天空の城「備中松山城」

備中松山城


関西の番組に“よーい ドン!”というのがあり、結構気に入っていてよく見ているが、その番組で備中松山城と吹屋ふるさと村という、高梁市の観光名所を紹介していた。
たまたま岡山に行く用事があり、用を済ませた後、備中松山城に行ってみた。

このお城は、天空の城また雲海の城との評判でしたので、天空の城で知られている兵庫県の竹田城と何がどう違うのか、ということが大変興味がありました。
行ってみて、分かったことは、
①竹田城より約100m高いところにある城(430m)であること。
②竹田城は天守閣が残っていないが、この城は天守閣が残っている最高地の城とのこと。

天空の城といえば、雲海ですが、この雲海は当然何時でも見れるものではないが、高い山々に囲まれたこの地域は非常に雲海が出易いのではないかと想像できます。
最初はパンフの写真には、お城の全貌が載っています。

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この写真からわかるとおりこの城の奥には、更に高い大松山城があったようです。
この城は山中鹿之助の尼子家や毛利家など、戦国時代の重要な拠点だったようです。
下の復古図には歴代の主が書かれています。

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いざ、登城。どうも気になる節目節目のこの立札。見るとホッとしますが。

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山城なのでこのような石垣の構造になっていました。

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また気になる立札。

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石垣の構造です。何ヶ所か崩れているところがあり、崖崩れ感知システムが京都大学と提携して本格的に設置されていました。

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またまた気になる立札。
それと「ようこそ!日本一高い山城へ」という文字が、飛び込んできました。

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と同時に、天守閣が見えました。
のどがカラカラでしたが、程よい熱さのお茶がよういされていました。ホッと一息しながら、案内ビデオを一通り。

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天守閣は2層でしたが小ざっぱりしたものでした。

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天守閣からは下界がよく見え、このような格好で見ることができます。
写真のとおり、この町は高い山々に囲まれ、雲海の発生がしやすい状況が分かる。天守閣に登ってみて更に実感した次第です。

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“大義であった”の立札。なかなか!

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これは、松山城の城下町の復古図です。
この城下町は、鎌倉時代からの歴史のある町で、この町からは庭師で有名な“枯山水の庭”の小堀遠州が出ています。
また、幕末には老中首座で大政奉還に立ち会った、「板倉勝静」がでている。

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この城下町の保存されている、武家屋敷を紹介する。
この武家屋敷は、石火矢町ふるさと村に2軒保存されている。(旧折井家、旧埴原家)

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埴原家では、玄関で動く人形が迎えてくれる。(きちんとお辞儀をしてくれます)

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居間の武家家族のシーン。かなりリアルでした。
展示室には鎧兜や古文書が展示されている。

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高梁市のポスター“「日本三大山城」山城を活かした街作り”は備中松山城、大和高取城、美濃岩村城あげられている。

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この城は、決して派手な宣伝はされていないが、歴史と独自に発展した山奥のこの地域は、今や高速道路も通り、色々な史跡・風物が興味をそそる環境が整ってきた。
これから高梁市がどのように形でこの文化を表出していくか楽しみである。
是非頑張ってほしい。


この項 <完>

by mo-taku3 | 2011-10-30 00:59 | (歴史)関西史 | Comments(3)

京都の三大祭「時代祭」が華やかに行われました。

京都の三大祭「時代祭」



京都の三大祭「時代祭」が華やかに行われました。
時代祭は毎年10月22日と決まっておりますが、22日は大雨予報ということで、23日に順延になりました。
順延は10年振りだそうです。

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私は京都に住んで15年になりますが、時代祭は初めての見学となります。
というのは、京都の方々もそうだと思いますが、歴史行列の割には歴史の深さを感じさせない見せているだけのお祭の感じがし、何か中途半端な感じを抱いているからです。
それを払拭する意味でも今回は、良い場所に陣取り、しっかり見てこようと巡幸スタート(12:00)の2時間前から、御所内を歩き回り、係りの方・警備の方等に絶好の場所はどこかをお聞きし、建礼門前の招待席の直ぐ横を確保することができました。(11:00頃)

この建礼門の前は巡幸スタート前のセレモニーが行われる所で、全ての巡幸列のスタートの起点になっており、最高のポジションは間違いありませんでした。
建礼門とは、御所の中心にある内裏(元々は天皇の住まう所)の表玄関にあたる南門を指す。

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建礼門前には、2基の神輿のようなものが置かれ、祭壇のようになっています。
写真を見ていただくとよく分かると思いますが、最初、見たときはこれがどうなるのかが分かりませんでしたが、後でわかったのは、この神輿が時代祭の主役(後述)だったということです。

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さて、いよいよ巡幸が始まりました。
先頭は意外も意外、2人の女性騎馬警官でした。颯爽とした乗り手で、周りには徒歩の強者(警官)が付き添っていました(しかし巡幸行列には含まれません)。
これも後で気づいたのですが、この騎馬警官以外は馬の轡をとる従者が必ず居ましたが、こ騎馬警官は従者なしという状態で、兎に角かっこよく見えました。

明治維新に明治天皇のお声係で始められた祭りには、当時の英雄である「維新勤皇隊」がピーヒャラドンドンドン!の囃子とともに進み、神霊が宿った御神体(神輿;御鳳輦という。先の御鳳輦が西本殿の孝明天皇、後の御鳳輦が東本殿の桓武天皇それぞれを御神体となっている。)に向かって拝礼し、これで神前セレモニーは一区切り。

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続いて京都観光協会の女性たちが着飾り、京都のアピールを横断幕を持って進んでいきました。
これが神幸の先頭になっています。

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その後、京都市長たちが満面の笑みを浮かべた馬車が続いていきました。

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ここからが、「時代祭」の本体が進んでいきます。
先程の、「維新勤皇隊」を含めた明治維新が先頭で進みます。


