京都映画誕生の碑(真如堂)

京都映画誕生の碑(真如堂)


真如堂(場所 京都府京都市左京区浄土寺真如町)に桜の撮影に出かけた時、【京都映画誕生の碑】という碑を発見した。

四条高倉の市バスのバス停から、【203系統】(銀閣寺行)に乗り、真如堂前で降りる。
矢印に沿って少々の登っていくと、 天台宗の寺・真如堂がある。
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ここの本堂の横に、【京都映画誕生の碑】と書かれた、箱状の石碑があった。
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この石碑は、映画撮影に使われた“シネマトグラフ”カメラをかたどったもので,フランスのリュミエール兄弟によって発明された。
このカメラは,映画の撮影機と映写機の両方の機能を持つ,いわば“オールインワン”カメラだったという。

ここでたまたま、解説文を見つけたので、お借りすると、
「下記の碑文に書かれているように,映画の技術が日本にもたらされたのは 1897(明治30)年のことで,当時の映画作品は,劇場で演じられる芝居の実写や たとえば日露戦争の戦場を写したような記録映画などで,いずれも短編のものであった。
本格的な劇映画は,1908(明治41)年に マキノ省三が ここ京都の真如堂で撮影した時代劇『本能寺合戦』で,もちろん無声映画であった。
それから 100年経った 2008年,「京都・映画 100年」と題する映画祭が開催され,そのイベントの一つとして この記念碑が建立された。
その除幕式には 牧野省三の孫である長門裕之をはじめ 多くの映画関係者らが集まった。

撮影日 2009年11月
碑文 京都映画誕生の碑」

    碑文
1895年フランスのリュミエール兄弟によって発明された映画(シネマトグラフ)が, 2年後の1897年に実業家稲畑勝太郎氏の手により日本に持ち込まれ,初めて上映されたのがこの京都の地でした。当初の映画は,全てすでに存在する被写体を撮影した今日でいう記録映画でしたが,スクリーン上に動く映画は,それを観る人々を魅了したのです。
 世紀が替った1908年,横田永之助氏の依頼をうけた牧野省三氏は,シネマトグラフを用いて歌舞伎の劇映画化に挑戦しました。思えば歌舞伎の原点は京都の地にありました。牧野省三氏の試みは,この歌舞伎という京都の伝統芸能を映画という新しい時代の科学技術と結びつけ,京都の映画を誕生させたのです。以来,京都では多様にして大量の映画が創られることになりました。これを支えたのが,京都がもつ伝統芸能の力,伝統工芸の力,歴史都市京都の歴史的景観等々,まさに,京都の文化力に培われたものであり,それが1世紀間の時を経て京都の文化となりました。
 京都で劇映画が創られて100年目というこの記念すべき節目の年に当り,牧野省三氏がその第1作「本能寺合戦」を撮影したこの地「真如堂」境内に,その足跡を深く刻み,益々の映画発展を願って「京都・映画誕生の碑」を建立するものであります。
      2008年10月1日
            「京都・映画100年宣言」プロジェクト推進協議会




ということであった。
見方を変えると、まだまだいろんなことが発見できそうですね。





この項 <完>

by mo-taku3 | 2012-04-27 21:48 | (歴史)京都史 | Comments(4)

二条陣屋(京都)

二条陣屋


二条陣屋は、御池通大宮通りを南に100弱下がったところにある。

二条陣屋の創建は江戸寛文年間(1661~1673年)で、350年位前になると云われている。
元々、当地において米・両替商を営む、京商人「萬屋平右衛門」の店舗併用住宅とのことである。
(米・両替商とは、武士の俸禄が米の現物支給だったので、米を貨幣に交換したり、金、銀貨を銅銭に交換したりする店を言う)
萬屋平右衛門は商人として成功を収めたのですが、創建当時は「公事師」として身を起こしたと云われている。「公事」とは今日で言う裁判の民事を意味し、公事師とは今の弁護士か司法書士にあたります。
この頃、幕府は武家諸法度、禁中並びに公家諸法度、そして1742年公事方御定書を公布し、法整備がされ始めた時代だった。
この近辺は、二条城の城下にあり、京都所司代屋敷、東西の京都町奉行、有力藩の藩邸が軒を連ねる官庁街であり、二条陣屋はその一角にあった。またその当時、奉行所は公事師の書いた訴状しか受理しなかったという。(いまでも、弁護士、司法書士の事務所は、裁判所乃至は法務局近くに多く存在している。)
裁判待ちの武士らは、都合のいい公事師の屋敷に逗留するようになり、公事宿とも呼ばれていたようである。
現存する屋敷は、豪商の邸宅として隋を凝らした意匠と身の安全を図るための防衛建築となっている。

