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京都五山(別格)【南禅寺】

京都五山(別格)【南禅寺】


南禅寺の建立以前、この地には、後嵯峨天皇が文永元年(1264年)に造営した離宮の禅林寺殿(ぜんりんじどの)があった。「禅林寺殿」の名は、南禅寺の北に現存する浄土宗西山禅林寺派総本山の禅林寺(永観堂)に由来する。この離宮は「上の御所」と「下の御所」に分かれ、うち「上の御所」に建設された持仏堂を「南禅院」と称した。現存する南禅寺の別院・南禅院はその後身である。
亀山上皇は正応2年(1289年)、40歳の時に落飾(出家)して法皇となった。2年後の正応4年(1291年)、法皇は禅林寺殿を寺にあらため、当時80歳の無関普門を開山として、これを龍安山禅林禅寺と名づけた。
伝承によれば、この頃禅林寺殿に夜な夜な妖怪変化が出没して亀山法皇やお付きの官人たちを悩ませたが、無関普門が弟子を引き連れて禅林寺殿に入り、静かに座禅をしただけで妖怪変化は退散したので、亀山法皇は無関を開山に請じたという。
無関普門は、東福寺開山の円爾に師事した後、40歳で宋に留学、10年以上も修行した後、弘長2年(1262年)帰国し、70歳になるまで自分の寺を持たず修行に専念していたが、師の円爾の死にをうけて弘安4年(1281年)に東福寺の住持となった。
その10年後の正応4年(1291年)に南禅寺の開山として招かれるが、間もなく死去する。
開山の無関の死去に伴い、南禅寺伽藍の建設は実質的には二世住職の規庵祖円(南院国師)が指揮し、永仁7年(1299年)頃に寺観が整った。
当初の「龍安山禅林禅寺」を「太平興国南禅禅寺」という寺号に改めたのは正安年間(1299 - 1302年)のことという。
建武元年(1334年)、後醍醐天皇は南禅寺を五山の第一としたが、至徳3年(1385年)に足利義満は自らの建立した相国寺を五山の第一とするために南禅寺を「別格」として五山のさらに上に位置づけ、京都五山と鎌倉五山に分割した。
室町時代には旧仏教勢力の延暦寺や三井寺と対立して政治問題に発展、管領の細川頼之が調停に乗り出したりしている。
明徳4年(1393年)と文安4年(1447年)に火災に見舞われ、主要伽藍を焼失したがほどなく再建したが、応仁の乱における市街戦で伽藍をことごとく焼失してからは再建も思うにまかせなかった。
南禅寺の復興が進んだのは、江戸時代になって慶長10年(1605年)金地院崇伝が入寺してからである。
崇伝は徳川家康の側近として外交や寺社政策に携わり、「黒衣の宰相」と呼ばれた政治家でもあった。また、幕府から「僧録」という地位を与えられた。
これは日本全国の臨済宗の寺院を統括する役職である。

なお南禅寺境内は平成17年(2005年)に国の史跡に指定されている。


さて、岡崎方面から入ると、中門がある。大きな『大本山南禅寺』の看板がかかっている。

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勅使門。この門は寛永18年(1641年)御所の「日ノ御門」を移築したものといわれている。

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三門は、歌舞伎の『楼門五三桐』(さんもんごさんのきり)の二幕目返しで石川五右衛門が「絶景かな絶景かな……」という名科白を廻す「南禅寺山門」がこれである。ただし実際の三門は五右衛門の死後30年以上経った寛永5年(1628年)の建築である。
五間三戸(正面柱間が5間で、うち中央3間が出入口)の二重門(2階建ての門)となっている。
藤堂高虎が大坂夏の陣で戦死した一門の武士たちの冥福を祈るため寄進したものである。

正面から見た三門。若い人たちがポーズを作って撮影していた。

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私も、石川五右衛門にあやかってみようと三門に上がってみることにした。
三門に上がるのはこのような急な階段であった。

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回廊は横から見ると心なしか手摺側に少し傾いているように見え、ちょっと怖かった。

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歌舞伎の「絶景かな~」の通り眺めは最高であった。
木々の上に京都の街並みが見え、明媚だった。多分、桜や紅葉の季節はもっといいのではないか。
ちなみに上るには、500円必要。

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三門の駒札。三門とは三解脱門をいう。

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上層は「五鳳楼」といい、釈迦如来と十六羅漢像のほか、寄進者の藤堂家歴代の位牌、大坂の役の戦死者の位牌などを安置する。(堂内の写真撮影は禁とあったが、正面だけだったので横から撮った後気付き申し訳ない)
天井画の天人と鳳凰の図は狩野探幽筆。知恩院三門、東本願寺御影堂門とともに、京都三大門の一つに数えられている。

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法堂は、明治28年(1895年)にこたつの火の不始末で焼失した後、明治42年(1909年)に再建されたものである。

