相変わらず賑わう「浅草寺」境内20181112

相変わらず賑わう「浅草寺」境内20181112



浅草寺は東京で一番、観光客で混むところではないかと思う。
東京だから歴史は浅いと思ったが意外と古く、全国的にも古いお寺の一つの様だ。
浅草寺に行くと誰もが最初に行くのは「雷門」だろう。実は私もかならず詳細に眺めてくるようにしている。というのも、実は京都に住んでいる関係で古いものはよく目にするが、この提灯の作成・メンテは京都の家の近所のT提灯屋さんでやっているのがわかったからだ。この日も下からよく眺めてきた。

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この項 <完>






by mo-taku3 | 2018-12-08 15:48 | (寺社)全国の神社仏閣 | Comments(0)

金前寺(敦賀)と芭蕉の碑20160416

金前寺(敦賀)と芭蕉の碑20160416



福井県敦賀市にある金前寺(こんぜんじ)は奈良時代創建の古刹で、天平6年(736年)に聖武天皇の勅命によって泰澄大師が十一面観世音菩薩座像を刻み、寺を建立して本尊として祀ったことに始まる。
金前寺の名称は、天皇から下賜された金光明経を金櫃に納めて山に埋めたことにちなんで金ヶ崎山・金前寺と名付けられたという説と、本尊の「十一面観音菩薩」が金光を発することから名付けたとも言われている。
また記録には、古くは氣比神宮の奥の院として一帯に伽藍十二坊を有するほど荘厳であり、平安時代の弘仁2年(811年)には弘法大師(空海)が訪れたという記録もある。
中世の南北朝時代には延元元年~2年(13361337年)にわたる金ヶ崎の戦いの本宮となり、南朝方の新田義貞が後醍醐天皇の皇子・恒良親王と尊良親王を奉じて北朝方と戦い、敗走した新田義貞の長男の義顕は当山の観音堂にて尊良親王と共に自害したとされる(親王の慰霊碑あった)。
また、戦国時代にも再び兵乱の舞台となり、織田信長の天筒山攻めの兵火によって堂宇を全焼したものの、本尊の十一面観世音菩薩像は焼失を免れている。
その後、江戸時代の寛文2年(1662年)に打宅宗貞らが現在地に観音堂を再建し、元禄12年(1689年)に俳聖・松尾芭蕉が「月いづこ 鐘は沈る 海の底」と詠み、宝暦11年(1761年)に鐘塚を建立したとされる。
近代以降は、昭和20年(1945年)712日の敦賀空襲によって一切を焼失したが、昭和63年(1988年)に信徒の浄財によって本堂を再建して現在に至る。


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この項 <完>

by mo-taku3 | 2018-08-29 21:46 | (寺社)全国の神社仏閣 | Comments(2)

土佐神社(土佐一宮)と鴨社(高鴨神)とは?20171213

土佐神社(土佐一宮)と鴨社(高鴨神)とは?20171213



四国霊場30番札所である「善楽寺」に参拝した折、隣にこの土佐神社があった。
この神社は古事記にも続日本紀にも登場登場しており、しかも内容が異なる記述となっているミステリアスな神社のように思えてくる。
しかし共通しているのは、鴨社の総本宮である奈良御所市にある「高鴨神社」と深い関係があるようだ。
土佐神社のホームページの由緒には、
土佐神社の創祀については、明らかでありませんが、境内東北方の礫石と呼ばれる自然石を磐座として祭祀したものと考えられ、古代に遡ると言われています。
延喜の制が布告された平安時代、醍醐天皇の御代には式内大社に列せられ都佐坐神社と称され、特に皇室の崇敬あつく勅使の参向もしばしばあり、朱雀天皇の御代天慶三
(940)年には、神階を正一位に進ませられています。
鎌倉時代初頭には神仏習合時代に入り、土佐国総鎮守一宮とされました。当社・神宮寺・善楽寺にて一宮を形成、土佐高賀茂大明神と称えられました。
室町時代には、武門の崇敬あつく、正親天皇の御代元亀元
(1570)年には、長宗我部元親が、本殿、幣殿、拝殿を再興、安土桃山時代後陽成天皇の御代、慶長六(1601)年には、山内一豊が封をこの地に享けると共に以前の社領を免許し、二代忠義に至って摂社、末社を始め、鳥居、楼門、鼓楼を増築して、土佐の国最上の祈願所としました。
明治元年、神仏分離令により、永年続いた神仏習合時代が終わり、明治四年には土佐神社と改称、社格を国幣中社に列しました。戦後、昭和二十一
(1946)年官国幣社の制度が廃止され、現在では神社本庁の別表神社とされています。」とあります。

