヵ所 | Comments(2)

【革堂(行願寺)】(西国19番札所)

【革堂(行願寺)】(西国19番札所)


革堂は、京都御所の東南、寺町通丸太町を少し南へ入った東側にある。皮聖(かわのひじり)行円(ぎょうえん)上人ゆかりの寺で、正しくは行願寺(ぎょうがんじ)という天台宗の寺院。観音霊場の札所(西国三十三か寺の十九番札所)で、いつも境内には巡礼の姿をみる。
行円は布教のとき寒さ暑さを問わず常にシカ革の衣を着ていたことから、人々が革聖(かわのひじり)とか皮上人と呼んだことから一条北辺堂(現在は中京区)を革堂と呼んだのが通称革堂の由来。

革堂は上京の町衆の信仰を集め、室町時代には町衆の連帯の町堂となった。下京の六角堂(頂法寺)に対して上京町衆の集結の場。これらの二つの町堂では、町の合議機関としての意思決定会議も開かれている。兵乱や一揆、天災などの有事の際には鐘を鳴らして町中へ有事を知らせたという。
天正18年(1590)、秀吉の都市整理によって寺町荒神口(上京区)へ寺地を移し、次いで宝永5年(1815)に現在の地(中京区)に移った。現在の本堂は、文化12年(1815)に建てられたもので、本尊に行円上人が造ったといわれる千手観音菩薩を安置している。この境内に「都七福神」の一つになっている寿老人神堂をはじめ、愛染堂、鎮宅霊符神堂、加茂明神塔(五輪石塔)がある。また、宝物館には子供を背負った若い女性が浮かび出る幽霊絵馬がある。その幽霊絵馬の伝説がある。

訪れた日は、屋根の葺き替えの修理中であった。
革堂の本堂。、本尊に行円上人が造ったといわれる千手観音菩薩を安置している。

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加茂大明神と書かれた珍しい加茂明神塔(五輪石塔)があった。

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この仏塔が胎内仏像が彫られていた。

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他に、愛染堂、鎮宅霊符神堂などがある。

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いかにも福を呼びそうな「都七福神」の一つになっている寿老人(神堂)が鎮座していた。

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七福神の石像が並んで置いてあった。

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この項 <完>

by mo-taku3 | 2013-02-23 00:52 | (巡礼)西国三十三ヵ所 | Comments(2)

西国33ヶ寺第7番【岡寺】へ。

西国33ヶ寺第7番【岡寺】へ。



急勾配の坂を上がると龍蓋寺の「仁王門」(左の写真)に着く。写真でもわかるように、仁王門の前には寺名を彫った石標が立てられているが、これには『龍蓋寺』という正式名ではなく、通称名の『岡寺』の文字 が刻まれている。

創建は天智天皇2年(663)に義淵僧正が岡宮の跡地に寺を建立したのがはじまりと伝えられている。
義淵僧正は日本の法相宗の祖といわれているが、その出生は謎のようである。
寺伝によると子供に恵まれない夫婦が祈願した末に、家の柴垣の上に白い布にくるまれて置かれていた赤子が義淵僧正だったという。観音菩薩の授かりものと大事に育てられ、それを聞いた天智天皇が引き取り、ここ岡の宮で養育され、後に義淵僧正は岡宮を譲り受けている。
(岡宮、岡本宮は現在でも特定されていないが、このような言い伝えがあるようだ。)

また、龍蓋寺(りゅうがいじ)の名前の由来になった伝説も残っている。
大雨や強風を巻き起こし村民を苦しめていた龍を、義淵僧正がその法力をもって池に封じ込め、そこに大きな石で蓋をしたという。その時の池が本堂前にある龍蓋池である。

「仁王門」は華麗な桃山様式の建築で、重要文化財に指定されている。

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ここには日本初の厄除け観音が祀られている。
本堂、内陣には本尊の如意輪観音菩薩が安置されており古くから厄除け観音として信仰を集めてきた。奈良時代の作で、高さ4.6mの塑像は日本最大の土佛である。もとは彩色がしてあったというが、今はほとんどが剥落してしまいわずかに唇に朱が残っている。重文に指定されており、弘法大師がインド、中国、日本と三国の土を合わせて造ったという壮大な寺伝がある。

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境内本堂へ続く坂道の入口には、樹齢500年以上といわれる皐月の木がある。
年季が入ったすばらしい木である。

