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京都寺町通りの歴史散歩

京都寺町通りの歴史散歩


寺町通は、京都市の南北の通りの一つで、河原町通りの一本西側の通り。
この寺町通の名は、天正17年(1589)頃、豊臣秀吉の都市計画により洛中の寺院が集められたことに由来する。この通りや近辺にはさすがにお寺が多い。
寺町通りは、北が紫明通から南は五条通まで。途中の三条通で以北に比べ以南は西に少しずれており、真っ直ぐではないのが特徴。三条以北は平安京の東京極大路(ひがしきょうごくおおじ)にあたる。
京極とは平安京の端という意味で、東京極とは東の端ということになる。
この通りは京都の若者が集まるところ。
また、以前はこの通りも山鉾が通っていたという。
この看板は、三条通りにあるもの。
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さて、この寺町通りを北に向かい、御池通りを超えて暫く行くと、「本因坊発祥の地」の標示があった。
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ここに書かれている、寂光寺は別名を久遠寺ともいい、通りをはさんだ西側の町名「久遠院前町」にその名残が見られる。
寂光寺の塔頭「本因坊」に住まいしていた僧侶の日海(1559~1623)は、信長・秀吉時代から囲碁の名人として名高く、江戸幕府が開かれると、徳川家康の命によって寺を弟子に譲り、本因坊算砂と改名して幕府の碁所を任されていた。
以降、本因坊の名は世襲で受け継がれたが、21世の秀哉は、真の実力者が本因坊を名乗るべきとして、その名跡を日本棋院に譲り渡し、昭和11年(1936)今なお続く選手権制の「本因坊戦」が誕生した。
この表示のすぐ横にはこんなものがあった。ここに表示版を建てたときに作られたもののようだ。
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寂光寺は、別名を久遠寺ともいい、通りをはさんだ西側の町名「久遠院前町」にその名残が見られる。
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宝永の大火(1708)で羅災した寂光寺は現在、仁王門通東山西入に位置し、算砂愛用の盤石や算砂直筆の囲碁狂歌などの貴重な史料を蔵している。

更に進むと行願寺がある。ここは西国三十三ヶ寺の19番目の札所である。
行願寺は寛弘元年(1004年)、行円が一条小川の一条北辺堂跡に創建したものである。
一条北辺堂については、『日本紀略』永祚元年(989年)8月13日条に「一条北辺堂舎倒壊」とあり、行願寺の創建以前から存在したことが裏づけられる。当初の寺地は現在の京都市上京区、京都御苑の西方で、付近に革堂町、革堂仲之町、革堂西町の町名が残る。
行円は仏門に入る前は狩猟を業としていたが、ある時、山で身ごもった雌鹿を射たところ、その腹から子鹿の誕生するのを見、殺生の非を悟って仏門に入ったという。行円はその鹿の皮を常に身につけていたことから、皮聖、皮聖人などと呼ばれ、寺の名も革堂と呼ばれた。行円の生没年は未詳だが、比叡山の横川(よかわ)出身の聖と推定されている。
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藤原道長の息の藤原顕信は寛弘9年(1012年)、行円のもとで剃髪出家している。
行願寺は豊臣秀吉による都市計画のため、天正18年(1590年)に寺町荒神口(現・上京区、京都御苑東側)に移転。宝永5年(1708年)の大火の後、寺町荒神口の旧地からやや南に下がった現在地に移転した。
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下御霊神社
祭神は以下の八柱で、「八所御霊」と称される。
その理由は、以下の諸神は(吉備真備を除いて)いずれも政争に巻き込まれて憤死した人々で、その怨霊を慰めるために創建されたのである。
*吉備聖霊
吉備真備とされることも多いが、吉備真備は憤死した人ではないので、神社側は六座の神霊の和魂と解釈している。
・崇道天皇(桓武天皇の皇太子、早良親王)
・伊予親王(桓武天皇の皇子)
・藤原大夫人(伊予親王の母、藤原吉子)
・藤大夫(藤原広嗣)
・橘大夫(橘逸勢)
・文大夫(文屋宮田麻呂)
*火雷天神
この火雷天神は菅原道真とされることも多いが、神社の創建は道真が天神とされるよりも以前なので、神社側は六座の神霊の荒魂と解釈しているようだ。
また、相殿に天中柱皇神・霊元天皇が祀られている。
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桓武天皇の時代、各地で疫病が流行した。これは御霊の祟りであるとして、貞観5年(863年)5月20日、平安京の神泉苑で御霊会が催された。この御霊会が当社および上御霊神社の創祀であるとしている。古来より京都御所の産土神として崇敬された。享保年間に霊元天皇の霊を配祀した。
元は出雲路の上御霊神社の南にあったことから下御霊神社と呼ばれるようになったと伝えられる。後に新町出水に移され、天正18年(1590年)、豊臣秀吉の都市整備にともない現在地に遷座した。
なお、式内社研究家の志賀剛は延喜式神名帳に記載される出雲井於神社(式内大社)を当社に比定している。
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境内には、丁度紅梅が2本満開を迎えていた。桜かと見間違うほど背の高い木だったが、根元には紅梅との表示がなされていた。
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また、これも樹齢が長そうなそして太く貫録のある、「サルスベリ」の木が印象に残った。
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更に、北に進み丸太町通を渡ると、と“絹の石鹸”と書いてあるお店が見えた。ちょっと外から覗いてみたがよくわからなかった?
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この店限定の商品も飾ってあった。
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ここで一服。
丸太町通北側から見た、寺町通り。
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同じところから西を向くと、直ぐ京都御苑(京都御所)があり、丸太町通西入るとなる。
このまま京都御苑に沿って寺町通りは続いている。
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さて、ほんのちょっと北に行くと新島襄(同志社大創立者)のゆかりの建物が見えてくる。
まず、新島会館
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新島 襄はキリスト教の布教家。同志社英学校(後の同志社大学)を興した。
福澤諭吉らとならび、明治六大教育家の1人に数えられている。

