【花の祭典?③バラ園】京都府立植物園

【花の祭典?③バラ園】京都府立植物園


バラ園は広大な敷地要していた。
撮りたい情景がいたるところにあり、時間を一番費やし100枚以上を撮っている。
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今日は土曜日で学校は休みだが、子供たちもこのようにお絵かきに来ていた。
勿論大人も沢山やっていたが、大人は写真を撮る人がいっぱいだった。
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ダイアナプリンセス イン ウェールズのバラは、見つけた時に驚きであった。
これをきっかけに名前に注目して見ていった。
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プリンセスミチコというバラがあった。これは美智子妃殿下にちなんで作られたものではないかと思う。
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バラ園の始まりから終わりまで、バラで満開だった。
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京都府立植物園の一連の花・木は見事だったのと、何度も思うが、非常にy区手入れが行き届いていることに気持ちがよかった。何度も訪れたいところである。
また、この環境の良さに、当日もかなり多くの人が訪れており、特にバラ園は凄い人数の人が輪徊していた。





この項 <完>

by mo-taku3 | 2012-05-30 16:24 | Comments(4)

【花の祭典?②シャクヤク】京都府立植物園

【花の祭典?②シャクヤク】京都府立植物園


シャクヤクトと云えば、過去白・赤・黄くらいの花しか見たことがないように思っていたが、このシャクヤク園の花を見て、“えっ、こんなに!ほんと?”いう感じがあった。
この花を始め、色々な種類の花があったのをここでは主なものを載せてみた。
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とにかく私のコメントは不要であろう。
時期的に殆ど終わりかけていたように思うが、中でも比較的元気なものを写してみた。
私自身が感激している。来年が楽しみである。




この項 <完>

by mo-taku3 | 2012-05-30 16:21 | Comments(4)

【花の祭典?①さつき】京都府立植物園

【花の祭典?①さつき】京都府立植物園


5月27日京都府立植物園にいってきました。
娘がこの近所に住んでいたことがあり、すばらしいところだということを聞いていたので、一回はと思い出かけて見ました。
さすがに、その通りの情景が広がっていました。
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展示場には代表的な優秀作品?がズラッーと展示されていた。
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まず、このピンクのさつきが目に焼き付いた。
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さっきのピンクとは違うが、やはりピンクは映えている。
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南側出口の近くには、休憩所があるが、そこにもさつきが展示されていた。
多くの人が鑑賞していた。
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この休憩所の前には、鉢植えの植木を売っていたが、かなり低価格であり、さつきも多く売っていた。
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さつき展は翌日(5月27日)で終了予定であったが、今年は寒さで開花が遅れたこともあり、当日は丁度よい開花程度で、後一週間位は延長してもいいぐらいだったと思う。





この項 <完>

by mo-taku3 | 2012-05-30 16:17 | Comments(5)

【花の祭典(紹介)】京都府立植物園

【花の祭典(紹介)】京都府立植物園


京都府立植物園は初めて出かけてみました。
当日はまとまった鑑賞として、さつき園、シャクヤク園、バラ園をやっておりましたが、園内は珍しいバラエティに富んだ花が沢山あった。
京都市民の60歳以上でであれば無料とのことだったが、年齢を証明するものがなく残念ながら正規の料金で入場させていただいた。
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植物園の園内はかなり広く、また園内の整備はすばらしく行き届いていた。
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入ってすぐ、スペインの花とのことだが、ひときは目立つ「エキウム・ウィルドプレッティ」というお花があった。
背丈が高く、2m位あったが、3m位まで伸びるらしい。
まずこれで驚かされた。
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ポピーもアクセントとしては本当にかわいい。
以下、お花をしばらくご覧頂きたい。
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ここで珍しいお花を見つけた。
「カルミア」という花である。蕾を見ると“金平糖"そっくりでかわいらしかった。
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最後にそのまんま、名前の通りのお花を見つけた。
その名も「ブラシノキ」でした。
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この後、①さつき園・②シャクヤク園・③バラ園を続けて紹介したい。








この項 <完>

by mo-taku3 | 2012-05-29 16:28 | Comments(2)

大原三千院の新緑

大原三千院の新緑



三千院は天台三門跡の中でも最も歴史が古く、最澄が延暦7年(788年)、比叡山延暦寺を開いた時に、東塔南谷(比叡山内の地区名)に自刻の薬師如来像を本尊とする「円融房」を開創したのがその起源という。
円融房のそばに大きな梨の木があったため、後に「梨本門跡」の別称が生まれた。
というような歴史があるなか、もう何度目の訪問になるだろう。とにかく何度も来ている感がある。

