朝鮮国家の歴史【④百済】について

朝鮮国家の歴史【④百済】について


『百済の歴史』
三国史記百済王の伝記には百済が1つの国のように記録されていますが、百済は沸流(ピリュ)、温祚(オンジョ)、仇台(クテ)が建国した3つの国の名称です。それぞれの国を区別して、沸流百済、温祚百済、仇台百済と呼ばれています。

(沸流百済)
韓流ドラマ「朱蒙」でおなじみの、召西奴(ソソノ)は父、延陀勃(ヨンタバル)と息子、沸流(ピリュ)、温祚(オンジョ)とともに卒本で生活をしていました。
B.C 42年に渾江に沿って下流に降り、湏水・帯水地域に定着をして、魚取りと塩商売などで多くの財物を集め、B.C 31年に高朱蒙の王妃になりました。
その後、高朱蒙は、檀君6世高無胥の娘の禮との間に、北扶余にいた時に生まれた瑠璃を太子としました。
沸流は、自身が実の子ではないとしても、高朱蒙を父親のように育てられてきた長子である自分を太子に定めず、瑠璃を太子にしたことに不満を持ち、壬寅年(B.C 19年)に高朱蒙の死後、沸流は湏水・帯水地域で自ら帝位に上がり、沸流は高句麗の正統性が長子である自分にあるという意味で自身を伯帝と称しました。
しかし、誰も、沸流に従わず、沸流は根拠地である湏水・帯水地域だけを治めました。
その後A.D 14年に高句麗が西の方に軍隊を送り、太子河中上流方面にあった梁貊と、遼梁の西の方にあった玄菟郡高句麗県を占領し、遼東半島全地域に勢力を拡大すると、A.D 19年に沸流百済地域に住んでいた民衆は高句麗に逃れ、湏水・帯水地域は民がいなくなりました。
沸流は韓半島に根拠地を整えようと民衆を率いて韓半島に移動して, 彌鄒忽(三国遺事には「今仁州」と記されている)に一時定着しました。
しかし、この時は温祚が洪城(ホンソン) 馬韓を滅亡させて、以前の馬韓地域を掌握しながら、沸流の定着を認めなかったため、沸流は死に、民たちは、慰礼城に行き温祚のもとに亡命しました。
これが沸流百済の言い伝えです。

(温祚百済)
沸流がB.C 19年に湏水・帯水地域で自ら帝位に上がった時に、誰も沸流に従わないのを見て、温祚は将来を危ぶみB.C 18年に、民を従え、船に乗り、韓半島に移動し、国を建て、国の名前を、全て(オン)の世の中を治める王という意味の温祚と称しました。
都の名は、天帝の息子がいる城という意味の慰礼城と定めました。
慰は空にある日すなわち天帝を意味し、礼は扶余の民を意味します。
温祚は天帝の息子を象徴する字として「慰」を使い、百済とせず、温祚と呼んだということは兄沸流が呼んだ百済という呼び名を嫌ったと思われます。
温祚国の慰礼城は、B.C 6年に江原道地方の楽浪より送られた5虎によって占領されました。
慰礼城が占領されることにより、温祚は漢江(ハンガン)の南に逃げました。
この時、切迫した温祚は、当時漢江以南地方を治めていた洪城(ホンソン)馬韓を訪ねて行き、馬韓の諸侯として馬韓の東北の地、百里を譲り受け、そこに諸侯国の十済を建てました。
その後、温祚は勢力を整え、馬韓の勢力圏から抜け出し、ふたたび、慰礼という称号を使い、A.D 9年に、洪城(ホンソン)馬韓を攻撃、滅亡させ、A.D 19年に沸流百済が滅亡した後、国の名前を十済から、全ての世の中を治める王という意味の百済に変えました。
温祚百済は、A.D 205年に仇台百濟に占領され、仇台百濟の1侯国になりましたが、久爾辛王の代で子孫が途絶えました。

(仇台百濟)
A.D204年10月に、扶余王慰仇台は、義理の兄弟公孫康が今の黄海道地方に設置した帯方郡に移動して国を建てた後、翌年7月に、温祖百済と益山(イクサン)馬韓を征服しました。この国の名前は、扶余の人々が移り住み、建てた国という意味の伊国、あるいは、扶余の人々が南に移り建てた国という意味の南扶余、多くの人々が移り建てた国という意味の百済でした。
王慰仇台が自身の建てた国の名前を百済と呼んだのは、慰仇台の入国を助けた公孫康を意識したためと思われます。
その後、A.D 205年に温祚百済を併合しています。
仇台百濟はA.D662年に羅唐連合軍の攻撃を受けて滅亡しました。
これが、百済の滅亡となります。


『百済の建国』
(百済の始祖は高句麗と同系か)
百済は伝説によれば紀元前18年に建国した。始祖の温祚王は、北夫余から逃れ卒本(中国桓仁)にいた趨牟(朱蒙=高句麗始祖)の子だという。
温祚たちは南の肥沃な地へ逃れ、弟の沸流は仁川で、温祚は河南慰礼城に生活して国名を「十済」としたという。
高句麗と同系と言うことを強調している。

(百済は建国と同時に高句麗と対峙)
実際は国としてまとまったのは4世紀前後といわれる。3世紀半には朝鮮半島西南部に馬韓が50カ国あったが、百済のおきた金浦平野は帯方郡に近く、その影響を受けて力を強めたと考えられる。
国政には帯方郡の中国人も関与していたようであるが、帯方郡の消滅とともに高句麗と直接対峙するようになった。
近仇首王(375-384)は平壌まで攻め入り、高句麗故国原王を殺した(371年)。
その一方、加やに進出して親交を結ぶとともに、太子の時代(近肖古王(346-375)のとき)に倭へ七支刀を送った。
それ以外にも大陸の文化を倭国に積極的に伝えた。千字文などの文字を伝えたとされる王仁もこの時期の人である。

(百済は倭、東晋と結びつき、高句麗、新羅と対抗)
高句麗、新羅が前秦(北朝)と結びついたのに対抗して、百済は東晋(南朝)や倭と結びついた。
そのため中国南朝の影響が強く、384年に東晋から仏教が伝わった。
396年には高句麗の広開土王の侵攻によって打撃を受けた。そのため阿莘王(392-405)は一度高句麗に下ったが、すぐ倭と通じて高句麗と対抗した。新羅が高句麗の勢力下に入ったのとは大きく異なる。
阿莘王の死後、日本に質として送られていた腆支が王(405-420)となり、倭との関係を維持する。
高句麗では長寿王の代となり、百済を攻撃し、蓋鹵王(455-475)は殺し、百済はここで一旦滅亡した(475年)。
475年、蓋鹵王が漢城で高句麗軍に殺害される直前、文周(475-477)は父王の命令に従って漢城を脱し、今の公州である熊津に都を移した。

『百済の外交力~伽耶進出と新羅との対立』
次の武寧王(501 -523)になって、王権の安定を目指して積極的な外交を行うようになる。
中国の南斉に使臣を送っていり、文化的にも南朝の影響が強い。また、漢城が落とされるとすぐに倭王「武(雄略天皇)」が南宋に高句麗の無道を訴えたり、東城王や武寧王が日本から百済に戻って王になったように日本とのつながりも強い。
武寧王は国内的には全羅道方面に領域を広げ、さらに伽耶の領有を主張して己文、帯沙を手に入れた(513 年)。このことが新羅との対立を激しくさせた。
百済と新羅は411年に婚姻同盟を結んでいたが、6世紀になり新羅の力が伸びて高句麗の影響力から離れると、百済と対抗するようになった。
武寧王を継いだ聖王(523-554)は538年に扶余に遷都した。
ここに都があったのは60年あまりのことであった。周囲を山に囲まれ、北を錦江が流れるため、防御には都合がよい。ただし、生産性に優れない。

