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河合神社と鴨長明(特別資料展)

河合神社と鴨長明(特別資料展)20130630


河合神社(かわいじんじゃ)は下鴨神社の摂社であり、下鴨神社の二の鳥居をくぐって直ぐ左にある。
祭神:玉依姫命(神武天皇の御母神)
神徳:安産・育児・縁結び・学業・延命長寿の守護神

ここは、「方丈記」の著者・鴨長明ゆかりの神社として有名であるが、正式名称は鴨河合坐小社宅(かものかわいにいますおこそべ)神社で、賀茂社の社家に祀られていた屋敷神だったという。
秦氏が祀っていたが、賀茂氏が秦氏の婿となり、祭祀権を譲られたとの伝承がある。
起源から考えると平安遷都以前からの古社なので、秦氏の地盤にある、木嶋坐天照御魂神社(このしまにますあまてるみたまじんじゃ;京都市右京区太秦にある神社)通称木嶋神社(このしまじんじゃ)と関係がありそうである。。(本殿東側に織物の始祖を祀る蚕養(こかい)神社があることから蚕の社(かいこのやしろ)の通称が広く知られている。)
この神社には、元糺の森、元糺の庭が存在している。
このことで、以下の説明が繋がってくる。

元はここより少し南の賀茂川と高野川が合流する只洲(ただす)河原に祀られたことから河合神社という。
鎮座の年代は不詳であるが神武天皇の御代からあまり遠くない時代と伝えられていて、「延喜式」には「鴨河合坐小社宅神社」とある。
「鴨河合」とはこの神社の鎮座地をいい、「小社宅(こそべ)」は「日本書紀」に「社戸」としるされ、本宮(下鴨神社)の祭神と同系統の神との意であるという。
明治10年(1887)賀茂御祖神社(下鴨神社)の第一摂社に列せられた。
現在の社殿は、延宝7年(1679)式年遷宮により造営された古殿を修理建造したもので、賀茂御祖神社の本殿と同じ三間社、流造、桧皮葺である。
境内には「方丈記」の著した鴨長明の資料館と、長明が考案した「方丈の庵」とがある。
 
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鳥居は聖域への結界を意味する お寺の山門を思わせる表門 河合神社に面して鎮座する三井社。(本宮にも三井社が祭られている)
祭神は、中社に、賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)、西社に、伊賀古夜日賣命(いかこやひめのみこと)、東社に、玉依媛売命(たまよりひめのみこと)の三柱を祀る。
平安時代中期、蓼倉郷(たでくらごう)は賀茂御祖神社(下鴨神社)の神領となる。ほかに、栗野(くるすの)郷、上粟田郷、出雲郷があった。
葛野里にも分霊社が祀られた。鴨社蓼倉郷の総社(祖社)として祀られたともいう。
・蓼倉郷 蓼倉郷、三井社の所在地は不明だが、賀茂御祖神社(下鴨神社)の境内ともいう。「柳原家記録」(1861)中の「松崎陵戸田」、現在の左京区下鴨・松ヶ崎が比定されている。下鴨・田中ともいう。蓼倉町、蓼倉橋の地名が現在も残っている。

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境内に任部社(とうべのやしろ)があり、八咫烏命(やたからすのみこと)を祀っている。
八咫烏とは熊野の大神<素盞嗚尊(すさのおのみこと)>のお仕え。
八咫烏の「八咫」は大きく広いという意味。
八咫烏は太陽の化身で三本の足があり、天・地・人を顕すと言われている。
天とは天神地祇のこと。地とは大地のことで自然環境を指す。つまり太陽の下に神様と自然と人が血を分けた兄弟であるということを示している。また、蹴鞠の祖神とされることから日本サッカー協会のシンボルとなっている。
また、このとき天から遣わされた八咫烏(ヤタガラス)の道案内により山中を行軍したと『古事記』や『日本書紀』に書かれていて、熊野の神々の使いとされている。

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貴布禰総本宮は貴船神社であるが、どうゆう関係なのか分からないが、ここにも貴布禰神社がある。

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河合神社の説明と境内図が書かれている。

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舞殿。

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本殿。

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河合神社の本殿にずらりと奉納されている「鏡絵馬」。
裏には願い事を書き、表には自分の使っているアイテムを使って、自分でお化粧をする珍しいタイプの絵馬です。 いろいろな表情があってとても華やか、みんな口角が上がってしあわせ顔です!

