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カテゴリ:(歴史)京都史( 138 )

出雲大神宮(元出雲;亀岡)20191113

出雲大神宮(元出雲;亀岡)20191113



出雲族というのはどこから来たのかは、資料もなく未だはっきりしていませんが、少なくてもその痕跡は奈良県の出雲ムラや京都の相国寺・下鴨神社・上御霊神社などからたくさん見つかっています。更に京都の高野辺りからその北の亀岡方面にも、古代資料や磐座(いわくら)信仰からスタートしている神社の祭神が出雲神を多く祀っていることから、真実が隠された”記紀”を鵜呑みにすることができない歴史が伺われます。
その出雲族の象徴として存在したかもしれない神社がこの「出雲大神宮」ではないかと想像する次第である。
それを裏付けることとして、現在の”出雲大社”は明治になってから呼ばれた名前であり、以前は”杵築大社”(きづきたいしゃ)と呼ばれていたようです。
ここの出雲大神宮は「元出雲」と云われ、ここから出雲大社に遷宮されたということをが社史に書かれていると云われているようです。
ということを想像しながら、出雲大神宮にお参りしてきました。以前に行ったときは閑散としていましたが、七五三ということもありましたが駐車場が一杯で30分ほど待ちました。

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この項 <完>






by mo-taku3 | 2019-11-13 13:57 | (歴史)京都史 | Comments(2)

二条城「本丸御殿・庭園」20181019

二条城「本丸御殿・庭園」20181019



二条城の本丸御殿です。この御殿は明治27年に当時御所に北隣にあった桂宮家の一部を移設したもので、現存する唯一の宮家の御殿として重要文化財に指定されているそうです。また、桂宮けといえば、桂離宮を造ったことでも有名で、更に皇女和宮が家茂のもとえ、出立した場所ともなっています。家康時代に平安京の禁裏の一部を取り込んだ場所ともいわれています。
ここの拝観は今できないようです。

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この項 <完>






by mo-taku3 | 2019-10-07 14:31 | (歴史)京都史 | Comments(2)

二条城「二の丸御殿・庭園」20181019

二条城「二の丸御殿・庭園」20181019



二条城の東大手門から入り、しばらく進むと立派な唐門がドン!と建っています。
唐門をくぐったその先に、徳川家光の代に造られた「二の丸」があります。
この御殿の中には幕末で有名な「大政奉還の間」にはそっくり再現された場面が人形で再現されています。
その他かなり傷んだところは見られますが、お城の必要な居住空間があり、そこのは国宝・重文などの襖絵などがごく当たり前に拝観することができます。
(昨年の写真です。現在は工事されている部分があるかもしれません)

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この項 <完>






by mo-taku3 | 2019-10-07 14:15 | (歴史)京都史 | Comments(2)

京都「五条大橋」の歴史20190904

京都「五条大橋」の歴史20190904



義経と弁慶で有名な京都「五条大橋」の駒札がありました。その駒札には五条大橋の成り立ちが詳しく書かれていました。また、五条大橋の近くには「義経と弁慶の石像」が置かれています。
現在の五条大橋は現「松原橋(旧五条大橋)」から橋を移設したとあり、ここは元々「六条坊門小路」と言って橋は無かったそうです。
秀吉の京都愛は深く、戦乱に巻き込まれていた歴史を繰り返さないことを考え、京都の区画整理・路の整備・御土居など行う一方、祇園祭の復活も行いました。
その道路整備の一環として、この新五条通りを造り、そして今の「五条大橋」も造られました。



