新薬師寺(しんやくしじ)は、奈良市高畑町にある東大寺と同じ華厳宗の寺院である。
本尊は薬師如来、開基(創立者)は光明皇后または聖武天皇と伝える。
創建理由は「聖武天皇」の病気平癒を祈願して「光明皇后」が造営したようだが、光明皇后の病気平癒を祈願した聖武天皇が造営されたという説もある。
奈良時代には南都十大寺の1つに数えられ、平安時代以降は規模が縮小しているが、国宝の本堂や奈良時代の十二神将像など多くの文化財を伝えている。
最盛期には4町(約440メートル)四方の寺地を有していたとある。
新薬師寺には香山薬師寺または香薬寺という別名があったことが知られている。
創建時の新薬師寺は金堂、東西両塔などの七堂伽藍が建ち並ぶ大寺院であったが、次第に衰退した。
『続日本紀』によれば宝亀11年(780年)の落雷で西塔が焼失し、いくつかの堂宇が延焼している。
また、『日本紀略』『東大寺要録』によれば、応和2年(962年)に台風で金堂以下の主要堂宇が倒壊し、以後、復興はしたものの、往時の規模に戻ることはできなかったようである。
現在の本堂は様式からみて奈良時代の建築だが、本来の金堂ではなく、他の堂を転用したものである。
現本尊の薬師如来像は様式・技法上、平安時代初期の制作とするのが一般的だが、本堂建立と同時期までさかのぼる可能性も指摘されている。
現存する本堂以外の主要建物は鎌倉時代のものである。
南門。
この門の基壇は乱石積で、その上に4本の柱が立つ四脚門である。
さすがに、鎌倉時代中期のどっしりした門である。(重要文化財)
南門の横に3台ほどの駐車スペースがあり、そこを使わせていただいた。
すぐ横が南門であるが、南門前は参道も無く、"えっ”とびっくりするような狭さである。普通、大きかったお寺は、参道にはそれなりの形・雰囲気が残っているはずだが、歴史が今のように変えてきたのだろう。

本堂は国宝に指定されている。
入母屋造、本瓦葺きで低平な印象の堂である。
平面規模は桁行7間、梁間5間で、5間×3間の身舎(もや)の周囲に1間の庇をめぐらした形式になる。正面は柱間7間。うち中央3間を戸口とし、その左右各2間には窓を設けず白壁を大きく見せた意匠となっている。
側面、背面も中央間に戸口を設けるのみで窓は設けていない。
内部は土間で、天井を張らず、垂木などの構造材をそのまま見せる「化粧屋根裏」となっている。
堂内中央には円形漆喰塗りの仏壇を築き、中央に本尊薬師如来像を安置してある。
これを囲んで十二神将像が外向きに立っている。
この建物は創建当初の金堂ではなく、他の建物を移築したものではあるが、遺構の少ない奈良時代の建造物として貴重である。
左手に地蔵堂が見える。
何故か分からないが、この地蔵堂の手前に、東大寺実忠和尚(二月堂本尊を設けた)の石塔が置かれていた。どのような謂れがあるか知りたいところだ。

境内。
五重の石塔も見える。

十二神将と本尊のあるほんどうの内部。
木造薬師如来坐像はこの寺の本尊である。資料によると、
『像高は191.5センチメートルで、制作年代は記録がなく不明であるが、新薬師寺の創建期まではさかのぼらず、平安時代初期・8世紀末頃の作と見るのが一般的である。
坐像では高さ2メートル近い大作だが、頭・体の主要部分はカヤの一木から木取りし、これに脚部、両腕の一部などを矧ぎ付ける。矧ぎ付け材も同じ材木から木取りされ、木目を縦方向に合わせるように造られていることが指摘されている。
眉、瞳、髭などに墨、唇に朱を差すほかは彩色や金箔を施さない素木仕上げとする。一般の仏像に比べ眼が大きいのが特徴で、「聖武天皇が光明皇后の眼病平癒を祈願して新薬師寺を創建した」との伝承も、この像の眼の大きさと関連づけられている。
昭和50年(1975年)の調査の際、像内から平安時代初期と見られる法華経8巻が発見され、国宝の「附(つけたり)」として指定されている。
光背には6体の化仏が配されていて像本体と合わせると7体となり、『七仏薬師経』に説く七仏薬師を表現しているとみられる。また、光背の装飾にはシルクロード由来のアカンサスという植物の葉と考えられている装飾がある。 』
としている。
塑造十二神将立像
十二神将は薬師如来の眷属である。円形の仏壇上、中央の本尊薬師如来像を囲んで立つ。木造の本尊とは異なり、奈良時代に盛んに造られた塑像である。これらの像は高円山麓にあった岩淵寺から移されたとする伝承もあるが、造立の事情は明らかでない。作風や、12躯のうち1躯の台座裏桟から「天平」云々の墨書が見出されたことなどから、天平期の作と見なされている。

境内にある本堂の前を左に折れると、奥に香薬師堂が見えている。
飛鳥時代作旧国宝香薬師如来のレプリカを安置しているとのこと。
残念なことに、白鳳時代の代表作として名高い実物は三度の盗難に遭い現在も行方知れずであるという。

境内にある鐘楼堂は、鎌倉時代の建立で、珍しい袴腰が設えられ、梵鐘は天平時代の貴重な重要文化財。日本霊異記に出てくる鬼退治で有名な釣鐘。
この梵鐘は、元興寺から移されたものとの文献も見られる。

すぐ横に由緒正しい貴重な鏡神社もあり、これも影響して影が薄くなっているようにも思える。
この神社は、遣唐使派遣の祈祷所だった場所に、平城天皇の時代(806年)に新薬師寺の鎮守として奉祀したのが始まりと云われている。
本殿は延享3年(1746)に、春日大社第三殿を移築したものである。
記録もしっかり残っており、貴重な史跡となっている。

駒札を読んでいただきたい。

事前にこのお寺に関する資料を読んでいったことで、意外と規模も小さく、駒札などなく説明資料が不十分だったことは残念だった。往時は、南都十大寺といわれたようだが、かなり縮小されその面影は完全に失われているように思えた。
この項 <完>
▲ by mo-taku3 | 2012-08-29 23:59 | (寺社)関西の神社仏閣 | Comments(2)










































































