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方丈は国宝。
大方丈と小方丈からなる。
大方丈は慶長度の御所建て替えに際し、天正年間建設の旧御所の建物を下賜されたもの。
「旧御所清涼殿を移築した」とする資料が多いが、清涼殿ではなく女院御所の対面御殿を移築したものである。接続して建つ小方丈は寛永年間の建築とされる。
資料によると、大方丈には狩野派の絵師による障壁画があり、柳の間・麝香の間・御昼の間・花鳥の間(西の間)・鶴の間・鳴滝の間の各間にある襖や壁貼付など計120面が重要文化財に指定されている。
これらは旧御所の障壁画を引き継いだものであるが、建物の移築に際して襖の配置構成が大幅に変更されており、本来ひと続きの画面であった襖が別々の部屋に配置されているものも多いということらしい。

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南禅寺境内にある琵琶湖疏水の水道橋(水路閣)
明治維新後に建設された、当寺の境内を通る琵琶湖疏水水路閣はテレビドラマの撮影に使われるなど、今や京都の風景として定着している。建設当時は古都の景観を破壊するとして反対の声もあがった一方で、南禅寺の三門には見物人が殺到したという。

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大寂門。
この門は野村美術館、東山学園を通って哲学の道へとつながる。

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この項 <完>

by mo-taku3 | 2013-01-31 18:00 | (寺社)京都の神社仏閣 | Comments(0)

京都五山第5位【万寿(禅)寺】

京都五山第5位【万寿(禅)寺】


家の近くに、万寿寺通りがある。
いつもこの通りの延長戦のどこかに万寿寺があるのか、あったのではと思っていたが、見つけたのは東大路の九条だった。

万寿寺の起源は、平安時代後期、白河上皇が六条内裏に建てた六条御堂にさかのぼる。
『京城万寿禅寺記』などによると、白河天皇の皇女である郁芳門院(媞子内親王)が永長元年(1096年)に数え年21歳で亡くなり、それを悲しんだ天皇が皇女の菩提のために六条御堂を建てた。この六条御堂の所在地について「万寿寺通高倉」とする資料が多いが、『都林泉名勝図会』には「南は六条通、北は六条坊門(今の五条通)、西は東洞院通、東は高倉通」とあり、「万寿寺通高倉」よりはやや南方である。
この御堂は、鎌倉時代には法然の弟子・湛空(1176年-1253年)が住し、湛空から十地覚空に受け継がれた。この頃は天台系浄土教の寺であったと見られる。
正嘉年間(1257年-1259年)、十地覚空とその弟子の東山湛照が東福寺の円爾に帰依して臨済宗寺院となり、寺号も万寿禅寺と改めたといわれている。開堂は弘長元年(1261年)に行われている。
その後、文永10年(1273年)に火災に遭い、元徳2年(1330年)には後宇多院皇女の崇明門院から土地を賜って、六条の旧地のやや北方、高倉通の西、樋口小路(現代の万寿寺通)の南の地点に移転した。
付近には下京区万寿寺町、万寿寺中之町の町名が残っている。
室町時代には当初は十刹の第4位であったが、後に五山に昇格し、京都五山の第5位に数えられたが、永享6年(1434年)の火災後、衰微した。
天正年間(1573年-1592年)には五山第4位の東福寺の北側にあった三聖寺の隣地に移転した。これは三聖寺の開山が万寿寺と同じ十地覚空と東山湛照であった縁によるものという。
三聖寺は鎌倉時代には禅宗式の大伽藍を持つ有力寺院であったが次第に衰微し、明治6年(1873年)に万寿寺に合併された。
明治19年(1886年)には万寿寺が東福寺の塔頭となり、21世紀に至っている。『東福寺誌』によると、明治14年(1881年)に東福寺の仏殿が焼失した際、万寿寺にあった釈迦三尊像を東福寺に移して新しい本尊とした。これが現在東福寺の本堂に安置される本尊釈迦三尊像で、元来は三聖寺に安置されていたものである。
このほか、東福寺境内にある愛染堂と仁王門、万寿寺入口にある鐘楼(以上、各重要文化財)ももとは三聖寺の建物であった。
「京城山万寿禅寺記」によると、万寿禅寺は永享6(1434)年2月14日の大火で焼けて再建されたとされているが、1591(天正19)年、豊臣秀吉の京都改造で東福寺塔頭に格下げとなった。がしかし、京都五山の一角を占めている。

昭和10年(1935年)には京都市電と東山通、九条通の開通により境内が分断され、万寿寺は東福寺の飛び地のような位置に置かれることとなった。
その通りよりも側道を少し下がったとこに面して。大きな石標「京都五山 萬壽禅寺」建てられていた。

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石標の先には、鐘楼(重要文化財)-室町時代の建築。境内入口にある。上層に鐘を吊り、下層は門を兼ねている。元は三聖寺の建物で、現在は東福寺の所有となっており、重要文化財としての指定名称は「東福寺鐘楼」である。

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客殿(京都府指定文化財)。

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この項 <完>

by mo-taku3 | 2013-01-31 17:40 | (寺社)京都の神社仏閣 | Comments(0)

