朝鮮国家の歴史【①古朝鮮】について

朝鮮国家の歴史【①古朝鮮】について

【この資料は、中国・北朝鮮・韓国・日本の歴史的関係を知る上での一助となればと思い編集している。
特に北朝鮮の存在は、中国にとって重要な位置付けにあること、そのために中国が北朝鮮を保護し続けることなど、歴史的関係を汲み取っていただければ、意味合いもおぼろげながら理解が進むのではないかと期待している。】

好評であれば、引き続きシリーズで歴史を下って紹介していきたいと思っている。




●古朝鮮


1. 概説

古朝鮮とは青銅器文化を基盤にして成立した朝鮮最初の国家である。
中世・近世までは衛満朝鮮以前の朝鮮だけを古朝鮮と呼んだが、最近では衛満朝鮮までをすべて含めて古朝鮮と呼んでいる。
遼河流域の琵琶形銅剣文化と大同江流域の細形銅剣文化が古朝鮮の文化として知られている。
紀元前3~2世紀代の準(ジュン)王の治世の古朝鮮と衛満は平壌(ピョンヤン)を都にしていたが、燕国との 戦争がある前の紀元前4世紀末から3世紀初め以前に、遼河流域のどこかに中心を置いていた。
(ここが現在の朝鮮半島 を含めた遼東の広範囲な地域であったことが伺え、前漢・随・唐などと朝鮮(高句麗など)との攻防の要因も見えてくる。)

高麗時代の僧、一然(イルヨン)が13世紀に書いた『三国遺事』と、一然が参考にした中国の史書『魏書』な どには、古朝鮮が紀元前2333年に、天神である桓因(ファンイン)の孫であり、桓因の庶孫で桓雄(ファンウ ン)の息子である檀君王倹(タングンワンゴム)によって建国されたことになっている。
遼河流域の考古学的な状況と諸々の文献記録を通して考察すると、古朝鮮は紀元前8~6世紀に遼河流域で君長社会の形態で出発し、遅くても紀元前7-5世紀代には古朝鮮という名称が中国にまで知られていたということが分る。

古朝鮮は、発達した青銅器文化と周辺の先進的な文化を受入れて文化と経済は言うまでもなく、政治的な  面でも発展を成し遂げた。
中国の史書である『魏略』によると、紀元前4世紀には古朝鮮の勢力が強大になり、中国の戦国時代の七  雄中の一つであった燕国と勢力を争うほどになっていた。
古朝鮮と戦国時代の燕国の緊張関係は表面的には燕国は王国を称していたが(称王)、古朝鮮の統治者も やはり燕国に引けを取るまいと称王していたことから推察して、当時の古朝鮮が決して弱い国ではなかった ことが分る。
このように古朝鮮と燕国との緊張関係は、ついに紀元前4世紀末から3世紀の初めに全面的な戦争という  形で表面化したが、古朝鮮はこの戦争で2000里(訳注:約800㎞、韓国の1里は約0.393㎞)余りに及ぶ  地域を奪われ、国の中心地を平壌に移すことになった。
この時期は、ちょうど秦から漢に王朝が交代した頃で、漢の初期、中国が混乱している隙に乗じて燕国をは じめとする北方の中国人が、古朝鮮の辺境に多く亡命するようになった。
燕国出身の衛満が彼らと一部の土着集団を結集させて準王を攻撃し、衛満朝鮮を建国した。
衛満朝鮮は衛満を中心にした少数の中国人亡命者集団と多数の土着集団の結集によって建てられた国で あったため、始めから古朝鮮の正統性を継承するという立場を明白にさせていた。そして、後には中国人亡 命者出身も、やはり古朝鮮人として完全に土着化したと思われる。
一方、政権を奪われた準王は航路で西海岸一帯に亡命し、そこで韓(ハン)王となった。衛満朝鮮は漢との 交易と仲介を通して実力を培養させた。そのようにして蓄積した軍事力と経済的な能力で、臨屯と真番のよ うな小国を服属させて、次第に強大国として浮上していった。
衛満朝鮮の成長は、当時、北方の強国である匈奴と対峙する局面におかれていた漢にとって危機感を惹き 起こし、結局、紀元前109年に両国の間で全面戦争が繰り広げられることになった。
当時、漢は5万人余りに達する大軍を引き連れて衛満朝鮮を攻撃した。しかし、漢が1年近くもかかって、そ れも内紛を誘導して辛うじて勝つことが出来たという点からも、衛満朝鮮の軍事力がどれほど強大であった かを推察することができる。
一方、紀元前2世紀、古朝鮮の北方には韓民族の一部が建てた夫餘(ブヨ)が勢力を広げ始めていて、南方 には辰という国があった。古朝鮮はこれらの国といっしょに高句麗、百済、新羅を形成する母胎となった。



