悲劇の崇徳上皇と【白峰神宮】とは。

悲劇の崇徳上皇と【白峰神宮】とは。



白峯神宮を語る前に、NHK大河ドラマ『平清盛』を見た方はお分かりと思うが、

『崇徳上皇』は保元の乱に敗れて讃岐に流されて、その地で歿している。
崇徳上皇が亡くなってから、天変地異が相次いだことから上皇の祟りとされ、瀬戸内の景勝地・五色台の白峰の山腹に上皇が葬られた白峯陵(香川県坂出市)があり、とその前に上皇を白峯大権現として祀る御影堂が建立されている。

その後、都で異変が続きこれが上皇の祟りとされたため、歴代天皇をはじめ公卿・武将が慰霊の誠を尽くし、多くの寄進の結果、最盛期は21坊を数えるほど興隆したとある。
その後、火災や兵火に遭うこともたびたびであったが、領主の生駒氏・松平氏によって再建されている。

明治2年(1869)明治天皇の勅命により、崇徳上皇の御霊は京都の白峯神宮に遷された。
幕末の動乱期、孝明天皇は異郷に祀られている崇徳上皇の霊を慰めるため、その神霊を京都に移すよう幕府に命じたが、その後間もなく崩御した。子の明治天皇がその意を継ぎ、現在地に社殿を造営し、慶応4年(1868年)、御影堂の神像を移して神体とし白峯宮を創建している。

更に、明治6年(1873年)には、藤原仲麻呂の乱に巻き込まれて淡路に配流され、そこで亡くなった淳仁天皇(淡路廃帝)の神霊を淡路から迎えて合祀し、官幣中社とした。昭和15年(1940年)に官幣大社に昇格し、神宮号の宣下を受けて白峯神宮となっている。

白峯神宮の創建は以上のような経緯となっている。

白峯神宮は堀川今出川にあり、過去は分からないが。現在のつくりは外から見るとこじんまりとしたつくりになっている。

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表門には駒札があり、「御由緒」が書かれてある。

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表門を入って右手には、この神宮の主役である崇徳上皇の碑があった。

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左手に社務所があり、ここでご朱印がいただける。

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白峯神宮の社地は、元は蹴鞠の宗家であった、お公家さんの飛鳥井家の屋敷の跡地である。
神宮ができた後、明治36年の蹴鞠保存会ができその石碑があった。

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この石碑には、撫で鞠がついており、これを一回しするとご利益があるとのこと。

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本堂が正面にあり、ここにお参りするとスポーツの必勝祈願になる。

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摂社の地主社に祀られる精大明神は蹴鞠の守護神であり、現在ではサッカーのほか、球技全般およびスポーツの守護神とされ、サッカーをはじめとするスポーツ関係者の参詣も多く、社殿前にはサッカーやバレーボールの日本代表チームや、Jリーグに所属する選手などから奉納されたボールなどが見られる。

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スポーツ上達の神様である精大明神には「地主社」が祀られているが、残念ながらお参りは、この摂社ではなく、本堂におまいりする人が殆どである。
本来、崇徳上皇の怨霊を鎮める目的の神社だが、今はスポーツの神様となっているようだ。
考え方を変えると、スポーツで明るさを取り戻したことで、崇徳上皇も大満足しているような気がする。

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また、武道の神様「伴緒社(とものうしゃ)」は、保元の乱で崇徳上皇とともに敗れた、源氏の棟梁であった、源為義とその子為朝が祀られている。

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(崇徳上皇とは)
崇徳天皇は幼くして、天皇になったがために、実権は常に父・鳥羽上皇が握り院政が敷かれており、しかも24歳の若さで天皇を退位させられてしまう。
その後も鳥羽法皇や後白河天皇に政治の主導権を握り続けられていた崇徳上皇は、この状況を打開すべく鳥羽法皇崩御を契機に左大臣・藤原頼長卿をはじめ平忠正や源為義といった武士を味方に付けて実権を握るべく、挙兵する(保元の乱)が、後白河天皇側に付いた平清盛や源義朝たちに敗れ、讃岐国への流罪に処しられてしまう。
讃岐国での崇徳上皇は仏教を厚く信仰し、極楽往生を願って五部大乗経の写経に専念し、出来上がったその写本を朝廷に奉納するが、「呪詛が込められているのではないか」との疑いを持った後白河法皇に受け取りを拒否されてしまう。
これに激しく怒った崇徳上皇は、自らの血で写経に呪詛の言葉を書き込み、夜叉のような姿となって1164(長寛2)年に無念の最期を遂げている。
その結果、都での異変が祟りと思われ、讃岐の白峯寺の建立や、孝明天皇の心情として、「異郷に祀られている崇徳上皇の霊を慰めるため」、崇徳上皇の御霊を京都の白峯神宮に遷された。となったのである。