新島襄は安中市で生まれ、若くしてアメリカに渡りアメリカではキリスト教に帰依し、キリスト教の布教家として帰国している。
新島襄は、明治7年(1874)11月29日に、元治元年(1864)以来十年ぶりに父母姉妹と再会している。
その後、新島襄は、京都に同志社英学校を設立してキリスト教を基にした人格教育を行うことに全力を尽くし、明治23年(1890)1月23日に神奈川県の大磯で亡くなりました。
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ここは京都で住んでいた時の建物で、旧宅とされ、保存されている。
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直ぐ先に、「京都歴史資料館」と書かれた建物があったので初めて入ってみた。
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入口の看板には、テーマ展「京都の町式目」(江戸時代初期を中心に)とあった。
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中に入ると「口上」が書かれていた。
その内容は京都の町々には「町式目」というものがあり、それを資料して展示しているとのこと。
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冷泉町の式目。じっくり見ていただきたい。びっくりするような内容が書かれている。
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下本能寺前町
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京都歴史資料館を出て、しばらく歩くと、梨木神社がすぐ側にあり、廬山寺や御所の方向指示が表示されていた。廬山寺には、紫式部邸宅跡の表示があった。
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廬山寺についた。
比叡山延暦寺の中興の祖である良源(元三大師、慈恵大師)により天慶元年(938年)に京都の北山に創建。寛元元年(1243年)に法然の弟子である覚瑜が船岡山の南麓に再興、中国の廬山にならい廬山天台講寺と号した。
元亀3年(1571年)、織田信長の比叡山焼き討ちは正親町天皇の女房奉書により免れたが、豊臣秀吉の寺町建設によって天正年間に現在地に移った。度々の火事のため、現在の堂宇は寛政6年の再建になるものである。
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廬山寺の沿革が詳しく載っている。
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1965年(昭和40年)に考古・歴史学者角田文衞により紫式部邸跡とされた。御黒戸四箇院のうち現存する唯一の摂家門跡である。
諸説あるが、ここが【源氏物語】が執筆されたところとされている。
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紫式部の旧宅には娘の「大貳三位」のゆかりの地でもあり、二人そろった歌碑が紹介されている。
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ここには秀吉の命により作られた、京都を囲む城壁となった、“御土居”の跡があった。
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この御土居については、別途【追加】投稿してあるので、ご覧いただきたい






この項 <完>

by mo-taku3 | 2012-03-31 00:45 | (歴史)京都史 | Comments(2)