2. 古朝鮮の位置

記録によると古朝鮮は紀元前4世紀末、中国の燕国が王国を称するのに倣って同じように王国を称したことになっている。
そして紀元前2世紀初めには衛満が準王政権を転覆させた後、王倹城に都を定めて衛満朝鮮を建国した。 紀元前109年の秋、衛満朝鮮と漢が戦った時、漢の軍隊は王倹城の防備が強固なので、長い間陥落させることが出来なかった上、紀元前108年の夏には衛満朝鮮の大臣成己(ソン・ギ)が王倹城で抗戦し、結局は最後を迎えることになったという。
この中で、衛満朝鮮はその王城である王倹城が現在の平壌市の大同江の北岸に位置していたが、これは衛満朝鮮と漢の境界の役割をした浿水(ぺス)が、今の鴨綠江(アプロクガン)という点、衛満朝鮮の都の付近に設置された楽浪(ナクラン)郡朝鮮県の治所が、今の平壌市大同江南岸の土城洞のある土城であるとい点、王倹城や朝鮮県と深い関係があることで知られている列水(ヨルス)が、今の大同江であると修正されている点を通して立証される。したがって衛満朝鮮が転覆させた準王の治世に古朝鮮の王城もやはり現在の平壌にあったことになるわけである。

準王以前の古朝鮮、言い換えれば、紀元前4世紀末から3世紀の初めに戦国時代の燕国との戦いで2000里余り(訳注:約800㎞)を奪われる前の古朝鮮の中心地は、具体的にどの地域であったかはっきりしていない。ただ、準王と衛満朝鮮の文化である大同江流域の細形銅剣文化が遼河流域の琵琶形銅剣文化の後を継いだ文化であり、琵琶形銅剣文化が遼河流域で発展したという点を考慮する時、遼河流域のどこかに古朝鮮の中心地があったであろうと思われるが、候補地としては朝陽、錦州、北鎮、沈陽、遼陽、海城、盖州などが論じられている。



3. 古朝鮮の種族とは

古朝鮮は、濊(イエ)・貊(メク)という種族が政治的に成長して発展させた国のようである。
濊貊族は朝鮮半島と遼寧省や吉林省など、現在の中国の東北地域に住んでいた住民で、古朝鮮前期の代表的な文化である琵琶形銅剣文化を形成し、発展させた。中国の諸々の史書には濊貊族に対する記録が多く見られるが、これは早くから韓民族が中国など、諸国に知られていたからである。
濊貊族は、初期に中国の遼寧省にある遼河流域を中心に古朝鮮を建国し、以後、地域的な分化を通して夫餘と高句麗に引き継がれ、周辺の民族とは区別される独自の文化と言語を発展させた。中国の史書『史記』と『漢書』には、古朝鮮を構成する中心種族としての「濊貊朝鮮」が言及されていて、『後漢書』や『三国志』には夫餘と高句麗の先住種族が濊貊だったと記録されている。
その後、これらの種族は地域によって少しずつ状況が違うが、東濊(トンイエ) 、沃沮(オクジョ)、三韓(サムハン)、百済、新羅など諸々の国の中心的な支配集団になった。したがって、韓民族の形成の根幹になった種族は、古朝鮮の人たちである濊貊族と朝鮮半島の南部にいた三韓を構成した韓族だといえるであろう。



4. 政治と経済はどうなっていたか

古朝鮮は祭政一致的な統治体制と八条禁法などの法制度を備えた韓国最初の国家である。
しかし、古朝鮮の存続期間が長いだけに、政治や社会的段階も変貌してきたが、琵琶形銅剣段階では少なくとも君長社会までには至っていたと推察される。そして細形銅剣段階では、如何様な形態であれ、国家の段階に入っていたであろうと論議されている。
古朝鮮前期の政治形態に対しては、現在までは確実な資料が発見されていないが、後期に入ると、すでに中央統治組織が整えられていた。中央には博士・卿・大夫・相・大臣・将軍などがいて、王を補佐して国を治めた。
しかし、まだ統治力が中央集権化されるまでには至らず、共同体的な要素が少なからず残っていた。
古朝鮮を構成している諸々の集団に対する中央政府の統制力が一定の範囲内で働いてはいたが、同時に各々の集団は内部的に自治的な性格を持っていた。
高位の官職を占めていた人の中には、独自の勢力基盤を持っている者もいて、自分の意見が王に受け入れられなくなると逸脱することもあった。
古朝鮮の経済は、一般的に考えられているより、早い時期にかなり発展した状態に置かれていたであろうと推察される。
このような点は古朝鮮が中国の内地と、北方の他の集団とは区別される独特な個性のある青銅器文化を発展させたということと、遼寧地域が早い時期から雑穀を中心とした農耕経済段階に入っていたということ、および周辺地域と多様な交流を行っていたということからも立証される。
特に、衛満朝鮮時代には、中国の漢と周辺諸国の間の中継貿易を通して利益を得、燕国で作られた明刀銭という貨幣を使ったりもした。
明刀銭は中国の北京から朝鮮半島に至る広い地域で発見されるが、これは古朝鮮の住民が周辺の諸々の種族とともに明刀銭を使っていたことを意味する。



