京都悲田院と京都の町

悲田院と京都の町




悲田院(ひでんいん)とは、仏教の慈悲の思想に基づき、貧しい人や孤児を救うために作られた施設である。

聖徳太子が隋にならい、大阪の四天王寺に四箇院の一つとして建てられたのが日本での最初とする伝承があり、敬老の日の由来の俗説の一つである(四箇院とは悲田院に敬田院・施薬院・療病院を合せたものである)。
中国では唐代に設置されたものが、日本同様に社会福祉のはしりとして紹介される場合がある(収容型施設のはしりであることには間違いない)。

日本では養老7年(723年)、聖武天皇の皇太子妃時代の光明皇后が興福寺に施薬院と悲田院を設置したとの記録があり(『扶桑略記』同年条)、これが記録上最古のものである。
なお、興福寺の施薬院・悲田院と、光明皇后の皇后宮職に設置された施薬院・悲田院とを同一の施設とみる説と、両者は別個に設置されたものとみる説とがある。
また、奈良時代には鑑真により興福寺にも設立された。
平安時代には、平安京の東西二カ所に増設され、同じく光明皇后によって設立された施薬院の別院となってその管理下におかれたという。
鎌倉時代には忍性が各地に開設し、以降、中世非人の拠点の一つとなった。

現在は京都市東山区の泉涌寺の塔頭の一つとして悲田院がある。
同院は平安京の悲田院の後身と伝えられる。このほか、上述の四天王寺のある大阪市天王寺区悲田院町(JR・地下鉄天王寺駅近辺)等、地名として残っているところもある。

泉涌寺の参道を上がり、大門への参道を入った右側に「悲田院参道」の石柱が立っている。

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正門とその手前左手には、駒札が立っている。

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正面には『泉山 毘沙門天 悲田院』とあり、毘沙門天が祀ってある。
毘沙門天と悲田院の関係は分からない。

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今も機能しているようだ。

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展望台があり、ここからは京都市内が一望できる。
左手には、l京都タワーが見えている。
ここは「悲田院展望台」として立派な案内板が設置されている。

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「悲田院跡」について(文献による)
【山州名跡史】によると、正保2年(1645)に泉涌寺(京都市東山区)に移るまでは、現在の京都市上京区扇町付近にあった。後花園天皇火葬塚が寺地にあたる。
【延喜式】では、左右京職には「凡京中路辺病者、孤子、仰九箇条令、其所レ見所レ遇随レ便、必令レ取送施薬院及東西悲田院」とある。
天正元年(1573)織田信長の上京焼討ちで消亡したと【フロイスの日本史】に書かれている。
その後再建されたようで、寛永14年(1637)の【洛中絵図】に描かれている。








この項 <完>

by mo-taku3 | 2012-10-30 20:52 | (歴史)京都史 | Comments(4)

霧に包まれた嵐山

霧に包まれた嵐山




嵐山は春の桜、初冬の紅葉など四季を通じて風光明媚なところで有名だが、今回雨模様の中出かけてみると、思いもかけず雲海というと大げさだが、かなりの霧が山にかかり、結構絵になる風景が見られた。
(説明は省かせていただき、風景をご覧ください)

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この項 <完>

by mo-taku3 | 2012-10-30 19:48 | Comments(2)

京都満足稲荷神社

京都満足稲荷神社



東大路通の三条通と仁王門通の間にこの、「京都満足稲荷神社」がある。
ここはバスでよく通るところで、"満足”という名が気になっていた。

本神社は後陽成天皇の文禄年間に豊臣秀吉公の勧請により、 もともとは伏見桃山城に鎮座し、同城の守護神として秀吉公の崇敬篤かったという。
社名の「満足」の2字は、秀吉公が「祭神の加護にすこぶる「満足」したことに由来する」とされ、秀吉公から呼称としていただいたという。
元禄6年徳川綱吉公が伏見城の地からこの地に遷祀している。
結果、近隣の繁栄著しく、広く地方一般の崇敬を集め、 御神徳あらたかなる故をに、明治41年幣帛共進神社に指定されている。
また、満足の名を持つ神社は、東京都文京区千駄木5ー2ー8の稲荷神社の通称を満足稲荷と云う。
この呼称は、広く地方一般の崇敬を集めていたため、誰かが勧請したのだろう。