歴史的に見て、怨霊が祟りとなったと見るケースが非常に多いが、その代表的なのは菅原道真の怨霊であろう。





この項 <完>

by mo-taku3 | 2012-09-30 14:27 | (寺社)京都の神社仏閣 | Comments(4)

【飛鳥埋蔵文化財展示室】の貴重な資料

【飛鳥埋蔵文化財展示室】の貴重な資料



ここは奈良県明日香村が発掘した埋蔵文化財の展示室である。旧飛鳥小学校の学舎を利用しており、明日香村文化財課が併設されている。これまでの明日香村で発掘された遺跡物の数々が展示、紹介している。

色々なものを展示しようという気持ちからか、所狭しと遺跡物が展示されている。
中に入るのに、無料というのはうれしい。後で気がついたのであるが、これだけの展示物を無料で、しかもボランティアの方が詳しく説明してくれるので、感謝である。
私が出会ったボランティアの方は、結構なお年の女性の方でしたが、ただ説明するのではなく、質問してもかなり的確な返事をいただけたのは、歴史好きの私としては、うれしく、楽しいことである。


【飛鳥埋蔵文化財展示室】の入口。
ここは誰でも自由に見学することができる。
空いていると係りの人が説明してくれる。

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小墾田宮(おはりだのみや)の遺跡物が中心に展示されている。
ここは、古代日本の、日本書紀・古事記に記載されている、推古朝の宮殿の跡と云われている。
「小治田宮」とも書く。日本書紀によると 603年(推古11年)、豊浦宮で即位した推古女帝は、新宮として小墾田宮を造営しここに居を移したという。
その後帝崩御までの間に、蘇我氏、聖徳太子らを中心として、冠位十二階の制定、十七条憲法の制定、遣隋使派遣などの重要施策がこの宮で行われたている。(日本書紀の記述内容の信憑性は別として)

この宮の構造は、南に「南門」を構えその北には「庁」が並ぶ「朝庭」が広がり、そのさらに北の大門を入ると帝の住む「大殿」が営まれていたことが推定される。これは後代の宮城において、朝堂院と大極殿および内裏に発展するものの原型では無いかと云われている。

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龍福寺層塔遺跡。
竹野王石塔ともいう。(明日香村指定文化財)
日本最古の墓標と言われており、高さは1.8m。もとは五層だったと考えられている。
初層軸部の四面に文字が刻まれている。
「天平勝宝三年(751)歳次辛卯四月二十四日丙子、従二位竹野王」

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飛鳥東方遺跡の「井戸枠」。
最近では雷丘東方遺跡が小墾田の宮の跡地である可能性が高いとする説が有力になっている。

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井戸枠の遺跡。
遺跡の井戸枠を、年輪年代測定法で調べたところ、758年ごろに伐採された「ヒノキ材」であることが分かった。

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阿部山遺跡群。
明日香村阿部山の阿部山遺跡群で、6世紀中ごろ~後半の古墳2基が見つかり、石室跡から炊飯具をかたどった副葬品「ミニチュア土器」が出土したと、明日香村教委が発表している。
ミニチュア土器は渡来人の古墳で出土例があることから、この一帯に渡来人の墓域があったとみられている。

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雷内畑遺跡。
雷丘と推定されている城山とその南の上山の間でみつかった遺跡である。
7世紀中頃の小さな池の護岸の一部が見つかっており、その後、石積と石敷広場に作り替えている。
すぐ東方では小治田宮の墨書土器も出土しており、おそらく雷丘東方遺跡と一体となって、皇極天皇の小墾田宮にかかわる苑池の一画と考えられている。

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牽牛子(けんごし)塚古墳。
明日香村大字越に所在する古墳である。
1923年(大正12年)3月7日、国の史跡に指定されている。
指定時には「あさがおつかこふん」の読みが付されており、「牽牛子」はアサガオの別称である。
2009年(平成21年)から2010年(平成22年)にかけての発掘調査によって、八角墳(八角形墳)であることが判明し、飛鳥時代の女帝で、斉明天皇の陵墓である可能性が高い。
以前より、巨石をくりぬいて2つの墓室を設けた特異な内部構造で知られており、斉明天皇(皇極天皇)と娘の間人皇女(孝徳天皇の皇后)の合葬墓とする説があった。
墳丘一段目は一辺12.2メートル、対角線約33メートル、墳丘二段目は一辺約7メートル、対角線約18.5メートル、高さ4メートルである。
内部施設は、横口式石槨であり、2009年段階ではすでに一部露出していた。
横口式石槨は、約80トンの重量をもつ1個の巨大な凝灰角礫岩をくりぬいて、約70トンの埋葬施設をつくったもので、巨石は約15キロメートル離れた二上山西麓より運搬したものと考えられる。
石槨の幅は5メートル、奥行き3.5メートル、高さ2.5メートルの規模を有し、石槨内は中央部に幅44.7センチメートル、長さ152.5センチメートルの仕切り壁によって東西2つの空間に仕切られた合葬墳であることが判明した。