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「維新勤皇隊」に続き、勤皇の志士の行列が続きます。
長州への七卿落ち(蓑笠の一群)の公家が三条実朝を先頭に進み、その前方を、桂小五郎(木戸孝允)・西郷吉之助(隆盛)・坂本龍馬・中岡慎太郎・高杉晋作・吉田松陰などで囲んで進みます。
七卿の護衛は久坂玄瑞がしております。

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次は江戸時代。
徳川城使上洛列となっています。
徳川幕府は恒例として、年始や大礼などには必ず城使(親藩又は譜代の諸侯)を上洛させ、皇室への礼を尽していた。
先頭を行く槍持ち・傘持ち・鋏箱の“ヒーサー”という掛け声は往時を偲ばせています。

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皇女和宮の輿や吉野太夫などがやってきました。
全体的に女性がきらびやかですね。
女流歌人の(太田垣)連月、当時の衣装比べの逸話に出てくる中村内蔵助(貨幣鋳造の富豪)の妻、池大雅の妻(玉蘭)などが出ています。

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また、出雲の阿国が続きます。

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安土桃山時代に入ります。
豊公参朝列は、豊臣秀頼の初参内や元服時の華やかな参内風景を再現したもののようです。

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どうゆう訳か「牛車」が出現しました。牛車の周りには7・8人の人がいてしっかりサポートしていました。また、予備の牛も一頭連れていました。

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信長の前後を四天王(羽柴秀吉、丹羽長秀、柴田勝家、など)が固めて行進しています。

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織田信長の行列はかなり力を入れた充実したもののように見えました。

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次に、室町時代になります。

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足利将軍は馬上で烏帽子姿で豪華な衣装で進んでいきました。

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応仁の乱が始まる前までは細川勝元と山名宗全の両巨頭が幕府を支えていたいました。
しかし、2人は領国の広さや寄騎勢力が拮抗していたらしく、将軍継嗣問題がきっかけとなり、更にそれ以外の継嗣問題を理由付けて、国内を真っ二つにした骨肉相食む戦いが“応仁の乱”として勃発したわけです。
その結果、各地に守護大名に代わる戦国大名が、下克上の形で出現している。
当時の戦では、権益を確保するために、優位な方に付くのは当たり前で、常に離合集散が日常茶飯事だったようです。
この時代は一族郎党の安泰のための行動はするのが当たり前でした。
信義を重んじるようになったのは、やっと江戸時代に儒教を取り入れてからになります。

☆(余談ですが)歴史の見方は、江戸時代を境に全く変えてみなければ、何故歴史はそうなったのかの判断を間違えることになります。
例えば、鎌倉時代に儒教教育がなされていれば、その後の室町・安土桃山時代は大きく変わっていたことでしょう。

さてその“応仁の乱”の張本人の2人の行進です。

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室町時代の風俗。
室町時代は、足利幕府がしっかりしていない分、町衆がしっかりしていたようです。

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吉野時代(建武の中興)とは、楠木正成公活躍の南北朝時代です。

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楠公御一行

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中世の婦人列です。
淀君、静御前、大原女(おはらめ)・桂女(かつらめ)が続きます。
大原女は京都大原の女性で、薪や炭などを頭に載せて京の町に行商に出ていた。
また、桂女は京都桂に住むアユ売りの商人。巫女の一種で、慶事の祝いにも訪れたという。

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鎌倉時代は「城南流鏑馬列」です。
後鳥羽上皇が朝廷の権威回復のため、城南宮で近畿十余国の武士を集めてこの流鏑馬を行ったそうです。

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藤原時代(平安時代)です。
藤原氏がもっとも栄えたのは、平安中期以降ですがその頃の文武両方を表したもの。

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巴御前(木曽義仲の妻)の男勝りの活躍は有名です。

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常盤御前と紫式部/清少納言が進みます。

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小野小町
平安時代の歌人の1人で当時六歌仙・三十六歌仙の1人に数えられるほど、歌に関して秀でた人物で、特に百人一首などで歌われた有名な歌に「花の色はうつりにけりないたづらにわが身世にふるながめせしまに」などがあります。又、容姿端麗で宮中一と云われ、今ではエジプトのクレオパトラや中国の楊貴妃と共に世界三大美人と呼ばれています。

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百済王明信
桓武天皇の世になり平安時代に入ると、百済王家から急に多数の女性が宮中に召されるようになり、そのうちの幾人かは皇子・皇女を儲け、三位以上にも叙せられています。このように百済王家に繁栄をもたらした女性。明信は桓武後宮の頂点にあり、絶大な権力を握っていたという。
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延暦時代
延暦武官行進列
この列の中心は、坂上田村麻呂で、平安初期日本初の征夷大将軍となり、蝦夷征伐に活躍した。また、清水寺を建立したのでも有名。

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延暦文官参朝列
この時代に公卿が朝廷に参上する姿。

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「神幸列」というのが最後の列になりますが、これが時代祭の主役となっています。
この列についての解説には、
「御賢木(おんさかき)を先頭に、御鳳輦(ごほうれん)を中心とした神幸の行列であります。 先の御鳳輦が西本殿の孝明天皇、後の御鳳輦が東本殿の桓武天皇で、宮司以下神職が前後につき従って御神幸されます。即ち、御祭神がこの京都を御巡幸になって市民の安らかな状況を親しく御覧になられるのであります。 
各行列は、この御神幸のお供をして行進するわけで、全行列中主たる意義を持つ列であります。」
というのがありました。

※神幸とは
1 祭事や遷宮などのとき、神体がその鎮座する神社から他所へ赴くこと。
2 神が臨行すること。
と辞書に出ています。
また、神幸祭(しんこうさい)とは、「神霊の行幸が行われる神社の祭礼。神幸式(しんこうしき)とも。多くの場合、神霊が宿った神体や依り代などを神輿に移し、氏子地域内への行幸、御旅所や元宮への渡御などが行われる。神輿や鳳輦の登場する祭礼のほとんどは、神幸祭の一種であるといえる。神幸祭は「神の行幸」の意味で、広義には行幸の全体を、狭義には神社から御旅所などの目的地までの往路の過程を指す。後者の場合は目的地からの神社への復路の過程に還幸祭(かんこうさい)という言葉が用いられる。神幸祭・還幸祭と同じ意味の言葉に渡御祭(とぎょさい)・還御祭(かんぎょさい)という言葉があり、渡御祭も広義には行幸(渡御)の全体を指す。」
と解説があった。


