奈良【新薬師寺】

奈良【新薬師寺】



新薬師寺(しんやくしじ)は、奈良市高畑町にある東大寺と同じ華厳宗の寺院である。
本尊は薬師如来、開基(創立者)は光明皇后または聖武天皇と伝える。
創建理由は「聖武天皇」の病気平癒を祈願して「光明皇后」が造営したようだが、光明皇后の病気平癒を祈願した聖武天皇が造営されたという説もある。
奈良時代には南都十大寺の1つに数えられ、平安時代以降は規模が縮小しているが、国宝の本堂や奈良時代の十二神将像など多くの文化財を伝えている。
最盛期には4町(約440メートル)四方の寺地を有していたとある。

新薬師寺には香山薬師寺または香薬寺という別名があったことが知られている。
創建時の新薬師寺は金堂、東西両塔などの七堂伽藍が建ち並ぶ大寺院であったが、次第に衰退した。
『続日本紀』によれば宝亀11年(780年)の落雷で西塔が焼失し、いくつかの堂宇が延焼している。
また、『日本紀略』『東大寺要録』によれば、応和2年(962年)に台風で金堂以下の主要堂宇が倒壊し、以後、復興はしたものの、往時の規模に戻ることはできなかったようである。

現在の本堂は様式からみて奈良時代の建築だが、本来の金堂ではなく、他の堂を転用したものである。
現本尊の薬師如来像は様式・技法上、平安時代初期の制作とするのが一般的だが、本堂建立と同時期までさかのぼる可能性も指摘されている。
現存する本堂以外の主要建物は鎌倉時代のものである。


南門。
この門の基壇は乱石積で、その上に4本の柱が立つ四脚門である。
さすがに、鎌倉時代中期のどっしりした門である。(重要文化財)

南門の横に3台ほどの駐車スペースがあり、そこを使わせていただいた。
すぐ横が南門であるが、南門前は参道も無く、"えっ”とびっくりするような狭さである。普通、大きかったお寺は、参道にはそれなりの形・雰囲気が残っているはずだが、歴史が今のように変えてきたのだろう。



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本堂は国宝に指定されている。
入母屋造、本瓦葺きで低平な印象の堂である。
平面規模は桁行7間、梁間5間で、5間×3間の身舎(もや)の周囲に1間の庇をめぐらした形式になる。正面は柱間7間。うち中央3間を戸口とし、その左右各2間には窓を設けず白壁を大きく見せた意匠となっている。
側面、背面も中央間に戸口を設けるのみで窓は設けていない。
内部は土間で、天井を張らず、垂木などの構造材をそのまま見せる「化粧屋根裏」となっている。
堂内中央には円形漆喰塗りの仏壇を築き、中央に本尊薬師如来像を安置してある。
これを囲んで十二神将像が外向きに立っている。
この建物は創建当初の金堂ではなく、他の建物を移築したものではあるが、遺構の少ない奈良時代の建造物として貴重である。
左手に地蔵堂が見える。

何故か分からないが、この地蔵堂の手前に、東大寺実忠和尚(二月堂本尊を設けた)の石塔が置かれていた。どのような謂れがあるか知りたいところだ。

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境内。
五重の石塔も見える。

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十二神将と本尊のあるほんどうの内部。

木造薬師如来坐像はこの寺の本尊である。資料によると、
『像高は191.5センチメートルで、制作年代は記録がなく不明であるが、新薬師寺の創建期まではさかのぼらず、平安時代初期・8世紀末頃の作と見るのが一般的である。
坐像では高さ2メートル近い大作だが、頭・体の主要部分はカヤの一木から木取りし、これに脚部、両腕の一部などを矧ぎ付ける。矧ぎ付け材も同じ材木から木取りされ、木目を縦方向に合わせるように造られていることが指摘されている。
眉、瞳、髭などに墨、唇に朱を差すほかは彩色や金箔を施さない素木仕上げとする。一般の仏像に比べ眼が大きいのが特徴で、「聖武天皇が光明皇后の眼病平癒を祈願して新薬師寺を創建した」との伝承も、この像の眼の大きさと関連づけられている。
昭和50年(1975年)の調査の際、像内から平安時代初期と見られる法華経8巻が発見され、国宝の「附(つけたり)」として指定されている。
光背には6体の化仏が配されていて像本体と合わせると7体となり、『七仏薬師経』に説く七仏薬師を表現しているとみられる。また、光背の装飾にはシルクロード由来のアカンサスという植物の葉と考えられている装飾がある。 』

としている。

塑造十二神将立像
十二神将は薬師如来の眷属である。円形の仏壇上、中央の本尊薬師如来像を囲んで立つ。木造の本尊とは異なり、奈良時代に盛んに造られた塑像である。これらの像は高円山麓にあった岩淵寺から移されたとする伝承もあるが、造立の事情は明らかでない。作風や、12躯のうち1躯の台座裏桟から「天平」云々の墨書が見出されたことなどから、天平期の作と見なされている。

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境内にある本堂の前を左に折れると、奥に香薬師堂が見えている。
飛鳥時代作旧国宝香薬師如来のレプリカを安置しているとのこと。
残念なことに、白鳳時代の代表作として名高い実物は三度の盗難に遭い現在も行方知れずであるという。

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境内にある鐘楼堂は、鎌倉時代の建立で、珍しい袴腰が設えられ、梵鐘は天平時代の貴重な重要文化財。日本霊異記に出てくる鬼退治で有名な釣鐘。
この梵鐘は、元興寺から移されたものとの文献も見られる。

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すぐ横に由緒正しい貴重な鏡神社もあり、これも影響して影が薄くなっているようにも思える。

