祇園祭⑥還幸祭

祇園祭⑥還幸祭



祇園祭・還幸祭とは、お祭りの締めに近い形で、花傘巡行が終わった後四条御旅所に鎮座しているお神輿を、氏子が住んでいる地域を練り歩いた後、八坂神社の舞殿に還幸する行事を云います。

私の住んでいる所には、中御座(中央の神輿)が回ります。
担ぎ手は、「三若」という組でこのように300人位の担いで練り歩きます。
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この神輿行列には、神職が付き添います。
このような乗り物に乗っておりますが、馬に乗る場合もあります。
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これは大政所御旅所です。(いわれは駒札をお読みください。)
駒札にあるように、ここでは神職がお参りをします。
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神職がお参りするときは、関係者は全員そんきょの姿勢で控えます。
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お参りも済ませ、また、神輿の進行が始まりますが、この中には、小さな子供の姿もありました。
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3つの神輿はそれぞれの持ち場を練り歩いた後、八坂神社に戻り、舞殿に鎮座されます。

その後、28日に神輿洗式があり、神社内の神輿庫に収められます。




この項 <完>

by mo-taku3 | 2012-07-31 01:25 | Comments(2)

祇園祭⑤花傘巡行

祇園祭⑤花傘巡行


祇園祭の花傘巡行が24日行われた。
花で飾った朱傘の前後に、屋台や囃子(はやし)方などが約1000人の列が八坂神社を出発し、河原町御池の京都市役所を折り返し点として、寺町通りを帰路として華やかに練り歩き神社に戻ってきた。

元々は、山鉾巡行が17日と24日の2回行われていたが、1966年に山鉾巡行が17日に統合され、24日の後祭巡行がなくなったのを受けて、この花傘巡行が行われるようになった。



花笠巡行は10:00に八坂神社を出立するとのことなので、巡行前の様子をと思い、早めに八坂神社に出かけてみた。
すると、お神輿を担ぐ子供たちが、お祓い所に集まっていた。(全て小学生とのこと)
南門へ回ってみると、階段を下りたところで「花笠娘」の記念撮影が行われていた。
美人揃いでびっくり。京都にこんな美人がいたとは。
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出発地点には殆どの花笠や屋台が並んでいたが、あと20分前なのに、乗り手はまだ来ていなかった。
しかし、児武者(子供の騎馬武者)がいたので、お願いして撮らせていただいた。
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さていよいよ出立である。車道に人が出てお巡りさんが交通整理に汗だくだった。
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神饌花車が、見事な色彩だった。
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「花傘巡行旗」を先頭に、花笠巡行が掛け声もなく、最初は粛々とはじまった。
神饌花車は小学生が曳いている。
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ここからは、主な出し物紹介したい。

小学生が担ぐ、子供神輿がいくつも出てくる。
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子供太鼓や、
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祇園太鼓。いい調子で打ちっぱなしだった。
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児武者(子供の騎馬武者)がやってきた。
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巡行のメインとなる花笠は、それぞれの味を出しており、見事な飾りだった。
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16日に提灯行列があったが、その時も「鷺踊(男の子)・万灯踊(女の子)」が行列に入っていた。
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最初に南門で記念撮影をしていた「花笠娘」が、屋台に鎮座し愛嬌を振りまいていた。
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続いて、祇園甲部お茶屋組合、宮川町お茶屋組合と続いている。
この花笠巡行は、祇園街の4つの組合が、一年交代でこの巡行を盛り上げている。
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とりを飾るのは長刀鉾保存組合の『祇園ばやし』が締めくくった。
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花傘巡行も、山鉾巡行と同じように事前の籤があり、下京区の四条御旅所では「くじ改め」の儀式も行われていた。(門川市長も出席)
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現在、24日の後祭りが復活する話し合いが進行している。
その場合、この花笠巡行はどうなるのかちょっと心配である。





この項 <完>

by mo-taku3 | 2012-07-26 20:34 | Comments(4)

祇園祭④神輿洗式

祇園祭④神輿洗



祇園祭は7月1日から31日まで、ほぼぎっしりとイベントがスケジュールされている。
中には、裏方的な行事もあるが、何らかの形で八坂神社につながりがある、あるいは八坂神社のスポンサー的な存在の方々が、組合を作り神社の存在を応援している。
そのためには数々のイベントが必要で、このイベントに対しそれぞれに関係する団体が後押しし、更に伝統という神器で枠をはめている、といっていいのではないかと思う。
そのイベントの披露という形で彼らのモチベーションに応えている。
しかし現実には、さすが京都という知名度と歴史的に形成されてきたものの強さはちょっとやそっとでは崩れないものとなっているのは確かなようだ。