ここには載っていないが、雄略天皇の時代葛城氏との確執があったのか、葛城一族と目される鴨氏を土佐に流したのではないかとも思われる。この時鴨氏の一派は大和を追われ、京都・上賀茂に鴨社を建てたのではないかと、勝手に想像してみた。
また御所市に残った鴨族は厳しい環境下にあったように想像する…。
(調査は今後も進めてみたいと思っている。)

祭神は味鋤高彦根神と一言主神とあるが、鴨氏により古来より大和葛城の里にて祀られる神である。

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この項 <完>





by mo-taku3 | 2017-12-13 10:30 | (寺社)全国の神社仏閣 | Comments(2)

清正公堂(覚林寺)20170922

清正公堂(東京;覚林寺)20170922


覚林寺は、小湊誕生寺十八世可観院日延が開山となり寛永8年(1631)に創建したといいます。可観院日延は、朝鮮の王族出身ですが、豊臣秀吉の朝鮮出兵の際に加藤清正に捕えられ、後小湊誕生寺十八世となり、当地に隠居、当寺を創建したといいます。当寺では加藤清正を祀った清正公堂が著名で、毎年五月四日五日の両日に行われる清正公大祭には人生の苦悩に打ち勝つお守りとして「しょうぶ入り御勝守」が授与されるという他、軍神の毘沙門天を祀っており、山手七福神の一つとなっています。


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この項 <完>





by mo-taku3 | 2017-09-22 16:30 | (寺社)全国の神社仏閣 | Comments(2)

泉岳寺と赤穂浪士20170922

泉岳寺と赤穂浪士20170922



赤穂浪士の泉岳寺に行ってきました。
30年位前の印象とかなり違って、きれいに整備されたせいか、かなり広く感じました。平日でもかなりの人で、外人さんも多くみられました。

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この項 <完>






by mo-taku3 | 2017-09-22 15:30 | (寺社)全国の神社仏閣 | Comments(2)

寅さんの柴又帝釈天20170528

寅さんの柴又帝釈天20170528


寛永年間(1629年)の開山とされ、柴又七福神の一つ毘沙門天としても有名。安永8年(1779
年)に、本堂改修中の梁上から日蓮聖人作とされる帝釈天のご本尊が発見された。その日が庚申(かのえさる)であったことから、庚申の結縁の始まりとされ、庚申の日には縁日が行われ、現在も「庚申まいり」には大勢の人出で賑わっている。

それよりもこの帝釈天を有名にしたのは何といっても寅さんの「男はつらいよ」でしょう。

ロングランの映画で、渥美清の寅さんと一作ごとのマドンナ。それと妹さくらの倍賞千恵子などが繰り広げる悲喜劇。

ロケも実際のこの帝釈天と参道のお店(現存の高木屋老舗)とフル活用されている。

その帝釈天に行ってきた。

京成上野駅から京成高砂で3駅しかない京成金町線に乗り換え柴又駅に着いた。

柴又駅で昔からの仲間二人と待ち合わせしたが、寅さんとさくらさんが出迎えてくれた。

ちょっと驚いたのはここは日蓮宗のお寺で正式名称は経栄山 題経寺ということだった。

大変な人出であった。


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この項 <完>





by mo-taku3 | 2017-05-28 11:01 | (寺社)全国の神社仏閣 | Comments(1)

阿波一宮「大麻比古神社」20170430

阿波一宮「大麻比古神社」20170430


四国霊場八十八ヶ所の一番札所「霊山寺」を出てすぐにこの神社がある。

大麻比古神社(おおあさひこじんじゃ)は、阿波一宮神社で、通称「大麻さん」とも呼ばれているようだ。
この神社は、以前は阿波国・淡路国両国の総鎮守としてあったが、現在は徳島県の総鎮守として信仰を集めている。
この神社の境内は大麻山県立自然公園に指定されており大きな木々に囲まれ、特に境内のある神木「大楠」は樹齢1000年以上と言われ鳴門市の天然木根物に指定されている。
さて、社伝によれば、
「神武天皇の御代、天太玉命の御孫の天富命が阿波忌部氏の祖を率いて阿波国に移り住み、麻・楮(こうぞ)の種を播殖してこの地を開拓、麻布木綿を生産して殖産興業と国利民福の基礎を築いたことにより祖神の天太玉命(大麻比古神)を阿波国の守護神として祀った。」
のが始まりだと伝えられている。


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この項 <完>





by mo-taku3 | 2017-05-01 10:40 | (寺社)全国の神社仏閣 | Comments(2)

