人気ブログランキング |

カテゴリ:(歴史)京都史( 134 )

道元禅師(曹洞宗)示寂の地20190802

道元禅師(曹洞宗)示寂の地20190802



ここは、曹洞宗の開祖道元禅師が生涯を閉じたところで小さなスペースにひっそりと石碑が建っている。
道元禅師とは、禅宗「曹洞宗」を日本で開いた人だが、正治2年(1200)に京都で生まれ、比叡山で出家した後、建仁寺の栄西禅師の門に入って禅を学び、貞応2年(1223)に入宋した。

帰国後、建仁寺に足をとどめたが、その後、深草に興聖寺(後に宇治に移る)を建て、教化活動を続けた。晩年にいたって、権勢を逃れ、越前(福井県)の地に永平寺を創建し、釈迦正伝の仏法である坐禅の厳格な宗風を樹立したことで有名。
禅師は建長5年(1253)、病の療養のために弟子懐奘を伴って上洛し、この地(下京区高辻通西洞院西入)にあった俗弟子覚念の屋敷に滞在し、同年8月に54歳の生涯を閉じた。

場所は「京都市下京区高辻通西洞院西入永養寺町」で高辻通りに面している。



e0237645_13373413.jpg


e0237645_13373445.jpg


e0237645_13373593.jpg


(ご参考)道元禅師が開いた「永平寺」

e0237645_14023547.jpg

e0237645_14023558.jpg










この項 <完>





by mo-taku3 | 2019-08-02 17:31 | (歴史)京都史 | Comments(2)

豊臣秀吉の廟所「豊国廟」20190730

豊臣秀吉の廟所「豊国廟20190730



豊国廟は豊臣秀吉の墓所である。豊臣秀吉の死後間も無く作られた豊国廟は、現在の京都市東山区阿弥陀ヶ峰の太閤担といわれる広場のところである。

慶長3年(1598)8月18日、秀吉は63歳で伏見城でなくなりましたが、遺体は、遺命により、ここ阿弥陀ヶ峰(あみだがみね)中腹に葬られ、墳上には祠廟、山麓には社殿が建立された。翌年4月18日、遷宮式が行われ、後陽成天皇から正一位豊国大明神の神階と神号を賜り、以後、毎年盛大な祭礼(豊国祭)が取り行われた。しかし、元和元年(1615)豊臣氏の滅亡と共に、家康の命で廟は破壊されている。
しかし、明治30年(1897)、秀吉の300年忌に際し、廟宇が再建され、墳上には巨大な五輪石塔が建てられている。
京都博物館の南西角に「大仏交番」というのがあります。

調べて見るとこの大仏というのは、京都大仏(方広寺の大仏)の名残を表しているそうで、実はこの京都博物館も含め、現在の方広寺・豊国神社東一面(阿弥陀ヶ峰まで含み)は方広寺・豊国神社の境内だったそうです。広大な土地だったんですね。そして奈良東大寺の大仏よりも大きい大仏・大仏殿が、現在の豊国神社の真後ろあったようで、遺跡跡地の説明がなされています。
山麓の社殿は今は残ってませんが、これも立派だったようです。

さて、現在の廟塔に登るには少々骨が折れる、約600段弱の階段を踏破しなければなりません。

e0237645_15145109.jpg


e0237645_15145103.jpg


e0237645_15145179.jpg


e0237645_15145110.jpg


e0237645_15145289.jpg


e0237645_15145287.jpg


e0237645_15154771.jpg


e0237645_15154739.jpg


e0237645_15154816.jpg


e0237645_15154802.jpg


e0237645_15154873.jpg


e0237645_15154859.jpg











この項 <完>





by mo-taku3 | 2019-07-30 15:30 | (歴史)京都史 | Comments(2)

織田信長の墓「本能寺と阿弥陀寺」20190729

織田信長の墓「本能寺と阿弥陀寺」20190729



織田信長が明智光秀によって「本能寺の変」天正10年(1582)で亡くなったの有名ですが、信長の亡骸が見つからなかったということも同時に謎に包まれている。
しかしながら、いくつかの資料を拾ってみると色々見えてくる。
まず有名なのは本能寺である。「信長本廟」というのがあり、訪れる人も多い。この本廟は、信長の三男「信孝」が建てたものである。また、「
山崎の戦」で明智光秀を討った豊臣秀吉は織田家の中でも優位に立つため、いち早く信長の法要を行ったがその時秀吉が建立した大徳寺総見院がある。
しかし、阿弥陀寺の」「清玉上人」(織田信長の帰依を得ていたと言われる)は、
「本能寺の変の発生を知った時には、現場に駆けつけたとされている。そして明智光秀の軍勢がひしめく本能寺の中で、いち早く自刃した織田信長公を発見、その遺骨または遺灰を密かに阿弥陀寺へと持ち帰り、供養した」
と伝えられている。これが本当なら正式な墓地は阿弥陀寺ということになるようで。この話を裏付けるように、秀吉が執拗に遺骨を要求したとあり、それを拒否した阿弥陀寺は秀吉から精彩を受けたようだ。