前置きが長くなったが、祇園祭はその最大のイベントといっていい。
なぜこれほどまでに解説を加えたかというと、祇園祭という大イベントの中は幾つものイベントに分かれており、その一つ一つが小さなイベントではなく、それぞれが力の入ったものであるといっていい。

ここでは、そのいくつかを紹介していこうと思っている。
まず、ここでは、神輿洗式の行事を紹介したいと思う。

神輿洗式に先立ち、3基の神輿の蔵出しがあり、舞殿に鎮座させた。

更に、神輿のうちの中御座の神輿を引き出し、これを鴨川の水で洗う儀式が行われる。
この儀式には、色々な八坂神社の御用を預かる組がかかわっている。
一番先頭は宮本組の提灯が見える。
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そのあと、太い松明が動き出し、
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いよいよ神輿が八坂神社の南門から動き出す。
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更に松明が続く。その松明の後ろには、消防団員が火消しの約で続いている。
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中御座の神輿の出た後の舞殿は、照明に照らされた残りの神輿がまぶしく鎮座していた。
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神社を出て、四条通を粛々と巡行していく。
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神輿が四条大橋に着くと、橋の上を練り歩く。これが神興洗式となっている。
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神興洗いが終わると、神輿は八坂神社に戻り、舞殿の中御座の位置に鎮座させ、舞殿全体が飾り付けられ、神興洗式がすべて終わる。
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尚、この神輿は、17日の山鉾巡行のあと、神興祭にて四条の御旅所に送られることになる。







この項 <完>

by mo-taku3 | 2012-07-22 23:23 | Comments(2)

2012祇園祭①鉾立て・準備

2012祇園祭①鉾立て・準備


7月も10日になり、いよいよ祇園祭のメーンイベントの山鉾巡行がが近づいてきた。

(主な日程)
10~13日 ; 鉾建て・ためし引き
14~16日 ; 宵宮祭
17日 ; 山鉾巡行、神幸祭
24日 ; 還幸祭、花笠巡行
となっています。
これ以外にも数々の行事が、7月いっぱい続きます。
さて、八坂神社にも祇園際の幟もたち、盛り上がってきました。
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気のせいか、山鉾巡行が行われる「四条通」も、嵐の前の静けさが漂っているように見える。
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しかし、街の中は祇園祭のムードも漂ってきている。
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四条御旅所は通常このような京都の銘菓などの、お土産物売り場になっているが、宵宮祭になると、八坂神社の粽などを、他の山鉾と同じように売る場と変わり、巡行の後の夕方から行われる「神幸祭」で、八坂神社の御神輿が鎮座されます。
①通常はこのようになっている。
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②宵宮の期間は「厄除けちまき」など売場となる。(14~16日)
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③山鉾巡行が終わった後の夕方から神幸祭がおこなわれ神輿がここに鎮座されます(24日の還幸祭まで)
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10日朝から鉾建ての準備が始まりました。
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この鉾建ては、釘は使わず、縄と木組みで組み立てていくとのことです。
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長刀鉾は一番市民の目に触れる場所にあり、その鉾建てには多くの聴衆が集まる。
聴衆も組み立ては区切りでは拍手を送っている。
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凄い縄の量だ。
また、鉾建ての位置には車輪がつくまで地面にはあらかじめ止め杭が埋められている。
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これは別の鉾ではあるが、とにかく、芸術的な縄組みである。
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長刀鉾は、夕方になると基礎部分は大分進んでいるようだ。
明日は一気に進め、12日は自由参加の引き試しが行われる予定。
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保存会の会所には提灯がぶら下げられた。会所の飾りが始まった。
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また、ゲートなども建てられ、着々と準備が進められていく。
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12日の朝になると、もう既に鉾建てが終わっていた。
そこには、鉾の引き試しの参加希望者がポジションを確保しつつあった。
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曳き初めは函谷鉾先頭(14:00)次の通り行われる。
12日
 長刀鉾;15:30
 函谷鉾;14:00
 以下15:00から、菊水鉾・月鉾・鶏鉾
13日
 15:00から放下鉾・岩戸山・船鉾・北観音山・南観音山
是非、機会があったら参加をお勧めする。