京都五山第四位【東福寺】

京都五山第四位【東福寺】


東福寺の由来は、摂政九条道家が,奈良における最大の寺院である東大寺と、また奈良で最も盛大を極めた興福寺になぞらえようとの念願で、「東」と「福」の字を取り,京都最大の大伽藍を造営したのが、慧日(えにち)山東福寺です。
嘉禎2年(1236)より19年をかけて建長7年(1255)に完成しました。
工事中に相次ぐ火災のために大部分を焼失をうけたりしながらも、復興に着手し、東福寺は完全な禅宗寺院としての寺観を整えることとなりました。
仏殿本尊の釈迦仏像は15m、左右の観音・弥勒両菩薩像は7.5mで、新大仏寺の名で喧伝され、足利義持・豊臣秀吉・徳川家康らによって保護修理も加えられ、東福寺は永く京都最大の禅苑としての面目を伝え、兵火を受けることなく明治に至りましたが、明治14年12月に,惜しくも仏殿・法堂(はっとう),方丈,庫裡(くり)を焼失してしました。
その後、大正6(1917)年より本堂(仏殿兼法堂)の再建に着工、昭和9(1934)年に落成。明治23(1890)年に方丈,同43(1910)年に庫裡も再建され,鎌倉・室町時代からの重要な古建築に伍して,現代木造建築物の精粋を遺憾なく発揮しています。

開山は聖一国師。
聖一国師の号は花園天皇より贈られたもので,日本禅僧最初の賜号です。
円爾弁円(えんにべんえん)といい,三井園城寺の学徒として天台の教学を究め,のち,栄西(建仁寺開山)の高弟行勇・栄朝について禅戒を受け、34歳で宋に渡り,在宋6年,杭州径山の無準の法を嗣ぎ1241年に帰朝しました。
中国(宋)より帰朝にあたっては多くの文献を伝え,文教の興隆に多大の貢献をしましたが,また水力をもって製粉する器械の構造図を伝えて製麺を興し,今日,わが国最大のお茶の生産地となった静岡茶の原種を伝えています。


中大門。
東福寺に入るにはこの他、南大門・北大門・六波羅門などがある。

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臥雲橋。
東福寺三名橋の一つ。ここから眺める通天橋は、紅葉の絶好のポイントとなる。

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通天橋。
仏殿から常楽庵に至る渓谷・洗玉澗(せんぎょくかん)に架けられた橋廊で、天授6年(1380年)に春屋妙葩(しゅんおくみょうは)が谷を渡る労苦から僧を救うため架けたと伝えられる。昭和34年(1959年)台風で崩壊したが2年後に再建、その際橋脚部分は鉄筋コンクリートとなった。

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三門。
応永32年(1425年)に足利義持が再建し、現存する禅寺の三門としては日本最古のものである。上層に釈迦如来と十六羅漢を安置する折衷様の五間三戸二重門である(「五間三戸」とは正面の柱間が5つ、うち中央3間が通路になっているという意味、「二重門」は2階建ての門だが、「楼門」と違い、1階と2階の境目にも軒の出を作るものを言う)。

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本堂(仏殿兼法堂)。
明治14年(1881年)に仏殿と法堂が焼けた後、大正6年(1917年)から再建工事にかかり、昭和9年(1934年)に完成した。入母屋造、裳階(もこし)付き。高さ25.5メートル、間口41.4メートルの大規模な堂で、昭和期の木造建築としては最大級のもの。天井の竜の絵は堂本印象筆である。本尊釈迦三尊像(中尊は立像、脇侍は阿難と迦葉)は、明治14年の火災後に万寿寺から移されたもので、鎌倉時代の作である。

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禅堂。
貞和3年(1347年)に再建された豪壮な姿に往時の隆盛がしのばれる単層・裳階(もこし)付切妻造の建物で、中世期より現存する最大最古の禅堂である。

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方丈。
明治23年(1890年)の再建。正面前庭にある唐門は明治42年(1909年)に造営され、昭憲皇太后より下賜されたものである。庭園は近代の造園家、重森三玲によって昭和13年(1938年)に作庭され、方丈を囲んで四方に配される。釈迦成道を表現し、八相の庭と命名されている。鎌倉期庭園の質実剛健な風格を基本とし、これに近代芸術の抽象的構成をとり入れた枯山水庭園である。

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通天橋と通天橋受付。
この橋を渡りながら、紅葉を眺められる。

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五社成就宮(京都府有形指定文化財)

東福寺三門の東側に石鳥居があり、その間の石段を上ったところに五社成就宮があります。
五社成就宮は東福寺の鎮守社として岩清水八幡、賀茂、稲荷、春日、日吉の五社を祀るので五社明神社ともいわれているが、もとは法性寺の鎮守と伝えている。
摂政藤原忠道在世の頃はその祭礼を総社祭と称し、祇園会にも匹敵するほどの華やかさであったという。
総社祭は東福寺の鎮守社になってからも引き続き行われ、寛元元年(1243)8月22日には九条道家をはじめ右大臣実経や左大将忠家などが参列したといわれている。

