カテゴリ:(寺社)関西の神社仏閣( 100 )

百濟寺の「本堂と鐘楼」20160423

百濟寺の「本堂と鐘楼」20160423


本堂は、入母屋造、檜皮(ひわだ)葺き。江戸時代初期、慶安3年(1650年)の再興である。中世以来の密教仏堂の形式を残しつつ細部には近世的特質の現われた建築で、2004年に重要文化財に指定されている。元来の本堂は現在地の裏手にあり、規模も大きかった。また、旧本堂の右方(南)には五重塔が建っていた。
本堂は室町時代の明応7年(1498)に火災にあい、文亀3年(1503)に兵火をうけ、さらに織田信長によって天正元年(1573)全山焼失しました。
その後天正12年に堀秀政により仮本堂が建立。
のち天海僧正の高弟亮算が入寺し、堂舎再興の勅許を得て諸国に勧進し、江戸時代の慶安3年(1650)現在の本堂が竣工。
かつての本堂は現在より少し山手の広大な台地に、金堂と五重の塔がありました。
現在の本堂は、一重、五間六間、入母屋造で正面中央に軒唐破風が付せられております。
金剛輪寺・西明寺の本堂よりもひとまわり小さいですが、天台形式の構造をもった均整のとれた建造物で、平成16年12月に文化庁より重要文化財の指定を受けました。
なお、外部の総高欄の擬宝珠に「百済寺本堂 慶安5年壬辰3月吉日」の刻銘があり、そのときにすべて完成したことを知ることができます。
内部に外陣と内陣とに引違格子戸を用い、内陣の厨子には、秘仏本尊の2.6mもある巨像の十一面観音立像(平安時代)を安置しております。


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鐘楼

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この項 <完>

by mo-taku3 | 2018-08-29 21:01 | (寺社)関西の神社仏閣 | Comments(2)

百濟寺の【仁王門と石段の参道】20160423

百濟寺の【仁王門と石段の参道】20160423


三山の中で百済寺の参道は、入口にあたる山門(赤門)から本堂までの長さが最も長い。
その参道の両側には老杉が林立し、支院跡の名残を残す苔むした石垣が続き、歴史の深さを感じさせられます

仁王門 (におうもん)長い参道の本堂近くに立つ仁王門は、本堂と同じ年代に建立されました。
三間二間で一対の金剛力士像が向きあっております。
その正面につり下げられた一対の大草鞋に触れると、身体健康・無病長寿のご利益があると昔から言い伝えられております。
最近では、「百寺巡礼」で有名な五木寛之氏が第35番目の百済寺参拝時に、この大草鞋に触れて、百済寺満願を達成されてから大変な脚光を浴び始めております。


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この項 <完>

by mo-taku3 | 2018-08-29 20:58 | (寺社)関西の神社仏閣 | Comments(2)

琵琶湖、湖東三山の一つ「百濟寺」20160423

琵琶湖、湖東三山の一つ「百濟寺」20160423


百済寺(ひゃくさいじ)は、滋賀県東近江市にある天台宗の寺院で、山号は釈迦山。
本尊は十一面観音。
寺伝によれば、開基(創立者)は聖徳太子で、推古天皇14年(606年)の建立という。
金剛輪寺、西明寺とともに「湖東三山」の1つとして知られる。境内は国の史跡に指定されている。琵琶湖の東、鈴鹿山脈の西側に位置しており、行くとわかるが古刹らしい古刹という感じである。
百済寺の史料上の初見は11世紀の寛治3年(1089年)であり、聖徳太子開基との伝承がどこまで史実を反映したものかは不明だが、百済寺という寺号から見てここは渡来系氏族の氏寺として開創された可能性が高い。
平安時代にはいり、近江国の多くの寺院と同様、天台宗の寺院となっている。
平安時代から中世にかけて、かなりの規模をもった寺院だったようだが、明応7年(1498年)の火災で全焼し、その数年後の文亀3年(1503年)の兵火でも焼け、この2回の火災で創建以来の建物ばかりでなく、仏像、寺宝、記録類なども大方焼けてしまった。
更に天正元年(1573年)には織田信長の焼き討ちに遭い、またも全焼している。
庭内には中世の石造品も多く残っている。
また、本坊庭園は別名「天下遠望の名園」と称されており確かに素晴らしい。
西方の借景は琵琶湖をかすめて、55km先の比叡山で、広大なパノラマ展望を望める。
百済からの渡来人が母国を偲ぶ気持ちで「遠望台」に立ったのであろう。