以下に「本能寺」と阿弥陀寺を紹介する。

e0237645_15381977.jpg


e0237645_15382096.jpg


e0237645_15382077.jpg


e0237645_15382091.jpg


e0237645_15382044.jpg


e0237645_15382067.jpg


e0237645_15382069.jpg


e0237645_15391440.jpg



ここからは「阿弥陀寺」を紹介する。

e0237645_15391435.jpg


e0237645_15391468.jpg


e0237645_15391424.jpg


e0237645_15391429.jpg


e0237645_15391430.jpg


e0237645_15391514.jpg











この項 <完>





by mo-taku3 | 2019-07-29 15:35 | (歴史)京都史 | Comments(2)

大政奉還を進言した「後藤象二郎」20190623

大政奉還を進言「後藤象二郎」20190623



幕末の動乱を生き抜き、明治には政治家として活躍。

土佐藩主「山内容堂」とともに公武合体派で尊王攘夷派の武市半平太らの「土佐勤王党」と激しく対立したが、大政奉還を創案したことでも有名。

山内容堂のもと、土佐藩大監察として土佐勤王党の断罪を行う一方、吉田東洋が暗殺された後、その経済政策を受け継ぎ、山内容堂の強力な支援の元に土佐藩の産業を活発にし、殖産興業や西洋風の科学教育振興のための総合的施設「開成館」を創立。経営にあたって保守派の反対をおして斬新な施策や事業を推進したという。

また、物産の販売や対外貿易のための「土佐商会」(開成館長崎出張所)主任に岩崎弥太郎を登用もしている。

明治維新後、竹馬の友の板垣退助の自由党結党に参加。黒田内閣から第1次松方内閣にかけて逓信大臣、引き続き第2次伊藤内閣では農商務大臣を務める等、党派を超えた政治家として活躍した。



e0237645_17511380.jpg


e0237645_17511397.jpg











この項 <完>





by mo-taku3 | 2019-06-23 17:48 | (歴史)京都史 | Comments(0)

嵯峨釈迦堂内の遺跡・逸話20190617

嵯峨釈迦堂内の遺跡・逸話20190617



嵯峨釈迦堂(清涼寺)には、大坂の陣で活躍した、渡辺糺(渡辺一族)のお墓がある。その関係か、豊臣秀頼の首塚がある。

これは、1980年に大阪城の三の丸から出土した秀頼の首を1983年に納めたもので、首に介錯の跡があったそうです。

また、渡辺糺の母は淀君の側近の正栄尼という。父は本能寺の変以後に豊臣秀吉の馬回衆になったともいう。渡辺糺は槍の名手であり内蔵助流槍術の祖でもある。秀頼の槍の指南役(師範)として仕え、大坂夏の陣で奮戦及ばず、自害している。
他にも狂言堂や京都薬師寺というのがある。
狂言堂は、謡曲「百萬」という清涼寺釈迦堂の狂言念仏で信者に伝えられているようで、さいきんかいちくもなされている。

e0237645_22413067.jpg


e0237645_22413057.jpg


e0237645_22413092.jpg



京都薬師寺に伝わる話として、小野 篁(おののたかむら)は、朝廷の役人でありながら冥界の役人でもあった。そのため毎夜東山六波羅にある六道珍皇寺の空井戸から冥土へ出かけて閻魔王を助け、朝になると嵯峨六道町の福正寺(現薬師寺)にある空井戸からこの世へ戻ってきていた。
あるとき、地獄に赴いた篁は、猛火の中で苦しむ亡者を救い、その身代わりとなって自ら焼かれている地蔵菩薩の姿を見て感銘し、その姿を彫刻し、冥土の出口にある福正寺にお祀りした。

冥土からこの世に戻ることを「生まれる」ととらえ、そこが「六道」からの出口であることから、この出口を「生六道(しょうろくどう)」といい、この地蔵菩薩像を「生六道地蔵菩薩」と言うようになったと伝えられている。

なお、福正寺は明治時代に入って廃寺となり、明治13年(1880年)に薬師寺に合併された。そのとき、この地蔵菩薩像を含め、いくつかの仏像が薬師寺に移されている。


e0237645_22413042.jpg


e0237645_22413169.jpg











この項 <完>





by mo-taku3 | 2019-06-17 14:40 | (歴史)京都史 | Comments(0)

