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新緑の男山と石清水八幡宮

新緑の男山と石清水八幡宮


男山の石清水八幡宮はその名のとおり、女人禁制のところであった。
また、建武の中興から室町初期には南朝と北朝のせめぎ合いのあったところである。
あまり知られていないが、ここに南朝の御座が置かれた事もあった。しかもその時期は足利尊氏が将軍となってからである。
足利の幕藩体制はかなり脆弱で、尊氏の弟の足利直義(ただよし)との勢力争いなど一族間での骨肉の争いがあったが結局は直義が鎌倉にて殺される(?毒殺)などで落ち着き始めるが、結果的にはこのような離合集散は江戸初期まで続いている。
現在の感覚では、信義などは当たり前だが、このような現在の感覚が浸透し始めたのは、家康が儒教を導入してからである。
この当時は、一族郎党の利になる方に加勢するのが当たり前の世の中だったようだ。

その舞台と関係があったのは、この男山だったのである。
ここは以下に紹介するように、男山展望台に上ってみると京の都全体が見下ろすことできる、絶好の場所だったようだ。

さて、今回は、下から歩くとかなりしんどいので、ケーブルカーで上ったが、表参道は京阪八幡市駅を降りて左手のほうに行くと、このような一の鳥居がある。八幡鳥居ともいう。
ここに架かっている銅製の額「八幡宮」は、一条天皇の勅により藤原行成が書いたものを松花堂昭乗が元和5年(1619年)に書写し、打ち出したもの。「八」の字は、向かい合った二羽の鳩が顔を外に向けた形に作られている。

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三分間の短い距離だが、景色もよくなかなかの乗り心地である。

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上に上るにつれ、京都の街が見えてくる。この日は天気もよく新緑が映え気持ちは最高である。

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男山展望台からの京都の町並みである。春特有の霞もかかっているが、南朝の公家たちはここからの眺めを見て早く今日の都に戻りたいと、武士たちに要求したそうである。

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二の鳥居から見た景色。

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お宮の入口の、彫刻が施された楼門である。

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本堂。楼門から見ると少し曲がって見えるのは、神様を直視しないためだそうである。

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左手の若宮社(仁徳天皇)と右手の若宮殿社(応神天皇皇女)で清め布の神事。

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最後になったが、エジソンの発明した電球のフィラメントはここ男山のたけであった。
その記念碑がここにあった。
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この項 <完>

by mo-taku3 | 2013-04-28 10:51 | (寺社)京都の神社仏閣 | Comments(0)

京都八幡市の史跡と松花堂庭園

京都八幡市の史跡と松花堂庭園


久し振りに、男山の石清水八幡宮に上ろうと思い、地図を広げてみると、石清水八幡宮がある八幡市は、割と史跡が存在しているのが分かった。
そこで石清水八幡宮に上った帰りに、八幡の街を散策してみようということになった。
八幡宮から裏道を通って降りることにしたら、殆ど人が通らない長い竹林を抜けることになった。
(途中で、鉄砲の音がしたりして、この道はお勧めできない。)

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竹林を抜けて里(という感じ)にでると、まぶしいほどの霧島つつじがまんかいであった。
とにかくびっくりするような感覚であった。

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ここで史跡めぐりに当たって、ここで八幡市のマップを広げてみた。

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しばらく進むと、「正法寺」があった。
この寺は、源頼朝の御家人で石清水八幡宮の社家志水氏の祖となった高田忠国が開基となり、1191年(建久2年)創建した寺と伝えられる。
以後この寺は志水氏の菩提所となった。1546年(天文15年)には後奈良天皇の祈願所となっている。
また、徳川家康の側室お亀の方(尾張徳川家の祖徳川義直の生母)は志水氏の出身であることから、江戸幕府から朱印状を得ている。

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その先に松花堂弁当で有名な松花堂庭園がある。
「松花堂」の名は、江戸時代初期の石清水八幡宮(京都府八幡市)の社僧であった松花堂昭乗(1584年(天正12年) - 1639年(寛永16年))に因むものである。昭乗は、農家が種入れとして使っていた器をヒントにこの形の器を作り、絵具箱や煙草盆として使用していた。
ただし、松花堂弁当は懐石料理(茶料理)の流れを汲み昭和になってから誕生した様式であり、歴史は大きく異なる。(庭園の前には京都吉兆が松花堂弁当を出している。)
また、IBMのノートパソコンであるThinkPadは、松花堂弁当の弁当箱をコンセプトにしてデザインされたという。