(社格) 旧村社。
(祭神)
本社  倉稻魂命(うかのみたまのみこと)
倉稻魂命とは、父神、素戔嗚命と、母神、神大市比売命との間に生まれた神。
延喜式祝詞の中に「是れ稲の霊なり」とあるように稲の精霊で、稲荷神社の社名は「稲生り(いねなり)」から「いなり」となったもの。
中世以後、商工業が盛んになると、農耕神から殖産興業神・商業神・屋敷神とその御神格が拡大し、農村だけでなく、町家にも勧請されるようになった。
稲荷神社の神使をキツネとする民間信仰は、この神が別名、御饌神(みけつかみ)と呼ばれるのでキツネの古名ケツから「みけつかみ」に「三狐神」の字を充てたことにもとづくという。(資料による)
末社 三社
    大神宮社 天照大神(あまてらすおおかみ)
    大国主社 大国主命(おおくにぬしのみこと)
    猿田彦社 猿田彦神(さるたひこのかみ)
(年間行事)
節分祭、2月2日・3日。
初午祭、2月初午の日。
例祭、5月8日。
神幸祭、5月5日。
火焚祭、11月8日。
(文化財)
宝舟之図(橋本関雪筆)。
豊公詣満足神社文図(猪飼肅谷筆)。

以下は写真で紹介する。

東大路に面した、正面はこのようになっている。満足稲荷の石標が目立っている。

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ご祭神とご利益は以下の通り。

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神社の紹介駒札。

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さすが秀吉ゆかりと会って、立派な「唐門と本殿」。
ここには天照大神や大国主命などが祀られている様だ。

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手水舎には、リアルな龍がいた。

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岩神さま。撫で石。
さすると、「よくなる・治る」の言い伝え。

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これが本来の稲荷社。

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色々調べてみたが、これ以上の情報が見当たらなかった。







この項 <完>

by mo-taku3 | 2012-10-18 16:14 | (寺社)京都の神社仏閣 | Comments(2)

丹波篠山城を訪ねて

丹波篠山城を訪ねて



1609年、徳川家康の命により、築城の名手である、藤堂高虎の縄張りによって、わずか半年で築城されている。小規模だが、二重の桝形や二重三重の櫓のある堅固な平山城である。
当時は、関ヶ原の戦いの後、大阪城の豊臣家の抑えと、西国大名を牽制する目的として造られている。
明治維新後、大書院以外の建物は全て取り壊されたが、濠や石垣などは築城時の面影を偲ばせ、「日本100名城」にも選ばれている。
その後、二の丸の一角にあった大書院は、1944年に焼失している。しかし、2000年3月に往時のまま、忠実に復元され、現在も資料館として内部が公開されている。
再興なった大書院は、天守閣のなかった篠山城の中核をなす建物だった。
御殿は立体的に復元できる資料がなかったことから、最も古い江戸時代中期頃の間取り図をもとに平面表示する形で整備に着手、総工費1億円1千万円の費用を投じ平成14年(2002)の春に完成している。

また篠山城は、外堀に沿って約1千本の桜が植えられており、桜の名所としても知られている。また、毎年夏になると、三の丸広場で「丹波篠山デカンショ祭」が開催されている。

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関ヶ原の合戦後、篠山領は前田茂勝、ついで松井松平康重が封じられ丹波八上城で治めていた。
大坂城の秀頼の存在を警戒する家康は、慶長14年(1609)、加藤清正・浅野幸長・蜂須賀至鎮・加藤嘉明・福島正則ら豊臣恩顧の大名を動員して新たに篠山城を築いている。いわゆる天下普請とよばれるもので、総奉行は池田輝政、縄張りは築城の名手藤堂高虎が手がけました。15ヶ国、20の大名の夫役、総勢8万人の労力による大工事で、小規模ながら、わずか6ヶ月という短期間で完成している。

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ここは、図面から見ると「多聞櫓・くろがね門」の位置に当たるようだ。