梅咲く、長岡天満宮

梅咲く、長岡天満宮


30年ぶりに長岡天満宮を訪れてみた。
以前に訪れた時は、確か阪急の駅名と同じ長岡天神といっていたのではないかと思う。昇格したのか?
さて、資料を紐解いてみると、
「元々、現在社殿が建立している周辺は、平安時代菅原道真の所領であり、生前には在原業平らと共に、 しばしば遊んで詩等を楽しまれた所である。
菅公が大宰府へ左遷された時、長岡に立ち寄り「我が魂長くこの地にとどまるべし」と名残を惜しんだ。
左遷の際道真に従ったのが、菅原氏の一族とされる中小路宗則で、宗則は高槻まで同船し、帰り際、道真から道真自作の像と念持仏を託され持ち帰り、道真の死後に、菅公自作の木像をお祀りしたのが当天満宮の創立とされている。
また、菅公の大宰府左遷に付き従った中小路氏は、大宰府で過ごし、道真の死後に、東小路祐房と共に、道真自作の像と念持仏を持ち帰り、祠を建てて安置したことが始まりとも言われる。
社域は元10万余坪にわたっていたが、明治維新の変革に際し上地のため、今は2万余坪となっている。本殿への参道の途中にある弁天池の周辺は、「紅葉庭園 錦景園」として近年整備された。 10月9日に例祭が行われる。以来、皇室の崇敬篤く、度々の寄進造営をうけている。
隣接する長岡公園の梅園も広く知られている。きりしまつつじの見事さは我が国随一と言われ、花の季節に開催される「春の観光まつり」の会場にもなっており、多くの観光客で賑わいをみせる。」

本殿は意外とこじんまりしている。が奥が深い。
現在の本殿は昭和16年に京都の平安神宮の社殿を拝領移築したもので、正面朱塗りの拝殿はの「菅公御神忌1100年大萬燈祭」を奉賛して、既存の拝殿を増改築したものである。(平成10年秋竣工。)
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長岡公園梅園の入口。
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見事な梅、しかも満開だ。
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よく見れば、見るほど見事な花だ。
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曾お婆ちゃん、お母さんと一緒に遊びに来ていた子供達。
カメラを向けると、Vサインをしてくれた。
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これが世にいう「源平梅」というらしい。
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お空の青とのコントラストがきれいな、紅梅。
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梅にも、八重があるとは知らなかった。
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今年は辰年。境内から下る階段の途中に「開運の看板」。
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天満宮の鳥居から続く、日本一見事といわれている【キリシマツツジ】。
八条ヶ池の中堤防両側に樹齢百数十年のキリシマツツジは有名である。
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1638年(寛永15年)に八条宮智仁親王によって「八条ヶ池」が築造された。また八条が池には、檜で作られた水上橋があり、そこからは池を中心として境内を一望できる。
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八条ヶ池の中には、回廊が作られている。
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湖畔をかざる白い梅の木。
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日本一のたけのこ料理の店として【錦水亭】は全国に親しまれている。
京都のやわらかくて美味しいたけのこを会席料理として出してくれる。
昔よりも建屋がずいぶん増えている。
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その他に境内には竹林や梅林、あじさい園、桜、ハス、アヤメ・カキツバタ群落もあり四季折々の散策を楽しむことができる。




この項 <完>

by mo-taku3 | 2012-03-28 23:31 | (梅情報)全国 | Comments(5)

京都の御土居跡(おどいあと)

御土居跡(おどいあと)【追加更新


●御土居(おどい)って何?
秀吉による京都都市改造の一つとして,天正19(1591)年,御土居と呼ばれる土塁が構築されました。御土居は軍事的防衛や洪水対策とともに,洛中と洛外を明確に区別する役割りがありました。
東は寺町東辺,西は紙屋川(かみやがわ),北は鷹峯(たかがみね)・上賀茂,南は九条を限り,総延長約23キロメートル。場所によって異なりますが,土塁に附属した堀幅は約4~18メートル,土塁は高さ3メートル,基底部の幅9メートル。
北野天満宮の境内に残されているのが、状態がいいとの情報を得て、調べてみた。
北野梅園の入り口の横にこのような御土居の説明が載っていた。
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●御土居跡(おどいあと)
御土居は,市街地の拡大がいちじるしい東辺から破壊が進み,明治時代になると大部分が壊されました。
現在,僅かに残存する御土居のうち,以下の9か所は国指定史跡になっています。
(1)上京区馬喰町(北野天満宮境内)
北野天満宮の境内に残されているのが、状態がいいとの情報を得て、調べてみたのが、この写真ですが、
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この写真でも分かるように、お堀や堤は木や竹が生い茂り、跡形はこの石垣だけであった。
(2)北区鷹峯旧土居町
(3)北区大宮土居町
(4)北区紫竹上長目町・上堀川町