(新羅との対抗)
551年、百済は新羅、加耶と連合して高句麗を攻撃して、漢城を回復した。
しかしその翌年、漢城は新羅に奪われた。これに対して百済は新羅を討とうとしたが、554年、管山城の戦いで聖王が殺されてしまい、百済が勢力を伸ばそうとした加耶は新羅に併合されてしまった。
その後、武王(600-641)は益山に弥勒寺を作るなどしたが、一方で新羅との戦いは続く。
次の義慈王(641-660)は642年の大耶城の戦いで旧加耶地区の大半を奪った。これに対して新羅は金春秋を高句麗に送り対抗しようとしたが、逆に高句麗は百済と連合して新羅を攻撃した。そこで新羅は唐と接近した。

【百済滅亡~日本大量渡来】
百済は660年、唐と新羅の連合軍により滅ぼされ、焼き払われた。
唐は熊津に都督府をおき支配しようとしたが、それに対して百済復興運動が起きた。
その中心だった鬼室福信は日本にいた王子豊璋を迎えたが、豊璋が鬼室福信殺害してしまうなどの内部分裂で弱体化してしまった。
日本からも援軍を送ったが、白村江(はくすきのえ)の戦いで決定的な敗北をきしてしまった。
百済が亡びたことにより、日本の政治も大きな変化が起きた。
日本にも多くの亡命者が来るとともに、当時の天智天皇は新羅の侵攻に備えて多くの朝鮮式山城が作り、防御態勢が整えられた。
日本に渡った百済系の渡来人の中には百済王氏をはじめ奈良時代以降の日本の政治や文化に大きな影響を与えた者も多い。


『百済の年表』
百済の年度表 代目 王 百済の主要な出来事。日本の主要な出来事
1 温祚王(B.C.18〜A.D.28)
 BC18 河南慰禮城に百済建国、東明廟の建立。
 BC2 国母廟の建立。
 AD9 馬韓の円山•錦峴城の降伏。
       弥生時代 紀元前後
2 多婁王(A.D.28〜A.D.77)
     57 倭の奴国王が漢に使臣を派遣。
3 己婁王(A.D.77〜A.D.128)
4 蓋婁王(A.D.128〜A.D.166)
5 肖古王(A.D.166〜A.D.214)
6 仇首王(A.D.214〜A.D.234)
7 沙伴王(A.D.234)
8 古爾王(A.D.234〜A.D.286)
 246 左将真忠を遣わし楽浪郡を攻撃
 260 6佐平16官等制定。
     262 律令頒布。 239 邪馬台国の女王卑弥呼が魏に使臣を派遣。
9 責稽王(A.D.286〜A.D.298)
 286 阿旦城と蛇城修理。
10 汾西王(A.D.298〜A.D.304)
 304 軍を送り楽浪の西の県を奪う。楽浪太守が送った刺客により汾西王が殺害される。
11 比流王(A.D.304〜A.D.344)
 327 內臣佐平優福が北漢城で反乱。
12 契王(A.D.344〜A.D.346)
13 近肖古王(A.D.346〜A.D.375)
 369 漢水の南側で査閲の実施時、全軍において黄色の旗を使用。
 371 高句麗の平壌城を攻撃。漢山へ遷都。東晋から寧東将軍領楽浪太守に冊立される。
 372 倭王に七支刀を送る。
 375 高興が書記編纂。 372 百済から七支刀を送られる。
14 近仇首王(A.D.375〜A.D.384)
 377 高句麗の平壌城攻撃。
15 枕流王(A.D.384〜A.D.385)
 384 東晋から来た胡僧摩羅難陀が仏教を伝来。
 385 漢山仏寺を建立して僧侶10人を出家させる。
16 辰斯王(A.D.385〜A.D.392)
 386 青木嶺において八坤城と西海に繋がる長城を築造。
 392 高句麗に漢水以北の多くの城を奪われる。高句麗により関弥城陥落。
17 阿莘王(A.D.392〜A.D.405)
 396 高句麗により58城陥落。
 397 太子腆支を倭に派遣。
18 琠支王(A.D.405〜A.D.420)
 408 上佐平を新設して王庶弟餘信を任命。
 413 東晋に使臣を派遣。
19 久爾辛王(A.D.420〜A.D.427)
 433 新羅に使臣を遣わし良馬2頭を送る。羅済同盟の始まり。
      421 倭王讃が宋に使臣を派遣。
20 毗有王(A.D.427〜A.D.455)
 450 劉宋に馮野夫を遣わし易林• 式占•腰弩を得る。
21 蓋鹵王(A.D.455〜A.D.475)
 458 劉宋により11名の臣下が官職を除授。
 475 漢城陥落。
22 文周王(A.D.475〜A.D.477)
 475 熊津遷都。
23 三斤王(A.D.477〜A.D.479)
 477 兵官佐平解仇の反乱
     478 倭王武が宋に使臣を派遣。
24 東城王(A.D.479〜A.D.501)
 498 耽羅征伐のため王が自ら武珍州に至る。
 501 苩加が放った刺客によって殺害される。
25 武寧王(A.D.501〜A.D.523)
 501 苩加の反乱を鎮圧して即位。
 502 高句麗の辺境攻撃。
 510 堤防を築いて流民を定着させる。
 521 梁から寧東大将軍に冊封される。
26 聖王(A.D.523〜A.D.554)
 525 武寧王を武寧王陵に安置。
 538 泗沘に遷都し、国号を南夫餘に変更。倭に仏教を伝える。
 541 梁に毛詩博士•『涅槃経』•工匠 •画師などを要請。
 551 漢江流域を回復。
 552 怒利斯致契が倭に仏教を伝える。
 553 新羅の奇襲で漢江流域を奪われる。羅済同盟の決裂。
 554 管山城の戦いにおいて聖王戦死。
     527 磐井の反乱。
     538 百済から仏教が伝来。
27 威德王(A.D.554〜A.D.598)
 556 倭に滞留していた恵王子が帰国。
 557 陵山里に王室願刹を創建。
     588百済の技術者によって飛鳥寺完工。
     593 聖德太子の摂政。
     595 法興寺創建。
28 恵王(A.D.598〜A.D.599)
29 法王(A.D.599〜A.D.600)
 599 禁殺令を下し、猟具を燃やす。烏含寺創建。
     600 初めて遣隋使を派遣。
30 武王(A.D.600〜A.D.641)
 602 百済僧侶である観勒が倭に渡り、天文•地理•易書•陰陽道を伝える。
 632 義慈王子を太子として冊封。
     607 遣隋使小野妹子派遣
     630 初めて遣唐使を派遣。
31 義慈王(A.D.641〜A.D.660)
 642 新羅を攻撃して大耶城を含めて40城余を陥落させる。
 643 国主母死亡。義慈王親衛政変を断行して権力改編。
 657 新羅•唐連合軍の百済侵攻,泗沘城陥落,百済滅亡。
     645 大化改新

復興運動期
(A.D.660〜A.D.663)
 660 黒歯常之•福信•道琛が百済復興軍を起こす。
 662 王子である豊しょうの帰国。百済王として即位。
 663 白村江の戦いで百済•倭の連合軍が羅•唐連合軍が戦ったが大敗。周留城•任存城陥落
 663 2万7千の百済救援軍出兵。白村江(白江)の戦いで大敗。
 664 熊津都督府の設置。
 665 就利山会盟。
 672 熊津都督府が廃止され、新羅が所夫里州を設置。百済故地占領。
     664 水城(7世紀中頃に構築された国防施設。現在の福岡県大野城市から太宰府市にかけてあっ
        た。)の建設
     672 壬申の乱。
     702 遣唐使が「日本」と称する。
     710 平城京に遷都。
     720『日本書紀』完成。東大寺完成。