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(大書院)
明治維新後、城内の建物は全て取り壊されたが、二の丸にあった大書院は、床面積740㎡もある大規模な本格的な木造城郭だったので、取り壊しを免れて小学校の校舎などに転用されていたとのこと。
しかし、惜しくも1944年に焼失したが、その後2000年3月に復元され、資料館として内部が公開され、篠山城の築城の様子や篠山藩の歴史などがパネル展示やビデオ、実物展示で紹介されている。
大書院は木造建築物としては規模壮大な建物で、現存する同様の建物としては京都二条城の二の丸御殿にある遠侍と呼ばれる建物に類似しているといわれている。
二条城の御殿は、将軍が上洛したときに宿所となった建物であり、篠山城大書院は一大名の書院としては破格の規模と古式の建築様式を備えたものといえる。

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手毬之間には手作り甲冑が置かれていた。

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ここ「隅櫓」の位置あたりかと思われる。

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篠山城の模型が展示されていた。

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上段之間。

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「孔雀の間」。

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二の丸は、大書院・小書院・中奥御殿・奥御殿・台所などの建物と築山を持った庭園からなり、儀式・執務を行う公的な場として、城主の生活空間である私的な場として、篠山城で最も重要な場所だった。これら御殿群の周囲を三層の櫓一棟、二層の隅櫓五棟が取り巻き、それらをつなぐように多聞櫓と門が配置されていた。
二の丸御殿間取図(伝承)や発掘調査の結果より、御殿の建物群は何度かの建て替え、増築が行われたことが知られているが、忠実に建てられたとされている。

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徳川秀忠からの「知行宛行朱印状(松平周防守)」。

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城番付(徳川時代)。
右下に笹山城というのが載っていました。

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顕彰碑「山河のみたま」

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他で見るような大型の城とは比較できないほど小規模のような感じがするが、模型を見る限り素人目にも、しっかりとした縄張りだったように見える。
しかし、石垣をみると、急ごしらえの完は否めない。その文お堀の幅はかなり大きくしているように見え、藤堂高虎のことだからきっと各所に工夫を凝らしているのだろう。







この項 <完>

by mo-taku3 | 2012-10-17 22:45 | (歴史)関西史 | Comments(0)

京都丹波篠山の味祭り

京都丹波篠山の味祭り



「丹波篠山の味祭り」とは、
10月6日(土)~8日(祝)/13日(土)・14日(日)午前9時から午後4時まで
実りの秋を満喫 おいしいものに出合い 人とふれあうまち丹波篠山で、イベントを行っている。

※6(土)~8(月・祝)日は、篠山城跡周辺で秋のイベントが多数開催されるため、臨時シャトルバスを運行します。(JR篠山口駅~篠山市民センター)
会 場  大手前南駐車場・大手前北駐車場・たんば田園交響ホール西駐車場
主 催  丹波篠山味まつり実行委員会

となっている。

丹波は黒豆の産地であることをご存知の方も多いと思う。
たまたま、毎年頼んでいる黒豆のお店である「小田垣商店」に直接行ってみようということになり、出かけてみたが、いつもは空いている道が異様に混んでいるので何かあるのではということで、混雑我慢で行ってみた。
小田垣商店で聞いてみると「味祭り」をやっているとのことで、また土曜日ということもあり、近隣の住民が押し寄せていた。
買い物を終え、駐車のお願いをすると、快くごゆっくりとのことであったので、丹波篠山市の会場を散策してみた。

話は戻るが、小田垣商店は黒豆の元締めとのことで、享保年間から一年物の種豆を管理・供給していること聞きびっくり。これからもよろしく・・・です。

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イベントの日程は、
・丹波篠山牛の丸焼き 10月6日(土)・7日(日) 
 会場:たんば田園交響ホール西駐車場 時間:11:00~(各日500食限定)  
 丹波篠山牛の半身を焼く「丹波篠山牛の丸焼き」。大自然の中で大切に育てられた健康な丹波篠山牛を
 豪快に焼き上げて、肉本来の旨みをそのまま楽しめます。
・お茶席   開催:10月6日(土)~8日(月・祝) 
 会場:大手前北駐車場  
 秋空の下、一服のお茶をお楽しみください
・黒豆のさや投げコンテスト  10月8日(月・祝)、13日(土)、14日(日)  
 会場:たんば田園交響ホール西駐車場(8日) 大手前北駐車場(13日、14日)  時間:随時  
 黒豆の枝豆を食べていただいたあとの「さや」を投げて、飛距離を競うコンテストです。優勝者には豪華賞品 をご用意しております。雨天時には丹波篠山黒枝豆の「さやもぎ競争」を開催予定。詳細は現地にてご確認 ください。
・東北支援ブース  開催:10月6日(土)~8日(月・祝)、13日(土)、14日(日)   
 会場:大手前南駐車場  
 震災からの復興に向けて頑張っておられる農家・生産者・加工者の皆様を応援します。
となっている。