5. 社会の構造

古朝鮮は少なくとも衛満朝鮮時代には階級社会は国家段階に入っていたと推察されるが、この時期には、すでに王城、官僚組織、軍隊、階級などの要素がすべて確認されている。
衛満朝鮮の国家としての成長は、仲介貿易と武力による征服でもって強化された。
仲介貿易は漢と衛満朝鮮および衛満朝鮮の周辺の諸集団の間で、武力による征服は衛満朝鮮とその周辺の真番や臨屯のような小国の間でなされた。
統治の中心である王城には王倹城が、官僚としては相職が、軍隊としては将軍の指揮の下に少なくとも1万人余りの兵士がいた。
衛満朝鮮以前には、紀元前4世紀代、王と大夫および兵士の存在が確認されているが、記録が非常に少なく、それ以上確認することは出来ない状態である。但し、紀元前4世紀から3世紀初めに、戦国時代の燕国と戦争をする前に古朝鮮が遼河流域のどこかに存在し、その一帯に琵琶形銅剣文化に関係のある遺跡が分布しているので、ある程度の推論が可能であるが、紀元前8~6世紀に遼河流域に軍事と祭政および身分を象徴する遺物が大量に副葬されている墳墓と、遺物構成が質素な墳墓が発見されていることから、少なくとも君長社会までには発展していたと推察される。
それ以外に、衛満朝鮮前後のものと思われる八条禁法の中で三条が伝えられているが、これによると、人を殺した者は直ちに死刑に処し、人に傷害を加えた者は穀物で賠償しなければならなかった。また、他人のものを盗んだ者は奴隷にしたが、許しを請うためには50万銭を払わなければならないことになっている。そして、人民は盗みをしなかったので門を閉める必要もなく、すべての女性は貞節を守っていて、淫乱やひねくれたところがなかったという。この禁法を通して古朝鮮の社会が一定の法律によって統治されている社会であって、最下位の層として奴隷が存在していたと推察することができる。



6. 神話の伝承

檀君神話は古朝鮮の建国神話で、神話の形成時点に対して様々な意見があるが、遅くとも準王の治世の古朝鮮と衛満朝鮮代には、基本的な話の筋が完成していたと見られている。
檀君神話の脈絡については様々な見解がある。つまり、檀君神話の中心をなしている檀君と熊が北アジアの文化的な伝統の中に置かれているものであり、檀君朝鮮を新石器時代、そして濊貊朝鮮(箕子朝鮮)を青銅器時代の状況がそれぞれ反映されているものとして考えたりもしている。
檀君神話を伝える記録としては、『三国遺事』以前に、すでに一然などが参考とした『古記』、『本紀』、『魏略』などがあったが、現在伝えられているものでは、一然の『三国遺事』、李承休(イ・スンヒュ)の『帝王韻紀』、権擥(クオン・ラム)の『応製詩註』、そして『世宗実録地理志』などに記載されている。その中で『三国遺事』が最も古い形式だということに学者の意見が一致している。そこで、ここでは『三国遺事』に載っている壇国神話を、簡略に整理して紹介しようと思う。
遥かな昔、天神である桓因の庶子である桓雄が人間世界に関心を持った。ところが、桓因がその心中を察し、地上の三位太白山脈を見下ろしたところ、人間を幸せにするだけのことはあるだろうと考え、彼に天子の位の印である天府印を三つ与え、人間界に降りていって治めるようにさせた。
桓雄が3000人の臣下を引きつれて太白山の頂上にある神檀樹の下に降りてきて神市と称し、風伯(プンべク)・雨師(ウサ)・雲師(ウンサ)を従わせて、穀物・寿命・疾病・刑罰・善悪など、人間世界のすべてのことを治めた。
この時、一頭の熊と一頭の虎が同じ洞窟の中で住んでいたが、いつも桓雄に、人間になりたいと願った。これに応えて桓雄が霊妙な蓬を一束、ニンニク20個を与えながら、「お前たちがこれを食べて太陽を100日の間見なければ、人間になることが出来るであろう」といった。熊と虎はそれを食べながら21日間禁忌したのだが、熊は女性になったが、虎は禁忌を守ることが出来ずに人間になれなかった。
ところが人間になった熊女が、今度は神檀樹の下で結婚相手を求める願をかけた。これに応じて桓雄がしばらく人間に変身して、熊女と結婚して息子を産んだ。まさしくその子が古朝鮮の建国者である檀君王倹である。檀君王倹は紀元前2333年に即位したが、白岳山(ペクアクサン)阿斯達(アサダル)などに都を定め、1500年間国を統治して、1908歳の時、阿斯達で山神になった。

(この文章は、いくつかの資料を参考に編集しなおしたものです)






この項 <完>

by mo-taku3 | 2012-12-26 22:57 | (歴史)世界史 | Comments(3)