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この項 <完>





by mo-taku3 | 2018-08-29 20:56 | (寺社)関西の神社仏閣 | Comments(2)

近江の厳島『白鬚(しらひげ)神社』(琵琶湖)20160502

近江の厳島『白鬚(しらひげ)神社』(琵琶湖)20160502



白鬚神社は、滋賀県高島市鵜川の琵琶湖畔にある神社である。別称は「白鬚大明神」「比良明神」。 全国にある白鬚神社(300社弱)の総本社とされる。沖島を背景として琵琶湖畔に鳥居を浮かべることから、「近江の厳島(神社)」とも称される。
白髭神社の祭神は猿田彦命(さるたひこのみこと)で、社名からも分かるように延命長寿の神様である。また、福徳開運・縁結び・子授け・生児の名授け・交通安全・船舶安全等人生の全ての道案内の神として広く信仰を集めています。
近年ではパワースポットとしても知られており、実際に若い人達の参拝も多く、滋賀県内のパワースポットとしては注目度が急上昇している神社の一つです!
また、あまり知られていないようだが、この白髭神社の社殿背後の山の斜面には古墳群が存在しており、その古墳の一つの横穴式石室がそのまま岩戸社として祀られている、珍しい神社でもある。その岩戸社の隣にはパワーのありそうな磐座もあり、パワーを求める人がお参りしている。

白髭神社の境内には著名な歌人の歌碑が多数ある。
源氏物語の作者である紫式部の、「三尾の海に 網引く民のひまもなく 立居につけて 都恋しも」という歌が記されている。越前国主となった紫式部の父、藤原為時に従って越前に向かう途中、大津から船路で湖西を通り三尾崎(白鬚神社のある岬)の浜辺で漁をする人の網引く見馴れない光景に都の生活を恋しく思い詠んだものとされている。
また、与謝野鉄幹・晶子夫妻が大正元年にこの白髭神社を参拝した時に読んだ「しらひげの 神の御前にわくいずみ これをむすべば 人の清まる」の歌碑もありる。この歌は社前に湧き出る水の清らかさを詠んだもので、上の句は鉄幹、下の句は晶子が詠んだ合作という。
さらには俳聖・松尾芭蕉の「四方より 花吹入れて 鳰の湖」の歌碑もある。”奥の細道”のイメージが強い松尾芭蕉だが、実は近江で詠まれた歌が一番多い。芭蕉の生涯の作品数は980句と言われているが、そのうち奥の細道は52句に対し、近江で読まれた句は89句である。
芭蕉は晩年の2年程は現在の大津で過ごしたとされていて、それほど近江・琵琶湖の美しい風景が芭蕉の心を捉えていたようである。
現在の本殿は豊臣秀吉の遺命を受けた豊臣秀頼の寄進を受けて慶長8年(1603年)に建立されたもので、檜皮葺きで入母屋造りで桃山時代特有の建築様式を今に受け継いでいる。
白鬚神社は古くからここ近江だけにとどまらず、広く信仰されるようになり、勧請・分祀が全国各地で行われている。また鎌倉時代以降、武将たちの崇敬も盛んだったようで、古くからパワースポットとなっていたのかもしれません。

お参りの際、気をつけなければならないのは、水中鳥居と本殿との間には交通量の激しい国道があり、近くに横断信号がないのは危ないと思う。

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この項 <完>

by mo-taku3 | 2018-08-19 16:25 | (寺社)関西の神社仏閣 | Comments(2)

夜都伎神社(山辺の道)20170216

夜都伎神社(山辺の道)20170216



夜都岐神社は奈良県天理市にあり、山の辺の道沿いにある神社で、訪れる人も多い神社である。

祭神  建甕槌命(たけみかづちのみこと)
合祀  経津主神
・比売大神・天児屋根命

169号線から東に延びた参道があり、途中に朱の鳥居と「式内夜都岐神社」と刻まれた社号標が建っている。
その参道を突き当たりに、「山の辺の道ははるけく 野路の上に 乙木の鳥居 朱に立つ見ゆ」と刻まれた石碑があり、左手(北方)の入口には石の鳥居が立っている。
神社の境内は宮山(たいこ山)と呼ばれる前方後円墳である。
境内の中央には萱葺の拝殿があり、拝殿の後方に、朱の垣に囲まれて五つの社殿が鎮座している。
五つの社殿は中央が一番大きく、中央の大きな社殿が武甕槌命を祀る本殿。