(5)上京区寺町広小路上ル北之辺町(廬山寺内)
この廬山寺は紫式部の屋敷があったところだそうで、お寺自身も由緒あるところであった。
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また、慶光天皇廬山寺陵や東山天皇・光格天皇の親族の墓もあり、華道専慶流家元「桑原冨春軒」の石碑もあった。
さて、御土居はお寺の裏地にある墓地の更に奥にあり、分かりにくかったが社務所の方に聞いてみると、親切に感じよく教えていただけた。
昭和12年に、この地の御土居を保存するため、石碑が建てられていた。
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御土居の長さは30m位で、ところどころに石垣が残っていた。
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(6)中京区西ノ京原町
(7)北区平野鳥居前町
(8)北区紫野西土居町
(9)北区鷹峯旧土居町
また、(7)北区平野(ひらの)鳥居前町の御土居跡は,旧状に復元整備されている。

江戸期になると、封鎖されていた主要道路が徐々に貫通される。また、東部では御土居を開削し堀・溝を埋めて宅地が造成された場所や、希望する寺社や都市民に譲渡する部分も現れる。幕府は寛文9年(1669)、高高瀬川で有名な角倉(すみのくら)家に「土居薮之支配」を命じている。
このように御土居堀は一部消失しているが、幕府は水防のために御土居を改修しているのである。
江戸時代において全域ほぼ残され活用されていた。重要な役割を果たしていたのである。




この項 <完>

by mo-taku3 | 2012-03-27 15:49 | (歴史)京都史 | Comments(5)

大阪城周辺を散歩

大阪城周辺を散歩



何十年ぶりか、に行った大阪城。
まず、甲子園の春の選抜の開会式を見て、第二試合が終わり、急に思い立って大阪城公園駅にむかいました。天気もよく、よく澄んだ青空が出ていました。
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天気がよかったこともあり、前後を見てみると、大阪の街や天守閣がちょこっと覗いていました。
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公園通りを暫く行くと、大阪城ホールの横のトンネルに、公園の入り口の表示がありました。
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しばたく行って後ろを振り向くと、大阪城ホールが丁度よいアングルに入りました。
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その先から大きな梅園・桃園が続いており、天守閣から眺めるとこのように見ることができます。
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梅園・桃園を過ぎて、坂を登って行くと、色鮮やかなボケの花が目に入り、すかさずパチリ。
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その横には満々と水をたたえたお堀があり、そして高い石垣があり、規模の大きさが創造できます。
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大阪城公園駅に一番近い門は、青屋門で入り口側はこのようになっており、その横に説明がなされていました。内側に入ってみると、見事な木材を使った木組みがあり、再現したものと思うが、重厚な構造となっているのが分かる。当時の大砲で撃っても簡単には壊れないと思う。
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その先には、案内図があり、全体像がよく分かる。
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桜門の手前には急角度の石垣に面した、やはり、満々の水のお堀と空堀があった。
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これは空堀なのかどうかはわからないが、とにかく水は無かった。
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左手に大阪豊国神社の鳥居と見え、その奥には豊臣秀吉像・社殿があった。この像はやはり金ぴかだった。
その正面に当たるのが、「桜門」でそこから門の奥に天守閣を眺めることができる。
この説明文によると、この門は江戸時代の再建当時に大きく東に移され、今とは違う位置にあったとのこと。
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この門の近くの巨石は有名である。ここに写っている人と比べると大きさがよく分かる。
また門の両側の石は「龍虎石」と呼ばれ、雨が振ると左が龍、右が虎が浮かび上がると(江戸時代に)いわれていたという。
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暫く進むと、(私の記憶には無かったが)EXPO’70と書いたタイムカプセルがあった。当時埋められて、いずれのときかあけてみるのでしょう。
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桜門を過ぎると天守の全景が見え、タイムカプセルの横からは丁度いい撮影スポットとなっている。
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入場料を払って、天守の入り口の途中(小天守という)に、金明水井戸屋形という井戸がある。
これは、秀吉が井戸水の毒気を抜くために、黄金を沈めたという、言い伝えがあったが、戦後に調査した結果全くそのような事実は無く、江戸時代に作られたものということだった。
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天守に上り、そこから眺めた、梅園の大阪城公園と豊国神社・大阪の街は見事であった。
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今回は余り時間が無く結構強行軍だったので半分も回れませんでした。
淀君・秀頼親子が亡くなった場所などまだまだ見たいところはあったが、次の機会にまわしたいと思います。