新熊野神社と後白河法皇

京都【新熊野神社】(いまくまのじんじゃ)と後白河法皇


新熊野神社(いまくまのじんじゃ)は熊野信仰の盛んな平安時代末期、永暦元年(1160年)、後白河法皇によって創建された神社です。
NHKの大河ドラマ「平清盛」でご存知の方も多いと思うが、後白河天皇は1155年に即位し、1158年に退位したが、退位後も引き続き院政を敷かれ、その時住まいとしたのが、現在三十三間堂の東側にある法住寺です。
その当時は「法住寺殿」と呼ばれ、その鎮守社として新熊野神社が、鎮守寺として三十三間堂が創建されました。その造営に当たったのが法皇の命を受けた平清盛・重盛父子ということです。
後白河法皇は、一生のうちに34回熊野に参詣しましたが、当時の都人にとって熊野に参詣することは大変なことで、そう何回も行けるわけではありません。そこで、熊野の新宮・別宮として創建されたのが新熊野神社で、長らく京の熊野信仰の中心地として栄えました。
新熊野神社が「新熊野」と書いて「いまくまの」と読むのは、紀州の古い熊野に対する京の新しい熊野、紀州の昔の熊野に対する京の今の熊野という当時の都人の認識が、その由来となっています。
その後350年間、繁栄を極めましたが、応仁の乱以降、度々の戦火に見舞われ、一時は廃絶同様の状態になってしまいました。
それを再建されたのが、江戸時代初期、後水尾天皇の中宮東福門院(3代将軍徳川家光の妹)で、現在の本殿は寛文13年(1663年)聖護院宮道寛親王(後水尾上皇の皇子)によって修復されたものです。

新熊野神社は東大路通を下り、第一日赤病院の手前にひっそりとたたずんでいる。

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●「影向(けいこう)の大樟」
社頭の「大樟」は当社創建の折、紀州熊野より運ばれた「上皇手植えの樟(くすのき)」と伝えら れており、樹齢は900年と推定されています。
熊野の神々が降臨する「影向(けいこう)の大樟」と呼ばれ、そのいわれは神仏が現われるという意味で、現在では「樟大権現」「樟龍弁財天」として多くの人々に信仰されています。
大権現とは熊野の神の化身(仮の姿)、樟龍弁財天とは弁財天(仏)の化身という意味です。樹齢900年の老木でありながら現在でも成長し続けている姿を見て、「健康長寿」「病魔退散」、特に「お腹の神様」として御利益を求める人が後を立ちません。(京都市指定 天然記念物)

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帽子を置いてみた。これで幹の太さが想像していただけると思います。
京都市指定の天然記念物になったのも頷ける。

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能楽機縁の地
当社は能楽の大成者世阿弥が、まだ藤若丸と称していた文中3年(1374)のころ父の観世清次とともに大和の猿楽結崎座を率い勧進興行を行なったところで、世に「今熊野勧進猿楽」と呼ばれ、見物していた室町幕府第3代将軍義満が、その至芸に感激、二人を同朋衆に加え、父子を、それぞれ観阿弥、世阿弥と名乗らせた機縁の地である。

時の将軍の援助を受けた世阿弥は父の志をつぎ後顧の憂いなく猿楽の芸術性を高めるため日夜、研究努力を重ね、これを今日の能楽に大成させた。

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●神仏習合(*;後述)

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下之社の神仏習合。

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●模擬「熊野古道」があり、古道にあるポイントを幾つか説明がされている。

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ここにはその一部を載せてみた。

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駒札には、熊野三山の説明が載っている。
熊野三山(くまのさんざん)は、熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社の3つの神社の総称。

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(*)神仏習合
資料によると、
「日本人が、仏は日本の神とは違う性質を持つと理解するにつれ、仏のもとに神と人間を同列に位置づけ、日本の神々も人間と同じように苦しみから逃れる事を願い、仏の救済を求め解脱を欲しているという認識がされるようになった。
715年(霊亀元年)には越前国気比大神の託宣により神宮寺が建立されるなど、奈良時代初頭から国家レベルの神社において神宮寺を建立する動きが出始め、満願禅師らによる鹿島神宮、賀茂神社、伊勢神宮などで境内外を問わず神宮寺が併設された。
また、宇佐八幡神のように神体が菩薩形をとる神(僧形八幡神)も現れた。
奈良時代後半になると、伊勢桑名郡にある現地豪族の氏神である多度大神が、神の身を捨てて仏道の修行をしたいと託宣するなど、神宮寺建立の動きは地方の神社にまで広がり、若狭国若狭彦大神や近江国奥津島大神など、他の諸国の神も8世紀後半から9世紀前半にかけて、仏道に帰依したいとの意思を示すようになった。
こうして苦悩する神を救済するため、神社の傍らに寺が建てられ神宮寺となり、神前で読経がなされるようになった。
こうした神々の仏道帰依の託宣は、そのままそれらを祀る有力豪族たちの願望であったと考えられている。
律令制の導入により社会構造が変化し、豪族らが単なる共同体の首長から私的所有地を持つ領主的な性格を持つようになるに伴い、共同体による祭祀に支えられた従来の神祇信仰は行き詰まりを見せ、私的所有に伴う罪を自覚するようになった豪族個人の新たな精神的支柱が求められた。
大乗仏教は、その構造上利他行を通じて罪の救済を得られる教えとなっており、この点が豪族たちに受け入れられたと思われる。
それに応えるように雑密を身につけた遊行僧が現われ、神宮寺の建立を進めたのだと思われる。まだ密教は体系化されていなかったが、その呪術的な修行や奇蹟を重視し世俗的な富の蓄積や繁栄を肯定する性格が神祇信仰とも折衷しやすく、豪族の配下の人々に受け入れられ易かったのだろうと考えられている。