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丹波杜氏酒造記念館
丹波篠山の杜氏(とうじ)、つまり酒造りの職人に関する記念館が篠山城跡の近くにある。
ここには、酒造りの用具や資料を始め、代々の名匠が熟練した技と経験で美味しい酒を造ってきた工程を展示している。
冬の農閑期を利用して酒造りをするため灘五郷などに出稼ぎに行った杜氏は、最盛期には、全国各地に5千人余りもいたと言われている。

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造り酒屋が多数存在し、量り売りの店もあったのにはおどろきだった。

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計画とは違い、好評なのか「丹波篠山牛の丸焼き」などのイベント広場は結構な混雑だった。
なかには、しし肉などの串焼きもあった。勿論、丹波篠山牛の丸焼きも旨かった。

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篠山城のお堀もなかなか風流で、この跡城址も見学してきた。

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篠山市を通る国道372号と国道176号は、「デカンショ街道」と名付けられています。デカンショ節は、元歌といわれる篠山地方の「みつ節」に、デッコンショやドッコイショというはやし言葉を入れて一高生(現東大生)たちが寮歌として歌うなかで、「デカルト、カント、ショーペンハウエル」の頭文字から「デカンショ」と歌い始めたというのが由来として有力である。
今ではもと歌の地で、国道にもこの名が付いている。

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市中で「まけきらい稲荷」なる標識を見つけた。
歩きつかれたので、次回にまわすこととした。

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篠山城の大手門跡の近くに、顕彰碑文があった。
築城当時からの状況が赤裸々に表現された名文であったので、載せてみた。

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丹波篠山(たんばささやま)

篠山にも丹波にも、昔懐かしい城下町の風情が残っている。
立杭焼きの窯元や歴史村、酒造記念館など、数多くのオススメ観光スポットがある。
栗・松茸・黒豆などの産地としても知られ、猪肉を味噌味で煮込んだ「ぼたん鍋」は、代表的な郷土料理である。







この項 <完>

by mo-taku3 | 2012-10-17 21:18 | Comments(2)

御香宮神幸祭(神輿行列)宵宮

御香宮神幸祭(神輿行列)宵宮



この神社は、日本第一安産守護之大神として広く崇められている「神功皇后」を主祭神として、仲哀天皇応神天皇他六柱の神が祀られている。
初めは、『御諸神社』と称していたが、平安時代貞観四年(八六二)九月九日に、この境内から「香の良い水」が涌き出たことで、清和天皇より『御香宮』の名を賜った。
豊臣秀吉は天正十八年(1590)、城内に鬼門除けの神として勧請し、社領三百石を献じた。
その後、徳川家康は慶長十年(1605)に元の地(現在地)に本殿を造営し社領三百石を献じた。
慶応四年(1868)正月、伏見鳥羽の戦には伏見奉行所に幕軍が據り、当社は官軍(薩摩藩)の屯所となったが幸いにして戦火は免れた。
十月の神幸祭は、伏見九郷の総鎮守の祭礼とされ、古来『伏見祭』と称せられ今も洛南随一の大祭として聞こえている。


御香宮神幸祭

明治時代以前は旧暦九月九日即ち『重陽の節句』(菊の節句)に行われていたもので、伏見九郷(石井(いわい)・森・船津・即成就院・山・北尾・北内・久米・法案寺の各村)の総鎮守の祭りであった。
それ故に古来『伏見祭』とも称せられ、洛南随一の大祭として聞こえている。
神幸祭は10月10日(現在は10月上旬)、早朝より一年に一度、御香宮大神様が、氏子区域内を『幸(みゆき)』(巡幸)される祭である。
この祭の特徴はお迎え提灯として、各町内より『花傘』が神社に多く参拝するのが有名で、別名『花傘まつり』とも称せられている。
花傘は室町時代の『風流笠』の伝統を今に伝えるもので、看聞御記応永二十八年(1412)九月九日の条に『風流笠四五本・・・風流笠不入門内。竹薮ヲ切開被入之』とある。
現在、六百年にわたる伝統の上に花傘が年々町内の人々の趣向を凝らした姿で祭礼に参加するならわしとなっている。
花傘の総参宮日は、一日目と八日目の夕刻七時頃から九時頃まで、各町内より『アラウンヨイヨイ、アラウントマカセ』の掛け声も勇ましく、伏見随一の繁華街大手筋を上がって神社に参拝する。

