親鸞聖人のご廟所【大谷本廟】(西大谷)

親鸞聖人のご廟所【大谷本廟】(西大谷)


浄土真宗本願寺派の宗主親鸞聖人廟所がこの【大谷本廟】である。
第12代准如上人のとき、徳川幕府の命により、この地に廟堂が移転され、この地を「大谷」と称した。
これが総門であった。この門は親鸞聖人450回忌法要の際に建てられたものである。
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時たま、朝の散歩道でこの前を通って清水寺に抜けている。
いつも素通りにしていたが、たまたま緑がきれいだったので、門外漢でも入れてくれるのか守衛さんに聞いてみると、快くOKとのことであった。

この総門にいたるには案内図にもあるとおり、この円通橋(通称;めがね橋)を通る。
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橋を渡った左手に、本廟の案内図と歴史が載っている。
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総門をくぐって中に入ると、檀家の皆さんかが朝の掃除をかなり丁寧にやっていたのが印象的だった。
そのすぐ右手に、親鸞聖人の勉強部屋だった「石窟」があった。これは、過去の文献にも載っているらしい。
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しばらく緩やかな坂道を登っていくと、左手に「古代の蓮」の案内板があった。
案内板には大賀蓮と書いてあった。信者さんからの寄進とのことであった。
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咲いたのを見るのがたのしみだ。
しばらくしたらまた寄ってみたいと思う。




この項 <完>

by mo-taku3 | 2012-06-27 21:49 | (歴史)京都史 | Comments(2)

幕末の志士と京都霊山護国神社+霊山観音

幕末の志士の墓と京都霊山護国神社+霊山観音



京都高台寺に護国神社があります。
この神社は、坂本龍馬や中岡新太郎の墓があることで有名なところですが、清水寺の帰りに寄ってみました。
創建は明治天皇のお声がかりで始められた、まだ新しい神社ですが、わが国初の官祭招魂社(官費を以て祭祀、修繕等を行った招魂社(護國神社))として建てられています。
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この神社にたどり着くには、二つの大きな鳥居をくぐり坂道を登って神社の入り口にたどり着きます。
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この京都霊山護国神社には、幕末に倒れた諸藩の志士だけでなく、太平洋戦争などの英霊も祀られている。この霊山護国神社の墓地でねむる坂本龍馬・中岡慎太郎・木戸孝允(桂小五郎)らの他、「池田屋事件」、「禁門の変」などで亡くなった人たちが眠っており、お参りする人も多いとのことであった。

二つ目の鳥居を少し上った左脇に、「維新の道」(題字;松下幸之助)の石碑がある。
これは駒札に書かれているとおり、明治100年祭にちなんで建てられたものとのこと。
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この「維新の道」の道路を挟んで向かい側に、幕末の頃、「翠紅館」(すいこうかん)と呼ばれていた屋敷がある。現在もその遺跡が残っており、当時は志士達の会合の場となっていたとのこと。
過去は、正法寺の塔頭のひとつがあったが、鎌倉時代に公家の鷲尾家の手に渡り、その景観の素晴らしさから「翠」と「紅」の素晴らしい館という意味で名付けられたといわれている。その後、鷲尾家から西本願寺の東山別院に寄進された。
 文久3年(1863)正月27日には、土佐藩の武市半平太、長州藩の井上聞多、久坂玄瑞ら集まり、ついで同年6月17日にも、長州藩の桂小五郎、久留米藩の真木和泉守らが集まった。これら各藩の志士の代表者会議(翠紅館会議)で、攘夷の具体的な方法が検討されている。という。
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翠紅館跡の前には、両側には木戸孝允と坂本龍馬の石碑があり、梅田雲濱・天誅組志士などの石碑も見られる。
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この後、坂道を登れば、いよいよ入り口である。
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この写真の後ろの山手に、7万3千体の英霊が眠っている。

