京都の台所【錦市場】には

京都の台所【錦市場】


錦市場は、京都の料亭にならぶ料理の素材や、家庭にならぶ料理の素材や惣菜等の他に、京都の名産といわれる食の老舗の産物(漬物、生麩、湯葉、等など)の出先が約400mにわたって126店が軒を連ねている。
場所は、四条高倉を上がって(北へ)一筋目が錦小路となり、東に新京極まで続いている。そこには錦天満宮が鎮座している。
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この入り口にはおいしそうなラーメンやさんがある。
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ここで錦市場の成り立ちを見てみたい。

錦市場の錦小路の歴史は古く、延暦年間(782-805)に開かれた。
それまでは具足小路(ぐそくこうじ)とかくそ小路と呼ばれていたが、時の天皇である後冷泉天皇が錦小路と改めたと言われている。
江戸時代になり、幕府が初めて魚問屋の称号を許し、上の店(かみのたな)、錦の店、六条の店を京都の特権的鮮魚市場として三店(さんたな)魚問屋とし、錦市場は本格的な魚市場への第一歩を踏み出している。
しかし、明治維新後、株仲間、三店魚問屋の特権が廃止されました。その影響で倒産が相次ぎ、大店7軒にまで激減したとのこと。
1927年、京都市中央卸市場が開業になり、錦市場は卸売(量の商い)市場から小売(質の高い商い)市場として再出発を果たしている。
1928年、青果業や精肉業などの食料品店を加え「錦栄会」を設立。ここにあらゆる食料品を取り扱う「京の台所」として再出発している。
1960年阪急電車が河原町延長し、錦小路を始めとする近隣地域の水脈が断ち切られ、井戸水が枯渇した。しかし、組合の働きかけにより、京都市より共同井水事業の許可が下り、井水設備の工事が始まった。
錦市場が開かれた理由の一つには「地下水」が強く関係している。 昔の錦では、地下水を利用した「降り井戸」で生ものを冷やして冷蔵庫の代わりをしていた。現在は、冷蔵庫があり私たちは便利に生活をしているが、当時は井戸水自体が非常に貴重であり、冷やす唯一の方法は「井戸水」だった。
その後石畳化工事が1980年、新アーケードが1993年にでき、今のスタイルが出来上がっている。


このように、明治に入ってから今まで、色々紆余曲折はあったが、現在では京都の台所として、日本国内は勿論、世界的にも旅行マップに紹介されている。特に、日本の食の安全さが徐々に浸透し、中国本土からの観光客もここのところ増え始めているようだ。

それでは、主な店舗を紹介してみよう。
錦市場では京都の旬の食材や京野菜、京漬物その他、湯葉・鰻・佃煮・蒲鉾・干物・乾物などから茶・菓子・寿司・豆腐に至るまで手に入り、試食できる店舗も沢山ある。そのままお店で食べて帰ることもできる。観光客に人気なのが、豆腐、京漬け物といったところ。
ちなみに、2006年、錦市場は経済産業省が選定する全国の「がんばる商店街77選」に選ばれた。
一つ一つの説明より、視覚で感じていただこうと思う。

生牡蠣を中心に、貝をその場でさばいてくれる。
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有名な漬物の「西利」。
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上賀茂神社の側にある、焼もち。
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丹波の黒豆を中心とした豆やさん
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行列ができる豆腐屋さん
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生麩のお店。乾いた麩しか見たことがなかった私もびっくりの食感のよさがなんともいえない
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やはり、元魚市場だけあってさかなやさんも多い
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直ぐ食べれる総菜屋さんも年寄りが多い京都では大事な店となる
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京都は漬物屋さんが多く、この市場には5・6軒位ある。
私はこの打田漬物が好み
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京野菜唯一の店
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食事処も随分増えた。「わらい」というお好み焼きもある
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花屋さんがチラホラ増えてきた
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餅屋さん。右に見える臼で年末には大忙しとなる
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見事な奈良漬専門店
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京都ならでわのかわいいお菓子。金平糖も置いてあります
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卵焼きでよくテレビにも取り上げられる三木鶏卵
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京都はちりめん山椒が有名であるが、このような佃煮屋さんが多い
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焼きポンといってよく買う焼いた栗の店
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有名な刃物の店「有次」
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種類が豊富な上、京都独特の食文化にも触れることができると思う。
食べ歩くもよし、視覚で楽しむのもよし、四季折々の旬な食材が並ぶこの商店街は、何度足を運んでも飽きさせない品揃えと人の魅力がある。錦市場に是非一度足を運んでみると楽しいかもしれない。



