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カテゴリ:(寺社)京都の神社仏閣( 369 )

京都妙顕寺

京都妙顕寺



妙顕寺といえば、聚楽第ができるまでの秀吉の京都の滞在場所である。
その時分は妙顕寺城として、妙顕寺があったところの城が築かれ、そのとき、現在の場所にいてさせられている。というは一例で、妙顕寺もご多分にもれず紆余曲折がありかなり移転を繰り返している。

妙顕寺(みょうけんじ)の南面した大門には、「門下唯一勅願寺」の木札が掲げられている。創建以来、数々の弾圧を受け、寺地も各所を転々とした。
日蓮の孫弟子・日像(龍華樹院)により開山された「京都の三具足山」(ほかに妙覚寺、立本寺)の一つである。本尊は釈迦多宝仏。日蓮宗京都16本山の一つ。
1311年、綾小路大宮(下京区)付近に、拠点となる法華堂が建立、1321年、今小路(上京区)に法華堂を移している。これが妙顕寺の起源ともいわれている。

1334年、後醍醐天皇の綸旨(りんじ)により、法華経の最初の勅願寺となった。洛中洛外の宗門の第一位と認められ、四海唱導妙顕寺といわれた。
1536年、比叡山衆徒による洛中洛外の日蓮宗21寺を襲った事件、「天文法華の乱」(天文法乱)により破却され、堺に逃れている。

妙顕寺(みょうけんじ)の南面した大門には、「門下唯一勅願寺」の木札が掲げられている。

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本堂、江戸時代、1830年上棟、1839年頃完成。十五間四面、御所紫宸殿に見られる蔀戸がある。内陣に三宝諸尊(日蓮、日朗、日像)の等身大像が安置されている。扁額「四海唱導」は、後光厳により大覚に贈られた称号。

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三菩薩堂は祖師堂に当るが、日蓮、日朗、日像の三祖を合祀しているので、三菩薩堂という。三菩薩の由来は、二世大覚上人が、延文3年(1358)雨乞いの霊験をあらわし、それにより日蓮に大菩薩、開山日像とその師日朗に菩薩号の勅賜をうけたことによる。

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尊神堂は鬼子母神が祀ってあり、鬼子母神とは安産や子供の守護神、さらには最悪を除き福をもたらす神として、あがめられている。また天皇自ら参拝されたお堂でもあり、天拝鬼子母神堂とも言われている。

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鐘楼は天明大災の焼失後に再建されたもので、大門の東隅に在ったのであるが、昭和四十年曽て五重塔があった現在地に移築されました。鐘は正徳3年の鋳造である。

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鐘真窟。御真骨堂は元々鐘眞窟と言い、日蓮大聖人、日朗聖人、日像聖人の御眞舎利を奉安するお堂である。(日蓮・日朗・日像の遺骨が納められているところ。)
明治の始め頃、第五十二世福田日耀上人の代に再建された。

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あらためて妙顕寺縁起。

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(豊臣秀吉妙顕寺城跡(駒札より))
妙顕寺とは、鎌倉後期、日像がはじめて京都に建立した日蓮宗寺院であり、たびたび場所は移ったが、、天正11年(1583)9月、豊臣秀吉は寺を小川寺ノ内に移転させてあとに二条新邸を構築し、天正14年聚楽第を造るまで、京都の政庁とした
。建物の姿は詳しくはわからないが、周囲に堀をめぐらし、天主をあげていたという。したがって屋敷というより城と呼ぶにふさわしいといえよう。
平素は前田玄以が居住して京都の政務にあたり、秀吉が上洛すると、ここが宿舎となった。豊臣秀吉が次第に天下を握ってゆく間の、重要な政治的拠点であった。現在、城跡はしのぶべくもないが、古城町という町名となって、よすがを伝えている。
場所は、上京区押小路小川西入。


(勅願寺とは)
現当二世(現世と来世)の安楽を祈願したり、特別に帰依した寺院を祈願所という。
初めは薬師寺や国分寺のように、朝廷の勅命によって建立された官寺に限られていたが、後に貴族・将軍・大名が祈願のために新たに創建したり、既在の寺院を指定したり、あるいは貴族・僧侶が建立した後に奏上された寺院もこのように呼ばれ、多くの祈願所が生まれている。
これら祈願所のうち、天皇の勅令によって玉体安穏・鎮護国家を祈る寺院を御願寺(ごがんじ)・勅願寺という。
この呼称は鎌倉時代以降、幕府建立の祈願所と区別する意味で起こったもの。
勅願寺の多くは天皇宸筆の寺額(勅額)を掲げ、創建当時した天皇の在世中は「今上皇帝聖躬万歳」などと書かれた天皇の長寿を祈る位牌(寿牌)を、崩御後は冥福を祈る位牌(霊牌)が祀られている。