この項 <完>

by mo-taku3 | 2013-01-07 10:48 | (歴史)世界史 | Comments(2)

朝鮮国家の歴史【③新羅】について

朝鮮国家の歴史【③新羅】について


【新羅の建国】
新羅を建国したのは朴赫居世(パクヒョコセ)ということであるらしい。
彼は慶州にあった6つの部族の首長らに推挙されて王の位についたが、その王位は世襲ではなく、朴、昔、金という三つの氏族が交代で王位につくこととなる。

新羅の建国者・朴赫居世(パクヒョコセ)とはどんな人物だったのか。
紀元前後、朝鮮半島南部には馬韓、弁韓、辰韓の3つのクニの集合体があった。
紀元前57年、今の慶尚道にあった辰韓の6つの村の村長たちは、村民らが従うことができる王を希んでいたところ、ある日、森の中に青い光が漂う一個の卵を見つけた。
すると卵が二つに割れて、そこから男の子が生まれてきた。
その男の子は天が送ってくれたと思い、大事に育て、彼が13歳になった時、王として即位させたという。
それが朴赫居世(パクヒョコセ)である。。
初代王朴赫居世にこの地域の統治を任せたことで新羅ができたことになっている。その後朴氏、昔氏、金氏と王系は連なるが、それぞれ始祖伝説にまつわる発祥地がもっている。

【新羅の展開】
実際に国の体をなしてきたのは、4世紀初め奈勿王(356-402)の頃とされている。
同じ頃百済では近肖古王が百済をまとめはじめ、一時衰退した高句麗も力を伸ばし、楽浪郡、帯方郡を攻撃するようになった。
4世紀末広開土王の頃、高句麗は本格的に朝鮮半島に勢力を伸ばして、新羅は高句麗の強い影響の下におかれるようになる。
さらに南から倭も勢力を伸ばしきたが、これを高句麗軍と新羅軍が倭の軍隊を慶州郊外の明括山城下で駆逐している。
高句麗の影響の下で新羅は国力をのばすと、高句麗と対抗していた百済と同盟を結ぶようになり、5世紀後半には本格的に高句麗と対抗するようになってくる。
新羅の王宮は高句麗や百済と異なり、月城から動いておらず、国の始まりから滅亡まで一度も遷都していない。多分に、慶州という土地の条件がよかったのかもしれない。

6世紀に入ると、第22代智證王のとき、国名を「斯羅」「斯盧」「新羅」などの国名を正式に「新羅」を名乗り、又統治者が「麻立干」から「王」を名乗るようになる。
智證王は、農業を勧めさせ、牛を用いた農耕を初めて行なった。
それまで天変地異などを原因に王権が移っていたものが世襲制に変わる。
法興王(514-540)のときに律令制を整え、仏教を公認している。
百済や高句麗に比べて、三国の中ではもっとも遅く、日本で仏教が伝来したとされた(538)とほぼ同時期であった。このときに土着勢力とかなり軋轢があったようである。
法興王は、さらに金官伽倻を併合するなど領土の拡大を図った。

次の真興王(540-576)のときには仏教の力で国を治めることに力をおき、皇竜寺などが造られた。
また百済が高句麗から奪い返した漢城を新羅が奪うことで、百済、高句麗、新羅の三国は決定的に対立するようになった。
こうした中、新羅は伽倻を滅ぼしたり朝鮮半島北部まで領域を広げ、566年に中国北斉に冊封された。(王の回った昌寧やソウル北漢山などの4カ所に記念碑が残っている。)

【三国統一】
善徳女王(632-647)の時、新羅は漢江から泰安半島を支配したことにより、中国との交易路ができあがった。その新羅が三国統一への一歩を進めている。
伝説の多い女王で、百済との対抗が激しくなった時、金春秋(後の武烈王)を日本や高句麗に派遣した。
両国とも協力を拒否したため唐に援軍を求めた。
唐は高句麗を攻め滅ぼそうとしていたところで、新羅の申し入れは好都合であった。
金春秋は王権を事実上奪い取り武烈王(654-661)となった。
その後王系が武烈王系になる。それまでの王系を「聖骨」というのに対して、武烈王系を「真骨」という。
武烈王と次の文武王(661-681)の時に三国統一が行われ、唐との連合によって百済(660)、高句麗(668)が滅ぼすことができた。日本と百済が行った百済復興(白村江の戦い)にも決定的な勝利を得た(663)。
このとき活躍した武将が金庾信で、断足山をはじめとして彼にまつわる伝説を持つところは多い。

新羅の勝利で、百済・、高句麗から日本へは大量に人が渡来し、日本は新羅、唐に備えて急遽朝鮮式の山城を築くなど臨戦態勢に入っている。
唐は百済、高句麗を支配し、引き続き新羅を支配しようとしたので、新羅は671年、唐と戦争を行った(羅唐戦争)。
新羅と唐が停戦したのは神文王のときであった(676)。
新羅が支配できなかった中国東北から朝鮮半島北部には、高句麗遺民と靺鞨人がおこした「渤海」が成立している(698)。
渤海は、新羅・唐と対抗するために盛んに日本へ使節を送った。それに対して新羅は渤海の進入や日本の進入を防ぐための城壁を築いている(722)。
新羅と日本の関係は次第に悪化したが、ここには中大兄皇子や中臣鎌足の出自影響しているのかもしれない。
ただ、その後天武天皇の時期に新羅との関係回復の兆しがあったが、天武天皇の死後、消滅していっている。

新羅の三国を統一により、華やかだった百済文化の影響を受けて、仏教や儒教が発達した。
石仏もそれまでの古拙なものから、新羅独自のものに変わっていく。
石塔もそれまでの磚塔の作り方との折衷による新たな形式ができあがり、現在の朝鮮の石塔の基礎となっている。
統治制度も唐の制度を取り入れ、五京九県の郡県制が確立した。
聖徳王(702-737)の時に唐との関係が正式に回復し、このときエミレの鐘が鋳造された。
更に、景徳王(742-765)の頃に絶頂期を迎え、仏国寺、石窟庵も建てられている。
この頃までは華厳経に基づいた護国の寺が多く造られたが、このころからは、個人のための寺も増える。
しかし、王の権力が絶対化した一方で貴族の反発も強まり、政治的混乱が始まった。
そして元聖王(785-798)以降、頻繁にクーデターが起こり、王権も衰退した。

【滅亡】
8世紀半ばになると、地方に住んでいた貴族を中心に唐から流入した禅宗を信仰するようになった。
地方にも多くの寺が造られ、旧百済地域や、安東(アンドン)などに地域独自の石塔が造られるようになった。興徳王(826-836)の頃には中国から風水思想も流入した。中央貴族は派手な生活を送り政治を顧みなくなった。
このころ日本と新羅の交流もほぼ途絶えている。
このような状況下では、ご多分に漏れず、民の生活は苦しくなり、生活のできない人は日本に渡る者も出てきている。

新羅に関連する遺跡は関西に滋賀県栗東市や園城寺などがあるが、多くは関東にあり、高句麗の渡来人遺跡と並んで新羅に関係する遺跡・伝承が残されている。
埼玉県志木、新座などはこの758年に建郡された新羅郡の名残の地名であるし、711年に多胡郡ができたことを記念した群馬県の多胡碑は新羅式の書法で書かれ、さらにこの地域に住んでいる新羅人の記録が「続日本紀」にでてくる。

