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京都真如堂の桜便り

京都真如堂の桜便り



真正極楽寺は、京都市左京区にある天台宗の寺院で通称真如堂と呼ばれる。
本尊は阿弥陀如来、開基(創立者)は戒算である。
本尊の阿弥陀如来は「頷きの阿弥陀」とも呼ばれており、慈覚大師が「修行者を守護して下され」と祈ると首を横に振り、「衆生、特に女性をお救い下され」と祈ると頷いた、という伝説がある。
三井家菩提寺ということであった。

四条高倉から、203系統の銀閣寺行のバスに乗り、真如堂前で下車。
下りたところに、真如堂220mと書かれた案内がでていた。
真如堂への階段が見えてきた。
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境内に入ると上品な形で?桜が咲いていた。
写真をご覧ください。
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真如堂は紅葉が有名で、秋には見事な紅葉が見られる。
しかし今回桜の時期に訪れてみて、なかなか味のある景観が見られたので満足している。




この項 <完>

by mo-taku3 | 2012-04-18 20:17 | Comments(2)

京都の第二疎水と桜の景観

京都の第二疎水と桜の景観



明治末年から大正初年に掛けて京都市で行われた都市基盤整備事業(三大事業)で、「第二琵琶湖疏水(第二疏水)開削」、「上水道整備」、「道路拡築および市電敷設」の3つのうちの一つが、「第二琵琶湖疏水(第二疏水)開削」である。この「第二琵琶湖疏水(第二疏水)開削」事業は、明治41年から始められ、完成されたのは明治45年になる。
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平成4年、完成80周年を記念して、「人々の幸せと京都の永遠を祈念して」このモニュメントを建立している
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京都市は、琵琶湖疏水の蹴上発電所の発電量が市内工場の電力需要を満たす限界に来ていたこともあり、この第二疎水の必要性があった訳だが、その建設のために作られた「蹴上インクライン」がある。
この蹴上インクラインは、琵琶湖疏水のうち、蹴上から南禅寺の舟だまりの間は距離が582メートル、高低差が約36メートルあり、インクラインは舟を台車にのせてこの間を移動させるために作られた傾斜軌道である。現在は使用されていないが、当時の姿に復元された台車を見ることができる。インクラインの両側には桜の古木が並び、春にはお花見が楽しめる。
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「南禅寺の舟だまり(疎水の吐き出し口)」の景観は、このような桜の時期は見事である。
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南禅寺の舟だまりの前には、琵琶湖疎水記念館が建つ。ここは平成18年に“疎水百選”に選ばれている。
入場は無料のようだ。次の機会に訪れてみたいと思っている。
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疎水で送られてきた水は市内に流され、農業用水として使われてきた。(古来から水は神のからの贈り物として、水の利用(水利権)については、電力・水道・農業で分けられてきている。)
この水路は、開渠として「岡崎公園」の周りを二条方面経由で鴨川沿いを別水路で流されている。
「岡崎公園」のところは遊覧船が走っており、花見の時期はこの画の如く満員御礼である。
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このような見事な景観のところを船から眺めることができる。
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ここに至るには、京都市においては、1906年(明治39年)3月市会における1906年度(明治39年度)予算説明の中で、第2代京都市長西郷菊次郎が「三大事業」という言葉をはじめて使用して、より多くの水と電力を得る水利事業である第二疏水開削、衛生状態を改善するため第二疏水から得られる大量の水を用いた上水道整備、市内の輸送力の大幅な増加を図る道路拡築(市営による電気鉄道敷設についても付属するものとして考えを示した。)の3つの柱からなる積極的な都市改造事業を説明している。
1906年(明治39年)4月、内貴前市長時代に申請していた第二疏水建設が内務省から許可され、1906年11月に、市会で第二疏水と上水道建設の予算が可決された。
道路拡築については、対象路線およびその幅員について市会内部で対立があったが、1907年(明治40年)3月の市会で、七条線・四条線・丸太町線・今出川線・東山線・烏丸線・千本大宮線の7路線に確定した。この拡築した道路での電気鉄道の敷設については、既に京都市内に電気鉄道を敷設し営業を行っていた京都電気鉄道が、道路拡築工事費用の半額を市に寄付し、相当額の補償金を市に納入するという条件で、拡築路線における営業を申請をしていたが、内閣は民営不許可の指令を出したことにより、電気鉄道は市営となることとなった。
1907年(明治40年)3月、市会は「道路拡築並電気軌道建設費」を可決した。第二疏水と上水道建設と合わせると総額1726万円[2]と、当時の市税収入の34倍もの額の予算となった。
1908年(明治41年)10月に平安神宮で三大事業起工式が行われた。まずは内債によって第二疏水の工事が行われた。
事業においては、外債の発行により資金調達を行うことを予定していたが、当初日露戦争後の世界不況によって欧米での金融事情が悪化していたことから、事業の決定から遅れた1909年(明治42年)7月から、利子は5パーセントで、10年据え置きの後に20年で償還するという内容で4500万フラン(日本円で1755万円)の外債の販売が始まった。当初分に加え、1912年には500万フランが追加販売されている。
返済資金として期待された市電の営業成績は良好で、第一次世界大戦後のフラン安の影響もあり、償還期間の30年を繰り上げて返済することになった。 なお、この時期京都市だけでなく、東京市や大阪市でも同じように外債を用いて都市基盤整備事業を行っている。
二期目在任中の西郷市長は1911年(明治44年)4月に持病の結核を再発、7月に辞任したが、既に軌道に乗っていた事業は順調に進み、1912年(明治45年)4月1日から上水道の給水が開始され、同年4月15日に第二疏水全工事が完了、5月10日から通水された。また、6月には市電運転も一部で開始されたことから、6月15日に三大事業竣工の祝典が行われた。
翌1913年(大正2年)8月までには、市電第1期路線すべてが完成した。疏水の付帯工事である発電所のについても1914年(大正3年)に竣工した。これら三大事業の工事費は付帯工事を含めると1960万円に達している。(資料参考)