乙木町には、春日神社と夜都岐神社の二社があったが、春日神社に夜都岐神社を合祀して、夜都岐神社と改称したらしい。

「夜都岐」の社号は「やつき」「やとき」「よとき」などと読まれるが、
「夜」は「於」の誤記であるとして、「おとき」が正しいという説もある。
鎮座地が、乙木であることから、説得力のある説ではある。

(二の鳥居手前の説明板)

「天理市乙木町の北方、集落からやや離れた宮山(たいこ山ともいう)に鎮座し俗に春日神社といい春日の四神を祀る。
乙木にはもと夜都岐神社と春日神社の二社があったが夜都岐神社の社地を竹之内の三間塚池と交換、春日神社一社にし社名のみを変えたのが現在の夜都岐神社である。当社は昔から奈良春日神社に縁故深く明治維新までは当社から蓮の御供と称する神饌を献供し春日から若宮社殿と鳥居を下げられるのが例となっていると伝える。
現在の本殿は、明治39年(1906年)改築したもので春日造檜皮葺高欄浜床向拝付彩色7種の華麗な同形の4社殿が末社の琴平神社と並列して美観を呈する。
拝殿は萱葺でこの地方では珍しい神社建築である。鳥居は嘉永元年(1848年)4月奈良若宮から下げられたものという。」


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この項 <完>






by mo-taku3 | 2018-08-19 00:36 | (寺社)関西の神社仏閣 | Comments(2)

「日本武尊」を祀る近江の国一之宮『建部大社』20150817

「日本武尊」を祀る近江の国一之宮『建部大社』20150817



建部大社は古来建部大明神などと称え、延喜式内名神大社に列し、又近江国の一之宮として崇敬篤く、長い歴史と由緒を持つ全国屈指の古社である。

主祭神である「日本武尊」であるが、わずか16才にて熊襲を誅し、更に東夷を平定され、遂に32才にして伊勢の能褒野にて没したとある。日本武尊の功名は日本書記に記されている。

(資料によると)「景行天皇の四十六年神勅により御妃布多遅比売命(父は近江安国造)が、御子稲依別王と共に住われた神崎郡建部の郷(御名代の地)に尊の神霊を奉斎されたのが 当社の草創であって、その後天武天皇白鳳四年当時近江国府の所在地であった当瀬田の地に迂祀し、近江一之宮として崇め奉ったのが現在の当大社である。」とある。
(更に続く)「歴朝の御尊信篤く、武門武将の崇敬枚挙に遑なく、就中源頼朝は、 平家に捕われ、14才にして伊豆に流されるため、京都から関東に下向の折、永歴元年(1160年)320日当社に参篭して前途を祈願した事が平治物語に記されている。頼朝は遂に源氏再興の宿願成って、建久元年(1190年)11月右大将として上洛の際再び社前に額き襄年蒙った深い神助に対し、幾多の神宝の神領を寄進して奉賽の誠を尽されたのである。爾来当大社が出世開運、除災厄除、商売繁昌、縁結び、医薬醸造の神として広く崇敬される所以であり、 明治18年四月官幣中社に、同327月官幣大社に列し、国家最高の社格を与えられた。」とある。

場所は瀬田駅の南西2Km、石山駅の南東2Km。東西に走る道路から、少し北へ入った所に鎮座している。



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この項 <完>




by mo-taku3 | 2018-08-18 22:43 | (寺社)関西の神社仏閣 | Comments(2)