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飛鳥西方遺跡。
7世紀前半の遺構は土管暗渠と柱穴(掘立柱塀)があり、7世紀初頭に作られたと考えられる。
暗渠は幅160cm、深さ1mの溝を掘り、そこに直径20cmの瓦製土管を埋設している。
過去の調査から南北に160m以上繋がっていることがわかり、また、掘立柱塀も飛鳥寺西面大垣に並行して南北に110m以上が確認されている。

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島庄遺跡
島庄遺跡は、嶋宮推定地一帯に広がる縄文時代以降の複合遺跡である。発掘調査は、
昭和47年(1972)以降県立橿原考古学研究所(橿考研)によって20数次にわたって行われてきた。
飛鳥時代の遺構としては、昭和47~49年の調査で幅10mの堤を持つ一辺約40mの方形の池が発掘された。西北の護岸の石組は豪壮なもので、池底には、径20cmほどの川原石をびっしりと敷きつめていた。7世紀の初め頃に作られた池であり、その規模や築造時期からみて、大臣馬子の邸宅内にあった池と判断された。

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真弓鑵子(まゆみかんす)塚古墳。
奈良県明日香村にある真弓鑵子(まゆみかんす)塚古墳(6世紀中ごろ)の横穴式石室が、蘇我馬子の墓とされる石舞台古墳(同村、7世紀初め)をしのぐ国内最大級の規模であることがわかった。
同村教委が7日、発表した。石室は1~3トンの約400個の石をドーム状に組み上げ、遺体を安置する中心部の玄室とは別に奥室を持つ国内では例のない構造だった。

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カヅマヤマ古墳
力ヅマヤマ古墳は「真弓崗」と呼ばれる一角に所在ずる終末期古墳である。
周辺にはマルコ山古墳や牽牛子塚古墳、束明神古墳等が点在している。
力ヅマヤマ古墳については大正時代に刊行された『高市郡古墳誌』に「力ヅマ塚」として紹介されています。現在は墳丘の東側に大きな盗掘坑が存在しているのがわかっておりおり、周囲には結晶片岩の破片が多数散乱している。これらの結晶片岩の中には板状を呈したものや、漆喰が付着したものが存在することから埋葬施設は磚積石室である可能性が指摘されていた。
磚積石室についてはこれまで明日香村内では確認されておらず明日香村教育委員会ではその重要性を鑑み、力ヅマヤマ古墳の全貌解明に向けて平成17年1月から範囲確認調査を実施しています。調査面積は約150m2です。

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マルコ山古墳
案内板によると、昭和52/53年および平成2年にマルコ山古墳の発掘調査が行われている。
その結果、古墳は岩盤まで水平に削りとった上に直接版築で築いた直径約15m、見かけの高さ約5.3mの二段築成の円墳であることが判明した。
墳丘の北側は、二重の石敷きを半円形に巡らしてあり、その下には礫をつめた暗渠があった。
現在の姿は、盛土及び石敷き遺構によって当時の墳丘を復元したものである。

暮室は凝灰岩石を組み合わせた石槨で作られている。
室内の寸法は、長さ271.9cm、幅128.5cm、高さ143.3cm。床を含め内壁の全面に漆喰が塗られていた。出土遺物には漆塗木館(乾漆棺)の破片・釘・金銅製六花形飾金具・大刀金具・尾錠などがあった。

平成16年12月5日、マルコ山古墳は1辺約12メートルの六角形古墳だったと発表した。
六角形墳は兵庫県安富町の塩野六角古墳(7世紀中ごろ)と、岡山市の奥池3号墳(同)で見つかっているが、いずれも1辺約4メートルと小規模で、当時の畿内の政権とは直接かかわりはないといわれている。

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キトラ古墳の石室内模型が展示されていた。
実物の写真を見るよりも分かりや易く、説明も分かりやすかった。

さてキトラ古墳は、二段築成作りの円墳である。墳丘は小高い阿部山の南斜面に位置している。名称の「キトラ」は、「北浦」の転訛といわれる。
1983年11月7日、石室内の彩色壁画に玄武が発見され、注目を集めた。
2000年7月31日、国の史跡に指定され、同年11月24日には特別史跡に指定された。
円墳であり、四神を描いた壁画があるなどの類似点から、高松塚古墳の「兄弟」といわれることがある。
ということを、模型を使って丁寧にご説明いただいた。