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坂を上りきると。左手に本堂、右手に鐘楼がある。

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鐘楼は誰でも鐘を突くことができる。
わたしもご相伴にあずかった。

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本堂のご本尊は「如意輪観世音菩薩」で初の厄除け観音とのことである。

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境内は結構広い。右手奥には五重塔が見えるが、雨模様だったので手抜きをした。

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帰り際、あらためて仁王門の仁王像を眺めてみたがなかなか立派だった。

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「稲荷社」から南側に向かって少し石段を上がったところに「奥之院石窟」がある。
奥之院といえばそれなりの大きさを持った堂宇が普通であるが、この奥之院は山の斜面に掘られた石窟である。見た目には奥之院のイメージから程遠い。


このブログは公開し忘れたものです。





この項 <完>

by mo-taku3 | 2012-07-03 20:16 | (巡礼)西国三十三ヵ所 | Comments(0)

【紀三井寺(和歌山)】西国霊場第二番

【紀三井寺(和歌山)】西国霊場第二番


<紀三井寺 縁起>
紀三井寺は、奈良朝時代、光仁天皇の宝亀元年(770)、唐僧・為光上人によって開基された霊刹。
そして諸国を巡り、観音様の慈悲の光によって、人々の苦悩を救わんがため、仏法を広められた。行脚の途次、この地に至り、夜半名草山山頂あたりに霊光を観じられて翌日登山され、そこに千手観音様の尊像をご感得になった。
上人は、この地こそ観音慈悲の霊場、仏法弘通の勝地なりとお歓びになり、十一面観世音菩薩像を、自ら一刀三札のもとに刻み、一字を建立して安置されました。それが紀三井寺の起こりとされている。
その後、歴代天皇の御幸があり、また後白河法皇が当山を勅願所と定められて以後隆盛を極め、鎌倉時代には止住する僧侶も五百人を越えたと伝えられていまる。江戸時代に入ると、紀州徳川家歴代藩主の肝いりで、「紀州祈祷大道場」として崇された。
正式には「紀三井山金剛宝寺護国院(きみいさんこんごうほうじごこくいん)」という当時の名称を知る人は少なく、全国に「紀三井寺」の名で知られていますが、この紀三井寺とは、紀州にある、三つの井戸が有るお寺ということで名付けられたといわれている。