会所との渡りも既に完成していた。
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一般的に、鉾に乗ることができるが、
この長刀鉾は、女人禁制であることと予約が無ければ乗ることができないらしい。
会所からの渡りを通り、鉾に繋がるようになっている。
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他の鉾(船鉾)を見てみると、12日でも組み立て中であった。
骨格は出来上がっていたが、飾りつけは未だである。
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会所に保管してある飾りつけを一生懸命渡りから運んでいた。
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現場は最後の追い込みをしていたが、ここでも高齢化が進み、もう疲れが出始めているように見受けられる。
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14日からの宵宮に合わせ、長刀鉾を除いては13日ぎりぎりに立ち上げを完了するように、準備を始めている。
長刀鉾は12日に引き試しがあるので、11日までに鉾建てを終えるようにしているようだ。
某保存会の会長の談によると、一日早いとガードマンを一日早く必要になるなど、費用が嵩むのでぎりぎりまで我慢するそうだ。




この項 <完>

by mo-taku3 | 2012-07-20 21:30 | Comments(2)

2012祇園祭②宵宮祭

2012祇園祭②宵宮祭



12・13の両日には、全ての山鉾が立ち上がりました。
これが立ち上がった朝の長刀鉾の雄姿である。
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12・13日の曳き初めも無地終了し、各山鉾の前後には駒形提灯が飾り付けられます。
これが付くと、いよいよ宵山の準備完了となる。
各山鉾の会所前には、ちまきがならべられるが、このちまきは主に上賀茂の農家で作られいるようだ。
ちまきは、八坂神社の神職によってお祓いを受け、霊験あらたかな厄除けちまきとなっている。

①船鉾の駒形提灯
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②放下鉾の雄姿
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宵山(14~16日)は山鉾の雄姿を見に、主に浴衣姿の観客が半端なく訪れる。
この状態は、南北1km、東西2kmの範囲を殆ど隙間なくぎっしり埋め尽くされる。
そのため、道は一方通行となり、警察官が厳しく交通整理をしている。
また、ただでさえ細い京都のみちには夜店もぎっしり並びそこに人だかりができ、更に、ここぞとばかり、地元のにわか出店もあちこちに出現する。
これも昔から脈々と続いている光景のように見える。

ここで、少し前後するが、宵山には祇園祭の数々のイベントが八坂神社、四条通や各山鉾で模様される。
特に宵山の最終日の16日には、【宵宮神賑奉納行事】として、舞楽・京舞・祇園太鼓・獅子舞 等々が特設ステージで披露される。
また八坂神社では、石見神楽などイベント盛り沢山であり、何処に何時に行けばいいか記憶できないほどである。

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四条花見小路の当たりをうろついていると、丁度「子供たちによる提灯行列」の巡行戻りに出会うことができた。
①鶴の白装束の子供たち
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②浴衣姿で綺麗にお化粧をして提灯を持った女の子
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どちらも母親らしき方が心配そうに付き添っていた。


舞台では京舞が、
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獅子舞が舞われていた。
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この舞台を見る客が多いため、さほど狭くないこの舞台前の通りを抜けるのにも一苦労。
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一方、八坂神社に目を向けると、
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【石見神楽】が行われいた。これも写真を撮るのも一苦労な位、大勢の人たちが集っていた。
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八坂神社の山門の前は、東大和大路(通称、東山通)というが、そこから西方面に、鴨川を超え、河原町・烏丸を超えて堀川通りの近くまでこのような状態である。
(この写真は、八坂神社の山門の前から写している。)
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夜も8時頃になると、祇園祭の夜空がこのように見える。
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京都で結構有名なスウィーツ屋「辻利」も相変わらず行列状態だった。
京都の食べ物屋は不思議なほどイベント時は価格が上がる。嫌われるよねぇー!
これも伝統なのか?
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先の祇園際①でも紹介したが、宵山時にはこのような八坂神社のちまき売場になっている。
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この時間になると、鴨川の床の風景はなかなか味がある。
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数々のイベントを見て、烏丸通に近づいてくると益々人数が増えてくる。
道を歩いている人だけではなく、四条通の両サイドの空きスペースには、出店で買った食べ物を頬張っている人たちでぎっしり。
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函谷鉾も渡りの所まで解放しており、本格的に始まった感があり、私もアングルに入れてもらった。
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夜店があるところに入ってみると、懐かしいスマートボールが出ていた。子供でも面白いのか子供が盛り上がっていたのはうれしい。
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広島焼は大きなスペースを占めて商売繁盛。
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この通りは烏丸通だが、高辻通以北は歩行者天国で出店も出て、広い通りがこのような混みようだった。
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やはり、長刀鉾の人気は抜群で、交通整理の警察官は、笛を吹いて、観客が停まらないように、流れを作っていた。
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ちまき売場も用意され売り子も忙しそうだが、最後は暑さでバテ気味のようだ。
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会所飾りも楽しみの一つで、なんといっても【鯉山】が抜群に人気がある。
他も含めて幾つか見ていただきたい。
①白楽天
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②山伏山
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③ここからが鯉山。この鯉山は昼ごろからは30~80人位が常時並んでいる。
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鯉山の鯉は、左甚五郎作とのこと。貴重な作品である。
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鯉山を見た後、よく見ると山伏山会所の2階も飾りがきれいだった
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このほか京町家の商家が屏風を展示するのが恒例になっており、是非見学をお勧めする。