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天正14年(1586),秀吉は平安京の大内裏跡である内野を利用して「聚楽第(じゅらくてい)」の建設に着手した。そこは御所の西,僅か1キロメートル余りの場所であったが,それも計算の上であったろう。内野には農家や町家も点在し,町化が進みつつあったが,彼はこの地域を含め市街化された二条までの一帯を縄打ちした。
工事は諸大名に命じられ,10万余の人夫によって進められた。深さ54メートル,幅36メートル,全長1800メートルに及ぶ堀も瞬く間に完成し,諸大名の邸宅も順次竣工,千利休も葭屋町に屋敷を与えられた。そして着工から1年後には金箔瓦に覆われた聚楽第が,偉容を現した。周辺には武家屋敷,公家屋敷,町家などが整然と区画されて城下町のような景観を呈していた。同15年(15879月,聚楽第に移った秀吉は,翌年4月,室町幕府当時の先例にしたがって,後陽成天皇,正親町上皇らを新装なった聚楽第に招く「聚楽行幸」を実現した。それは,権力者としての地位を内外にしめす絶好の機会であった。

御所の修築も行われた。御所修築は信長時代にもあったが,秀吉のそれは新造ともいうべき本格的なもので,同17年(1589)から約2年の歳月をかけた結果,御所は面目を一新。聚楽第と御所の偉容は,上京の景観を完全に変えた。
 秀吉は都市改造も断行している。

まず、同19年(1591),洛中を取り囲む「お土居(どい)」の構築と街区の再編成を命じたのである。お土居は,東は鴨川,北は鷹峰,西は紙屋川,南は九条に至る延長225キロメートル,高さ約45メートルの土塁で,外側には幅4メートルから18メートルの堀を伴った。この土塁は,外敵侵入を阻止する軍事的意味合いと同時に,鴨川など河川の氾濫から市街地を守る役割を持っていた。秀吉は,かつての平安京をイメージしながらも,京都の地形並びに治水対策を考えた綿密な計画のもとに都市改造を行ったのである。工事は5カ月で完成し,京都は聚楽第を中心に巨大な城塞都市に変貌した。
 お土居の造成に前後して寺院街の建設も行われた。各寺院を強制移転させ,市街地の東側には「寺町」を,北部には「寺之内」を形成したのである。この寺院街の造成もまた,上京に新たな景観を生み出した。また,市街地も四条室町を中心に四分割して,それぞれに特徴を持たせ,条坊制に基づく平安京の町(120メートル四方)を短冊形に改め道路幅も縮小,ほぼ現在の道幅に変更した。改造された京都の街は,平安京のイメージは残すものの,聚楽第と御所を中心とした軍事的性格を持つ城下町的形態となり,平安京の左右対称的な構造は失われた。しかし,これが近世以降の城下町の原形となり,以後,この形式が全国各地に受け継がれたのである。

余談だが、16世紀後半,「小袖」という単純形式の衣装が流行した。小袖は,素材や意匠の差が身分差を識別する唯一の要素であり,それまでの形による身分の隔たりを狭めたことから大流行。海外からもたらされた製織技術や染色技法ともあいまって,小袖の新鮮な意匠や色彩が日常生活に華やぎと潤いをもたらした。そうした服装品の供給源が西陣であった。当時,西陣機業は21町に及び,京都はいうに及ばず日本を代表する高級織物生産地としての地位を確立していた。










この項 <完>





by mo-taku3 | 2019-09-04 12:14 | (歴史)京都史 | Comments(2)

道元禅師(曹洞宗)示寂の地20190802

道元禅師(曹洞宗)示寂の地20190802



ここは、曹洞宗の開祖道元禅師が生涯を閉じたところで小さなスペースにひっそりと石碑が建っている。
道元禅師とは、禅宗「曹洞宗」を日本で開いた人だが、正治2年(1200)に京都で生まれ、比叡山で出家した後、建仁寺の栄西禅師の門に入って禅を学び、貞応2年(1223)に入宋した。

帰国後、建仁寺に足をとどめたが、その後、深草に興聖寺(後に宇治に移る)を建て、教化活動を続けた。晩年にいたって、権勢を逃れ、越前(福井県)の地に永平寺を創建し、釈迦正伝の仏法である坐禅の厳格な宗風を樹立したことで有名。
禅師は建長5年(1253)、病の療養のために弟子懐奘を伴って上洛し、この地(下京区高辻通西洞院西入)にあった俗弟子覚念の屋敷に滞在し、同年8月に54歳の生涯を閉じた。