いよいよ神幸列のスタートです。

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先の御鳳輦が西本殿の孝明天皇、後の御鳳輦が東本殿の桓武天皇となります。

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総長、奉行の馬車が続きます。

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最後にまたまた大原女・桂女が続きます。

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弓箭組列(最後列)
京都・丹波には昔から弓矢が盛んで、桓武天皇が平安遷都を行ったとき、その列を警護している。また明治維新では山国隊とともに戦ったとのこと。

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以上が時代祭の巡幸でした。


巡幸は「ここ(建礼門前)を出発し御所を出て丸太町通を右に。烏丸通を下って(南へ)御池通を左へ河原町通まで進み、更に河原町通を三条まで下り、三条通を左に平安神宮の大鳥居まで進み、大鳥居をくぐって平安神宮に至る」行程を進みます。
巡幸がすべて終わるまで、2時間半かかります。

全ての巡幸列が終わり、ベストポジションの建礼門前を離れ、列を追ったが結構進んでいて途中であきらめました。

ここで、時代祭の感想を一言

☆祇園祭などもそうですが、何が主役か時代錯誤が入り混じっているように感じたのは私だけではないような気がします。更に奇異な感じを受けたのは、時代にマッチしない江戸時代の武士の服装で殆どの行列に一団となって行進していました。
これは京都の毎年特定の学区が行列を担当していますが、その世話人が一団となって行進しているようです。
時代祭をもっと盛り上げることに腐心する必要があるのではないかと思う。
今年は観客が減っています。日曜日で晴天ということで、普通であれば京都市民は勿論、近辺の人たちが大勢押し寄せてもいいはずですが、減っています。
どうゆうことでしょうか。

何とかもっともっと盛り上がるお祭りにしたと思います。
明治天皇がせっかく京に元気をと始めたお祭りですので・・・。

この項 <完>

by mo-taku3 | 2011-10-24 17:24 | Comments(3)

中島みゆき・吉田美和の共通点・・・と安住紳一郎のオマケ。

中島みゆき・吉田美和の共通点・・・と安住紳一郎のオマケ


北海道帯広市から何を想像しますか?
☆マイナス30℃の極寒
☆バターサンドの「六花亭」
でしょうか???

実は2人の歌姫が同じ高校から出ています。
それが、中島みゆきと吉田美和
なわけです。

実は筆者も同じ高校の出身で彼らの大先輩となるわけですが、私が伝え聞いている彼らの高校時代のエピソードを少し紹介しましょう。
出身校名は、北海道立帯広柏葉高等学校といい、旧制帯広中学が前身となります。

さて、歌姫のエピソードですから、音楽についてがいいと思いますので、まずその辺りから。

彼ら2人の高校時代の音楽の先生だったW先生からお聞きしたこととして、

(中島みゆき)
彼女は人懐っこく、かわいらしい子だったそうです。
この頃から曲を作っていて、できた気に入った曲を持ってきて、“先生!聞いて、聞いて”と言って聞かせてくれたそうです。
それがあんな大物歌姫になって・・・。とうれしそうでした。

(吉田美和)
彼女はよくわからない子だったそうです。
音楽の授業中も、しょっちゅう窓の外を眺めてボーとしており、時々注意していたそうです。今になって考えれば、メロディーか歌詞か分からないが曲を考えていたのかなぁ???とのことでした。
しかし、卒業文集には、“ユーミンを超える”と書いてあったことは、有名ですね。しかも、有言実行なので素晴らしいの一言ですね。

ちなみに、W先生は生徒からも慕われ、特に合唱から吹奏楽まで熱心に指導されておりました。
また、退職してからもその情熱は衰えず、実家の納豆店の納豆の如く粘り強く、ママさんコーラスを率い、北海道代表として常に上位に君臨していた?いる?と聞いております。

また、最近フリーになる、ならない、で話題になっている安住紳一郎も同じ高校の出身です。
好きな女の子と同じ高校に入りたい一心で勉強してやっと入ったら、好きな子は違う高校だったということのようです。

とまあ、簡単な紹介ですが、

同窓生一同?の願望としては、2人のジョイントリサイタルをやって欲しい。しかも、この司会を安住紳一郎にやってもらえたら最高ではないでしょうか

帯広柏葉高校に同窓会館「柏友館」がある。ここには同窓生に関する色々なものが展示されてるがとりわけ、2人に関する展示物が懐かしい。一度検索してみるのも面白い。


この項 <完>

by mo-taku3 | 2011-10-21 22:05 | (紹介記事)全国 | Comments(7)

岡崎城を訪れて

岡崎城のからくり時計


Web で名城100選を見ていたら、岡崎城が出ており早速行ってみることにした。
行きゃ直ぐ場所が分かるだろう程度で行くと、お城と駐車場を探すのに結構時間を費やした。
それでやっと見つけて訪問すると、お城と神社に行きついた。
天守閣に登ると、街が一望に眺められ、今と昔は違うと思うが下を眺めるのは気分が最高。