(今年度の神幸祭(9・29~10・7)の日程)

第一日目
(9月29日) 第7回ちびっ子相撲大会(午前9時半~)オイデマツリ
  花傘総参宮(午後7時頃~9時頃)
  能舞台において、神賑行事を奉納(午後7時~)
  お神酒頂戴(午後7時~8時半)※雨天中止
第二日目
(9月30日)能舞台において、神賑行事を奉納(午後7時~)
  お神酒頂戴(午後7時~8時)※雨天中止
第一日目~第五日目(9月29日~10月3日)能舞台において、神賑行事を奉納(午後7時~)
第五日目
(10月3日)能舞台において、神賑行事を奉納。終了後、武者組飾りつけ
第七日目
(10月5日)お神酒頂戴(午後7時~8時半)※雨天中止
第八日目
(10月6日)宵宮祭
  花傘総参宮(表門付近午後7時頃~9時頃)
  オクライモライ(猿田講社、武者組、皇馬)
  お神酒頂戴(午後7時~8時半)※雨天中止
最終日
(10月7日)
  神輿巡幸出発時刻行事宮入時刻(境内入りは、それのおよそ30分程前)
  午前5時発輿祭
  午前7時獅子若午後3時
  午前8時猿田講社午後5時
  午前9時半神輿A班午後8時半
  午前9時半神輿B班午後8時
  午前9時40分武者行列午後4時
  午前10時稚児行列午後2時半
  午前10時半神輿C班午後5時半


神幸祭の宵宮ということで夕方出かけてみたが、大きな一の鳥居が坂の途中にそびえていた。

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境内の外まで夜店が出ており、大変な賑わいだった

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(表門)
元和八年(1622)、徳川頼房(水戸黄門の父)が伏見城の大手門を拝領して寄進したものである。
どっしりと落ち着いた豪壮な構えは伏見城の大手門たる貫禄を示している。特に注目すべきは、正面を飾る中国二十四孝を彫った蟇股である。
また、両妻の板蟇股も非常に立派で桃山時代の建築装飾としては、二十四考の彫刻と併せて正に時代の代表例とされている。

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(拝殿)
寛永二年(1625)、やはり紀州徳川家の初代徳川頼宣の寄進による。
桁行七間、梁行三間、入母屋造、本瓦葺の割拝殿となっている。
正面軒唐破風(のきからはふ)は、手の込んだ彫刻によって埋められている。
向かって右は『鯉の瀧のぼり』、すなわち龍神伝説の光景を彫刻し、左はこれに応ずる如く、琴高仙人(きんこうせんにん)が鯉に跨って瀧の中ほどまで昇っている光景を写している。
この拝殿は伏見城御車寄の拝領と一部誤り伝えられる程の豪壮華麗な建物である。
平成九年六月に半解体修理が竣工し極彩色が復元された。

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能舞台には、甲冑・武具が整然と飾ってあった。
これだけ一同に会した沢山の武具を見るのは珍しい。

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「見所」というところには、「千姫」によって寄進された神輿が飾ってあり、お神酒が上げられていた。
神幸祭の中心は神輿渡御であり、旧神輿は、徳川家康の孫娘、千姫の初誕祝いに奉納された。
通称『千姫神輿』は、日本一重い神輿として氏子の自慢の一つであったが余りにも重く、今は担がない。
現在は、境内見所に保管されており、祭礼期間中のみ、見学ができている。

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京都市指定の天然記念物になっている「ソテツ」である。
いつの時期からあるのかは定かではない。
南方系の植物ではあるが、寒さには強く冬も囲いをせずに、過ごしているところから、天然記念物となっているとのこと。