嵯峨釈迦堂の大好きな『経堂』20190617

嵯峨釈迦堂の大好きな『経堂』20190617



嵯峨釈迦堂に行ったときは必ず寄ることにしている「経堂」です。というのも共同の真ん中にある法輪を回すと一切経を読んだという功徳を得られるからです。
またここには、正面に中国風の仏像が三体(正面には大士像、両脇;普浄・普現像)並んでおり、四隅には仏教を守護する四つの神(東方の持国天、南方の増長天、西方の広目天、北方の多聞天)が置かれています。


e0237645_22275333.jpg


e0237645_22275380.jpg


e0237645_22275320.jpg


e0237645_22275316.jpg


e0237645_22275335.jpg


e0237645_22275363.jpg


e0237645_22275467.jpg


e0237645_22293362.jpg


e0237645_22293439.jpg


e0237645_22293457.jpg


e0237645_22293485.jpg


e0237645_22293487.jpg


e0237645_22293432.jpg











この項 <完>





by mo-taku3 | 2019-06-17 14:25 | (歴史)京都史 | Comments(2)

京都木屋町・河原町通りを散策20190530

京都木屋町・河原町通り激動を散策20190530



この辺りは、土佐藩邸があったり、勤王の志士がたくさん跋扈していた場所です。
それより以前になりますが、三条通木屋町下ってすぐに「瑞泉寺」というお寺があります。ここはあまり知られておりませんが、豊臣秀吉の甥の「関白豊臣秀次一家」のお墓があります。秀次は高野山で切腹になり、続いて幼児・妻妾ら39人が三条河原で殺されました。三条河原に近いこのお寺に秀次はじめ殉死した家臣を含め、49柱が整然と弔われています。
この三条通の先には、幕末の新選組による「池田屋」騒動の池田屋があります(今は居酒屋)。更に河原町通りを南に下ると、坂本龍馬・中岡慎太郎が殺害された「近江屋」跡があります。
生臭い話ばかりなので、今はやりのスウィーツの店も紹介します。

e0237645_13254103.jpg

e0237645_13254133.jpg

e0237645_13254102.jpg

e0237645_13254211.jpg

e0237645_13254202.jpg

e0237645_13254253.jpg

e0237645_13254201.jpg

e0237645_13254207.jpg










この項 <完>






by mo-taku3 | 2019-05-30 17:23 | (歴史)京都史 | Comments(2)

六波羅(六原)と六道珍皇寺20190501

六波羅(六原)と六道珍皇寺20190501



京都に松原通というのがある。あまり知られていなことだが、この道は元々は清水寺の主参道であった。そして、鴨川に架かる橋も「旧五条大橋」だった。豊臣秀吉の時代、京都の街を区割りをし直しすっかり変えてしまったと言っていい。実はこの松原通が元の五条通りだったのである。
ということもあり、この通りには歴史に纏わる建物などが沢山存在する。
この日も、松原(五条)大橋で鴨川を渡り、六波羅蜜寺、六原市場、幽霊「子育飴」、西福寺、冥界の役人の「小野篁の六道珍皇寺」などを巡ってきました。

e0237645_21470676.jpg

e0237645_21470665.jpg

e0237645_21470647.jpg

e0237645_21470625.jpg

e0237645_21470668.jpg

e0237645_21470627.jpg

e0237645_21482854.jpg

e0237645_21482817.jpg

e0237645_21482932.jpg

e0237645_21482915.jpg










この項 <完>






by mo-taku3 | 2019-05-01 11:44 | (歴史)京都史 | Comments(2)

京都御苑「明治天皇生誕地(中山家)」20190311

京都御苑「明治天皇生誕地(中山家)」20190311



何度か載せたことがありますが、明治天皇は京都御苑の北にある公家の「中山家」で生まれ、そこは今も保存されその中には産湯として使った「祐井(さちのい)」
明治天皇は孝明天皇の第二皇子ですが、母方が中山忠能の娘であった関係上、幼少期は
祐宮として中山家で育てられました。

e0237645_17570344.jpg


e0237645_17570342.jpg


e0237645_17570330.jpg


e0237645_17570396.jpg


e0237645_17570468.jpg


e0237645_17570460.jpg











この項 <完>





by mo-taku3 | 2019-03-11 15:55 | (歴史)京都史 | Comments(0)

京都二条城祉の賑わい20190305

京都二条城祉の賑わい20190305



家康が建て、家光が二の丸御殿を建て、慶喜が大政奉還をした二条城。
徳川政権で、京都の押さえの城として君臨していました。
このお城は戦を想定したものだけではなく、政治折衝の場に使われた意味合いが強い。天皇を招くこともありました。
そのためか、立派な唐門があり、立派な造りとなっています。二の丸御殿もその意味合いを持った内部構造が見事です。
城内は四季の花木がちりばめてあり、春は梅・桜、桜は特に枝垂桜と巨古木のソメイヨシノがあり、見る価値は大きいと思います。

e0237645_23173791.jpg

e0237645_23173876.jpg

e0237645_23173822.jpg

e0237645_23173874.jpg

e0237645_23173819.jpg

e0237645_23173836.jpg

e0237645_23173896.jpg

e0237645_23173807.jpg

e0237645_23173936.jpg

e0237645_23173926.jpg










この項 <完>






by mo-taku3 | 2019-03-05 15:50 | (歴史)京都史 | Comments(2)