ここ三千院の入館料は 700円であるが、入ってみれば納得のいく料金といえよう。
今は、新緑の季節で、庭の緑がまぶしいほどだ。
しばし、ゆっくり眺めてみる。
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このように、庭は非常に整備された状態である。
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阿弥陀三尊坐像 - 往生極楽院の本尊。脇侍の勢至菩薩像像内の銘文から平安時代末期の1148年(久安4年)の作とわかる。
阿弥陀如来、観音菩薩(聖観音)、勢至菩薩の三尊が西方極楽浄土から亡者を迎えに来る(来迎)形式の像で、両脇侍が日本式の正座をしている点(大和座り)が大きな特色である。
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ここまで持ってきた靴を履いて、一面苔が芝生となっている庭に出る。
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しばらく進むと、苔むした中に鎮座する子像の石像が見えてくる。
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石像自身も苔むした状態でいるが、表情が何とも愛くるしい。
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更に奥に進むと季節によって色々な花が咲く庭園にでる。
もうすぐアジサイの咲く時期となるが、一足早くカエルが先に顔を出していた。
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牡丹は既に終わりかけていたが、大原は京都市街地よりも数度寒いと云われるように、数株の牡丹が咲いていた。
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以前は気が付かなかったが、「越中おわら櫻」がもう散ってはいたが存在していた。どうゆう経緯なの分からないが結構大きな木になっていた。
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三千院は水が豊富な所であり、小さな水路があちこちにあった。
そこに小さなアヤメ科の花がさいていた。
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一回りして帰る途中に、多分地中から掘り出されたであろう大きな石仏を見ることができた。
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出口の少し手前の塀から、大原の里を眺めると、新緑の世界が広がっていた。
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(付説)坂本の円融房には加持(かじ、密教の修法)に用いる井戸(加持井)があったことから、寺を「梶井宮」と称するようになったという。最雲法親王は1156年(保元元年)、天台座主(てんだいざす、天台宗の最高の地位)に任命された。
同じ年、比叡山の北方の大原(現在の京都市左京区大原)に梶井門跡の政所(まんどころ)が設置された。これは、大原に住みついた念仏行者を取り締まり、大原にそれ以前からあった来迎院、勝林院などの寺院を管理するために設置されたものである。





この項 <完>

by mo-taku3 | 2012-05-23 21:37 | Comments(4)

宇治平等院鳳凰堂(阿弥陀堂)

宇治平等院鳳凰堂(阿弥陀堂)



京都市の南に位置する宇治は、『源氏物語』の「宇治十帖」の舞台であり、平安時代初期から貴族の別荘があった。その代表的なのが平等院である。
その平等院を語る前に、この橋のふもとには源氏物語の「夢の浮舟;最終話」についての逸話が載っていた。
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源氏物語には意に反した男性と関係を持った女性は複数登場する。その結果それぞれが、男から逃れるために出家を余儀なくされている。浮舟も投身自殺が未遂に終わって横川の僧都に助けられ、山里で静かに暮らしていたが、また言い寄る男が出てきてついに出家する。薫が彼女の弟に文を持たせてくるが、手紙を受け取らず、使いの弟にも会わない。やっと浮舟は自分で自分の態度を決めることができた。
 