この項 <完>

by mo-taku3 | 2012-11-11 23:08 | (寺社)京都の神社仏閣 | Comments(2)

京都報恩寺

京都報恩寺



報恩寺
鎌倉時代初期の承久3年(1221年)、求法上人義空によって創建された。義空は藤原秀衡の孫で比叡山で修行の後、当寺を建立した。室町時代の勧進状によれば、猫間中納言と呼ばれた藤原光隆の従者であった岸高なる人物が境内地を寄進したという。当初は草堂であったが、摂津尼崎の材木商の寄進を受けて現存する本堂が完成した。
1951年、本堂解体修理時に発見された義空の願文により、本堂は安貞元年(1227年)の上棟であることが判明している。『徒然草』228段には「千本の釈迦念仏は文永の比(ころ)如輪上人これを始められけり」と、当寺に言及されている(文永は1264 - 1275年)

室町時代中期までは八宗兼学の寺院として一条高倉付近にあったが、後柏原天皇の勅旨で、1501年(文亀1)慶誉が再興、浄土宗寺院となる。天正年間(1573~92)現在地に移った。
豊臣秀吉が寺宝の虎の図を聚楽第に持ち帰ったが、夜毎吠えて眠れず、寺に返したという。




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門前の石橋は秀吉の侍尼・仁舜尼の寄進で、擬宝珠に慶長七年の銘がある。

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客殿に黒田長政が死去した部屋もある。
観世流家元歴代や、志野流香道家元蜂谷家歴代の菩提寺で、仁舜尼や福山藩祖の阿部正勝等の墓碑を併祠している。

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重文の梵鐘は平安時代末期の作で撞かずの鐘という。

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この項 <完>

by mo-taku3 | 2012-11-11 23:04 | (寺社)京都の神社仏閣 | Comments(2)

壇王法林寺1103

壇王法林寺1103



壇王法林寺は720年ほど前の文永9年(1272)に、望西楼了慧(ぼうせいろうりょうえ)上人により「悟真寺」として創建。
その後一時、応仁の乱などで廃寺となったが、慶長16年(1611)、袋中上人が「檀王法林寺」として復興、その弟子である團王(だんのう)上人により基礎がきずかれ、更に念佛信仰の充実発展に努めた。
詳しい寺名は「朝陽山栴檀王院無上法林寺」というが、地元では親しみをこめて「だんのうさん」と呼ばれているようだ。
了慧上人を「派祖」というのは、三祖良忠上人の門下から分かれた六派の一つである「三条派」の祖であることを指している。
その教えは法然上人の教えを忠実に守るもので、特にその書、『漢語燈録(かんごとうろく)』『和語(わご)燈録』は、法然上人のお言葉を集めたもので、貴重な史料となっている。
一方、袋中上人は諸国を巡り念仏の教えを極め、後に中国に渡ろうとしたが叶わずに琉球(沖縄)へたどり着き、そこに浄土宗を伝えている。
そして帰国後、京都に上り念仏道場としたのが檀王法林寺であった。境内奥には上人を偲ぶ御廟(ごびょう)もある。
歴史のある寺だが、現在は子どもたちの声であふれている。前住職の信ヶ原良文夫妻が戦後の混乱期に、労働条件の厳しい家庭の母親を助けようと境内に保育園を開園、続いて日本で初めての夜間保育園を創設し、また地域児童のために「だん王児童館・子ども図書館」を設け、仏教福祉教育の拠点ともなっている。

さて、壇王法林寺は、川端・三条それぞれの両面に面して門がある。
三条側の入口には、「浄土宗だん王寺」の大きな石碑が目につく。

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境内に入るとまず正面に重厚な造りの四天王楼門(仁王門)がある。
楼門は東西南北に四天王が配置された立派な楼門で、今ではこの四天王楼門が存在するのは珍しい。

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これが正面。

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これは裏面。

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これが本堂である。そして本堂右手にある袋中(たいちゅう)と記された大きな「南无(無)阿弥陀仏」の碑だ。

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どうゆうわけか、大きな鳥塚が設えられていた。

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この項 <完>

by mo-taku3 | 2012-11-11 22:51 | (寺社)京都の神社仏閣 | Comments(2)