こうして神社が寺院に接近する一方、寺院も神社側への接近を示している。
8世紀後半には、その寺院に関係のある神を寺院の守護神、鎮守とするようになった。
710年(和銅3年)の興福寺における春日大社は最も早い例である。
また、東大寺は大仏建立に協力した宇佐八幡神を勧請して鎮守とし、これは現在の手向山八幡宮である。
他の古代の有力寺院を見ても、延暦寺は日吉大社、金剛峯寺は丹生神社、東寺は伏見稲荷大社などといずれも守護神を持つことになった。

この段階では、神と仏は同一の信仰体系の中にはあるが、あくまで別の存在として認識され、同一の存在として見るまでには及んでいない。
この段階をのちの神仏習合と特に区別して神仏混淆ということもある。
数多くの神社に神宮寺が建てられ、寺院の元に神社が建てられたが、それは従来の神祇信仰を圧迫する事なく神祇信仰と仏教信仰とが互いに補い合う形となった。」

とある。





この項 <完>

by mo-taku3 | 2012-12-22 13:12 | (寺社)京都の神社仏閣 | Comments(2)

嵐電沿線の神社・仏閣

嵐電沿線の神社・仏閣


大宮・嵐山・北野白梅町を結ぶ嵐電沿線には寺社・仏閣が沢山存在する。
どちらかというと平安京の西の方角は、離宮や小庵が営まれている。
今回は嵐山・太秦近辺を載せてみたいと思う。


●「京都嵐山【櫟谷宗像神社(いちたにむなかた神社)】
京都市西京区嵐山中尾下町61(渡月小橋南詰西へすぐ)

松尾大社の境外摂社で、御祭神は奥津島姫命と市杵島姫命とし、古くから俗にいう嵐山弁天社と称し、奈良時代大宝年間より鎮座されている名社です。
平安時代、葛野(かどの)に鋳銭所(今の造幣局)があり、新しい鋳銭が奉納されたことから財運向上の神様、福徳財宝の神としの信仰も厚い。
また、河海の女神でることから水難の守護神ともされています。
古来、風光明媚の名勝嵐山に訪れる多くのひとが詣でた神社です。
また、この櫟谷宗像神社はほんとに小さな神社ですが、松尾大社の還幸祭には、必ず子供神輿は奉納にいきます。また、モンキーパークの入り口にもなっています。

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●大悲閣(千光寺)


正しくは、嵐山大悲閣千光寺(せんこうじ)と号する禅宗の寺である。  
慶長19年(1614)角倉了以(すみのくらりょうい)が、二尊院の僧、道空了椿(どうくうりょうちん)を中興開山に請じて建立した寺院である。了以は、我国民間貿易の創始者として、南方諸国と交易し、海外文化の輸入に功績をたてた人物で、国内においては、保津川、富士川、天龍川、高瀬川等の大小河川を開鑿(かいさく)し、舟運の便益に貢献した。晩年は、この地に隠棲し、開鑿工事に関係した人々の菩提を弔うため、この寺を建てたといわれている。  本堂には、了以の念持仏であった本尊の千手観音像及び法衣姿の木像了以像を安置している。  境内には、了以の子、素庵(そあん)が建立した林羅山(はやしらざん)の撰文による了以の顕彰碑や夢窓国師(むそうこくし)の座禅石と伝える大きな石がある。

訪ねたときは、丁度改修中ではいることはできなかったのは残念だった。がまた訪れてみたいと思っている。

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●鹿王院(ろくおういん)

右京区嵯峨北堀町。足利義満が1379年(康暦1)建立した宝幢寺の塔頭である。本寺は衰微し、この一院だけ残った。臨済宗の単立寺院。本尊釈迦如来及び十大弟子は運慶作と伝える。回廊で結ばれた諸堂の間に枯山水の庭がひろがり、仏舎利を収めた舎利殿がある。絹本着色夢窓国師像2幅(重文)など多くの文化財を所蔵している。
枯山水の広々とした庭は、日本最初の平庭式の枯山水庭園といわれている。

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●車折神社(くるまさきじんじゃ)

車折神社(くるまざきじんじゃ)は平安時代後期の学者、清原頼業を祀る。
後嵯峨天皇が社前を通りかかった際に、御車のかなえが折れ、神意を畏れてこの名がついたらしい。
また、5月第3日曜日に大堰川(おおいがわ)で王朝の船遊びを再現する三船祭で知られる。
商売繁盛の神様であるが初詣や祭、結婚式などがない普段は、参拝客や観光客もまばらである。

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境内にある芸能神社は芸事の神様として知られる珍しい神社である。
社殿の内側には、演歌歌手のステッカーや芸能関係者の名刺や札がびっしりと貼り付けられており、芸能神社周辺の玉垣には、有名タレントや歌舞伎役者、日本舞踊、宝塚歌劇などの人の名が記されており、現役芸能人の名前も載っている。

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●斎宮神社(さいぐうじんじゃ)