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(御香水)
当社の名の由来となった清泉で「石井の御香水」として、伏見の七名水の一つとなっている。
徳川頼宣、頼房、義直の各公は、この水を産湯として使われたといわれており、絵馬堂には御香水の霊験説話を画題にした『社頭申曳之図』が懸っているという。

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(本殿)
国指定の重要文化財である。
慶長十年(1605)、徳川家康の命により京都所司代坂倉勝重を普請奉行として着手建立された
全体の造り、細部の装飾ともに豪壮華麗でよく時代の特色をあらわし桃山時代の大型社殿として価値が高く、昭和六十年五月十八日重要文化財として指定されている。現社殿造営以降、江戸時代社殿修復に関しては、そのつど伏見奉行に出願し、それらの費用は、紀伊、尾張、水戸の徳川三家の御寄進金を氏子一般の浄財でもって行われた。大修理時には、神主自ら江戸に下って寺社奉行に出願して徳川幕府直接の御寄進を仰いだ例も少なくなかった。
平成二年より着手された修理により約三百九十年ぶりに極彩色が復元された。

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昭和37年、千姫神輿にかわって鵜鳥型と神明型(雁又)の二基を新調し、更に昭和62年神輿一基を新調して三基が拝殿に飾られている。

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(猿田彦)
邇邇芸命(ニニギの命)が、天照大神の命により葦原中つ国を統治するため、高天原から日向国の高千穂峰に降りたという 有名な天孫降臨の神話があるが、このとき、邇邇芸命の 道案内を勤めたのが、「猿田彦」なのである。邇邇芸命は神功皇后、猿田彦が武内宿爾のモデルとも言われている。
日本書紀は蘇我入鹿を罪悪人として描かれているが、時の権力者である藤原不比等の藤原氏の正統化を後世に伝えるための創作と思われるようになってきており、実は国つくりで大きな役割を果たした武内宿爾(蘇我氏の祖でもある)を神格化されたものではないかと思われる。
一方、「天宇受売神」は猿田彦を誘惑し夫婦となっています。
天宇受売神のお多福と、天狗の猿田彦が夫婦和合のルーツとされているわけです。

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ぱらぱらと雨も降り始め夜もかなり更けてきたが、まだまだ夜店の周りには沢山に人が集まっていた。

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翌日は雨模様なので巡行は来年回しにさせていただいた。









この項 <完>

by mo-taku3 | 2012-10-17 12:40 | (祭特集)祇園祭他 | Comments(2)

京都御苑を散歩9・29

京都御苑を散歩9・29



久し振りに京都御苑に出かけてみた。

広い苑内には、御所の長い塀が豪壮な観がある。

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この写真の正面に建礼門がある。
葵祭、時代祭はここがスタートとなる。

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丁度、苑内はサルスベリが満開で見事に咲いていた。

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拾翠亭(しゅうすいてい)がある。
ここは五摂家の一つ、九条家の唯一の現存の建物で“茶会として使われた離れ”である。

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京都御苑の中にはいくつも神社があるが、その一つの厳島神社である。
厳島神社の本社は広島にあるのが有名だが、ここの祭神に「祇園女御」が祀られている。
また、ここは平清盛が建立したと書いてあったが・・・?

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神社の池の上には旧九条家への石橋が架かっており、池には鴨が、やはりサルスベリもきれいに咲いていた。

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丁度日没で夕日が木々を通して差し込んできれいだった。

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やはり、京都御苑は何か訴えるものや主張するものがあるように思う。





この項 <完>

by mo-taku3 | 2012-10-16 21:40 | Comments(2)

祇園・東山(花見小路・知恩院・円山公園)を散策9・27

祇園・東山(花見小路・知恩院・円山公園)を散策



東山散策の帰りに、祇園花見小路界隈をブラついてみた。(この記事は9-27日)
祇園甲部の歌舞練場に寄ってみた。
10月1日~6日に「温習会」が始まる。
「温習会」とは、明治初期頃から開催されたとされる、毎年秋に催される祇園甲部歌舞会主催の京舞井上流の会です。
【温】とは、「すでに教えられたことを思い出しておさらいする。」
【習】は、「羽とあるように、雛鳥が羽をくりかえし羽ばたいて、飛び立つ技術を身につける。」
と云われているようです。
当初は、日頃の贔屓客がつめかけ、出演する芸舞妓の舞・地方囃子・地唄・三味線・浄瑠璃・琴・胡弓・明清楽などの各部門を公開し、各自の技能を批評・採点したそうです。
その成績は、お正月に行われる始業式で発表され、成績優秀者には紅白の真綿を授与していたらしく、ただのおさらい会というよりは、生徒(芸舞妓)の試験であったようです。
踊りそのものは、素人目には狂言の動きによく似た感じがする。