五社大明神の石鳥居をくぐり、石段を中ほどまで上がった左手に十三重石塔と、そのかたわらにある小さな祠の中に「魔王石」があります。

石鳥居。

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参道の石段。

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立派な本殿だった。

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この項 <完>

by mo-taku3 | 2013-01-31 17:30 | (寺社)京都の神社仏閣 | Comments(0)

京都五山第三位『建仁寺』

京都五山第三位『建仁寺』


建仁寺は日本で最初の禅寺である。
建仁寺へは、阪急電車「河原町」、または京阪電車「四条」を出て四条通を東へ徒歩5分ほどところで花見小路通となるので、南へ向かうとよい。
角には有名な料亭「一力」で、道は石畳となり料理屋などが軒を連ねている。夕方頃に訪れると提灯も灯り花街の雰囲気を味わえる。運がよければ座敷へ向かう舞妓さんと出会えることもある。
この道の突き当りが建仁寺の北門となる。
この建仁寺の建つ所は、京都花街(現在、上七軒、先斗町、祇園東、祇園甲部、宮川町の五の花街がある)の祇園甲部歌舞練場と宮川町歌舞練場の間で、京都でも華やかなところである。
北門を入ると、華やかさは静けさへと変わる。右手側が方丈で、方丈の奥に茶室東陽坊(草庵式二畳台目の茶席)などあり、境内拝観は自由。境内伽藍は中国の百丈山を模して建立している。
境内は、勅使門、三門、法堂、方丈は一直線に並び、禅宗寺院の典型的な形式となっている。その他、開山堂、浴室や塔頭寺院が並ぶ広大な寺域。4月上旬、境内の桜が咲き揃う時期に参拝のお勧め。

建仁寺は、栄西禅師(1141~1215)が、天台・真言・禅の三宗兼学の寺として鎌倉前期の建仁2年(1202)に創建したのが始まり。
開基は鎌倉幕府の二代将軍源頼家(よりいえ)で、後に宋風禅の道場となり、南北朝の建武年間には京都五山の第三位として多くの塔頭をもち、学僧も輩出している。
応仁の乱などの戦火で焼失し、大部分は江戸時代に復興したもので、方丈の北に建つ茶室東陽坊は、もとは秀吉の北野の大茶会のときに北野に建てられた茶室と伝えられ、利休の門弟東陽坊の名前にちなんでつけられている。

建仁寺を創建した栄西禅師は、岡山吉備津(きびつ)宮の神官の出身であったと伝えられている。
このためか、禅師は仏門に帰依されながらも、日本古来の神を信仰されていて、建仁寺の建立にあたり守護神として「恵比須神社」(寺の西側に)を建立し、そして、その後、建仁寺の建立が始まっている。
この関係の証として、禅師は自らの墓所を恵比須神社の真正面に向かい西向きに建てるよう遺言し、その遺志のとおり、開山堂は恵比須神社の真正面東に当たる位置に建てられている。
こうした関係から、当初は建仁寺と一体であったが、明治時代の神仏分離によって分けられた。交流の途絶えた建仁寺と恵比須神社とであったが、今日では交流がある。


勅使門(重文)は銅板葺き切妻造り四脚門で、六波羅探題の平重盛の館門から移築とつたえられている。扉に矢の跡があることから矢立門ともいう。

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三門「望闕楼」の扁額がかかる二重門。階上内には観音菩薩像と十六羅漢像が安置されている。

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法堂は江戸時代の明和2年(1765)東福寺から移し、再建。瓦葺き重櫓の禅宗様式仏殿。

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方丈には、俵屋宗達作「風神雷神図」(国宝:江戸初期)の屏風一双が見られる。実はレプリカで、本物は京都国立博物館に寄託されている。また、法堂の天井一面に仏法の守り神とされる二匹の龍が描かれている。まだ新しく2002年の記念事業として描かれたもの。法堂は、特別拝観されたときにしか入れない。

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方丈の門。大きなお葬式などには参拝者の出入り口となる。

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鐘楼は2つあった。
法堂の隣と北門近くにあった。建てられた時代は大きく違うみたいである。

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宗務所の北門よりには境内の伽藍配置図があり、目立つ場所なので参詣者が殆ど立ち止まり、見入っていた。

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この項 <完>

by mo-taku3 | 2013-01-31 17:20 | (寺社)京都の神社仏閣 | Comments(0)