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明日香村(あすかむら)とは、奈良県の中央部に位置する村。中央集権律令国家の誕生の地である事から飛鳥時代の宮殿や史跡が多く発掘されている事で知られ、「日本の心の故郷」とも紹介される。日本で唯一全域が古都保存法対象地域の自治体である。

(名所・旧跡)
・亀石高松塚古墳
・高松塚壁画館
・飛鳥寺
・石舞台古墳
・キトラ古墳
・鬼の爼・鬼の雪隠
・橘寺
・岡寺(龍蓋寺、西国三十三箇所7番札所)
・飛鳥坐神社
・見瀬丸山古墳
・伝飛鳥板蓋宮跡
・欽明天皇陵
・酒船石
・亀石
・奈良県立万葉文化館
・猿石
・甘樫丘
・国営飛鳥歴史公園

などがある。









その項 <完>

by mo-taku3 | 2012-09-27 00:52 | (歴史)関西史 | Comments(2)

【旧友との20年振りの再開】 in Kyoto

【旧友との20年振りの再開】 in Kyoto



Facebook で思いがけない・懐かしい人との交流をすることができた。
数ヶ月前関西に出張の際に、是非会おうということになり、今回やっと京都で会うことが実現したわけである。
待ち合わせ場所は、この北口の改札口ということで、駅ビルの真下になる。

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改札口から上を見上げると凄い構造の天井である。初めてこのように見上げ多様な気がする。

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少し時間があったので、駅前にある京都タワーを眺めていたが、ネオンをふくめてなかなか捨てたもんではない。京都の出入り口はなかなかよくできており、素晴らしいと云っていいと思う。

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お会いしたのは、大手外資系のIT産業時代同僚だった H氏である。
会って感じたのは頭の方だけが変化したと感じただけで、殆ど昔と一緒だった。

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小料理屋さんで話は盛り上がり、3時間弱過ごしたが、大阪のホテルなので再会を約束してお別れした。

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不思議なもんで、20年の時代のギャップは全くなかった。
でも本当に楽しかった。

8月には、O氏と20数年ぶりに会えて楽しいひと時を作れたし、これからもこのような機会をどんどん作っていきたいと思っている。(H氏の掲載は本人の許可をいただいております。)





この項 <完>

by mo-taku3 | 2012-09-24 23:17 | (仕事・学生)過去・現在 | Comments(2)

牛若丸の首途(かどで)の地

牛若丸の首途(かどで)の地【首途(かどで)八幡宮】





京都の智恵光院通りを散策していたら、首途(かどで)八幡宮の鳥居が目にとまった。
実は、その鳥居の所に、「源義経(牛若丸) 奥州へ旅立ちの地」の看板が掲げてあったので注目がいったのであって、普段は通り過ぎるほどの小さな神社である。

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「駒札」には由緒が書かれているのでお読みいただきたい。
ここは八幡宮なので、総本宮の宇佐八幡宮と同じ祭神となっている。

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しばらく進むと、おおきな「源義経 奥州旅立ちの地」の石碑があった。

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その横には説明文が。
この辺りは、金売り吉次の屋敷跡だったらしく、それでこの神社が、ということらしい。
しかし、以前は「内野八幡宮」と呼ばれ、当時の位置的に「王城鎮護の神社」と云われていたとのこと。

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手水舎の彫刻は通常龍が多いが、ここはハトだった。 何故だろう。(後で納得)

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社殿があったがここに登るには、小さいながら登るルートが3本あった。
それぞれのルートにはそれぞれの意味があるのだろう。沢山の石柱が建っていた。

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手水舎の彫刻が珍しいハトだったが、社紋がハトのようだ。
このように、門扉に彫刻が施してある。
非常に珍しいことである。

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牛若丸(義経)は金色堂を見て、何を思ったのだろう。
再建はされているが、金色堂は今でも健在であり、世界遺産に最近登録されている。

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この神社は、手入れが行き届いていて、気持ちの良い神社であった。





この項 <完>

by mo-taku3 | 2012-09-22 17:02 | (歴史)京都史 | Comments(2)

【方広寺の鐘】と豊臣家の悲劇

【方広寺の鐘】と豊臣家の悲劇



大和大路通七条の角に、三十三間堂と京都博物館が向かい合って建っているのは、ご存知の方も多いだろう。
その博物館の裏手(北隣)に豊国神社があり、更にその隣に方広寺の鐘楼がある。
これが、あの太閤・豊臣秀吉が建立した伝教大師作・豊太閤護持の大黒尊天を祀る方広寺であり、豊臣家滅亡の起因となった「方広寺の鐘」のお寺である。