(しかし時間がなくてお墓まではいけませんでした。)
お墓は、またの機会にしたいと思います。すみません。



(霊山護国寺)
通称、霊山観音と呼ばれ、このような大きな観音様がひときわ目立っている。
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ここで、面白いもの(失礼!)を見つけたので紹介したい。
まずは、【花塚】である。
花の命はみじかくて・・・。花商協同組合が建てた慰霊碑。
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こちらは、【ふぐ石塚碑】で、京都府ふぐ組合が建てている。
英霊ばかり見た後のほっとした、ひと時でした。
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この項 <完>

by mo-taku3 | 2012-06-27 21:14 | (寺社)京都の神社仏閣 | Comments(2)

「平清盛」登場した待賢門院璋子(たいけんもんいんたまこ)のお寺【法金剛院】

「平清盛」登場した【法金剛院】(待賢門院璋子のお寺)


(待賢門院璋子)
待賢門院は藤原氏の出身で、鳥羽天皇中宮であり、崇徳天皇、後白河天皇の母である。

白河法皇は孫の鳥羽天皇をむりやり退位させて上皇とし、顕仁親王(崇徳天皇)を5歳で即位させます。
天皇の母となった待賢門院璋子は、朝廷内での地位は盤石のものになります。
しかし、鳥羽上皇が愛した、絶世の美女美福門院得子(びふくもんいんとくし)が産んだ体仁親王(近衛天皇)が天皇となると、情勢は一変しその母である美福門院の勢力が強まり、待賢門院璋子、美福門院得子の女同士の闘いが熾烈になっていきます。
結局、待賢門院は、美福門院勢力の計った罠にはまった格好で、出家し、自らが開基となった「法金剛院」(待賢門院御所もあったらしい)に閉塞することになった。

鳥羽天皇の後、崇徳天皇・近衛天皇・後白河天皇・二条天皇と続くわけであるが、崇徳・後白河は待賢門院が産んだ皇子であり、二条は後白河の子に当たり、待賢門院がなくなった後も隠然と力を保持していたといっていいだろう。

(法金剛院)(ほうこんごういん)
前置きが長くなってしまったが、今まさにNHK大河ドラマ【平清盛】でも、檀れい演じる待賢門院璋子が注目され、そのゆかりのお寺【法金剛院】も注目され、今賑わっている。
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法金剛院は、京都市右京区花園にある律宗の寺院である。
山号を五位山と称し、本尊は阿弥陀如来、開基は待賢門院とされている。
古くから名勝の地として知られる双ヶ丘(ならびがおか)の東側に位置している。
この双ヶ丘は、鎌倉時代に兼好法師(1283~1350)が「徒然草」を執筆したと伝えられており、
さらに時代が下って仁和寺が建てられた後には、尾形光琳、野々村仁清、尾形乾山などが居をかまえたといわれている。それだけ、名勝の地といわれるところであったらしい。
付近には大型寺院の、妙心寺、仁和寺などの著名寺院があり、更にここに古墳群として、20余の円墳が確認されている、歴史的にも価値ある史跡が存在している。

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法金剛院は開基以前に平安初期からの歴史があるが、度重なる災害により、壮観だった当時の面影はない。それでも、平安末期の浄土式庭園の遺構が1968年に発掘・復元されている。

その復元された庭は、
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庭園には池にハスと花ショウブ、
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周りにはアジサイがおっとりと、
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その庭園の片隅にある『青女の瀧』の遺構は、日本最古の人工で造営された滝とされており、復元されて使用されており、国の特別名勝に指定されている。
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このお寺でも、沙羅双樹が植えてあった。
これも日本原産のナツツバキだったが、運よく一輪咲いており和ませてもらった。


残念ながら、陵墓の方次回に回すことにして、妙心寺に向かった。





この項 <完>

by mo-taku3 | 2012-06-26 20:19 | (歴史)京都史 | Comments(2)

スイレン;琵琶湖水生植物公園にて

スイレン;琵琶湖水生植物公園にて


ハスやスイレンはいつ見ても気持ちを落ち着かせてくれる。

ここ、琵琶湖水生植物公園は、世界のハスを温室で観賞できるところで、中にある施設も【ロータス館】といっている。
温室ではハスだけでなく、珍しい植物も置いている。

さて、琵琶湖水生植物公園の見取り図はこのようになっている。
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敷地の外側には、大きなハスの群生地が広がっている。(残念ながらいい時期にはお目にかかってないが)