この神社は、遣唐使派遣の祈祷所だった場所に、平城天皇の時代(806年)に新薬師寺の鎮守として奉祀したのが始まりと云われている。
本殿は延享3年(1746)に、春日大社第三殿を移築したものである。
記録もしっかり残っており、貴重な史跡となっている。

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駒札を読んでいただきたい。
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事前にこのお寺に関する資料を読んでいったことで、意外と規模も小さく、駒札などなく説明資料が不十分だったことは残念だった。往時は、南都十大寺といわれたようだが、かなり縮小されその面影は完全に失われているように思えた。





この項 <完>

by mo-taku3 | 2012-08-29 23:59 | (寺社)関西の神社仏閣 | Comments(2)

奈良東大寺【二月堂】お水取りで有名

東大寺【二月堂】



東大寺二月堂(とうだいじにがつどう)は、奈良県奈良市の東大寺にある、奈良時代創建の仏堂である。
現存する建物は1669年の再建で、日本の国宝に指定されている。
奈良の早春の風物詩である「お水取り」の行事が行われる建物として知られる。「お水取り」(修二会(しゅにえ))は、8世紀から連綿と継続されている宗教行事である。二月堂は修二会の行事用の建物に特化した特異な空間構成をもち、17世紀の再建ながら、修二会の作法や習俗ともども、中世の雰囲気を色濃く残している。

寛文7年(1667年)、修二会の満行に近い2月13日(旧暦)に失火で焼失したが、その直後の寛文9年(1669年)、江戸幕府の援助を得て、従前の規模・形式を踏襲して再建されて現在に至っている。

さて、二月堂へは、この参道の標識がある。
これは、南大門を超えてしばらく行った池の手前の右手にある。

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二月堂の全景。
この建物は、寛文9年(1669年)に再建されたものである。
寄進の石柱がぎっしり並べられている。

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立派な、あまり類を見ない手水殿がある。
ご利益があるので、寄進も半端なく多いのではないか。

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二月堂の欄干

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二月堂の中央のお堂があり、その奥には十一面観音像があるという。
この像が、修二会の始まりと関係がある。
『二月堂縁起絵巻』(天文14年・1545年)等が伝える寺伝によると、修二会の始まりは次のようであった。

天平勝宝3年(751年)のこと、実忠という東大寺の寺僧が、笠置(現在の京都府南部、笠置町)の龍穴の奥へ入っていくと、そこは都卒天(兜率天)の内院に通じており、そこでは天人らが生身(しょうじん)の十一面観音を中心に悔過(けか;悔過とは読んで字のごとく、自らの過ちを観音に懺悔(さんげ)することである。)の行法を行っていた。
実忠はこの行法を人間界に持ち帰りたいと願ったが、そのためには生身の十一面観音を祀らねばならないという。
下界に戻った実忠は、難波津の海岸から、観音の住するという海のかなたの補陀洛山へ向けて香花を捧げて供養した。すると、その甲斐あってか、100日ほどして生身の十一面観音が海上から来迎した。実忠の感得した観音は銅製7寸の像で、人肌のように温かかったという。

修二会の始まりは、このような謂れがあったのである。

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お水取りに使われる松明が休憩所に飾ってあった。
炎が上がると、非常に大きく見えるが、実際は思ったより小型であった。

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子供たちの上手な絵も飾ってあった。

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ここからは奈良の街が奥深く一望できる。
非常に見晴らしのいい場所である。

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なんといっても二月堂はお水取り(修二会)であるが、この行事は2週間行われるが、平日は比較的余裕があり、普通に拝見できるそうです。






この項 <完>

by mo-taku3 | 2012-08-29 23:44 | (寺社)関西の神社仏閣 | Comments(2)

奈良【東大寺】国分寺の総本山

奈良【東大寺】国分寺の総本山




東大寺(とうだいじ)は、奈良県奈良市雑司町にある華厳宗大本山の寺である。
金光明四天王護国之寺(こんこうみょうしてんのうごこくのてら)ともいい、奈良時代(8世紀)に聖武天皇が国力を尽くして建立した寺である。
「奈良の大仏」さんとして知られる盧舎那仏(るしゃなぶつ)を本尊としている。
『奈良の大仏』さんのお寺として、古代から現代に至るまで、日本の文化に多大な影響を与えてきた寺院でもある。
また、聖武天皇が当時の日本の60余か国に建立させた国分寺の中心をなす「総国分寺」と位置付けられている。
奈良時代には中心堂宇の大仏殿(金堂)のほか、東西2つの七重塔(推定高さ約70メートル以上)を含む大伽藍が整備されたが、中世以降、2度の兵火などで多くの建物を焼失した。
東大寺は1998年に古都奈良の文化財の一部として、ユネスコより世界遺産に登録されている。

東大寺は新たに建てられたのではなく前身のお寺があり、金鐘寺という(謂れについては諸説あり)。
『続日本紀』によると、この金鐘寺は大和国の国分寺と定められ寺名は金光明寺と改められた。
聖武天皇が大仏造立の詔(みことのり)を発し、大仏の鋳造が始まったのは天平19年(747年)で、このころから「東大寺」の寺号が用いられるようになったといわれている。

