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崇徳天皇御廟所がある白峰寺「頓証寺殿」20190508

崇徳天皇御廟所がある白峰寺「頓証寺殿」20190508



四国霊場81番札所の白峰寺には崇徳天皇が荼毘に付された白峯の廟所があります。ここの山門は7つの瓦屋根が左右に段差を付けて連なる七棟門。この門をくぐり左手奥には、皇位継承で弟の後白河天皇と対立し保元の乱で破れ、流された讃岐で非業の死を遂げた崇徳上皇の霊を祀る【頓証寺殿】があります。雨月物語には崇徳院の怨霊とこの地を訪れた西行法師の話が出てきます。

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この項 <完>





by mo-taku3 | 2019-05-08 15:50 | (歴史)全国史 | Comments(2)

悲劇の崇徳天皇を祀る「白峰宮」と「天皇寺」20190508

悲劇崇徳天皇を祀る白峰宮と天皇寺20190508



菅原道真、平将門、崇徳天皇の怨霊は「三大怨霊」と呼ばれていますが、その中で、京都最恐の怨霊と称される「崇徳天皇」(すとくてんのう)についてご紹介しますと、

「崇徳天皇の父は鳥羽天皇ですが、鳥羽天皇の祖父、白河上皇は崇徳天皇に肩入れし、鳥羽天皇を強引に退位させ、崇徳天皇を5歳で即位させます。

鳥羽天皇は退位させられた白河上皇に対して恨みを持つようになり、また崇徳天皇のことも忌み嫌うようになりました。 というのも崇徳天皇の母である待賢門院(藤原)璋子と白河上皇との関係は貴族社会では噂となっており、それを15歳の孫の鳥羽天皇に押し付け、生まれたのが崇徳天皇で、崇徳天皇は白河上皇の子供ではないかと噂されていた。

鳥羽上皇が崩御した後、後白河天皇と崇徳上皇の兄弟の争いから、1156年に「保元の乱」(ほうげんのらん)が起こり、負けた崇徳上皇は讃岐国(現・香川県)に流罪となり、舌を噛み切って死んでしまいます。これが直接の原因で怨霊となっています。」

四国79番札所の「天皇寺」は崇徳上皇を祀っていた「白峰宮」に隣接し、白峰宮が崇徳天皇社であったときその別当寺(神宮寺)であった。 

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保元の乱で敗れ、讃岐の地(現:香川県坂出市西庄町天皇)へと配流されていた崇徳上皇ですが、都への帰還叶わず、ここ讃岐の地で崩御、そのまま棺も、都へ帰らずこの地で安置されることとなった。その後、後嵯峨天皇が上皇の冥福を祈り、二条天皇により造営された「白峰宮(崇徳天皇社)に併設して建立したのが、【天皇寺】とされています。



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※【八十場の霊泉】 白峯山で荼毘に付すための勅許を得る間の約20日間、崇徳上皇の遺体はここに漬けられていたという。

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この項 <完>





by mo-taku3 | 2019-05-08 15:13 | (歴史)全国史 | Comments(2)

長宗我部元親墓所・関連遺跡20171213

長宗我部元親墓所・関連遺跡20171213



長宗我部元親と聞いて四国の雄とわかる方は少ないかもしれない。しかし元親は土佐から起こり、土佐を平定し更に四国を統一している。
時代は安土・桃山時代で、四国統一後すぐに豊臣秀吉の四国征伐により、降伏し土佐一国(9.8万石)で秀吉の外様大名となっている。
その後秀吉の九州征伐・小田原攻めにも従軍し、朝鮮にも遠征している。
関ケ原の役で元親の四男・盛親は西軍に付いたことから領地没収となり、その後に山内一豊が土佐を収めることになった。

さて面白いのは、元親の母及び妻は美濃の斎藤氏から輿入れしている。多分時代背景からすると母は斎藤道三の娘の可能性がある。それでも織田信長からの評判は良くないようだ。

今回は偶然墓所の案内表示があったので寄ってみたが、お墓は階段のかなり上の方にあるようなのでそこまでは上らなかった。それでも機会があればまた行ってみたいと思っている。

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この項 <完>






by mo-taku3 | 2017-12-13 10:09 | (歴史)全国史 | Comments(2)

坂本龍馬生誕の地20171212

坂本龍馬生誕の地(高知)20171212



高知(土佐)と言ったら坂本龍馬の生家を訪ねる必要があります。(笑)
ということで成果があった場所に行ってみました。
写真のような石碑が建っており、高知出身の吉田茂の揮毫した ものだそうです。
また、裏通りには「龍馬の生まれたまち記念館」があり、展示館機能と公民館機能を合わせ持つ、全国的にも珍しい施設となっております。
ちょっと気になったのは、龍馬は郷士と聞いていましたが意外と高知城に近いのには驚きでした。