907年唐が滅び五大十国時代に入ると、新羅の王権もいよいよ衰退し、後百済、後高句麗などをはじめとする地方政権が多く誕生した。
927年、景哀王(924-927)は鮑石亭での宴会中、後百済の甄萱に攻撃されて死亡し、次の高麗の都に連れ去られた敬順王(927-935)によって高麗王に王権が譲られ国は滅亡した。

その後も慶州は政治上の中心地として栄え続けたため、高麗時代、朝鮮王朝時代の遺跡も多く残っている。


この文章はいくつかの資料を基に編集したものです





この項 <完>

by mo-taku3 | 2013-01-04 22:39 | (歴史)世界史 | Comments(4)

朝鮮国家の歴史【②高句麗-その2】について

【②高句麗-その2】『三国史記・高句麗本紀・始祖東明王紀』
に記述がある、始祖東明王について一部紹介しよう。



この王は韓流ドラマ「朱蒙(チュモン)」で紹介されている。
韓国では、『東明聖王(とうめいせいおう)』として親しまれている。

さて、東明聖王(紀元前58年 - 紀元前19年)は、高句麗の初代国王(在位:紀元前37年 - 紀元前19年)であり、東明王とも呼ばれる。
姓は高、諱は朱蒙(チュモン)または鄒牟(チュム)、衆解(シュンヘ)とされる。天帝の子を自称する解慕漱(へモス)の子、または扶余の金蛙王(クムワワン)の庶子とされる。
扶余の7人の王子と対立し、卒本(遼寧省本渓市桓仁)に亡命して高句麗を建国し、初代の王となった。

(建国神話)
「東明」を始祖にする建国神話・始祖伝説は、扶余・高句麗・百済に共通して見られるが、歴史的にみれば扶余建国神話の東明と高句麗始祖の朱蒙とは別の人物だと判断されている。
しかしながら東明伝説も朱蒙伝説も筋書が構造的に共通するところが多く、その特徴は檀君神話と同じく、王の政治的権威の源泉を天に帰属させながら、農業生産を左右する水の神霊の権威を同時に主張することである。
ここでは高句麗の建国神話を『三国史記』に基づいて記述する。

朱蒙は河伯(ハベク、水神)の娘である柳花(りゅうか、ユファ)を、天帝の子を自称する解慕漱(ヘモス)が孕ませて出来た子と言う。
扶余の金蛙王が柳花を屋敷の中に閉じ込めていると、日の光が柳花を照らし、柳花が身を引いて逃げても日の光がこれを追って照らし、このようにして柳花は身ごもり、やがて大きな卵を産んだ(古代朝鮮では卵は神聖なものとされており、この話は朱蒙を神格化するためのものであると考えられる)。
金蛙王はそれを気味が悪いとし、豚小屋などに捨てさせるが、豚がおびえて近かづかなかった。
金蛙王はあらゆるところに捨てようとしたが、鳥が卵を抱いて守った。終いには自らで壊そうとしたが硬くて壊せなかった。数日後卵が割れ、男の子が生まれた。それが朱蒙である。

朱蒙の名の由来は東扶余の言葉で弓の達人と言う意味である。
朱蒙は名のとおり、弓の達人であった為に金蛙王の7人の王子に睨まれた。
朱蒙が20歳になったとき烏伊・摩利・陝父(オイ・マリ・ヒョッポ)の家臣ができた。
ある日その3人と一緒に狩に出かけた朱蒙は金蛙王(クムワ)の7人の王子と出会ってしまった。
王子たちは1匹の鹿しか捕まえられなかったが、朱蒙は6匹の鹿を捕まえた。王子たちは落ち込んだが、もう一度狩りをすることになった。
王子たちは朱蒙たちの獲物を奪い、朱蒙たちを木に縛って王宮に帰ってしまった。
朱蒙は木を引っこ抜き、縄を切って3人の家来たちを助け、王宮に帰った。
これを知った、7人の王子たちは父である金蛙王に讒言し、朱蒙を馬小屋の番人にしてしまった。
母親である柳花は朱蒙を脱出させようと考え、良い馬を選ばせる事を決心した。
そして朱蒙はある馬屋に行って幾多の馬に鞭を振り回し、その中で一番高く飛び上がった馬の舌に針をさしておいた。その馬はまともに食べることができなくなり、痩せて格好悪くなってしまった。
金蛙王がその馬を朱蒙に与えた後、朱蒙は馬の舌からやっと針を抜き出し、三日間にわたってその馬に餌を食べさせた。

朱蒙は烏伊・摩離・陝父らとともに旅に出た。
淹淲水(鴨緑江の東北)まで来たときに橋がなく、追っ手に追いつかれるのを恐れて、川に向かって「私は天帝の子で河伯(水神)の外孫である。今日、逃走してきたが追っ手が迫ろうとしている。どうすればいいだろうか」と言った。
そうすると、魚や鼈(スッポン)が浮かんできて橋を作り、朱蒙たちは渡ることができた。
朱蒙たちが渡り終わると魚たちの橋は解かれ、追っ手は河を渡れなかった。
さらに進んで卒本に至って拠点とし、漢の孝元帝の建昭2年(西暦紀元前37年)、新羅祖の赫居世21年の甲申歳(紀元前37年)に国を建て高句麗とした。
即位直後より辺方を侵略した靺鞨族を討伐して高句麗の民とし、沸流国松譲王の降参を受け、太白山(白頭山)東南の荇人国を征伐し、紀元前28年には北沃沮を滅亡させた。

その後、紀元前19年5月、王子の類利(るいり、ユリ、後の瑠璃明王)がその母(礼氏)とともに扶余から逃れてきた。朱蒙はこのことを喜び、類利を太子として後に王位を受け継がせた。同年9月に朱蒙は40歳で亡くなり、龍山に葬られて諡号を東明聖王とされた。

(建国の年)
『三国史記』高句麗本紀に広開土王は東明聖王の12世孫とするが、好太王碑(広開土王碑)では好太王は鄒牟王の17世孫とする。このことから高句麗の建国となった甲申歳を紀元前277年にする説もある。
また、『三国史記』は新羅王室に連なる慶州金氏の金富軾が編纂したものであり、新羅中心主義的な記述とするために高句麗の建国年を新羅の建国よりも後にした、との見方もされている。

(陵墓)
東明聖王の陵墓は平壌市の東方25Kmの地点に推定陵墓が存在し、東明王陵と称されている。
元来は集安にあったものを、平壌遷都とともに遷されている。
1993年5月14日に金日成の指示により整備が行われ、敷地面積約220ha、王陵区域、定陵寺区域、陪墳区域が整備された。
陵墓は1辺32m、高さ11.5mであり、周囲には中門、祭祀堂、石像などが設けられている。玄室内部には29種の壁画が描かれているという。






この項 <完>

by mo-taku3 | 2013-01-04 22:23 | (歴史)世界史 | Comments(2)

朝鮮国家の歴史【②高句麗-その1】について

朝鮮国家の歴史【②高句麗-その1】について


韓流時代劇ドラマ「朱蒙(チュモン)」をご覧になった方も多いと思うが、かなり史実に近い形で描かれているようだ。


【序章】

さて、高句麗(こうくり、紀元前37年頃 - 668年)は扶余系民族による国家といわれ、最盛期は中国大陸東北部(満州南部)から朝鮮半島の大部分を領土としていたらしい。現在でも遼東半島から満州南部にかけて朝鮮族が多数分布している。
高句麗はかなりの武力を有していたらしく、隋の煬帝、唐の太宗による遠征を何度も撃退してきたが、最終的には唐と新羅の連合軍により滅ぼされている。
【高句麗】は、日本では朝鮮史として存在しているが、中国が高句麗は中国史の中に取り入れる動きがあり、すでに中国の歴史学会では公認されている状態である。
さてその内容について少し解説をしておきたい。