この二條陣屋の陣屋という名称は、一般にいう大名が逗留するものではない。
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小川家のルーツを公式サイトでみると、2つの説があるそうです。
一つは、近隣に現存する菩提寺「来迎寺」の墓誌に基づき、伊予国今治(愛媛県)の領主「小川土佐守祐忠」と云われており、門前の説明駒札を初め、屋敷のパンフレット、各社のガイドブックに紹介されているが、これを証明するものは無いそうです。
ちなみに、小川土佐守祐忠は豊臣秀吉の家臣で、慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いでは、当初西軍に与していたものの小早川秀秋に呼応し東軍に寝返り、その武功により合戦直後は領主を安堵しますが、徳川家康は主君に対する裏切りを良しとはせず、小川家の所領を没収し放逐している。
祐忠は合戦の翌年没していますが、その子祐滋(別の子で千橘とする説もある)が改名し、当地において京商人「萬屋平右衛門」として身を起こしたというものです。
もう一方の説として、大和国吉野郡小川郷(奈良県)の豪族小川氏との伝えがあります。
当家には「春日の間」という奈良の先祖を偲んで作られた部屋があり、「木薬屋平右衛門」と名乗ったときの金看板が現存します。
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現在は個人所有の住宅である。
昭和19年(1944年)国宝保存法により、現住民家では日本で2番目に国の文化財に指定された。
下の国宝は、その当時のものであろう。
しかし、昭和25年(1950年)の法改正(文化財保護法)により重要文化財となっている。
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(解説)
公事師(くじし)とは、江戸時代に存在した訴訟の代行を業とした者。出入師(でいりし)・公事買(くじかい)などとも呼ばれる。明治期に代言人制度を経て日本における弁護士制度の源流となったとされているが、現在の事件師にあたるもので、その性格や社会的評価は大きく異なる。
また、事件師(事件屋、示談屋)は俗語だが、他人間のトラブルに介入して利益を上げる人のこと。弁護士のように資格を持ってこれを行う人は含みません。




この項 <完>

by mo-taku3 | 2012-04-25 23:01 | (歴史)京都史 | Comments(2)

二条城撮影所跡

(京都)二条城撮影所跡



二条城西南櫓の横(中京区西ノ京北聖町)に,明治43(1910)年横田永之助(1872~1943)の横田商会(日活の前身)により京都初の撮影所が開設された。(現在は中京中学校の一角になる。)
この地で日本映画の父と言われる牧野省三(1878~1929)が尾上松之助(1876~1926)とコンビを組み,最初の作品「忠臣蔵」を撮影した。法華堂撮影所(上京区御前通一条下る;現在は存在しない)ができるまで2年間使われた。この石標は二条城撮影所の跡を示すものである。
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石碑には、
【歴史と文化の都・京都は,日本映画発祥の地であり,映画の都である。
世界文化遺産「二条城」の膝元であるこの地に,明治43年(1910)に横田永之助の横田商会により,京都初の撮影所である「二条城撮影所」が開設された。
この撮影所の規模はおよそ300坪の土地に2間×4間の低い板敷の舞台をしつらえ,それを開閉自由の天幕で覆うという簡単なもので,背景はすべて書き割りであったと言うが,大正から昭和初期の日本映画隆盛の一時代を築いた京都の映画産業の礎となった。
ここで,日本映画の父と言われる牧野省三が,尾上松之助とコンビを組み,最初の作品「忠臣蔵」を撮影し,実力をつけた牧野はその後,京都を舞台に数々の名作を手がけるなど,日本映画発展の基盤が作られた。
平成9年11月
京都映画100年を記念して
京  都  市 
京都市教育委員会】

と刻まれている。
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日活の前身である横田商会は、日露戦争が終結し記録映画人気に陰りが見え出したため、劇映画の制作が急務になった。
しかし、横田商会には演出に精通した人材が不足しており、1908年に映画興行で利用していた千本座の座長の牧野省三に協力を求めた。
この牧野省三は当時芝居に精通した人物であり、なおかつ千本座の役者をそのまま使える利点があったからである。牧野は期待どおり原作設定から演出・監督までその才能をいかんなく発揮した。
劇映画制作が軌道に乗った横田商会は、1910年に京都初の撮影所を二条城・西南櫓の西側、京都市中京区智恵光院通り押小路(現在の中京区西ノ京北聖町)に建設する。
当時、この一帯は一面の農地であったが、敷地面積は約300坪で板敷の舞台に開閉自由の天幕を張り、背景は全て書き割りの簡素なつくりであった。
役者達は近くの民家で着替えや化粧をして舞台に上がったという。またこの土地は、京都の侠客・千本組の笹井三左衛門の所有地であったが、牧野の義父が三左衛門の兄弟分であった縁で横田商会に貸し出されたものであるという。



