カテゴリ:(歴史)京都史( 122 )

明治天皇生誕地(中山旧邸)20180903

明治天皇生誕地(中山旧邸)20180903



京都御苑の今出川口から入り右手に明治天皇生誕地の中山旧邸がある。
明治天皇は孝明天皇の第2皇子で、母がこの中山忠能(権大納言)の娘で、ここ中山邸で出産し5年この地で過ごしたようです。
また、中山家には京都御苑の三大名水の一つ「祐井(さちのい)」があり、産湯の井戸となっています。

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この項 <完>






by mo-taku3 | 2018-09-03 09:15 | (歴史)京都史 | Comments(2)

河合神社と『鴨長明』20180820

河合神社と『鴨長明』20180820



河合神社については以前から何度か載せており、詳しくは、
https://moutaku3.exblog.jp/20764792/
をご覧いただければと思います。
ここでは鴨氏の系図と似顔絵的なイラストが載っていましたのでご紹介します。
多分知らない人が多いと思いますが、鴨長明の紹介ブースが向かって左奥にあります(無料です)。

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この項 <完>






by mo-taku3 | 2018-08-20 10:50 | (歴史)京都史 | Comments(4)

東本願寺の初代「慶長撞鐘」20180703

東本願寺の初代「慶長鐘」20180703



東本が寺を訪ねると「
慶長撞鐘」という釣り鐘が境内にてんじされていました。
調べてみますと、これは1604年に家康の許可を得て「東本願寺」が立てられるわけですがその時に鋳造されたものとのことで、2010年11月に新調された釣り鐘が、
突き初めされたが、それまで架かっていた初代の鐘がこれだそうです。
この鐘は2010年に外した後は阿弥陀堂に置かれていたといいます。
この貴重な鐘を身近に見れて歴史を感じさせてくれました。
2010年当時のニュースによると、
「新たな鐘は、高さ2m65、口径は約1m60、重量4.5tで、初代の鐘同様鳳凰(ほうおう)や飛天(ひてん)が描かれており、滋賀県東近江市の鋳物師から寄贈された。初代の鐘は1604年に製造されたが、度重なる火災で御影堂などが焼失する中、この鐘は創建当時から伝わる遺品の一つで、毎日厳かな音色を響かせていた。交換後は、阿弥陀堂で展示されている。」と伝えておりました。


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※「東本願寺撞鐘(梵鐘)」と記した説明文(初代の鐘)。

「東本願寺の境内地南東の鐘楼に懸かっていた撞鐘(梵鐘)。
 慶長7年(1603)、徳川家康から京都烏丸六条の寺地の寄進を得た教如聖人が、
 同9年(16049月の御影堂の造営に合わせて鋳造したもの。
 鋳造  慶長9年(1604528
 吊下  慶長9年(160466
 撞初  慶長9年(160467
 製作  鋳物師大工浄徳
 仕様  総高 256cm
 口径  156cm
 総重量 3800kg
 絵柄・銘文  左向鳳凰(上部) 本願寺(下部)
        右向飛天(上部) 信淨院(下部) 信淨院=教如上人
        右向鳳凰(上部) 慶長九甲辰暦(下部)
        左向飛天(上部) 五月廿八日(下部)
        縦帯下部     大工大坂淨徳
        鐘身内部     慶長九甲辰年 大坂大工淨徳 五月廿八日 」











この項 <完>





by mo-taku3 | 2018-07-03 15:10 | (歴史)京都史 | Comments(2)

高台寺・ねねの道・三面大黒天20180619

高台寺・ねねの道・三面大黒天20180619



なんでもそうだが、ちょっと見ぬ間にとか未だ同じか、ということがあると思う。
ねねの道を歩くとお店や建物が見る間に変わっていくことで気になるのは、歴史的建造物と思っているものがイメージが変わるくらい変化していることがある。
又最近増えてきているのは外国人向けの看板が多くなっていることである。これは観光都市京都ということでいいことだと思うがもう少し美観を考えてほしい気がしている。
外国人旅行者と言えば、マナーの悪い方がかなり多かったが、ここ一年位は急速に改善されてきているように思えるのはうれしいことである。

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この項 <完>






by mo-taku3 | 2018-06-19 17:06 | (歴史)京都史 | Comments(2)

源三位頼政の遺跡が残る平等院の塔頭等20180607

源頼政の遺跡が残る平等院の塔頭等20180607



源頼政をご存知だろうか?
「保元の乱」で平清盛が権力を一段と伸ばし更にその後の「平治の乱」で平氏の世界を作り上げた。
その間、源氏はというと、有力武士として残ったのが唯一この「源頼政」だった。
その後も平氏の世界の中でも後白河法皇の信頼をえて武士としては破格の「従三位」まで登り、源三位頼政と呼ばれるようになっている。
一方、平氏はというと清盛が高倉帝に嫁がせた娘の「徳子」の産んだ「安徳天皇」をクーデターにより即位させた頃から歯車が狂いだし、反平氏の動きが活発化しだしており、後白河法皇の第三皇子の「以仁王」の令旨(れいじ)に呼応して、平氏打倒の兵を挙げたのが76歳の「源三位頼政」でした。
その結果平氏との戦いに敗れ、この平等院にて自刃して果てたわけである。しかしながらこの結果を踏まえ各地の源氏が立ち上がり、最終的にはご存知のように、源氏の嫡流の源頼朝が源氏政権を立ち上げ、主役は変われど明治維新まで武士の世界が続くことになるわけです。
この平等院には、頼政の首塚・お墓などがある。