京都五山第二位【相国寺】

京都五山第二位【相国寺】


臨済宗相国寺派の大本山である相国寺は、京都五山第二位に列せられる名刹である。
正式名称は萬年山相國承天禅寺という。
十四世紀末、室町幕府三代将軍の足利義満により創建されたが、幾度も焼失と復興の歴史を繰り返し、現存する法堂は日本最古の法堂建築として一六〇五年に再建された物を今に伝えている。
夢窓疎石を開山とし、創建当時は室町一条あたりに総門があったといわれ、北は上御霊神社の森、東は寺町通、西は大宮通にわたり、約百四十四万坪の壮大な敷地に五十あまりの塔頭寺院があったと伝えられている。
この地はもと、伝教大師開創の出雲寺、源空上人の神宮寺(後の百万遍知恩寺)、安聖寺の旧跡にまたがっていた。
相国寺の南には同志社大学、北には京都産業大学附属中学・高校がある(今はこれらは松原壬生川に新築移転済)が、これら学校の敷地の大部分は天明の大火以後復興できなかった寺院や、明治維新後廃合した寺院の址地である。
幕末に諸堂が再建され旧観を復するにいたったが、現在の寺域は約4万坪である。
境内には本山相国寺をはじめ、13の塔頭寺院があり、山外塔頭に鹿苑寺(金閣寺)、慈照寺(銀閣寺)、真如寺があります。また全国に100カ寺の末寺を擁している。

(概略・歴史)
相国寺(しょうこくじ)は正式名称を萬年山相国承天禅寺と称し、足利三代将軍義満が、後小松天皇の勅命をうけ、約10年の歳月を費やして明徳3年(1392)に完成した一大禅苑で、夢窓国師を勧請開山とし、五山の上位に列せられる夢窓派の中心禅林であった。
その後応仁の乱の兵火により諸堂宇は灰燼に帰したが度重なる災禍にもかかわらず禅宗行政の中心地として多くの高僧を輩出し、室町時代の禅文化の興隆に貢献した。
後に豊臣氏の外護を受けて、慶長10年(1605)豊臣秀頼が現在の法堂を建立し、慶長14年には徳川家康も三門を寄進した。また後水尾天皇は皇子穏仁親王追善の為、宮殿を下賜して開山塔とした。
他の堂塔も再建したが天明8年(1788)の大火で法堂・浴室・塔頭9院のほかは焼失。文化4年(1807)に至って、桃園天皇皇后恭礼門院旧殿の下賜を受けて開山塔として建立され、方丈・庫裏も完備されて漸く壮大な旧観を復するに至った。現在は金閣・銀閣両寺をはじめ九十余カ寺を数える末寺を擁する臨済宗相国寺派の大本山である。
法堂のほか、
開山塔内には開山夢窓国師像を安置。
開山塔庭園は山水の庭と枯山水平庭が連繋する独特の作庭である。
その他に寺宝として多数の美術品を蔵している。

総門の前の石標「大本山相国寺」の前には、工事業者の景観破壊の反対提示版が掲げてあった。
しかし、その掲示板が相国寺の名前に被さっていたのはおかしな感じだった。

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法堂(重文)は桃山時代の遺構でわが国最古の法堂、一重裳階付入母屋造りの唐様建築で本尊釈迦如来および脇侍は運慶作。
天井の蟠龍図は狩野光信(永徳嫡子)筆。

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法堂北の方丈は勝れた襖絵を有し、裏庭は京都市指定名勝となっている。

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鐘楼。袴をはいたしっかりした鐘楼である。

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多宝塔。

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大きかった境内の配置図。

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開山は夢窓疎石。
九歳にして得度して天台宗に学び、後、禅宗に帰依。高峰顕日に参じその法を継いだ。
正中二年(1325)後醍醐天皇の勅によって、南禅寺に住し、更に鎌倉の浄智寺、円覚寺に歴住し、甲斐の恵林寺、京都の臨川寺を開いた。
歴応二年(1339)足利尊氏が後醍醐天皇を弔うために天龍寺を建立すると、開山として招かれ第一祖となり、また、国師は争乱の戦死者のために、尊氏に勧めて全国に安国寺と利生塔を創設した。夢窓は門弟の養成に才能がありその数一万人を超えたといわれる。無極志玄、春屋妙葩、義堂周信、絶海中津、龍湫周沢、などの禅傑が輩出し、後の五山文学の興隆を生み出し、西芳寺庭園・天龍寺庭園なども彼の作庭であり、造園芸術にも才があり巧みであった。また天龍寺造営資金の捻出のため天龍寺船による中国(元)との貿易も促進した。後醍醐天皇をはじめ七人の天皇から、夢窓、正覚、心宗、普済、玄猷、仏統、大円国師とし諡号され、「七朝帝師」と称され尊崇された。




この項 <完>

by mo-taku3 | 2013-01-31 17:10 | (寺社)京都の神社仏閣 | Comments(0)