岡崎城は、龍頭山の砦として三河国守護仁木氏の守護代西郷氏が築城したとされている。
この城を徳川家康の祖父である松平清康が攻め取り、城郭を整備して勢力を広げた。
徳川家康はこの城で生まれた。
その当時は、櫓や門の屋根も茅葺で、堀を掘ったその土をかきあげて、芝を植えただけの土塁がめぐらされていただけであった。
家康の父である、松平広忠が家臣の謀反によって殺害されると、岡崎城は今川家の支城として城代が置かれ、ここから桶狭間の戦いで今川義元が敗死するまで家康の不遇が始まる。
後に、家康は今川家から独立し、継嗣元康と織田信長の娘が政略結婚し、信長と連携(というより従属)したが、元康謀反との疑いを信長にかけられ妻(築山殿;今川義元の姪にあたる)子(元康)を死に至らしめた。
しかしこの間、家康は着実に勢力を伸ばしつつ、本拠を浜松城に移し、岡崎城は子の松平信康が入っていたが、元康の死後、重臣の石川数正、本多重次らが城代を務めた。
秀吉の代になり、家康が関東に移封となると、豊臣家臣・田中吉政が入り、家康に対する抑えの拠点の一つとした。
岡崎城に入った吉政は城を拡張し、強固な石垣や城壁などを用いた近世城郭に整備した。
また、城下町の整備も積極的に行い、岡崎の郊外を通っていた東海道を岡崎城下町の中心を通るように変更し、「岡崎の二十七曲がり」といわれるクランク状の道に整備され、現在の岡崎城の原型を造った。
家康が関ヶ原の戦いに戦勝後、徳川氏譜代の重臣である本多康重が上野国白井より5万石で入城し、以降、徳川政権下では家康誕生の城として重要視され、譜代大名が歴代の城主を務めている。


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隣りの神社は龍城神社といって、天井に大きな龍の木の彫刻が貼り付けてありました。近くで見ると見事な彫刻でした。
この神社の謂れは、社伝によると、三河国守護代西郷稠頼が岡崎城を築城したさいに龍神が現れ、城の井戸から水を噴出させて天に去っていたという逸話がある。以降、天守に龍神を祀り、城の名を龍ヶ城、井戸の名を龍の井と称したという。
時代が下がって、岡崎城で徳川家康が誕生したさいにも金色の龍が現れたと云われている。
大正3年に県社となっているが、 社殿は昭和23年(1948年)に焼失。現在の社殿は昭和39年(1964年)の再建されている。

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家康公の遺言(遺訓)碑がありました。

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ここからが本題の「からくり時計」です。
途中で顔の表情が一瞬にして変わる(翁になる)のがお分かりいただけると思います。
じっくり眺めてください。
はっきりわかるのは、翁の眉毛が白く変わっていることである。(一瞬の変化芸)

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からくり時計の横には、本多忠勝が睨みをきかしている。

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終わった後、他を回って2度も見てしまいました。
なかなか面白い!


家康は武田信玄との三方ヶ原の戦い散々な目にあったが、その後、そのときの事をつねに教訓としていたらしい。
下の「しかめ像」(しかめっ面)は、徳川家康の肖像画を石像にしたもので、こんなエピソードからきている。

三方ヶ原の合戦で、武田信玄に散々に打ちのめされ、脱糞しながら敗走した家康は、その惨めな姿を決して忘れまいと、従軍していた絵師に描かせた「肖像画」がある。
いつも家康はこの絵を持ち歩いたという。しかし、後々、篭城せず信玄との戦いに撃ってでたことが武将としての家康の評価を高めている。

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公園には家康の銅像が鎮座していた。
岡崎では家康の偶像化は絶大の様子。

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見事な能舞台もあった。城内に能舞台は珍しい。

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城から1キロばかり離れているが、徳川家菩提寺の一つである、「大樹寺」に行ってきた。桶狭間の戦い時に逃げ帰った家康についてのエピソードが書かれていた。

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からくりは何度見ても飽きない。良い地方工芸として、この先も是非保存して欲しい。



この項 <完>

by mo-taku3 | 2011-10-19 15:22 | (歴史)全国史 | Comments(0)

淡路島の散策。

淡路島は、花・玉葱・牛丼・子供天国でした。

ぶらりと家内と淡路島に行ってきました。
淡路島は、花の島・玉葱の島・牛丼の島、そして、子供向けのテーマパークが多く存在してました。
きっと、子供は楽しいでしょうね。

連休の中日だったが、すごい混みようだったが、できるだけ混雑をさけて遠くの方から回ろうと、南あわじ市にある「淡路ファームパーク イングランドの丘」というところに行ってみました。


京都から神戸経由で明石海峡大橋を通り淡路に渡り、入って直ぐの淡路SAで一服しましたが、びっくりすほど凄い車と人でした。
早速写真ぱちぱち、海は少しかすんでいましたが、明石海峡大橋がなかなかでした。

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この混みようだと狭い淡路島は人ごみになると思い、奥の方から攻めようとそのまま約80km飛ばして高速を下り、淡路ファームパーク イングランドの丘(正式名)に到着(10:00頃)。
パーク前の駐車場にはすでに、200台位来ており、オッと!
園の案内板を見ると、かなり広そうで、取りあえず入場(800円/人)。
(余談だが、園内には色々な乗り物があり、お子さん連れはこの乗り物すべてに乗れるチケットがお薦め。あとでわかりました!)

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淡路といえば?・・・そう、お花です。
どのテーマパークともお花が大層きれいだそうです。ここもいたるところに花壇があり、結構きれいに整えていました。

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まず目についたのは、体験工房でした。がやるのは止めました。

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地域が広いので、このような移動用のかわいいモーターカーが何ヶ所か走っており、子供たちが喜んでいました。意外と我々大人にも好評でした。

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また、体験農場があり、サツマイモ掘りの体験ができました。私は北海道出身なので、ジャガイモは結構経験がありますが、サツマイモは殆ど収穫していないので、なじみがありませんでしたが、結構イモ株がついているので童心にかえって楽しませてもらいました。(初めての経験)

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大きな温室がありました。もう花は下火でしたが、入口の所にコアラの木造がありました。何故コアラなのか疑問に思っておりましたが、後の方のコアラ館でこの置物が何故コアラかがわかりました。

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温室にはバナナやパイナップルなどもありましたが、下の朝鮮アサガオという珍しい花がありました。今の温室には華やかさはないが、もう少し早ければもっともっときれいだったでしょう。

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初めて知りましたが、兵庫県と西オーストラリア州が姉妹提携しているとのことで、それぞれの知事がメッセージを送っています。
なるほど!ですね。これで、コアラの置物の意味が分かりました。

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その結果、コアラが7頭送られて展示されていました。結構動いていたのには驚きでした。このコアラの写真は90度左に曲がっていますが、元気にユウカリ?の葉を食べていました。そういえば、園内はユウカリを沢山植えていました。