この項 <完>

by mo-taku3 | 2012-04-17 20:22 | (歴史)京都史 | Comments(2)

平安神宮周辺の桜便り

平安神宮周辺の桜便り



琵琶湖第二疎水の水路が平安神宮の周りを回っている。
この水路に平安神宮への橋がかけられ、右上には鳥居がが見える。
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公園にはすばらしい池があり、周りには家族連れが食事をしている。
枝垂れ桜が数本この池を囲んで咲いていた。
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平安神宮の正面には、立派な石柱が立っている。
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公園に沿って多くの桜が立ち並んでいるが、この桜もその一部である。
京都の顔としてかなり整備された状況になっている。
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ピンクの鮮やかな桜が咲いていた。なんという桜だろう?
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公園の神宮よりに見事な枝垂桜がさいていて、盛んに写真を撮っていた。
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その先には重層な仁王門が鎮座していた。
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平安神宮の本殿の屋根にかぶさるように枝垂れ桜が咲いていた。
見事に満開だった。
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このまま平安神宮の裏庭にまっすぐすすんでいった。




この項 <完>

by mo-taku3 | 2012-04-15 23:31 | Comments(2)

縁結びの神様 「地主神社」

縁結びの神様 「地主神社」



地主神社は、清水寺の清水の舞台を出て直ぐ左手にある神社で、江戸時代までは清水寺の鎮守社であった。大国主命を主祭神とし、縁結びの神さまとして若い女性やカップルに人気のスポットである。
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大国主命を主祭神として、父母神の素戔嗚命・奇稲田姫命、奇稲田姫命の父母神の足摩乳命・手摩乳命を正殿に、大田大神(芸能と長寿の神)、乙羽竜神(旅行・交通安全の神)、思兼大神(知恵と才能の神)を相殿に祀る。
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現在の社殿は、徳川家光が寛永10年(1633年)に造営したものである。本殿、拝殿、総門は国の重要文化財に指定されており、1994年には、歴史的経緯から清水寺の一部としての登録であるが世界文化遺産「古都京都の文化財」 に登録された。
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境内には10メートルほど離れてたつ2つの守護石「恋占いの石」があり、目をつぶって、その石から石に辿り着けば恋が叶うとされている。
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修学旅行の中学生がガイドの説明を受け、歓声をあげながらチャレンジしていた。
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地主神社というと、縁結びの神様として有名ですが、歴史的にも古く、地主神社の創建された年代は日本の建国前とも言われていました。しかし、アメリカの原子物理学者・ボースト博士の研究により、「恋占いの石」が縄文時代の遺物であることが証明され、その歴史的価値はますます深まっていきました。京都の盆地が、湖であった古代から、地主神社のあった宝来山は陸地であり、不老長寿の霊山として信仰を集めてきた場所でした。
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皆様どうぞお幸せに!合掌。
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清水寺の境内にあり、気軽に覗いてみてはいかがでしょうか?恋の願いがかなうかもしれません。
境内は「地主桜」と呼ばれる桜の名所で、弘仁2年(811年)に嵯峨天皇が行幸した際、地主桜の美しさに3度車を返したことから「御車返しの桜」とも呼ばれる。




