日本電気鉄道事業の発祥

日本電気鉄道事業の発祥は京都


たまたま京都駅まで史跡らしきものを見つけ、読んでみると【電気鉄道事業発祥地】の記念石碑でした。

内容は、
明治28年2月1日に京都駅の200m位北にあたる、七条東洞院通り~伏見下油掛通り(南に6km位)までの区間を、日本で初めて電気鉄道が走ったと刻まれておりました。
この成功が元で、全国の電気鉄道事業が進み、今日では新幹線に至っているわけだそうです。
JRの電化よりも早かったということですね。
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この記念碑が建てられたのは、37年前で、字も読みづらくなっていました。
この碑が建てられた当時は、京都の市電はまだ残っていたようで(1978年9月末全廃)、その数年後に市電が無くなってしまったとき、関係者は複雑な想いだったのではないかと思います。

私は京都に住んで、京都人の気骨を感じることがあります。
自分たちだけの伝統を大切にすることが京都人と思っておりましたが、どうしてどうして、京都は新しいことに積極的に取り組む新進気鋭の精神が脈々と流れていることが、京都を知れば知るほどわかってきます。

また、京都には外車が多いことと、外人の多さには驚きます。
私が住んでいるマンションの駐車場は、半分が外車です。
ということから、京都発、世界への発信が多くみられるのは頷けます。

京都には未だ未だ興味深いことや、日本初というものもあるようです。
都が江戸(東京)に移ってからの、京都人の合言葉は、「第二の奈良にしない」ということでした。

また、東京遷都にあたり、明治天皇は色んなことに気を使っています。東京としたのも東の京ということで、企業でいう、東京本社ということではないかと思われます。
知らない人が多いと思いますが、平安時代に日本は今の満州あたりにあった“渤海国(韓流ドラマ:テジョヨンで有名)”と盛んに交易しておりました。
この渤海国の首都も何度か変わりましたが、東京・西京などが遷都の度につけられました。
都が移っても、東京ならまた戻ってくるとの、かすかな期待を持たせたのではないか思います。
明治天皇の気持ちにも、大都市の人心を安定させる意味の遷都ではなかったかと感じることもあります。
天皇が武家の本拠地に移るということは、本来屈辱だと思うのが普通でしょうから。

「時代祭」も明治天皇のお声がかりで、京都の歴史を忘れないためにやらせたとのことです。
しかし、残念なことに時代祭は、明治天皇の思いを汲まない一部の政治家や町内会のボスが、途中から個人の名声のために利用したようになったのは情けない。

等々、これから京都にまつわる事象を、できるだけ歴史的な見地から検討し、今後とも追々調べて掲載していきます。




この項 <完>

by mo-taku3 | 2012-02-29 23:01 | 京都発の初物 | Comments(2)

⑤北野天満宮の梅便り(2012年2.19)

⑤北野天満宮の梅便り(2012年2.19)


今年(2012年2月19日)京都で比較的梅の開花が早い北野天満宮に出かけてみた。
しかし、未だ1・2分咲きという状態だった。
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開花情報を見て再度出直すことにして、京都御苑を後にした。




この項 <完>

by mo-taku3 | 2012-02-19 22:53 | Comments(0)

羅城門跡と矢取地蔵

羅城門跡と矢取地蔵


東寺の山門には仁王像は無かった。仁王門があったであろう場所は、空っぽの状態だったのがさみしい。
きっと何度も災難に遭い、何度も作ることができなかったのではないかと思う。
南北朝時代東寺は南朝、北朝それぞれの拠点に繰り返しなったところであった、
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その門をくぐり、九条通りを西に500m位歩くと羅城門跡の位置に着いた。
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羅城門は平安時代の2度目暴風雨での倒壊以来の復元は行われなかったようだ。
これは、大内裏の荒廃も同じだったようだ。その結果、朱雀門と羅城門を結ぶ朱雀大路が全く見る影もなくなったと云われている。
羅城門の説明が書かれていたのでお読みいただきたい。
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羅城門の石碑が建てられていたところは公園になっていた。(花園児童公園)
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羅城門の石碑の前に、矢取地蔵があった。
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説明板には、淳和天皇の時代に日照りが続いたため、守敏と空海に雨乞いの詔がくだり神泉苑で雨乞いが行われた、空海が勝った。その遺恨で空海が矢を射られたとき、間に入ったお地蔵さんがこの、矢取地蔵とのことであった。この地蔵には背中に傷があるとのことであった。
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色々なところに平安京の遺跡が存在している。
羅城門もいつの日か復活することを期待したい。