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善法律寺。
石清水八幡宮検校職であった善法寺宮清が建立した寺。宝冠阿弥陀如来坐像をはじめ本尊の僧形八幡大菩薩がある。また、足利義満の母良子の菩提寺で、境内には良子が紅葉を寄進したことから「もみじ寺」とも呼ばれている。紅葉が歴史的建造物に映えて美しい。

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男山の参道を横から眺めると、見事な藤の花が延々と連なって見事である。

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「やわた放生の景」は、京都府の歴史的自然環境保全地域に指定されている男山の美しい緑、
石清水八幡宮や八幡八景のひとつである木造反り橋の安居橋など、自然と史跡が共存する公共空間を保全し、市民の憩の場となることを目指して整備された散策路。

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この項 <完>

by mo-taku3 | 2013-04-28 10:26 | (歴史)京都史 | Comments(0)

春の【南禅寺】2013

春の【南禅寺】2013


南禅寺は何度も登場させているの詳しい説明は省略させていただくが、1467年の応仁の乱における市街戦で伽藍をことごとく焼失してからは再建も思うにまかせなかった。
南禅寺の復興が進んだのは、江戸時代になって1605年金地院崇伝が入寺してからである。
崇伝は徳川家康の側近として外交や寺社政策に携わり、「黒衣の宰相」と呼ばれた政治家でもあった。また、幕府から「僧録」という地位を与えられた。
これは日本全国の臨済宗の寺院を統括する役職である。
既にご存知の方も多いと思うが、禅寺の伽藍配置はほぼ同じで、三門(山門)を頭に一直線にならんでいる。

と、その前に南禅寺塔頭の聴松院「大聖摩利支尊天」の狛イノシシを再度拝んでおこう。

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三門。現在のは、藤堂高虎が大坂夏の陣で戦死した一門の武士たちの冥福を祈るため寄進したものであり、残念ながら、石川五右衛門の時代は無かったわけです。

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額縁から見た、新緑の法堂への参道。

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法堂の天井に描かれた、禅寺特有の龍図。

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苔庭では新芽がふきはじめてきていた。

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この項 <完>

by mo-taku3 | 2013-04-23 13:32 | (寺社)京都の神社仏閣 | Comments(3)

南禅寺の観光名所【琵琶湖疎水の水道橋(水路閣)】2013

南禅寺の観光名所【琵琶湖疎水の水道橋(水路閣)】2013


南禅寺境内にある琵琶湖疏水の水道橋(水路閣)
明治維新後に建設された、当寺の境内を通る琵琶湖疏水水路閣はテレビドラマの撮影に使われるなど、京都の風景として定着している。
建設当時は古都の景観を破壊するとして反対の声もあがった一方で、南禅寺の三門には見物人が殺到したという。
維新直後には政府の上地に遭い寺領の多くを失ったため廃絶に追い込まれた塔頭も少なくなかったが、その跡地は邸宅地として再開発され、そこには植治こと小川治兵衛により疎水から引き込んだ水流を主景とする数々の名庭園が造られ、いまなお貴重な空間として残っている。

発電所を作るのが疏水導入の主目的であるから、水を大きな落差で落とさねばならず、その部分は当然通船不可能となる。
これを解決するために作られたのが、インクライン(傾斜鉄道)である。

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疎水の高台からは、蹴上浄水場や平安神宮の鳥居などが見え、眺めのいいところである。

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水道橋の上に上がると、祖巣の水路があり発電所まで続いている。
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水道橋(水路閣)は、建設当時は景観を乱すという反対があったようだが、今や南禅寺の一大名所となっている。

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この項 <完>

by mo-taku3 | 2013-04-23 12:28 | Comments(0)

春の静かな【永観堂】の緑2013

春の静かな【永観堂】の緑2013


(駒札)には、
聖衆来迎山禅林寺と号する浄土宗西山(せいざん)派の総本山で、通称永観堂と呼ばれている。  斉衡2年(855)空海の弟子真紹(しんしょう)が藤原関雄(せきお)の山荘を寺院としたのが起こりで、貞観5年(863)には天皇から定額(じょうがく)を得た。その後一時衰えたが、平安時代の末、承暦年間(1077~1081)に永観(ようかん)が住持となり、念仏道場を開き寺を中興した。永観はこれにより中興開山と呼ばれ、寺名も永観堂の通称で呼ばれるようになった。以後当寺は浄土教を広め、鎌倉時代中期には浄土宗西山派開祖證空(しょうくう)の弟子浄音(じょうおん)が住持となり、浄土宗一派の本山の基礎を固めた。その後応仁の乱により堂舎が焼失したものの明応6年(1497)後土御門天皇の命により再興し、以後逐次諸堂が再建され現在の伽藍が整えられた。  寺宝として山越阿弥陀(やまごしあみだ)図(国宝)をはじめ鎌倉時代以来の仏画多数を蔵し、特に本尊の阿弥陀如来立像は首を左に向けた我が国唯一の逸品で「みかえりの弥陀」と呼ばれて親しまれている。左京区永観堂町。
当寺は紅葉の名所として知られ、古くより「秋はもみじの永観堂」といわれる。また、京都に3箇所あった勧学院(学問研究所)の一つでもあり、古くから学問(論義)が盛んである。