若狭一ノ宮社の「神宮寺」(東大寺お水取り)20160811

若狭一ノ宮社の「神宮寺」(東大寺お水取り)20160811


神宮寺という名はよく聞く名前である。
神宮寺とは、辞書を引くと、
「神社に付属して建てられた寺院。神仏習合思想の現れで,社僧(別当)が神社の祭祀さいしを仏式で挙行した。1868年(明治1)の神仏分離令により廃絶または分離。宮寺。別当寺。神護寺。神宮院。神願寺。」
とある。
なるほど、~宮寺や、京都の高雄にある神護寺もそのようである。
現在残っているのは神仏分離令により分離されたお寺ということになる。
このような話は非常に興味があるので調べてみると、約800年間続いた平氏に始まる武家の社会から明治維新になり公家が統治する社会になったことにより、いの一番にこの「神仏習合思想」を排除した「神仏分離令」が出され、廃絶に追い込まれた仏寺は数多くあり、分離された仏寺も補助が打ち切られ檀家による細々とした存続が図られていたようである。
この他、廃藩置県・廃刀令など武家統治の解体を進める一方、明治神宮・橿原神宮・平安神宮などを建立し、昭和になっても近江神宮が造られている。
何故にこのようになったかというと、公家を中心とした宮廷政治が武家政治になってから800年間耐え忍んだ結果ということのようだ。
この中心となった、明治天皇はじめ三条実美・岩倉具視を中心とした藤原氏の流れを汲む多くの公家の爆発と云っていいのではないかと思えてきた。

さて、前置きが長くなったが、この「若狭神宮寺」は、福井県小浜市神宮寺町にあり、天台宗のお寺である。
本は「尊薬師如来坐像」、重要文化財として[本堂 仁王門 男神・女神] 大膳院 椎の木が認定されている。
若狭の小浜にある神宮寺は元明天皇の和銅7年の創建とされたとある。
寺伝によると遠敷明神(若狭彦命)の直孫和朝赤麿公が 金鈴を長尾明神と祀り鈴応山神願寺を創建し、翌年勅願寺となったことに始まるといわれている。
その後、若狭彦姫神を根来白石より迎え神仏両道のお寺としたとあり、更には鎌倉時代に神願寺は遠敷明神上社(若狭彦)と遠敷明神下社(若狭姫)の 別当寺となり、神宮寺と改称したとされている。

さて、仁王門は歴史を感じさせる威風堂々とした構えである。
寺域はかなり広かったと見え、現在のお寺の入り口からは500m位離れたところにあり、畑の中を一本道で繋がっている。
鎌倉時代に製作され、切妻造り二軒和様八脚門といわれ重要文化財に指定されている。

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神宮寺本堂;室町時代・重要文化財
明治4年の国家神道により若狭彦神社は国幣社となり、境内にあった遠敷明神社は神仏分離令により取り壊された。
しかしながら、 現在の本堂の内陣には、中央正面と左側は須弥檀になり薬師如来を本尊として仏像が並んでおり、右側は壁面で、 この壁面は勧請座(影向座)といわれ神号掛軸3福が掛かっている。
神仏分離令を如何にして回避したのであろうか。多分氏子・檀家・じしゃの神職・僧侶などの並々ならぬご苦労があったと思われる。
この本堂は重要文化財で、天文22年に朝倉義景が再興したといわれている室町時代の堂々たる大建築で、説明によると和様を主体に木鼻に天竺様繰形、唐様束梁などの珍しい技法を用いている。
本堂内で二拍一礼でお参りするのは、この寺だけだとのことであり、本堂入口には"しめ縄"が張ってあるのは特異な存在である。

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閼伽井戸(あかいど)
根来白石の神童が長じて東大寺開山堂の良弁僧正になった繋がりから、奈良二月堂のお水取り行法の水は若狭井(東大寺)の水が 使われており、この水は神宮寺の閼伽井戸(あかいど)の水を3月2日に遠敷川(おにゅうかわ)の上流2kmの鵜之瀬へ流すこと(水送り)で 3月12日に若狭井(東大寺)に到達するといわれている。

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スダジイの木は天然記念物で樹齢推定500年と云われている。
幹周り6.4m 高さ18mもある。

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和様唐様天竺様折衷茶室
萱葺き屋根がいい。中は6畳茶室・囲炉裏のある8畳間となっている。
事前に予約をすれば使わせてもらえるようだ。

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苔芝が見事な庭園。

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催事の後。

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この項 <完>

by mo-taku3 | 2016-08-11 15:30 | (寺社)全国の神社仏閣 | Comments(2)