この当時、都は恭仁京(くにのみや 京都府相楽郡加茂町)に移されていたが、天皇は恭仁京の北東に位置する紫香楽宮(しがらきのみや 現・滋賀県甲賀市信楽町(信楽焼きのたぬきの焼き物で有名))におり、大仏造立も当初はここで始められている。
2年後の天平17年(745年)、都が平城京に戻ると共に大仏造立も現在の東大寺の地で改めて行われることになった。この大事業を推進するには幅広い民衆の支持が必要であったため、朝廷が弾圧していたが当時民衆に絶大な人気が会った行基を聖武天皇自らが要請して大僧正として迎え、協力を得ることとなった。
大仏の鋳造が難工事の末終了し、天竺(インド)出身の僧・菩提僊那を導師として大仏開眼会(かいげんえ)が挙行されたのは天平勝宝4年(752年)のことであった。
そして、大仏鋳造が終わってから大仏殿の建設工事が始められて、大仏殿が竣工したのは天平宝字2年(758年)になる。

東大寺では大仏創建に力のあった良弁、聖武天皇、行基、菩提僊那を「四聖(ししょう)」と呼んでいる。

東大寺参道の途中にモダンな石碑があった。

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華厳宗大本山東大寺。
奈良時代のいわゆる南都六宗(華厳宗、法相宗、律宗、三論宗、成実宗、倶舎宗)は「宗派」というよりは「学派」に近いもので、日本仏教で「宗派」という概念が確立したのは中世以後のことである。それまでの寺院は、複数の宗派を兼学することが普通であった。
東大寺の場合、近代以降は所属宗派を明示する必要から華厳宗を名乗っているが、奈良時代には「六宗兼学の寺」とされ、大仏殿内には各宗の経論を納めた「六宗厨子」があった。平安時代には空海によって寺内に真言院が開かれ、空海が伝えた真言宗、最澄が伝えた天台宗をも加えて「八宗兼学の寺」とされていた。

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南大門に繋がる参道。
奈良時代の東大寺の伽藍は、南大門、中門、金堂(大仏殿)、講堂が南北方向に一直線に並び、講堂の北側には東・北・西に「コ」の字形に並ぶ僧房(僧の居所)、僧房の東には食堂(じきどう)があった。
更に、南大門 - 中門間の左右には東西2基の七重塔(高さ約70メートル以上と推定される)が回廊に囲まれて建っていた。現在、中門-大仏殿は回廊に囲まれて芝生の庭が整備されているが、建設当時は、この七重の塔の周りも回廊に囲まれてきれいな庭になっていたものと推定される。

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南大門は国宝に指定されている。
平安時代の応和2年(962年)8月に台風で倒壊後、鎌倉時代の正治元年(1199年)に復興されたものである。
建築様式が大仏様(だいぶつよう、天竺様・てんじくようともいう)を採用した建築として著名である。
中国・宋から伝わった大仏様式の特色は、貫と呼ばれる、柱を貫通する水平材を多用して構造を堅固にしていることや天井を張らずに構造材をそのまま見せて装飾としていることなどが挙げられる。
門内左右には金剛力士(仁王)像と石造獅子1対(重文)を安置している。

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(この写真は中側から写したものです。悪しからず。)


木造金剛力士立像も国宝である。
高さ8.4メートルの巨大な木像。門の向かって右に吽形(うんぎょう、口を閉じた像)、左に阿形(あぎょう、口を開いた像)を安置する。これは一般的な仁王像の安置方法とは左右逆である。1988年から1993年にかけて造像以来初めての解体修理が実施され、像内からは多数の納入品や墨書が発見された。それによると阿形像は大仏師運慶および快慶が小仏師13人を率いて造り、吽形像は大仏師定覚および湛慶が小仏師12人と共に造ったものである。これは、「阿形像は快慶、吽形像は運慶が中心になって造った」とする従前の通説とは若干異なっているが、運慶が製作現場全体の総指揮に当たっていたとみて大過ない。

(吽形像、口を閉じた像)
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(阿形像、口を開いた像)
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大仏殿 (別項に掲載してあるのご参照のこと

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道しるべ(二月堂、正倉院、手向山天満宮方面)もわかり易い。

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二月堂。
旧暦2月(3月初旬の約2週間強)に「お水取り(修二会)」が行われることからこの名がつけられている。
東大寺は数々災難に見舞われ、またお水取りの最中に失火で焼失したこともあったが、休むことなく続けられている、唯一の行事である。
二月堂は平重衡の兵火(1180年)、三好・松永の戦い(1567年)の2回の戦火には焼け残ったが、寛文7年(1667年)、お水取りの最中に失火で焼失し、2年後に再建されたのが現在の建物である。
本尊は大観音(おおかんのん)、小観音(こがんのん)と呼ばれる2体の十一面観音像で、見ることを許されない絶対秘仏である。
建物は2005年12月、国宝に指定された。

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法華堂(三月堂)。
東大寺建築のなかで最も古く、寺伝では東大寺創建以前にあった金鍾寺(きんしょうじ)の遺構といわれている。また、「羂索堂(けんさくどう)」とも云われ、不空羂索観音を本尊として祀るためのお堂である。
旧暦3月に法華会(ほっけえ)が行われるようになり、法華堂、また三月堂ともよばれるようになった。

正堂は天平初期の建築だが、礼堂は大仏様(だいぶつよう)の特色が見られる鎌倉時代の建築。時代の異なる建築が高い技術によって結ばれ、調和の取れた美しい姿を見せる。

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四月堂。
法華三昧という法華経の修行が行われていた事から三昧堂と呼ばれていたそうです。また法華三昧が4月に行われていたことから四月堂と呼ばれるようになりました。現在も四月堂に安置される普賢菩薩が本尊とされた時期もあり、その当時は普賢三昧堂と呼ばれていました。
丁度、普賢菩薩の特別拝観があり、呼び止められて丁寧に説明を受けてきた。

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四月堂から鐘楼に向かう山道も綺麗に掃かれて気持ちがよかった。

