四国霊場81番札所の白峰寺には崇徳天皇が荼毘に付された白峯の廟所があります。ここの山門は7つの瓦屋根が左右に段差を付けて連なる七棟門。この門をくぐり左手奥には、皇位継承で弟の後白河天皇と対立し保元の乱で破れ、流された讃岐で非業の死を遂げた崇徳上皇の霊を祀る【頓証寺殿】があります。雨月物語には崇徳院の怨霊とこの地を訪れた西行法師の話が出てきます。












この項 <完>
▲ by mo-taku3 | 2019-05-08 15:50 | (歴史)全国史 | Comments(2)












▲ by mo-taku3 | 2019-05-08 15:50 | (歴史)全国史 | Comments(2)
菅原道真、平将門、崇徳天皇の怨霊は「三大怨霊」と呼ばれていますが、その中で、京都最恐の怨霊と称される「崇徳天皇」(すとくてんのう)についてご紹介しますと、
「崇徳天皇の父は鳥羽天皇ですが、鳥羽天皇の祖父、白河上皇は崇徳天皇に肩入れし、鳥羽天皇を強引に退位させ、崇徳天皇を5歳で即位させます。
鳥羽天皇は退位させられた白河上皇に対して恨みを持つようになり、また崇徳天皇のことも忌み嫌うようになりました。 というのも崇徳天皇の母である待賢門院(藤原)璋子と白河上皇との関係は貴族社会では噂となっており、それを15歳の孫の鳥羽天皇に押し付け、生まれたのが崇徳天皇で、崇徳天皇は白河上皇の子供ではないかと噂されていた。
鳥羽上皇が崩御した後、後白河天皇と崇徳上皇の兄弟の争いから、1156年に「保元の乱」(ほうげんのらん)が起こり、負けた崇徳上皇は讃岐国(現・香川県)に流罪となり、舌を噛み切って死んでしまいます。これが直接の原因で怨霊となっています。」
四国79番札所の「天皇寺」は崇徳上皇を祀っていた「白峰宮」に隣接し、白峰宮が崇徳天皇社であったときその別当寺(神宮寺)であった。




保元の乱で敗れ、讃岐の地(現:香川県坂出市西庄町天皇)へと配流されていた崇徳上皇ですが、都への帰還叶わず、ここ讃岐の地で崩御、そのまま棺も、都へ帰らずこの地で安置されることとなった。その後、後嵯峨天皇が上皇の冥福を祈り、二条天皇により造営された「白峰宮(崇徳天皇社)に併設して建立したのが、【天皇寺】とされています。



※【八十場の霊泉】 白峯山で荼毘に付すための勅許を得る間の約20日間、崇徳上皇の遺体はここに漬けられていたという。



▲ by mo-taku3 | 2019-05-08 15:13 | (歴史)全国史 | Comments(2)







▲ by mo-taku3 | 2017-12-13 10:09 | (歴史)全国史 | Comments(2)




▲ by mo-taku3 | 2017-12-12 16:25 | (歴史)全国史 | Comments(2)
山内一豊は戦国・安土桃山時代の武将で信長、秀吉、家康の三人に仕えています。
一豊は金ヶ崎の朝倉攻めや姉川の戦において活躍している猛将だったようです。
秀吉から掛川城を城主として預かり、関ヶ原の役で東軍に付いた一豊が戦後、土佐24万石を家康から拝領しました。
この間妻・千代が果たした内助の功があったことは否めません。その逸話は、以下の通りです。
「一豊が織田家の一家臣だった頃、馬揃えに馬売りが連れてきた駿馬を見て、欲しいと思うがお金がなかった。それをみて妻・千代は夫に父から嫁入りの時に渡された10両を一豊に渡し、一豊はその10両でその馬を買い、そのみごとな馬は信長の目をひいたようです。
秀吉の没後、一豊は早くから家康に対して忠誠を見せていました。
関ヶ原の戦の前には、大阪にいる千代は石田三成の監視下に置かれながらも一豊に豊臣側の情報を送っていたようです。
更に千代は、家康に忠義をつくしなさいという内容の密書を送り、そしてその密書を開封せずに家康に渡す事を言い添えます。
一豊はその千代の言葉通り開封することなく家康に密書を渡し、大いに自分の忠義が認められたようです。」
この二つの逸話は有名で、千代の内助の功によって出世できたとも言われる所以です。



▲ by mo-taku3 | 2017-12-12 15:43 | (歴史)全国史 | Comments(2)





▲ by mo-taku3 | 2017-12-11 11:35 | (歴史)全国史 | Comments(0)















▲ by mo-taku3 | 2017-10-13 09:38 | (歴史)全国史 | Comments(2)









▲ by mo-taku3 | 2017-09-22 15:43 | (歴史)全国史 | Comments(2)
源平の戦いは皆さんご存知と思います。
1185年、天下を二分にした源平の壇ノ浦の戦いに敗れた平家の落人、平清盛の嫡男である平重盛の六男・平忠実(平忠房改名)は家臣と共に、縁戚の宇都宮朝綱(ともつな)公を頼り、関東へ下りました。その後川治の鶏頂山に隠れしのんで生活しておりました。
一族の婦人が男子を出生したおり、祝事と喜び「鯉のぼり」を上げたところ源氏方の眼にふれ、追われて更に奥地の湯西川(栃木県)に至り永住の地としています。
そして隠れ住むために「鯉のぼりは上げず」「鶏を飼わない」「焚火をしない」という風習が今でも残っていると言われています。
ところが現代になって(1994年10月)【源平の和議】が成立しています。
鎌倉にある、「源頼朝会」と「全国平家会」手打ちをしたとあり、湯西川「平家の庄」の中に【和議書】が展示されておりました。












▲ by mo-taku3 | 2017-08-13 10:19 | (歴史)全国史 | Comments(2)












▲ by mo-taku3 | 2016-08-11 16:04 | (歴史)全国史 | Comments(2)
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