もみじもさることながら、新緑の季節は気持ちの良い景観が見込まれる。

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この項 <完>

by mo-taku3 | 2013-04-23 11:02 | Comments(0)

平安京の王城鎮護社【岡崎神社】2013

平安京の王城鎮護社【岡崎神社】2013


この神社は平安京ができたときと同じくして王城鎮護の社の一つとして建てられたようだ。
そのためか、天孫族の素盞鳴命(すさのおのみこと)が主祭神となっており、櫛稲田媛命(くしなだひめのみこと)と御子(三女五男)八神も祭神として合祀されている。

以下は資料による説明である。
「岡崎神社は、丸太町通の東端し、吉田山(黒谷)の南麓に鎮座する。794年、桓武天皇の平安京遷都に際し、同年、王城鎮護のため都の四方に建てられた一つとされ、東方を守護したころから東天王社と称したとされているが、877~885年この地に陽成天皇の母である藤原高子が清和天皇の護願寺として建立した東光寺があり、東天王社はその鎮守社として祀られたとも言われている。
王城鎮護の神はその後、子授けの神として信仰を集める。
東天王社はもともと北白川の地で祀られていたが、810~824年の社殿の炎上後、869年播磨国広峰(兵庫県姫路市)から改めて牛頭天王(素盞鳴命)を勧請して現社地に祭祀した。
その後、牛頭天王は感神院(現八坂神社)に移し祀られている。
さらに室町幕府八代将軍足利義政による修造があるなど、朝廷や幕府の庇護を受け、中世には東光寺と東天王社は一体となり隆盛したが、応仁元年(1467)の兵火で炎上し東光寺が廃寺となり東天王社のみが残された。更に1531年の兵乱で岡崎一帯が焼亡、東天王社も廃埃したが岡崎村の産土神として再建されている。
東天王社は古くから産土神として附近の氏子、崇敬者の信仰を集めていたが、1178年、中宮のお産の奉幣を賜ったことから安産の神として信仰される。
また当時、岡崎村一帯は野兎が多く、東天王社は兎が氏神様のお使いとしている。
兎は多産なことから、子授けにご利益があるとして、境内の手水舎や狛犬の台座に兎の彫刻が見られる。また、往時の王城鎮護方除けの勅願により方除厄除神として信仰される。」
と伝えられているが、1531年の兵乱で焼滅しているので、王城鎮護の目的も薄れ、岡崎村の産土神として守られてきたのではないだろうか。
王城鎮護はそれなりのバックアップがないと成り立たないと思う。
ということで、狛うさぎが崇められてきたのは産土神としてほほえましくさえ感じる。

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本殿の前には、狛犬と狛うさぎが仲良く並んで鎮座している。

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狛うさぎは、「縁結び、夫婦和合」とあり、ご利益の説明がなされていた。

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本殿の周りは堅固な石垣で囲まれており、しっかりとした造りである。

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境内は緑に包まれ、落ち着いた雰囲気をかもし出していた。
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この項 <完>

by mo-taku3 | 2013-04-23 10:25 | (寺社)京都の神社仏閣 | Comments(0)

中国僧創建の【黄檗山萬福寺】2013

中国僧創建の【黄檗山萬福寺】2013


黄檗山萬福寺は1661年に中国僧「隠元隆琦(いんげんりゅうき)禅師」によって開創された。
ということは、江戸時代に入っての比較的新しい一派である。
禅師は中国明朝時代の臨済宗を代表する僧で、中国福建省福州府福清県にある黄檗山萬福寺の住職をしていた。
その当時、日本からの度重なる招請に応じ、63歳の時に弟子20名を伴って1654年に来朝している。
宇治の地でお寺を開くにあたり、隠元和尚は寺名を中国の自坊と同じ「黄檗山萬福寺」と名付けている。
その後、幕府の政策等により、宗派を黄檗宗と改宗し現在に至っている。
日本でいう「禅宗」は、その結果、臨済宗、曹洞宗、黄檗宗の三宗に分類されている。
萬福寺の伽藍建築・文化などはすべて中国の明朝様式になっており、私にはかいめいできない漢文の木札が沢山かけられている。
美術・建築・印刷・煎茶・普茶料理、隠元豆・西瓜・蓮根・孟宗竹(タケノコ)・木魚なども隠元禅師が日本にもたらしたものであり、当時江戸時代の文化全般に影響を与えたといわれている。
中でも中国風精進料理である「普茶料理」は日本の精進料理(禅僧が日常食する質素な食事)とイメージが異なっている。
見た目も美しく盛りつけられる料理の数々は、高タンパク・低カロリーで栄養面にも優れ、席を共にする人たちと楽しく感謝して料理を頂く事に普茶料理の意味が込められているという。