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鐘楼・大鐘。
東大寺の梵鐘は、総高3.86m、口径2.71m、重量26.3tあり、撞木はケヤキ造りで、長さ4.48m、直径30cm、重さ180kg、金具を入れると約200kgもある。 大きな釣鐘であるところから古来東大寺では大鐘(おおがね)と呼んでいる。
この大鐘をつっている鐘楼は、俊乗堂と念仏堂にはさまれた鐘楼ヶ丘と呼ばれる場所に建っている。
現在のこの建物は、栄西(ようさい)禅師が鎌倉時代(承元年間・1207~10)に再建したものである。
大鐘は天平勝宝4年(752年)に鋳造されたといわれてり、最古の釣鐘の類に入るらしい。その後、延久2年(1070)10月と永長元年(1096)10月に地震のため墜落し、又延応元年(1239年)6月には龍頭が切れて転落したが、すぐに修理されたことが修理銘によって知られている。

ここの係りの人が、古い3大鐘のひとつと説明していた。
しかし、ぞんざいな態度だったので、あまり聞く気にもなれなかった。四月堂の方とは全然違う。

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大仏殿建立に貢献した、行基の御堂があった。
特にこれといった説明が施されていなかった。

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穏やかな奈良公園では、鹿がのんびりと草を食んでいた。

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このほか転害門、開山堂、戒壇堂などがある。

転害門。
境内西北、正倉院の西側にあり、三間一戸八脚門の形式をもつ堂々とした門である。
平重衡の兵火(1180年)、三好・松永の戦い(1567年)の2回の戦火にも焼け残った寺内で数少ない建物のひとつで、天平時代の東大寺の伽藍建築を想像できる唯一の遺構である。
尚、10月5日の転害会では、この基壇上において手向山八幡宮の祭礼が何故か行われることになっている。

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また、特に有名なのは、正倉院であるが、これは東大寺の持ち物ではなく、国の所有なので、東大寺のホームページには載ってない。
すっかり、東大寺の正倉院と思っていたが・・・。
それと、法華堂(三月堂)の傍にある、「手向山天満宮」は、これも別法人とのこと。

今回は具体的にしっかり見学することを狙いとしたため、色々な発見があった楽しい旅だった。

(文中の文章の一部を東大寺HP を参照させていただいた。)






この項 <完>

by mo-taku3 | 2012-08-29 23:24 | (寺社)関西の神社仏閣 | Comments(2)

奈良【東大寺大仏殿】

奈良【東大寺大仏殿】




東大寺大仏殿(とうだいじだいぶつでん)は、知らない人が居ないくらい有名なところで、殆どの人は、修学旅行で一度は訪れているのではないかと思う。
正式には東大寺金堂というが、「大仏殿」の名で広く知られている。
大仏殿には、盧舎那仏坐像(奈良の大仏)が安置されている。
現在の建物は1691年(元禄4年)に完成、1709年(宝永6年)に落慶したもので、日本の国宝に指定されている。
現存する大仏殿は、正面の幅57.5m、奥行き50.5m、棟までの高さ49.1mで、奥行きと高さは創建当時とほぼ同じだが、幅は創建当時(約86m)の約3分の2になっているようだ。
木造軸組建築としては現在でも世界最大となっている。

最初の大仏殿の建設は大仏の鋳造が終わった後に始まり、758年(天平宝字2年)に完成した。
1181年(治承4年)1月15日(旧暦12月28日)、平重衡などの南都焼討によって焼失。その後、1190年(建久元年)に再建され、落慶法要には源頼朝なども列席した。

1567年(永禄10年)、東大寺大仏殿の戦いによって焼失(多聞院日記)。仮の仏堂が建設されたが、1610年(慶長15年)の暴風で倒壊した。
その後、現存する大仏殿の建設が始まり、1691年(元禄4年)に完成、1709年(宝永6年)に落慶した。
また、1879年(明治12年)から1915年(大正4年)までと、1973年(昭和48年)から1980年(昭和55年)まで、それぞれ修理が行われているほか、1952年(昭和27年)3月29日には国宝に指定された。

県道を左折すると、参道があり南大門が見えてくる。
この参道を進んでいくと、正面に大仏殿が見えてくる。

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大仏殿の全景はこのように見える。
この建物が聖武天皇の時代に建てられたということは、驚異的なことではないか。科学的な進歩がない中で人間の知恵と能力には感嘆される。

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大仏殿の前に建つ中門。これまた半端なく大きい。

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中門の左の袖から中に入ると、大仏殿がドーンと目に入る。
前庭の緑に映えて、凄いというより美しい。

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中門の入口の外から見える大仏は、大仏殿が大きいせいかそんなに大きくは感じないが、近くに寄ると、見上げるような、想像以上の大きさである。
写っている人の大きさと比較してみると、お分かりいただけるだろう。

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いよいよ、奈良の大仏さんである。
もう何年ぶりになるだろうか、多分30年振りと思う。
奈良の大仏として親しまれている盧舎那仏坐像は、聖武天皇の発願で天平17年(745年)に制作が開始され、天平勝宝4年(752年)に開眼供養会(魂入れの儀式)が行われたが、大仏は中世、近世に焼損したため大部分が補修されており、建立当時の部分はごく一部である。
盧舎那仏坐像(奈良の大仏)は「銅造盧舎那仏坐像」の名で彫刻部門の国宝に指定されている。

中に入って大仏を見上げると、すべてが桁違いで壮大だということがわかる。大仏殿の大きさから想像してみると、それほどとはという感じだったが、そうではない。凄い!

