長宗我部元親墓所・関連遺跡20171213

長宗我部元親墓所・関連遺跡20171213



長宗我部元親と聞いて四国の雄とわかる方は少ないかもしれない。しかし元親は土佐から起こり、土佐を平定し更に四国を統一している。
時代は安土・桃山時代で、四国統一後すぐに豊臣秀吉の四国征伐により、降伏し土佐一国(9.8万石)で秀吉の外様大名となっている。
その後秀吉の九州征伐・小田原攻めにも従軍し、朝鮮にも遠征している。
関ケ原の役で元親の四男・盛親は西軍に付いたことから領地没収となり、その後に山内一豊が土佐を収めることになった。

さて面白いのは、元親の母及び妻は美濃の斎藤氏から輿入れしている。多分時代背景からすると母は斎藤道三の娘の可能性がある。それでも織田信長からの評判は良くないようだ。

今回は偶然墓所の案内表示があったので寄ってみたが、お墓は階段のかなり上の方にあるようなのでそこまでは上らなかった。それでも機会があればまた行ってみたいと思っている。

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この項 <完>






by mo-taku3 | 2017-12-13 10:09 | (歴史)全国史 | Comments(2)

坂本龍馬生誕の地20171212

坂本龍馬生誕の地(高知)20171212



高知(土佐)と言ったら坂本龍馬の生家を訪ねる必要があります。(笑)
ということで成果があった場所に行ってみました。
写真のような石碑が建っており、高知出身の吉田茂の揮毫した ものだそうです。
また、裏通りには「龍馬の生まれたまち記念館」があり、展示館機能と公民館機能を合わせ持つ、全国的にも珍しい施設となっております。
ちょっと気になったのは、龍馬は郷士と聞いていましたが意外と高知城に近いのには驚きでした。


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この項 <完>





by mo-taku3 | 2017-12-12 16:25 | (歴史)全国史 | Comments(2)

山内一豊とお千代さん20171212

山内一豊とお千代さん20171212



山内一豊は戦国・安土桃山時代の武将で信長、秀吉、家康の三人に仕えています。

一豊は金ヶ崎の朝倉攻めや姉川の戦において活躍している猛将だったようです。

秀吉から掛川城を城主として預かり、関ヶ原の役で東軍に付いた一豊が戦後、土佐24万石を家康から拝領しました。

この間妻・千代が果たした内助の功があったことは否めません。その逸話は、以下の通りです。

「一豊が織田家の一家臣だった頃、馬揃えに馬売りが連れてきた駿馬を見て、欲しいと思うがお金がなかった。それをみて妻・千代は夫に父から嫁入りの時に渡された10両を一豊に渡し、一豊はその10両でその馬を買い、そのみごとな馬は信長の目をひいたようです。

秀吉の没後、一豊は早くから家康に対して忠誠を見せていました。

関ヶ原の戦の前には、大阪にいる千代は石田三成の監視下に置かれながらも一豊に豊臣側の情報を送っていたようです。

更に千代は、家康に忠義をつくしなさいという内容の密書を送り、そしてその密書を開封せずに家康に渡す事を言い添えます。

一豊はその千代の言葉通り開封することなく家康に密書を渡し、大いに自分の忠義が認められたようです。」

この二つの逸話は有名で、千代の内助の功によって出世できたとも言われる所以です。
もう一つ伝え聞いた話として、千代紙は千代が始めたということです。


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この項 <完>





by mo-taku3 | 2017-12-12 15:43 | (歴史)全国史 | Comments(2)

唐人駄場遺跡(土佐清水)20171211

唐人駄場遺跡(土佐清水)20171211



高知県の南西、足摺岬の山中に、正確に真南の方角を向いた"亀石"、鋭く尖った"鬼の包丁"などと名付けられた不思議な巨石が林立する「唐人駄場遺跡」があります。
これは縄文時代の古代人が、何かの儀式や通信に使ったのではないかと云われていますが、詳しいことは分かっていません。
ここを古代史のまつわる学会などや古代史の研究家に興味を持って迎えられていますが、はっきりとした結論付けは出来ていないようです。
たまたま標識につられて立ち寄りましたが、機会があったらまた、ゆっくり調べてみたいと思う史跡でした。

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この項 <完>





by mo-taku3 | 2017-12-11 11:35 | (歴史)全国史 | Comments(0)

水戸候が築いた「小石川後楽園」20171013

水戸候が築いた「小石川後楽園」20171013


宿泊した鳳明館から歩いて30分位でここ「小石川後楽園」に着きます。
ここは江戸時代初期、寛永6年(1629年)に水戸徳川家の祖である頼房が、江戸の中屋敷(後に上屋敷)の庭園として造ったもので、二代藩主の光圀の代に 完成しています。
光圀は作庭に際し、明の儒学者である朱舜水の意見をとり入れ、中国の教え「(士はまさに)天下の憂いに先だって憂い、天下の楽しみに後れて楽しむ」から「後楽園」と名づけられました。