『高句麗の歴史帰属をめぐる問題』について
後継となる渤海と同じように、韓国と中国との間で高句麗史はどちらの歴史に帰属するかについて論争が起きている(北朝鮮も参加しているが韓国ほどには積極的ではない)。
中国歴代王朝の史書では、高句麗は数千年間外国として記載されていた。
しかし近代になって1980年代頃までは高句麗の歴史は中国史でもあり、朝鮮史でもあるという「一史両用論」が中国の歴史学会では主流となった。
その後1980年代頃から、中国の歴史学会では「一史両用論」が更に進み、高句麗は中国の歴代政権に服属してきた地方政権であり、中国の歴史であると主張し始め、2002年には中国社会科学院が中国東北部の少数民族の歴史研究プロジェクト「東北工程」を本格的に開始し、2003年末頃から「高句麗が中国の一部であり自国の地方政権である」との中国見解が中国国外に知れ渡ることになった。
中国側から言えば実証できる古朝鮮の衛氏朝鮮が中国の燕 (春秋)の者が造った国家であり、それを「前漢」が滅ぼして楽浪郡などの漢四郡を設置したとしている。

これに対して韓国は激しく反発し、外交問題に発展しかけた。
高句麗は満州と朝鮮半島北部を領有した国家であり、高句麗人の多くは後に朝鮮人を形成する母体となったこと、満州が漢民族化したのは清朝中期以降であることから中国の政権とするには不適当だという意見が韓国などの見方である。

日本の学会では高句麗・渤海史は朝鮮史であるが、中国史とは言いがたいとする意見が主流である。
日韓併合時代に日本で発刊になった教科書と朝鮮史官撰史料等にも、高句麗は朝鮮の歴史として記録されている。
一方で、現代とは民族分布が異なる上に一民族一国家という意識が希薄だった古代国家を、直接近現代の国民国家に結びつけるのは不適当でもあり、そのため厳密に言えばどちらの国の歴史でもあり、厳密に確定することは不可能であるという意見や、今後は開かれた歴史認識を持ち、一国史観を脱皮して東アジア史として捉えていく可能性も唱えられている。

皆さんは以上をどのように解釈されるでしょうか?
さて、序章が長くなったが、以下に『高句麗』ついて述べよう。


【本章】(高句麗の歴史)

『国名』について
中原高句麗碑などの碑文によれば5世紀中頃には「高麗」と自称していたことが書かれている。
中国の王朝がこの自称を公認したのは520年が最初であることが、歴代正史の冊封記事から明らかになっている。
以後は「高麗」が正式名称として認められていたので、中国・日本の史書において高句麗が高麗と表記される例があるのはそのためである。
現在は、「高麗」の正式名を使わず「高句麗」の旧称を用いるが、これは後の高麗(王氏)と区別するためで、『三国史記』から始まる表現である。


『高句麗の歴史』について
紀元前1世紀中頃には漢の支配が弱まり、扶余系貊族の高句麗勢力が現在の集安市付近で勃興して勢力を増してきた。
この高句麗を形成した扶余系民族とは、中朝国境をはさむ山岳地帯で農耕を主とし、その他に牧畜・狩猟を生業としていた民族とみられる。(日本人にもこの血がながれているといっていいだろう。)

(建国神話)
『三国史記』によれば、高句麗は紀元前37年に朱蒙(チュモン)により建てられたとされる。
朱蒙の母(ユファ)は河の神の娘で天帝の子と出会って結ばれるが、父の怒りを買って東扶余王の金蛙の所へ送られた。
やがて娘は太陽の光を浴びて身篭り、卵を産んだ。この卵を金蛙は動物に食べさせようとしたが動物はこの卵を守り、卵から朱蒙が産まれる。
朱蒙は生まれた時から非常に弓が上手く(朱蒙というのは弓の名手のこと)、これに嫉妬した金蛙の息子たちは朱蒙を殺そうとするが、朱蒙は母のしらせで脱出し、卒本州に至り、ここで高句麗を建てたという。
広開土王碑にもほぼ同じ内容が書かれている。
(これは、神武天皇と崇神天皇とのことを記した「日本書紀」に似ている?)

(卒本城時期)
朱蒙が建国したとされる卒本の地は、現在の遼寧省本渓市桓仁満族自治県(吉林省との省境近くの鴨緑江の少し北)であり、都城の卒本城は五女山山城に比定されている。
しかし、建国後まもなく西暦3年には、第2代の瑠璃明王が鴨緑江岸の丸都城(尉那巌城)へ遷都した、と伝えられる。
高句麗の本拠地が実質的に丸都城へ移った時期は、2世紀末から3世紀初めにかけてだと見られているようだ。

(丸都城時期)
丸都城は吉林省集安市(かつての玄菟郡配下の高句麗県)の山城である。
その後、山を下りて平地の国内城に王宮を構えたが、山城の丸都城と平城の国内城とは一体のものであり、こうした山城と平城(居城)との組み合わせは、朝鮮半島における城のあり方として普遍的なものとなっていった。
国内城については最近の考古学的研究により、3世紀初めの築造と見られている。
高句麗は次第に四方に勢力を延ばし、とくに遼東方面への進出に積極的であり、玄菟郡をさらに西に追いやった。
後漢の統制力が黄巾の乱により弛るむと、遼東には公孫氏が自立するようになり、高句麗と対立した。
197年に第9代の故国川王が死んだ後、王位継承をめぐって発岐と延優(後の10代山上王)との間に争いが起こり、卒本に拠った発岐は公孫度を頼って延優と対立したが、丸都城に拠った延優が王となって発岐の勢力を併呑した。
公孫氏が魏の司馬懿に滅ぼされた後は、魏と国境を接して対立するようになり、魏の将軍毌丘倹により246年に首都を陥落させられた。
東川王は東に逃れ、魏軍が引き上げた後に首都を再興した。
このときに築城された都を平壌城というが、丸都城の別名または集安市付近の域名と考えられており、後の平壌城とは別のものである。
その後も遼東半島への進出を目指し、西晋の八王の乱・五胡の進入などの混乱に乗じて312年に楽浪郡を滅ぼし、更にこの地にいた漢人を登用する事で文化的、制度的な発展も遂げた。
しかし、遼西に前燕を建国した鮮卑慕容部の慕容皝に首都を落され、臣従せざるを得なくなった。
355年には初めて前燕から〈征東将軍・営州刺史・楽浪公・高句麗王〉に冊封され、中国の国家が朝鮮諸王を冊封する態勢の嚆矢となった。
前燕が前秦に滅ぼされると引き続いて前秦に臣従し、372年には僧侶・仏典・仏像などを伝えられた。この間、371年には百済の攻撃に王が戦死するなど危機に直面する。