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また、この他、大仏の左右には木造の如意輪観音坐像と虚空蔵菩薩坐像を安置され、堂内北西と北東の隅には四天王のうちの広目天像と多聞天像が安置されている。
いずれも江戸時代復興期の像だそうだ。

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更に近づくとその大きさが実感できる。

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大蓮弁の一枚の大きさに圧倒される。

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横のお姿も見事。

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背中もしっかりした彫刻・飾りを施している。

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堂内には明治42年(1909年)の日英博覧会用に製作された、東大寺旧伽藍の模型がある。
模型を見ると、大仏殿の横、東西に七重の塔が建っていたようだ。
今は全く面影もないが、何度も被害に合い、塔までは手が回らなかったようである。

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柱のくぐり抜けを見ていると、外人が盛んにチャレンジしていたり、意外と女性の姿が目につく。
子供があっさり潜り抜けた。拍手喝采!

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土産物売り場。外人が多いせいか英語の表示が目立つ

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丁度天気に恵まれ、もう一度全体を眺めるとやはり壮観だった。

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大仏殿の正面には、国宝の金銅八角燈籠がたっている。
たびたび修理されているとのことだったが、基本的には奈良時代創建時のものだそうである。
火袋羽目板(写真)4面には楽器を奏する音声菩薩(おんじょうぼさつ)像を鋳出している。

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良い目の保養をさせていただいた。







この項 <完>

by mo-taku3 | 2012-08-29 23:07 | (寺社)関西の神社仏閣 | Comments(2)

【奈良公園】

【奈良公園】



奈良公園といえば"鹿”が有名でしょう。
現在、約1200頭以上の鹿が生息しているようだ。

さて、奈良の都は、約1300年前の710年(和銅三年)平城京に始まる。
それから長岡京に移るまで74年間都があり、華やかな仏教文化が天平文化として栄えたところである。
この頃の信仰の場として東大寺、興福寺など南都七大寺と春日大社等の寺社仏閣が創建されたり、或いは飛鳥京などから移築され、それぞれ門前町として発展してきたが、その後、観光へと時代は変遷した。

長岡京、平安京に遷都して以降も、奈良の寺社は移築されることなく存在しており、その中で奈良公園はこれら寺社仏閣を結ぶ緩衝地帯となっているように見える。
奈良公園は500ヘクタールを超える広大な地域にまたがり、貴重な歴史的文化遺産を包み込むように、東大寺、興福寺、春日大社、保存のための文化施設である国立博物館、正倉院等々と、これらをとりまく雄大で豊かな緑の自然美が調和して、他に類例のない歴史公園とも称されるようになった。
木々に映える堂塔伽藍、若草に萌える芝生、鹿の群れ遊ぶ風情、「大仏と緑と鹿」で代表される奈良公園は古都奈良の顔になっている。
と、言っていい。
(データ)
  名称 奈良県立都市公園 奈良公園
  開設年月日  明治13年2月14日
  総面積   502.38ha (内、平坦部 39.82ha ・ 山林部 462.56ha) 平成17年9月改正告示
  観光客数  年間約1,300万人
  主な動物  シカ(約1200頭)

ここは殆どが旅行者のようだ。特にこの日は真夏にもかかわらず、沢山の人手だった。

奈良公園を近鉄奈良駅から、東大寺に向かうと途中”せんとくん"に出会った。
「ゆるキャラのせんとくん」は未だ健在のようだ。

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奈良公園を中心に、東大寺、興福寺、春日大社などの位置を示した「歴史の道」と称した案内板があった。
これを見ればそれぞれの位置がわかるので、旅行者もちょくちょく覗いて、確認していた。

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この通りは東大寺の大仏殿に続く道だが、遠くに仁王門が見える。
この通りは人通りが多いが、観光役目宛の鹿せんべい売りがおり、鹿も沢山寄って来ている。
この日は、風も殆どないため鹿の糞の匂いがかなり強かった。いままで、何度か来ているが、この強烈な匂いは今回が初めてである。

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公園全体がかなり整備されており、手入れが行き届いているので、鹿ものんびり、落ち着いている。
遠くを眺めても、様になる風景である。

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大仏殿の入口前で、鹿に声をかけると、こちらを向いてくれたので、いいショットが撮れた。

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鹿の角は鋭くとがっている。
発情期などは、かなり興奮していることも多い。そのため、このような注意版があちこちにあった。
皆さん気をつけましょう。

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鹿もすっかり利口になって、もらえそうなところが鹿せんべい売りのところだと知っているようだ。

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外国人の観光客も多かったが子供を中心に、鹿せんべいがかなり売れていたようだ。
面白いのは、鹿が子供の服の前側を口に含んでなめる仕草があった。子供だから何かをこぼした味があったのではないか。

とにかく、くさいのを何とかしてほしい。






この項 <完>

by mo-taku3 | 2012-08-28 23:58 | (紹介記事)関西 | Comments(2)

【飛鳥資料館】 飛鳥の写真展もやっていた。

【飛鳥資料館】 飛鳥の写真展もやっていた。


明日香村は遺跡の宝庫で、今でもあちこちで発掘が行われている。
新しい歴史の遺跡が次々と顔を出していますが、この資料館では、こうした発掘遺跡もとに研究が行われ、最新の飛鳥研究の成果を分かりやすく展示しているとしています。

飛鳥資料館の駐車場横には、石人像のレプリカの上に飛鳥資料館の看板が掲げられている。

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チケットを買って、この飛鳥資料館を見るとかなり広い敷地に、建屋と大きな庭園が配置されていた。
また敷地を横切るように川が流れている。

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橋を渡るとすぐ左の前庭に大きな「亀石」が目に入る。
他に広い庭園にはゆったりと、須彌山石、酒船石、石人像から水が流れ、飛鳥の石造物の往時の様子をレプリカで再現されている。