この項 <完>

by mo-taku3 | 2012-03-25 16:15 | (紹介記事)関西 | Comments(2)

大阪豊国神社

大阪豊国神社


豊國神社(ほうこくじんじゃ)は、大阪府大阪市中央区に鎮座する神社。京都市の豊国神社(とよくにじんじゃ)の別社として、明治天皇のお声がかりで創建されたという。
主祭神である豊臣秀吉が大名として統治していた大阪城(大阪城公園)内に位置するが、創建当初からそうだったのではなく、かつては中之島に鎮座していた。
秀吉のほか豊臣秀頼、豊臣秀長も祭神とする(京都市の豊国神社は秀吉のみが祭神)。

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大阪豊国神社は現在の形になるまで、数奇な運命をおくっている。
明治元年閏4月明治天皇により、大阪裁判所(現在の大阪府の前身)に建立の御沙汰がある。
明治12年(1879年)11月 京都市の豊国神社の別社として創建。当初は大阪市中之島字山崎の鼻(現在、大阪市中央公会堂がある地点)に鎮座した。
大正元年(1912年) 中之島内で移動、現在の大阪府立中之島図書館西側に遷座。
大正10年(1921年) 京都市の豊国神社から独立、府社に列格する。
昭和36年(1961年) 現在地である大阪城公園内に遷座。なお、遷座前の社殿は豊中市の服部住吉神社に移築されている。
2007年(平成19年)4月17日、秀吉像が復元された(彫刻家の中村晋也作)。1943年(昭和18年)に戦時で供出して以来、64年振りによみがえっている。


この項 <完>

by mo-taku3 | 2012-03-25 16:01 | (寺社)関西の神社仏閣 | Comments(2)

大坂石山本願寺跡

大坂石山本願寺跡


大阪城が建てられる前に、そこに石山本願寺があり、当時の織田信長に対し門徒衆が立てこもって抵抗し、なかなか信長に屈しなかったことはお聞き及びかもしれません。

石山本願寺の歴史は、明応5(1496)年に、本願寺八世蓮如が生玉庄の大坂に大坂坊舎を建立しました。その後細川氏をはじめとする諸勢力との権力闘争の中で大坂の重要性が増すとともに、天文元(1532)年に六角定頼と法華宗徒により山科本願寺が焼き打ちされるに及んで、本願寺教団の本拠となる石山本願寺に発展しました。
石山本願寺周辺は、山科と同様に広大な寺内町が造営され、現在の大阪の町並みの原型となったと考えられています。
その後十一世顕如の時代に、信長は上洛直後の永禄11年(1568年)に石山本願寺に対して矢銭5千貫を要求し、また元亀元年(1570年)正月に石山本願寺の明け渡しを要求したと言われています。
これに対して顕如は全国の門徒衆に対して、石山本願寺防衛のため武器を携え大坂に集結するように檄を飛ばし、同盟軍で三好三人衆軍が織田軍と戦っている最中に、ついに打倒信長に決起したのが同年9月12日でした。
この信長との戦いに、重要な役割を果たすのが、紀州の土豪集団、雑賀衆・根来衆です。
この雑賀衆は一貫して石山本願寺につき織田信長軍と戦いました。しばしば鉄砲を有効に活用したとされる織田軍も、雑賀衆の鉄砲の技術と量には苦戦し、一度は信長自身も負傷する大敗を喫したことがありましたこれが、有名な石山合戦です。
信長は本願寺を倒すためにまず雑賀衆を抑えることを考え、1577年(天正5年)に信長自身率いる大軍をもって和泉国・河内国から紀伊に侵攻(第一次紀州征伐)し、雑賀衆に服属を誓わせました。しかし、この戦いで織田軍は大きな損害を出し、服属させたはずの雑賀衆もすぐに自由な活動を再開して本願寺に荷担しています。
しかし、信長との石山合戦に敗れ、石山本願寺を退去した本願寺教団は、鷺森、貝塚、天満を経て京都堀川に本拠を移転しました。石山本願寺跡には豊臣秀吉によって大坂城が建設されました。
石山本願寺跡の正確な位置や伽藍跡についてはまだ確認されていないが、現在の大阪城公園内にあたることは確実と考えられています。修道館西、六番櫓の北側に「石山本願寺推定地」の石碑が建っています。
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(後書)雑賀衆・根来衆のその後
日本の戦国時代では珍しい、鉄砲集団の傭兵軍団として活躍したのが雑賀衆ですが、同じように根来寺の僧兵である根来衆も雑賀衆と同じように鉄砲で武装し、当時盛んだった一揆の支援として雑賀衆としばしば行動をともにしていました。その後も傭兵集団として、「小牧・長久手の戦い」等で、徳川家康側に雇われたりしましたが、全体的な戦闘の終息化と豊臣氏の安定化に伴い、一揆も徐々に下火となり、更に秀吉による根来・雑賀の討伐により、両者とも壊滅していきました。
以前、NHKの大河ドラマで、雑賀孫市(鈴木孫市)が出ていたのを思い出しました。