もう少し、詳しく状況をみると次のような内容である。
「薫は比叡山の奥・横川(よかわ)を訪ね、小野で出家した女について僧都に詳しく尋ねた。「その女は浮舟に違いない」と確信した薫は夢のような気がして涙を落とした。その様子を見て、僧都は浮舟を出家させたことを後悔した。薫は僧都に浮舟のいる小野への案内を頼むが僧都は「今は難しいが来月なら御案内しましょう」と述べる。薫は浮舟への口添え文を僧都に懇願して書いてもらう。
その夜、横川から下山する薫一行の松明の火が、浮舟がいる小野の庵からも見えた。 妹尼たちが薫の噂をする中、浮舟は薫との思い出を払うように念仏を唱える。
翌日、薫の使者として 浮舟の異父弟・小君が小野を訪れた。朝早くに僧都から前日の事情を知らせる文が届いており、妹尼たちが浮舟の素性に驚いていたところだった。小君が持参した僧都の文には、薫との復縁と還俗の勧めをほのめかしてあった。簾越しに異父弟の姿を見た浮舟は動揺するが、結局は心を崩さず、妹尼のとりなしにも応ぜず、小君との対面も拒み、薫の文にも「(宛先が)人違いだったらいけない」と言って受け取ろうとしなかった。むなしく帰京した小君から「対面できず、お返事も頂けなかった」と聞いた薫は(自分が浮舟を宇治に隠していたように)「他の誰かが浮舟を小野に隠しているのではないか」と思うのだった。」
となる。
源氏物語は女性たちのさまざまな哀しみを語っている。
物語の美しさはその「あわれ」から生まれている。
それがこの最終章の史跡である。
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宇治橋の横には、紫式部像の他このような「夢の浮橋」の古蹟が置かれている。
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どうゆう訳か、季節外れのシャクナゲが一輪の花を添えていた。
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さて、話を平等院に戻そう。
9世紀末頃、光源氏のモデルとも言われている左大臣、源融(嵯峨源氏)の別荘だったものが、宇多天皇に渡り、摂政藤原道長の別荘「宇治殿」となったものである。
道長の子の関白藤原頼通は、永承7年(1052年)、宇治殿を寺院に改め、これが平等院の始まりである。
創建時の本堂は、阿弥陀堂(鳳凰堂)の北方、宇治川の岸辺近くにあり、大日如来を本尊としていたが、翌天喜元年(1053年)に阿弥陀堂(現・鳳凰堂)が建立された。
本尊阿弥陀如来像を安置する中堂(ちゅうどう)、左右の翼廊、中堂背後の尾廊の計4棟が「平等院鳳凰堂」として国宝に指定されている。中堂は入母屋造、裳階(もこし)付き。東側正面中央の扉を開放すると、柱間の格子は本尊の頭部の高さに円窓が開けられており、建物外からも本尊阿弥陀如来の面相が拝せるようになっている。
阿弥陀如来の住する極楽浄土は西方にあると信じられており、池の東岸(あるいは寺の前を流れる宇治川の東岸)から、向かい岸(彼岸)の阿弥陀像を拝するように意図されたものである。
中堂の屋根上には1対の鳳凰(想像上の鳥)像が据えられているが、現在屋根上にあるのは複製で、実物(国宝)は取り外して別途保管されている。
本尊阿弥陀如来像(国宝)は仏師定朝の確証ある唯一の遺作。本尊を安置する須弥壇は螺鈿(らでん)や飾金具で装飾され、周囲の扉や壁は極彩色の絵画で飾られ、天井や柱にも彩色文様が施されていた。
長押(なげし)上の壁には楽器を奏で、舞いを舞う姿の供養菩薩像の浮き彫り(現存52体)があり、本尊の頭上には精巧な透かし彫りの天蓋(てんがい)を吊る。
現在、壁画は剥落が激しく、柱や天井の装飾は色あせ、須弥壇の螺鈿は脱落しているが、創建当時の堂内は、当時の貴族が思い描いた極楽のイメージを再現した、華麗なものであったと思われる。
なお、「鳳凰堂」の呼称は、当初は「阿弥陀堂」あるいは単に「御堂」と呼ばれていた。日本の10円硬貨には平等院鳳凰堂が、一万円紙幣には鳳凰堂の屋根上に飾られている鳳凰がデザインされている。
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本尊の頭部の高さに円窓が開けられており、建物外からも本尊阿弥陀如来の面相が拝せるようになっている。この面相が拝せるようになっている造りは、藤原時代の特徴でもある。
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天気がよく、池の水面にも鳳凰堂が浮かび上がるとともに、今日は空が透き通る青さだった。
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近年史跡の維持管理の一環で補修・整備が行われ、全体的にきれいになっていた。
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丁度池のハスの花がきれいに咲いていた。
全てに、満足できる内容であった。
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さてここで、源頼政について一席講釈を述べさせていただきたい。
以仁王(もちひとおう)をご存じだろうか。
以仁王は、諸国の源氏武士や大寺院に宛てて令旨(りょうじ;皇太子・三后(太皇太后・皇太后・皇后) の命令を伝えるために出した文書をいう) を発し、清盛の追討を呼びかけた。
以仁王の動きを知った清盛は、身柄の確保をはかったが、王はからくもこれを逃れ、 園城寺(おんじょうじ;三井寺) に逃れる。
園城寺を出て南都の興福寺 に向かった以仁王は、五月二十六日に南山城(みなみやましろ) で討たれ、また、王に味方して反平氏に最初の挙兵をした、源頼政も宇治川の戦いで敗れ、宇治平等院で自害した。
このように以仁王の反乱そのものはあっけなく終わりを告げたが、王の発した令旨は、清盛たち平氏に反感を持つすべての勢力に戦いの大義(たいぎ) 名分(めいぶん) を与えるものとして、きわめて大きな力を発揮した。
以仁王の挙兵に続いて、木曽義仲、源頼朝と続々と挙兵していくことになる。
その平氏打倒の先鞭をつけた、源三位頼政が自刃した史跡がこの“扇の芝”で、扇形の芝生が今もきれいに整備されている。
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扇形に囲いができており、頼政はその中で自刃し石碑が建てられている。
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また、鳳凰堂の背後にある景勝院に、頼政のお墓が建てられている。
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(付説)現在の平等院は、天台宗系の最勝院、浄土宗の浄土院という2つの寺院(共に鳳凰堂の西側にある)が共同で管理している。浄土院は明応年間(1492年-1501年)、最勝院は承応3年(1654年)の創始であり、平等院が浄土・天台両宗の共同管理となったのは、天和元年(1681年)、寺社奉行の裁定によるものである。