最後に船鉾をご覧いただこう。
囃子はやっておらず、鉾に載せていたが、凄い人が順番を待っていた。
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いよいよ明日は、山鉾巡行だ。多分今頃は、神幸祭がおこなわれており、御旅所に御神輿が鎮座されているのではないかと思いつつ、宵山をしめたい。




この項 <完>

by mo-taku3 | 2012-07-20 17:52 | Comments(2)

2012祇園祭③巡行

2012祇園祭③巡行


いよいよ祇園祭巡行の始まりである。


祇園祭の先頭は信号機の撤去が行われる。
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信号機の撤去はこのように、横に回してしまいこまれる。
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恒例の籤改め。
以前は早く並んだ順に巡行していたが、早く並ぶために小競り合いがあり、またその当時は道も狭く危険なため、この籤方式となった。
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長刀鉾から巡幸がスタート。
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日向と日陰の暑さが違う。約5kmの道のりのため、本当に大変だ。今日は36℃もあり、尚更。
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お稚児さん(生き神様)は長刀鉾以外は人形を使っている。
このお稚児さんの最大の儀式は、籤改めがが終わり、その先の麩屋町で行われる、しめ縄を切り落とすことである。このしめ縄を切り落とすことにより、神域との結界を解くと云われている。
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お囃子も熱を帯びている。行きと帰りではお囃子が異なる。河原町四条が境界となる。
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辻回しの現場の一つ(市役所前)では今か今かとという状態。天気も良く暑いが本当に気持ちがいい。
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長刀鉾の辻回しは順調に行われた。
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2番目の大きな鉾である、函谷鉾がやってきた。
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これも辻回しが始まった。
今回はこの辻回しを主眼に撮るつもりが、見事に成就できて満足している。
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辻回しにはこの竹が必要。車輪の下にこの竹を敷き、横に引いて、3回くらいで90度曲げとなる。
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各山鉾にはこのような子供が元気よく参加していた。
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暫く山が続く。特にご覧いただきたいのは、前後掛、胴掛の模様。
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それぞれ特徴がある。
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四条傘鉾は鉾としての大きさではなく、踊り鉾だ。
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子供たちは踊りの恰好で元気よく歩いていた。
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蟷螂山。上にカマキリが乗っており、これがコミカルに動かしている。
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京都テレビ(KBS)が恒例の実況放送中
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鶏鉾が近づいてきた。
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鉾の辻回しの待ち時間は山に採っては暑さの中で待たなければならない。
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もう一つの傘鉾(綾傘鉾)が進んできた。
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鬼の面を被った綾傘鉾の踊り隊が進んでいく。
巡行は辻回しがある関係上、途中で止まることが多いが、その時はこの踊り隊が舞う。
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鉾は、直進しかできなく、ブレーキもない。そのためこの人たちは直進の是正とブレーキコントロールが大事
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鶏鉾の雄姿が青空に見事に映えていた。
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船鉾の雄姿も姿を現した。やはり見事な雄姿である。
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この後もまだまだ山鉾が続いてくるが、BLGはこの辺で閉めたい。

尚、24日には、花笠巡行、還幸祭がおこなわれる。
このように31日ぎりぎりまでイベントは続くことになる。






この項 <完>

by mo-taku3 | 2012-07-18 20:54 | Comments(2)

【橘寺】-聖徳太子生誕のお寺

【橘寺】-聖徳太子生誕のお寺



橘寺(たちばなでら)は、奈良県明日香村にある天台宗の寺院で、本尊は聖徳太子・如意輪観音を祀っています。
橘寺という寺の由来は、垂仁天皇の命により不老不死の果物を取りに行った田道間守が持ち帰った橘の実を植えたことから、そのようにいわれていますが、正式には「仏頭山上宮皇院菩提寺」といいます。