この項 <完>

by mo-taku3 | 2012-04-25 00:08 | (歴史)京都史 | Comments(1)

南禅寺の桜便り

南禅寺の桜便り


哲学の道経由で南禅寺の方向に進むと小さな門が見えてくる。
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ここは正面ではなく、ここから門をくぐると、ゆどうふの「奥丹」が直ぐ右手に見ている。
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ここで、南禅寺の沿革を紹介したい。
何千時はm臨済宗南禅寺派・大本山の寺院で、亀山法皇の離宮を禅寺にしたものである。
三門からは京の都を一望できたといわれている。
そのほか、方丈庭園の「虎の子渡し」や襖絵の「水呑みの虎」は有名。
また、南禅寺発祥に地とされる南禅院の庭も有名である。(後述)
亀山法皇が造営した離宮の禅林寺殿を、正応4年(1291年)に寺に改め禅林禅寺と名づけられた。
開山は無関普門禅師(大明国師)、開基(創立者)は亀山法皇とされる。
室町時代には「五山の上」として、日本の禅宗のなかで最も高い位につき、
五山文学の中心地として大いに栄えた。しかし、創建当時の伽藍は応仁の乱で焼失してしまっている。
広大な敷地に立つ現在の伽藍は、桃山時代の再建がほとんどである。
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少し進んで左に参道がある。落ち着いたたたずまいである。
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しばらく進んで、三門の手前から、左山の手方向には「方丈」に繋がる階段が見えている。
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直ぐ前が三門である。この三門を木々が取り囲むようにある。
春は桜、秋は紅葉で見事な景観を作り出している。
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三門は、5間3戸の荘厳な構えの三門は高さ22m。別名「天下龍門」と呼ばれ、日本三大門(京都・南禅寺(臨済宗); 京都・知恩院( 浄土宗); 山梨・久遠寺(日蓮宗)の一つ)の一つに数えられる。
現在の門は寛永5年(1628年)、大坂夏の陣に倒れた戦没者を弔うため、藤堂高虎が再建したもので、右側の山廊から五鳳楼といわれる楼上に登ることができる。
天井や柱・梁には狩野派の天人や鳳凰が描かれ、華麗な異空間が広がる。廻り縁からは京都の北西部が見渡せ、すばらしい眺めである。
なお、石川五右衛門が歌舞伎で「絶景かな」と称した眺めだが、実際には石川五右衛門がいた時代には三門はまだ再建されていなかった。
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木々が多からず、桜も少なからず、三門から見た裏手の庭は見事な調和を示している。
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三門から正面左手を見ると、「天授庵」が見える。これも眺めがいい。
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南禅寺の中にある、南禅院は南禅寺発祥の地といわれている。亀山天皇の離宮があった場所である。現在の建物は元禄16年(1703年)に徳川綱吉の母である桂昌院(けいしょういん)によって再建された。
庭園は池泉回遊式庭園。京都で唯一といわれる鎌倉時代の代表的な庭園だ。曹源池の周囲は深い樹林に包まれ、離宮当時の面影を残して、いつの季節に訪れても四季を感じることができる。とくに秋の紅葉シーズンは見物である。この南禅院の作庭は夢窓国師と伝えられ、天龍寺庭園や苔寺(西芳寺)庭園とともに京都の3名勝史跡庭園の一つに指定されている。


この項 <完>

by mo-taku3 | 2012-04-23 00:21 | Comments(2)

御室仁和寺の【御室桜】便り

御室仁和寺の【御室桜】便り



京都には桜の名所は沢山あるが、その中でも特徴ある桜と言えば、ここ御室仁和寺の『御室桜』ではないかと思う。

仁和寺の歴史は886年第58代光孝天皇によって「西山御願寺」と称する一寺が建立を発願・建立された。
平安〜鎌倉期には門跡寺院として最高の格式を保つにいたった。
しかし1467年に始まった応仁の乱で、仁和寺はほとんどを兵火で焼失するという悲運に見舞われた。
応仁の乱から約160年後の1635年、仁和寺第21世覚深法親王は、徳川幕府3代将軍家光に仁和寺再興を申し入れ、承諾された。(仁和寺御伝)
さらには御所造替とも重なり、御所から紫宸殿(現 金堂)、清涼殿(御影堂)など多くの建造物が下賜され、1646年に伽藍の再建が完了し、創建時の姿に近づいている。
昭和になって、仁和寺は真言宗御室派の総本山となり、近年では平成6年(1994年)に古都京都の文化財の1つとしてユネスコの「世界遺産」に登録された。

