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カテゴリ:(寺社)京都の神社仏閣( 334 )

上御霊神社(京都)20190824

上御霊神社(京都)20190824



御霊信仰は9世紀前半から民衆の間で広まり、863年(貞観5年)には公式の御霊会で祭られるようになった。

桓武天皇の時代、各地で疫病が流行した。これは御霊の祟りであるとして、貞観5年(863520日、平安京の神泉苑で御霊会が催された。この時に慰霊された御霊は崇道天皇・伊予親王・藤原夫人・観察使(藤原仲成)・橘逸勢・文屋宮田麿らであった。

この御霊会が上御霊神社および下御霊神社の創祀であるとしている。

現在の下御霊神社を下出雲寺御霊堂、上御霊神社は上出雲寺御霊堂と称し、ここにあった出雲寺の御霊堂だったようで、出雲族も怨霊だったような感じを受ける。その結果か、朝廷の篤い崇敬を受け、至徳元年には正一位の神階を授けられたという。

また、室町時代の文正2年(1467118日、失脚した管領の畠山政長と畠山義就との私闘が当社境内の森で行われた(御霊合戦)。この戦いは応仁の乱の前哨戦となり、応仁の乱発祥の地とされる所以である。

なお、延喜式神明帳に記載される出雲井於神社(式内大社)や出雲高野神社(式内小社)を当社に比定する説もあるが、継続性は不詳であり、神社側の由諸ではこれらの式内社について言及していない。しかし、比定は無いにしても、関係性は十分考えられるように思う。

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この項 <完>





by mo-taku3 | 2019-08-24 10:32 | (寺社)京都の神社仏閣 | Comments(0)

京都五山第2番「相国寺」20190824

京都五山第2番「相国寺」20190824



相国寺(しょうこくじ)は、臨済宗相国寺派大本山の寺院。山号は萬年山(まんねんざん)。

足利将軍家や伏見宮家および桂宮家ゆかりの禅寺であり、京都五山の第二位に列せられている。相国寺は五山文学の中心地であり、画僧の周文や雪舟は相国寺の出身である。また、京都の観光名所として著名な鹿苑寺(金閣寺)、慈照寺(銀閣寺)は、相国寺の山外塔頭(さんがいたっちゅう)である。

足利義満が開基で無窓疎石が開山とされている。

ここで有名なのは、高さ109.1mの「七重大塔」である。史上最も高かった「仏塔」であったが4年後に落雷によって焼失した。その後、北山山荘(現鹿苑寺)・相国寺の元跡地にそれぞれ再建されたが、やはり全て落雷により焼失してしまった。

また、応仁の乱では東軍「細川氏」の陣地となりまたも廃塵に帰している。

もう一つ歴史的価値があるのは、相国寺の発掘捜査から出雲族の遺跡が見つかったことである。相国寺から下鴨神社・上御霊神社辺りまで一帯は「出雲族」の居留地で、そこには『上出雲寺』があったことがわかっている。

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この項 <完>





by mo-taku3 | 2019-08-24 09:00 | (寺社)京都の神社仏閣 | Comments(0)

京都大徳寺の周辺と塔頭等20190822

京都大徳寺の周辺と塔頭等20190822



大徳寺は臨済宗の大寺院である。
室町時代から江戸のかけて繁栄した寺院だが、明治に入り上知令などで収入の道が圧迫され大幅な縮小を余儀なくされたが、旧大名家のなどの支えもあり大寺院としての風格を保持している。
また、寺院の向かいの通りには以前は多くの茶店で賑わっていたが、今は数軒しか見られない。しかし、何軒かの老舗がしっかりと営んでいた。
境内には20の塔頭があり、古田織部・浅野幸長・小堀遠州等々沢山風流人の通った塔頭が並んでいる。

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この項 <完>






by mo-taku3 | 2019-08-22 15:10 | (寺社)京都の神社仏閣 | Comments(0)

京都大徳寺の紹介20190822

京都大徳寺の紹介20190822



大徳寺は京都北大路通沿いの大宮通西にある臨済宗大徳寺派の大本山で勅使門、山門、仏殿、法堂がほぼ一直線に並び、更に奥には方丈および玄関(国宝)唐門(国宝)*があり、これら中心伽藍の他20以上の塔頭寺院が並んでいる。