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長明の「方丈の庵」
鴨長明50歳のとき、すべての公職から身を引き大原へ隠遁し、大原から方々を転々として58歳のころに落ち着いた。各地を移動している間に「庵」として仕上げたのがこの「方丈」である。移動が便利なように全てが組み立て式になっていて、広さは、一丈(約3m)四方、約2.73坪。畳で五畳半程度。間口、奥行きとも一丈四方ということから「方丈」の名がついた。さらにもう一つの特徴が、土台状のものが置かれ、その上に柱が立てられていることである。これは、建物の移動ということを念頭に柱が構築されるからである。下鴨神社は年式遷宮により21年毎に本殿が造り替えられる建築様式(土居桁構造)であり、これにヒントを得たものといわれる。(説明板から)

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鴨長明(かものちょうめい)
久寿2年(1155)、下鴨神社禰宜・長継の次男として生まれた。
応保元年(1161)、7歳のとき、下鴨神社の第六回式年遷宮が行われ、長明も神職の道につき、従五位下に叙せられたが、その後、長明は禰宜(神職のこと)になれなかったとされている。
しかし、長明は幼少の頃から学問に秀で、特に歌道に優れていた。安元元年(1175)21歳のとき、高松女院歌合せに和歌を献じ注目を集めた。
治承4年(1180)26歳のとき、福原へ都が遷されたため、宮中に奉仕する長明も福原へ赴任したが、壇ノ浦で平家は滅亡し、都は再び平安京へ遷都され帰洛している。
正治2年(1200)、46歳のとき、後鳥羽院から召されて院の歌会や催しに和歌を献じることとなった。
翌、建仁元年(1201)、和歌所の寄人に任ぜられる。
元久元年(1204)、50歳の春、宮中の要職を辞して出家し、洛北大原に隠遁した。
その後、世の無常と人生のはかなさを随筆として著したのが「方丈記」である。
大原から方々を転々として、承元2年(1208)、58歳のころに落ち着いている。 (伏見区日野町に「長明の方丈庵跡」がある。)
元久2年3月、「新古今和歌集」に
『石川や 瀬見の小川 清ければ 月も流れを たずねてやすむ』
をはじめ十首が採録された。
「瀬見の小川」とは、現在も河合神社の東に流れる川のこと。
「方丈記」を、ついで「無名抄」を著した。建保4年(1216)6月8日、62歳で没した。

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鴨長明の木像(河合神社資料館に展示)

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鴨長明は「方丈記」有名であるが、それ以外にも色々な書き物がある。
この日は、下鴨神社の大炊殿とともに、ここ河合神社にある河合神社資料館には、自筆・写本・版本それぞれが展示されている。

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この項 <完>

by mo-taku3 | 2013-06-30 11:00 | (寺社)京都の神社仏閣 | Comments(2)

下鴨神社大炊殿(おおいどの)特別公開③

下鴨神社大炊殿(おおいどの)特別公開③

(未完成ですが写真を掲載。)
賀茂斎院御所「御車屋」
「大炊殿(おおいどの)」の西側にある「御車舎(おくるまや)」には十二単衣が展示されていた。

斎院が身に着けるもの、食べ物(いわゆる衣食)が展されている。
また、おふくさん、玉依姫命それぞれの像も展示されていた。

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この項 <完>

by mo-taku3 | 2013-06-30 10:50 | (歴史)京都史 | Comments(0)