この項 <完>

by mo-taku3 | 2012-05-23 21:21 | (寺社)京都の神社仏閣 | Comments(2)

大原宝泉院の「額縁の五葉松」

大原宝泉院の「額縁の五葉松」



宝泉院は額縁庭園で有名である。
その、額縁の中には樹齢700年の「五葉の松」が収まっている。これは京都市指定の天然記念物に指定されている。
このお寺は、観光客にも大変人気がある。春、桜の季節や紅葉の季節には常に40・50人が並んでいる。
拝観客は、五葉の松の見える座敷に通され、境内入口で渡されたお抹茶券と交換に一服の抹茶と茶菓子を供される。
また、境内には宝楽園という庭園もつくられている。

このように、立派な五葉松が目の前に広がる。
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駒札には五葉松の説明が載っている。
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丁度額縁に入ったようだ。
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手入れの行き届いている。
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裏から眺めていても豪快さが素晴らしい
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坊内にある「血天井」は、関ヶ原の戦いの前哨戦となった伏見城の戦いの際に徳川家臣鳥居元忠以下数百名が自刃した伏見城の床板であり、その霊を供養するため天井板としているものである。
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この天井板は生々しさを思い起こさせる。
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建物の出口近くに木炭で作られた「木琴?」が置かれていた。
リクウェストして弾かせていただいたが、金属製の響きのあるいい音階が作られている。
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ここはのんびり、ゆっくり抹茶を飲んでお菓子を食べて、というのが似合うところだ。




この項 <完>

by mo-taku3 | 2012-05-23 18:15 | Comments(2)

「葵祭」2012年・晴天(更新)

「葵祭」2012年



<祭の起源と沿革>
今から約1400年前の欽明天皇の567年、国内は風雨がはげしく、五穀が実らなかったので、当時賀茂の大神の崇敬者であった、伊吉の若日子に占わせたところ、賀茂の神々の祟りであるという。
若日子は勅命をおおせつかって、4月の吉日に祭礼を行い、馬には鈴をかけ、人は猪頭(ししがしら)をかぶって駆競(流鏑馬)をしたところ、風雨はおさまり、五穀は豊かに実って国民も安泰になったという。
また、819年(弘仁10)には、朝廷の律令制度として、最も重要な恒例祭祀(中紀)に準じて行うという、国家的行事になった。
このように、京都三大祭の中で一番歴史があり、また当時からの伝統を守り続けているようにも思える。
それは、行政の関係者が主役として入っていないことや、派手さを前面に題していない点からも伺える。
なお、途中中断や行列の中止もあったが、王朝の伝統は忠実に守られてきたようだ。

葵祭の行列コースは、
京都御所 出発(午前10時30分)堺町御門 → 丸太町通→ 河原町通 → 下鴨神社到着(11:40)
社頭の義・出発(14:20)→下鴨本通 →洛北高校前(14:40) → 北大路通 → 北大路橋(14:55)
→ 賀茂川堤 → 上賀茂神社到着(15:30)

この祭の見どころは路頭の儀(行列)で、京都御所建礼門前を出発する。
総勢500余名、馬36頭、牛4頭、牛車2台、輿1台の風雅な王朝行列が、遠く東山や北山の峰々を眺望しながら下鴨神社へ、さらに上賀茂神社へ向かう。その道のりは約8キロにもおよぶ。