有栖(ありす)川の西に位置する斎宮神社(さいぐうじんじゃ)は、伊勢神宮に奉仕した斎宮ゆかりの野宮(ののみや)旧跡といわれている。
斎宮とは、斎王の御所を意味し、平安時代以降は、斎王自身のことも指すようになった。
祭神は天照大神。厄除け開運、婦女子の血の道の守護などの信仰がある。
斎王とは、伊勢神宮の天照大神に御杖代(みつえしろ、神の意を受ける依代)として奉仕した未婚の内親王か女王のことをいう。
伝承では、垂仁(すいにん)天皇の代(B.C.29? - A.D.70?)の、倭姫命(やまとひめのみこと)に始まったという。実質的には、天武天皇(670)の娘・大来皇女(おおくのこうじょ)から、後醍醐天皇の代(1330頃)まで、660年間に60人余りの斎王が生まれている。
天皇の即位とともに、斎王に卜定(ぼくじょう)された未婚の内親王か女王は、大内裏の斎所である初斎院(しょさいいん)で1年間の潔斎をした。その後、野宮で1、2年の精進潔斎生活を送り、伊勢の斎宮寮へ向かったとされている。

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●広隆寺(こうりゅうじ)

真言宗御室派の寺院で、山号を蜂岡山です。蜂岡寺(はちおかでら、ほうこうじ)、秦公寺(はたのきみでら)、太秦寺などの別称があり、帰化人系の氏族である秦氏の氏寺であり、平安京遷都以前から存在した、京都最古の寺院といわれている。
広隆寺は、古くは蜂岡寺、秦寺、秦公寺、葛野寺、太秦寺など、さまざまな名称で呼ばれた。
もっとも古い呼称は蜂岡寺で、推古天皇11年(603)に建立された山城最古の寺であるとされている。
寺伝は、蜂岡寺を聖徳太子が在世中に建立した七大寺の一つとしている。
太子建立の七大寺とは、1.法隆寺(法隆学問寺)、2.四天王寺、3.中宮寺(中宮尼寺)、4.橘寺、5.蜂岡寺(広隆寺)、6.池後寺(池後尼寺、法起寺)および7.葛木寺(葛城尼寺)をいう。

京都にある有名社寺で、広隆寺のように寺の草創が確定していない寺院は珍しい。
『日本書紀』に広隆寺草創に関わる記述があり、発掘調査の結果からも草創が7世紀にさかのぼる古寺であることは確かだが、弘仁9年(818年)の火災で古記録を失ったこともあり、初期の歴史は必ずしも明確ではない。
『日本書紀』によれば、推古天皇11年(603年)、聖徳太子が「私は尊い仏像を持っている。誰か祀る者はいないか」と諸臣に尋ねたところ、秦河勝が進み出て、仏像を戴き、蜂岡寺(広隆寺の古称)を造ったとされている。
一方、承和5年(838年)成立の『広隆寺縁起』や9世紀後半成立の『広隆寺資材交替実録帳』には、広隆寺は推古天皇30年(622年)、同年に死去した聖徳太子の供養のために建立されたとあります。『日本書紀』と『広隆寺縁起』とでは創建年に関して20年近い開きがあります。これについては、寺は 603年に草創され、622年に至って完成したとする解釈と、603年に建てられた『蜂岡寺』と622年に建てられた『広隆寺』という別々の寺院が後に合併したとする解釈がある。
しかし広隆寺の前身は蜂岡寺であったとしているのが、今日の定説です。

なににはともあれ、ここには秦河勝が聖徳太子から貰い受けたとされる、国宝第一号に指定された像高2尺8寸の宝冠弥勒木造(通称;弥勒菩薩)があることで有名で、奈良中宮寺の弥勒菩薩とともに、大勢の観光客が訪れる。

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まだ、沢山の寺社が存在している。
今後とも載せて行く予定でいる。




この項 <完>

by mo-taku3 | 2012-12-14 09:48 | (寺社)京都の神社仏閣 | Comments(9)

築地本願寺と中央卸売市場

築地本願寺と中央卸売市場



築地本願寺は、本願寺派の寺院である。
ここは、有名人のお葬式によく使われており、TVなどでも紹介されることが多い。
鉄筋コンクリート造りで、歴史すきから見るとあまり興味が湧かないのはしょうがない。

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本願寺をでて左に行くと晴海通りがあり、そこから先は、有名な?築地場外市場となる。
14:00頃の場外市場は、まだまだ観光客などでごった返していた。
卸売市場には繁忙期なので1月20日までは入れないので、大分観光客が減ったようではあるが。
大きな駐車場も幾つかあり、問屋さんは発送に大忙しだった。

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卸売市場内部をチラ見してきた。

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この項 <完>

by mo-taku3 | 2012-12-12 22:47 | (紹介記事)全国 | Comments(6)