これが、「祇園甲部歌舞練場」になる。
ここでは、春秋の「都おどり」や、「温習会」行われる。

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祇園花見小路。一番京都らしい小路なのかもしれない。

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この花見小路から脇道は居ると、祇園甲部のお茶屋さんや置屋さんが並んでいる。

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八坂神社でお参りして、円山公園に行ってみる。
春には見事に咲く、有名な円山公園の「枝垂れ桜の木」やほっこりの景色。

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ちょっと離れているが、知恩院に行ってみた。
三門や、鐘楼はやまり撮ってみたくなる。

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9月の下旬というのに、日差しはまだまだ暑い

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これが私の散歩のコースの一端を紹介させていただいた次第です。






この項 <完>

by mo-taku3 | 2012-10-16 20:27 | Comments(2)

カバン!信三郎帆布にて

カバン!信三郎帆布にて


株式會社一澤信三郎帆布(いちざわしんざぶろうはんぷ)は、京都市東山区にある布製手作りかばんの直売メーカーである。

信三郎帆布のかばんや袋物は、純綿または本麻製の帆布と呼ばれる厚布で作られている。素朴でシンプルなデザイン、豊富な色ぞろえ、堅牢なつくりが特徴。帆布の素材感や使うほどに増す風合いなどが注目され、ファッションアイテムとしても老若男女を問わず人気が高い。

信三郎帆布の販売店は、京都東山区の直営一店舗のみ。
店頭販売、およびカタログによる通信販売(一部対象外の商品あり)を行っている。
破損した場合には実費で修繕も受け付けている。
なお、同社の製造部門である株式会社信三郎帆布加工所の「東山工房」(京都市東山区進之町)では、職人の作業風景を窓ガラス越しに公開している。

2006年、一澤帆布工業株式会社の相続トラブルにより、裁判に負けて社長を解任された先代の三男の信三郎が、ほぼ全ての職人と従業員を引き連れ独立し、創設している。

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ガラス越しに商品を見ることができる。

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同社の製造部門である株式会社信三郎帆布加工所の「東山工房」(京都市東山区進之町)では、職人の作業風景を窓ガラス越しに公開している。

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店内の2Fへの階段の壁に、髭親父をあしらった鞄が掲げられていた。

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カメラ好きの私のカメラ入れバッグとして、これを購入した。

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この道の並びに、裁判で勝訴した、ご長男の喜久夫氏が新たに店を起し、販売をはじめている。
「喜一澤」商店。
起源が一緒だから商品に遜色はない。

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観光客も多く、信三郎帆布の店内はかなり混みあっていた。






この項 <完>

by mo-taku3 | 2012-10-14 15:43 | (紹介記事)京都 | Comments(2)

京都春日神社「春日祭」神輿巡行

京都春日神社「春日祭」神輿巡行



春日神社は四条西院の交差点から3・4分のところにある。
創建:833(天長10)年2月28日で合格祈願 日本三大学問神のひとつである。

平安初期、淳和天皇が淳和院に奈良春日大社よりご分霊を迎えておまつりされたことが起こり。
神前の霊石で皇女の疱瘡が治り、病気平癒の神として崇められたという。
江戸期にも歴代天皇が健康祈願をされた。
また境内の摂社、還来(もどろき)神社は旅行安全の神として有名。
10月第2土、日曜に「春日祭」。無病息災、五穀豊穣を感謝する祭で、前日は重さ2トンの神輿2基が出御。神輿を中心に剣鉾5基とともに総勢1000名が巡行する大きな規模の祭りである。

春日祭は、無病息災・五穀豊穣を祈る西院春日神社の祭りである。
10月第2土曜日に行われる神幸祭は、正午から勤皇鼓笛隊・鉄砲隊と鳳輦が出発し野々宮神社・氏子町内を巡行。翌日曜日、10時から例祭・神輿発御祭が行われ、12時30分から御神輿が出発し17時ごろ西院春日神社に戻ってくる。