この項 <完>

by mo-taku3 | 2012-01-29 23:38 | (歴史)京都史 | Comments(2)

京都神泉苑と節分の恵方社

京都神泉苑と節分の恵方社


今日は1月27日。もう直ぐ2月3日の節分になります。
ここでは、神泉苑と、日本で唯一の“恵方社”の面白さを紹介したいと思います。

神泉苑(しんせんえん)は、京都市中京区にある東寺真言宗の寺院で、二条城の南に位置し、元は平安京大内裏に接して造営された禁苑(天皇のための庭園)でした。
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説明板には
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このように書かれています。

境内に「大歳神:歳徳神(さいとくじん)」を祀る恵方社あり、毎年大晦日の晩に恵方に社の向きを変える点が他の神社仏閣と異なり、日本国内で毎年向きを変える「大歳神」は唯一ここだけに見られる祀り方であると伝えられています。
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平安京造成時には平安京の大内裏の南西に当り、低地となるところで、気功的に言うと「水の取り入れ口となり、羅城門での吐き出し口になる」と言われてきています。
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現在の神泉苑を見ると、規模が小さくパッと見、余り重要な重きのある社寺には見えませんが、歴史的に見れば、例えば、「八坂神社の祇園祭の始まりは、疫病を沈めるため八坂神社から神輿が神泉苑に行き、祈願した」とあるように、今でもこの行事は行われているようで、重要な地位を占めていたのは確かなようです。
もう少し講釈を加えると、
延暦13年(794年)の平安京遷都とほぼ同時期に造営された禁苑で、当初の敷地は二条通りから三条通りまで、南北約500メートル、東西約240メートルに及び、池を中心とした大庭園であったようです。
「日本紀略」によると、延暦19年(800年)7月19日(旧暦)、桓武天皇が行幸したという内容がかかれており、また、延暦21年(802年)には雅宴が催されたとあり、この頃から神泉苑は天皇や廷臣の宴遊の場となったようです。
神泉苑には竜神(善女竜王)が住むといわれ、天長元年(824年)に西寺の僧と、当時、東寺の僧だった空海が祈雨の法を競いあい、空海が勝ったことから以後東寺の支配下に入るようになったとい言われています。
貞観5年(863年)に都に疫病が流行った際、神泉苑で御霊会が行われました。貞観11年(869)には神泉苑の南端(現在の八坂神社三条御供社(現在三条商店街に面して現存))において、全国の国の数と同じ66本の鉾を、神泉苑の池にくりこみ、厄払いをした。
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後世には、これが町衆の祭典として、鉾に車を付け、飾りを施して京の都を練り歩く、祇園祭へとなる。(また、異説によると、祇園社から神輿を出し、現在の祇園祭の元になった)と言われています。
中世以降は2度の大火に見舞われ、平安京自体が全く造営された時点の様相も一変し、すっかり荒廃して勝手に家が建てられていったといわれてます。
徳川家康が二条城を造営した際(慶長8年(1603年))には神泉苑の敷地の大部分が城内にかかり、規模を縮小したとされていますが、その時はもとあった地域が既に見る影も無かったのではないかと思います。
さらに、1783年(天明8年)の天明の大火で、堂塔社殿を焼失した。
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伝承では源義経と静御前が出会った場と言われており、京都市の東西に伸びる通りの一つ「御池通」の名前の由来であるとの説もあります。
二条城の南(押小路堀川東入ル)には昔の神泉苑の東端を示す石碑が、京都市営地下鉄東西線工事の際に発見されたものです。