391年に即位した19代広開土王(好太王)は後燕と戦って遼東に勢力を伸ばし、南に百済を討って一時は首都漢城(現ソウル特別市)のすぐ傍まで迫り、百済王に臣従を誓わせた。
このころ倭の朝鮮半島への進出が顕著となる。
391年、倭が海を渡り百済・新羅を破り臣民とした。
393年、倭が新羅の都を包囲するなど、たびたび倭が新羅に攻め込む様子が記録されている。
いったん高句麗に従属した百済であるが、397年、百済が阿シン王の王子腆支を人質として倭国に送り国交を結すび、399年、百済は高句麗との誓いを違えて倭と通交し、倭の侵攻を受けた新羅は高句麗に救援を求めてきた。このため広開土王は新羅救援軍の派遣を決定する。
400年、高句麗軍が新羅に入ると、新羅の王都に倭軍が満ちていたが、任那・加羅に退いたため高句麗軍はこれを追撃した。このとき新羅は高句麗に対する朝貢国となった。
しかし、402年、新羅も倭国に奈忽王の子未斯欣を人質に送り国交を結すび、404年になると高句麗領帯方郡まで倭に攻め込まれている。
405年、倭国に人質となっていた百済王子の腆支が、倭国の護衛により帰国し、百済王として即位している。
5世紀、長寿王の時代には朝鮮半島の大部分から遼河以東まで勢力圏を拡大し、当初高句麗系の高雲を天王としていた北燕と親善関係を結ぶことにより遼西地方にも進出を果たしたようだ。
この時代には領域を朝鮮半島の南方にも拡げ、平壌城に遷都している。

(平壌城時期)
長寿王は西へ進出して遼河以東を完全に勢力下として手に入れた。
更に475年には百済の首都を陥落させて百済王を殺害し、百済は南に遷都した。
この時期には遼東半島、朝鮮半島の半ば、満州と、最大領土を支配するに至り、高句麗の最盛期とされる。
しかし5世紀末になると盟下にいた新羅勢力が強くなり、百済と新羅の連合勢力により領土を大幅に削られる。
危機感を覚えた高句麗は百済に接近し、中国には南北朝の両方に朝貢を行って友好を保ち、新羅との対立を深めていく。
この頃の高句麗が最も危惧していたのは北朝の勢力であり、その牽制のために南朝や遊牧民族・突厥などとも手を結ぶ戦略を採っていた。
中国で北朝系の隋が陳を滅ぼして全土を平定すると、高句麗は隋に対抗するために突厥と結んだ。
そのために隋からの4次にわたる遠征を受けるが、全て撃退し、却って隋の滅亡の原因を作った(このときの英雄が乙支文徳(ウイチムンドク)である)。
隋が倒れて唐が興ると、今度は唐から遠征を受けることとなった。これに備えて淵蓋蘇文(ヨンゲソムン)はクーデターを起こして宝蔵王を擁立し、軍国主義的政権によって唐の侵略に対抗した。
唐の太宗による2回の遠征、さらに高宗期の3回の遠征も撃退し、唐と争いながら百済と結んで新羅を攻めた。
新羅と同盟関係にあった唐は高句麗討伐の為に再度兵を起こし、660年に高句麗と友好関係にあった百済を滅ぼした。
さらに663年白村江の戦いで百済残存勢力が事実上壊滅したため、高句麗は孤立した。
高句麗の淵蓋蘇文の死後に子らの間で内紛を生じると、それに乗じて唐・新羅は連合して高句麗の都の平壌を攻め、668年に宝蔵王らは投降して、ここに高句麗は滅んだ。

(滅亡後)
高句麗の遺民は宝蔵王の庶子(あるいは淵蓋蘇文の甥ともいう)の安勝を担いで新羅に入り、新羅から高句麗王(後に報徳王)として冊封され、新羅内で684年まで命脈を保った。
また、後高句麗として渤海国及び高麗(王氏)に繋がっていくことになる。

高句麗の遺民の一部には日本へ逃れた者もいる。例えば、武蔵国高麗郡(現在の埼玉県日高市・飯能市)は高句麗の遺民たちが住んだところと言われており、高麗神社・高麗川などの名にその名残を留めている。


『高句麗の文化』について
高句麗の文化は石の文化だといわれる。
石で築かれた墓(積石塚)と石で築かれた山城が代表的である。
高句麗の山城は近年、中国や北朝鮮で大量に発見されており、また、積石塚は高句麗前期の墓制で、後期には土塚即ち横穴式石室をもつ封土墳に移行した。
高句麗墓の特徴として華麗な古墳壁画が挙げられる。
起源は中国の古墳壁画が起源とされているが、すでに前期古墳にもみられるものであり、高句麗独自の風俗や文化を後世に伝えるものとして重要視されている。
前期古墳については中国吉林省集安市付近のものが「高句麗前期の都城と古墳」として、後期古墳については朝鮮民主主義人民共和国平壌市・南浦特級市付近のものが「高句麗の古墳遺跡」として、それぞれ世界文化遺産に登録されている。

朝鮮半島国家では最も早く仏教を受容し、『三国史記』高句麗本紀では小獣林王の5年(375年)に肖門寺・伊弗蘭寺を創建して順道・阿道らの僧を配したことが朝鮮での仏教の始まりとされている。
既に東晋の僧・支遁(366年没)が高句麗僧に書を送ったことが伝えられており、小獣林王の仏教受容については国家的な取り組みであったようだ。
広開土王の時代(5世紀初頭)には平壌に9ヶ寺の建立が進められた。高句麗の仏教は老荘思想を媒介として、神仙信仰と習合していたと見られている。
神仙信仰はその後、6世紀頃からは道教として支配者層に広まっていったことが、古墳壁画に仙人・天女の描かれることからも伺える。
栄留王の7年(624年)には唐に願い出て、『道徳経』などを下賜されるとともに道士を派遣してもらい、高句麗の国内で道教の講義を開きもしている。また、仏教寺院を道観に転じることもあった。


『日本との関係』について
長野県には大室古墳群や針塚古墳に代表されるように、5世紀から6世紀にかけての高句麗式積石塚が多数分布し、東京都狛江市の亀塚古墳も高句麗式とされる。また狛、巨麻の古代地名は以下の例のように日本各地に分布する。
・甲斐国巨麻郡(現在の山梨県巨摩地域)
・武蔵国多磨郡狛江郷(現在の東京都狛江市周辺)
・河内国大県郡巨麻郷
・河内国若江郡巨麻郷
・山城国相楽郡大狛郷、下狛郷
4世紀末から5世紀にかけて倭国(日本)と高句麗は敵対関係にあったので、当時の高句麗人が自発的に移住してきたのか戦争捕虜であったのかは不明である。
しかし、6世紀になって百済と高句麗の関係が改善するにつれて倭国と高句麗との関係も友好的なものとなり、相互の通好も行われた。
570年に北陸に漂流した高句麗人が「烏羽之表」を携えており、これが正式な国書であると王辰爾によって解読され、初めて国交が開かれたと伝えられる。
7世紀前半までの高句麗と日本との国交は文化的な交流に限定されており、特に仏僧の活躍が目立つ。595年に訪れて後に聖徳太子の師となった恵慈、610年に訪れて顔料や紙墨を伝えた曇徴は有名である。
7世紀後半には文化交流に留まらず、淵蓋蘇文のクーデターを伝えるなど、政治的な関わりをもつようになった。
668年に高句麗が滅亡すると倭国に亡命してきた高句麗人もあり、716年には武蔵国に高麗郡が建郡された。
高麗郡大領となる高麗若光には705年に王(こきし)の姓が贈られており、高句麗王族であろうとされる。高麗郡高麗郷の地である埼玉県日高市にはこの高麗王若光を祭る高麗神社が今も鎮座する。
ほかにも『新撰姓氏録』には以下のような高句麗系氏族が見られる。
・狛人…高麗国須牟祁王の後(河内国未定雑姓)
・狛造…高麗国主夫連王より出(山城国諸蕃)
・狛首…高麗国人安岡上王の後(右京諸蕃)
・狛染部…高麗国須牟祁王の後(河内国未定雑姓)
・大狛連…高麗国溢士福貴王の後(河内国諸蕃)
・大狛連…高麗国人伊斯沙礼斯の後(和泉国諸蕃)