若狭一ノ宮本宮「若狭彦神社」20160811

若狭一ノ宮本宮「若狭神社」20160811


「若狭彦神社」は若狭国一宮である。ここは本宮で上社であり「若狭姫神社」が下社となり併せて若狭一の宮「若狭神社」となる。
御祭神は若狭彦大神(彦火火出見尊)である。
この神社は福井県小浜市にあるが、若狭の国と云えば古代の歴史的には大和との繋がりがあり、天皇の系統が途絶えた時にも継体天皇を招いていることもあった模様である。

さて、上社である若狭彦神社は、和銅7年(714)9月10日、遠敷郡下根来村白石に創建され、元正天皇霊亀元年(715)9月10日、現在地へ遷座したと資料にはある。
また、一説には、小浜市泊の村の裏山に上下両社の神が垂迹(すいしゃく;仏・菩薩(ぼさつ)が人々を救うため、仮に日本の神の姿をとって現れることをいう。)し、のち遠敷へ移られたとして、泊に元宮と称する若狭彦姫神社が今もってある。
古来、若狭彦神社(上社、上宮)を若狭国一宮とし、若狭姫神社(下社、下宮)を二宮とされて来たが、現在は、2社で若狭国一宮・若狭彦神社と称している。
室町以降は、祭祀の中心が下社中心となり、現在の神事もほとんど下社で行われている。
御朱印帳も下社だけで扱っている。

境内入口。境内入口は東向きとなっている。

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一の鳥居をくぐって直ぐ左手に「日本全国パワースポット」の表示がある。

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左右に木々が生い茂る暗い参道の途中には、大杉だけの二之鳥居がある。

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随神門には、左右に四体づつの随神(随身)像が安置されており、祭神に随身した眷属八人を象徴しているようだ。

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ご由緒の説明と社務一切は下社(若狭姫神社)で取り扱う旨が書かれている。

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境内に入ると、四角に囲まれた場所があり、その場所が、昭和四十年に倒壊した拝殿跡だという。

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神門と本殿。

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神門から見た本殿。

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神門の前には、根元から二股に分かれた夫婦杉が聳えている。

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この項 <完>

by mo-taku3 | 2016-08-11 15:00 | (寺社)全国の神社仏閣 | Comments(2)

若狭一ノ宮「若狭姫神社;下宮」20160811

若狭一ノ宮「若狭神社;下宮」20160811



「若狭姫神社(下社)」は「若狭彦神社(上社)」と併せて若狭国一の宮と云われている。
御祭神は若狭姫大神 (豊玉姫命)である。

下社にあたる若狭姫神社は、上社(和銅7年(714)9月10日)に遅れること数年、元正天皇養老5年(721)2月10日、上社より分祀し、若狭姫大神とした。
上社祭神の若狭彦大神同様、若狭姫大神の姿も唐人のようであったといい、眷属が八人。
一説には、現小浜市泊の村の裏山に上下両社の神が垂迹し、のち遠敷へ移られたとして、泊に元宮と称する若狭彦姫神社がある。

古来、若狭彦神社(上社、上宮)を若狭国一宮とし、若狭姫神社(下社、下宮)を二宮とされて来たが、現在は、2社で若狭国一宮・若狭彦神社と称している。
室町以降の祭祀は下社中心となり、現在の神事もほとんど下社で行われている。
下社は女神を祀っており、安産育児に霊験があるらしい。
境内には子種石とよばれる陰陽石、乳神様とよばれる大銀杏などもある。

境内入口。

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一之鳥居。

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御由緒の駒札。

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海上交通の安全祈願の神社だったのでしょう。

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見返り鳥居。
境内入口の鳥居は、「見返り鳥居」ともよばれ、参拝を終え、帰路につく時に、ここで振り返り、この千年杉に別れを告げる。

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社殿の垣の前、千年杉の下に千年杉を見上げる場所があり、
上を見上げて、健康長寿・子孫繁栄を祈る。

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随神(身)門。
上社・若狭彦神社同様、左右に四体の随神像が窮屈そうに肩を寄せ合っている。
こちらも、祭神に随身した眷属八人を象徴しているのだろう。

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随神門の中には「遠敷神社」の神額がありそう呼ばれていたのだろう。
駒札には海幸山幸神話で有名な「豊玉姫命」を若狭姫神としてたたえ、「若狭姫神社」とも呼ばれたとも書かれている。

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御神徳の一つ「安産育児」の説明板。

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神門と本殿

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本殿

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御神木の千年杉。
千年杉の下に千年杉を見上げる場所があり、上を見上げて、健康長寿・子孫繁栄を祈る。

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鯖街道のシンボル石灯籠。

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この項 <完>

by mo-taku3 | 2016-08-11 14:10 | (寺社)全国の神社仏閣 | Comments(2)