聖徳太子はこのお寺で生まれたのではなく、このお寺の付近にその場所があります。
このお寺は聖徳太子建立七大寺の1つとされており、太子が父用明天皇の別宮を寺に改めたというのが、始まりとして伝わっていますが、何時の創建かは不明ですが、日本書紀からは大きなお寺であったことが見受けられます。
皇族・貴族の庇護を受けて栄えましたが、鎌倉期以降は徐々に衰えてきたようです。

なだらかな参道を上がると受付があり、350円を2人分払って入山した。
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なかなか立派な山門を抜けて周りを見渡すと、まだ改修が行われていない壁土が崩れかけた土塀が何箇所か目に入った。
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山門を抜けた右手には、『関連年表』が掲げられていた。
発掘調査の結果、当初の建物は、東を正面として、中門、塔、金堂、講堂が東西に一直線に並ぶ、四天王寺式または山田寺式の伽藍配置だったことが判明しています。
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五重塔跡;落雷で焼失したとのこと。塔心礎(心柱の礎石)が僅かに往時を偲ばせています。
心礎の柱孔は円柱の周囲三方に添柱を付した形のものでした。
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三光石;勝鬘経講説に関係した史跡が残っている。「三光石」は、聖徳太子が勝鬘経の講義を行った際、冠が日・月・星の光を放ったとされていることからイメージされた石のようである。
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蓮華塚は、、降り積もった蓮の華を埋めた場所であるという。
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橘の実を植えた場所には駒札があり、今も切らさずそれなりの橘の木は植えられている。
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二面石;境内にある高さ約1mほどの石造物で、左右に善相と悪相が彫られており、人の心の二面性を表現しているとのこと。
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『善面』ユーモアのある優しいお顔をしています。
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「悪面」は嫌われてきた?とみえて、削り取られたような感じが見受けられます。
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新しくなった往生殿に入ると、三つの太子像があった。
仏像化され、御簾に入った太子像。
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非常にユーモラスのある、木彫りの太子像。
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なんと表現したらいいかわかりませんが、至極変わった太子像がありました。
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三体目の太子像がお寺におさめられた経緯が地元紙に大きくとりあげられていました。
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新しくした、往生殿の天井絵は見事に咲き誇っておりました。
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本堂(太子堂)
  元治元年(1864年)に再建された建物で、本尊として聖徳太子坐像が安置されている。
観音堂
  如意輪観音坐像が安置されている。


■聖徳太子出生の地の伝承
寺伝では、橘寺は聖徳太子(=厩戸皇子)出生の地と伝えています。この地に欽明天皇の別宮があり、太子は574年(敏達3)にここで誕生したと言われています。
厩戸皇子は太子の本名ですが、その名の由来は母の穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのみめみこ)が宮中の見回りの際にちょうど厩戸に来たところで産気づき太子を生んだため、とされています。
これは、後世になって太子信仰が盛んになった時、キリスト生誕になぞらえて作り上げられた逸話だという説があります。
当時の習慣では皇族の皇子は出生地の地名か、あるいは誕生後に養育を任された乳母の氏族名で呼ばれるのが一般的だったようですが、橘寺付近に厩戸という地名があり、その地名にちなんで命名されたとする説もあります。 が定かではありません。





この項 <完>

by mo-taku3 | 2012-07-08 20:50 | (寺社)関西の神社仏閣 | Comments(2)

飛鳥大仏の【飛鳥寺】を訪ねて。

飛鳥大仏の【飛鳥寺】を訪ねて。


飛鳥寺のことは詳しくは知りませんでしたが、やはり実際に行ってみると色々なことが分かり、歴史好きの私にとっては至福のひと時でした。

飛鳥寺は588年に百済から仏舎利(遺骨)が献じられ,蘇我馬子が建立を発願し,596年に創建された日本最初の本格的な寺院です。
歴史たどると、法興寺とも元興寺ともよばれたこともありました。しかし、現在は飛鳥寺(安居院(あんごいん))と呼ばれています。
創建時の飛鳥寺の特徴は、伽藍配置の独特さにあるようです。すなわち、塔を中心に東・西・北の三方に金堂を配し,その外側に回廊をめぐらしていたことが分かっています。
建立にあたっては、百済から多くの技術者がよばれ,瓦の製作をはじめ,仏堂や塔の建設に関わったようです。飛鳥寺は瓦を初めて使ったお寺だったようです。