平安京(大内裏)の南東隣りに位置したこの神泉苑には、大池、泉、小川、小山、森林などの自然を取り込んだ大規模な庭園が造られており、敷地の北部には乾臨閣を主殿とし、右閣、左閣、西釣台、東釣台、滝殿、後殿などを伴う宏壮な宮殿が営まれていました。
地下鉄東西線建設に伴う発掘調査によって、大池の北岸、泉から池に流れ込む小川(遣水)など庭園の北部を検出しています。
小川河口のすぐ西側の池の北岸には、長さ約4mを測る厚い板材が設置されており、船着き場の足場板と見られます。ここでは、船着き場の足場板を検出状況に即して復元展示しています。
平安時代初頭頃には、苑池での管弦の宴などに用いられた竜頭鷁首の舟などが着き、貴族たちが南庭へと下り立ったものと想像されます。
また繰り返すが、「祈雨」については、天長2年(824)淳和天皇の勅命により弘法大師空海は神泉苑の池畔にて祈られ北印度の無熱池の善女龍王を勧請(呼び寄せられ)された。日本国中、雨が降り、人民が大いに喜んだとあり、これ以降神泉苑の池には善女龍王がお住みになるといわれている。
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五位鷺(ごいさぎ)の謂れについては、醍醐天皇が神泉苑に行幸になったときに鷺が羽を休めていた。
帝は召使いにあれを捕らえて参れと仰せられた。召使いが近づくと鷺は飛び立とうとした。
召使いが「帝の御意なるぞ」と呼びかけると鷺は地にひれ伏した。帝は大いに喜ばれ、鷺に「五位」の位を賜った。以降、鷺は「五位鷺」と呼ばれ、謡曲にも謡われるようになる。
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不思議なことに、この池に飼っているわけではないが、「こさぎ」をこの池でかなりの頻度で見ることができる。

このように恵方社の紹介が神泉苑の紹介になってしまいました。


この項 <完>

by mo-taku3 | 2012-01-27 15:19 | (歴史)京都史 | Comments(6)

豊臣秀長の大和郡山城を散策(2010・01・29)

豊臣秀長の大和郡山城を散策


陽もポカポカしてきたので、奈良方面の散策に出かけてみた。
一度行ってみたいと思っていた、大和郡山に下りることにした。

近鉄急行で橿原神宮行きに乗り、郡山で下車。
駅前から、ルート地図を見て進むうち、箱本館「紺屋」というのに出会った。
看板には、「箱本とは、郡山町内にあった自治組織で、江戸時代には13町がこれに加盟しており、これらの町が交代で治安維持や消火活動に当たる住民自治の先駆けとなる制度」と説明されていた。
「紺屋」とは、豊臣秀長時代に成立した、藍染めの職人町だったようだ。
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ここからまたしばらく歩くと、池が点在しているのが見えてきた。
これは、郡山は金魚の産地ということだった。しかしこの時期、池には金魚はいなく、又出直すことにして、

次の郡山八幡宮に出会った。
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次に進むと、古墳があった(新木山古墳)。奈良は古墳が多く殆どどこでも見ることができる。
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この古墳の周りには幾つかの古墳が点在していた。

またまた、しばらく歩いていくと、お寺があった。
このお寺は柳沢家(吉保の次の代に甲府から移封されて明治まで続いた)の菩提寺ということで立派なお寺であった。
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ここを離れて、いよいよお城に向かうことにした。
目的地、大和郡山城は筒井順慶から何人かの武将を経て、豊臣秀長が100万石大名として入部した。
その後、増田長盛、水野勝成、松平、本多などの後、柳沢家の居城となった。
まず、かなり深いお堀があり、
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お城に入ると、まず目についたのは、柳沢神社であった。
多分、柳沢氏の治世が長いことと、文武両道を推奨していたのではないかと思うふしがある。
この城内には、郡山高校があり、武道が盛んなところでもあった。
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更に奥に進むと天守閣らしきものがあった。そばに行くと、「さかさ地蔵」の説明があった。
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豊臣秀長に関する本を読むと、賢人で慈悲深いような内容が多くみられるが、この城の築城時の石集めを見た限り、そうとも言えないのではないかと思えてきた。
それはさておき、天守跡に登って見た風景は、大和郡山の町が見える、なかなかな眺望だった。
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きっと当時の天守閣からの眺望は見事だったのではないか。

お城は取りあえず出て、郡山高校の前を通り、お堀沿いにしばらく行くと、大きな門に出会った。説明によると、
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とあった。
この城門は【追手門(梅林門)】とある。(どうゆう訳か、この城門の写真を撮り忘れている)

ここまでの道のりは既に7・8kmほどではないか。もっとかもしれない。どこかで休む必要がある。
しばらく休憩して、再び歩き始め、

秀長のお墓があり、菩提寺でもある春岳院に行きついた。
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残念ながら、中に入ることはできなかった。