門前町の風情が出ている。
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何といっても、那智黒でしょう。
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「結縁坂」の由来
紀三井寺の楼門から上に、231段の急な石段がある。
参詣者泣かせの急坂ですが、この坂は、結縁坂(けちえんざか)と呼ばれ、次のような”いわれ”が伝えられている。
「江戸時代の豪商・紀ノ国屋文左衛門は、若い頃にはここ紀州に住む、貧しいけれど孝心篤い青年でした。
 ある日、母を背負って紀三井寺の表坂を登り、観音様にお詣りしておりましたところ、草履の鼻緒が切れてしまいました。
困っていた文左衛門を見かけて、鼻緒をすげ替えてくれたのが、和歌浦湾、紀三井寺の真向かいにある玉津島神社の宮司の娘「おかよ」だった。
これがきっかけとなって、文左衛門とおかよの間に恋が芽生え、二人は結ばれることになった。
後に、文左衛門は宮司の出資金によって船を仕立て、蜜柑と材木を江戸へ送って一代で財を成した。
紀ノ国屋文左衛門の結婚と出世のきっかけとなった紀三井寺の表坂は、それ以来「結縁坂」と呼ばれるようになった。」 と。
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<紀三井寺三井水>
紀州にある、三つの井戸のあるお寺。紀三井寺は、三井水を抜きにして語れません。千二百年来の寺名の由来ともなった三井水は、今も名草山の懐に抱かれ、滾々と絶えることなく湧き出しています。この由緒ある紀三井寺三井水(北より吉祥水・清浄水・楊柳水)は、昭和60年、環境庁が発表した「名水百選」に選ばれています。
 開山為光上人が寺を開いて間もなく、大般若経六百巻を写経し終った時、上人の前に竜宮の乙姫が現れ、上人に竜宮での説法を乞うて中ノ瀧 清浄水に没したとある。
 「紀伊国名迹志」・「紀伊国名所図絵」・「紀伊続風土記」等にも三井水について詳細に述べられており、また紀州初代藩主徳川頼宣公が慶安三年(一六五〇)三井水を整備されたことが知られている。
 わけても中央清浄水は、古来名泉中の名水として、茶の湯、お華の水、墨の水に又酒、味噌、醤油等の醸造家はひそかにこの霊水を汲みて仕込みに混じ、観音様のご冥護を祈念して来たと伝えられる。
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西国三十三所観音霊場第2番目の札所である紀三井寺は、観音信仰の隆盛に伴い、お参りする人の数は多く、ご宝前には日夜香煙の絶え間がない。
特に、ご本尊・十一面観世音菩薩様は、厄除・開運・良縁成就・安産・子授けにご霊験あらたかとされ、毎月十八日の観音様ご縁日を中心に、日参、月参りの信者でにぎわう。
春は、早咲きの名所として名高く、境内から景勝・和歌の浦をはじめ淡路島・四国も遠望出来る紀三井寺は観光地としても有名で、古来文人墨客にして杖引く人も多く、詩歌に、俳諧に、絵画にと、多くの筆の跡が遺されている。
紀三井寺は以前、真言宗山階派の寺院でしたが、昭和26年に独立し現在は、山内・県下あわせて十六ヶ寺の末寺を擁する救世観音宗(ぐぜかんのんしゅう)の総本山となっている。
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西から見た本堂。
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本堂にある納経所には、団体客の朱印をまとめたツアーガイドが汗だくで記帳をしてもらっていた。
これでは、朱印の意味はあまり無いのでは?
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「十一面観音菩薩」の撮影ができなかったので、提灯で代役させていただいた。
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鐘楼も重要文化財だった。
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お百度とお千度が並べて置かれてあった。
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春子稲荷
天正13年(1585)、豊臣秀吉紀州攻めの時、紀三井寺の法橋徳順の子・平太夫は寺を守る僧兵の大将として出陣した。しかし僧兵軍は散々な目にあい、自身も瀕死の状態で逃げ帰ったきた。
その時、平大夫にすがりついて泣いたのが観音堂に仕える巫女の春子姫。恋仲にあった平大夫が息をひきとると、春子は観音堂へこもってお経を唱え始め、やがて声が激しくなると、一匹の白狐となって石段を駆け下り、 迫っていた攻撃軍の総大将・秀長と掛け合い、秀長から「寺に無礼があってはならぬ。寺への軍勢の出入りも禁止する」という証文をとりつけ、それを持ち帰り、観音堂で絶命した。そのお陰で紀三井寺だけは焼き討ちをまぬがれたと言われている。
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絶景かな!和歌浦が見事に見渡すことができた。
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<紀三井寺の詠歌>
これは、西国第二番・紀三井寺のご詠歌(えいか)です。
西国札所には、各霊場にこうしたご詠歌が伝えられています。
今からおよそ一千年ほど昔、第65代・花山天皇がご退位になり、出家落飾して、花山法皇となられて後、高僧のお導きで、西国三十三所の観音霊場をご巡拝になられました。その折この花山法皇様が、各霊場に一首ずつご奉納になられた和歌が、これら札所ご詠歌となったと伝えられています。

紀三井寺のご詠歌は、花山法皇様がご自身の「ふるさとである京の都を後にして、幾千里の山河を越え、熊野・那智山からはるばるここ紀三井寺にやっとの思いで到着してみると、折から水ぬるむ春近き季節で、わがふるさと、京の都も近づいたこともあって、ほっと安堵することよ」とのご心境をお詠みになったものでしょう。
しかし、もう一つ仏の道からの解釈によりますと、
「迷いの多い娑婆世界を後にして、観音信仰ただ一筋におすがりし、一足一足に「南無観世音菩薩」とお称えしつつこの紀三井寺まで参りましたところ、迷いに閉ざされていた心の眼も次第に開かれて、花の都、仏様のお浄土も間近なように思えます」
とのお心にも受け取ることが出来ようかと思われます。

ちなみに、その昔徳道上人によって開かれた後、次第にすたれていた西国札所の巡礼道は、この花山法皇の巡拝を機に再興されました。その為、花山法皇は「西国札所中興の祖」と尊崇されています。
(京都市山科の元慶寺は、花山法皇落飾(ご出家)の寺、兵庫県三田の花山院は、花山法皇が晩年を過ごされた菩提寺として有名で、現在でも西国札所番外寺院として、巡礼さん達の多くが訪れます。)






この項 <完>

by mo-taku3 | 2012-05-08 00:37 | (巡礼)西国三十三ヵ所 | Comments(2)