西陣本隆寺

西陣本隆寺



法華宗真門流(しんもんりゅう)の総本山 慧光無量山(えこうむりょうざん)本隆寺の本尊は十界曼荼羅(じゅっかいまんだら)で、俗に不焼寺(やけずのてら)とも言われている。
長享2年(1488)に日真が六角西洞院に草庵を建てたことが起こりで、天文の法乱によって堂宇を失ったり、承応の大火で消失したりしたが、第十世日遵によって明暦3年(1657)再建されている。
その後、享保15年・天明8年の二度にわたる洛中の大火にも奇跡的に難を逃れ現在に至っているのは、祀られている「火伏せの鬼子母神」の加護といわれている。
この伝説は今日でも語り継がれており、鬼子母尊神は現在も人々の信仰を集めていて、本堂南東角に「不焼寺止跡」の石碑がたてられている。
大火を免れた本堂は十七間四方の壮大なもので、十六本山の中でも最も古く、三百年以上の歴史を今日に伝えている。


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雨宝院とを隔てる、瓦を埋め込んだ強固な土塀が一直線に建てられている。
過去の大火にもかなり効果を示してきたようだ。

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祖師堂前に伝説の「夜泣き止めの松」があり、この木の皮や葉を枕の下に敷くと夜鳴きがやむと伝えられている。
16世紀、日諦上人が婦人より幼児の養育を頼まれ、その子を寺で預かるが、毎夜夜泣きがひどく上人を困らせていた。そこで上人は、本堂横の松の木の周囲をお経を唱えて回ると、不思議とその子が泣き止んだという。それが伝説の「夜泣き止めの松」となったそうである。

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本堂正面階段東側傍らに、無外如大尼(むげにょだいに)が悟りを開いたという千代野井戸(ちよのいど)がありる。無外如大尼(千代野姫)が満月の夜、この井戸で水を汲んでいた時、桶の底が抜けて月影が水とともに消えたので、仏道に入ったと謂れを伝えている。

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この項 <完>

by mo-taku3 | 2012-11-11 14:46 | (寺社)京都の神社仏閣 | Comments(2)

雨宝院(西陣聖天宮)

雨宝院(西陣聖天宮)



今出川通智恵光院を北へ徒歩5分ほど、二筋目の上立売通を西に入ったところに雨宝院がある。
「雨宝院」は「大聖歓喜寺」(だいしょうかんきじ)というお寺の子院であったといわれている。
その大聖歓喜寺とは、現在の千本五辻辺りにあったという、東寺の規模に匹敵するくらいの、平安時代創建の広大な寺院だったようであるが、応仁の乱(1467~1477)によって荒廃し、現在はもう存在しない。
その法脈を、西陣の「雨宝院(うほういん)」が受け継いでいるといわれている。
雨宝院は、大聖歓喜寺の後を受け継いで「歓喜天(かんきてん)」を祀る寺院で、今でも地元では「西陣聖天(しょうてん)」さんと親しみを込めて呼ばれている。
弘法大師が嵯峨天皇の頭の病を治そうと彫ったのが、その歓喜天像という話だが、秘仏のままで御開扉されずにいるようだ。
というのは、歓喜天という仏像はほぼ全てが秘仏で、もともとは古代インドのガネーシャという象頭人身の神様で、大概のお願い事は一度はきいてくれるそうなのですが、一度お願いしたら、七代までの運を使い果たすといわれるくらい劇薬的な仏像だという噂がある。
この秘仏は日本最古といわれている。
観音堂には平安時代中期の作とされる木造千手観音菩薩像が安置されていて、重要文化財に指定されている。この他、境内には不動堂、稲荷堂、庚申堂など建ち並ぶ。

隣りには本隆寺があり、本隆寺の北塀に面して表門がある。

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境内南東にある「染殿井」は涸れることなく湧いている。
染色に使うちよく染まるとされ、以前は西陣の染物関係者が水を汲みに来ていた井戸である。
現在は清めの手水に使われている。この「染殿井(そめどのい)」は西陣五名水の一つである。
ちなみに、他は「千代井(ちよのい)」、「桜井(さくらい)」、「安居井(あぐい)」、「鹿子井(かのこい)」で、この内、「安居井」、「鹿子井」は個人宅の井戸である。

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この項 <完>

by mo-taku3 | 2012-11-10 22:18 | (寺社)京都の神社仏閣 | Comments(2)

京都満足稲荷神社

京都満足稲荷神社



東大路通の三条通と仁王門通の間にこの、「京都満足稲荷神社」がある。
ここはバスでよく通るところで、"満足”という名が気になっていた。

本神社は後陽成天皇の文禄年間に豊臣秀吉公の勧請により、 もともとは伏見桃山城に鎮座し、同城の守護神として秀吉公の崇敬篤かったという。
社名の「満足」の2字は、秀吉公が「祭神の加護にすこぶる「満足」したことに由来する」とされ、秀吉公から呼称としていただいたという。
元禄6年徳川綱吉公が伏見城の地からこの地に遷祀している。
結果、近隣の繁栄著しく、広く地方一般の崇敬を集め、 御神徳あらたかなる故をに、明治41年幣帛共進神社に指定されている。
また、満足の名を持つ神社は、東京都文京区千駄木5ー2ー8の稲荷神社の通称を満足稲荷と云う。
この呼称は、広く地方一般の崇敬を集めていたため、誰かが勧請したのだろう。