最後の見学が終わり、ところどころ古い街並みをみながら、駅に向かい帰途に就いた。

郡山にはまだまだ見たいところがあった。
ただ記憶に残ったのは、小さな神社のお婆ちゃんにつかまり、神社の自慢とともに、維持が大変だということと、奈良県は京都と違って、文化財は多い割に国宝・重要文化財の指定が少なく補助が足りないと嘆いていたことだった。
確かに、この神社の建物も小さい割には立派だった。歴史もあり古い造りでもあった。
是非、国も県も市も補助してあげたらと思う私だった。




この項 <完>

by mo-taku3 | 2012-01-20 23:18 | (歴史)関西史 | Comments(2)

昇り龍(飛龍乗雲) 襖絵&書道

昇り龍(飛龍乗雲) 襖絵&書道

伏見稲荷大社へのお参りの帰り、京都駅前の地下街(ポルタ)で、新春の“龍”を主題にした寺院の襖絵の写真や、京都の女性書道家【高岡亜衣】さんの書道による昇龍が展示されていた。
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写真は、建仁寺の襖絵ほかが展示されていた。写真だが非常にいい状態と言える。
写真を早速見ていただこう。
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力強い書道を紹介しよう。
女性書道家の高岡亜衣さんは京都で活躍する書道家です。
 http://www.takaoka-ai.com/ をご参照ください。
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ポルタではこのようなイベントが中央広場でよくおこなわれています。

京都は、地下街がごく限られたところにしかなく開発が非常に遅れている。
しかし、行政ばかりを責めるわけにはいかない理由があるのも事実だ。
というのは、京都市街の地下には遺跡が眠っている。掘り起こすと必ず遺跡が出てくる。
だから、ビルの新改築、地下街や地下鉄の開発などは、他都市に比べて時間がかかるのが当たり前になってくる。

ということなのでお許しください。


この項 
<完>

by mo-taku3 | 2012-01-09 17:00 | Comments(0)

日本最古の「ランプ小屋」と東海道線のルート(2月3日更新)

日本最古の「ランプ小屋」と東海道線のルート


伏見稲荷大社へのお参りの帰り、面白いものを見つけました。
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読んでびっくりです。

JR東海道線のルートが、膳所(ぜぜ;JR東海道線)ー大谷(山科の更に大津寄り)ー山科ー稲荷ー京都という、明治11年~大正10年まで、稲荷経由だったということを初めて知りました。
京都在住の人に聞いても誰も知りませんでした。
かなり、難ルートだったでしょうね。

実はこのルートの一部(京都駅から伏見稲荷あたりまでの6Km)が、後に日本初の電気鉄道のデビューとなったところと言われています。(ブログ;日本電気鉄道事業の発祥をご参照のこと)
ただ、このルートは現在宇治経由の奈良までのJR奈良線ですが、かなりの期間単線で今でも一部は単線のままです。初と進化は別物ですね。

この説明板の後ろには「ランプ小屋」なるものが存在してました。
が見学することはできませんでした。
これがJR上の一番古い現存する建物とは・・・。

歩いているとこんな発見があります。他にも・・・。




この項 <完>

by mo-taku3 | 2012-01-07 15:20 | (歴史)京都史 | Comments(0)

京都伏見稲荷大社 初詣

京都伏見稲荷大社 初詣


1月7日、伏見稲荷にお参りに行った。
自宅からは、4km位だと思いますが、途中まで歩いてみた。
天気が良かったが風があり結構寒さを感じた。

途中、鴨川に懸かる七条大橋でこのようなものを見つけた。
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何と読めますか。そう、七条大橋です。
かなり古い橋なのでないかと思う。
この橋を渡って、京阪電車に乗り伏見稲荷に着いた。
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久し振りだったので、線路わきの地図を見てルートを確認して進んでいったが、
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神社に続く道の変わりようは目を見張るものだった。
昔売っていた“すずめの焼物”はすっかり姿を消し、鶉(ウズラ)になっていました。
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別に食べたい訳ではないが、伝統が消えていくのはさみしい感じがする。