庭園は池を中心にした「回遊式築山泉水庭園」になっており、随所に中国の名所の名前をつけた景観を配し、中国趣味豊かなものになっています。
また、特徴として各地の景勝を模した湖・山・川・田園などの景観が巧みに表現されています。
この地は小石川台地の先端にあり、神田上水を引入れ築庭されました。
また光圀の儒学思想の影響の下に造られており、明るく開放的な六義園と好対照をなしているといわれています。

なお、昭和273月、文化財保護法によって特別史跡及び特別名勝に指定されています。
このように特別史跡と特別名勝の重複指定を受けているのは、都立庭園では浜離宮恩賜庭園とここの二つだけです。
全国でも京都市の鹿苑寺(金閣寺)、慈照寺(銀閣寺)、醍醐寺三宝院、奈良県の平城京左京三条ニ坊宮跡、広島県の厳島、岩手県の毛越寺庭園、福井県の一乗谷朝倉氏庭園を合わせ9ヶ所だけということです。


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この項 <完>





by mo-taku3 | 2017-10-13 09:38 | (歴史)全国史 | Comments(2)

赤穂浪士の墓所(泉岳寺)20170922

赤穂浪士の墓所(泉岳寺)20170922


泉岳寺には赤穂浪士のお墓がある。
何十年か振りに訪れみた。
お参りの人は平日でも沢山訪れているようで、私もお線香を手にお参りしてきた。
ところでこの墓所の前に赤穂浪士が預けられた藩名が載っていたが、その中に、寺坂吉右衛門と萱野三平の預けられた藩名が載っていなかった。
その理由を墓守の方に尋ねると、
萱野三平は親の反対で討ち入りに参加できず、自ら切腹して果てたとのこと。
また寺坂吉右衛門は足軽だったため身分が低いということで内蔵助から浅野長矩氏夫人の瑶泉院(阿久里)や国元などに報告のため遣わしたとあったが、報告を終え帰ってきたきて目付に自首をしたが、逆に目付から説得されたということであった。
それで二人とも後になってお墓は造られたが藩に預けられていなかったということを、親切に詳しく教えてくれました。

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この項 <完>





by mo-taku3 | 2017-09-22 15:43 | (歴史)全国史 | Comments(2)

平家の里と源平の和睦(湯西川)20170611

平家の里と源平の和睦(湯西川)20170611


源平の戦いは皆さんご存知と思います。

1185年、天下を二分にした源平の壇ノ浦の戦いに敗れた平家の落人、平清盛の嫡男である平重盛の六男・平忠実(平忠房改名)は家臣と共に、縁戚の宇都宮朝綱(ともつな)公を頼り、関東へ下りました。その後川治の鶏頂山に隠れしのんで生活しておりました。

一族の婦人が男子を出生したおり、祝事と喜び「鯉のぼり」を上げたところ源氏方の眼にふれ、追われて更に奥地の湯西川(栃木県)に至り永住の地としています。

そして隠れ住むために「鯉のぼりは上げず」「鶏を飼わない」「焚火をしない」という風習が今でも残っていると言われています。

ところが現代になって(199410月)【源平の和議】が成立しています。
鎌倉にある、「源頼朝会」と「全国平家会」手打ちをしたとあり、湯西川「平家の庄」の中に【和議書】が展示されておりました。

平家の落人の里は全国にありますが、ここ湯西川の施設が一番充実しているように思います。

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この項 <完>





by mo-taku3 | 2017-08-13 10:19 | (歴史)全国史 | Comments(2)

若狭「鵜の瀬」(東大寺お水取りの水源)29160811

若狭「鵜の瀬」(東大寺お水取りの水源)29160811


鵜の瀬(うのせ)というのは、前を流れる遠敷川が地下で奈良東大寺の二月堂のお水取りに使う水が二月堂の向いにある「若狭井」で採取されるが、この若狭井と繋がっており、二月堂が行われる3月12日に合わせ3月2日(10日で届くと云われる)に若狭神宮寺のお香水の閼伽水【あかみず】を汲み上げこの鵜の瀬で放水する習わしとなっている。

場所は、福井県小浜市下根来【しもねごり】)

