【この資料は、中国・北朝鮮・韓国・日本の歴史的関係を知る上での一助となればと思い編集している。
特に北朝鮮の存在は、中国にとって重要な位置付けにあること、そのために中国が北朝鮮を保護し続けることなど、歴史的関係を汲み取っていただければ、意味合いもおぼろげながら理解が進むのではないかと期待している。】
好評であれば、引き続きシリーズで歴史を下って紹介していきたいと思っている。
●古朝鮮
1. 概説
古朝鮮とは青銅器文化を基盤にして成立した朝鮮最初の国家である。
中世・近世までは衛満朝鮮以前の朝鮮だけを古朝鮮と呼んだが、最近では衛満朝鮮までをすべて含めて古朝鮮と呼んでいる。
遼河流域の琵琶形銅剣文化と大同江流域の細形銅剣文化が古朝鮮の文化として知られている。
紀元前3~2世紀代の準(ジュン)王の治世の古朝鮮と衛満は平壌(ピョンヤン)を都にしていたが、燕国との 戦争がある前の紀元前4世紀末から3世紀初め以前に、遼河流域のどこかに中心を置いていた。
(ここが現在の朝鮮半島 を含めた遼東の広範囲な地域であったことが伺え、前漢・随・唐などと朝鮮(高句麗など)との攻防の要因も見えてくる。)
高麗時代の僧、一然(イルヨン)が13世紀に書いた『三国遺事』と、一然が参考にした中国の史書『魏書』な どには、古朝鮮が紀元前2333年に、天神である桓因(ファンイン)の孫であり、桓因の庶孫で桓雄(ファンウ ン)の息子である檀君王倹(タングンワンゴム)によって建国されたことになっている。
遼河流域の考古学的な状況と諸々の文献記録を通して考察すると、古朝鮮は紀元前8~6世紀に遼河流域で君長社会の形態で出発し、遅くても紀元前7-5世紀代には古朝鮮という名称が中国にまで知られていたということが分る。
古朝鮮は、発達した青銅器文化と周辺の先進的な文化を受入れて文化と経済は言うまでもなく、政治的な 面でも発展を成し遂げた。
中国の史書である『魏略』によると、紀元前4世紀には古朝鮮の勢力が強大になり、中国の戦国時代の七 雄中の一つであった燕国と勢力を争うほどになっていた。
古朝鮮と戦国時代の燕国の緊張関係は表面的には燕国は王国を称していたが(称王)、古朝鮮の統治者も やはり燕国に引けを取るまいと称王していたことから推察して、当時の古朝鮮が決して弱い国ではなかった ことが分る。
このように古朝鮮と燕国との緊張関係は、ついに紀元前4世紀末から3世紀の初めに全面的な戦争という 形で表面化したが、古朝鮮はこの戦争で2000里(訳注:約800㎞、韓国の1里は約0.393㎞)余りに及ぶ 地域を奪われ、国の中心地を平壌に移すことになった。
この時期は、ちょうど秦から漢に王朝が交代した頃で、漢の初期、中国が混乱している隙に乗じて燕国をは じめとする北方の中国人が、古朝鮮の辺境に多く亡命するようになった。
燕国出身の衛満が彼らと一部の土着集団を結集させて準王を攻撃し、衛満朝鮮を建国した。
衛満朝鮮は衛満を中心にした少数の中国人亡命者集団と多数の土着集団の結集によって建てられた国で あったため、始めから古朝鮮の正統性を継承するという立場を明白にさせていた。そして、後には中国人亡 命者出身も、やはり古朝鮮人として完全に土着化したと思われる。
一方、政権を奪われた準王は航路で西海岸一帯に亡命し、そこで韓(ハン)王となった。衛満朝鮮は漢との 交易と仲介を通して実力を培養させた。そのようにして蓄積した軍事力と経済的な能力で、臨屯と真番のよ うな小国を服属させて、次第に強大国として浮上していった。
衛満朝鮮の成長は、当時、北方の強国である匈奴と対峙する局面におかれていた漢にとって危機感を惹き 起こし、結局、紀元前109年に両国の間で全面戦争が繰り広げられることになった。
当時、漢は5万人余りに達する大軍を引き連れて衛満朝鮮を攻撃した。しかし、漢が1年近くもかかって、そ れも内紛を誘導して辛うじて勝つことが出来たという点からも、衛満朝鮮の軍事力がどれほど強大であった かを推察することができる。
一方、紀元前2世紀、古朝鮮の北方には韓民族の一部が建てた夫餘(ブヨ)が勢力を広げ始めていて、南方 には辰という国があった。古朝鮮はこれらの国といっしょに高句麗、百済、新羅を形成する母胎となった。
2. 古朝鮮の位置
記録によると古朝鮮は紀元前4世紀末、中国の燕国が王国を称するのに倣って同じように王国を称したことになっている。
そして紀元前2世紀初めには衛満が準王政権を転覆させた後、王倹城に都を定めて衛満朝鮮を建国した。 紀元前109年の秋、衛満朝鮮と漢が戦った時、漢の軍隊は王倹城の防備が強固なので、長い間陥落させることが出来なかった上、紀元前108年の夏には衛満朝鮮の大臣成己(ソン・ギ)が王倹城で抗戦し、結局は最後を迎えることになったという。