大徳寺の開祖である禅僧・宗峰妙超は正和4年(1315年)ないしは元応元年(1319年)に、洛北紫野の地に小堂を建立した。これが大徳寺の起源という。

建武の新政では京都五山の上位になったが、後醍醐天皇と関係の深かった大徳寺は足利将軍家から疎んじられ、十刹の第9位まで落とされている。

足利政権の庇護と統制下にあって世俗化しつつあった五山十刹から離脱し、座禅修行に専心するという独自の道をとった。(五山十刹の寺院を「叢林」(そうりん)と称するのに対し、同じ臨済宗寺院でも、大徳寺や妙心寺のような在野的立場にある寺院を「林下」(りんか)という。)

その後の大徳寺は、貴族・大名・商人・文化人など幅広い層の保護や支持を受けて栄え、室町時代以降は一休宗純をはじめとする名僧を輩出した。

更に有名にしたのは、豊臣秀吉が織田信長の葬儀を営み、菩提を弔うために総見院を建立、併せて寺領を寄進、それを契機に戦国武将の塔頭建立が相次ぎ隆盛を極めたという。その後徳川幕府により、大名の京都にある臨済宗の禅寺はこの大徳寺と妙心寺に寄せられたようである。

明治に入って「上知令」によって困窮し、堂宇を維持するため明治11年(1878)、塔頭13寺を合併、4寺を縮小、20寺を永続塔頭とする縮小を行ったが、その後寺運は栄え今日に至っている。

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*唐門(国宝)西本願寺と京都豊国神社の唐門とともに「桃山の三唐門」と呼ばれている。仏殿などの中心伽藍の北東に位置し、方丈南の土塀に接続する。かつてこの位置には明智門と呼ばれる本能寺の変直後に明智光秀が寄進した銀を元手に建築された門があったようだが?明治19年(1886年)に明智門を南禅寺金地院に売却し聚楽第の唐門を移築したと伝わる。

現在この唐門を含め大徳寺伽藍は敷地内に入れず、写真は敷地の外から写している。年に一度特別公開があるようだ。

この唐門は京都府教育委員会により解体修理が行われその際、飾り金物から「天正」の刻銘が発見されたことから、伝承通り聚楽第の遺構であることがほぼ確定している。











この項 <完>





by mo-taku3 | 2019-08-22 14:36 | (寺社)京都の神社仏閣 | Comments(2)

建仁寺伽藍配置と境内(京都五山)20190816

建仁寺伽藍配置と境内(京都五山20190816



京都と鎌倉にそれぞれ五山がある。これは、日本の禅宗のうち、臨済宗の寺院を格付けする制度として決められたものである。この制度の目的は、幕府が任命した住持(住職)を順次上位の寺に昇進させることにより、幕府の管理下に置き、コントロールしようというものである。

鎌倉幕府の5代執権・北条時頼の頃、中国の五山の制にならって導入したのが始まりで、その後いくつかの変遷を経て最終的には、京都と鎌倉にそれぞれ五山が決められ、その上に「五山之上」という最高寺格として南禅寺が置かれた。

現在の五山の順位が決まったのは、至徳3年(1386)、室町幕府3代将軍・足利義満の時である。

この建仁寺は京都五山第三位に格付けされている。

禅宗のお寺の伽藍配置の特長は、下の写真の二枚目にあるように、伽藍が一直線に並んでいることである。ここ建仁寺もそのように作られている。

建仁寺の開山は中国から日本に茶を広めたことで知られる栄西禅師であり、何と開基は源頼家とある。建仁寺には、国宝である俵屋宗達筆「風神雷神図」がある。

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この項 <完>





by mo-taku3 | 2019-08-16 16:14 | (寺社)京都の神社仏閣 | Comments(2)

清水寺三重塔等堂宇(茶わん坂から)20180813

清水寺三重塔等堂宇(茶わん坂から)20180813



清水参道の一つ「茶わん坂」を上り最後の長い階段の手前等から眺めると緑の中に朱い堂宇が浮かんでくる。
なかなか風情の良さを感じる状況である。

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この項 <完>






by mo-taku3 | 2019-08-13 11:20 | (寺社)京都の神社仏閣 | Comments(2)