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この項 <完>





by mo-taku3 | 2018-06-07 15:57 | (歴史)京都史 | Comments(2)

源氏物語「宇治十帖」碑20180607

源氏物語「宇治十帖」の碑20180607



源氏物語54帖のうちの後半部分45~54帖を「宇治十帖」と呼ばれています。
この部分は宇治を主要な舞台としているなど、『源氏物語』の他の部分と異なる点が多いことから、他の部分とは分けて考えられる事が多い。

紫式部の娘である大弐三位が作者であるとしているなど、古くから紫式部が作者ではないとする見解も多い。
それでも宇治十帖のおかげを十分活かしています。


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この項 <完>





by mo-taku3 | 2018-06-07 13:20 | (歴史)京都史 | Comments(0)

清水寺参道と名所・史跡20180514

清水寺参道と名所・史跡20180514



西国札所である清水寺に行ってみた。
団体の観光客で参道も境内も人でいっぱいだった。
これは修学旅行シーズンになったこともあるが…。
参道の店も賑わっていたが、ゆっくり仁王門前の参道を上がっていくと途中に貴重なお堂が2つある。まず大日堂である。
大日堂には「大日如来坐像」が祀られている。
説明を呼んでみると、皆さんご存知だろうか、陸前高田の流木松を、その松を被災者の方々が一刀ずつ掘り続け、完成したものだそうである。
意外と立ち寄る人が少ないのには残念な気がした。


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この項 <完>






by mo-taku3 | 2018-05-14 11:29 | (歴史)京都史 | Comments(2)

清水寺「幕末勤王僧『月照』ゆかり」20180514

清水寺「幕末勤王僧『月照』ゆかり」20180514



NHKの大河ドラマ「西郷どん」をご覧の方はお分かりかと思いますが、勤王僧の月照の墓が清水寺にあります。

資料によりますと、
「月照は、安政5年(1858年)8月から始まった安政の大獄で追われる身となり、西郷とともに京都を脱出して西郷の故郷である薩摩藩に逃れたが、藩では厄介者である月照の保護を拒否し「日向国送り」を命じる。これは、単に身柄を移送するのではなく、薩摩藩と日向国の国境で殺害することを意味していた。これを知った月照は死を覚悟し、西郷とともに錦江湾に入水自殺した。月照は死亡したが、西郷は奇跡的に一命を取り留めている。享年46であった。
なお、月照の弟信海(182159)は、兄の死後、成就院の住職を継いだが、兄などとともに活躍したことから捕縛され、江戸で獄死した(享年39)。」ということです。月照・信海兄弟の慰霊碑が清水寺にあります。

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月照・信海兄弟の慰霊碑

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住職だった成就院


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この項 <完>





by mo-taku3 | 2018-05-14 11:18 | (歴史)京都史 | Comments(2)

牛若丸生誕の地(京都市北区)20180511

牛若丸生誕の地(京都市北区)20180511



牛若丸(源義経)は京都で生まれ育っていますが、牛若丸の生誕に関する伝承が京都の北部にあります。
中でも北区紫竹というところには、牛若丸の父親である源義朝の別邸があったとされ、母親の常盤御前はこの地で牛若丸を生んだといわれています。

この辺りは今でも牛若町という町名が残り、牛若丸・常盤御前ゆかりの伝承や史跡がいくつかあります。ここに生誕にかかわる遺跡を2つ「牛若丸産湯井ノ遺跡」と「牛若丸誕生井」の写真の通り、このような形で遺跡が残っています。

「源義経産湯井」の遺址:京都市北区紫竹牛若町13
「牛若丸誕生井・胞衣塚」:京都市北区紫竹牛若町
 ともに、市バス「牛若前」下車徒歩3分

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この項 <完>





by mo-taku3 | 2018-05-11 11:40 | (歴史)京都史 | Comments(2)

仏光寺の宮妃お手植えの枝垂桜20180403

仏光寺の「宮妃お手植えの枝垂桜」20180403



佛光寺では4月初旬に大師堂と阿弥陀堂の大きなお堂の前の3本の枝垂桜が淡い紅色の花を咲かせます。この3本の桜の木は秩父宮、高松宮、三笠宮それぞれの妃殿下が昭和47年(1972)にお手植された由緒ある桜です。
見事な満開のしだれ桜を拝見できました。

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この項 <完>





by mo-taku3 | 2018-04-03 10:00 | (歴史)京都史 | Comments(2)