さて、伏見稲荷はお稲荷さんの金儲けとの同義語のように言われているが、とにかく赤が目立つ社がはではでしい。ほんとに気持ちを高揚させる演出だ。
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山門にはしっかりお稲荷さんが鎮座してました。
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本堂の上り口には皇室からのご奉納がありました。しかし、皇太子様からのご奉納が無いのはどうしたことでしょうか。
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本堂のお参りは人・・・人でしたが、
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お参りを済ませ、奥の院の方向へ。
そこには1000本鳥居をくぐって奥の院に着くと此処もすごい人出でした。
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この1000本鳥居も、何時来てもびっくりします。
寄進料にもよると思いますが大きいのとか、新しいのかとかすごい量びっくりです。
奥の院に着くとここは参拝者がきちんと並んでいました。
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そこから裏に回ると【おもかる石】があった。
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こんなことが! これだけは許せない物のような気がする。
心理的なことと宗教は紙一重ということか。
1000本鳥居は、この奥の院から先にまだまだ続くが、今日はここで帰ることにした。
その帰り際、伏見稲荷らしい面白い“絵馬?”を発見した。これが奥の院に山積みとなっていた。
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また帰り道に破魔矢ならず破魔鍵?が得られていた。色々考えるものですね。
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またまた、狐の帽子をかぶった若者がいた。
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次は桜が咲く頃に来たいと思っている。
ちなみに、伏見稲荷の社域は広く、一回りすると山道を1km位あるくことになり、すごくいい運動になる。
この山道の途中に、俳優の「西村和彦」の実家の茶屋がある。

ここから、坂本竜馬の関係する“寺田屋”まで歩きかけたが、余りにも遠すぎたので京阪丹波橋からでんしゃで、帰途についた。



この項 <完>

by mo-taku3 | 2012-01-07 14:00 | Comments(2)

初詣 八坂神社(1月2日)

初詣 八坂神社(2012年1月2日)


新年1月2日、八坂神社の初詣に行きました。
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私の家は“下京区燈篭町”といって八坂神社の氏子になっています。
八坂神社の行事は、祇園祭など年間を通じて幾つかあり、町内には「保昌山」というヤマがあり、祇園祭にも参画しています。
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そのような関係で、毎年初詣は八坂神社にお参りに行きます。
住んで最初頃、除夜の鐘に合わせてお参りに行っていましたが、鴨川に懸かる四条大橋から八坂神社の山門までは歩行者天国となり、事実山門から300~400M位道幅一杯に参詣者が並んでしまいます。多分並んでいる人だけで、万単位ではないかと思います。

この経験をして以来、初詣は2日か3日に行くようにしています。
この日は、混んではいますが並ばなくてもお参りすることができます。

さて八坂神社の参道の入り口の石碑で残っているのは四条川端の交差点の所にあり、
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側には「南座」が鎮座しています。
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昔は、どこかに鳥居もあったと思いますが、現在正面には鳥居らしきものはありません。下京区・中京区全体は八坂神社の氏子となっていますが、祇園祭の巡幸の“長刀鉾”が四条烏丸にあることから、ひょっとするとこの辺りにも鳥居があったかもしれません。
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八坂神社にまつわる逸話を2つ紹介しましょう。
(八坂神社は誰が建てたか、また何故“須佐のうの命”を祀っているのか)
異説はあろうかと思いますが、殆ど設立の具体的な逸話が紹介されたものはありませんが、実は次のような説話があります。

●八坂神社の前の通りに鍛冶屋さんが並んであり、この人たちが設立したということです。
●ということで鍛冶屋ということで、“ヤマタノオロチ”退治でオロチの尾から出てきた鉾から、あの有名な“須佐のうの命”が祀られています。したがって、鉾が中心の【祇園祭】となっているそうです。

この逸話は、京都の人は殆ど知らないようです。
というのは、“須佐のうの命”=鉾 という構図からスタートしているからです。

さて、2日の午後遅めに八坂神社に行ってみると、歩行者天国もなく、信号も正常に動いていました。
それでもかなりの人出で、信号が変わると山門の所はかなりの人でした。
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境内に入ると狭いながらもで店が出ておりましたが、やはり不景気からかほとんど売れていませんでした。
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手を清め、お参りして、
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破魔矢を買い、最後に恒例のおみくじを引きました。
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ここはよく【凶】が出ることで有名です。私はこの10年間、4回凶を引いています。引いたときは結構引いてしまいました。今年は大丈夫でした。

初詣はこれで終了しました。



この項 <完>

by mo-taku3 | 2012-01-02 16:00 | Comments(4)