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資料館の内部は、一階には玄関ロビー、第一、第二の常設展示室、図書閲覧室があり、小さなミュージアムショップも付属している。地階は、ビデオ映像で飛鳥の遺跡を紹介する映写ロビーやポスターギャラリー、キトラ古墳壁画を紹介するコーナーや特別展のときに用いる第三展示室(特別展示室)もおかれている。

しかし、生憎一階は全面改装工事か何かで見学することはできなかった。
水落遺跡の再現建屋が見られると聞いてきたが、残念でした。

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正面から入れず、側面から入って地下に降りると、明日香の写真展をやっていた。
明日香の四季が撮られた、しかも入選作品のみだがかなりの量で、明日香のことがよくわかるすばらしいものばかりだった。

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その横には、飛鳥寺の塔芯のところから出土した、珍しい皮製の甲(かぶと)の桂甲(けいこう)が展示してあった。

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その横には「キトラ古墳」の石室の内部写真が展示してあった。
かなり鮮明に写っているところを見ると、発掘初期に写したようだ。

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アンタッチャブルな遺跡として手付かずだった、蘇我倉山田石川麻呂の菩提寺である山田寺の発掘が進められ、その遺構の一部が再現され展示されていた。
(蘇我倉山田石川麻呂とは)
“乙巳(いっし)の変”の際、中大兄皇子、中臣鎌足と共謀して入鹿の誅殺をはかった人物である。
蘇我入鹿暗殺後、脱出した古人大兄皇子が述べた「韓人(からひと)、鞍作(入鹿)を殺しつ」(「韓人殺鞍作臣」)の韓人は、先祖にその名を持つ、蘇我倉山田石川麻呂を指すという説もある。
その後、改新政府において右大臣に任命されるが、異母弟の日向に石川麻呂が謀反を起こそうとしていると密告され、孝徳天皇により兵が派遣されたため、長男の興志ら妻子と共に全く抵抗せず、山田寺で自害した。
なお、この事件は中大兄皇子と中臣鎌足の陰謀であったとされている。

その後、たたりを恐れて埋もれたままになっていたが、1980年頃から発掘が始まった。
過去殆どの遺跡建材は他で利用されたりして残っていないのが普通であるが、史実どおりこの山田廃寺(東回廊他)は、倒壊したままの姿で発掘された非常に珍しい例である。

説明板にそのことが書かれている。のでお読みいただきたい。

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その山田廃寺の東回廊が再現されている。

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その時の発掘の様子を見ることができる。

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山田寺講堂にあった如来像の仏頭。
この如来像は興福寺に移されていたが、やはり運命か火災に合い仏頭だけがのこされた。
非常に上品なお顔である。

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このように、遺跡が発掘されるにつれ、史実の正しさが証明されてきている。
また、歴史的なノンフィクションの物語が現れてくることにより、当時の人々の心情もうかがい知ることができる。







この項 <完>

by mo-taku3 | 2012-08-23 13:19 | (歴史)関西史 | Comments(2)

【藤原宮】 平城京の前の都

【藤原宮】 平城京の前の都



藤原京は、中国の都城制を模して造られた日本初の本格的な都である。
持統天皇が飛鳥から藤原の地に都を遷したのは694年のこと。新たな都の造営は、亡き夫・天武天皇を意志を受け継いだ中央集権国家の確立には欠かせない一代事業だったと思う。
その大きさは、東西方向約5.3km、南北方向4.8kmで、平城京、平安京をしのぐ古代最大の都であった。
藤原京時代に大宝律令が制定され、貨幣も発行された。
また、初めて「日本」という国号を使用したのも藤原京を発した遣唐使だった。

藤原京は、東西南北に張り巡らされた道路によって街並みが碁盤目状に区切られ、その中に多くの寺院や役所のほか、市場や役人、庶民の住宅や寺院などが計画的に配置されていた。
人口は約3万人と推定されている。
藤原宮では初めて屋根に瓦を葺いている。

藤原京の大きさを現在の地図で見ると、大和三山がすっぽりと入っており、さぞ、美しい情景だったに違いない。藤原宮跡から見る朝陽・夕陽は、平成23年6月には、藤原宮跡からの大和三山の稜線の眺めが、「重要眺望景観」に指定されている。

大極殿は藤原京の中心となる建物で,それを囲む、東西115m,南北155mの範囲を大極殿院という。
大極殿院の南の中央に朝堂院につながる門があった。この門は「大極殿院閤門(だいごくでんいんこうもん)」と呼ばれている。
奥に見える無数の柱はこの門の発掘遺跡を示すもの。

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上で述べたが、藤原宮跡の詳しい説明の駒札がある。

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また駒札の横に藤原宮跡も見取り図が併示されている。
平城京よりも規模が大きい。

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藤原宮の中心地点に、「持統天皇文武天皇藤原宮跡」の石碑があった。文字も削れて見え難い状態でかなり以前に立てられたものに見える。

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現在、藤原宮跡では、季節ごとに美しい花が植えられ、菜の花やコスモス、キバナコスモス、ハスなど色とりどりの大地のカーペットを楽しむことができる。
これもコスモスジュータンのポスターである。

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藤原宮跡は、藤原京の中心施設である藤原宮のあったところである。
藤原宮は一辺約1kmの中に、大極殿や朝堂院といった国をあげての儀式や政治を行う施設や天皇の住まいである内裏などがあり、現在の皇居と国会議事堂、霞ヶ関の官庁街を合わせた性格を持っていた。
藤原京は16年間の短い都だったが、藤原宮の構造はその後の都にも引き継がれている。
朱雀大路(すざくおおじ)は、藤原京を東西に分ける幅24mの道路です。
現在、朱雀大路は藤原宮の南から日高山までの範囲が復元され、当時の道幅を知ることができる。