下鴨神社大炊殿(おおいどの)特別公開②

下鴨神社大炊殿(おおいどの)特別公開②


ここでご紹介するのは、下鴨神社大炊殿の御料屋(ごりょうや)(重文)。

ここは、神饌の準備や盛り付けを行う社殿である。
平安時代、下鴨神社には賀茂斎院の制が設けられており、本殿から鴨川までが宮域となっていた。
斎王は、810年の嵯峨天皇第8皇女・有智子(うちこ)内親王から、1212年の第35代・礼子(いやこ)内親王まで、約400年間続いていた。
斎王は、通常伊勢神宮に在するが、賀茂祭などでこられ、滞在する御座所として使われている。
しかし、その後の応仁・文明の乱(1467-1477)で焼失している。
現在、大炊殿、御井、葵の庭(カリンの庭)など、一部が再興され、また、薬草のカリン、ヌルデ、クチナシ、ヤマウコギ、ニシキギなども植えられている。

唐門(重文)、江戸時代、1628年建立、唐破風屋根、欄間に葡萄の紋様があり、葡萄門ともいわれる。門をくぐる人をお祓いする意味がある。古くは、エビカズラ(野生の葡萄)といい、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)が黄泉国から逃げ帰った時、追いかけてきた鬼に、髪飾りを投げつけるとエビカズラの実に変わったという。

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大炊殿(おおいどの、大炊所)(重文)は、神饌のための御料を煮炊き、調理するところ。
土間には竈、中の間の台所では、材や用具を洗う。奥の間では盛り付け、神前へのお供えする順に並べる配膳棚がある。
かつて、大炊殿では、ご飯、餅、ぶと、まがり(お菓子)などの穀物類が調理された。
ほかに酒殿、魚貝類鳥類を調理する贄殿(にえどの)があったが、応仁・文明の乱(1467-1477)により、1470年に焼失した。
現在、大炊殿のみが再興されている。
以下数々の展示品をご覧いただきたい。

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この項 <完>

by mo-taku3 | 2013-06-30 10:40 | (歴史)京都史 | Comments(2)

下鴨神社大炊殿(おおいどの)特別公開①

下鴨神社大炊殿(おおいどの)特別公開①


下鴨神社の由緒:
西暦紀元前の崇神天皇の時代(BC90年頃)に神社の瑞垣の修造が行われたという記録があるといわれている。ただ、神社が出している幾つかのパンフレットに記載されている具体的な創祀年は、何故か一定していない。細かいことは抜きにしても、創祀は有史以前に遡るほど古いらしい。
社殿が造営されたのは西暦450~500年頃といわれているようであるが、天武天皇6年(677年)とするのが確からしい。
延暦13年(794年)に桓武天皇が平安遷都のため、当神社に行幸されて以来、皇室との繋がりが強くなったといわれている。平安京遷都以降は皇城鎮護の神、賀茂皇大神宮と称せられるようになり、大同2年(807年)には正一位となり伊勢神宮に次ぐ地位が与えられ、伊勢神宮と同様、齊王(さいおう:神社に奉仕する未婚の皇女)がおかれたという。

この神社の正式名称は「賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ)」であるが、通称名である「下鴨神社」のほうが一般にはよく知られている。

今回紹介する「大炊殿」「御井」とも、平安時代の「鴨社古図」にも書かれている古い建造物で、いずれも重要文化財に指定されている。現存する建物は寛永5年(1628年)に造り替えられたものという。

「大炊殿」特別公開中の看板を見て、入ってみることにした。

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「大炊殿」「御井」の特別公開に当たり、唐門がある。
唐門(重文)、江戸時代、1628年建立、唐破風屋根、欄間に葡萄の紋様があり、葡萄門ともいわれる。門をくぐる人をお祓いする意味がある。古くは、エビカズラ(野生の葡萄)といい、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)が黄泉国から逃げ帰った時、追いかけてきた鬼に、髪飾りを投げつけるとエビカズラの実に変わったという。