京都五山第一位【天竜寺】

京都五山第一位【天竜寺】


天龍寺の地には平安時代初期、嵯峨天皇の皇后橘嘉智子が開いた檀林寺があった。
その後約4世紀を経て荒廃していた檀林寺の地に後嵯峨天皇(在位1242年 - 1246年)とその皇子である亀山天皇(在位1259年 - 1274年)が離宮を営み、「亀山殿」と称した。
「亀山」とは、天龍寺の西方にあり紅葉の名所として知られた小倉山のことで、山の姿が亀の甲に似ていることから、この名がある。天龍寺の山号「霊亀山」もこれにちなんでいる。
足利尊氏が後醍醐天皇の菩提を弔うため、大覚寺統(亀山天皇の系統)の離宮であった亀山殿を寺に改めたのが天龍寺である。
尊氏は暦応元年/延元3年(1338年)、征夷大将軍となった。後醍醐天皇が吉野で崩御したのは、その翌年の暦応2年/延元4年(1339年)である。
足利尊氏は、後醍醐天皇の始めた建武の新政に反発して天皇に反旗をひるがえした人物であり、対する天皇は尊氏追討の命を出している。いわば「かたき」である後醍醐天皇の崩御に際して、その菩提を弔う寺院の建立を尊氏に強く勧めたのは、当時、武家からも尊崇を受けていた禅僧・夢窓疎石であったようだ。
寺号は、当初は年号をとって「暦応資聖禅寺」と称する予定であったが、尊氏の弟・足利直義が、寺の南の大堰川(保津川)に金龍の舞う夢を見たことから「天龍資聖禅寺」と改めたという逸話がつたわっている。
寺の建設資金調達のため、天龍寺船という貿易船(寺社造営料唐船)が仕立てられたことは有名である。

天龍寺は京都五山の第一として栄え、寺域は約950万平方メートル、現在の嵐電帷子ノ辻駅あたりにまで及ぶ広大なもので、子院150か寺を数えたという。
しかし、その後のたびたびの火災により、創建当時の建物はことごとく失われた。
中世には延文3年(1358年)、貞治6年(1367年)、応安6年(1373年)、康暦2年(1380年)、文安4年(1447年)、応仁元年(1467年)と、6回も火災に遭っている。
応仁の乱による焼失・再建後、しばらくは安泰であったが、江戸時代の文化12年(1815年)にも焼失、さらに幕末の元治元年(1864年)、禁門の変(蛤御門の変)で大打撃を受け、現存伽藍の大部分は明治時代後半以降のものである。
また、2500点余りの天龍寺文書と呼ばれる文書群を所蔵している。
中世・近世の京都寺院の状況を知る上では貴重な史料である。
方丈の北側には、宮内庁管理の亀山天皇陵と後嵯峨天皇陵がある。

渡月橋から続く嵐山のメイン通りには、大きな「大本山天龍寺」の石碑と世界文化遺産の看板が目につく。

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そこから中に入ると総門がある。

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中門がその先にある。

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中門をくぐり、勅使門を裏から見るとかなり傷んでいることが分かる。

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振り返ると遠くに法堂が見える。
これは大きな戦乱・地震・火災などにより、それまであった三門、仏殿などは今まで再建されていないことわかる。

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法堂である。
ここでは、雲竜図の公開をしていた。

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大方丈。小方丈・書院は修理中であった。

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法堂の横の休憩所には春夏秋冬の写真が飾ってあった。

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この寒さでも多くの人で賑わっていた。




この項 <完>

by mo-taku3 | 2013-01-31 17:00 | (寺社)京都の神社仏閣 | Comments(0)

『鴨川の鳥たち』

『鴨川の鳥たち』



カワウは以前鴨川にはあまりいなかったが、琵琶湖で駆除されたせいか、最近鴨川で増えている気がする。
この日は前日の雨の影響で、水かさが増していたため、カワウの独占状態だった。

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川の堤防には少しずつ花の香りがたち始めてきた。

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日が変わって、一転上天気
川ではアオサギ先生によるカルガモ生徒の特訓が始まっていた。
先生、今はやりの?暴力はご法度ですよ。

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「ちゃんと一列に並んで!」っと声を張り上げ???

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この項 <完>

by mo-taku3 | 2013-01-31 16:41 | Comments(0)

巨大寺域の『妙心寺』

巨大寺域の『妙心寺』


妙心寺(みょうしんじ)は、京都市右京区花園にある臨済宗妙心寺派大本山の寺院。山号を正法山と称する。
本尊は釈迦如来。開基(創立者)は花園天皇。開山(初代住職)は関山慧玄(無相大師)。
日本にある臨済宗寺院約6,000か寺のうち、約3,500か寺を妙心寺派で占める。
近世に再建された三門、仏殿、法堂(はっとう)などの中心伽藍の周囲には多くの塔頭が建ち並び、一大寺院群を形成している。
平安京範囲内で北西の12町を占め自然も多いため、京都市民からは西の御所と呼ばれ親しまれている。

京都の禅寺は、五山十刹(ござんじっさつ)に代表される、室町幕府の庇護と統制下にあった一派と、それとは一線を画す在野の寺院とがあった。
前者を「禅林」または「叢林(そうりん)」、後者を「林下(りんか)」といった。
妙心寺は、大徳寺とともに、修行を重んじる厳しい禅風を特色とする「林下」の代表的寺院である。
平安京の北西部を占める風光明媚な妙心寺の地には、花園上皇の花園御所(離宮萩原殿)があった。
花園上皇は、建武2年(1335年)法皇となり、花園御所(離宮萩原殿)を禅寺に改めた。
大徳寺開山の宗峰妙超(大燈国師)は、高弟の関山慧玄を推挙した。
その頃、美濃(岐阜県)の伊深(美濃加茂市伊深町)で修行に明け暮れていた関山は、暦応5年/康永元年(1342年)妙心寺を開山した。
妙心寺6世住持の拙堂宗朴(せつどうそうぼく)は、足利氏に反旗をひるがえした大内義弘と関係が深かったため、将軍足利義満の怒りを買い、応永6年(1399年)、義満は妙心寺の寺領を没収し、拙堂宗朴は大内義弘に連座して青蓮院に幽閉の身となった。
更に、妙心寺は応仁の乱(1467-1477年)で伽藍を焼失したが、中興の祖である雪江宗深の尽力により復興。細川家や豊臣家などの有力者の援護を得て、近世には大いに栄えた。