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また、大きなペリカンがいました。(このペリカンは置物ではありません。)
口を開けたところは撮れませんでしたが、こんな大きなのは初めてです。

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イングランドの丘を2:00頃出て、幾つか観光して最後に「淡路ハイウェイオアシス」(淡路SAに隣接)に寄りました。

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ここには淡路産の土産物が、一階フロア全部を占めており、2Fにはレストランがあり、新しくきれいなこともあり、すごい人でした。
淡路は四国への通過点のように思っていましたが。なんとなんと島を挙げて経済振興に取り組んでいるように感じました。その結果が沢山の人を呼んでいるのでしょう。


この項 <完>

by mo-taku3 | 2011-10-15 21:25 | (紹介記事)関西 | Comments(0)

フェルメール展(京都市美術館)

「フェルメールからのラブレター展」

6月下旬から行われている「フェルメールからのラブレター展」は、この16日で終幕とのことで、遅ればせながらいそいそと、京都市美術館に行ってきました。

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17世紀オランダ絵画として花開いた「風俗画」で、描かれた事物の一つ一つには「表面的意味」と「内面的意味」あるということです。
そのため、事物の意味を発見し、作者の「想い」を考えることに面白味があるといっています。
その事物の意味には、次の4つの描写が表現されています。
①人々のやりとり・・・しぐさ、視線、表情
②家族の絆、家族の空間
③職業上の、あるいは学術的コミュニケーション
④手紙を通したコミュニケーション

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今回京都市美術館に展示されたフェルメール作品の3つは、④を表現したものであることがわかる。
さてその作品は、
まず、「手紙を書く女」は、真珠に囲まれた机で恋をストレートに表す若き女性が描かれている。

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次に、「手紙を読む青衣の女」は、遠い地からの手紙を心配そうに読む婦人。一つ多い主のいない椅子が不在の手紙の送り主を表している。

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最後のは、「手紙を書く女と召使い」で、一度は怒って投げ捨てた手紙の主に、気を取り直して手紙を書いている様子が窺える。

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以上のように、絵の中の地図や絵画のテーマに意味が隠されています。ここでの地図は遠さや不在を暗示してます。また、壁にかかる絵は、神の慈悲を表しています。そして、一時の激怒が穏やかな顔に・・・となるわけです。
非常に奥の深い、含みのある絵画であるが、何か日本語を連想させるのは私だけではないのでは。


この項 (完)

by mo-taku3 | 2011-10-12 22:53 | (イベント)高校野球等 | Comments(0)

五条大橋・本能寺・二条城の今昔位置関係

義経・弁慶で有名な五条大橋は昔と違う場所?本能寺は?二条城は?


京都はご存じのとおり、天皇の住まいした都ということもあり、この都に上ることが、天下を制することになっていました。そのため戦乱に見舞われることが幾度も幾度もあり、その結果、人生観や独特な文化を作り出してきています。例えば、京都人は底意地が悪いとか、なかなか本音を言わないなどと、言われることが多いですが、これらは自分(身内)の身は自分で守ることが歴史的に身についてきているからではないかと思います。
このことは機会があれば、どこかで述べるとして、今回は、戦乱によって、平安京時代から現在までの中で、位置関係に変化があった京都の史跡を幾つか紹介したい。
ここでは、五条大橋・本能寺・二条城の今昔位置関係を紹介します。

とにかく位置が何度も変わっていることは珍しくなく、時の権力者の意向で場所移動・区画の変更などがかなり行われてきている。
このことは地元の人は言い伝えを石碑に置き換えたり、寺社の由来の中に挿入したりしている。
辿っていくと結構見つけることもでき、また偶然“そうゆうことだったの!”となるのである。

①義経・弁慶で有名な五条大橋の昔の位置は?
五条大橋のふもとに、石で形作られた義経と弁慶の戦う像が置かれている。
今の五条大橋は大きく南にずれている。

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大宮通松原にある五條天神宮には、五條大橋にかかわる逸話書かれている。

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豊臣秀吉が、焼け野原になった京の都を区画整理し再建したことが書かれており、松原通が旧五条通ということである。
松原通は現在の五条通より2本北に上がった通りである。実際、松原通は狭い通りである。多分京都は平安京時代から牛車が通る程度でよかったわけだから、狭くて良い訳である。

こんな逸話もある。現在の四条通はかなり広いが、以前は狭く各山鉾が速い順番を確保しようとぶつかり合いの喧嘩が絶えなかったそうだ。そのため、籤で順番を決めるようになったそうだ。

秀吉が区画整理をしたのは、機動力を身上とする戦術の持ち主だったので、狭い通りがやりきれなかったのではないか。余談だが、その上道を広げ、祇園祭も中断していたのを秀吉が再開させたている。
だが、応仁の乱は京の都を焼き尽くし、最終的に整理がされ現在の姿に近づいたのは江戸時代になってからである。



②本能寺とはの位置は?
本能寺は織田信長が明智光秀の謀反によって倒れた場所として有名であるが、当時は大寺院だったようである。
現在の本能寺は寺町を少し下がったところにあるが、信長が襲われた当時の本能寺は、堀川六角の市立堀川高校(葉加瀬太郎が出た高校)裏校舎(東側)に当時の存在を示す、石碑が建っている。

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上の説明文を読んでいただくとより詳しいことがわかる。
寺町(東京極)は地の通り寺の町で、秀吉時代にお寺が集められたところである。
ちなみに江戸時代、家康が大名の個人寺を大宮通り北大路の大徳寺に集めたことは有名である。
どちらも、京都で大きな堂宇と戦力を蓄えていた、寺院の力を削ぐことが必要だったようだ。



③二条城の位置は?
現在の二条城は江戸時代、家康によって作られたものであり、明智光秀の謀反によって本能寺の信長とともに、信長の嫡男の信忠が殺された二条城とは全く違う位置にある。

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二条城の名称は、室町時代に遡る。
足利尊氏から義満まで、3代の将軍が二条大路に有った屋敷に住んでいたことから、この名称が始まったようだ。その名称は、二条殿と言われていた。