宇奈多理高御魂神社(平城京横)20180808

宇奈多理高御魂神社(平城京横)20180808


平城京の東院庭園に隣接して「宇奈多理高御魂神社」というのがありました。
神社略記が乗っていましたのでそのまま掲載します。

「宇奈太理坐高御魂神社略記」

鎮座地 奈良市法華寺町六百番地
御祭神 三座
高御魂尊(中座)
 高天原にましました神で天御中主尊と神産日尊と共に造化の三神として御徳極めて高く鎮
 魂の神であらせ給う。高天原に大事ある毎に主長として諸神を率いて事に当たり、常に天照
 大神を助け、八百万の神を指揮し給うた神
天太玉命(東座)
 高御魂尊の御子、神事を掌給う神で天岩戸の祈祷のとき、その御前で太玉串を捧持され祭
 祀を以て天照大神にお仕え遊ばされた神
思兼命(西座)
 高御魂尊の御子。数多くの思慮を一身に兼ね持ち給うたと言う意で高天原に大事あった時
 必ず画策して事ならなかったことは無いと言う。
由緒
 延喜式内の大社で月次・相嘗・新嘗の幣に預かっていた。古文書では宇奈足とも菟足とも書いている。武内宿禰の勧請と伝えられ「日本書紀」によると持統天皇六年(692)二月には新羅の調を伊勢住吉紀伊大倭菟名足の五社に奉るとある。その一社でこの神社の神戸は正倉院文書の天平2年(730)大振る税帳新抄格勅符抄に載っているが、何れも神名は菟名足となっている江戸時代には楊梅神社と呼ばれたこともあり、いま「うなたり社」とか「西の宮さん」とか言っているのは近郷だけでの通称の略称である。本殿は室町時代初期の建築遺構を残し、三間社流造檜皮葺で国指定の重要文化財である。境内一帯は平城天皇の楊梅宮址とか春日斎宮の斎院址とかの学説もある。
境内社
 みな天孫降臨に随従された神々を祀る
天鈿女命社
 天岩戸の前で神楽を舞い天孫降臨に随従された女神、芸能の祖神
猿田彦命社
 天孫降臨の時先頭に立って八街の邪神を祓い交通安全に導かれた神
手力男命社
 天岩戸の変の時岩戸を開いて天照大神を助け申し上げた力の強い神で天孫降臨に随従さ
 れた神
大宮媛命社
 太玉命の御子、天照大神に仕え世を平和に導かれた神
豊岩窓命社
 御門の神、天孫降臨のとき天照大神の勅を承り、思兼命、天力男命と共に豊葦原に降り給
 うた神

(以上、社頭の説明文)


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この項 <完>





by mo-taku3 | 2018-08-08 18:20 | (寺社)関西の神社仏閣 | Comments(2)

滋賀「岩間寺」(ボケ封じの寺)20180628

滋賀「岩間寺」(ボケ封じの寺)20180628



この歳になってくると「ボケ」が気になってきますが、西国12番札所の岩間寺に詣でたとき、このお寺が「ボケ封じ」のお寺でもありました。
このお寺では観音様の前に仏足石がおかれ、仏足石の下にはボケ封じ寺のお砂をうめその上に乗って目をつむりふらつかなければ…とありました。

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この項 <完>






by mo-taku3 | 2018-06-28 12:59 | (寺社)関西の神社仏閣 | Comments(2)

手向山八幡宮(東大寺)20180613

手向山八幡宮(東大寺)20180613



手向山八幡宮の創建は古く、聖武天皇が東大寺の大仏を建立するにあたり、全国の八幡総本宮である大分の宇佐八幡宮よりに東大寺の守護神として迎えたことがその創建の由来となっている。

創建当初の神社は、平城宮南の「梨原宮」と呼ばれる場所に建立されたとされており、その確実な位置は不詳だが、現在の「宮跡庭園」と呼ばれる遺跡周辺にあったとも推定されている。

神社はその後東大寺大仏殿の南側(鏡池周辺)に移転後、 治承4年(1180年)には平重衡らによる「南都焼討」の被害を受け焼失した。その後、鎌倉時代の建長2年(1250年)に、執権北条時頼により現在の位置に再建されたと言われている。

その後は長らく神仏習合体の東大寺の守護神(鎮守神)としての役割を果たしていたが、明治に入り神仏分離令により、東大寺から独立し、現在に至っている。

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この項 <完>





by mo-taku3 | 2018-06-13 15:52 | (寺社)関西の神社仏閣 | Comments(0)

東大寺「南大門・大仏殿・二月堂」他堂宇20180613

東大寺「南大門・大仏殿・二月堂」他堂宇20180613



奈良へは興福寺の南円堂の西国札所のご朱印をいただきに行きました。
それが終わった後、奈良の寺社を散策し東大寺を訪れてきました。
興福寺の駐車場に車を入れて、東大寺の人でごった返す南大門を抜けて、大仏殿の前まで行きここも人込みを避けて二月堂方面にまわり、日本一の鐘楼を見て行基堂などの堂宇、二月堂及び閼伽井屋の若狭井・法華堂(三月堂)・四月堂から手向山八幡宮・若草山を回ってきました。
このルートは落ち着いて回ることができ推奨できます。
大仏殿は来るたびに見ているので今回はやめています。

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この項 <完>





by mo-taku3 | 2018-06-13 15:24 | (寺社)関西の神社仏閣 | Comments(0)