資料よると、天正14年(1586)に秀吉が奈良・東大寺にならって大仏建立を決定し、文禄4年(1595)頃には大仏殿が完成していたようである。 この大仏は、全高約19mあったという木製大仏である。

慶長元年(1596)伏見大地震のため大仏は倒壊。秀吉は「うぬは、京の町を守るを忘れ、まっ先に倒れるとは、慌て者が!」 と弓矢を打ちつけたという逸話が残っている。

ここではそれとは別に、悲劇の主人公である、方広寺の鐘について紹介したい。

まず、方広寺に入るにあたり、大和大路通り沿いに、秀吉時代からの大きな石垣(史跡)が、往時を彷彿とさせている。

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本堂は修理中であったが、豊太閤護持の「大黒尊天」の御堂があった。

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いつ見てもデカイ鐘楼(重文)。ここに日本一大きな釣鐘がある。

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(方広寺大仏殿跡の能書)
現在は、大仏殿及び大仏は無い。大仏殿跡は公園となっている。

鐘楼の中の一画に、今は方広寺の東奥に公園となっている『大仏殿』について書かれた、能書きが置いてあった。(残念ながら鐘楼の内部に入れなかったので一般の方には分かりにくいと思う。)

公園の大仏殿に関する説明板によると、大仏殿は西向きに建てられ、巨大な平面を持つ大仏殿だったようである(南北約90メートル、東西約55メートル)。

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大きさは高さ4.2m、外形2.8m、厚さ0.27m、重さは82.7トンである梵鐘。とにかくでかい。

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ここからが、方広寺を一躍有名にした、釣鐘に刻まれた文字。こんな小さな文字に難癖をつけたとは。
豊臣家を潰す口実がなかなか見つからなかったということではないか。
これに、本多正純が絡むのは分かるが、林羅山・金地院崇伝も一口乗っていたとは情けないことはなはだしい。

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探すだけでも大変な「君臣豊楽」、「国家安康」の文字。梵鐘にはこの文字を写真の如く白色で浮き立たせていた。

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今まで何度か訪れていたが、天井の壁画は目に留まらなかった。しかし、今回改めて落ち着いてみることにより、この天井画が平和な世界をかもし出しているように思え、悲劇の微塵さも考えられなかったの不思議である。

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見事な天井壁画で、暫く見とれていた。

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豊臣秀吉は奈良の東大寺にならって大仏建立をこころざし、天正14年(1586)造営を開始したのがはじまりである。文禄4年(1595)、ほぼ大仏殿が完成し高さ6丈(約19メートル)の木製金漆塗座像が安置されるが、翌慶長元年(1596)、近畿を襲った大地震のため大仏は大破してしまった。
そして慶長3年(1598)、大仏開眼供養を待たずに秀吉は死去し、その意志を継いで秀頼が大仏復興を命じ再建が開始され、慶長17年(1612)、ようやく銅造大仏が完成している。
この当時は、秀吉が残した豊臣家のご金蔵は家康のとっては脅威であり、これを消費するよう仕向けていた一環として、方広寺の再建もこのひとつであった。
大仏殿は、豊臣家滅亡後も破却されずに残ったが、寛政10年(1798)、落雷によって焼失してしまう。
天保年間に旧大仏の10分の1の木造半身像が寄進されたが、それも昭和48年に再び火災に遭って焼失してしまった。
現在、方広寺大仏殿を思い起こさせるのは、豊臣家滅亡のきっかけとなった梵鐘と、巨大な石垣があるだけである。






この項 <完>

by mo-taku3 | 2012-09-21 22:38 | (歴史)京都史 | Comments(0)

東山の街路樹【サルスベリ】全開。

東山の街路樹【サルスベリ】全開。



東山界隈を朝から散策していたら、サルスベリの街路樹がありました。
以前からこの近辺はたまに通りますが、このように全開できれいに咲いているのを見るのは初めてだったので、BLGに載せてみました。

朝8時頃なのに三十三間堂は観光客がちらほら。

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この入口を北に向いたところの、豊国神社の前の通りにこのサルスベリの街路樹が続いています。

それでは、講釈は別として、この花をご覧いただきます。

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如何でしたか、天気が良かったので、尚更いい色が出てきれいに見えました。

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街路樹は20本位のこじんまりしていました。





この項 <完>

by mo-taku3 | 2012-09-20 22:54 | Comments(4)