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時代が下って、江戸時代には、その場所のあたりに、金座・銀座が建てられていた。


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その後二条大路ではないが、信長・秀吉によって、それぞれの二条城が建てられ、家康による現在の二条城になっている。
ここは家康の征夷大将軍の宣下と慶喜による大政奉還の、江戸の始まりと終わりを看取った城ということになる。

そのため京の都を治める場所として、現在の二条城の近くには、二条城を囲むようににして、京都所司代・東町奉行所・西町奉行所それぞれの跡地の石碑が建てられている。

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また、詳しいことは未だ解明されていないが、室町時代、烏丸御池のあたりは高級住宅地で足利一族が住んでいたことで有名で、その場所には、堀川御池遺跡の石碑が建てられている。

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戦乱で神社・仏閣の堂宇が小さくなったこともあるが、奈良東大寺、高野山や比叡山を見ると分かる通り、昔は本当に大きな領域を占めていたが、神社・仏閣を保護する天皇・公家・豪族(あえて大名ではなくこう呼ばせていただく)の力が落ちるとともに小さい堂宇になったり、僧兵を抱えて勢力が強くなったのを抑える意味でも、室町・安土桃山・江戸と為政者は、大名の配置換えと同じように、神社・仏閣の配置換えや、規模の縮小に腐心してきている。

これを裏付ける内容を、清水寺界隈で聞くことができた。
清水寺では、亡くなった僧兵の家族に茶屋を建てて食い扶持を与えるような保護を行ってきたとのことであった。今でもその茶屋が4軒存在している。


この項 (完)

by mo-taku3 | 2011-10-08 17:34 | (歴史)京都史 | Comments(2)

京都高瀬川の水運と角倉了以

京都高瀬川の水運と角倉了以


京都高瀬川
慶長16年(1611)に豪商角倉了以すみのくらりょうい)が開いた運河。
森鴎外の小説「高瀬舟」の舞台にもなった。
二条大橋付近から伏見港に至る南北全長10kmを高瀬舟が往来し、江戸時代には舟運によって京都の経済・文化を活性化させる役割を担った。

角倉了以
角倉了以は、大井川、富士川、 天竜川、高瀬川等の、河川開発工事を行い、 又豊臣秀吉より朱印状を得て、海外貿易を行い、晩年は、嵐山の千光寺・大悲閣に隠棲し、慶長19年(1614)7月、 61歳で亡くなりました。

角倉了以は京都嵯峨の出身で、その生涯はほぼ徳川家康と重なっている。角倉家は代々医術を本業としていたが、その傍ら土倉つまり質屋も営んでいた。了以は医業を弟に譲り、自分は土倉経営を中心に家業を発展させ、海外貿易でも文禄元年(1592)豊臣秀吉の朱印船に加わり、安南国(今のベトナム)と貿易して莫大な富を得たようだ。

家康が江戸幕府を開いて3年後に、まず、京都の保津川(大堰川)開掘の願いを出し、30数キロ上流から嵯峨までの舟運に関する権利を得た。開削を始めて6カ月後には竣工させている。
その工事に当たっては人任せでなく、自ら石割斧を振るって仕事にあたったと言われる。
保津峡の開削の成功によって搬送船が嵯峨に着き、大堰川開削により丹波地方の農作物は旧倍して運ばれはじめ、嵯峨近辺は商人の往来が多くなり発展した。
材木は筏で運送され、険しい山道を人馬で物資を搬送していた頃に比べれば、その利便は格段の差を生じた事が伺える。角倉家は、莫大な資金を投じて開削したが、開削後の水運による収益をすべて独占する事で、さらなる利益を得たと考えられる。通船の技術導入に当たっては、行舟術にすぐれた舟夫18人を了以が嵯峨に招いて、新しい水運への対応をした。舟夫の宿所は嵯峨の弘源寺で、後にこれらの船夫を嵯峨に定住させ、大雄寺の荒れ地を開拓し、ここに舟夫の居住地を作った。そこには今でも角倉の地名が残っている。(現在の京都市右京区嵯峨角倉町あたり)。他にも了以が行った通船のための河川疎通事業としては、富士川・天龍川・高瀬川等の開削がある。

高瀬川の開削
了以の名が今日にまで残る事になったのは、晩年に開削した同じ京都の高瀬川の開削である。方広寺大仏殿再建のための資材輸送を命じられていた了以は、淀川の上流で調達した木材を筏にくみ、使用許可を取っていた鴨川を遡って京の三条まで運び込んだ。
この時、鴨川を遡る事が難しいことを知った了以は、京と伏見の間に運河を造る事を考え、高瀬川の開削計画を立てたと言われる。工事は三次に分けて行われた。第一次は慶長16年(1611)から開始され、慶長19年に完成した。水がいつも濁らぬよう、樋門や汚水抜きの溝なども配置してあり、この計画が非常に優秀なものであった事がわかる。了以は商人としてだけでなく、、土木技師としても優れていた。
高瀬川開発には、了以の息子素庵(そあん)も協力している。
開発には7万5千両(150億円)を費やしたとされるが、了以は運河航行には通行料を徴収しており、当時の通行料は、
 ・幕府納入金1貫文、
 ・舟の維持費250文、角倉家手間賃1貫250文となっており、一回の船賃が合計2貫500文となる。
これから計算すると、角倉家に年々納められる金額は1万両を超えたと思われ、その経済的利益は莫大であったことがわかる。
勿論通航費を支払っても、人馬で物資を運ぶより採算性がすぐれていたから、江戸年間を通じて利用された続けた事は言うまでもない。
了以は、高瀬川の完成を見届けたかのように、竣工した慶長19年(1614)7月17日、61才の生涯を閉じている。京都洛西の「二尊院」に角倉了以の墓がある。