とのかく、講釈はよしとして、温室のスイレンを見ていただきたい。
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今見てきたスイレンを説明するスライドが展示されていた。
これで見比べて、名前を検索するとさらに興味が沸くのではないかと思う。

私も始めて知ったのですが、スイレンの原産地がいろいろなところにあることが、下のスライドでわかります。
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見にくいので、少し紹介すると野生種・耐寒性(寒い地方種)・熱帯種などが載っています。
図鑑で調べるともっと楽しいと思います。

さらに下のスライドは、水生植物のすみわけを説明しています。
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これで、ハスとスイレンの違いがよくわかります。


最後にスイレンの群生をご覧ください。
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スイレンは十分堪能しました。
少しは講釈ができるようになったのではないかと思います。





この項 <完>

by mo-taku3 | 2012-06-24 11:08 | (紹介記事)関西 | Comments(2)

祇園精舎の鐘・・・【沙羅双樹】の・・・。

祇園精舎の鐘・・・【沙羅双樹】の・・・。



「祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり 沙羅双樹の花の色 盛者必衰の理をあらわす」と平家物語で語られた、沙羅双樹の木に偶然遭遇した。
これも不思議なことに、奈良の矢田寺で出会ったことに有頂天になっていたら、その後、琵琶湖水生植物公園、待賢門院が建てた「法金剛院」でも見ることができ、さらに妙心寺の東林院でも見ることができた。
今年はきっと御利益があるのではないかと、淡い期待を抱いている。

さてさて、沙羅双樹といっても、インドの樹木がそうやたらとある訳がないと思っていたが、多くの寺院に存在していることが分かった。
しかし、琵琶湖の水生植物公園には、インド原産の沙羅双樹が存在していて、大感激だった。
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木はかなり大きく伸びるようだ。
生憎、花は咲いていなかったが説明文にかなり詳しく紹介されていた。
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日本原産の沙羅双樹は、ナツツバキといい夏に白い椿と同じはなをさかせるが、インド原産の花とは、かなり違っていた。
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矢田寺では、アジサイの時期と重なったため、人通りが多かった。木はきれいだったがここも、日本産だった。しかし、ここで初めてこういう木があることを知ったわけだから、感謝です。
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待賢門院の法金剛院に行ってみると、沙羅双樹と菩提樹の説明があった。
丁度運よく、ナツツバキ(沙羅双樹)の花が一輪咲いていた。
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法金剛院を出て、やはり沙羅双樹で有名な、妙心寺の東林院に行ってみた。
丁度この日は「沙羅の花を愛でる会」をやっており、特別公開をしていた。
時間が無くて見ることはなかったが、ここの沙羅双樹は、枝といい、花といい素晴らしいということを聞くことができた。
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仏教三大聖樹は次の三つを云いますが、
・釈迦が生まれた所にあった木 : ムユウジュ(無憂樹マメ科)
・釈迦が悟りを開いた所にあった木 : インドボダイジュ(印度菩提樹クワ科)
・釈迦が亡くなった所にあった木 : 沙羅双樹(フタバガキ科)

このうち、ムユウジュ(無憂樹マメ科)はこんな花を咲かせます。(資料参照)
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これで仏教三大聖樹が揃いました。



この項 <完>

by mo-taku3 | 2012-06-24 10:42 | (紹介記事)京都 | Comments(2)

奈良のアジサイ寺(矢田寺)へ。

奈良のアジサイ寺(矢田寺)へ。



アジサイの季節になってきました。
先日(一週間前位)、大原三千院に行き、そろそろと思いましたが、まだまだであり、空しく帰ってきましたが、再度アジサイに挑戦しようということで、奈良の矢田寺に行ってきました。

矢田寺は30数年前に行ったきりで、当時からアジサイ寺として有名でした。
ここは、法隆寺や平城京跡、にも近く、最も郡山城が近くにあります。
今回訪ねてみると、アジサイ園の規模も以前とは打って変わって広大な花園でした。