この項 <完>

by mo-taku3 | 2012-03-25 11:52 | (歴史)関西史 | Comments(2)

大阪城内展示物の紹介

大阪城内展示物の紹介



大阪城天守閣。
日本一立派な城と云っていいだろう。
さっそく、天守閣に登ってみよう。
今は展示室となる四階が工事中とのことで、600円が500円となっていた。
この天守閣に登るのはもう何年前になるか、30年近くになると思うが、入ってみると殆どイメージは残っていた。
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入場して、天守入口までの階段を上ると、抜け穴があるという「金明井戸」(江戸時代に作られたもので、抜け穴は無かったが)の前を通ったところで、天守を見上げてみるとこんなように見える。
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後で、お孫ちゃんに見せようと、子供用のパンフをもらっておいた。
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天守の入口のすぐ手前には号砲が置いてあった。
これは江戸時代に入り、大阪天保山に置かれていたものを、明治維新になってここに移されたという。
明治3年から、時刻を知らせる号砲(ドン)として、使われた。
これは、対象の終わりまで続けられ、「お城のドン、お昼のドン」などと呼ばれ親しまれたようだ。
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大阪城の伝説と迷信が載っていた。
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豊臣秀吉の像の画が飾ってあった。
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大阪冬・夏それぞれの陣の配置図が書かれていた。
冬は籠城、夏は冬の陣の後、総堀が埋められたこともあり、豊臣軍が捨て身の戦法として南方に向けた戦陣を張ったのがよくわかる。
夏の陣の時、真田幸村は家康本陣に切り込み、家康は騎馬で遁走したと伝えられている。
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このような戦い(関ヶ原だったと思うが)の模型が屏風絵を背景に同じ配置で置かれていた。
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天守閣に登り街を眺めると、このように見る。
しゃちほこが新しいことが、印象的だった。
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築城の模様を三次元動画で説明していた。
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秀吉の生涯、日吉丸時代からの説明が載っていた。
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大阪城の構築時には各大名に構築箇所の区割りが行われており、色々な地域から石が運ばれてきた。その区割りの刻印が押されていた石の箇所が表示されている。
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大阪城の謎の説明が載っていた。
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大阪夏の陣後、大阪城が作り直されているが、その前後の違いが線引きされていた。
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調査発掘された天守台の石垣の公開説明がされている。
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兜・陣羽織の試着体験ができる。
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築城に運ばれてきた石の故郷が図示され、ルートも表示されている。
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大阪城の石垣は巨石が多く使われている。これは、巨石の一覧表。
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大阪城にちなんだお土産と、
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売店。
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お城の体験や謎解きのツアーなど子供用のパンフレット。
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お城は楽しい。
意外と過去のことが入手できない。
これは戦略上の問題だといわれてしまえばそれまでだが、謎解きが進んでくると面白くなってくる。



この項 <完>

by mo-taku3 | 2012-03-25 01:20 | (歴史)京都史 | Comments(2)