築地波除稲荷神社

築地市場の傍の波除稲荷神社



神社の由緒によると、
今から350年程前、この築地一帯は一面の海でした。
江戸開府時(1603)の慶長江戸絵図には、今の日比谷のお堀の辺りまで汐入を描き八重洲の海岸線に船の役所が見えます。
開府前より始まった江戸城西丸の増築に掘られたお堀の揚げ土をもって日比谷入江から埋め始められた江戸東南海埋立はその後、全国の諸侯70家に千石に一人の人夫を出させ、後にはその埋立の役員の名をとり、尾張町、加賀町等と名づけられました。
そして70年の後、明暦の大火の後に四代将軍家綱公が手がけた最後の埋立の工事困難を極めたのが、この築地海面でした。堤防を築いても築いても激波にさらわれてしまうのです。
或夜のこと海面を光りを放って漂うものがあり、人々は不思議に思って船を出してみるとそれは立派な稲荷大神の御神体でした。皆は畏れて早速現在の地に社殿を造りお祀りして、盛大なお祭りをしました。
それからというものは波風がぴたりとおさまり、工事はやすやすと進み埋立も、万治2年(1659)終了致しました。
人々はその御神随のあらたかさに驚き稲荷大神に「波除」の尊称を奉り、また雲を従える龍、風を従える虎、一声で万物を威伏させる獅子、の巨大な頭が数体奉納され、これを担いでまわったのが祭礼「つきじ獅子祭」の始まりです。
それ以来今に至るまで「災難を除き、波を乗り切る」波除稲荷様として、災難除・厄除・商売繁盛・工事安全等の御神徳に崇敬が篤いのであります。その御神徳はその後も益々大きく、当時辺境の地であった築地も次第に開け現在の如く繁華街になったのです。

さて、この神社は、中央卸売市場の入り口のところにある。
やはり、大きな銀杏の木がある。しかも枝垂れ銀杏でなかなか立派である。

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中に入ると左手に、市場に関係するたまご塚・すし塚が目についた。

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「つきじ獅子祭」の獅子が飾られている「獅子殿」。

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本殿にも沢山の獅子が飾られていた。

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変わった「お歯黒獅子」殿もある。

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中央区教育委員会掲示による波除稲荷神社の由緒には、
波除稲荷神社の起立は万治年間(1658-61)といわれています。
当時、築地一帯の埋立てに際し、堤防がたびたび波に崩されて工事が難行していました。
ある日、海中に漂う稲荷神の像をみつけ、これを祀ったところ、風も波もおさまり、工事が無事完了したと伝えられています。「波除」という尊称もこの伝説に由来するものです。
以来、厄除や航海安全の神として、人々に厚く信仰され、祭りでは数多くの獅子頭が町をねりあるき、獅子祭りと呼ばれていました。
今でも3年に一度、6月に行われる例大祭では、嘉永元年(1848)に造られた獅子頭が築地周辺を練り歩き、その伝統を伝えています。
江戸時代、築地の南側には尾張徳川家の蔵屋敷があり、社殿前の天水鉢は、そこで船から荷物を陸揚げする小揚の人たちから奉納されたもので、獅子頭とともに中央区民文化財に登録されています。




この項 <完>

by mo-taku3 | 2012-12-07 14:08 | (寺社)全国の神社仏閣 | Comments(2)

上野の西郷さんと彰義隊のお墓

上野の西郷さんと彰義隊のお墓



西郷さん。西郷隆盛は多くの皆さんがご存知のように、薩摩藩出身の幕末の英雄とされています。
西南の役で新政府に反旗を翻し、不満武士を集めて戦ったが鎮圧されて自殺している。
幕末では、何かにつけて目立ったことと、悲劇の主人公の扱いを受けたことで、判官びいきの日本人には大うけで、銅像までつくられることになったと思われる。
しかし、実態は少し違うようである・・・。

この銅像の近くからは、スカイツリーが見える。

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西郷さんは、薩長(特に薩摩)中心の政府にこだわり、坂本竜馬などの挙国一致体制の破壊なども行っていたとも言われている。
また、この銅像の体型・顔は本人とは異なるようだ。

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1868年7月4日(慶応4年5月15日)未明、大村益次郎が指揮する政府軍は、寛永寺一帯に立てこもる彰義隊を包囲し、雨中総攻撃を行った。
更に引き続きの攻撃によって彰義隊は鎮圧されている。

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この項 <完>

by mo-taku3 | 2012-12-07 12:30 | (歴史)京都史 | Comments(7)

上野東照宮の紅葉

上野東照宮の紅葉


藤堂家の屋敷地であった上野に、1627年東照宮が造営された。
上野東照宮が造営されたエピソードが次のように伝えられている。
1616年、お見舞いのために駿府城にいた藤堂高虎と天海僧正は、危篤の家康公の病床に招かれ、三人一つ所に末永く魂鎮まるところを作ってほしいという遺言を受けたという。
1646年には正式に東照宮の宮号を授けられました。
1651年に三代将軍・徳川家光公が大規模に造営替えをしたものが、現存する社殿と言われている。
宮は、金箔をふんだんに使い、大変豪華であったことから「金色殿」とも呼ばれている。
当時は東叡山寛永寺の一部だったが、戦後神仏分離令により寛永寺から独立している。
その後、戦争や震災などの災厄に一度も倒れることなく、江戸の面影をそのまま現在に残す、貴重な文化財建造物である。

春はぼたん・桜の名所として、秋は紅葉狩り、お正月は初詣や冬ぼたん鑑賞の方で大変賑わい、開運・学業などの祈願成就のため参詣者が後を絶たない。
本格的な江戸建築を間近でみれる神社として、珍しい。
しかし今回は、運悪く改築中だったので内部を見ることはできなかった。
でも、見事な紅葉が見られたことは幸いだった。