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川の西方の掘割を一之船入りという。ここを通行する高瀬舟の荷物のあげおろしをする船留め所を船入といった。
このあたりを起点として鴨川の水を取り入れ鴨川に平行して十条まで南下し、さらに鴨川を横断して伏見に通じていた。底が平たく舷側の高い高瀬舟が盛時には百数十艘が上下し、大坂などの物資を運びいれた。木屋町筋には「木屋町」という町名の由来となった材木屋をはじめ多く問屋が立ち並んで賑わい、船入はこの一之船入をはじめに設けられた。

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この隣には、日本銀行京都支店と京都「銀行会館」がある。

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余談だが、
更にその隣には、島津製作所創業の地があり記念碑が建っている。

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高瀬川の水は、がんこ二条苑(元角倉了以別邸・明治維新元勲、山県有朋別邸)で鴨川から取り入れられている。

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千光寺・大悲閣
渡月橋の南岸を溯って、 約1kmの嵐山温泉からさらに、 つづら折りの石段を登りつめた、山の中腹にあり、夏でも結構涼しく風も比較的さわやか。
ここからは京都の市内が一望され遠く、比叡山、 大文字山から東山三十六峰も見える絶景である。
京都市内を見下ろすと、 俗世間から解き放たれたように感じる。
大悲閣は禅宗寺院で、角倉了以(1554-1614)が、 河川開墾工事に協力した人々の菩提を弔うため、 嵯峨中院にあった、千光寺の名跡を移して、 創建したもの。
本尊の千手観世音菩薩は、 恵心僧都(源信)(942-1017)の作と伝えられ、 了以の念持仏であった。
尚大悲閣とは、 観世音菩薩像を安置した仏堂をいうが、 この千光寺のことをいう。
また、了以の像は、法衣姿で石割斧を持ち、 片膝を立てて太綱の上に座し、 今も川の安全を見守っている。

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この写真は昨年(2010年)10月に写したものだが、保津川へ注ぐ山なみの紅葉は見事である。
今年も、千光寺・大悲閣を訪れてみたいと思っている。

この項、


<この内容は色々な文献を参照させていただいた。謝辞!>

by mo-taku3 | 2011-10-02 19:55 | (歴史)京都史 | Comments(0)

佐久間象山と大村益次郎の遭難

佐久間象山と大村益次郎の遭難地


佐久間象山と大村益次郎はほぼ同じ場所で遭難にあっている。
場所は、“京都市中京区木屋町通御池上る”だが料亭「幾松」の真前である。

象山の遭難は1864年。
大村益次郎が象山遭難の5年後の1869年である。

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石碑は高瀬川の西岸に二人並んで建立されている。

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佐久間象山(1811~1864)松代藩士。
信州松代の真田家家臣・佐久間一学(国善)の長男として生まれた。
父はト伝(ぼくでん)流の達人で、幼少期から剣を習い、藩主・真田幸貫に賞されるほどの腕前にであった。

23歳の時、初の江戸遊学に出、渡辺崋山、藤田東湖らと交遊を深め、29歳で神田お玉ヶ池に私塾「象山書院」を開き、多くの門弟を集めた。
後年、「天下の師」を自称し、勝海舟、吉田松陰、橋本左内、河合継之助らに砲学を教えている。
天保13(1842)年、真田幸貫が海防掛老中の任に就くと、象山は海外事情研究を命じられ、江川坦庵に西洋兵学を、黒川良安に蘭学を学んでいる。
嘉永7(1854)年、弟子の吉田松陰がアメリカ密航未遂を企てたことに連座し、松代に9年間蟄居の身となったが、元治元(1864)年、赦された象山は、京都に入り、公武合体・開国遷都を主張する。
また、京都に入った時のいでたちが、洋装のうえ洋式鞍にまたがる騎馬姿で颯爽と都大路を闊歩したといわれているから、尊皇攘夷派のターゲットになった。7月11日、騎馬で山階宮家(やましなのみやけ)からの帰途、尊皇攘夷派の肥後藩士・河上彦斎(げんさい)らに暗殺された。翌朝、三条河原に首を晒されたとのこと。
当時、象山は西洋かぶれの傲岸不遜な人物と見られていたようで、敵も多く、暗殺後も同情の声は少なかったという。


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大村益次郎は(1824-1869)周防国鋳銭司村(現、山口県山口市)の医者の家に生まれ、はじめ村田蔵六といった。
広瀬淡窓について儒学を、緒方洪庵について蘭学を学び、嘉永の初め宇和島藩に仕えてはじめて西洋式軍艦を設計建造している。
さらに江戸に出て私塾『鳩居堂』を開き、幕府の講武所教授等を勤め蘭学者、蘭方医、兵学者としてその名をはせた。
その後、桂小五郎の推薦により長州藩に仕え、慶応2年、第二次長州征伐の折に戦功をあげ、そこから戦術家として脚光を浴びるようになった。
戊辰戦争では新政府の軍務局判事に任じられ、大総督府に参じ東北の乱を平定している。
ついで兵部大輔に任じられ、建議して軍制を洋式に改めることを主唱したため攘夷主義者を刺激し、京都出張中に、不満士族に襲われて重傷を負い、それが元で大阪にて歿した。


二人の遭難の場所は、奇しくも料亭「幾松」の前である。

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私みたいな素人目には、幾松から出てきたところを襲われたのではと思うが、そうではないらしい。

「幾松」
「幾松」は、幕末の頃倒幕運動に大きな役割を果たした維新の三傑の一人である桂小五郎(のち木戸孝允)と三本木の芸妓「幾松(のちの松子夫人)」の木屋町寓居跡である。

桂小五郎とのロマンスは文久のころから始まったと伝えられており、当時、反勢力より常に命を狙われていた桂小五郎を自らの命をかけ、機転を利かせ護りぬいた幾松の気丈さと愛の深さ、また二人の信頼関係の強さは、維新後の明治時代の人々にも多くの尊敬を集めた。
明治維新後、幾松は山口藩士の岡部富太郎の養女となり松子と改名、正式に木戸孝允の妻となっている。


この項、完。

by mo-taku3 | 2011-10-02 19:52 | (歴史)京都史 | Comments(1)