(社格) 旧村社。
(祭神)
本社  倉稻魂命(うかのみたまのみこと)
倉稻魂命とは、父神、素戔嗚命と、母神、神大市比売命との間に生まれた神。
延喜式祝詞の中に「是れ稲の霊なり」とあるように稲の精霊で、稲荷神社の社名は「稲生り(いねなり)」から「いなり」となったもの。
中世以後、商工業が盛んになると、農耕神から殖産興業神・商業神・屋敷神とその御神格が拡大し、農村だけでなく、町家にも勧請されるようになった。
稲荷神社の神使をキツネとする民間信仰は、この神が別名、御饌神(みけつかみ)と呼ばれるのでキツネの古名ケツから「みけつかみ」に「三狐神」の字を充てたことにもとづくという。(資料による)
末社 三社
    大神宮社 天照大神(あまてらすおおかみ)
    大国主社 大国主命(おおくにぬしのみこと)
    猿田彦社 猿田彦神(さるたひこのかみ)
(年間行事)
節分祭、2月2日・3日。
初午祭、2月初午の日。
例祭、5月8日。
神幸祭、5月5日。
火焚祭、11月8日。
(文化財)
宝舟之図(橋本関雪筆)。
豊公詣満足神社文図(猪飼肅谷筆)。

以下は写真で紹介する。

東大路に面した、正面はこのようになっている。満足稲荷の石標が目立っている。

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ご祭神とご利益は以下の通り。

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神社の紹介駒札。

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さすが秀吉ゆかりと会って、立派な「唐門と本殿」。
ここには天照大神や大国主命などが祀られている様だ。

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手水舎には、リアルな龍がいた。

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岩神さま。撫で石。
さすると、「よくなる・治る」の言い伝え。

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これが本来の稲荷社。

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色々調べてみたが、これ以上の情報が見当たらなかった。







この項 <完>

by mo-taku3 | 2012-10-18 16:14 | (寺社)京都の神社仏閣 | Comments(2)

御寺、泉涌寺と天皇陵

御寺、泉涌寺(せんにゅうじ)と天皇陵



泉涌寺 (せんにゅうじ)は、京都市東山区泉涌寺山内(やまのうち)町にある真言宗泉涌寺派総本山の寺院。山号は東山(とうざん)または泉山(せんざん)。本尊は釈迦如来、阿弥陀如来、弥勒如来の三世仏。
泉涌寺は、仁和寺、大覚寺などと共に皇室ゆかりの寺院として知られる。
平安時代の草創と云われているが、実質的な開基は鎌倉時代の月輪大師俊芿(がちりんだいししゅんじょう)といわれている。
また、東山三十六峰の南端にあたる月輪山の山麓に広がる寺域内には、鎌倉時代の後堀河天皇、四条天皇、江戸時代の後水尾天皇以下幕末に至る歴代天皇の陵墓があり、皇室の菩提寺として「御寺(みてら)泉涌寺」と呼ばれている。

このほか、草創の時期や事情についてはあまり明らかではないため、ある伝承によれば、斉衡3年(856年)藤原式家の流れをくむ左大臣藤原緒嗣が、自らの山荘に神修上人を開山として草創されたといわれている。
当初は法輪寺と称し、後に仙遊寺と改めたという。
なお、『続日本後紀』によれば藤原緒嗣は承和10年(843年)に没しているので、上述の伝承を信じるとすれば、藤原緒嗣の遺志に基づき、菩提寺として建立されたということになる。
またまた、別の伝承は開創者を空海とする。
すなわち、空海が天長年間(824年-834年)、この地に草創した法輪寺が起源であり、斉衡2年(855年)藤原緒嗣によって再興され、仙遊寺と改めたとするものである。
空海による草創年代を大同2年(807年)とする伝承もあり、この寺院が後の今熊野観音寺(泉涌寺山内にあり、西国三十三箇所観音霊場の第15番札所)となったともいう。