京都御苑からの巡幸の出口にあたる、「堺町御門」の入口にはこのような看板があった。
(余談だが、この門は「禁門の変」時に、蛤御門同様、薩摩と長州の激戦があったところ)
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9:00頃到着し、早速場所取り。その時点ではこの程度の見物人がったが・・・。
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正面の場所は全て有料席であった。(財政難だからしょうがないか?)
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10時過ぎるとこうなった。
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京都府警察が、騎馬での警備にあたっていたが、時代祭が4頭だったのにここは2頭だった。
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いよいよスタート。(順序通りにはなっていないのでご注意ください。)
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かわいい小学生の女の子が巡幸の中にいた。ここはまだスタート時点だが、大丈夫かなぁ。
これから8km歩くんだけど。
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今年の「斎王代」。選考基準はよくわからないが、どうも血統書で決まっているようだ。
この斎王代の行列がメインとなる。
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行列の中でひときわ目を引いた、「牛車(ぎっしゃ)」。勅使の乗るものだそうだ。
非常によくメンテナンスされている。
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予備の牛も着飾って後ろに続いている。
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こちらは斎王の牛車。
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この小学生のように、結構たくさんの子供が巡幸に加わっていた。
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このような花傘や傘が数多く登場していた。
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傘同様、馬もかなりの数登場しており、皇宮警察の馬と違い、全体的に小ぶりだった。
結構重量のある方も乗っていたので馬も大変そうだった。
いまでは、馬の確保は大変そうだ。
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子供からお年寄りまで。子供が楽しそうにあるいていた。
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山吹の傘とこれに合わせた黄色一色の出で立ち。
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斎王お付きの命婦たち?
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この行列も終わりに近づいてきた。
行列の参加者は、500人だそうである。
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幼稚園生?保育所の子? も見学に来ていた。
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がいじんも着物を着て見物に来ていた。
美人は何着ても似合うが・・・?
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京都の名物の即売をしていた。
これは、イケメンのお店。
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これは、美女の店。
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11:20にはすべての行列が京都御苑から出て行った。
来年は流鏑馬を見に行こう!

<巡幸順①本列>
乗尻(のりじり)
行列を先導する騎馬隊で、左右各3騎。上賀茂の競べ馬の騎手である。古くは六衛府の衛士(えじ)がこれに当たったという。
検非違使志(けびいしのさかん)
検非違使庁の役人で、警察司法の担当者。六位の武官。この日は舎人(とねり)の引く馬に騎乗し、看督長(かどのおさ)、火長(かちょう)、如木(にょぼく)、白丁(はくちょう)など下役を率いて行列の警備にあたる。
検非違使尉(けびいしのじょう)
検非違使庁の役人で、5位の判官。志の上役で行列の警備の最高責任者である。舎人の引く馬に乗る。  また、志、尉ともそれぞれ調度掛(ちょうどがけ)に弓矢を持たせ、鉾持(ほこもち)に鎖を持たせて武装している。
山城使(やましろつかい)
山城介(やましろのすけ)で山城国司の次官、五位の文官である。賀茂の両社とも洛外になるので、山城の国司の管轄区域になるため督護の任につく。舎人が馬の口を取り、前後に馬副(うまぞい)がつく。あとに手振(てふり)、童(わらわ)、雑色(ぞうしき)、取物舎人(とりものとねり)、白丁など従者が山城使の所用品を携えてゆく。
御幣櫃(ごへいびつ)
賀茂両社の神前に供える御幣物を納めた櫃で、下社二座、上社一座、合わせて三合の白木の唐櫃に注連縄をかけ、白丁にかつがれてゆく。衛士が先導している。
内蔵寮史生(くらりょうのししょう)
内蔵寮の七位の文官で、御幣物を管理している。騎乗し両社に各1名が参向する。所用品を携えた雑色、白丁を従える。
御馬(おうま)
走馬(そうめ)ともいわれ、下、上両社の神前で走らせ、神々にご覧に入れる馬で、2頭の馬の頭と尾には葵、柱、紙垂れをつけている。1頭に4人の馬部(めぶ)がついて引いて行く
馬寮使(めりょうつかい)
走馬をつかさどる左馬允(さまのじょう)は、六位の武官で騎乗し、弓矢を調度掛に持たせる。
牛車(ぎっしゃ)
俗に御所車といわれ、勅使の乗る車で、藤の花などを軒に飾り、牛に引かせる。現在、勅使が乗ることはなく、行列の装飾である。牛童(うしわらわ)、車方、大工職などの車役が、替え牛とともに従う。
和琴(わごん)
御物の和琴で「河霧」の銘を持つ。神前の奏楽用として舞人の前、2人で運ばれる。
舞人(まいうど)
近衛府の五位の武官で、歌舞の堪能者がこの日の舞人を勤める。6人が騎乗でお供する。それぞれ雑色、舎人、白丁が従う。
勅使(ちょくし)
天皇の使いで、行列中の最高位者。四位近衛中将がこれを勤めるので、近衛使(このえづかい)とも言われる。現在、勅使は路頭の儀には加わらず、代行者が勤め、当時の様式どおり、飾太刀、騎乗する馬も美々しい飾馬で、朧(御馬役人・くとり)が口を取る。舎人、居飼(鞍覆持・いかい)、手振が従う。
随身(ずいしん)
近衛中将の場合は4人が随行、警護にあたる。
牽馬(ひきうま)
勅使の替え馬で、帰路に備える。舎人が牽く。
風流傘(ふうりゅうかさ)
大傘の上に牡丹や杜若など季節の花(造花)を飾り付けたもの。行列の装いとして取物舎人4人でかざしてゆく。
陪従(ばいじゅう)
近衛府の五位の武官で、この日は賀茂両社の社頭で歌をうたい楽器を奏する役を勤める。7騎が各種楽器を携えてゆく。それぞれ雑色、舎人、白丁が従う。
内蔵使(くらづかい)
内蔵寮の次官で五位の文武兼官。職名は内蔵助。勅使が神前で奏上する御祭文を奉持している。騎乗し、馬副、白丁らが従う。
風流傘(ふりゅうがさ)
先の風流傘とは造花が少し異なる。本列の結びとなる。