高句麗とは以上のような関係となるが、渤海国との付き合いはより親密であり、ここには菅原道真が関係しているのも何かを感じさせる。

(この文章は、いくつかの資料を参考に編集しなおしたものです。)





この項 <完>

by mo-taku3 | 2013-01-04 20:17 | (歴史)世界史 | Comments(3)

朝鮮国家の歴史【①古朝鮮】について

朝鮮国家の歴史【①古朝鮮】について

【この資料は、中国・北朝鮮・韓国・日本の歴史的関係を知る上での一助となればと思い編集している。
特に北朝鮮の存在は、中国にとって重要な位置付けにあること、そのために中国が北朝鮮を保護し続けることなど、歴史的関係を汲み取っていただければ、意味合いもおぼろげながら理解が進むのではないかと期待している。】

好評であれば、引き続きシリーズで歴史を下って紹介していきたいと思っている。




●古朝鮮


1. 概説

古朝鮮とは青銅器文化を基盤にして成立した朝鮮最初の国家である。
中世・近世までは衛満朝鮮以前の朝鮮だけを古朝鮮と呼んだが、最近では衛満朝鮮までをすべて含めて古朝鮮と呼んでいる。
遼河流域の琵琶形銅剣文化と大同江流域の細形銅剣文化が古朝鮮の文化として知られている。
紀元前3~2世紀代の準(ジュン)王の治世の古朝鮮と衛満は平壌(ピョンヤン)を都にしていたが、燕国との 戦争がある前の紀元前4世紀末から3世紀初め以前に、遼河流域のどこかに中心を置いていた。
(ここが現在の朝鮮半島 を含めた遼東の広範囲な地域であったことが伺え、前漢・随・唐などと朝鮮(高句麗など)との攻防の要因も見えてくる。)

高麗時代の僧、一然(イルヨン)が13世紀に書いた『三国遺事』と、一然が参考にした中国の史書『魏書』な どには、古朝鮮が紀元前2333年に、天神である桓因(ファンイン)の孫であり、桓因の庶孫で桓雄(ファンウ ン)の息子である檀君王倹(タングンワンゴム)によって建国されたことになっている。
遼河流域の考古学的な状況と諸々の文献記録を通して考察すると、古朝鮮は紀元前8~6世紀に遼河流域で君長社会の形態で出発し、遅くても紀元前7-5世紀代には古朝鮮という名称が中国にまで知られていたということが分る。

古朝鮮は、発達した青銅器文化と周辺の先進的な文化を受入れて文化と経済は言うまでもなく、政治的な  面でも発展を成し遂げた。
中国の史書である『魏略』によると、紀元前4世紀には古朝鮮の勢力が強大になり、中国の戦国時代の七  雄中の一つであった燕国と勢力を争うほどになっていた。
古朝鮮と戦国時代の燕国の緊張関係は表面的には燕国は王国を称していたが(称王)、古朝鮮の統治者も やはり燕国に引けを取るまいと称王していたことから推察して、当時の古朝鮮が決して弱い国ではなかった ことが分る。
このように古朝鮮と燕国との緊張関係は、ついに紀元前4世紀末から3世紀の初めに全面的な戦争という  形で表面化したが、古朝鮮はこの戦争で2000里(訳注:約800㎞、韓国の1里は約0.393㎞)余りに及ぶ  地域を奪われ、国の中心地を平壌に移すことになった。
この時期は、ちょうど秦から漢に王朝が交代した頃で、漢の初期、中国が混乱している隙に乗じて燕国をは じめとする北方の中国人が、古朝鮮の辺境に多く亡命するようになった。
燕国出身の衛満が彼らと一部の土着集団を結集させて準王を攻撃し、衛満朝鮮を建国した。
衛満朝鮮は衛満を中心にした少数の中国人亡命者集団と多数の土着集団の結集によって建てられた国で あったため、始めから古朝鮮の正統性を継承するという立場を明白にさせていた。そして、後には中国人亡 命者出身も、やはり古朝鮮人として完全に土着化したと思われる。
一方、政権を奪われた準王は航路で西海岸一帯に亡命し、そこで韓(ハン)王となった。衛満朝鮮は漢との 交易と仲介を通して実力を培養させた。そのようにして蓄積した軍事力と経済的な能力で、臨屯と真番のよ うな小国を服属させて、次第に強大国として浮上していった。
衛満朝鮮の成長は、当時、北方の強国である匈奴と対峙する局面におかれていた漢にとって危機感を惹き 起こし、結局、紀元前109年に両国の間で全面戦争が繰り広げられることになった。
当時、漢は5万人余りに達する大軍を引き連れて衛満朝鮮を攻撃した。しかし、漢が1年近くもかかって、そ れも内紛を誘導して辛うじて勝つことが出来たという点からも、衛満朝鮮の軍事力がどれほど強大であった かを推察することができる。
一方、紀元前2世紀、古朝鮮の北方には韓民族の一部が建てた夫餘(ブヨ)が勢力を広げ始めていて、南方 には辰という国があった。古朝鮮はこれらの国といっしょに高句麗、百済、新羅を形成する母胎となった。



2. 古朝鮮の位置

記録によると古朝鮮は紀元前4世紀末、中国の燕国が王国を称するのに倣って同じように王国を称したことになっている。
そして紀元前2世紀初めには衛満が準王政権を転覆させた後、王倹城に都を定めて衛満朝鮮を建国した。 紀元前109年の秋、衛満朝鮮と漢が戦った時、漢の軍隊は王倹城の防備が強固なので、長い間陥落させることが出来なかった上、紀元前108年の夏には衛満朝鮮の大臣成己(ソン・ギ)が王倹城で抗戦し、結局は最後を迎えることになったという。
この中で、衛満朝鮮はその王城である王倹城が現在の平壌市の大同江の北岸に位置していたが、これは衛満朝鮮と漢の境界の役割をした浿水(ぺス)が、今の鴨綠江(アプロクガン)という点、衛満朝鮮の都の付近に設置された楽浪(ナクラン)郡朝鮮県の治所が、今の平壌市大同江南岸の土城洞のある土城であるとい点、王倹城や朝鮮県と深い関係があることで知られている列水(ヨルス)が、今の大同江であると修正されている点を通して立証される。したがって衛満朝鮮が転覆させた準王の治世に古朝鮮の王城もやはり現在の平壌にあったことになるわけである。

準王以前の古朝鮮、言い換えれば、紀元前4世紀末から3世紀の初めに戦国時代の燕国との戦いで2000里余り(訳注:約800㎞)を奪われる前の古朝鮮の中心地は、具体的にどの地域であったかはっきりしていない。ただ、準王と衛満朝鮮の文化である大同江流域の細形銅剣文化が遼河流域の琵琶形銅剣文化の後を継いだ文化であり、琵琶形銅剣文化が遼河流域で発展したという点を考慮する時、遼河流域のどこかに古朝鮮の中心地があったであろうと思われるが、候補地としては朝陽、錦州、北鎮、沈陽、遼陽、海城、盖州などが論じられている。