鎌倉時代の建保6年(1218年)、宇都宮信房が、荒廃していた仙遊寺を俊芿に寄進、俊芿は多くの人々の寄付を得てこの地に大伽藍を造営し、霊泉が湧いたので、寺号を泉涌寺としたという。
宇都宮信房は源頼朝の家臣で、豊前国守護に任じられた人物であり、俊芿に帰依していた。俊芿(1166-1227)は肥後国(熊本県)出身の学僧で、正治元年(1199年)宋に渡り、足かけ13年の滞在で天台と律を学び、建暦元年(1211年)日本へ帰国した。
俊芿は宋から多くの文物をもたらし、泉涌寺の伽藍は全て宋風に造られた。
泉涌寺は律を中心として天台、東密(真言)、禅、浄土の四宗兼学(または律を含めて五宗兼学とも)の道場として栄えた。
貞応3年(1224年)には後堀河天皇により皇室の祈願寺と定められた。後堀河天皇と次代の四条天皇の陵墓は泉涌寺内に築かれ、この頃から皇室との結び付きが強まった。
応仁の乱による焼失を初め、諸堂はたびたびの火災で焼失しており、現存の堂宇は近世以降の再建である。日本国憲法施行まで、営繕・修理費は全て宮内省が支出していた。


東山大路から泉涌寺にあがるには、石碑が建っている。
石碑は、東山御陵参道とあり、併せて西国15番「いまくまの観音寺」の石碑もある。

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泉涌寺の総門には【御寺泉涌寺】の看板が掛けられている。

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しばらく登って右手に折れ、更に登っていくと、泉涌寺の伽藍配置図があり、その左手には【大門】がある。

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この大門(重文)が仏殿・舎利殿の正面に当たる。
大門は、慶長年間(江戸時代初頭)造営の御所の門を移築したものである。

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澄んだ空のもと、舎利殿がまぶしく照らされている。
舎利殿は仏殿の背後になり、俊芿の弟子湛海が南宋慶元府の白蓮寺から請来したという仏牙舎利(釈尊の歯)を安置している。

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鐘楼が一段高いところに据えられている。

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立派な浴室が保存されている。

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これは仏殿である。仏殿(重文)は拝観することができる。
密教寺院の中心堂宇は通常「本堂」「金堂」と称することが多いが、宋風建築のこの寺では「仏殿」の呼称が用いられている。
中に入ってみると、本尊は釈迦・阿弥陀・弥勒の3体の如来像が安置されている。
また、天井の竜の図と本尊背後の白衣(びゃくえ)観音図は狩野探幽の筆になるとのこと。

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1884年に再建された霊明殿。
ここには、天智天皇と光仁天皇から昭和天皇(南北両朝の天皇も含む)に至る歴代天皇皇后の尊牌(位牌)が安置されている。
どうゆう訳か、天武天皇系の尊牌は安置されていない。不思議なところである。

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陵墓である月輪陵には、歴代天皇らの25陵、5灰塚、9墓がまつられている。
後水尾天皇から孝明天皇までの歴代25の天皇が葬られている。
泉涌寺はこれらの皇室の陵墓に対して香をたき、花を供える香華院となり、「御寺(みてら)」と尊称されている。

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月輪山を背に陵墓の正面が見える。

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このほかの伽藍として、
大門を入ってすぐ左手の奥まったところに楊貴妃観音堂が建つ。
・中国・南宋時代の作である観音菩薩坐像(通称楊貴妃観音)を安置する。

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・楊貴妃観音堂に接して建つ心照殿は宝物館で、泉涌寺および塔頭寺院所蔵の文化財を順次公開している。

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(台密、東密とは?)
・台密は天台密教をさします。
日本天台宗の祖である伝教大師最澄(766年?~822年)が『法華経』で説かれる一乗思想(宥和一致の思想)の元に禅・大乗戒とともに密教も取り入れたのが始まりで、その後、入唐を果たした慈覚大師円仁(794年~864年)、智証大師円珍(814年~891年)等によって大いに発展し、円仁の弟子、安然(841年?~915年?)が完成した密教、と云われている。
・東密は真言密教をさします。
弘法大師空海(774年~835年)によって日本に伝承された密教で、空海が朝廷より平安京の東寺を賜り、そこを本拠としたので「東密」と称します。

この東密と台密の違いを知ることは、真言宗と天台宗の「顕密二教観」の相違点と共通点を知ることにもなります。







この項 <完>

by mo-taku3 | 2012-10-07 13:21 | (寺社)京都の神社仏閣 | Comments(2)

菅原道真「京都菅大臣神社:菅家邸址」

菅原道真「京都菅大臣神社:菅家邸址」



菅大臣神社(かんだいじんじんじゃ) 通称は菅大臣天満宮。
祭神:菅原道真公、尼神(あまがみ)、大己貴命(おおなむちのみこと)
京都市下京区仏光寺通新町西入菅大臣町