【日本書紀】について一言。
日本の歴史上の人物として、聖徳太子は重要な存在として扱われています。
しかし、最近の歴史評価は、聖徳太子は実在しなかったと思われていると思います。
歴史学者の多くが思っていても言い出すことができない状況だと云っていいと思います。
しかしここでは、歴史上系統だった資料が他に存在しないのでとりあえず引用したいと思います。


歴史上、崇仏派の蘇我氏と廃仏派の物部氏の戦いが、日本書紀で紹介されていますが、勝ちを収めた蘇我馬子は、請願どおり飛鳥寺(法興寺)の建立に取り掛ったと云われています。
蘇我馬子により崇峻天皇が暗殺されるという事件があっても、飛鳥寺の建設は中止されず続き、推古4年(596年)、8年の歳月をかけて一応の竣工となったようです。

こうして完成した飛鳥寺は、塔を三つの金堂が取り囲むという【一塔三金堂という様式の伽藍配置】でした。
現存する飛鳥大仏は、この中金堂に収められたもので、現在に至るまでその位置を変えずにいます。
この一塔三金堂の伽藍様式は、日本では他に類例の無いもののようです。唯一高句麗の清岩里廃寺にその様式を見ることが出来るようです。
そういう意味からも飛鳥寺は、我が国最初の本格的寺院であったとも言えるのではないでしょうか。
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「飛鳥寺略縁起」にはこのように書かれていました。
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本尊飛鳥大仏(釈迦如来像)
平成20年には、「飛鳥大仏開眼1400年」事業が行われいたようです。
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製作年代が明らかな現存の仏像(銅像)では日本最古のものと言われています。
飛鳥大仏は推古天皇が百済からの渡来系氏族の鞍作鳥(止利仏師(とりぶっし)に造らせた、高さ約3m・銅15t・黄金30kgの重要文化財です。
この飛鳥大仏は、火災や戦乱に巻き込まれたことからかなり傷んでいますが、その後補修はされましたが、開眼当時の位置に鎮座しているのは凄いことと思います。

また、平城京遷都のとき建てられた元興寺には,飛鳥寺に使われていた建築材も運ばれて再利用されたと云われています。しかし,大仏は飛鳥寺に残ったそうです。その後色々な歴史をたどり、1828年に安居院が建てられ,この大仏を安置されております。
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この飛鳥大仏を正面からよく見ると、天蓋ともどもかなり右を向いていることが分かります。
この理由を尋ねてみると、聖徳太子が生まれた「橘の里」(橘寺)の方を向いているそうです。
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飛鳥寺建立の経過は、『元興寺伽藍縁起并流記資材帳』に記されていますが、資材帳にある【塔露盤銘】がもっとも確実な資料とされています。
その銘盤がこれです。
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中庭には『飛鳥寺型石灯籠』という少し変わった石灯籠が置かれていました。
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本堂から離れて境内にある庭をみると、菩提樹の木と、
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沙羅の木が植えられていました。
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お寺の外に出てみると、住職からのメッセージが駒札として書かれおりました。
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藤原京以前の歴史は、日本書紀によって大きく書き換えられてきてますが、ここ明日香村はまだまだ深い歴史が眠っている気がしています。
奈良県全般に言えることですが、京都に比べ歴史的文化財の保護が手薄のように感じます。
もっともっと助成して、奈良の歴史の掘り起こしを是非進めていただけたらと思います。


その後の飛鳥寺
飛鳥寺は、建立の後もしばしば歴史上に登場しています。
・中大兄皇子(なかのおおえのおおじ)と中臣鎌足(なかとみのかまたり)の出会いのエピソード。
・645年の大化改新(乙巳の変)と呼ばれる蘇我入鹿誅殺事件の時、中大兄皇子はただちに飛鳥寺に入り、蝦夷と対抗するために軍営を置いた。
・、672年の壬申の乱でも飛鳥寺は攻防の舞台となった。
・天智紀10年の条の天皇の病気に際して、飛鳥寺に財を納めている記事。
・天武紀14年の条などに、五大寺の一つとして飛鳥寺の名前が見える。
・都が飛鳥を離れ、藤原京を経て和銅3年(710年)に平城京へと遷都すると、飛鳥寺も移転することになり、元興寺と名前を変え新たな大伽藍の寺院となっています。
・平安時代にもまだかなりの規模を維持していた様子が窺えます。
・治承3年(1179年)には藤原道長が参詣をしたようです。その当時の飛鳥寺は金堂は一つしかないようですが、塔も講堂も存在していたようです。
・鎌倉時代に入った建久7年(1196年)落雷による火炎上のため、寺塔無残、仏頭と手を残すのみ・・・と、なってしまったようです。
・これ以後復興されることはなく、草庵の一坊のみとなってしまったようです。
・文政9年(1826年)になって建てられた堂宇が、現在の安居院となったようです。