この中で、衛満朝鮮はその王城である王倹城が現在の平壌市の大同江の北岸に位置していたが、これは衛満朝鮮と漢の境界の役割をした浿水(ぺス)が、今の鴨綠江(アプロクガン)という点、衛満朝鮮の都の付近に設置された楽浪(ナクラン)郡朝鮮県の治所が、今の平壌市大同江南岸の土城洞のある土城であるとい点、王倹城や朝鮮県と深い関係があることで知られている列水(ヨルス)が、今の大同江であると修正されている点を通して立証される。したがって衛満朝鮮が転覆させた準王の治世に古朝鮮の王城もやはり現在の平壌にあったことになるわけである。
準王以前の古朝鮮、言い換えれば、紀元前4世紀末から3世紀の初めに戦国時代の燕国との戦いで2000里余り(訳注:約800㎞)を奪われる前の古朝鮮の中心地は、具体的にどの地域であったかはっきりしていない。ただ、準王と衛満朝鮮の文化である大同江流域の細形銅剣文化が遼河流域の琵琶形銅剣文化の後を継いだ文化であり、琵琶形銅剣文化が遼河流域で発展したという点を考慮する時、遼河流域のどこかに古朝鮮の中心地があったであろうと思われるが、候補地としては朝陽、錦州、北鎮、沈陽、遼陽、海城、盖州などが論じられている。
3. 古朝鮮の種族とは
古朝鮮は、濊(イエ)・貊(メク)という種族が政治的に成長して発展させた国のようである。
濊貊族は朝鮮半島と遼寧省や吉林省など、現在の中国の東北地域に住んでいた住民で、古朝鮮前期の代表的な文化である琵琶形銅剣文化を形成し、発展させた。中国の諸々の史書には濊貊族に対する記録が多く見られるが、これは早くから韓民族が中国など、諸国に知られていたからである。
濊貊族は、初期に中国の遼寧省にある遼河流域を中心に古朝鮮を建国し、以後、地域的な分化を通して夫餘と高句麗に引き継がれ、周辺の民族とは区別される独自の文化と言語を発展させた。中国の史書『史記』と『漢書』には、古朝鮮を構成する中心種族としての「濊貊朝鮮」が言及されていて、『後漢書』や『三国志』には夫餘と高句麗の先住種族が濊貊だったと記録されている。
その後、これらの種族は地域によって少しずつ状況が違うが、東濊(トンイエ) 、沃沮(オクジョ)、三韓(サムハン)、百済、新羅など諸々の国の中心的な支配集団になった。したがって、韓民族の形成の根幹になった種族は、古朝鮮の人たちである濊貊族と朝鮮半島の南部にいた三韓を構成した韓族だといえるであろう。
4. 政治と経済はどうなっていたか
古朝鮮は祭政一致的な統治体制と八条禁法などの法制度を備えた韓国最初の国家である。
しかし、古朝鮮の存続期間が長いだけに、政治や社会的段階も変貌してきたが、琵琶形銅剣段階では少なくとも君長社会までには至っていたと推察される。そして細形銅剣段階では、如何様な形態であれ、国家の段階に入っていたであろうと論議されている。
古朝鮮前期の政治形態に対しては、現在までは確実な資料が発見されていないが、後期に入ると、すでに中央統治組織が整えられていた。中央には博士・卿・大夫・相・大臣・将軍などがいて、王を補佐して国を治めた。
しかし、まだ統治力が中央集権化されるまでには至らず、共同体的な要素が少なからず残っていた。
古朝鮮を構成している諸々の集団に対する中央政府の統制力が一定の範囲内で働いてはいたが、同時に各々の集団は内部的に自治的な性格を持っていた。
高位の官職を占めていた人の中には、独自の勢力基盤を持っている者もいて、自分の意見が王に受け入れられなくなると逸脱することもあった。
古朝鮮の経済は、一般的に考えられているより、早い時期にかなり発展した状態に置かれていたであろうと推察される。
このような点は古朝鮮が中国の内地と、北方の他の集団とは区別される独特な個性のある青銅器文化を発展させたということと、遼寧地域が早い時期から雑穀を中心とした農耕経済段階に入っていたということ、および周辺地域と多様な交流を行っていたということからも立証される。
特に、衛満朝鮮時代には、中国の漢と周辺諸国の間の中継貿易を通して利益を得、燕国で作られた明刀銭という貨幣を使ったりもした。
明刀銭は中国の北京から朝鮮半島に至る広い地域で発見されるが、これは古朝鮮の住民が周辺の諸々の種族とともに明刀銭を使っていたことを意味する。
5. 社会の構造
古朝鮮は少なくとも衛満朝鮮時代には階級社会は国家段階に入っていたと推察されるが、この時期には、すでに王城、官僚組織、軍隊、階級などの要素がすべて確認されている。