場所は「京都市下京区高辻通西洞院西入永養寺町」で高辻通りに面している。



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(ご参考)道元禅師が開いた「永平寺」

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この項 <完>





by mo-taku3 | 2019-08-02 17:31 | (歴史)京都史 | Comments(2)

豊臣秀吉の廟所「豊国廟」20190730

豊臣秀吉の廟所「豊国廟20190730



豊国廟は豊臣秀吉の墓所である。豊臣秀吉の死後間も無く作られた豊国廟は、現在の京都市東山区阿弥陀ヶ峰の太閤担といわれる広場のところである。

慶長3年(1598)8月18日、秀吉は63歳で伏見城でなくなりましたが、遺体は、遺命により、ここ阿弥陀ヶ峰(あみだがみね)中腹に葬られ、墳上には祠廟、山麓には社殿が建立された。翌年4月18日、遷宮式が行われ、後陽成天皇から正一位豊国大明神の神階と神号を賜り、以後、毎年盛大な祭礼(豊国祭)が取り行われた。しかし、元和元年(1615)豊臣氏の滅亡と共に、家康の命で廟は破壊されている。
しかし、明治30年(1897)、秀吉の300年忌に際し、廟宇が再建され、墳上には巨大な五輪石塔が建てられている。
京都博物館の南西角に「大仏交番」というのがあります。

調べて見るとこの大仏というのは、京都大仏(方広寺の大仏)の名残を表しているそうで、実はこの京都博物館も含め、現在の方広寺・豊国神社東一面(阿弥陀ヶ峰まで含み)は方広寺・豊国神社の境内だったそうです。広大な土地だったんですね。そして奈良東大寺の大仏よりも大きい大仏・大仏殿が、現在の豊国神社の真後ろあったようで、遺跡跡地の説明がなされています。
山麓の社殿は今は残ってませんが、これも立派だったようです。

さて、現在の廟塔に登るには少々骨が折れる、約600段弱の階段を踏破しなければなりません。

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この項 <完>





by mo-taku3 | 2019-07-30 15:30 | (歴史)京都史 | Comments(2)

織田信長の墓「本能寺と阿弥陀寺」20190729

織田信長の墓「本能寺と阿弥陀寺」20190729



織田信長が明智光秀によって「本能寺の変」天正10年(1582)で亡くなったの有名ですが、信長の亡骸が見つからなかったということも同時に謎に包まれている。
しかしながら、いくつかの資料を拾ってみると色々見えてくる。
まず有名なのは本能寺である。「信長本廟」というのがあり、訪れる人も多い。この本廟は、信長の三男「信孝」が建てたものである。また、「
山崎の戦」で明智光秀を討った豊臣秀吉は織田家の中でも優位に立つため、いち早く信長の法要を行ったがその時秀吉が建立した大徳寺総見院がある。
しかし、阿弥陀寺の」「清玉上人」(織田信長の帰依を得ていたと言われる)は、
「本能寺の変の発生を知った時には、現場に駆けつけたとされている。そして明智光秀の軍勢がひしめく本能寺の中で、いち早く自刃した織田信長公を発見、その遺骨または遺灰を密かに阿弥陀寺へと持ち帰り、供養した」
と伝えられている。これが本当なら正式な墓地は阿弥陀寺ということになるようで。この話を裏付けるように、秀吉が執拗に遺骨を要求したとあり、それを拒否した阿弥陀寺は秀吉から精彩を受けたようだ。

以下に「本能寺」と阿弥陀寺を紹介する。

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ここからは「阿弥陀寺」を紹介する。

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この項 <完>





by mo-taku3 | 2019-07-29 15:35 | (歴史)京都史 | Comments(2)