初秋の鴨川の朝

初秋の鴨川の朝



朝、7時前に家を出て東山方面に散策に出かけました。
松原通から5条通りに出て鴨川方面に向かいました。

これが「五条大橋」です。

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五条大橋から見た、鴨川の上流方面と、右手奥に比叡山が見えてます。

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川では、沢山の鳥(鴨?)が伸び伸びと。

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堰堤の所では、コサギが水の落ち際を闊歩していました。
何度も見る光景だが、ここでコサギは登ってくる小魚を捕まえています。

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朝の空気が澄み、天気も良かったのでいい色が出てきれいに見えました。

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鴨川はいつ見ても画になる風景です。
まだまだ暑い日が続き、鴨川名物の“床”も健在です。





この項 <完>

by mo-taku3 | 2012-09-20 22:12 | Comments(2)

大文字の送り火

大文字の送り火




運動のための散策時、天気もいいので突然思い立って大文字山に登ることにした。
世界文化遺産の銀閣寺山国有林と大文字山の送り火の標示板。
このように紹介されている。

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さて、この日は『くろ谷・金戒光明寺』・『真如堂』を見て、大文字山に登ろうと銀閣寺の門前まで来ると、大文字山の方向指示がでていた。
銀閣寺の門前のすぐ横を見ると、大文字山を管理しているお寺、「浄土院」があった。

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浄土院の駒札には、このお寺が、大文字寺とも呼ばれていることが載っていた。

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しばらく行くと、「大文字の送り火の根基」の説明板があった。
それによると、室町幕府の足利義尚公が亡くなって(長享3年(1489年)3月26日)の初盆から始められたとある。
しかし、その他平安初期・江戸初期・その他と複数の説があると言われているが、最も注目されるのは江戸初期だと言われる。また、地元では銀閣寺から発見された古文書により室町中期に始められたという説も根強い。

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今年の大文字の送り火は晴天でもあり、見事な送り火を描いていた。

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この送り火が焚かれる、昼間の大文字焼の山肌を下から見上げるとこのように見える。
この山肌の位置面は西より少し北に向いている。これは相国寺御霊所と関係あるようだ。

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砂利を敷いてある車道から、小さな橋を渡って大文字山への登山道に入る方向指示標があり、このルートに入る。ここからがしんどい、かなり勾配のきつい坂道が続く。
その坂道を見ると少し心が折れ気味になるが、頑張ろう!だ。

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筆舌では述べにくいが、とにかく必死の思いで天下一に到達。
点火点から見ると、大の字の右流れの炎の基盤の列が見える。
思ったよりも一つ一つがちいさい。

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大の字の中心の基盤はこのようになっている。。

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写真で写すと市内が遠くに映るが、標高350m位の位置だけあって非常に近くに見える。

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子供たちも含めて、かなりの登山者がいた。

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行者の森。隠されていた「中尾城」。

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中尾城の説明。足利政権の崩壊とともに中尾城は隠された。

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中尾城の悲劇を知った後、浄土寺の先にある「八神社」の前に、中尾城で殉死した一族と同性の方の家があったので気になって写した。

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この項 <完>

by mo-taku3 | 2012-09-10 23:22 | Comments(6)

京都くろ谷【金戒光明寺】とは

京都くろ谷【金戒光明寺】とは




金戒光明寺は知恩院と並ぶ、浄土宗の大本山である。
この2つのお寺は小高い丘の上にあり、戦略性に富んでいたこともあり、徳川家康は幕府を盤石なものにする為に、京都を直割地として二条城を作り所司代を置いたが、何かある時には軍隊が配置できるように黒谷と知恩院をそれとわからないような城構えとしていたという。

その家康の備えが、幕末になって京都の混乱を収めるため、京都守護職に抜擢された会津藩・松平容保にによって利用されている。
松平容保は幕末の京都の鎮静化のため1000名にも及ぶ藩兵の宿舎としてここに陣取っていることで証明されている。

その金戒光明寺に入るには、この高麗門を潜り抜ける。
この高麗門は、文禄・慶長の役が行われた1592年から1598年の間に造られ始めた城門である。
鏡柱と控柱を一つの大きな屋根に収める構造の薬医門を簡略化したもので、屋根を小ぶりにして守備側の死角を減らす工夫が施された。
このように、この門を置いただけでも、城塞化されていたのが分かる。

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金戒光明寺の駒札には、
金戒光明寺は、山号は紫雲山。本尊は阿弥陀如来。通称寺名をくろ谷さん(くろだにさん)と呼ぶ。知恩院とならぶ格式を誇る浄土宗の大本山の1つである・・・。とある。