衛満朝鮮の国家としての成長は、仲介貿易と武力による征服でもって強化された。
仲介貿易は漢と衛満朝鮮および衛満朝鮮の周辺の諸集団の間で、武力による征服は衛満朝鮮とその周辺の真番や臨屯のような小国の間でなされた。
統治の中心である王城には王倹城が、官僚としては相職が、軍隊としては将軍の指揮の下に少なくとも1万人余りの兵士がいた。
衛満朝鮮以前には、紀元前4世紀代、王と大夫および兵士の存在が確認されているが、記録が非常に少なく、それ以上確認することは出来ない状態である。但し、紀元前4世紀から3世紀初めに、戦国時代の燕国と戦争をする前に古朝鮮が遼河流域のどこかに存在し、その一帯に琵琶形銅剣文化に関係のある遺跡が分布しているので、ある程度の推論が可能であるが、紀元前8~6世紀に遼河流域に軍事と祭政および身分を象徴する遺物が大量に副葬されている墳墓と、遺物構成が質素な墳墓が発見されていることから、少なくとも君長社会までには発展していたと推察される。
それ以外に、衛満朝鮮前後のものと思われる八条禁法の中で三条が伝えられているが、これによると、人を殺した者は直ちに死刑に処し、人に傷害を加えた者は穀物で賠償しなければならなかった。また、他人のものを盗んだ者は奴隷にしたが、許しを請うためには50万銭を払わなければならないことになっている。そして、人民は盗みをしなかったので門を閉める必要もなく、すべての女性は貞節を守っていて、淫乱やひねくれたところがなかったという。この禁法を通して古朝鮮の社会が一定の法律によって統治されている社会であって、最下位の層として奴隷が存在していたと推察することができる。
6. 神話の伝承
檀君神話は古朝鮮の建国神話で、神話の形成時点に対して様々な意見があるが、遅くとも準王の治世の古朝鮮と衛満朝鮮代には、基本的な話の筋が完成していたと見られている。
檀君神話の脈絡については様々な見解がある。つまり、檀君神話の中心をなしている檀君と熊が北アジアの文化的な伝統の中に置かれているものであり、檀君朝鮮を新石器時代、そして濊貊朝鮮(箕子朝鮮)を青銅器時代の状況がそれぞれ反映されているものとして考えたりもしている。
檀君神話を伝える記録としては、『三国遺事』以前に、すでに一然などが参考とした『古記』、『本紀』、『魏略』などがあったが、現在伝えられているものでは、一然の『三国遺事』、李承休(イ・スンヒュ)の『帝王韻紀』、権擥(クオン・ラム)の『応製詩註』、そして『世宗実録地理志』などに記載されている。その中で『三国遺事』が最も古い形式だということに学者の意見が一致している。そこで、ここでは『三国遺事』に載っている壇国神話を、簡略に整理して紹介しようと思う。
遥かな昔、天神である桓因の庶子である桓雄が人間世界に関心を持った。ところが、桓因がその心中を察し、地上の三位太白山脈を見下ろしたところ、人間を幸せにするだけのことはあるだろうと考え、彼に天子の位の印である天府印を三つ与え、人間界に降りていって治めるようにさせた。
桓雄が3000人の臣下を引きつれて太白山の頂上にある神檀樹の下に降りてきて神市と称し、風伯(プンべク)・雨師(ウサ)・雲師(ウンサ)を従わせて、穀物・寿命・疾病・刑罰・善悪など、人間世界のすべてのことを治めた。
この時、一頭の熊と一頭の虎が同じ洞窟の中で住んでいたが、いつも桓雄に、人間になりたいと願った。これに応えて桓雄が霊妙な蓬を一束、ニンニク20個を与えながら、「お前たちがこれを食べて太陽を100日の間見なければ、人間になることが出来るであろう」といった。熊と虎はそれを食べながら21日間禁忌したのだが、熊は女性になったが、虎は禁忌を守ることが出来ずに人間になれなかった。
ところが人間になった熊女が、今度は神檀樹の下で結婚相手を求める願をかけた。これに応じて桓雄がしばらく人間に変身して、熊女と結婚して息子を産んだ。まさしくその子が古朝鮮の建国者である檀君王倹である。檀君王倹は紀元前2333年に即位したが、白岳山(ペクアクサン)阿斯達(アサダル)などに都を定め、1500年間国を統治して、1908歳の時、阿斯達で山神になった。
(この文章は、いくつかの資料を参考に編集しなおしたものです)
この項 <完>
▲ by mo-taku3 | 2012-12-26 22:57 | (歴史)世界史 | Comments(3)
































































