「鵜の瀬」由緒記には次のように書かれている。
「天平の昔若狭の神願寺(神宮寺)から奈良の東大寺にゆかれた印度僧実忠和尚が大仏開眼供養を指導の后天平勝宝四年(七五三)(752年?)に二月堂を創建し修二会【しゅにえ】を始められその二月初日全国の神々を招待され、すべての神々が参列されたのに若狭の遠敷明神(彦姫神)のみは見えず、ようやく二月十二日(旧暦)夜中一時過ぎに参列された.それは川漁に時を忘れて遅参されたので、そのお詫びもかねて若狭より二月堂の本尊へお香水の閼伽水【あかみず】を送る約束をされ、そのとき二月堂の下の地中から白と黒の鵜がとび出てその穴から泉が湧き出たのを若狭井と名付けその水を汲む行事が始まり、それが有名な「お水取り」である.その若狭井の水源がこの鵜の瀬の水中洞穴で、その穴から鵜が奈良までもぐっていったと伝える.この伝説信仰から地元では毎年三月二日夜、この淵へ根来八幡の神人と神宮寺僧が神仏混淆【こんこう】の「お水送り」行事を行う習いがある.」
とある。

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白石神社。

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遠敷川。

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説明板。

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「鵜の瀬公園資料館」お水送りの幟が見える。

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お水送りの様子を和紙人形で再現したもの(鵜の瀬公園資料館)

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「鵜の瀬給水所」として開放されている。
ここの水が市販されているようだ。

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*鵜の瀬と東大寺「若狭井」と結びつけるのに、東大寺初代別当の「良弁僧正」がここの出身ということも関係してくるようだ。
「 その鵜の瀬と100mも離れていない所に奈良市長・大川請則書「良弁和尚生誕の地」と大書された石碑が建っている。
良弁和尚(689~774)は733年金鐘寺(きんしょうじ、現在の東大寺法華堂又は三月堂、不空羂索観音像や天平彫刻の最高峰とされる日光・月光菩薩立像など所蔵)を建立し、大仏造立に尽力し、64才で東大寺初代別当(長官)になった。
また、石山寺(滋賀県大津市)も開創したという。」
ということらしい。

現地にはこんな石碑が建っている。

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この項 <完>

by mo-taku3 | 2016-08-11 16:04 | (歴史)全国史 | Comments(2)

源頼家と【指月殿】(修善寺)20151120

源頼家と【指月殿】(修善寺)20151120


修善寺から数100mの所の高台にこの「指月殿」があります。
この建物は伊豆最古の木造建築と言われ、北条政子が2代将軍源頼家の菩提所として建立したものです。
指月とは経典を意味し、それを収める経堂でした。(経典は殆ど散失している。)
本尊は釈迦如来坐像(静岡県指定文化財)は、蓮の花を持った禅宗式という珍しい形をしており、杉を中心にした寄木造りで高さ203cmもあり、この種の像としては伊豆最大のものです。
仁王像は、本尊よりさらに古く藤原時代の作と言われ、修善寺の全盛時には寺門の入口を守っていたとされています。
指月殿の扁額は、元の名僧一山一寧(いっさんいちねい)の書といわれ、これは複製ですが、実物は修禅寺本堂に保存されています。


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修善寺から数100m歩き、坂道を登った先にこの「指月殿」があります。

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指月殿の後方の石段を登ると、2代将軍源頼家のお墓があります。
写真の碑は、元禄16年(1703年)頼家の五百回忌にあたり修善寺16世筏山智船(ばっさんちせん)和尚が建てた供養碑です。裏側にある二基の五輪石塔がお墓です。
北条氏によって二代将軍の座を奪われた源頼家は、修禅寺に幽閉され、翌年暗殺された。
頼家の冥福を祈るために、母の北条政子が建てたという指月殿の横にある。

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指月堂から東へ行った所に、頼家に従って亡くなった侍臣達を供養した十三士墓がありました。

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※源 頼家 (みなもと よりいえ) (1182年- 1204年)
鎌倉幕府の第二代将軍(在任1199年 -1203年)であり、源頼朝の嫡男です。
母は北条政子。正室は比企能員(ひきよしかず)の娘若狭局。幼名は万寿。左金吾とも呼ばれています。

正治元年(1199年)父頼朝の急死により家督を相続。
建仁2年(1202年)7月22日征夷大将軍を宣下。
源氏の嫡男として期待されていましたが、父の死後専横になった北条氏を押さえ側近や妻の実家である比企氏を重用する独断的な政治が目立ったため、母方の北条氏を中心とした有力御家人は将軍の権力確立を阻むべく十三人の合議制をしき、頼家の独断を抑制します。
その後、建仁3年(1203年)8月、頼家が急病で危篤に陥ると、死後の相続は子の一幡(いちまん)と弟源実朝に分譲する合議が出されます。
反発した比企氏は、病床の頼家に北条氏の専断を訴え討伐を計りますが、逆に翌9月2日に滅ぼされ(比企能員の変)ます。
数日後病から回復した頼家は、9月7日に尼御台政子の命で将軍職を剥奪され伊豆修善寺へ幽閉され、代わって弟の実朝が3代将軍となります。
元久元年(1204年)7月18日、頼家は修善寺で北条時政により、入浴中に暗殺されました。(享年23歳)