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極楽橋、蓮池の駒札。
このお寺は、徳川家とかかわりがある。
春日局がお江のお墓を建立したり、三重塔を寄進したりしていること等からもわかる。

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山門のこの写真は、工事中の山門の前に張ってあった写真を写したものである。
中を見れなかったのは残念であるが、立派な門であることは確かなようだ。
出来上がったら、必ず見に行く予定にしている。

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境内と本堂。
本堂は御影堂といい、吉田寺の旧本尊と伝えられる「千手観音立像」を安置している。

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阿弥陀如来と龍の天井壁画。
慶長十年(1605年)豊臣秀頼により再建。当山諸堂宇中現存しているもので最も古い建物である。
恵心僧都最終の作、本尊阿弥陀如来が納められている。 如来の腹中に一代彫刻の使用器具が納められてあることから「おとめの如来」「ノミおさめ如来」と称されている。
また、他のお寺では、殆どが有料拝観となる、「龍の天井壁画」がいつでも見れるのはありがたい。

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熊谷直実の鎧掛の松。
直実の逸話として、以下のように伝えられている。
「一ノ谷の合戦」で、平家軍が源氏軍に押され敗走し始めた時、清盛の甥で平経盛の子、笛の名手でもあった平敦盛は、持ち出し忘れた愛用の横笛を取りに戻ったため退却船に乗り遅れてしまう。
敦盛は出船しはじめた退却船を目指し渚に馬を飛ばしますが、そこに源氏方の武将熊谷直実が通りがかり、
格式高い甲冑を身に着けた敦盛を目にすると、平家の有力武将であろうと踏んで一騎討ちを挑んだが、百戦錬磨の直実に敵うはずもなく、ほどなく捕らえられてしまった。
直実がいざ頸を討とうと組み伏せたその顔をよく見ると、元服間もない紅顔の若武者。名を尋ねて初めて、
数え年16歳の平敦盛であると知った。
同じ年の嫡男・直家をこの一ノ谷合戦で討死させたばかりの直実は、我が子の面影を重ね合わせ、この若武者を討つのをためらったが、これを見た同道の源氏諸将が訝しみはじめ、「次郎(直実)に二心あり。次郎もろとも討ち取らむ」との声が上がり始めたため、直実はやむを得ず敦盛の頸を討ち取ったのである。
これにより、世の無常を感じた直実は、ここ黒谷に法然上人を尋ね、方丈裏の池にて鎧を洗い出家した。

この時着ていた鎧をかけた松がこれである。(現在は二代目)

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浅井三姉妹のお江さんの供養塔と極楽橋

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修行僧で頭髪が伸びてしまった頭の大きさは一抱えほど。アフロの下に隠されたお顔は非常に穏やかなのだが、どうしてもそのフンワリモッコリとした頭に目がいってしまう。
これはれっきとした「五劫思惟像」と呼ばれる仏像である。
「五劫思惟」とは、阿弥陀如来が阿弥陀如来となる前に積んだ修行のこと。つまりこの修行の結果のアフロな仏様を表している。

非常に珍しい像だが、他のお寺でも見ることができる。が、その中でも特にこちらの五劫思惟像における、頭の立派さは有名である。
他のお寺のものより頭髪が異常に大きくて豊富なため、見応えは最高である。

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会津藩殉難者墓地。
松平容保が約1,000名の武士を連れて駐屯した地であり、ここには「鳥羽・伏見の戦い」で戦死した多くの武士が眠っている。

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八橋検校(やつはしけんこう)は、江戸時代初期の筝曲演奏家、作曲家で、京土産「八ツ橋」は、近世筝曲の開祖と呼ばれる「八橋検校」に由来している。
八橋検校は、ここ黒谷の金戒光明寺の塔頭・常光院に葬られている。

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この項 <完>

by mo-taku3 | 2012-09-10 23:19 | (寺社)京都の神社仏閣 | Comments(0)

北国街道の要衝の地、長浜(お城と黒壁の街)

北国街道の要衝の地、長浜(お城と黒壁の街)




長浜は、以前にも訪れたことがあり、確か新聞かテレビでステンドグラスを紹介していたのを見に行って、スタンドを2つ買ってきた記憶があった。
今回も家内の要望で、長浜に行くことになった。
長浜は、彦根より遠いイメージがあったが、平日ということもあり、東湖岸道路を利用することにした。