<②斎王代列>
命婦(みょうぶ)
女官の通称で、小桂(こうちき)を着用する高級女官。花傘をさしかける。
女嬬(にょじゅ)
食事をつかさどる女官。
斎王代(さいおうだい)
斎王は、平安時代には内親王が選ばれて祭に奉仕したものであるが、現在は未婚の市民女性から選ばれるので、斎王代と称される。御禊(みそぎ)を済ませた斎王代は、五衣裳唐衣(いつつぎぬものからぎぬ)、俗に十二単(じゅうにひとえ)の大礼服装で、供奉者にかつがれた腰輿(およよ)という輿に乗って参向する。
駒女(むなのりおんな)
斎王付きの清浄な巫女(みかんこ)で、騎馬で参向するのでその名がある。6騎の女丈夫。
蔵人所陪従(くろうどどころべいしゅう)
斎院の物品、会計をつかさどる蔵人所の、雅楽を演奏する文官で、それぞれ楽器を持っている。
牛車(ぎっしゃ)
斎王の牛車で俗に女房車。この牛車には、葵と桂のほか桜と橘の飾りがつく。




この項 <完>

by mo-taku3 | 2012-05-16 14:39 | Comments(4)

【紀三井寺(和歌山)】西国霊場第二番

【紀三井寺(和歌山)】西国霊場第二番


<紀三井寺 縁起>
紀三井寺は、奈良朝時代、光仁天皇の宝亀元年(770)、唐僧・為光上人によって開基された霊刹。
そして諸国を巡り、観音様の慈悲の光によって、人々の苦悩を救わんがため、仏法を広められた。行脚の途次、この地に至り、夜半名草山山頂あたりに霊光を観じられて翌日登山され、そこに千手観音様の尊像をご感得になった。
上人は、この地こそ観音慈悲の霊場、仏法弘通の勝地なりとお歓びになり、十一面観世音菩薩像を、自ら一刀三札のもとに刻み、一字を建立して安置されました。それが紀三井寺の起こりとされている。
その後、歴代天皇の御幸があり、また後白河法皇が当山を勅願所と定められて以後隆盛を極め、鎌倉時代には止住する僧侶も五百人を越えたと伝えられていまる。江戸時代に入ると、紀州徳川家歴代藩主の肝いりで、「紀州祈祷大道場」として崇された。
正式には「紀三井山金剛宝寺護国院(きみいさんこんごうほうじごこくいん)」という当時の名称を知る人は少なく、全国に「紀三井寺」の名で知られていますが、この紀三井寺とは、紀州にある、三つの井戸が有るお寺ということで名付けられたといわれている。