この項 <完>

by mo-taku3 | 2012-04-14 00:59 | Comments(4)

毎年楽しみな、「木屋町通り」の桜便り

毎年楽しみな、「木屋町通り」の桜便り



木屋町通(きやまちどおり)は、京都市の南北の通りの一つ。 北は二条通から南は七条通まで。先斗町の西にあり、高瀬川の東側に沿っている。
慶長年間の角倉了以の高瀬川開削に伴って整備された。 開通当時は、「樵木町」(こりきまち)と呼ばれていたが、高瀬舟が運んでくる材木の倉庫が立ち並ぶようになったため、いつしか「木屋町」という名称に変わったという。木屋町周辺に残されている紙屋町、鍋屋町、米屋町などの地名は、当時の賑わいを彷彿させる。

ここは五条通りから見たところだが、「コミュニティ道」問い名称がついている。
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その横には、大田垣連月の詩が掲げられている。

蓮月は、若き日の富岡鉄斎を侍童として暮らし、鉄斎の人格形成に大きな影響を与えた人である。
京都でたびたび起った飢饉のときには、私財をなげうって寄付し、また自費で鴨川に丸太町橋も架けるなど、慈善活動に勤しんだ。
住居としていた西賀茂村神光院の茶所で、明治8年12月10日、85歳で没したが、別れを惜しんだ西賀茂村の住人が総出で弔いをしたという。
このように京都に深いかかわりがあり、この木屋町の桜を見に度々訪れた様子がうかがえる。
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木屋町通りは、高瀬川(運河)の開削時に整備され、桜並木も作られたようだ。
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雪柳が真っ盛りだった
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桜並木には、高瀬川の川中にライトアップがされるようにライトが設置され、夜は川中からの光がきれいに照らされている。
また、道路沿いにぼんぼりが彩を沿えている。
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ところどころに配置植えられた柳が、桜の花とは対照的な緑が桜の花を際立たしている。
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五条どおりに沿った木屋町通りの入り口には憩いの場所が設けられている。
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木屋町は、江戸時代中頃にはこの通りを往来する旅人や商人を目当てに、料理屋や旅籠、酒屋などが店を構えるようになり、酒楼娯楽の場へと姿を変えた。三条通のあたりは、幕末には勤皇志士が密会に利用したため、坂本龍馬や桂小五郎らの潜居跡や事跡の碑が繁華街のあちこちに立っており、大村益次郎や本間精一郎、佐久間象山などが殉難している。

1895年には二条~五条間に京都電気鉄道(のちに買収され京都市電木屋町線)の路面電車が開通した。1920年代に河原町通が拡幅されたことにより、市電のルートは河原町線に移った。




この項 <完>

by mo-taku3 | 2012-04-13 15:42 | Comments(2)

清水寺の桜便り

清水寺の桜便り


清水寺の沿革はおおよそ次の通りである。
宝亀9年(778年)、大和国興福寺の僧で賢心は、夢のお告げで今の清水寺の地である音羽山に至った。
金色の水流を見出した賢心がその源で、千手観音を念じ続けている行叡居士(ぎょうえいこじ)という白衣の修行者がいた。
年齢200歳になるという行叡居士は賢心に「私はあなたが来るのを長年待っていた。自分はこれから東国へ旅立つので、後を頼む」と言い残し、去っていった。行叡は観音の化身であったと悟った賢心は、行叡が残していった霊木に千手観音像を刻み、行叡の旧庵に安置した。これが清水寺の始まりであるという。