このお寺は、きれいに整備されており、この中で仏像がひときわ目を引く。
日本ではあまり見られないであろう仏像が沢山あり楽しませてくれる。
変わったところはいくらでもあり、鐘楼の釣鐘が回廊の途中にあったり、大きな魚をかたどった木魚の原型がおかれ、近衛兵の儀仗のごときしぐさで時を告げている。
まあとにかく見ていて楽しいお寺である。

総門。
瓦屋根の中央部分を高く、左右の部分を低く、段差を設けているのは中国風で、日本の一般的な社寺建築には見かけない形式である。屋根上左右に乗る魚のようなものは鯱ではなく、摩伽羅という想像上の生物でヒレの代わりに足が生えている。

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放生池。

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三門。
三間三戸二重門である。「三間三戸」は門の正面柱間が3間で、3間すべてが通路になっているものを指す(日本の禅宗寺院の三門は一般的には「五間三戸」である)。

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正面にみえるのが開山堂。
この一画には、松隠堂、開山堂、舎利殿、客殿などの建物が建つ。
松隠堂は元は萬福寺とは独立した宗教法人であったが、昭和34年(1959年)に宗教法人萬福寺と合併した。

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おやっと、思うところに鐘楼があった。ここは回廊であり、中国式ではこうなっているのか。

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昨年の台風でお寺全体に山からの大水がかかり、傷んだ箇所の修復が今でも行われていた。

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天王殿の内部には弥勒菩薩の化身とされる布袋像を安置し、この像は日本で著名な半跏思惟形の弥勒菩薩像とは全く異なり、太鼓腹の布袋像として表されている。
他に堂内左右に四天王像、布袋像の背後に韋駄天像を安置している。

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ここの階上に梵鐘を吊っている。
鐘楼前には偈(げ)の書かれた巡照板が下げられている。
巡照板は早朝4時と夜9時に修行僧が叩いて時間を知らせるものであり、板面に書かれた偈文を唱え、修行のいましめとするものである。寺内5箇所に巡照板がある。

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斎堂前には開梆(かいぱん、「ぱん」は木偏に邦)という巨大な木製の魚が吊り下げられている。
これは叩いて食事や法要の時間を知らせるためのものであり、木魚の原型と言われている。

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天王殿の外観。

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大雄宝殿。日本の一般的な寺院の「本堂」「仏殿」にあたる建物である。本尊釈迦三尊像(脇侍は阿難と迦葉)、十八羅漢像を安置する。
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変わったお経「梵唄(ぼんばい)」
黄檗宗では法式(儀式作法など)やお経もすべて中国で行われていたものを忠実に継承しているとのこと。
特にお経は独特で、唐音とよばれる中国語を基本とする読みをする。
たとえば一般的によく詠まれる般若心経でいうと「まかはんにゃはらみたしんぎょう・・・」と唱えるところが「ポゼポロミトシンキン・・・」という具合になる。
さらに黄檗のお経の中には「梵唄(ぼんばい)」と呼ばれるものがある。
これは字にも表わされているとおり、歌のようなお経である。
声明などとはまた違い、4拍子を基本とするリズムを刻みながら節の付いたお経を詠んでいくとても音楽的なお経のようだ。
法要ではこれに、いろいろな鐘や太鼓などの鳴物を合わせて音楽を演奏するかのように読経が行われる。
一度お聴きけば、今までのお経のイメージががらりと変わるそうである。
是非次回は聞いてみたいと思っている。





この項 <完>

by mo-taku3 | 2013-04-17 14:59 | (寺社)京都の神社仏閣 | Comments(0)