門前町の風情が出ている。
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何といっても、那智黒でしょう。
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「結縁坂」の由来
紀三井寺の楼門から上に、231段の急な石段がある。
参詣者泣かせの急坂ですが、この坂は、結縁坂(けちえんざか)と呼ばれ、次のような”いわれ”が伝えられている。
「江戸時代の豪商・紀ノ国屋文左衛門は、若い頃にはここ紀州に住む、貧しいけれど孝心篤い青年でした。
 ある日、母を背負って紀三井寺の表坂を登り、観音様にお詣りしておりましたところ、草履の鼻緒が切れてしまいました。
困っていた文左衛門を見かけて、鼻緒をすげ替えてくれたのが、和歌浦湾、紀三井寺の真向かいにある玉津島神社の宮司の娘「おかよ」だった。
これがきっかけとなって、文左衛門とおかよの間に恋が芽生え、二人は結ばれることになった。
後に、文左衛門は宮司の出資金によって船を仕立て、蜜柑と材木を江戸へ送って一代で財を成した。
紀ノ国屋文左衛門の結婚と出世のきっかけとなった紀三井寺の表坂は、それ以来「結縁坂」と呼ばれるようになった。」 と。
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<紀三井寺三井水>
紀州にある、三つの井戸のあるお寺。紀三井寺は、三井水を抜きにして語れません。千二百年来の寺名の由来ともなった三井水は、今も名草山の懐に抱かれ、滾々と絶えることなく湧き出しています。この由緒ある紀三井寺三井水(北より吉祥水・清浄水・楊柳水)は、昭和60年、環境庁が発表した「名水百選」に選ばれています。
 開山為光上人が寺を開いて間もなく、大般若経六百巻を写経し終った時、上人の前に竜宮の乙姫が現れ、上人に竜宮での説法を乞うて中ノ瀧 清浄水に没したとある。
 「紀伊国名迹志」・「紀伊国名所図絵」・「紀伊続風土記」等にも三井水について詳細に述べられており、また紀州初代藩主徳川頼宣公が慶安三年(一六五〇)三井水を整備されたことが知られている。
 わけても中央清浄水は、古来名泉中の名水として、茶の湯、お華の水、墨の水に又酒、味噌、醤油等の醸造家はひそかにこの霊水を汲みて仕込みに混じ、観音様のご冥護を祈念して来たと伝えられる。
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西国三十三所観音霊場第2番目の札所である紀三井寺は、観音信仰の隆盛に伴い、お参りする人の数は多く、ご宝前には日夜香煙の絶え間がない。
特に、ご本尊・十一面観世音菩薩様は、厄除・開運・良縁成就・安産・子授けにご霊験あらたかとされ、毎月十八日の観音様ご縁日を中心に、日参、月参りの信者でにぎわう。
春は、早咲きの名所として名高く、境内から景勝・和歌の浦をはじめ淡路島・四国も遠望出来る紀三井寺は観光地としても有名で、古来文人墨客にして杖引く人も多く、詩歌に、俳諧に、絵画にと、多くの筆の跡が遺されている。
紀三井寺は以前、真言宗山階派の寺院でしたが、昭和26年に独立し現在は、山内・県下あわせて十六ヶ寺の末寺を擁する救世観音宗(ぐぜかんのんしゅう)の総本山となっている。
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西から見た本堂。
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本堂にある納経所には、団体客の朱印をまとめたツアーガイドが汗だくで記帳をしてもらっていた。
これでは、朱印の意味はあまり無いのでは?
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「十一面観音菩薩」の撮影ができなかったので、提灯で代役させていただいた。
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鐘楼も重要文化財だった。
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お百度とお千度が並べて置かれてあった。
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春子稲荷
天正13年(1585)、豊臣秀吉紀州攻めの時、紀三井寺の法橋徳順の子・平太夫は寺を守る僧兵の大将として出陣した。しかし僧兵軍は散々な目にあい、自身も瀕死の状態で逃げ帰ったきた。
その時、平大夫にすがりついて泣いたのが観音堂に仕える巫女の春子姫。恋仲にあった平大夫が息をひきとると、春子は観音堂へこもってお経を唱え始め、やがて声が激しくなると、一匹の白狐となって石段を駆け下り、 迫っていた攻撃軍の総大将・秀長と掛け合い、秀長から「寺に無礼があってはならぬ。寺への軍勢の出入りも禁止する」という証文をとりつけ、それを持ち帰り、観音堂で絶命した。そのお陰で紀三井寺だけは焼き討ちをまぬがれたと言われている。
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絶景かな!和歌浦が見事に見渡すことができた。
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<紀三井寺の詠歌>
これは、西国第二番・紀三井寺のご詠歌(えいか)です。
西国札所には、各霊場にこうしたご詠歌が伝えられています。
今からおよそ一千年ほど昔、第65代・花山天皇がご退位になり、出家落飾して、花山法皇となられて後、高僧のお導きで、西国三十三所の観音霊場をご巡拝になられました。その折この花山法皇様が、各霊場に一首ずつご奉納になられた和歌が、これら札所ご詠歌となったと伝えられています。

紀三井寺のご詠歌は、花山法皇様がご自身の「ふるさとである京の都を後にして、幾千里の山河を越え、熊野・那智山からはるばるここ紀三井寺にやっとの思いで到着してみると、折から水ぬるむ春近き季節で、わがふるさと、京の都も近づいたこともあって、ほっと安堵することよ」とのご心境をお詠みになったものでしょう。
しかし、もう一つ仏の道からの解釈によりますと、
「迷いの多い娑婆世界を後にして、観音信仰ただ一筋におすがりし、一足一足に「南無観世音菩薩」とお称えしつつこの紀三井寺まで参りましたところ、迷いに閉ざされていた心の眼も次第に開かれて、花の都、仏様のお浄土も間近なように思えます」
とのお心にも受け取ることが出来ようかと思われます。

ちなみに、その昔徳道上人によって開かれた後、次第にすたれていた西国札所の巡礼道は、この花山法皇の巡拝を機に再興されました。その為、花山法皇は「西国札所中興の祖」と尊崇されています。
(京都市山科の元慶寺は、花山法皇落飾(ご出家)の寺、兵庫県三田の花山院は、花山法皇が晩年を過ごされた菩提寺として有名で、現在でも西国札所番外寺院として、巡礼さん達の多くが訪れます。)