この項 <完>

by mo-taku3 | 2012-07-05 20:23 | (寺社)関西の神社仏閣 | Comments(3)

鳥羽離宮跡と【安楽壽院】白河・鳥羽・近衛天皇・美福門院・・・。

鳥羽離宮跡と【安楽壽院】白河・鳥羽・近衛天皇・美福門院・・・。



安楽寿院(あんらくじゅいん)は、京都の南に位置した鳥羽離宮の東殿に鳥羽上皇が造営した仏堂を起源とする皇室ゆかりの寺院である。境内に接して鳥羽天皇と近衛天皇の陵がある。

安楽寿院は京都市伏見区竹田に位置し、付近一帯は平安時代末期(11~12世紀)、院政の舞台となった鳥羽離宮の跡地であり、安楽寿院は離宮内に営まれた仏堂が前身である。
鳥羽離宮は、応徳3年(1086年)、時の白河天皇が退位後の居所として造営を始めたものであった。
平安京の南に位置する鳥羽の地は桂川と鴨川の合流点にあたり、交通の要衝であるとともに風光明媚な土地でもあった(今でも地名が、上鳥羽・下鳥羽などと呼ばれる)。
鳥羽離宮の各御所には白河上皇および鳥羽上皇によって仏堂が営まれたが、その後、鳥羽離宮内の他の御所や仏堂が跡形もなく滅びた中にあって、安楽寿院のみが(建物は近世以降の再建であるが)、21世紀の今日まで法灯を伝えている。

幕末には安楽寿院が鳥羽・伏見の戦いの本営となった。
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駒札には今述べた内容が書かれている。
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安楽壽院は広大な敷地をもっていた。境内の一部を表す石碑が建っていた。
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再建された大師堂があり、近辺の人がこの前を通るたびにお参りする光景を目にする。
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離宮跡と阿弥陀如来坐像についての駒札が建てられている。
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広大な鳥羽離宮とともに、広大だったろう安楽壽院の庭園も縮小した形できれいに整備されていた。
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東西約1.2~1.5km、南北約1kmの範囲に御所、庭園、仏堂などが営まれ、最初に営まれた御所は後に南殿と称され、白河・鳥羽・後白河の3代の院政の舞台となった。
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現在の安楽寿院の本尊である阿弥陀如来像は、この本御塔の本尊として造られたものと推定されている。
その後、久安4年(1148年)頃には鳥羽法皇の皇后美福門院のために三重塔が建てられ、こちらを新御塔と称したが、鳥羽法皇が遺言で建てられたこの塔に、美福門院は入らず、美福門院は遺言により高野山に葬られており、新御塔には鳥羽法皇と美福門院との子で夭折した近衛天皇が葬られることになった。
その後、幾多の火災によって失われた新御塔は、豊臣秀頼により慶長11年(1606年)多宝塔形式で再建されたものが寺の南側に現存し、近衛天皇安楽寿院南陵としてやはり宮内庁の管理下にある。天皇の陵墓に多宝塔を用いる稀有な例である。
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多宝塔のある珍しい近衛天皇陵。
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この陵とは少し離れたところの梅小路通り沿いに、白河天皇の陵もある(これも鳥羽離宮内となる)。
白河天皇成菩提院陵。
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残念ながら戦乱や火災に荒らされたこの地域は、色々な遺跡が発掘されているが、まだまだ手がつけられていないものが多く、このように瓦などが無造作に置かれている。
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(鳥羽離宮と安楽壽院)
今では想像もできないが、平安時代後期、平安京の南の鳥羽は南には池が広がり、水鳥が群れる風光明媚な地であった。東西約1.2~1.5km、南北約1kmの範囲に御所、庭園、仏堂などが営まれた。
この池の畔に離宮が造られ、技術の粋を尽くした御殿が建ち並びその美を競っていたという。当時栄華を誇った貴族たちは連日のようにこの地を訪れて舟遊びや歌合わせなどに興じ、華やかな貴族文化の舞台になっていた。
ただ、今はその優雅さを点として示すに過ぎず、往時の面影は殆ど見ることができない。