スムーズに長浜につくことができ、長浜城に隣接する豊公園の駐車場に車を置いて、街の散策に出かけてみた。

公園から5分位で長浜駅に着く。
駅は未だ新しく、なかなか凝った内部造りであった。

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長浜は秀吉が織田家の大大名となったところで、多くの武将はこの地に居るときにあつめたものである。
多くは、尾張出身者が多い中、この地出の雇った者の中のピカ一が、石田光成である。
色々エピソードが伝えられているが、狩の帰りに寄ったところで、秀吉がお茶を所望したときに熱さを調整したお茶を段階的に出したことから、才能を見込んで家来にしたということである。
光秀は頭は切れ文才ではあるが、武闘派とは肌が合わなく、この間は常に反発があった。

話は少し長くなったが、駅前には、秀吉と三成の出会いの地を表す石造(モチーフ)があった。

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長浜の駅の近くに豊国神社がある。
長浜はどうも豊臣贔屓のようで、随所にその傾向が見られる。
豊国神社は、大阪・名古屋・京都にあることは知っていたが、ここにも立派な神社が建てられていた。

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北国街道の表示があった。
ここは若狭・越前・加賀につながる、北国街道に当たる。
北国街道は、険しい山と琵琶湖に挟まれた地帯である。しかも、琵琶湖の北に当たり、戦略的に要衝の地に当たる。信長から、ここを任された秀吉の信頼度は抜群であったろう。

(こんなエピソードがある。)
信長の武将に、佐々成政という武将がいた。
時は、信長が死んでまもなく家康と秀吉の「小牧・長久手の戦いが始まった頃、この佐々成政は極端な秀吉嫌いから、家康方に組したが、北国街道を押さえている秀吉には手が出せず、雪の飛騨越えを敢行したが、家康の下に着いた時は、すでに和解が成立していた。
このように北国街道は重要な位置を占めていたのである。

この標識は長浜・黒壁の街の入口となる。

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しかし、長浜の街を紹介する前にまず、長浜城を紹介したい。
長浜城は江戸時代になると、近くに彦根城が造られたことにより、重要性がなくなり、取り壊されたり、資材を彦根城の建造に使われている。
現在あるお城は全くの新しいお城である。
しかし、明治に入り、長浜の町衆は長浜城を再建している。鉄筋コンクリートつくりの6階建てである。
3・4階は展示場になっており、殆どが秀吉さんを向いているような感じである。
多分、絵図面を元に再建されたと思うが、非常にきれいなお城(平城)であった。

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天守閣に登ってみると、平城でもあり四方全面が鮮明に近くに見える。
天守から見える琵琶湖の風景はこんな感じである。

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カラフルなお絵かきの「長浜商店街まち歩きMAP」なるものが街の所々に張られている。
一見ごちゃごちゃしていて見難いように見えるが、よく見ると非常に分かり易いMAPとなっている。

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「大手前通り商店街」はしっかり整備されている。とにかくきれいで全くごちゃついていない。

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ゆるキャラ「三成くん」の幟もあった。(実物に会えなかったのは残念である。)
光成くんの家紋は非常に珍しい。

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「曳山博物館」というものがあり、展示もあり、イベントもあり、立派な施設であった。
そこでは、「もう一つの平家物語」の芝居をやっているようであった。

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大通寺の山門である。その前には門前町がつながっている。
ところで、大通寺であるが、これは真宗大谷派の長浜教区の別院である。
この山門は規模・造りは非常に立派である。
が、境内全体を見ると少し寂れているのは気のせいか?

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元々、真宗大谷派は家康が本願寺の勢力を分散化するために分派させた一派で、東本願寺がそれである。
そのためか、徳川家のてこ入れがかなりあった模様で、この長浜別院もびっくりするような内部造りとなっている。

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大手前通りを通り、ぶらぶらしながら買い物をしていたら、そのお店の方に「翼果楼(YOKARO)の鯖ソーメン」を薦められ低って見た。これがこの辺で名物のようだ。
(祇園でも近江出身の板さんがよく出してくれた。)
さばと一緒に食べると味は良く、好みの味だった。また魚くささも無いのが不思議だった

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お店「翼果楼(YOKARO)」の家訓が載せてあった。
また、結構芸能人も来店していたようで、写真・色紙が沢山飾ってあった。

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長浜は、秀吉の治世がすばらしかったと見えて、ずーっと慕っていたようで、徳川の時代はいいことがなかったようである。しかも、長浜城や佐和山城(石田光成の居城だった)は取り壊され、資材を彦根城に使われ、多分、永世年貢免除も破棄されたことと思われることから、徳川及び彦根には一物も二物もあったのではないかと想像できる。
これが堂見ても、長浜に活力を与えているようで、例えば、街のきれいさ・施設の充実さ・長浜城の再建・立派な駅など、街の規模の割にはものすごく活性化されているのは驚きでもある。






この項 <完>

by mo-taku3 | 2012-09-02 08:04 | (紹介記事)関西 | Comments(0)