清和源氏発祥の地;六孫王神社

清和源氏発祥の地;六孫王神社

【清和源氏の祖を祀る六孫王神社】
東寺北門を出て、八条通を西へ徒歩数分のところにある。本殿に源経基を、相殿に天照大神、八幡大神を合祀している。清和天皇の孫で清和源氏の祖と仰がれる源経基(みなもとつねもと)を祀っていることから「清和源氏発祥の宮」を称している。
経基(つねもと)は清和天皇の第六皇子貞純(さだずみ)親王の子であり、母は右大臣源能有(よしあり)の娘。天皇の孫であることから「六孫王(ろくそんのう)」と呼ばれたが、臣籍(しんせき)に下って源(みなもと)姓を賜った。
六孫王神社が鎮座するこの地は、経基の邸宅「八条亭」の跡地。応和元年(961)、死を悟った経基は「霊魂滅するとも龍(神)となり西八条の池に住みて子孫の繁栄を祈るゆえにこの地に葬れ」、すなわち、八条亭の池に龍神となって魂をとどめて子孫の繁栄を祈る、という遺言を残した。この遺言に従い、嫡子満仲(みつなか)が父の遺骸を当地に埋葬し、その前に霊廟を建てて「六ノ宮」あるいは「六ノ宮権現」などと称したのが六孫王神社の始まりとされている。
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「六孫王神社」の説明が載っている。
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境内中央の池が八条亭の池とされ、現在は「神龍池」という。
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水源はその北にある井戸であるが、満仲誕生の時、井戸の上に琵琶湖の竹生島から安産を祈願して勧請した「弁財天社」が置かれている。井戸水は産湯に使われ、「満仲の誕生水」と称され、弁財天は「誕生水弁財天者」と呼ばれている。井戸は、古くから京都名水の位置つとされているが、現在は2代目ながら同じ水脈から汲み上げているという。なお、弁財天像は弘法大師空海の作といわれ、毎年6月13日に開帳される。
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参道には千度石が立っている。
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江戸時代に入り、元禄13年(1700)から清和源氏(せいわげんじ)を祖とする徳川幕府や諸侯とともに本殿・拝殿等建物が再建されている。当時は源氏ゆかりの神社として武家の信仰が厚く、境内石灯籠には、松平吉保(よしやす)など諸大名の寄進者名が見える。
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六孫王神社の北側、新幹線高架下に「児水(ちごすい)不動明王」と称する手入れの行き届いた小さな祠がある。この祠の中は、地表より一段低くなっていて、中心に不動明王が祀られ、脇から清水が湧き出ていて児水(ちごすい)と呼ばれている。この井戸は、もとは本覚尼(ほんがくに)が建立した遍照心院(大通寺)の門前にあったもので「尼寺の水」と呼ばれ、眼病に霊験があるという。
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現在、本殿後方に石積みの神廟があるが、神社に墓石があるのは非常に珍しいとされている。神廟は、関係者以外が本殿へ入れないので見ることが出来ない。
「六ノ宮」は、その後荒廃したが鎌倉時代、源実朝(さねとも)の妻本覚尼(ほんがくに)が、暗殺された夫を弔うために、北隣に遍照心院(大通寺)を建立し、その南辺にここを鎮守社として再建した。
江戸幕府の滅亡とともに社も衰微。明治の神仏分離により大通寺から独立し「六孫王神社」となったが、明治44年(1911)には境内北部が鉄道用地(現在北側は新幹線高架と接している)となったため大通寺のみ大宮通九条下ルへ移転している。




この項 <完>

by mo-taku3 | 2012-03-22 18:12 | (寺社)京都の神社仏閣 | Comments(2)