3. 古朝鮮の種族とは

古朝鮮は、濊(イエ)・貊(メク)という種族が政治的に成長して発展させた国のようである。
濊貊族は朝鮮半島と遼寧省や吉林省など、現在の中国の東北地域に住んでいた住民で、古朝鮮前期の代表的な文化である琵琶形銅剣文化を形成し、発展させた。中国の諸々の史書には濊貊族に対する記録が多く見られるが、これは早くから韓民族が中国など、諸国に知られていたからである。
濊貊族は、初期に中国の遼寧省にある遼河流域を中心に古朝鮮を建国し、以後、地域的な分化を通して夫餘と高句麗に引き継がれ、周辺の民族とは区別される独自の文化と言語を発展させた。中国の史書『史記』と『漢書』には、古朝鮮を構成する中心種族としての「濊貊朝鮮」が言及されていて、『後漢書』や『三国志』には夫餘と高句麗の先住種族が濊貊だったと記録されている。
その後、これらの種族は地域によって少しずつ状況が違うが、東濊(トンイエ) 、沃沮(オクジョ)、三韓(サムハン)、百済、新羅など諸々の国の中心的な支配集団になった。したがって、韓民族の形成の根幹になった種族は、古朝鮮の人たちである濊貊族と朝鮮半島の南部にいた三韓を構成した韓族だといえるであろう。



4. 政治と経済はどうなっていたか

古朝鮮は祭政一致的な統治体制と八条禁法などの法制度を備えた韓国最初の国家である。
しかし、古朝鮮の存続期間が長いだけに、政治や社会的段階も変貌してきたが、琵琶形銅剣段階では少なくとも君長社会までには至っていたと推察される。そして細形銅剣段階では、如何様な形態であれ、国家の段階に入っていたであろうと論議されている。
古朝鮮前期の政治形態に対しては、現在までは確実な資料が発見されていないが、後期に入ると、すでに中央統治組織が整えられていた。中央には博士・卿・大夫・相・大臣・将軍などがいて、王を補佐して国を治めた。
しかし、まだ統治力が中央集権化されるまでには至らず、共同体的な要素が少なからず残っていた。
古朝鮮を構成している諸々の集団に対する中央政府の統制力が一定の範囲内で働いてはいたが、同時に各々の集団は内部的に自治的な性格を持っていた。
高位の官職を占めていた人の中には、独自の勢力基盤を持っている者もいて、自分の意見が王に受け入れられなくなると逸脱することもあった。
古朝鮮の経済は、一般的に考えられているより、早い時期にかなり発展した状態に置かれていたであろうと推察される。
このような点は古朝鮮が中国の内地と、北方の他の集団とは区別される独特な個性のある青銅器文化を発展させたということと、遼寧地域が早い時期から雑穀を中心とした農耕経済段階に入っていたということ、および周辺地域と多様な交流を行っていたということからも立証される。
特に、衛満朝鮮時代には、中国の漢と周辺諸国の間の中継貿易を通して利益を得、燕国で作られた明刀銭という貨幣を使ったりもした。
明刀銭は中国の北京から朝鮮半島に至る広い地域で発見されるが、これは古朝鮮の住民が周辺の諸々の種族とともに明刀銭を使っていたことを意味する。



5. 社会の構造

古朝鮮は少なくとも衛満朝鮮時代には階級社会は国家段階に入っていたと推察されるが、この時期には、すでに王城、官僚組織、軍隊、階級などの要素がすべて確認されている。
衛満朝鮮の国家としての成長は、仲介貿易と武力による征服でもって強化された。
仲介貿易は漢と衛満朝鮮および衛満朝鮮の周辺の諸集団の間で、武力による征服は衛満朝鮮とその周辺の真番や臨屯のような小国の間でなされた。
統治の中心である王城には王倹城が、官僚としては相職が、軍隊としては将軍の指揮の下に少なくとも1万人余りの兵士がいた。
衛満朝鮮以前には、紀元前4世紀代、王と大夫および兵士の存在が確認されているが、記録が非常に少なく、それ以上確認することは出来ない状態である。但し、紀元前4世紀から3世紀初めに、戦国時代の燕国と戦争をする前に古朝鮮が遼河流域のどこかに存在し、その一帯に琵琶形銅剣文化に関係のある遺跡が分布しているので、ある程度の推論が可能であるが、紀元前8~6世紀に遼河流域に軍事と祭政および身分を象徴する遺物が大量に副葬されている墳墓と、遺物構成が質素な墳墓が発見されていることから、少なくとも君長社会までには発展していたと推察される。
それ以外に、衛満朝鮮前後のものと思われる八条禁法の中で三条が伝えられているが、これによると、人を殺した者は直ちに死刑に処し、人に傷害を加えた者は穀物で賠償しなければならなかった。また、他人のものを盗んだ者は奴隷にしたが、許しを請うためには50万銭を払わなければならないことになっている。そして、人民は盗みをしなかったので門を閉める必要もなく、すべての女性は貞節を守っていて、淫乱やひねくれたところがなかったという。この禁法を通して古朝鮮の社会が一定の法律によって統治されている社会であって、最下位の層として奴隷が存在していたと推察することができる。



6. 神話の伝承

檀君神話は古朝鮮の建国神話で、神話の形成時点に対して様々な意見があるが、遅くとも準王の治世の古朝鮮と衛満朝鮮代には、基本的な話の筋が完成していたと見られている。
檀君神話の脈絡については様々な見解がある。つまり、檀君神話の中心をなしている檀君と熊が北アジアの文化的な伝統の中に置かれているものであり、檀君朝鮮を新石器時代、そして濊貊朝鮮(箕子朝鮮)を青銅器時代の状況がそれぞれ反映されているものとして考えたりもしている。
檀君神話を伝える記録としては、『三国遺事』以前に、すでに一然などが参考とした『古記』、『本紀』、『魏略』などがあったが、現在伝えられているものでは、一然の『三国遺事』、李承休(イ・スンヒュ)の『帝王韻紀』、権擥(クオン・ラム)の『応製詩註』、そして『世宗実録地理志』などに記載されている。その中で『三国遺事』が最も古い形式だということに学者の意見が一致している。そこで、ここでは『三国遺事』に載っている壇国神話を、簡略に整理して紹介しようと思う。
遥かな昔、天神である桓因の庶子である桓雄が人間世界に関心を持った。ところが、桓因がその心中を察し、地上の三位太白山脈を見下ろしたところ、人間を幸せにするだけのことはあるだろうと考え、彼に天子の位の印である天府印を三つ与え、人間界に降りていって治めるようにさせた。
桓雄が3000人の臣下を引きつれて太白山の頂上にある神檀樹の下に降りてきて神市と称し、風伯(プンべク)・雨師(ウサ)・雲師(ウンサ)を従わせて、穀物・寿命・疾病・刑罰・善悪など、人間世界のすべてのことを治めた。
この時、一頭の熊と一頭の虎が同じ洞窟の中で住んでいたが、いつも桓雄に、人間になりたいと願った。これに応えて桓雄が霊妙な蓬を一束、ニンニク20個を与えながら、「お前たちがこれを食べて太陽を100日の間見なければ、人間になることが出来るであろう」といった。熊と虎はそれを食べながら21日間禁忌したのだが、熊は女性になったが、虎は禁忌を守ることが出来ずに人間になれなかった。
ところが人間になった熊女が、今度は神檀樹の下で結婚相手を求める願をかけた。これに応じて桓雄がしばらく人間に変身して、熊女と結婚して息子を産んだ。まさしくその子が古朝鮮の建国者である檀君王倹である。檀君王倹は紀元前2333年に即位したが、白岳山(ペクアクサン)阿斯達(アサダル)などに都を定め、1500年間国を統治して、1908歳の時、阿斯達で山神になった。

(この文章は、いくつかの資料を参考に編集しなおしたものです)






この項 <完>

by mo-taku3 | 2012-12-26 22:57 | (歴史)世界史 | Comments(3)