その2年後の宝亀11年(780年)、鹿を捕えようとして音羽山に入り込んだ坂上田村麻呂(758年 - 811年)は、修行中の賢心に出会った。田村麻呂は妻の高子の病気平癒のため、薬になる鹿の生き血を求めてこの山に来たが、殺生の罪を説かれ、観音に帰依して観音像を祀るために自邸を本堂として寄進したという。
田村麻呂は、後に征夷大将軍となり、東国の蝦夷平定を命じられ、毘沙門天と地蔵菩薩の化身)の加勢を得て戦いに勝利し、無事に都に帰ることができた。
延暦17年(798年)、田村麻呂は本堂を大規模に改築し、観音像の脇侍として地蔵菩薩と毘沙門天の像を造り祀ったという。
以上の縁起により、清水寺では行叡を元祖、延鎮(賢心)を開山、田村麻呂を本願と位置づけている。

山門の横には、桜並木が続いている。
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中世から、八坂の塔(法観寺)を経て産寧坂(三年坂)を南方向へ上り、経書堂(きょうかくどう)のところで左(東)へ折れるルートが参道であった。
その産寧坂(三年坂)の登りきる直前に、このような見事な枝垂れ桜が咲いている。
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山門をくぐりチケット売り場に着くと、朝6:00から開門しているとのこと。
チケットを買って、すぐ右の手摺から下を見ると、7時前だというのに既に見終わった人たちが帰路を歩いていた。
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清水の舞台を望む全景は非常に美しい。
清水は何といっても、紅葉が有名であるが桜の季節も絶景である。
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清水の舞台には沢山の修学旅行生が来ていた。
聞いてみると、長野の中野中学校?云っていた。
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下の歩道から見ると、このように見える。
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これは有名な延命水の「音羽の滝」である。
日頃、観光客が絶えることのない清水寺音羽の滝は、古来「黄金水」「延命水」とよばれ、日本10大名水の筆頭にあげられる有名な水である。清水寺の名の由来もこの清らかな清泉が音羽の山中より1000年以上、涌き続けていることに由来している。
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出口に近いところに池があり、水藻に写る桜が見事だった。
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皆さんにはあまりなじみのない「茶碗坂」の上から見た桜も映えていた。
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とにかく、清水寺は桜・紅葉だけでなく、いつ行っても気持ちの良いところである。



この項 <完>

by mo-taku3 | 2012-04-12 20:24 | Comments(2)

チョット早い 「嵐山の桜便り」

チョット早い「嵐山の桜便り」



結論から言うと、桜の時期は少々早すぎたようだ。
渡月橋の中ごろから山側を眺めると、未だ桜色はうっすらとしているのが分かる。
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阪急の嵐山駅から河原の公園を抜ける途中の桜は、部分的に開花しているのもあった。
やはり、開花すると美しい。
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渡月橋を渡ってしばらく行くと、「ひばり御殿」がある。
結構賑わっていた。ひばり人気は根強い。
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ここを曲って進むと嵯峨野へ続いている道である。
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曲って少し進むと、ウグイスの鳴き声が盛んに聞こえてきた。
大きな桜の木があり、見ると色々な鳥が飛び交っていた。
よく見ると、メジロがいるみたいなので、望遠に切り替え狙ってみたがなかなか捉えることができない。
捉えることができたのはこの程度だった。
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やはり有名な嵯峨野の竹林は美しい。
新株が成長する時期には、もっと緑が増してくるはずだ。
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野宮神社があった。
若者が多いと思ったら、ここも縁結びのかみさまだった。
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桜が未だ早いということで、途中で切り上げ北野白梅町方へ向かうことにした。
嵐山メーンストリートの桜は結構咲いていた。
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嵐山は、桜が見事なところである。
未だ、早すぎて見れなかったが、紅葉と同様に、桜の鑑賞には最高のところである。
あちこちでライトアップされており、夜来てもいい。




この項 <完>

by mo-taku3 | 2012-04-10 21:31 | Comments(2)