【桃山天満宮】(御香宮)2013

【桃山天満宮】(御香宮)2013


この「桃山天満宮」結構数奇な運命を経て今があるようだ。
資料によると、
「応永元年の創祀。木幡(こはた)山の中腹にあった竜幡山蔵光庵の庵主幽林の伴僧である月渓の夢に、天満天神が顕れた。その後、同門の忠龍から天神の画像を贈られると、まさしく夢の姿と同じであった。幽林はそれを聞いて、祖宗を護り法燈を授ける神慮であると感激し、蔵光庵の守護神として祀った。
文禄3年、豊臣秀吉により伏見城築城がなされると、蔵光庵は嵯峨臨川寺の東に遷され、天満宮は庵跡地に隣接した加賀前田家邸内に祀られた。
その後、城下衰退とともに荒廃したが、天保12年、観音寺住職教覚の勧請により御香宮の西方に社殿が再興された。その時に使われた大工道具一式が、工匠坂田岩次郎により奉納されている。
昭和44年、社殿の環境保全のため御香宮境内に遷された。」
ということであった。
伏見前田家から移されたときに遺跡の一部も移されようだ。

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やはり天神様である。
しっかりとした梅の木が植えられていた。小梅らしい?実がなっておりよく手入れされていた。

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この項 <完>

by mo-taku3 | 2013-04-17 14:51 | (寺社)京都の神社仏閣 | Comments(0)

春の【御香宮】神社2013

春の【御香宮】神社2013


近鉄桃山御陵前を降りると、大手前通りに出る。
それを左に向いて上ると直ぐにこの鳥居だ見えてくる。
鳥居には四月中「十三まいり」とあり、かぞえ13歳にお参りする習慣で、知恵詣りまたは智恵もらいとも云う。しかし、七五三ほど全国的に一般的ではないと思われる。

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表門をくぐると。参道がこのように見通せる。きれいに掃き清められた参道である。

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進んで桃山天満宮の先の右手には、大きな石碑「御香宮」がたっている。(24号線に面して)

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手水舎にはハトが水分補給のためきていた。が、逃げないのにはいつもの行為なのか。

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これは、拝殿。この奥に本殿がある。

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本殿には見事な桃の木が満開であった。

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本殿のすぐ左手には、御香水(御神水)が出ていた。
これは、伏見七名水の一つで、境内から清泉が湧出し、当社の名の由来となった「石井の御香水」といい、紀伊、尾張、水戸の徳川御三家の頼宣、頼房、義直の各公がこの水を産湯に使ったとい割れている。
石井とは、当地の昔の地名。1985年に環境庁の「全国名水百選」に認定されている。

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少しさかのぼるが、佐藤栄作元総理が著した「明治維新 伏見の戦跡」なる、大きな石碑と駒札があった。
ここに本陣とは書かれていないが、初戦はこのあたりが一進一退の攻防があったとされている。

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これは、防水桶とみたが、よく見ると「月桂冠」の寄贈らしい。

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これは、開闢以来の代物のようだ。

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非常に立派に建てられた「弁天者」。

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やはり、徳川が後押しして造られただけあり、東照宮が置かれていた。

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まだまだ見るところがありそうであり、また来ようと思っている。


(戊辰戦争、伏見の戦跡);佐藤栄作文。
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この項 <完>

by mo-taku3 | 2013-04-17 14:46 | (寺社)京都の神社仏閣 | Comments(0)

願掛けの【安井金毘羅宮】は大忙し

願掛けの【安井金毘羅宮】は大忙し


第38代天智天皇(てんちてんのう)の御代(668~671年)に藤原鎌足(ふじわらのかまたり)が一堂を創建し、紫色の藤を植え藤寺と号して、家門の隆昌と子孫の長久を祈ったことに始まります。

この神社は、「あらゆる悪い縁を切り、良縁を結ぶ」ことで人気がある。
資料によると、 
「主祭神の崇徳天皇は、讃岐の金刀比羅宮で一切の欲を断ち切って参籠(おこもり)されたことから、当宮は古来より断ち物の祈願所として信仰されてきました。
また、戦によって心ならずも寵妃阿波内侍とお別れにならざるを得なかった崇徳上皇は、人々が御自身のような悲しい境遇にあわぬよう、幸せな男女のえにしを妨げる全ての悪縁を絶切って下さいます。男女の縁はもちろん、病気、酒、煙草、賭事など、全ての悪縁を切っていただいて、良縁に結ばれて下さい。
良縁に結ばれたご夫婦やカップルがお参りされても縁が切れることはありません。更にお二人がより深くより強く結ばれる御利益をいただけますのでご安心を。」
とある。
この日も沢山の人出賑わっていた。

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境内にはカラフルな花も良縁を応援しているようだった。
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この項 <完>

by mo-taku3 | 2013-04-17 11:13 | Comments(2)