大政奉還を進言した「後藤象二郎」20190623

大政奉還を進言「後藤象二郎」20190623



幕末の動乱を生き抜き、明治には政治家として活躍。

土佐藩主「山内容堂」とともに公武合体派で尊王攘夷派の武市半平太らの「土佐勤王党」と激しく対立したが、大政奉還を創案したことでも有名。

山内容堂のもと、土佐藩大監察として土佐勤王党の断罪を行う一方、吉田東洋が暗殺された後、その経済政策を受け継ぎ、山内容堂の強力な支援の元に土佐藩の産業を活発にし、殖産興業や西洋風の科学教育振興のための総合的施設「開成館」を創立。経営にあたって保守派の反対をおして斬新な施策や事業を推進したという。

また、物産の販売や対外貿易のための「土佐商会」(開成館長崎出張所)主任に岩崎弥太郎を登用もしている。

明治維新後、竹馬の友の板垣退助の自由党結党に参加。黒田内閣から第1次松方内閣にかけて逓信大臣、引き続き第2次伊藤内閣では農商務大臣を務める等、党派を超えた政治家として活躍した。



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この項 <完>





by mo-taku3 | 2019-06-23 17:48 | (歴史)京都史 | Comments(0)

嵯峨釈迦堂内の遺跡・逸話20190617

嵯峨釈迦堂内の遺跡・逸話20190617



嵯峨釈迦堂(清涼寺)には、大坂の陣で活躍した、渡辺糺(渡辺一族)のお墓がある。その関係か、豊臣秀頼の首塚がある。

これは、1980年に大阪城の三の丸から出土した秀頼の首を1983年に納めたもので、首に介錯の跡があったそうです。

また、渡辺糺の母は淀君の側近の正栄尼という。父は本能寺の変以後に豊臣秀吉の馬回衆になったともいう。渡辺糺は槍の名手であり内蔵助流槍術の祖でもある。秀頼の槍の指南役(師範)として仕え、大坂夏の陣で奮戦及ばず、自害している。
他にも狂言堂や京都薬師寺というのがある。
狂言堂は、謡曲「百萬」という清涼寺釈迦堂の狂言念仏で信者に伝えられているようで、さいきんかいちくもなされている。

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京都薬師寺に伝わる話として、小野 篁(おののたかむら)は、朝廷の役人でありながら冥界の役人でもあった。そのため毎夜東山六波羅にある六道珍皇寺の空井戸から冥土へ出かけて閻魔王を助け、朝になると嵯峨六道町の福正寺(現薬師寺)にある空井戸からこの世へ戻ってきていた。
あるとき、地獄に赴いた篁は、猛火の中で苦しむ亡者を救い、その身代わりとなって自ら焼かれている地蔵菩薩の姿を見て感銘し、その姿を彫刻し、冥土の出口にある福正寺にお祀りした。

冥土からこの世に戻ることを「生まれる」ととらえ、そこが「六道」からの出口であることから、この出口を「生六道(しょうろくどう)」といい、この地蔵菩薩像を「生六道地蔵菩薩」と言うようになったと伝えられている。

なお、福正寺は明治時代に入って廃寺となり、明治13年(1880年)に薬師寺に合併された。そのとき、この地蔵菩薩像を含め、いくつかの仏像が薬師寺に移されている。


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この項 <完>





by mo-taku3 | 2019-06-17 14:40 | (歴史)京都史 | Comments(0)

嵯峨釈迦堂の大好きな『経堂』20190617

嵯峨釈迦堂の大好きな『経堂』20190617



嵯峨釈迦堂に行ったときは必ず寄ることにしている「経堂」です。というのも共同の真ん中にある法輪を回すと一切経を読んだという功徳を得られるからです。
またここには、正面に中国風の仏像が三体(正面には大士像、両脇;普浄・普現像)並んでおり、四隅には仏教を守護する四つの神(東方の持国天、南方の増長天、西方の広目天、北方の多聞天)が置かれています。


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この項 <完>





by mo-taku3 | 2019-06-17 14:25 | (歴史)京都史 | Comments(2)