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宮は改築のため、外観の写真が拡大されて飾られていた

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この項 <完>

by mo-taku3 | 2012-12-07 11:38 | (風情)日本の四季 | Comments(2)

上野清水観音堂の紅葉

上野清水観音堂の紅葉



清水観音堂は、寛永寺を開創した天海が京都清水寺を模して寛永八年(1632)に創建した。
当初、現在地より100m余り北方の摺鉢山上にあったが、元禄七年(1694)この地へ移築し、現在に至っている。
本堂及び本尊の木造厨子が重要文化財に指定されており、本尊は千手観世音菩薩、脇尊は子育て子授け観音として知られている。
人形供養はこの子育て観音に祈願し、子供を授かった人がお礼と子供の健やかな成長を願って人形を納めた事に始まる。
当日は全国から奉納された人形が供養碑前に並べられ、法要の後にお焚き上げされる。
堂宇は桁行五軒梁間四間、単層入母屋造り、本瓦葺、とくに不忍池に臨む正面の舞台造りは、江戸時代より浮世絵に描かれるなど著名な景観である。

場所は、西郷さんの銅像の裏手の方にあり、未だ紅葉が見事だったので寄ってみた。

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この項 <完>

by mo-taku3 | 2012-12-07 10:26 | (風情)日本の四季 | Comments(2)

上野寛永寺を訪ねて

上野寛永寺を訪ねて


寛永寺は、徳川家康、秀忠、家光公の三代にわたる将軍の帰依を受けた慈眼大師天海大僧正が、寛永二年(1625)徳川幕府の安泰と万民の平安を祈願するため、江戸城の鬼門(東北)にあたる上野の台地に建立している。
九世紀、桓武天皇の帰依を受けた天台宗の宗祖伝教大師最澄が開いた比叡山延暦寺が、京都御所の鬼門に位置し、朝廷の安穏を祈る鎮護国家の道場であったことにならっている。そこで山号を東の比叡山という意味で東叡山としている。
更に、寺号も延暦寺同様、創建時の元号を使用することを勅許され、寛永寺と命名されました。やがて第三代の寛永寺の山主には、後水尾天皇の第三皇子守澄(しゅちょう)法親王を戴き、以来歴代山主を皇室から迎えている。
そして朝廷より山主に対して輪王寺宮の称号が下賜され、輪王寺宮は東叡山寛永寺のみならず、比叡山延暦寺、日光山万願寺(現 輪王寺)の山主を兼任、三山管領宮(さんざんかんれいのみや)といわれ東叡山に在住し、文字通り仏教界に君臨して江戸市民の誇りともなった。

幕末の戊辰戦争で、境内地に彰義隊がたてこもって戦場と化し、官軍の放った火によって、全山の伽藍の大部分が灰燼に帰し、さらに明治政府によって境内地は没収されるなど、寛永寺は壊滅的な打撃を受けた。
しかし明治十二年(1879)、ようやく寛永寺の復興が認められ、現在地(旧子院大慈院跡)に川越喜多院より本地堂を移築、山内本地堂の用材も加えて、根本中堂として再建された。
また明治十八年(1885)には、輪王寺門跡の門室号が下賜され、天台宗の高僧を輪王寺門跡門主として寛永寺に迎え、再出発となった。幸い伝教大師作の本尊薬師如来や東山天皇御宸筆「瑠璃殿(るりでん)」の勅額は、戦争中に運び出され、現在の根本中堂に無事安置されている。

正門から見た寛永寺。以前は威容を誇っていたと思うが残っているのは本堂、鐘楼など小規模となっている。
ただ塔頭、末寺などの寺社が公園内に広く分布している。

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やはり大きな銀杏の木があった。

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本堂。

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銅鐘が吊られている鐘楼。

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正門の黒門を見ると、昔習った教科書に載っていた彰義隊の画を思い出します。




この項 <完>

by mo-taku3 | 2012-12-07 09:30 | (寺社)全国の神社仏閣 | Comments(3)

「スカイツリー」20121206

「スカイツリー」20121206


スカイツリーができてから初めて行ってみた。
少し時間が遅くなったが何とか陽のあるうちにたどり着くことができた。
スカイツリーはやはり高い。周りに比べるもがない高さであった。

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東京も16時を過ぎると少し薄暗くなってくるが、それと合わせてスカイツリーはカラーライトアップされている。
なかなか味のある色合いですばらしい。

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真下から見上げるとこれまた見事なコントラストである。

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スカイツリー駅(旧業平橋駅(なりひらばしえき))もすっかりきれいに整備されていた。

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Soramachi(そらまち)に入るエスカレーター。

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薄暮の16:30頃は、中途半端な時間なのか意外と空いているようだ。
(登るのは家内と一緒の時にしようと今回は上らず)

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そらまちは結構賑わっていたが、この写真で少しは雰囲気を感じてもらえるだろうか。

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東武はどうしても泥臭い感は昔から拭えないが、ここはすっかり垢抜けて大きくイメージが変わった感がある。
次回は是非上ってみたいと思っている。




この項 <完>

by mo-taku3 | 2012-12-06 16:03 | (紹介記事)全国 | Comments(2)