道真公にまつわる伝説が残る、菅大臣神社は、天神信仰発祥の神社という「文子天満宮」から北西に歩いて15分ほどの所にある。
この地は約1100年前の菅原道真(849~903)の邸宅で、紅梅殿・白梅殿や菅家廊下(かんけろうか)といわれた学問所の跡になるという。
また、道真誕生の地ともいわれ、境内には産湯に使ったという井戸が保存されている。
当時の邸宅は、仏光寺通を中心に南北二町、東西一町といわれ、かなり広大な地を占めている。
菅大臣神社の創立は、道真没後すぐといわれているが、正確な年代は分かっていない。
度々兵火で鎌倉期には南北両社に別れ、南社(菅大臣神社)を白梅殿社と称し、北社を紅梅殿社と呼んでいたが次第に衰退し、応仁の乱(1467)後の慶長19年(1614)に菅家ゆかりの曼殊院宮良恕法親王により再興されている。
その後も天明の大火(1788)・禁門の変(1864)で再度焼失しているがその都度再興されて現在に至る。

堀川通りに面した正面(西面)は「天満宮降誕之地」の石標ととも木製の鳥居が建てられている。
その奥には本殿が見える。

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北門鳥居脇に「菅家邸」の石碑が建つ 同じく「天満宮降誕之地」の石柱 本殿の南に見える「天満宮誕生水」の石碑

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北門の向いに「菅家邸跡」の石碑が建っている。その露地の突き当りが紅梅殿にあたる。
そこの鳥居には「紅梅殿」の額が掲げられている。


門は西・東・北とあるがどこから入っても本殿の前の鳥居に行き着く。

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さすが天満宮!という大きな牛が鎮座していた。

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手水舎では立派な龍がにらみを気化きかしていた。

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本殿の前には、絵馬が沢山かけられていた。
よく見ると【合格】の文字が殆どだった。
やはり道真公の天満宮はご利益があるのか?

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本殿の前の鳥居前には、『勧学御守』があるとの掛札が。

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これは珍しい狛犬。
よく見ると右手を顔の横で握り、その上に何か丸いものを乗せていた。
多分何か意味があるのだろう。今度寄ったときに聞いてみよう。

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境内には本殿、拝殿ほか多くの社殿が建つ。
現在の本殿・拝殿は、天保6年(1835)造立の下鴨神社から明治2年(1869)に移築したもので、幣殿と合わせて八棟造り、銅巻柿葺の豪華な建築というが見ることができない。


(参考資料による菅原道真公の紹介)
道真公は、延喜元年(901)、藤原時平の讒言により大宰府(福岡県)の大宰権帥(だざいごんのそち)に左遷される。
そのとき、庭の梅の花をご覧になり、

  『東風吹かば にほひおこせよ梅の花 主なしとて春なわすれそ』 

と詠まれた地である。
また、その梅の木は道真を慕って大宰府に飛んで行ったというここが「飛梅」の伝説地でもある。「飛梅」は人々により受け継がれ、鳥居の左側で毎年花を咲かせている。
菅大臣神社の北門から仏光寺通に出ると「天満宮降誕の地」の石碑が鳥居の横に、道を挟んだ向かいに「菅家邸址」の石碑がある。
「菅家邸址」の石碑には小さい字で「紅梅殿」とも書いてある。
「菅家邸址」の石碑から細い路地道を北に行くと「紅梅殿」の額を掲げた鳥居と小さな祠がある。道真の父是善(これよし)を祀る北菅大臣神社である。
この辺りに私塾「菅家廊下」や道真の書斎があったところで、後に紅梅殿と呼ばれるようになった重要な場所であるにも関わらず現在は民家と民家の間に挟まれた小さな祠と鳥居のみの哀れさである。
なお、菅原道真の誕生の地としている神社は、他に京都に、上京区の「菅原院天満宮神社」と南区の「吉祥院天満宮」の二つあるのは不思議なことである。
また、菅原邸は奈良にもあることを付け加えておきたい。






この項 <完>




by mo-taku3 | 2012-10-06 22:14 | (寺社)京都の神社仏閣 | Comments(2)

悲劇の崇徳上皇と【白峰神宮】とは。

悲劇の崇徳上皇と【白峰神宮】とは。



白峯神宮を語る前に、NHK大河ドラマ『平清盛』を見た方はお分かりと思うが、

『崇徳上皇』は保元の乱に敗れて讃岐に流されて、その地で歿している。
崇徳上皇が亡くなってから、天変地異が相次いだことから上皇の祟りとされ、瀬戸内の景勝地・五色台の白峰の山腹に上皇が葬られた白峯陵(香川県坂出市)があり、とその前に上皇を白峯大権現として祀る御影堂が建立されている。

その後、都で異変が続きこれが上皇の祟りとされたため、歴代天皇をはじめ公卿・武将が慰霊の誠を尽くし、多くの寄進の結果、最盛期は21坊を数えるほど興隆したとある。
その後、火災や兵火に遭うこともたびたびであったが、領主の生駒氏・松平氏によって再建されている。