この項 <完>

by mo-taku3 | 2012-08-23 13:09 | (歴史)関西史 | Comments(2)

奈良明日香村【水落遺跡】

奈良明日香村【水落遺跡】



飛鳥水落遺跡(あすかみずおちいせき)は、奈良県明日香村にある古代の漏刻跡(水時計)とされる遺跡。
国の史跡に指定されている。

1972年に民家建設のための事前調査の際に遺跡が確認され、1981年以後本格的な調査が実施された。
その結果、この場所が『日本書紀』に登場する天智天皇10年4月25日(辛卯:671年6月7日)条に記された漏刻とその付属施設であることが確認された。
また、この地は位置的に若い頃の天智天皇(中大兄皇子)が打毬の際に中臣鎌足と出会ったとされる「飛鳥寺西の槻樹」の一郭であったとする説?もある。

説明資料によると、
発掘された遺構は楼状建物跡とそれに付随する水利用の施設、4棟以上はあったと推測される掘立柱建物跡及び掘立柱塀跡などからなる。
楼状建物は土を盛り上げ貼石をした基壇上に建つ4間(約11m)四方の正方形平面で、中央部を除いて合計24本の柱を立てる総柱様建物である。
礎石は基壇の地中1m下に据えられ、そこに空けられた径40cmの円形刳り込みに柱をはめ、更に各礎石間に石製の地中梁を巡らし、基壇土で周りを固めている。
一方、建物中央部の基壇下1mには花崗岩切石を台石にして1.65m・0.85mの黒漆塗の木箱が置かれていた痕跡があり、基壇内には木樋や桝、木樋から上方に取り付けられたラッパ状のごく細い銅管などが設置されていたとされる。
基壇の下には東から建物中央部に向かって木樋暗渠があったことが知られ、木箱の西側にも流入した水を流すための別の銅管の設置も確認されている。
こうした発掘成果により、木樋から導入された水をラッパ状の銅管を使って上方高く吸い上げ、最終的に黒漆塗の木箱に流し込む構造であったと推定されている。

この施設の再現なされたものが、飛鳥資料館に設置されている。と聞いたので、出かけてみたが、丁度そのフロアが工事中だったため、見ることはできなかった。また出直したい。

指示標があったので、その方向に行ってみると、

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説明板と遺跡が広がっていた。

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(石神遺跡)
石神遺跡は明治時代に須弥山(しゅみせん)石や石人像(明日香資料館で展示)が発見されたところである。
また、この遺跡だけから、内側が黒い蝦夷(東北地方)独特の特色を持つ土器や新羅からの長頸壺、中国からの緑釉椀などが出土することから、斉明朝の迎賓館的な施設があったところとされていた。
しかし、新たな発見によって、より重要な施設が存在していたことも推測されている。

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奈良文化財研究所飛鳥藤原宮跡発掘調査部の説明によると、

石神遺跡の調査によって、古代の地方行政区分を示す木簡や帳簿木簡、荷札木簡などこれまで多くの木簡が発見、古代の定木も発見されている。
石神遺跡はこれまでの調査によって、斉明朝の遺構,天武朝の遺構、藤原京時代の遺構と3期の遺構が混在していることがわかっている。
これまで公開された遺構は、藤原京時代に天武朝に造られた池状の遺構を埋めて造られた石敷き、石敷き井戸、溝、建物跡などである。

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溝からは土器や木簡などが多量に出土し、15・16次の現地説明会会場でその一部が公開されていた。
500点以上(削りくずを含む)の木簡で、特に目を引くのは、「大学官」のようになどの古代の官吏(官司)を示すものや、「物部五十戸人」(物部は尾張国の地名,五十戸は後の里)「乙丑年十二月三野国ム下評」(乙丑年=天智4年、665年庚午年籍が出されたのは670年、三野国ム下=美濃の国武芸郡、評=こおりと読むが701年大宝令以降になると、「郡」と表記される)などの行政区分を示す文字が書かれたものなど、殆どが荷札的なものであったようだが、これらの発見によって、701年以降は「国-郡-里」となる区分が、庚午年籍が出る以前において、「国-評-五十戸(里)」と表記されていたことがわかる。
「五十戸」が「里」に変わるのは682年前後であろうと言われている。

などの貴重な発見であった。






この項 <完>

by mo-taku3 | 2012-08-23 12:55 | (歴史)関西史 | Comments(2)

【神武天皇御陵】

【神武天皇御陵】



神武天皇御陵の前に、神武天皇について少し説明したい。

神武天皇(じんむてんのう)は、日本神話に登場する、日本の初代天皇である(古事記、日本書紀による)。

『古事記』では神倭伊波礼琵古命(かむやまといわれひこのみこと)と称され、『日本書紀』では神日本磐余彦尊(かむやまといわれひこのみこと)、始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)、若御毛沼命(わかみけぬのみこと)、狹野尊(さののみこと)、彦火火出見(ひこほほでみ)と称される。
神武天皇という呼称は、奈良時代後期の文人である淡海三船が歴代天皇の漢風諡号を一括撰進したときに付されたものである。
天皇が即位した年月日は、西暦紀元前660年2月11日と比定される。
これにより、2月11日は日本が建国された日として、明治6年(1873年)に祭日(紀元節)と定められた。
紀元節は昭和23年(1948年)に廃止されたものの、昭和42年(1967年)には建国記念の日として、祝日とされた。