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この項 <完>





by mo-taku3 | 2017-12-12 16:25 | (歴史)全国史 | Comments(2)

山内一豊とお千代さん20171212

山内一豊とお千代さん20171212



山内一豊は戦国・安土桃山時代の武将で信長、秀吉、家康の三人に仕えています。

一豊は金ヶ崎の朝倉攻めや姉川の戦において活躍している猛将だったようです。

秀吉から掛川城を城主として預かり、関ヶ原の役で東軍に付いた一豊が戦後、土佐24万石を家康から拝領しました。

この間妻・千代が果たした内助の功があったことは否めません。その逸話は、以下の通りです。

「一豊が織田家の一家臣だった頃、馬揃えに馬売りが連れてきた駿馬を見て、欲しいと思うがお金がなかった。それをみて妻・千代は夫に父から嫁入りの時に渡された10両を一豊に渡し、一豊はその10両でその馬を買い、そのみごとな馬は信長の目をひいたようです。

秀吉の没後、一豊は早くから家康に対して忠誠を見せていました。

関ヶ原の戦の前には、大阪にいる千代は石田三成の監視下に置かれながらも一豊に豊臣側の情報を送っていたようです。

更に千代は、家康に忠義をつくしなさいという内容の密書を送り、そしてその密書を開封せずに家康に渡す事を言い添えます。

一豊はその千代の言葉通り開封することなく家康に密書を渡し、大いに自分の忠義が認められたようです。」

この二つの逸話は有名で、千代の内助の功によって出世できたとも言われる所以です。
もう一つ伝え聞いた話として、千代紙は千代が始めたということです。


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この項 <完>





by mo-taku3 | 2017-12-12 15:43 | (歴史)全国史 | Comments(2)

唐人駄場遺跡(土佐清水)20171211

唐人駄場遺跡(土佐清水)20171211



高知県の南西、足摺岬の山中に、正確に真南の方角を向いた"亀石"、鋭く尖った"鬼の包丁"などと名付けられた不思議な巨石が林立する「唐人駄場遺跡」があります。
これは縄文時代の古代人が、何かの儀式や通信に使ったのではないかと云われていますが、詳しいことは分かっていません。
ここを古代史のまつわる学会などや古代史の研究家に興味を持って迎えられていますが、はっきりとした結論付けは出来ていないようです。
たまたま標識につられて立ち寄りましたが、機会があったらまた、ゆっくり調べてみたいと思う史跡でした。

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この項 <完>





by mo-taku3 | 2017-12-11 11:35 | (歴史)全国史 | Comments(0)

水戸候が築いた「小石川後楽園」20171013

水戸候が築いた「小石川後楽園」20171013


宿泊した鳳明館から歩いて30分位でここ「小石川後楽園」に着きます。
ここは江戸時代初期、寛永6年(1629年)に水戸徳川家の祖である頼房が、江戸の中屋敷(後に上屋敷)の庭園として造ったもので、二代藩主の光圀の代に 完成しています。
光圀は作庭に際し、明の儒学者である朱舜水の意見をとり入れ、中国の教え「(士はまさに)天下の憂いに先だって憂い、天下の楽しみに後れて楽しむ」から「後楽園」と名づけられました。

庭園は池を中心にした「回遊式築山泉水庭園」になっており、随所に中国の名所の名前をつけた景観を配し、中国趣味豊かなものになっています。
また、特徴として各地の景勝を模した湖・山・川・田園などの景観が巧みに表現されています。
この地は小石川台地の先端にあり、神田上水を引入れ築庭されました。
また光圀の儒学思想の影響の下に造られており、明るく開放的な六義園と好対照をなしているといわれています。

なお、昭和273月、文化財保護法によって特別史跡及び特別名勝に指定されています。
このように特別史跡と特別名勝の重複指定を受けているのは、都立庭園では浜離宮恩賜庭園とここの二つだけです。
全国でも京都市の鹿苑寺(金閣寺)、慈照寺(銀閣寺)、醍醐寺三宝院、奈良県の平城京左京三条ニ坊宮跡、広島県の厳島、岩手県の毛越寺庭園、福井県の一乗谷朝倉氏庭園を合わせ9ヶ所だけということです。


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by mo-taku3 | 2017-10-13 09:38 | (歴史)全国史 | Comments(2)

赤穂浪士の墓所(泉岳寺)20170922

赤穂浪士の墓所(泉岳寺)20170922


泉岳寺には赤穂浪士のお墓がある。
何十年か振りに訪れみた。
お参りの人は平日でも沢山訪れているようで、私もお線香を手にお参りしてきた。
ところでこの墓所の前に赤穂浪士が預けられた藩名が載っていたが、その中に、寺坂吉右衛門と萱野三平の預けられた藩名が載っていなかった。
その理由を墓守の方に尋ねると、
萱野三平は親の反対で討ち入りに参加できず、自ら切腹して果てたとのこと。
また寺坂吉右衛門は足軽だったため身分が低いということで内蔵助から浅野長矩氏夫人の瑶泉院(阿久里)や国元などに報告のため遣わしたとあったが、報告を終え帰ってきたきて目付に自首をしたが、逆に目付から説得されたということであった。
それで二人とも後になってお墓は造られたが藩に預けられていなかったということを、親切に詳しく教えてくれました。