京都新橋の花鳥

京都新橋の花鳥風月


今日は4月10日。例年に比べて1・2週間遅い桜が、やっと五分咲きとなり、一気に観光客の姿が目に付き始めた。
最近はどちらを向いても中国語か韓国語が飛び交い、雰囲気は随分変わってきた。
そのため、朝6:30に家を出て、歩いて20分程度のところにある、祇園新橋の桜を見に行ったが、何と桜ではなく、本来は桜に花を添えるべき鳥たちが、主役の座をつかんでいたのにはびっくりだった。

ここ新橋には白川が流れているが、朝7:00前ということもあり、人影もまばらで、アオサギが垣根の屋根にとまっていたのでパチリ。
写した写真をよく見ると、向かいの窓2つにきれいな桜が映し出されていたのには、ラッキーとしか言いようが無い。
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アオサギが珍しく車道をかっぽしていた。
朝早い時間だったが、後ろを見ると掃除をしている方がいるが、特に気にせず逃げる気配はなかった。
多分、いつも見る鳥なのでここに住みついているのではないかと思う。
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川にはコサギがエサを狙っているようだ。
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と思ったら、先程のアオサギが飛んできて、そばに舞い降りてきたが、特に仲が悪そうではなかった。
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少し下流に行くと、先ほどのアオサギとは違うアオサギが下流にいた。
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いつ来ても見られる新橋の桜だけではない、風物といえる。
ここから、鴨川までは100m位なので、行き来しているのではないかと思える状況だった。





この項 <完>

by mo-taku3 | 2012-04-10 00:26 | Comments(2)

聚楽第築城までの京都における豊臣秀吉の拠点

妙顕寺城址(豊臣秀吉の京都拠点)




二条城から全日空ホテルを抜けて暫く行くと、このような標識が出ていた。
妙顕寺というお寺は聞いたことがあるが、妙顕寺城とはいかなるものかと、読んでみると意外と興味が沸く内容だった。
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この付近は、豊臣秀吉の妙顕寺城の故地である。
妙顕寺とは、鎌倉後期、日像がはじめて京都に建立した日蓮宗寺院であり、たびたび場所は移ったが、戦国時代にはこの地にあった。
天正11(1583)年9月、豊臣秀吉は寺を小川寺ノ内に移転させたあとに二条新邸を構築し、天正14年聚楽第を造るまで、京都の政庁とした。
建物の姿は詳しくはわからないが、周囲に堀をめぐらし、天主をあげていたという。
平素は前田玄以が居住して京都の政務にあたり、秀吉が上洛すると、ここが宿舎となった。
豊臣秀吉が次第に天下を握ってゆく間の、重要な政治的拠点であった。現在、城跡はしのぶべくもないが、古城町という町名となって、よすがを伝えている。
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この地に行くには、二条城の東大手門を東へ約200メートルほど、全日空ホテルの南を東へ歩いていくと西福寺の前に妙顕寺城跡を示す石碑と案内板が設置されている。(古くは鎌倉初期に閑院が建ち、里内裏として利用され、下って秀吉が城を築城していた。)

閑院址
ここから北西にあたる西洞院通、押小路通、油小路通、二条通に囲まれた地域は、平安時代から鎌倉時代初期にかけて藤原氏の邸があったところ。
当初は藤原冬嗣の邸であったが、11世紀初期に藤原公季が伝領してから「閑院」と称した。
また、高倉天皇の時代(1161~1181)大内裏が甚しく荒廃したため閑院邸が里内裏(臨時に設けられる皇居)として利用され、次いで後鳥羽天皇もここで皇位を承継するなど朝廷の中心となった所でもある。
以来、後深草天皇に至る9代90余年間里内裏となっていたが、正元元年(1259)5月に火災で焼失した。

閑院の南殿にて月前松を詠める。
いまはまた世々をかさぬる庭の松
 ふりてそみゆる秋の夜の霜
            順徳天皇
『妙顕寺城跡案内板』より
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聚楽第築城までの京都における豊臣秀吉の拠点となる経緯