さて御陵であるが、橿原神宮の北隣にある。大和三山のひとつ畝傍山の北東麓、玉砂利の参道を進み石橋を渡ると素木の大鳥居が立つ御陵に出る。周囲100m、高さ5.5mの八稜円形の御陵。
古事記には「御陵は畝火山の北の方の白檮の尾の上にあり」とあるが、ここを神武天皇の御陵と定めたのは幕末の文久3年(1863)のこと。
付近には綏靖、安寧、懿徳、孝元の各天皇陵が散在している。
ここを神武天皇御陵としたのは、後世になってからであり、元々古墳ではないようだ。
神武天皇陵に比定される前は田んぼのあぜ道に盛り上げられた土饅頭程度だったようだ。それを、幕末から明治の大修築を経て、さらに、大正年間に立派な円墳に造りかえられたという。

橿原神宮の北隣に位置する御陵の入口に、見慣れた宮内庁の説明板と石碑が建っている。「

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しばらく砂利が敷き詰められた歩きにくい参道を進むと、御陵と入口が見えてくる。
どこから見ても立派な御陵のようだ。

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御陵にしては珍しく、一枚岩をくり貫いた手水処がある。
熱さにはこれがうれしい。

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正面に鳥居があり、奥にこんもりとした林が見える。
左右を見ると緑に包まれた庭園や林が見える。

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『延喜式』によると、神武天皇陵は、平安の初め頃には、東西1町、南2町で大体100m×100mの広さであった。

神武天皇は、『古事記』に、「137歳で亡くなり、「御陵在畝火山之北方白檮尾上也」御陵は、畝傍山の北の方の白檮(かし)の尾の上にあり」と記されており、『日本書紀』には127歳で亡くなり「葬畝傍山東北陵」畝傍山の東北陵に葬ると記されている。
また、壬申の乱の際に大海人皇子が神武陵に使者を送って挙兵を報告したという記事がある。

天皇が即位した年月日は、西暦紀元前660年2月11日と比定される。これにより、2月11日は日本が建国された日として、明治6年(1873年)に祭日(紀元節)と定められた。紀元節は昭和23年(1948年)に廃止されたものの、昭和42年(1967年)には建国記念の日として、祝日とされた。







この項 <完>

by mo-taku3 | 2012-08-23 11:46 | (歴史)京都史 | Comments(2)

奈良【久米寺】

奈良【久米寺】



久米寺(霊禅山東塔院久米寺)は、奈良県橿原市久米町にある真言宗御室派の寺院。本尊は薬師如来。
大和三山の1つ、畝傍山の南方に位置し、橿原神宮からも近い。
開基は聖徳太子の弟・来目皇子(くめのおうじ)とも久米仙人とも伝わるが、詳細は不明である。空海(弘法大師)が真言宗を開く端緒を得た寺として知られる。
面白いのは、娘のふくらはぎに見とれて空から落ちたという久米仙人の伝説が残る。
仏塔古寺十八尊第9番とされる。
大和七福八宝めぐり(信貴山朝護孫子寺、久米寺、子嶋寺、おふさ観音、談山神社、當麻寺中之坊、安倍文殊院、大神神社)のひとつ。

『扶桑略記』『七大寺巡礼私記』などは当寺を久米仙人と結び付けている。久米仙人の伝説(後述)がフィクションであることは言うまでもないが、創建の正確な事情は不明だが、ヤマト政権で軍事部門を担当していた部民の久米部の氏寺として創建されたとする説が有力である。

さて、このお寺はわかりにくい事はなはだしい。
奈良は細い道が多く、京都の細い道に慣れている私でも尋常ではたどり着かなかった。(車での話である)

お寺に着くとこじんまりとした山門があった。
久米寺の寺柱には、「真言宗御室派仁和寺別院」とあった。
仁和寺桜の有名な京都仁和寺の別院がこんなところにあった。

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境内に入ると、久米寺の多宝塔の謂れが書かれてあった。
仁和寺から賜り、移築したとある。

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立派な本堂があった。
お寺や神社に行くときは、必ず「朱印帳」を持参するが、ここでも薬師如来のご朱印をいただいた。

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境内には古い塔の礎石があり、境内から出土する瓦の様式から見ても、創建は奈良時代前期にさかのぼると云われている。

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多宝塔(重要文化財)-万治2年(1659年)京都・仁和寺より移築されたもので、桃山様式を残す。

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本堂の向かいには、珍しい薬師如来石が置いてあった。

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よくわからないが、「就業大師」の石造。

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また、庭園の一角には、虫供養の立派な「虫塚」があった。

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(久米仙人の伝説)
久米仙人による開基伝承は『扶桑略記』『七大寺巡礼私記』などのほか、『今昔物語集』巻十二本朝仏法部にも収録され、『徒然草』にも言及されている著名な話である。
それによると、吉野・龍門寺の久米仙人は仙術で空を飛べるようになったが、ある日空を飛んでいる時、川で洗濯をしている女のふくらはぎに見とれて法力を失い、地上に落ちてしまった。久米仙人はその女とめでたく結婚。その後は普通の俗人として暮らしていた。その後、時の天皇が遷都を行うことになり、俗人に戻った久米仙人は遷都のための工事に携わる労働者として雇われ、材木を運んだりしていた。ある日仕事仲間から「お前も仙人なら、仙術を使って材木など一気に運んでしまったらどうだ」とからかわれた。一念発起した久米仙人は7日7晩祈り続けた後、仙力を回復。久米仙人の仙術で、山にあった材木が次々と空へ飛び上がり、新都へと飛んで行った。これを喜んだ天皇は久米仙人に田30町を与え、これによって建てたのが久米寺である、という話である。

という謂れが残っている。








この項 <完>

by mo-taku3 | 2012-08-23 11:31 | (寺社)関西の神社仏閣 | Comments(2)