私が見た臨済宗の伽藍配置は、勅使門→三門→仏殿→法堂→方丈が一直線並んでいたが、妙心寺も例外ではなかった。
また、勅使門の右隣には、総門がある。これも例外ではない。

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勅使門。

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総門から見た境内の道。

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三門。

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仏殿。

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法堂。

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大方丈。

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境内は40以上の塔頭があり、全てが整備されている。
暫く歩いてみたが、聞き慣れた大名家の塔頭も見られたが、さすがに広くて疲れた。




この項 <完>

by mo-taku3 | 2013-01-25 17:01 | (寺社)京都の神社仏閣 | Comments(0)

梅の開花が間近な『北野天満宮』

梅の開花が間近な『北野天満宮』


北野天満宮(きたのてんまんぐう)は、京都市上京区にある神社。
通称、天神さん・北野さんとも呼ばれる。
福岡県の太宰府天満宮とともに天神信仰の中心で、当社から全国各地に勧請が行われている。
近年は学問の神として多くの受験生らの信仰を集めている。

延喜3年(903年)、菅原道真が無実の罪で配流された大宰府で没した後、都では落雷などの災害が相次いだ。これが道真の祟りだとする噂が広まり、御霊信仰と結びついて恐れられた。
そこで、没後20年目、朝廷は道真の左遷を撤回して官位を復し、正二位を贈った。
天慶5年(942年)、右京七条に住む多治比文子(たじひのあやこ)という少女に託宣があり、5年後にも近江国の神官の幼児である太郎丸に同様の託宣があった。それに基づいて天暦元年6月9日(947年)、現在地の北野の地に朝廷によって道真を祀る社殿が造営された。
後に藤原師輔(時平の甥であるが、父の忠平が菅原氏と縁戚であったと言われる)が自分の屋敷の建物を寄贈して、壮大な社殿に作り直されたと言う。
永延元年(987年)に初めて勅祭が行われ、一条天皇より「北野天満宮天神」の称が贈られた。正暦4年(993年)には正一位・右大臣・太政大臣が追贈された。以降も朝廷から厚い崇敬を受け、二十二社の一社ともなった。
天正15年(1587年)10月1日、境内において豊臣秀吉による北野大茶湯が催行されたことは有名である。境内西側には、秀吉は京の守りのために作らせた史跡「御土居」の遺跡が残されている。
江戸時代の頃には道真の御霊としての性格は薄れ、学問の神として広く信仰されるようになり、寺子屋などで当社の分霊が祀られた。

北野天満宮や菅原道真は、梅および牛との関係が深い。

 東風(こち)吹かばにほひおこせよ梅の花 主なしとて春を忘るな(忘れそ)— 菅原道真, 拾遺和歌集

道真は梅をこよなく愛し、大宰府左遷の際、庭の梅に上記の和歌を詠んだことや、その梅が菅原道真を慕って一晩のうちに大宰府に飛来したという飛梅伝説ができたことから梅が神紋となり、約2万坪の敷地には50種1500本の梅が植えられている。
牛は天満宮において神使(祭神の使者)とされているが、その理由については「道真の出生年は丑年である」「亡くなったのが丑の月の丑の日である」「道真は牛に乗り大宰府へ下った」「牛が刺客から道真を守った」「道真の墓所(太宰府天満宮)の位置は牛が決めた」など多くの伝承があり、どれが真実なのか、それとも全て伝承に過ぎないのかは今となっては良くわからないものの、それらの伝承にちなみ北野天満宮には神使とされる臥牛の像が多数置かれている。伝承のうち「牛が刺客から道真を守った」というのは和気清麻呂を祭神とする護王神社や和気神社の猪の伝承との関連性が強く認められる。

訪れたのは、1月25日で“お初天神”の日だった。
このように出店が出て、人のでも凄かった。

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参道の正面の楼門には大きな絵馬が掲げられている。鳥居からここまではぎっしり出店が並んでいる。

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出店で、こんなかわいい竹細工を見つけてパチリ。

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あい変わらず社殿の前には沢山の人が並んでいた。
また社務所の前にも受験生らしき若い子達も沢山うろうろしていた。

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ここは梅で有名なところであるが、未だチョットはやいようだ。
でも、蠟梅は満開だった。

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皆さんになぜられて変色気味の牛さん。

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その横には境内の図があった。

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この項 <完>

by mo-taku3 | 2013-01-25 16:55 | Comments(0)