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当山には一人400円(比較的安い)を家内と2人分払い入山。
門をくぐると、かなりの階段が続いていました。気を入れて登っていくと、カーブしていてまた階段が続いていました。
以前来た時とのイメージの違いから、本当にしんどい思いをしてお寺の正面に着きました。
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ここには別格本山というのが4つあり、それぞれが御朱印や茶店、食事処・お茶処で独立採算しているようでした。
このような料理も用意されていました。
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さていよいよ、アジサイ園ですが、ここでメタボが記念撮影をしてみました。
ここから、広い庭園に入っていきます。
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暫く、華麗なアジサイを見ていただきたい。
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庭園の中にあった木を見てみると木の幹は苔むしておりました。
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庭園は素晴らしいの一言でした。
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矢田寺の別格本山(千佛堂)でこんなものを見つけました。

平家物語の
『祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり、沙羅双樹の花の色・・・』
の沙羅の木が、まさしく双樹として存在していた。
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沙羅とはナツツバキのことで、まさしく椿の花そのものらしい。そして白い花が咲く。
横の白い花は、椿ではなくアジサイです。沙羅は駒札の後ろの二本の木となります。
夏には、白い椿の花が咲きます。
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お寺の外に出て鮮やかな色の花を見つけました。
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関西には他にもアジサイで有名なお寺は、先に述べた大原三千院、福知山の観音寺や宇治の三室戸寺などがありますが、とにかくこの矢田寺は一番有名と言っていいでしょう。
是非、一度訪れて見ることをお勧めします。



この項 <完>

by mo-taku3 | 2012-06-16 22:16 | (風情)京都・関西 | Comments(2)

霊山橋(旧極楽橋)って何?

霊山橋(旧極楽橋)って何?


霊山橋は、京都にある日蓮宗の大漸寺(だいぜんじ)にある。通称「柘榴寺(ざくろでら)」。1742年、寶林院日逢上人により開創。以前に日逢上人が建てた鬼子母神堂が松原通にあり賑わったが、鬼子母神にはザクロを供える習わしがあり、この寺には数本のザクロが植えられていたことから「柘榴寺」と呼ばれた所以である。
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このお寺には、通りを挟んで向かいに墓地があり、お寺と墓地間に 霊山橋(旧極楽橋)というのが通りの上に懸かっている。
この橋は1922年(大正11年)8月に完成され、お寺では日本最古の鉄筋コンクリート橋と云われているが・・・。
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第一疏水の奥に見える第3トンネル入り口約50メートル手前に、「日本初の鉄筋コンクリート橋」と言われている幅1メートル強の小さな橋がかかっている。1903(明治36年)年に作られた、第11号橋である。
どうもこれが日本最古かといわれていた。
しかしその後、「琵琶湖疏水の100年の「叙述編」に、第11号橋は「国産セメントの試験用というべきもので実用性は乏しかった。ここからさらに東へ行った、翌明治37年に作られた「黒岩橋」が日本最初の本格的な鉄筋コンクリート橋なのである」と書かれている。とあった。
このように、残念ながら、霊山橋は最古ではないということになった。
ただし、大正時代にこのように車道の上に作られた鉄筋コンクリート製の橋は、当時としては画期的なことではあったろうと推測できる。
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この橋をくぐると、八坂の塔が見えている。このお寺の建設当時の景色を思い浮かべることができる1枚の写真を載せてみた。
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そのまま、八坂の塔の横を通って清水寺の駐車場から西山方面を見ると、丁度太陽が沈むところであった。
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この項 <完>

by mo-taku3 | 2012-06-08 20:00 | (歴史)京都史 | Comments(2)

八つ橋の発祥は?その2

八つ橋の発祥は?その2



東山通り丸太町交差点北側に、熊野神社がある。
その直ぐ隣に、「八つ橋発祥の家」なるものが存在し、大きな提灯がぶら下がっている。
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その提灯をよく見ると、【八つ橋 西尾本家】とでている。
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「八つ橋の発祥」
八つ橋の発祥については、どうも「西尾本家」と「聖護院八つ橋」との本家争いがあるようだ。