京都島原界隈事情

京都島原界隈

京都には、現在、五花街(ごかがい)といって、上七軒、先斗町、祇園甲部、宮川町、祇園東の花街があるが、かつて花街として栄えた「島原」は歴史上もっとも有名である。現在でも往時をしのばせる雰囲気が少し感じられる。

「島原」は、足利義満の時代に起こり、豊臣秀吉が公認した日本で最初の「廓」と言われている。
当初は万里小路二条あたりにあったが、京都御所に近かったために、六条三筋町に移り、その後、現在の地に移っている。その際に移転騒動があり、丁度その騒動が島原の乱と同時期だったことから、「島原」という名が使われるようになったとのことである。当時、遊女は千人を超えていたといわれ、この時代に、吉野太夫、大橋太夫、八千代太夫といった名妓があらわれている。
しかし、一番伝統のある花街が衰退したのは、格式と地域性が影響している。

「島原」は一般的に使われる俗称で、正式地名称は「西新屋敷」という。

また、現在この島原の保存については、「島原伝統保存会」や「京都市」が石碑などの整備を行っている。

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島原へは、京都駅からJR山陰線で2つ目の丹波口駅から南へ5分ほど歩いたところにある。分かりやすくて、また正面に向かうには、駅を出て五条通を東へ歩き、壬生川通で南へ歩いて花屋町通にでる。花屋町通の入口は、

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となっている。ここから約200m先が大門になるが、この入り口からは一見して島原とは気がつかないと思う。この花屋町通りを西へ進むと、老舗と思われる商家が目に入ってくるが、その中でも島原のアピールを積極的に行っている、菱屋さんがわたしの目に止まった。

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しばらく進むと、大きな木造の門が見える。これが島原大門である。

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お茶屋さんの「角屋」

大門をくぐってさらに進むと、今は民家が立ち並んでいるが、奥に「角屋」の一角が見えてくる。
かつては置屋が約50件、揚屋が約20件あったそうだ。今、唯一残っている揚屋は「角屋」で、日本で唯一現存する揚屋様式の建物である。角屋保存会の中川清生理事長は「島原は、江戸期以来の公許の花街として発展してきました。揚屋は今でいう料亭で、2階立てで、螺鈿(らでん)をちりばめた青貝の間、58枚の扇面を貼り混ぜた扇の間などがあり、いずれも華やか。
ふすま絵は円山応挙らが描いたとされ、与謝蕪村の「紅白梅図屏風」(重文)や「芭蕉・其角短冊、淡々極め」などの逸品も大切に残されている。 (保存会資料を参考)

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角屋もてなしの文化美術館となって、3月15日から7月18日と9月15日から12月15日の年2回公開されている。

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吉田松陰の義弟である久坂玄瑞など幕末の志士たちはこの角屋で会合を行ったということで、石碑まで建てられている。
久坂玄瑞は長州藩の藩士で、禁門の変(通称、蛤御門の変)で薩摩・会津藩らの朝廷警備の藩兵に破れたが、なんとか御所内に突入し鷹司邸で切腹した経緯がある。
その件が原因でその以後薩摩藩に対する長州の遺恨は深く、坂本竜馬仲立ちの薩長連合までかなりの時間を要している。

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また、久坂玄瑞は、島原桔梗屋の芸妓である辰路(たつじ;1846年 - 1910年)とはとなじみ深く、久坂玄瑞の息子・秀次郎は辰路との間の子であるともいわれている。

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輪違屋

輪違屋の創業は、約300年前、島原全盛時代で、太夫や芸妓を置いた「置屋」であった。現在は、日本最古の「廓」島原に残った唯一の「お茶屋」で「置屋兼揚屋」を営んでいるが、建物は置屋建築である。京都市の有形文化財の指定を受けており、現在も営業をしているので、入口には「観覧謝絶」の札があり、一般には非公開である。また、「一見(いちげん)さんお断り」のため、輪違屋に入るためにはお馴染みさんの紹介が必要である。


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家紋をよく見ると、「ワチガイ」が、なるほど!

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島原の「太夫」と吉原の「花魁(おいらん)について」

島原の「太夫」、幼女の頃に「禿(かむろ);大夫の両脇をかためている稚児」として唄、踊り、鳴り物、書、和歌その他あらゆる芸事を習い、その中で優れた者が「芸妓」になることができた。更にその中でも芸、品格、教養、容姿のすべてにおいて極上の者が、最高峰の「太夫」となることができた。禿から芸妓になった者のみが「太夫」になれるのであり、舞妓から芸妓となった者は決して「太夫」にはなれなかった。
太夫の身分は正5位で、殿上人として、天皇にも謁見できる身分であった。

一方、江戸時代、島原の遊郭に似せて、幕府公認の遊郭が吉原に作られた。そこでの遊女の最高峰の者を「花魁」と呼んだ。「太夫」に似せた格好をしているが、歩き方は太夫が「内八文字」であるのに対して、花魁は「外八文字」であった。
花魁は客と床を共にすることもあったのに対して、太夫は客と床を共にすると「太夫」の身分を剥奪された。
また、花魁が「女郎・遊女」であるのに対して、太夫は官位を得た「妓女」であった。


島原歌舞練場跡碑

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大銀杏(島原住吉神社跡地)

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島原の名残を残す町並み

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「東鴻路館」;平安朝の外国使節の宿泊所

島原ができたのは江戸時代だが、それよりも以前(平安時代)に外国使節(渤海国)のために作られた宿泊所が、島原に隣接している。場所は島原の西(今の中央市場の南側にかけて)かなり広範囲に建物があった模様。その石碑も保存会の手で建てられている。また、中央市場の南側にも石碑がある。

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京都の五花街は、島原に真似てある程度の格式を保持しつつ、京への出入り口にあった茶店が発展した形でであり、庶民でも利用できる形で作られものである。
しかし、太夫も禿(かむろ)も存在した形跡はない。

島原の衰退は、老舗も時代に即応できなかった典型的な例ではないだろうか。


この項、

by mo-taku3 | 2011-10-01 23:58 | (歴史)京都史 | Comments(0)