この鳥羽離宮の東殿に保延3年(1137)御堂が建てられました。これが安楽寿院である。安楽寿院はその名のとおり、浄土教に基づき極楽浄土を希求するため阿弥陀三尊を本尊とした。その後、本御塔、九躰阿弥陀堂、閻魔堂、不動堂、新御塔が次々と造営され一応の完成を見た。
その後、南北朝争乱に巻き込まれ寺領の多くを失ったこともあり、徐々に寺の規模を縮小しながらも何とか維持をし続けてきた。
その後、桃山時代に豊臣秀吉より近辺の五百石分の寺領安堵の朱印状を拝し、続く江戸時代も徳川歴代将軍より寺領を安堵され運営されてきている。
また、幕末の「鳥羽・伏見の戦い」には幕府側の本営がおかれていたこともあり、このようなたびたびの戦乱の巻き込まれてきたのが、寂れた大きな要因でもあるようだ。




この項 <完>

by mo-taku3 | 2012-07-04 23:36 | (歴史)京都史 | Comments(2)

信長の象徴【安土城】は今。

信長の象徴【安土城】は今。


久し振りに安土城を訪ねてみました。もう、20数年振りになるかもしれません。
すっかりきれいに整備され、当時も面影が見えるような感じでした。
この安土城は、1576年、織田信長は近江守護六角氏の居城観音寺城の支城のあった安土山に築城を開始し、約3年かけて完成した天守に信長が移り住んだといいます。しかし、ルイス・フロイスの著書『日本史』によると、同じ年に落雷により本丸が焼失したと、記しているが、すぐに再建されている。
1582年には、この天守閣で明智光秀が饗応役となって徳川家康の接待が行われているのは有名です。
これが、5月15日ですから、その2週間後の29日には、京都本能寺にて信長が光秀の謀反により横死しています。
その本能寺の変の際には蒲生賢秀が留守居役として在城していましたが、信長の横死後、蒲生賢秀・氏郷父子は自分の城の日野城に、信長の妻子などを安土から移動させ退去しています。
山崎の戦いの後、明智秀満率いる明智軍が摂取しましたが、退却の際天主とその周辺建物(主に本丸)が焼かれたと云われています。。
本能寺の変後、しばらく織田氏の居城として、二の丸を中心に機能していましたが、秀吉の養子豊臣秀次の八幡山城築城のため、1585年に廃城されたこと伝わっています。
この城の整備は戦前から行われていますが、特に近年本格的にやられたようです。
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お城を囲む石垣なども整備されてきているのがよくわかります。
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さて、入山料500円を払うと杖を貸していただきました。これが本当に助かりました。
山城ですから、きついこときついこと。
しかし、この大手道は幅が広く、急な坂道で、しかも両側には立派で堅固な石垣を抱えた、前田・羽柴の両邸が建てられていたようです。
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そのようなことが、説明にありました。
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途中まで登って後ろを振り返ると見事な情景が映し出され撮りました。また天気も良かったので、すがすがしい気分です。
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また、道の両脇にのところどころには、このような願掛けの仏石が埋め込まれていました。
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前田利家邸は向かって右側の位置にあったようです。
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また、羽柴秀吉邸は左側のかなり急斜面に建てられていたようです。
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どちらの邸も、かなり豪壮な造りのようで、これを見ても重用されていたのがよく分かります。
ちなみに、明智邸は見当たりませんでした。
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坂は一時的に緩やかになりますが、脇にはアジサイがきれいに咲いておりました。
聞くところによると、桜の季節がきれいだそうです。
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森蘭丸の邸もあり、かなり本丸に近いところにありました。
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途中、織田信雄(のぶかつ)4代の墓所もありましたが、本丸の手前の「二の丸跡」に信長の立派な廟所が建てられておりました。
このお城の天守・本丸が焼けた後、この二の丸で政務がとられていたようですから、この廟所はある程度後に建てられたのではないかと思います。
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いよいよ天守閣ですが、通常天守閣は本丸の最上位に作られていると思いますが、ここは本丸と天守は別々になっていたようです。
後の調査では、天守は天皇を貴賓を迎えるためのものとして、信長が誇示することをこだわったのではないかとも言われているようです。
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天守は基礎だけが残されています。
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天守のこの部分は地下一階部分だそうで、地上は六階になるそうです。
この天守に入ったときは意外と小さく見えましたが、説明を読んでみると、この倍の敷地の上に建てられていたそうで、当時としては傑出した建築物だったようです。
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こんな風景も、信長は見ていたのかもしれません。
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強者どもの夢の、更に夢の後だったようです。




この項 <完>

by mo-taku3 | 2012-07-03 22:51 | (歴史)京都史 | Comments(0)