以前から聞いていたのは、八橋倹校が祖であるとの看板を見ていた。
しかし、発祥説が色々あって、今となっては分からないのが現状であるらしい。

そこで、それぞれの言い分を伺おう。(HPより)
「西尾八つ橋」
現在の八ッ橋の原型となる、橋の形をした素朴なおせんべいが誕生しました。文政七年に熊野神社に奉納された絵馬に「八ッ橋屋為治郎」の名前が残っていることからも、「八ッ橋屋と言えば、西尾」だったのです。
本家西尾八ッ橋の歴史は、聖護院の森の「八ッ橋屋梅林茶店」にさかのぼります。
当時、商っていたのは米粉を使って作られた、素朴な「白餅」。東海道を行く旅人の携帯食としても重宝されていました。
八ツ橋は粳米粉でつくった焼き菓子。享保(1716~36)の頃,箏曲八橋流の祖八橋検校(1614~85)の墓がある黒谷で,琴形の煎餅を売ったのが最初とも,黒谷の茶店主人が夢で検校から製法を習ったともいわれる。

のち聖護院村の八ツ橋屋に生まれた西尾為治(1879~1962)は,元禄からの古法に改良を重ね八ツ橋中興の祖と呼ばれた。
その銅像が西尾八つ橋の隣りの熊野神社にある。
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熊野神社は非常に由緒ある神社である。
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この石標は八ツ橋発祥の聖護院森跡を示すものである。なお,石標の横には西尾為治の銅像が建つ。 (駒札より)
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「聖護院八つ橋」
「聖護院八つ橋」のHPには、次のように書かれている。
「聖護院」とは、地名(もしくは聖護院門跡の通称)で、「八ツ橋」は、人名の「八橋検校」に由来しております。

(これは少々疑問がある。
ここに地名とあるが、聖護院門跡寺院ができ、地名がつけられたといっていい。)

聖護院門跡寺院は次のように、駒札に紹介されている。
特に書院は京都御所から移設されたと書かれており、重要文化財となっている。
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(余談であるが、この寺院の宗派は珍しい。)

近世箏曲の開祖といわれる八橋検校が、慕う数多くの高弟・門弟たちに見守られて、貞享2年(1685)6月12日亡くなり、黒谷金戒光明寺に葬られました。
享年72才であったといわれております。
その後、亡き師のご遺徳を偲び門弟たちが、続々絶え間なく墓参におとづれ続けましたが、歿後4年の元禄2年(1689)黒谷参道の聖護院の森の茶店で、琴の形に似せた干菓子を、「八ツ橋」と名付けて発売するようになりました。
これが「八ツ橋」の始まりといわれており、その場所が当社創業の地(現在の本店の場所:左京区聖護院山王町)であります。」
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ということになっておりますが・・・。


以上、二つの情報から見ると、
①八橋検校は、八つ橋とは直接的には関係ないと言える。
②黒谷参道の聖護院の森の茶店で、琴の形に似せた干菓子を、「八ツ橋」と名付けて発売するようになりました。というのは事実として判断。
③両社とも発祥は「聖護院の森」と言っておりその場所が異なる。
④西尾は八つ橋屋を名乗っている。

ということから、発祥については、事実がはっきりしていないと断定していいと思う。
ただ、八ツ橋屋に生まれた西尾為治(1879~1962)は,元禄からの古法に改良を重ね八ツ橋中興の祖と呼ばれているのは事実であり、発展に努力したといえる。
結論としては、現在の八つ橋は西尾が築いたといっていいのではないか。

この二店の本店は、通りを挟んで向かい合っており、両者ともかなりの敷地を占めている。
それでも、意外と根は一緒なのかも?
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とにかく、京都を問わず、何処にでもあるようなことだが、古さを問う京都ならではの切実な問題であろう。
しかし、京都以外では、八つ橋は「おたべ」という印象があり、古さを競うより、食の品質で競ってほしい。



この項 <完>

by mo-taku3 | 2012-06-05 01:23 | Comments(2)