この項 <完>





by mo-taku3 | 2015-11-20 13:50 | (歴史)全国史 | Comments(0)

尼子家の復興に奔走した猛将『山中鹿之助』20140923

尼子家の復興に奔走した猛将『山中鹿之助』20140923


山中鹿之助は、戦国時代から安土桃山時代にかけての山陰地方の尼子氏の家臣。。実名は幸盛(ゆきもり)、幼名は甚次郎(じんじろう)という。
優れた武勇の持ち主で「山陰の麒麟児」の異名を取る。尼子十勇士の筆頭にして、尼子家再興のために『願わくば、我に七難八苦を与えたまえ』と三日月に祈った逸話は有名である。

山中鹿之助は忠義の臣ということで、戦前の教育でもてはやされていたのを、戦前の教科書などを目にした時強く印象が残っている。
ここ本満寺と鹿之助との関係は定かではないが資料によると、、
「1764年5月22日、鹿之助の子孫である山中永辰と山中一信によって建立されたとある。」

鹿之助の墓は本堂脇の墓所中央に位置し、周囲には山中一族の墓碑があるがすでに無縁墓碑状態といっていいかんじで、石も悪いのか風化が進んでいる。
また、墓標の裏面には、次のように記載される(原文は漢文)。
「尼子忠臣山中幸盛、幼きより勇彊にして、軍鋒の魁たり。年三十(四)にて備中阿部に戦死す。実に惟れ天正六戌寅五月廿二日也。子(孫)山中永辰、同一信、相與に謀り、樹石を広宣し、流布山本願満足寺に奉り、先ず本に報じ、以て無窮に示す。 宝暦十四年歳舎甲申五月廿二日 当山丗七世日視誌す」。
宝暦十四年とは、1764年であるので、江戸時代の中頃に建てられたようである。

私の恒例の京都市内の散策で、「山中鹿之助幸盛御墓所」の石標がが目に入ったので寄ってみた。

本満寺というお寺である。
1410年本圀寺(日蓮宗)から分離独立し、玉洞妙院日秀(関白・近衛道嗣の子)が開基とされている。
その当時は上京区元本満寺町(新町通今出川上る西入)付近にあったが1536年天文法華の乱で焼失し、堺に避難する。
寺伝によれば、それから間もない1539年、関白近衛尚通が現在の地に移建し、後奈良天皇の勅願寺となるという。ということでお公家さんのお寺という感じがする。
その後、1751年徳川吉宗の病気平癒を祈願し、幕府祈願所ともなっている。

このお寺は、広大な寺域を誇っていたようだが、今でもそれなりの敷地である。

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墓地にはいると直ぐの右手にこのお墓がある。
案内の表示は全くない。近くに居た墓守の人に尋ねると、親切に御案内いただいた。
そこでお墓の歴史・お寺の歴史など一通りご説明いただき、今の鹿之助のお墓・一族のお墓に墓主のお参りがないことを嘆いておられた。
一時的にもてはやされてお墓を作ったものの、重荷になって無縁化していくのは、歴史的な有名人であっても同じなんだとちょっと考えさせられた。

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先にも述べたように、お公家さんのお寺だが、今では大徳寺やそれぞれの菩提寺などに移ったのと、東京遷都で冷泉家を残してお公家さんが東京に墓地とともに移ったようで、古い墓標が山のように一か所に片づけられていた。

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この日は彼岸だったので、本堂では沢山のお参りがあった。

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山中鹿之助の墓所・供養塔・首塚はたくさん存在しているのでご紹介します。
・阿井の渡しの墓(岡山県高梁市落合町阿部)
・観泉寺境内の墓(岡山県高梁市落合町阿部)
・大徳寺玉林院内の墓(京都府京都市北区紫野大徳寺町)
・金戒光明寺金光院内の墓(京都府京都市左京区黒谷町 )
・幸盛寺内の墓(鳥取県鳥取市鹿野町鹿野)
・巌倉寺内の供養塔(島根県安来市広瀬町富田)など沢山の供養塔がある。
・静観寺山門前の首塚(広島県福山市鞆町後地)
・徳雲寺境内の首塚(広島県庄原市東城町菅)
・浄教寺内の供養塔(広島県広島市西区草津本町)
・末吉城跡の供養塔(鳥取県大山町末吉)
・忠山砦跡の供養塔(島根県松江市美保関町)





この項 <完>

by mo-taku3 | 2014-09-23 11:46 | (歴史)全国史 | Comments(3)