最大の見所は、日曜日西院春日神社境内で行われる五基の剣鉾と二基の神輿による拝殿廻りと差し上げ。それと、西大路四条交差点で行われる剣鉾の露払いと神輿の巴廻り。

さて、今日がまさしく10月第2土曜日にあたる。
巡行は正午からなので、その前に春日神社内の準備状況を写真に収めるべく出かけてみた。

これが神社の正面である。

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【仁孝天皇御胞衣塚】
仁孝天皇の御胞衣(胎盤)が埋蔵されている御胞衣塚。
宮中では、子供が生まれると御胞衣を吉方にあたる場所に埋蔵し、健やかなご成育を祈願する慣わしがある。これにちなんで、安産や子授け、母体の健康、乳幼児の健やかな成育を祈って、御胞衣塚に白石、子安石を奉納するのが慣わしである。

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【疱瘡石】
平安時代、淳和天皇の皇女・崇子内親王が天然痘(疱瘡)を患われた時、この石に祈願したところ、石が身代わりとなって疱瘡となり、内親王の病はたちどころに治ったといわれている。それ以来この霊石は、「疱瘡石」と呼ばれるようになった。
この疱瘡石、しばらく行方不明になっていたが、数年前に偶然発見され、毎月1日・11日(ご縁日)・15日に本殿内で公開されている。公開当日はご利益を授かろうと多くの方が参拝に訪れる。
またこの霊石は、病を平癒してくださるだけでなく、都に疫病が流行る前には必ずこの石の表面がぬれる?とのことである。

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【還来神社と「椰石(なぎいし)」】
”もどろき”とは、旅に出て無事に帰っていくという意味。
祭神・淳和天皇皇后正子内親王は、874年(貞観16)4月27日(HPによると4月19日)に淳和院御所が炎上した際、火難を避けるため松院逃げ、その後類焼をまぬがれた洞裏院に正子内親王が無事にお帰りになられた。正子内親王は、「洞裏院が類焼を免れ「無事還り来るは是れまったく神の加護である」と仰せられた。この故事から還来の大神と称えられ、旅行安全・還来成就の守り神として尊崇を集めている。
現在も、天皇皇后両陛下の海外訪問の際は、お守りが献上される、由緒ある神社である。
還来神社では、古来より旅の安全を祈って「わらじ奉納」の慣わしがある。また旅行に行く人は、社の前にある神石「椰石」を撫でて、「無事息災、還来成就」を祈願する風習も古くから伝わっている。

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拝殿にはいにしえのお祭りのイラストが飾られており、「継承」というタイトルになっている。

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子供神輿。かなり小さい。
大人用は重さ、2t とのこと。

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維新勤皇隊。時代祭りとは違い、子供の隊のようだ。
社務所の側面には、維新勤皇隊屯所の看板もあった。

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2t の御神輿2基が、いつでも引き出せるように鎮座し、展示されていた。

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拡大してみると、見事な飾りが施されているのがわかる。

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また、御神輿担ぎ棒の彫刻もすばらしい。細かなところまで気が配られており、伝統の匂いが感じられる。

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馬も飾り付けられ、やはり白馬である。

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行列に参加する巫女さんも飾り付けていた。

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本殿では参拝者がひっきりなしに訪れていた。

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お祭りとあって出店がぎっしり。

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(春日祭の巡行)
1.10月第2土曜日正午、西院春日神社から勤皇鼓笛隊・鉄砲隊が出発。
2.引き続き鳳輦が出発。
3.翌日曜日12時30分、勤皇鼓笛隊・鉄砲隊が出発。
4.神霊遷し(みたまうつし)後、西院春日神社から二基の神輿が出発。
5.14時15分、西大路四条交差点で五基の剣鉾が露払い 。
6.続いて神輿の巴廻り。
7.野々宮神社や氏子町内を巡行、15時40分中信前で神楽奉納。
8.17時西院春日神社に到着、剣鉾拝殿廻り。
9.神輿拝殿廻り。
10.神輿差し上げ。
となっている。


今回は巡行を見れなかったがいずれは見たいと思っている。

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この項 <完>

by mo-taku3 | 2012-10-14 11:57 | (祭特集)祇園祭他 | Comments(2)