明治2年(1869)明治天皇の勅命により、崇徳上皇の御霊は京都の白峯神宮に遷された。
幕末の動乱期、孝明天皇は異郷に祀られている崇徳上皇の霊を慰めるため、その神霊を京都に移すよう幕府に命じたが、その後間もなく崩御した。子の明治天皇がその意を継ぎ、現在地に社殿を造営し、慶応4年(1868年)、御影堂の神像を移して神体とし白峯宮を創建している。

更に、明治6年(1873年)には、藤原仲麻呂の乱に巻き込まれて淡路に配流され、そこで亡くなった淳仁天皇(淡路廃帝)の神霊を淡路から迎えて合祀し、官幣中社とした。昭和15年(1940年)に官幣大社に昇格し、神宮号の宣下を受けて白峯神宮となっている。

白峯神宮の創建は以上のような経緯となっている。

白峯神宮は堀川今出川にあり、過去は分からないが。現在のつくりは外から見るとこじんまりとしたつくりになっている。

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表門には駒札があり、「御由緒」が書かれてある。

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表門を入って右手には、この神宮の主役である崇徳上皇の碑があった。

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左手に社務所があり、ここでご朱印がいただける。

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白峯神宮の社地は、元は蹴鞠の宗家であった、お公家さんの飛鳥井家の屋敷の跡地である。
神宮ができた後、明治36年の蹴鞠保存会ができその石碑があった。

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この石碑には、撫で鞠がついており、これを一回しするとご利益があるとのこと。

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本堂が正面にあり、ここにお参りするとスポーツの必勝祈願になる。

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摂社の地主社に祀られる精大明神は蹴鞠の守護神であり、現在ではサッカーのほか、球技全般およびスポーツの守護神とされ、サッカーをはじめとするスポーツ関係者の参詣も多く、社殿前にはサッカーやバレーボールの日本代表チームや、Jリーグに所属する選手などから奉納されたボールなどが見られる。

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スポーツ上達の神様である精大明神には「地主社」が祀られているが、残念ながらお参りは、この摂社ではなく、本堂におまいりする人が殆どである。
本来、崇徳上皇の怨霊を鎮める目的の神社だが、今はスポーツの神様となっているようだ。
考え方を変えると、スポーツで明るさを取り戻したことで、崇徳上皇も大満足しているような気がする。

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また、武道の神様「伴緒社(とものうしゃ)」は、保元の乱で崇徳上皇とともに敗れた、源氏の棟梁であった、源為義とその子為朝が祀られている。

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(崇徳上皇とは)
崇徳天皇は幼くして、天皇になったがために、実権は常に父・鳥羽上皇が握り院政が敷かれており、しかも24歳の若さで天皇を退位させられてしまう。
その後も鳥羽法皇や後白河天皇に政治の主導権を握り続けられていた崇徳上皇は、この状況を打開すべく鳥羽法皇崩御を契機に左大臣・藤原頼長卿をはじめ平忠正や源為義といった武士を味方に付けて実権を握るべく、挙兵する(保元の乱)が、後白河天皇側に付いた平清盛や源義朝たちに敗れ、讃岐国への流罪に処しられてしまう。
讃岐国での崇徳上皇は仏教を厚く信仰し、極楽往生を願って五部大乗経の写経に専念し、出来上がったその写本を朝廷に奉納するが、「呪詛が込められているのではないか」との疑いを持った後白河法皇に受け取りを拒否されてしまう。
これに激しく怒った崇徳上皇は、自らの血で写経に呪詛の言葉を書き込み、夜叉のような姿となって1164(長寛2)年に無念の最期を遂げている。
その結果、都での異変が祟りと思われ、讃岐の白峯寺の建立や、孝明天皇の心情として、「異郷に祀られている崇徳上皇の霊を慰めるため」、崇徳上皇の御霊を京都の白峯神宮に遷された。となったのである。

歴史的に見て、怨霊が祟りとなったと見るケースが非常に多いが、その代表的なのは菅原道真の怨霊であろう。





この項 <完>

by mo-taku3 | 2012-09-30 14:27 | (寺社)京都の神社仏閣 | Comments(4)

京都くろ谷【金戒光明寺】とは

京都くろ谷【金戒光明寺】とは




金戒光明寺は知恩院と並ぶ、浄土宗の大本山である。
この2つのお寺は小高い丘の上にあり、戦略性に富んでいたこともあり、徳川家康は幕府を盤石なものにする為に、京都を直割地として二条城を作り所司代を置いたが、何かある時には軍隊が配置できるように黒谷と知恩院をそれとわからないような城構えとしていたという。

その家康の備えが、幕末になって京都の混乱を収めるため、京都守護職に抜擢された会津藩・松平容保にによって利用されている。
松平容保は幕末の京都の鎮静化のため1000名にも及ぶ藩兵の宿舎としてここに陣取っていることで証明されている。