豊国神社(京都)の豪華な唐門20190804

豊国神社(京都)の豪華な唐門』20190804



豊臣秀吉は没後、東山阿弥陀ヶ峰に葬られ京都女子大の東奥の山に立派に豊国廟として祀られていた。その山麓には壮麗だった豊国社が建てられ祀られたが、大坂夏の陣後、徳川家康の手で取壊された。
その後、現在の社殿(豊国神社)は、明治天皇の命により1880年(明治13)に再建のものである。

豊国神社の唐門は日本三大唐門の一つで国宝になっている。

この唐門はここに建てられる前は、南禅寺塔頭金地院にあったもので、豊国神社再建にあたって金地院から移築された。元々は伏見城にあった伝わるもので、二条城に移されそれを金地院崇伝が寛永4年(1627)に幕府から譲り受けて金地院にあった。



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この項 <完>





by mo-taku3 | 2019-08-04 16:50 | (寺社)京都の神社仏閣 | Comments(2)

鳥羽伏見の戦いと「城南宮」20190804

鳥羽伏見の戦いと「城南宮」20190804



京都での交通安全の一番人気の神様「城南宮」です。ここはしだれ梅が素晴らしいことで有名ですが、椿や藤など花木がきれいな庭園があるので、年2回ほど行く機会がありますが、今回は36℃越えの中時間ができたので寄ってみました。
城南宮は幕末「戊辰戦争」の鳥羽伏見の戦いでは、薩摩・長州・土佐の兵の新政府軍の陣地があったところです。その模様が駒札や図解入りの説明板が設置されています。
さて、城南宮があるところは広大な鳥羽離宮の一角にある白河上皇の「城南離宮」があったところということですが、これより先の平安遷都の際に南の守りとして建てられたということです。色々特長があるお宮さんです。
それにしても暑かったですね。

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この項 <完>






by mo-taku3 | 2019-08-04 15:40 | (寺社)京都の神社仏閣 | Comments(2)

吉祥院天満宮(道真生誕地と伝わる)20190804

吉祥院天満宮(道真生誕地と伝わる)20190804



天神さんといえばまず思い浮かべるのは、北野天満宮だと思う。特に京都以外の方は余り馴染みがないかもしれないが、「吉祥院天満宮」というのがあります。
北野天満宮に梅で有名だが、道真生誕地の痕跡はありません。ここ吉祥院天満宮は、生誕の地とはっきり明記しており、また道真のへその緒を埋めた「菅公胞衣(えな)塚」というのもある。
承平4年(934)、朱雀天皇が自ら道真の像を刻みここに社殿を築き祀ったといわれている。
京都には沢山の天満宮がありますが、他にも生誕を詠っているところがあり、往時の天神信仰はブームだったようだ。

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この項 <完>






by mo-taku3 | 2019-08-04 15:16 | (寺社)京都の神社仏閣 | Comments(2)

圓光大師(法然)本廟・知恩院20190801

圓光大師(法然)本廟・知恩院20190801



この御廟は、「圓光(法然)上人」の遺骨を奉る廟所です。

御影堂に向かって右奥に行くと御廟に登る長い階段がある。唐門をくぐると拝殿があり、拝殿に上がりお参りすることができます。

この廟所は方三間の宝形造本瓦葺で、周囲には唐門のある玉垣がめぐらされています。

上人は建暦2年(1212)、この地にあった大谷の禅房で入滅されました。その後、門弟たちによって廟堂が建てられ、遺骨が安置されました。ただし、現在の御廟は慶長18年(1613)常陸国土浦藩主 松平伊豆守信一の寄進を得て改築されたものです。

廟堂の蟇股(かえるまた)には「雲に龍」「桐に鳳凰」「梅に鶯」「雲に麒麟」「松に鶴」「桜に鳥」「孔雀に牡丹」など、桃山様式の華麗な彫刻が施されており、上人の生涯を偲ぶにふさわしい静粛さと格調のある建物となっています。

御廟の手前には、上人の御廟にお参りするための拝殿があります。宝永7年(1710)に建て添えられた檜皮葺のお堂で、法然上人を間近に拝することができお念仏の声が絶え間なく響き渡っています。木魚が幾つも置かれています。

蟇股とは社寺建築で柱の頂部をつなぐ頭貫(かしらぬき)と軒下の桁(けた)との間や、梁(はり)上に置かれる部材を言います。

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この項 <完>





by mo-taku3 | 2019-08-01 17:05 | (寺社)京都の神社仏閣 | Comments(2)