この項 <完>

by mo-taku3 | 2012-02-19 00:40 | (歴史)京都史 | Comments(2)

錦市場と伊藤若冲について

錦市場と伊藤若冲について


画家の伊藤若冲が錦市場の出と聞いて調査を開始してみると、以下のようなことが分かった。
詳しくは、後で述べるとして、若冲はまさしく錦市場の出身だった。
その場所は、高倉通錦小路東角の「枡屋」という所だったらしい。向かいの乾物屋さんのおかみさんに尋ねると「すぐそこの角!何にもないよ」とそっけなかった。
そこは新しいお店ができていた。また、若冲を物語る軌跡は何もなかった。
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さて、若冲は、1716年3月1日-1800年10月27日。享年84才。
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京・錦小路にあった青物問屋「枡屋」(通称「枡源(ますげん)」)の長男として生れ、23歳のとき、父の死去に伴い、4代目枡屋(伊藤)源左衛門を襲名する。「若冲」の号は、禅の師であった相国寺の禅僧・大典顕常から与えられたという。
若冲という人物は絵を描くこと以外、世間の雑事には全く興味を示さなかったという。商売には熱心でなく、芸事もせず、酒も嗜まず、生涯、妻も娶らなかった。今でいう自由人というところか。
しかし、40歳で隠居し、隠居後の若冲は作画三昧の日々を送っていたと見られていたが、近年文献から分かったことは、継続的に町政に関わりを持ったようだ。
あまり目立たなかった若冲も、平成20年(2008年)美術史家にも認識されるようになった。

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若冲の墓は2つある。一箇所は相国寺の遺髪墓。ここには、藤原定家、足利義政と並んで建てられている。
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もう一箇所は伏見深草の石峯寺である。
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若冲は84歳の長寿を全うするまでに多くの名作を残したが、晩年、石峯寺の五百羅漢石像や天井画などの制作に力を注ぎ、没後、同寺に葬られた。
この墓は、のちに枡源7代目の清房が、若冲の遺言に従って、墓の横に筆形の石碑を立て、貫名海屋が碑文を書いて残されている。



この項 <完>

by mo-taku3 | 2012-02-14 20:30 | (歴史)京都史 | Comments(2)

京都舎密局(シャミキョク)は日本の近代技術に貢献

京都舎密局(シャミキョク)とワグネル博士


鴨川沿いを南に旧フジタホテルの手前まで来たところ、舎密局(せいみきょく)という説明版を見つけた。
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ここは、その昔は、角倉氏の邸宅があったところだそうです。
明治維新のときに、京都の産業を振興する目的で、京都府が設立した理化学工業研究所とのこでした。

まず、明治維新、近代化が始まろうとしていた頃、明治2年(1869年)には、大阪に、日本で最初に化学を学べるところとして大阪舎密局が開設され、そこで、オランダ人教師から、京都の医師・実業家の明石博高(あかしひろあきら)が学んだことから、丁度、東京遷都による沈滞ムードを打破しようということから、翌年、1870年に、この明石博高の勧めで、第2代京都府知事になった槇村正直が、京都にも舎密局を設立したそうです。
京都舎密局には、ドイツ人のワグネル博士が招かれて、伝統産業の七宝焼など陶磁器や織物、染色・顔料の改良実験や製造が行われたそうです。
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そのワグネルを顕彰する碑が平安神宮近くの公園にあります。
平安神宮の巨大な鳥居を抜けて二条通の交差点南西角の交番裏の小さな公園にそれはあります。京都市が設置した
高さ4m、幅10mと云う巨大な顕彰碑です。その大きさからも、いかに京都への貢献度が大きかったかを物語っています。