室町時代後期、室町幕府管領の細川晴元(ほそかわはるもと)は山科本願寺の証如(しょうにょ)と同盟し、一向一揆を使って政敵を排除した。
例えば、河内守護代の木沢長政(きざわながまさ)が河内守護職の畠山義尭(はたけやまよしたか)に反して、晴元の被官となった。
これを受けて、天文元年(1532年)木沢氏の拠る河内飯盛城(大阪府大東市)を畠山軍が包囲するが、晴元の命を受けた一向一揆がこれを破り、義尭を誉田城(大阪府羽曳野市)にて自刃させる。さらに同年、対立していた有力家臣の三好元長(みよしもとなが)を一向一揆に攻めさせて、和泉国堺の顕本寺にて自刃させる。
勢力をつけた一向一揆は畿内各地で蜂起し、南都(奈良)に乱入して諸坊を焼いた。さらに京の法華寺院を攻めるという風聞がおこり、法華寺院ごとに組織化された法華衆徒が新日吉口(いまひえぐち)、汁谷口(しるたにぐち)、山崎で一向一揆軍と戦った。
天文元年(1532年)一向一揆の勢力に脅威を感じた細川晴元は南近江守護職の六角定頼と法華一揆の連合軍に山科本願寺を攻撃させ、堂舎を焼き払った。翌天文2年(1533年)法華一揆軍は、晴元の要請により、石山本願寺を攻撃するため摂津国まで出陣した。法華衆徒は京で圧倒的な勢力を誇り、洛中警固を命じられ、洛中を囲む諸関を支配した。
天文5年(1536年)松本新左衛門久吉という法華衆徒が、比叡山延暦寺西塔の華王房を論破する事件が起こる(松本問答)。法華寺院攻撃を決めた延暦寺は諸寺・諸大名に援兵を求め、六角定頼らが応じた。
これに対し法華衆徒は戦いに備え、妙顕寺や本圀寺など法華寺院二十一ヵ寺を城塞化した。しかし、延暦寺の僧兵と六角軍は洛中に攻め込み、戦いのすえ法華寺院は壊滅した。この天文法華の乱で、下京は兵火により全焼、上京は三分の一が炎上した。同年、幕府は法華寺院の再興を禁止する禁令三箇条を布告し、天文11年(1542年)後奈良天皇によって法華宗帰洛の綸旨を下賜されるまで禁教された。

天正10年(1582年)織田信長は天下統一に向けて積極的に勢力を広げていた。
筆頭家老の柴田勝家(かついえ)を始め、前田利家(としいえ)、佐々成政(さっさなりまさ)は北陸方面へ、滝川一益(かずます)は関東方面へ、羽柴秀吉は中国方面へ遠征しており、三男の織田信孝(のぶたか)は大坂で四国遠征の準備をしていた。また、細川藤孝(ふじたか)、池田恒興(つねおき)、筒井順慶(じゅんけい)、塩河長満(ながみつ)、高山右近、中川清秀(きよひで)ら、畿内とその周辺の武将のほとんどは、羽柴秀吉の援軍のために居城に帰って出陣の支度をしていた。信長も中国方面に出陣することになっており、長男の織田信忠(のぶただ)が軍勢を率いて妙覚寺(京都市中京区上妙覚寺町)に入って信長の到着を待っているが、その軍勢はわずか700人であった。
近江と丹波に本拠を持ち、京都を守護すべき明智光秀(みつひで)を除けば、畿内は空白である。そして、光秀は愛宕山西坊の連歌会で有名な「ときは今天(あめ)が下知(したし)る五月哉(さつきかな)」と読んでいる。信長は近江安土城(滋賀県近江八幡市)を発ち、30人たらずの供を従えて本能寺(京都市中京区元本能寺南町)に入った。
丹波亀山城(京都府亀岡市)を出陣した光秀は、1万3千の軍勢を率いて京都になだれ込み信長を襲う。この本能寺の変により織田信長は49年の生涯を閉じた。
同年(1582年)羽柴秀吉は中国大返しを経て、山崎の戦いで謀反人の光秀を破り、西国から京への入口に当たる山崎の天王山山頂に山崎宝寺城(乙訓郡大山崎町)を築く。ここで天下取りのための準備をおこなった。

