丹波古刹第5番「石龕寺(せきがんじ)」20180711

丹波古刹第5番「石龕寺(せきがんじ)20180711



石龕寺(せきがんじ)の縁起 (石龕寺駒札より)は、
寺伝によると、用明天皇の丁未の年(587)聖徳太子の開基と伝えられ、聖徳太子が深く帰依した毘沙門天を本尊としている。

鎌倉から室町にかけて隆盛、足利尊氏とその子義詮がこの地に身を寄せたことが記されており、当寺が足利氏とゆかりが深い事が伺える。

その後このお寺も他の古刹と同じように、明智光秀の丹波侵攻(16世紀末)の際、山門を除いて伽藍悉く灰儘に帰しており、以来歴代住職・檀家や信徒の尽力により復興されてきた。

寺号の「石龕(せきがん)」とは、仏像などを安置する石窟を意味する。本堂から登ること約800mの先に奥の院があり、その石窟が石龕寺の寺号の由来となっているという。
慧日寺は長い杉並木の参道であったが、ここ
石龕寺は常勝寺と同じく長い階段の上に本堂がありその左手に薬師堂があった。
ここの本尊は「毘沙門天王」である。


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この項 <完>





by mo-taku3 | 2018-07-18 14:37 | (巡礼)その他 | Comments(2)

丹波古刹第4番「常勝寺(じょうしょうじ)」20180711

丹波古刹第4番「常勝寺(じょうしょうじ)20180711



「丹波古刹第4番 常勝寺」は、法道仙人が大化年間(645~650年:孝徳天皇の御代)に七堂伽藍が建てられたのがはじまりと言われている。
その後、本堂および諸堂が建てられたが兵火や火事で喪失してきた。その中でも、明智光秀による丹波せいとう侵攻(1575年)での影響は大きく、伽藍悉く灰儘とかしたとある。
元禄十年(1697年)良海法印によって本堂が修復された。御本尊は千手観世音菩薩(秘仏)。毎年211日に行われる鬼こそには「家内安全」「無病息災」を願う参拝客で賑わう。桜、紅葉、石段脇の石仏など、四季の情趣に恵まれた丹波の古刹の山寺である。
さて、お寺の入口は仁王門となる。この門から上を見上げると350段の長い石段となっており、その先が本堂になる。参道の石段の中ほどに、本坊(慈眼院)がありご朱印はここにあるので、一瞬悩むが、もう一度気合を入れててっぺんの本堂をめざす。
本堂にたどり着くと晴れ晴れしさが後から起こってきたのが気持ちいい。


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この項 <完>





by mo-taku3 | 2018-07-18 13:30 | (巡礼)その他 | Comments(2)

丹波古刹第3番「慧日寺(えにちじ)」20180711

丹波古刹第3番「慧日寺(えにちじ)20180711



「丹波古刹十五ヶ寺霊場」というのがあり、2003年にこの集印帳(朱印帳)手に入れたようだ。手に入れた経緯は覚えていないがこの年にこの中の2つのお寺に行っているのでその時だと思う。

今回、この霊場の第3番「慧日寺」、第4番「常勝寺」、第5番「石龕寺」に行ってきた。

さすが古刹だけあって歴史を感じさせる。こんな立派なお寺があったとは…。

まず、丹波古刹第3番「慧日寺」に行ってきた。このお寺は、篠山川沿いに建つ臨済宗の寺である。室町時代、1375(永和元)年に(管領)細川頼之(よりゆき)・頼元により建立された。

一本山として末寺46カ寺、塔頭(たっちゅう)16坊が存在したと伝えられる。

しかし、1575(天正3)年に明智光秀の丹波征討の兵火にあい焼失する。しかし、寛永年間(162444)・慶安年間(164852)に再建が進められ、現在の仏殿・方丈・鐘楼などは元禄年間(16881704)以降、(一説によると1718(享保3)年)に再建されたものという。

7通保管される朱印状は寺領確認を示しており、徳川8代将軍吉宗より14代将軍家茂まで7代に渡って下付されたものである。
現在は、山を背景にした本堂の立派な茅葺き屋根や庭園が、のどかな風情を醸し出している。更にお寺では整備を進めてきており、境内はきれいに整備されており非常に気持ちがいい。



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この項 <完>





by mo-taku3 | 2018-07-18 13:00 | (巡礼)その他 | Comments(2)

丹波古刹第9番札所「高源寺」(福知山)20171018

丹波古刹第9番札所「高源寺」(福知山)20171018



丹波古刹第9番札所の高源寺は、1325年(鎌倉時代)に遠谿祖雄(えんけいそゆう)禅師によって開創された、臨済宗中峰派(幻住派ともいいます)の本山です。

甲斐(山梨)の栖雲寺(せいうんじ)が東天目と呼ぶのに対して、高源寺は西天目(にしてんもく)と呼ばれ、丹波屈指の名刹として知られています。
開山の遠谿祖雄禅師は、当地青垣町の遠坂地区にあった山垣城の城主足立遠政公の孫の光基(みつもと)の三男です。
遠谿祖雄は、幼少の頃より出家し、1306年に中国に渡り、杭州天目山の中峰国師のもとで約10年修行をして悟りを開きます。そして、帰国後、霊夢で得た天目山に似た佐治郷小倉に堂宇を創建します。
1326
年には後醍醐天皇より高源寺号を賜り、また後柏原天皇の代には、勅願所の礼遇を許され、住職は末代紫衣の宣旨を受けました。そして、全国に末寺を持つ大本山となりました。
しかし、天正年間、織田信長の丹波攻略で建物をことごとく焼失しました。その後、享保の始めに天岩明啓(てんがんめいけい)禅師が再興し、1799年には、弘巌玄猊(こうがんげんげい)禅師が柏原藩の援助を得て再び再建し現在に至っています。
建物は現在、惣門・山門・仏殿・方丈・鐘堂・多宝塔などがあります。
また、ここは関西花の寺になっており紅葉の名所としても知られています。折角の紅葉は残念ながらまだ早くもう年内に一度来てみたいと思っています。



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この項 <完>





by mo-taku3 | 2017-10-18 14:50 | (巡礼)その他 | Comments(2)