何故、舎密局(シャミキョク)なのかというと、
江戸後期から明治初期にかけては化学の呼称は舎密と書いて、シャミと呼ばれていた。舎密と云う言葉はオランダ語の科学「chemie」(シャミー)の発音を漢字で表記そうだ。
京都舎密局では、理化学研究、石鹸製造、そして氷砂糖、飲料水の製造などを行っていたそうだ。

日本で最初に作られたもの、「里没那垤」、「依剥加良私酒」、「公膳本酒」、変換間違いした文字の羅列のようですが、何だか判りますか?

・「里没那垤」は”レモナーデ”、そうレモネードです。
・「依剥加良私酒」は”イホカラス”酒、これは今のビールです。
・「公膳本酒」は”コウゼンポン”酒、なんとラムネのことです。

ラムネに酒と云う字があてがわれるところにも、当時のその物珍しさの思いが伝わるようです。
ワグネルはこのほか、有田、伊万里焼きでの発色技術の伝授などの功績でも知られているようです。京都では三年間講師として西洋の科学技術を教えたと云います。
ワグネルが伝えた技術は石版印刷、ガラス、陶磁器、七宝焼、石鹸、清涼飲料の製造、合金、旋盤、電気メッキ、理化学機器の製造、など多岐にわたり京都近代化の功績に貢献した人物です。
京都だけではなく、京都発信の日本の工業技術に大きく貢献したといっても過言ではないでしょう。

特に島津源蔵はワグネルに大きな影響を受け、理化学機器への関心を深めていくことになります。その後の島津は今に伝わる島津製作所につながります。
その歴史を展示するのは二条木屋町にある島津創業記念資料館です。
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そこにはワグネルが島津源蔵に贈ったとされる足踏み式の旋盤なども展示されています。


舎密局では、多くの優秀な人材を育てました。
京都舎密局は、1881年に京都府知事の槇村正直さんが転任されて、その後、閉鎖されてしまったようです
1895年には、舎密局跡の建物も焼失してしまったそうで、現在は、銅駝美術工芸高校が建っています。
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大阪舎密局のほうは、後の京都帝国大学へ発展していきました。
いづれも日本の近代工業化に寄与した施設だったんですよね。




この項 <完>

by mo-taku3 | 2012-02-12 12:50 | (歴史)京都史 | Comments(2)

日本初もの、その2(続き)

日本初もの、その2(続き)


先日、京都に日本初の小学校を紹介させていただいたが、全国に“初もの”が色々な形で存在しているようだ。
最近京都市内を散策するとき、石碑にはかなり目が向くようになった。
そこで早速だが、昨日・今日と散策していると、近所の2つの中学校の石碑が開校明治2年とあった。

まず、一つ目は、尚徳小学校。
今は、尚徳中学校から、下京中学校に統合されているが、石碑がしっかり残っていた。
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太政大臣三条実美 軌跡の石碑、
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明治天皇行幸の碑、
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続けて二つ目は、修徳小学校。
ちょっと石碑が見づらいが、やはり明治2年開校となっている。
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同窓生が、校章の碑を建てている。
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やまり、ここにも明治天皇が行幸されている。
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ここに掲げた2校のほかにも京都市内に数10校あると思う。統合や改編が繰り返されてきているから、忘れられているのもたくさんあると思うが、明治元年に京都府ができた年に、町の区割りができ、XX番町という名称になった。 小学校も第xx番町小学校として開校したようだ。
それが後に固有の名称に改編されていったのではないかと思っている。




この項 <完>

by mo-taku3 | 2012-02-11 23:00 | 京都発の初物 | Comments(2)

京都発の日本初もの(幼稚園・小学校)

京都発の日本初もの(幼稚園・小学校)


天気が良かったので久し振りに、京都市内の散策に出かけました。
京都は東京遷都までは長いこと都だったこともあり、日本初のものが多いのではないかと常々思っていたが、以外と明治以降の初ものがあるのには少し驚きを感じている。