熱闘甲子園「春の選抜」

熱闘甲子園「春の選抜」


2012年春の選抜高校野球が3月21日開幕した。
昨年の夏の甲子園は、炎天下の中やはり開会式を見に行ったが、気候は夏とは違いかなり寒く、違う意味で選手、特にピッチャーには負担が大きいように思える。
朝、6時半頃家を出て、8時頃会場に着くと、かなり多くの人(多分学校関係者や応援の人々と思うが)平日にもかかわらず、集まってきていた。
今回もカメラを持って写真を撮りまくろうとの意気込みできたが、前回は球場周りの様子を撮ろうとかなりぎりぎりまで球場の外に居たため、場所取りに苦労したしたこともあり、今回は早めに入場して席を確保することにした。しかし、大阪桐蔭の試合があるにもかかわらず、意外と入場は少なかったため、それなりにいい場所を確保することができた。
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試合は、初日から3試合ずつが行われることになっており、また勝ち上がったときの抽選というのも無く、完全トーナメント制の試合形態となっている。
注目の21世紀枠の石巻工業と女満別高校は2日目に行われることになっている。
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開会式直前の様子。久し振りに晴れた気持ちのいい日和になりました。
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夏は朝日新聞、春は毎日新聞と共催が違っていることからか、趣向がかなり違っていた。
ブラスバンドも夏は高校生選抜だったが、春は警察隊だったし、チアリーダーも行進に花を添えていた。
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選手入場の先頭は、昨年優勝の「東海大相模」が優勝旗の返還のみで、多分悔しい思いでの行進だったのではないか。
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出場校の先頭は女満別で小樽北照が続いている。
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その後に、石巻工が続いていた。
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全ての入場が終わり、勢ぞろいしている。多分ワクワクしているだろうと勝手に想像。
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続いて国家「君が代」斉唱となったが、高校2年生(何処の高校か聞き漏らした)の女の子が、プロ以上の見事な君が代を歌い、聴衆の小さな驚きが伝わってきた。
とにかくすばらしかった。
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国旗掲揚と大会旗・東海大相模校旗の掲揚と続いた。
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掲揚が終わって回れ右をした後、選手の前で急に花火があがった。最初は何のことが分からなかったが、
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大会の旗文字と出場高の小さな校旗が花開いたように出現してきた。なるほど!
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東海大相模校からの、優勝旗の返還。レプリカの授与。
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晴れ晴れとした空の下、主催者側の挨拶が続き、
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石巻工業のキャプテンの選手宣誓。落ち着いた話しぶりと内容は、感動ものだった。
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スクリーンにその様子がアップで映し出されていた。
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いよいよ試合開始。
第一試合は鳥取城北VS三重。
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平野文部科学大臣の始球式があり、なかなかいいボールを投げていた。
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プレイボール。
ピッチャー第一球を投げました。
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バッター構えて、
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先行チームが一斉にバッター応援。
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バッター打ちましたが、空振り。残念!
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ランナーが出て盗塁したが、キャッチャーの肩はよく、盗塁アウト。
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結局、鳥取城北はエラーで負けとなった。エラー3つをした、ショートはかわいそうだった。
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終わった後、甲子園の砂を袋に詰めていたのが印象に残った。
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第二試合(浦和学院VS敦賀気比)まで見て岐路に着いた。
2試合見て、やはり守備がしっかりしているチームは強い、という印象を受けた。



この項 <完>

by mo-taku3 | 2012-03-21 22:42 | (イベント)高校野球等 | Comments(2)

北野天満宮・渡辺綱の燈籠

渡辺綱の燈籠


【渡邊綱(953~1025)】の燈籠(とうろう)
渡邊綱は平安時代中期の武将源頼光(みなもとのよりみつ)の四天王の一人
大江山の酒呑童子(しゅてんどうじ)退治、一条戻橋での鬼との戦いはつとに有名。

本燈籠の由来はこの一条戻り橋の鬼退治の話に遡る。
「渡邊綱が羅城門への肝試しの帰り、夜半一条戻り橋にさしかかると、若く美しい女性に深夜のこととて家までおくってほしいと頼まれる。しばらく行くとその女性は恐ろしい鬼の姿となり綱を捕らえて舞い上がり、愛宕山へ連れ去ろうと北野天満宮上空にさしかかる。その時、綱は太刀を抜き放ち、綱を掴んでいた鬼の片腕を切り落とし難を逃れる」
後日、綱はこれも天満宮の大神のおかげと神恩を感謝し、この石燈籠を寄進したという。
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このような逸話の他にも色々な逸話が存在する。
源頼光は多田の庄が本拠地。
頼光の父親は、多田(源)満仲。
平安時代中期の武将。(清和源氏六孫王経基の子。源頼光、源頼親、源頼信らの父。「多田」を号したことから多田満仲(ただ の みつなか、ただ の まんじゅう)とも呼ばれる。)







この項 <完>

by mo-taku3 | 2012-03-20 00:55 | (歴史)京都史 | Comments(3)