この項 <完>

by mo-taku3 | 2012-05-08 00:37 | (巡礼)西国三十三ヵ所 | Comments(2)

花の寺【般若寺】

花の寺【般若寺】


コスモス寺と云われる花の寺の般若寺(奈良市般若寺町221番地)。
訪れたのは、4月末。お寺の駐車場から山吹の花に満ち溢れていた。

さて、般若寺は飛鳥時代(629年)に高句麗の僧慧潅(えかん)法師によって開創され、文殊菩薩像を安置したのが始まりと云われている。(確かな資料は無いようなので、以後の内容は確定はできない。)
その後、天平7年(735)聖武天皇の時、平城京の鬼門鎮護のため堂塔を造営されたと伝えられていいる。
天平18年(746)にいたって、聖武天皇が平城京の繁栄と平和を願うため当寺に大般若経を奉納して卒塔婆(現存している卒塔婆とは異なるようだ。)を建立している。
また平安時代は寛平7年(895)のころ、観堅僧正が学僧千余人を集めて学問道場の基をきずき、のち長らく学問寺としての般若寺の名声は天下に知れわたったという。

ところが長い「源平の争乱」に際しては、治承4年(1180)平清盛の命により、平重衡(しげひら)による南都焼討ちにあい、伽藍はすべて灰燼に帰す悲運に見舞われた。

しかし、鎌倉時代にはいって般若寺の再興がはじまる。
これには諸説あるが、西大寺の僧・叡尊によって十三重大石塔の修復が、建長5年(1253年)頃までに完成している。その後、本尊や伽藍の復興が行われた。(叡尊は、西大寺を本山とする真言律宗の宗祖で、日本仏教における戒律の復興に努め、貧者・病者救済などの社会事業を行ったことで知られる。)
続いて良恵(りょうえ)上人が本願となって、金堂・講堂・僧坊をはじめとする諸堂の復興造営をはかった。さらに文永4年(1267)には西大寺の叡尊上人発願の文珠菩薩丈六大像が本尊に迎えられ、大般若寺の偉容が再興された。

鎌倉期の優美な建築様式をもつ楼門が国宝に指定され残っている。
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この楼門から正面に見える十三重塔は、現在国指定の重要文化財として現存している。花崗岩製で高さ12.6㍍と高く、本堂前に建っている。
一説によると、この塔は、天平7年(735)聖武天皇が国家鎮護のため宸翰(しんかん)の紺紙金泥書の大般若経と金銅釈迦像を納めてこの塔を造立されたと伝えられている。
しかし、数々の戦火による修理などがあったことを、塔内に収められた納入品がその時代を物語っている。
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この石塔の作者は、伊派石工の伊行末(いぎょうまつ)が老齢期(東大寺法華堂石灯篭造立の前年)に造立したと思われ、嫡男行吉をはじめ、伊一族が総力を傾けて造立した十三重塔と考えられる。そのことは、境内に建つ二基の笠塔婆の銘文によっても推測できる。

この笠塔婆二基も国指定の重要文化財に指定されている。花崗岩製、高さ4.8㍍で境内の東側に建つ。
この笠塔婆は、現存している日本最古最大である。
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この笠塔婆については、「十三重塔の修復に携わったが、正元2年(1260)7月11日に行末は死去した。そこで嫡男の伊行吉が、父の一周忌にあたる弘長元年(1261)7月11日に卒塔婆二基を建立し、一基は父の菩提を弔い、別の一基は現存する母の善行のため、また般若寺大石塔(十三重塔)も伊行末一族の造立になることを示し、その功徳によって、一切衆生とともに、極楽の世界に生をうけんことを願う」ことを述べている。
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この他、境内には、本堂前に六角型石灯篭や、下の写真にあるような三十三所観音がある。
この三十三所観音は、元禄16年(1703)山城国相楽郡の寺島氏が、病気平癒の御礼と体の不自由な人に巡礼の便をはかり、造立寄進した西国霊場観音である。
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他にも地蔵も多く置かれており、このようなかわいらしい地蔵もあった。
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残り八重桜と山吹のコラボと、シャクヤクで花の寺で花を添えていた。
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楼門の奥正面に立つ十三重石塔〔重文〕は、高さ約14.2メートル。
石仏を彩って咲く春の山吹、秋のコスモスなどが美しく、花の寺としても有名である。


この項 <完>

by mo-taku3 | 2012-05-01 00:05 | (寺社)関西の神社仏閣 | Comments(2)