天正11年(1583年)秀吉は妙顕寺を小川寺之内に移転させて、あとに妙顕寺城を構築し、天正14年(1586年)に聚楽第を築城するまで、京都の政庁とした。
建物の姿は詳しくは分かっていないが、周囲に堀をめぐらし、天守をあげていたという。平素は前田玄以が居住して京都の政務にあたり、秀吉が上洛すると、ここが宿舎となった。玄以は丹波亀山に5万石を領し、京都所司代として洛中・洛外の警備、公卿、神社仏閣の管理を担当した。
その後、妙顕寺城は聚楽第が造営されるとその拠点機能を失うことになった。




この項 <完>

by mo-taku3 | 2012-04-08 23:50 | (歴史)京都史 | Comments(2)

平野国臣殉難の地(勤皇の志士)

平野国臣殉難の地(勤皇の志士)



幕末尊王攘夷派の指導者平野国臣が処刑されたところである。
この地はもと「六角獄舎」があったところで、安政の大獄以後は多くの政治犯が収容されていた。国臣は、生野の乱に挙兵して捕えられ、元治元年(1864)1月17日ここに収容された。
同年7月19日禁門の変(蛤御門の変)の兵火の中で、幕吏は獄中の尊王攘夷派の志士たちを斬った。
この時斬られた一人が国臣である。
この難にあったものは、国臣のほか37名にのぼった。
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当地は、宝暦4年(1754)に医師山脇東洋がわが国で初めて死体解剖を行ったところと言われ、ならんで記念碑がある。
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情勢が勤王派に有利となった文久3年(1863年)3月に藩牢から釈放された。
この頃、京都では長州藩が攘夷派公卿と結んで朝廷を牛耳り、天誅と呼ばれる暗殺事件が頻発していた。
そして、理論家の真木和泉が画策した大和行幸の勅命が下る。天皇の攘夷親征を決行する計画であった。
8月16日、京へ上っていた国臣は学習院出仕に任ぜられた。この頃の学習院は三条実美を中心とする攘夷派公卿の政策決定の場となっており、格式も高く足軽身分の国臣としては相当な大抜擢であった。
17日、国臣は三条から中山忠光、吉村寅太郎らの天誅組の制止を命じられた。天誅組は大和国五条天領の代官所を襲撃して挙兵していた。19日、国臣は五条に到着するが、その前日の8月18日に政局は一変してしまっていた。会津藩と薩摩藩が結んで政変を起こし、長州藩を退去させ、三条ら攘夷派公卿を追放してしまった(8月18日の政変)。
急ぎ京へ戻るが、すでに京の攘夷派は壊滅状態になっていた。
国臣は未だ大和で戦っている天誅組と呼応すべく画策。但馬国の志士北垣晋太郎と連携して、生野天領での挙兵を計画した。
周防国三田尻へ赴き、長州藩に庇護されていた攘夷派公卿沢宣嘉を主将に迎え、元奇兵隊総管河上弥市ら30数人の浪士とともに生野に入った。この時点で天誅組は壊滅しており、国臣は挙兵の中止を主張するが、天誅組の仇を討つべしとの強硬派に押されて挙兵に踏み切った。10月12日に生野代官所は無抵抗で降服。農民に募兵を呼びかけて2,000人が集まり意気を挙げた。
だが、幕府の対応は早く、翌日には周辺諸藩が兵を出動させた。浪士たちは浮足立ち、早くも解散が論ぜられ、13日の夜に主将の沢が逃げ出してしまった。
農民たちは騙されたと怒り、国臣らを「偽浪士」と罵って襲いかかった。国臣は兵を解散して鳥取への脱出を図るが、豊岡藩兵に捕縛され、京へ護送され六角獄舎につながれた。

元治元年(1864年)7月、禁門の変を端にして発生した火災(どんどん焼け)は京都市中に広く延焼。獄舎に火が及び、囚人が脱走して治安を乱すことを恐れた京都所司代配下の役人が囚人の処刑を決断。処分は未決状態ではあったが、他の30名以上の囚人とともに斬首された。享年37。明治24年(1891年)、正四位を贈られた。




この項 <完>

by mo-taku3 | 2012-04-08 22:56 | (歴史)京都史 | Comments(2)