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御室桜は遅咲きで、背丈の低い(2~3m)のが特徴。
近年までは、桜の下に硬い岩盤があるため、根を地中深くのばせないので背丈が低くなったと言われていたが、現在の調査で岩盤ではなく粘土質の土壌の影響であることが判明した。
ただ、粘土質であっても土中に酸素や栄養分が少なく、桜が根をのばせない要因の一つにはなっているようで、あながち今までの通説が間違いと言う訳ではなさそう。

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丁度このときツツジが満開であったのが、桜とのコントラストとして見事であった。

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このように多くの人出で賑わっていた。

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新品種の「泣き桜(御室桜)」
世界遺産の仁和寺(京都市右京区)にある国名勝「御室(おむろ)桜」のうち1本が新品種である可能性が高いことが、住友林業(東京)の研究で分かった。同社はクローン技術で苗を増殖させることにも成功。今後境内などに植樹し、生態の解明を進める。

御室桜の中でも境内に1本しかなく、最も遅く咲く通称「泣き桜」。住友林業がDNAを調べ、約200品種分のデータベースと照合したが、一致するものがなかったため、新品種の可能性が高いと判断した。
御室桜は境内に咲く遅咲きのサトザクラ約230本の総称で、9割以上は「御室有明(ありあけ)」と呼ばれる品種。いずれも高さ2~3メートルしか育たないが、御室有明が幹や枝を上へ伸ばすのに対し、泣き桜は横へ広げるように伸ばす。花の時期も泣き桜が御室有明から半月ほど遅れるという。




この項 <完>

by mo-taku3 | 2012-04-21 14:46 | Comments(0)

琵琶湖「海津大崎」の桜並木

琵琶湖「海津大崎」の並木


2年前、人に勧められて琵琶湖の最北端に近いマキノ町(高島市マキノ町)の「海津大崎」の桜を見に行ってきた。
その時は、桜並木を多くの車に追われるように眺めていったが、今回は船から眺めてみようと遊覧船を探すと直ぐに見つかり、出航間際に飛び乗ることができた。他にも船乗り場幾つかあった。

ここには家内と二人で出かけたが、船は3,000円/人と結構いい値段だった。
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琵琶湖の北側(奥琵琶湖)は賤ヶ岳の戦いなど史跡も多いところで、また桜は琵琶湖全体を囲む位で、奥琵琶湖だけでも4,000本以上といわれており、実際に見事な風景だった。
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さて、船に乗って海津大橋の桜並木を眺めるといつまでも飽きずにシャッターを切り続けられた。
本当にダイナミックな桜であった。
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乗った船はせいぜい20・30分位だろうと思ったが、なんと1時間近くの乗船でたっぷり桜並木を堪能できた。
その並木をご覧ください。
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船を下りて、桜並木を車で通り抜けを行ったが、終点まで約1.2kmこれも二度目だが素晴らしかった。

終点の後、帰路に着こうと思ったが、「奥琵琶湖パークウェイの桜、4,000本」との看板を見てその方向に行くことに急遽変更。
このパークウェイに入るまでもなく、引き続き見事な桜の並木が続いていた。
パークウェイに入り、途中幾つかの展望台があったが、その一つ、琵琶湖を見下ろす情景を一枚ゲット。
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結局、8号線に出て、更に湖東を走る湖岸道路を通り、彦根・近江八幡・守山・琵琶湖大橋・堅田・大原経由で帰途に就いたが、この間切れ目なく桜並木が続いていたのには驚きだった。

京都を出たのは、お昼近くだが、家に着いたのは19時頃で、かなり遠くに行った割にはあまり疲れず、意外と早く帰ることができた。



この項 <完>

by mo-taku3 | 2012-04-20 00:28 | (桜情報)京都・関西 | Comments(2)

二条城の夜桜

二条城の夜桜


二条城のライトアップに19日に行って来た。
とにかく、凄い人並みだった。何台もの観光バスが次から次へと入場していた。
ここは駐車場が広く、留めやすいこともあるからだろう。
会社はこの近く(歩いて5分)にあり、何時でも行けるがついつい今日になってしまった。

二条城の手前の角にはライトアップされた楼閣が浮かび上がっていた。
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ライトアップの表示も出ていた。
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カメラのせいにはしたくないが、なかなかいい写真は撮れなかったが、何枚かの写真を載せてみたので、ご覧いただきたい。
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まわり終わって、最後のところに売店と休憩所があり、目に付いたのは、お団子と扇子だった
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この項 <完>

by mo-taku3 | 2012-04-20 00:25 | Comments(2)