そこで、今回ご紹介するのは幼稚園・小学校の初ものである。

「京都市中京区柳馬場通御池上ル虎石町」というところに、公立ながら小中一貫教育の【御池中学校】というのがある。
小学校は同居はしてないが、高倉小学校・御所南小学校との一貫教育なっている。
またこれに、堀川高校も一枚かんでいるように見える(未確認)。

さて、「明治元(1868)4月に京都府となり、翌年には町組改正が行われ、上京33,下京32の65の町組が決められ,町組毎に小学校が設立された。上京27番組では同年9月仮校舎で授業が開始され,翌年5月21日中京区富小路御池角守山町に上京第27番組小学校として日本最初の小学校授業が行われた。明治6(1873)年にこの地(中京区柳馬場通御池上ル虎石町)に新築移転し,以後柳池小学校と称した。昭和22(1947)年新学制により柳池中学となる。この石標は日本最初の小学校である柳池小学校を示すものである。」と資料にはある。

さて、日本初の小学校の石碑がある場所は、「京都平安京創生館」の横にある。その前にきれいな、寒桜が咲いていた。
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桜の横をすり抜けると、このような石碑があった。
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よく見ると当時の建物が彫られている。
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更に目を移すとその横に、【柳池幼稚園の記念碑】がある。
当時は【柳池幼稚遊技場】といったらしい。ここに書かれている字は非常に難しい。
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その石碑には、開園が明治8年12月、閉園が平成8年3月とある。つい最近まで現役だったということらしい。
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更にならんで、京都市立堀川高等学校専修夜間部跡と言う石碑があった。
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文献によると「京都市立堀川高等学校専修夜間部は,戦前からのその母体として市立商工補習(夜)学校(明治45年創立)・市立商工専修学校(明治45年創立)・市立専修高等学校(昭和10年開校)が石標に記されている。昭和23(1948)年,新学制による高校再編成で市立堀川高等学校が創設され,夜間部が設置されたが,昭和54(1979)に廃止された。この石標は京都市立堀川高等学校専修夜間部の跡を示すものである。」とある。
非常に優秀な高校として京都に君臨している。
卒業生には、門川京都市長は立命、堀田力弁護士は京大法科、またかの有名なヴァイオリニストの葉加瀬太郎もここから東京芸大に進んでいる。


これらの石碑の後ろの建物には、小中一貫教育校【京都御池中学校】、御所南小学校・高倉小学校 という表示があった。
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またその左端の方に保育園の入り口もあり、市立の教育校の集まりであった。
ますます、初物を探す意欲がわいてきた。




この項 <完>

by mo-taku3 | 2012-02-09 22:30 | 京都発の初物 | Comments(6)

ホテルフジタ京都は今?

ホテルフジタ京都は今?


京都をご存知の方は、分かると思いますが、鴨川二条にある【ホテルフジタ京都】が無くなってしまいました。
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そこの工事担当者に聞いて見ると、Hフジタは廃業し、リッツカールトン京都(大阪・東京に次いで3番目)ができるとのことでした。
中を覗いてみると更地の上に工事車両が入っておりました。
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京都は何か建てるにも、遺跡保護の関係上調査・確認・埋め戻しと手続きを踏まなければならないのでどうしても時間がかかってしまいます。
結果、2014の開業とのことだったのは頷ける。
(地下鉄が発達しないのはこれが原因です。)

工事申請許可証には積水ハウスが施工主となっていました。
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リッツカールトンはホテル経営のシステムを売る会社なので施主とはならないと思っていました。
大阪のリッツカールトンも施主はホテル阪神でした。
積水ハウスは初の試みだと思いますが大丈夫かなぁ? 
余計な話でした。

京都もどんどん変わっていきます。特にホテル業界の変化は凄まじいものがあります。
京都ホテル、都ホテル、ホテル日航プリンセスなども経営が変わっています。



この項 <完>

by mo-taku3 | 2012-02-06 19:30 | Comments(4)