『桂離宮』界隈

『桂離宮』界隈


桂離宮(かつらりきゅう)は京都市西京区桂にある、約7万平方メートルの離宮(皇居とは別に設けた宮殿)。
江戸時代初期の造営当初の庭園と建築物を遺しており、当時の(王朝)文化の粋を今に伝えている。
回遊式の庭園は日本庭園の傑作とされる。また、建築物のうち書院は書院造を基調に数寄屋風を採り入れている。
庭園には茶屋が配されている。もとは桂宮家(八条宮家)の別荘であったが、現在は宮内庁京都事務所により管理されている。

さて、桂離宮は八条宮家初代の智仁(としひと)親王(1579年 - 1629年)によって基礎が築かれた。
智仁親王は正親町天皇の皇孫、後陽成天皇の弟に当たる。智仁親王は初め豊臣秀吉の猶子となったが、秀吉に実子が生まれたため、八条宮家(桂宮家)を創設した。八条宮邸は京都御所の北側、今出川通りに面して建設され、現存する(ただし築地塀と表門・勅使門だけを残し、建物群は二条城に移築されている)。

桂離宮の書院は「古書院」「中書院」「新御殿」の3つの部分に分かれ、このうち古書院の建設は1615年頃と推定される。(江戸時代初期)
書院、茶屋、庭園などの造営は、八条宮家2代の智忠(としただ)親王(1619年 - 1662年)に引き継がれ、数十年間をかけて整備された。
八条宮家は常磐井宮、京極宮、桂宮と名前を変えた後、1881年に断絶し、桂離宮は1883年から宮内省の管轄になった。
第二次世界大戦後は、宮内庁が管理している。
1976年の大修理で、文化庁が調査のため、中書院の地下の発掘作業をしていた時、人工的な池の跡が発見された。そこには桂離宮が造られる以前の遺物が多数見つかっており、智仁親王が発見した桂殿の跡地に造られたとされる証拠となった。

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(月と建物と庭園)
古書院、中書院、新御殿はいずれも入母屋造、柿葺(こけらぶき)で、書院造を基調としているが、古書院の縁側などには数寄屋風の要素も見られる。
・古書院縁側からさらに張り出した竹簀子(すのこ)のベランダ状のスペースは「月見台」と称され、桂離宮の主要テーマが観月にあることを示している。
・中書院と新御殿の水墨主体の障壁画は、幕府御用絵師・狩野探幽一門によるものである。また、月夜の景色などの金・銀下絵を施した親王筆の短冊も壁面に貼られていた。
・新御殿上段の間の「桂棚」は天下三棚の一つとして知られる(他に修学院離宮、醍醐寺三宝院)。
回遊式庭園には、桂川の水を引いた池を中心に、茶屋、築山、州浜、橋、石灯篭などを配している。
茶屋は松琴亭(しょうきんてい)、賞花亭(しょうかてい)、笑意軒(しょういけん)、月波楼(げっぱろう)の4棟があり、他に持仏堂の園林堂(おんりんどう)がある。また池では舟遊びも楽しむことができ、それぞれの茶屋に船着場が設けられている。

桂大橋から桂離宮を望む。
手前のこんもりとした森が桂離宮である。
よくも大変な時期にこのような大規模なものを造ったことは驚嘆にあたする。

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桂離宮のバス停のところに見取り図が載っていた。

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桂大橋の西詰めに時代を思い起こす常夜灯があり、桂離宮の標識があった。

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建設当時は殆ど建物らしきものはなく、自然のきれいな風景が創造できる桂川から見た嵐山方面。

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桂離宮を訪れる訪問者の疲れを癒してくれる有名な茶屋「中村軒」。

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桂離宮のすぐ隣にある春日神社。

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浄土宗の寺で、地蔵寺といい、京都六地蔵巡(めぐ)りの霊場である。
本尊の地蔵尊は、平安時代の初期に、参議小野篁(おののたかむら)が、一度、息絶えて冥土(めいど)へ往き、生身の地蔵尊を拝してよみがえったのち、一木より刻んだ六体の地蔵菩薩の一つであるといわれている。
当初、これらの地蔵菩薩は、木幡(こはた)の地に祀られていたが、保元2年(1157)、平清盛によって、都の安泰を祈るため、洛内に通じる六街道の入口の一つに当たるこの桂の地に分祀されたものと伝えられている。
なおこの地蔵尊は、一木の最下部をもって刻まれたもので、世に姉井菩薩と呼ばれている。
地蔵堂の東には、石造薬師如来坐像(鎌倉初期)を安置する薬師堂があり、境内には、石造宝篋印塔(ほうきょういんとう)がある。
また、昔、このあたりは、桂の渡しに近く、桂大納言源経信(みなもとのつねのぶ)や、伊勢女(いせじょ)等の歌人の住居があったといわれている。(西京区桂春日町)

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この項 <完>

by mo-taku3 | 2013-01-22 16:30 | (紹介記事)京都 | Comments(0)