平安神宮の庭園の美しさ絶品

平安神宮の庭園の美しさ絶品


平安神宮の神苑(奥庭)は毎年のように訪れている。
というのは、私の感覚では、桜が一番美しいところ とおもっているからである。

天気も良く、きれいな写真が撮れたのでご覧ください。
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機会があったら、是非訪れていたいただきたい。




この項 <完>

by mo-taku3 | 2012-04-18 23:33 | Comments(2)

知恩院の桜便り

知恩院の桜便り



東山に立つ知恩院は浄土宗(法然)の総本山である。
ここは、浄土真宗を起こした親鸞も深いいいわれがあり、また、隣に位置する門跡寺院の青蓮院にも大いに関係する。

知恩院はまず、三門である。
堂々たるたたずまいである。
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三門の左手には桜がきれいに咲いていた。
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三門を抜けると、急な高い石段があるが、今回はそれを止めて、多少緩やかな「知恵の道」を進んでみる。
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そこは、丁度遅咲きの椿が咲いていた。
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境内の桜もきれいだった。
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池の側の桜も、紅葉時と同じようにきれいに咲いていた。
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この鐘楼は、NHKの行く年来る都市にも登場した、16人で突くだいしょうろうである。
これは、日本3大燈篭(東大寺、方広寺)の一つでもある。
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ここ知恩院は派手さは無いが、落ち着いたたたずまいが、ほっとしてくる。




この項 <完>

by mo-taku3 | 2012-04-18 23:26 | Comments(2)

円山公園の桜便り

円山公園の桜便り




円山公園の東、東山中腹に安養寺がある。この地は、法然ゆかりの吉水草庵旧跡ともいわれる。吉水は東山大谷の地名で、境内から霊水が湧き「良い水」であったことから称されたという。

「正式には、慈円山大乗院安養寺という。山号の慈円山は中興の祖・慈円の名から取り、院号の大乗院は、九条兼実と慈円が再建した比叡山無動寺の大乗院に因む。寺名は、慈円の小倉百人一首より、「おほけなく 浮世の民に おほふかな わがたつ杣に 墨染の袖」に因み、世に感謝し、民の恩で暮らす意による。
平安時代、延暦年間(782-806)、都鎮めの寺として第50代・桓武天皇の勅命により、最澄(767-822)が創建したという。
1175年、法然は西山広谷に棲み、1177年にこの地吉水に移る。また、1174年(1175年とも)、法然は、この地に庵を結び、吉水草庵と呼ばれ、念仏三昧の日々を送ったとみられている。
平安時代末期から鎌倉時代の建久年中(1190-1199)、青蓮院の慈鎮(慈円)が中興し、この地に隠棲した。吉水坊、慈円大乗院安養寺といわれ、青蓮院傘下となった。
1201年、親鸞29歳の時、毎夜、比叡山より下り、六角堂の本堂に百日参籠した。95日目に、暁の夢に本尊が現れ、「法然の許へ行け」と告げられた。以後、「後世の助からんずる縁にあいまいらせん」と、69歳の法然のもとへ百日参籠を行う。六角堂より吉水へ通い、その導きにより浄土教に帰依した。その2年後、浄土真宗を開く。」
という、安養寺である。

知恩院の鐘楼から円山公園側に入ると直ぐにこの安養寺がある。
ここが円山公園のてっぺんといっていいと思う。
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これを下ると直ぐに、桜林が続いて出てくる。
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しばらく下ると見事な枝垂桜がある。
この枝垂桜は坂本龍馬・中岡慎太郎の銅像の前に堂々とたたずんでいる。
後で出てくる有名な円山公園の枝垂れ桜には及ばないが、堂々たる枝振りである。
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又その直ぐしたには、こじんまりとした枝垂れ桜があった。とにかく枝垂れ桜の宝庫である。
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しばらく下りると、池があり、その周りには桜や楓がちりばめて配置している。
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これが、見事な、そして全国的に有名な枝垂れ桜である。
葉が落ちると、老木なので痛々しさが感じるが、花をつけると見事によみがえってくる。
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円山公園から高台寺方面に向かうと、東本願寺に帰属するお寺の三門からきれいな桜の庭が見える。
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このお寺の塀沿いにもさくらがちりばめられていた。
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「ねねの道」から高台寺にのぼり、高台寺の駐車場も桜が満開で、そこから見える京都の町もなかなかいい。
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この円山公園は、桜といい、紅葉といい、公園の造りといい、本当に楽しませてくれるところである。





この項 <完>

by mo-taku3 | 2012-04-18 23:23 | Comments(2)