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この項 <完>





by mo-taku3 | 2017-09-22 15:43 | (歴史)全国史 | Comments(2)

平家の里と源平の和睦(湯西川)20170611

平家の里と源平の和睦(湯西川)20170611


源平の戦いは皆さんご存知と思います。

1185年、天下を二分にした源平の壇ノ浦の戦いに敗れた平家の落人、平清盛の嫡男である平重盛の六男・平忠実(平忠房改名)は家臣と共に、縁戚の宇都宮朝綱(ともつな)公を頼り、関東へ下りました。その後川治の鶏頂山に隠れしのんで生活しておりました。

一族の婦人が男子を出生したおり、祝事と喜び「鯉のぼり」を上げたところ源氏方の眼にふれ、追われて更に奥地の湯西川(栃木県)に至り永住の地としています。

そして隠れ住むために「鯉のぼりは上げず」「鶏を飼わない」「焚火をしない」という風習が今でも残っていると言われています。

ところが現代になって(199410月)【源平の和議】が成立しています。
鎌倉にある、「源頼朝会」と「全国平家会」手打ちをしたとあり、湯西川「平家の庄」の中に【和議書】が展示されておりました。

平家の落人の里は全国にありますが、ここ湯西川の施設が一番充実しているように思います。

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この項 <完>





by mo-taku3 | 2017-08-13 10:19 | (歴史)全国史 | Comments(2)

若狭「鵜の瀬」(東大寺お水取りの水源)29160811

若狭「鵜の瀬」(東大寺お水取りの水源)29160811


鵜の瀬(うのせ)というのは、前を流れる遠敷川が地下で奈良東大寺の二月堂のお水取りに使う水が二月堂の向いにある「若狭井」で採取されるが、この若狭井と繋がっており、二月堂が行われる3月12日に合わせ3月2日(10日で届くと云われる)に若狭神宮寺のお香水の閼伽水【あかみず】を汲み上げこの鵜の瀬で放水する習わしとなっている。

場所は、福井県小浜市下根来【しもねごり】)

「鵜の瀬」由緒記には次のように書かれている。
「天平の昔若狭の神願寺(神宮寺)から奈良の東大寺にゆかれた印度僧実忠和尚が大仏開眼供養を指導の后天平勝宝四年(七五三)(752年?)に二月堂を創建し修二会【しゅにえ】を始められその二月初日全国の神々を招待され、すべての神々が参列されたのに若狭の遠敷明神(彦姫神)のみは見えず、ようやく二月十二日(旧暦)夜中一時過ぎに参列された.それは川漁に時を忘れて遅参されたので、そのお詫びもかねて若狭より二月堂の本尊へお香水の閼伽水【あかみず】を送る約束をされ、そのとき二月堂の下の地中から白と黒の鵜がとび出てその穴から泉が湧き出たのを若狭井と名付けその水を汲む行事が始まり、それが有名な「お水取り」である.その若狭井の水源がこの鵜の瀬の水中洞穴で、その穴から鵜が奈良までもぐっていったと伝える.この伝説信仰から地元では毎年三月二日夜、この淵へ根来八幡の神人と神宮寺僧が神仏混淆【こんこう】の「お水送り」行事を行う習いがある.」
とある。

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白石神社。

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遠敷川。

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説明板。

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「鵜の瀬公園資料館」お水送りの幟が見える。

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お水送りの様子を和紙人形で再現したもの(鵜の瀬公園資料館)

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「鵜の瀬給水所」として開放されている。
ここの水が市販されているようだ。

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*鵜の瀬と東大寺「若狭井」と結びつけるのに、東大寺初代別当の「良弁僧正」がここの出身ということも関係してくるようだ。
「 その鵜の瀬と100mも離れていない所に奈良市長・大川請則書「良弁和尚生誕の地」と大書された石碑が建っている。
良弁和尚(689~774)は733年金鐘寺(きんしょうじ、現在の東大寺法華堂又は三月堂、不空羂索観音像や天平彫刻の最高峰とされる日光・月光菩薩立像など所蔵)を建立し、大仏造立に尽力し、64才で東大寺初代別当(長官)になった。
また、石山寺(滋賀県大津市)も開創したという。」
ということらしい。

現地にはこんな石碑が建っている。

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この項 <完>

by mo-taku3 | 2016-08-11 16:04 | (歴史)全国史 | Comments(2)