その金戒光明寺に入るには、この高麗門を潜り抜ける。
この高麗門は、文禄・慶長の役が行われた1592年から1598年の間に造られ始めた城門である。
鏡柱と控柱を一つの大きな屋根に収める構造の薬医門を簡略化したもので、屋根を小ぶりにして守備側の死角を減らす工夫が施された。
このように、この門を置いただけでも、城塞化されていたのが分かる。

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金戒光明寺の駒札には、
金戒光明寺は、山号は紫雲山。本尊は阿弥陀如来。通称寺名をくろ谷さん(くろだにさん)と呼ぶ。知恩院とならぶ格式を誇る浄土宗の大本山の1つである・・・。とある。

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極楽橋、蓮池の駒札。
このお寺は、徳川家とかかわりがある。
春日局がお江のお墓を建立したり、三重塔を寄進したりしていること等からもわかる。

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山門のこの写真は、工事中の山門の前に張ってあった写真を写したものである。
中を見れなかったのは残念であるが、立派な門であることは確かなようだ。
出来上がったら、必ず見に行く予定にしている。

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境内と本堂。
本堂は御影堂といい、吉田寺の旧本尊と伝えられる「千手観音立像」を安置している。

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阿弥陀如来と龍の天井壁画。
慶長十年(1605年)豊臣秀頼により再建。当山諸堂宇中現存しているもので最も古い建物である。
恵心僧都最終の作、本尊阿弥陀如来が納められている。 如来の腹中に一代彫刻の使用器具が納められてあることから「おとめの如来」「ノミおさめ如来」と称されている。
また、他のお寺では、殆どが有料拝観となる、「龍の天井壁画」がいつでも見れるのはありがたい。

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熊谷直実の鎧掛の松。
直実の逸話として、以下のように伝えられている。
「一ノ谷の合戦」で、平家軍が源氏軍に押され敗走し始めた時、清盛の甥で平経盛の子、笛の名手でもあった平敦盛は、持ち出し忘れた愛用の横笛を取りに戻ったため退却船に乗り遅れてしまう。
敦盛は出船しはじめた退却船を目指し渚に馬を飛ばしますが、そこに源氏方の武将熊谷直実が通りがかり、
格式高い甲冑を身に着けた敦盛を目にすると、平家の有力武将であろうと踏んで一騎討ちを挑んだが、百戦錬磨の直実に敵うはずもなく、ほどなく捕らえられてしまった。
直実がいざ頸を討とうと組み伏せたその顔をよく見ると、元服間もない紅顔の若武者。名を尋ねて初めて、
数え年16歳の平敦盛であると知った。
同じ年の嫡男・直家をこの一ノ谷合戦で討死させたばかりの直実は、我が子の面影を重ね合わせ、この若武者を討つのをためらったが、これを見た同道の源氏諸将が訝しみはじめ、「次郎(直実)に二心あり。次郎もろとも討ち取らむ」との声が上がり始めたため、直実はやむを得ず敦盛の頸を討ち取ったのである。
これにより、世の無常を感じた直実は、ここ黒谷に法然上人を尋ね、方丈裏の池にて鎧を洗い出家した。

この時着ていた鎧をかけた松がこれである。(現在は二代目)

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浅井三姉妹のお江さんの供養塔と極楽橋

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修行僧で頭髪が伸びてしまった頭の大きさは一抱えほど。アフロの下に隠されたお顔は非常に穏やかなのだが、どうしてもそのフンワリモッコリとした頭に目がいってしまう。
これはれっきとした「五劫思惟像」と呼ばれる仏像である。
「五劫思惟」とは、阿弥陀如来が阿弥陀如来となる前に積んだ修行のこと。つまりこの修行の結果のアフロな仏様を表している。

非常に珍しい像だが、他のお寺でも見ることができる。が、その中でも特にこちらの五劫思惟像における、頭の立派さは有名である。
他のお寺のものより頭髪が異常に大きくて豊富なため、見応えは最高である。

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会津藩殉難者墓地。
松平容保が約1,000名の武士を連れて駐屯した地であり、ここには「鳥羽・伏見の戦い」で戦死した多くの武士が眠っている。

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八橋検校(やつはしけんこう)は、江戸時代初期の筝曲演奏家、作曲家で、京土産「八ツ橋」は、近世筝曲の開祖と呼ばれる「八橋検校」に由来している。
八橋検校は、ここ黒谷の金戒光明寺の塔頭・常光院に葬られている。

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この項 <完>

by mo-taku3 | 2012-09-10 23:19 | (寺社)京都の神社仏閣 | Comments(0)