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唐門をくぐって左手には色々なお宝が展示されていた。
ここでは、明治天皇が幼少の頃、乗馬の訓練に使用した木馬が置いてあった。
それ以外にも葵祭の行列の絵図などもあった。

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また、向かいには摂社の「三井神社」、その横には諏訪社などの末社が据えられている。
摂社・三井(みつい)神社(重文)、江戸時代、1628年建立、祭神は東殿(右)に、伊賀古夜日売命(いかこやひめのみこと)、中殿に賀茂建角命(かもたけつみのみこと)、西殿に玉依日売命(たまよりひめのみこと)。
 『山城国風土記』逸文には、「三柱の神は蓼倉里(たでくら、たてくら)の三井社に座せり」とある。山城国蓼倉の「三身社(みいのやしろ)」とは当社であるという。三井ノ神社(みいのやしろ、『延喜式』)ともいわれた。本殿祭神の若宮になっている。合祀、摂社・日吉社(中殿)(重文)、祭礼は3月7日。

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末社・愛宕社(おたぎのやしろ)(東社、右)の祭神は火産霊神(ほむすびのかみ)、古くは賀茂斎院御所の守護神として、御所内に祀られてたという。古名は、魚介鳥類を調理する贄殿(にえどの)神、酒を調理する酒殿神、器物の奈良殿神。
稲荷社(西社、左)、祭神は宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)、五穀豊穣を司る神。古名は専女社(とうめのやしろ)。賀茂斎院御所内の忌子女庁屋(いんこのめのちょうや)の守護神として、庁屋の池庭の中島に祀られていた。ともに、応仁・文明の乱(1467-1477)により焼失している。その後、両社を相殿として祀られた。

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くぐり戸を抜けると右側に双葉葵やカリンの木が自生する「葵の庭」、「カリンの庭」がある。

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井戸の「御井(みい)」(重文)は、神饌の御水、若水神事などの御水の祭事が行われている。井筒(井戸屋形)の上に上屋の井戸屋が設けられている。
御井の前には「水ごしらえ場」、式内末刀社(まとのやしろ)の祭神が降臨するという石(橋)がある。12月12日に御薬酒神事、若水を汲む古代様式の神事が行われる。

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大炊殿(おおいどの、大炊所)(重文)は、神饌のための御料を煮炊き、調理するところ。
大炊殿の入口の土間には竈があるが、見た目には随分綺麗であり、最近改修されたものと推測される。
流し台や用具類なども時代を経過した迫力を感じさせるものがないように思える。
(大炊殿の内容については、②で詳しく述べる。)

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「唐車」である。駒札にあるように、屋根の作りが『唐破風』(からはふう)になっているのでこう呼ばれたとある。最も格式の高い牛車だそうである。

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更に奥には、ハイカラな馬車がおいてあった。
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何れにしても、神社のなかでこの種の建築物が現存するのは極めて希で、貴重な社殿であるという。下鴨神社を訪れたときは見学しておきたい社殿である。




この項 <完>

by mo-taku3 | 2013-06-30 10:00 | (歴史)京都史 | Comments(2)

ハスの花(京都植物園)グッドタイミング!2013

ハスの花(京都植物園)グッドタイミング!2013


京都植物園では丁度タイミングよくハスが咲いていました。
さすが植物のプロというか、レイアウトも上手く、水との調和で設計されていました。

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この項 <完>

by mo-taku3 | 2013-06-30 09:30 | (風情)京都・関西 | Comments(4)

アジサイの花(京都植物園)2013

アジサイの花(京都植物園)2013


今年の京都植物園のアジサイをご覧ください。
感想としては、種類が豊富なのにびっくりしました。

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この項 <完>

by mo-taku3 | 2013-06-30 09:00 | (風情)京都・関西 | Comments(6)

鴨川の風景(アオサギも伸び伸び羽繕い)

鴨川の風景(アオサギも伸び伸び羽繕い)2013


今日の鴨川の散歩は朝早くにしてみた。
ここは北山から少し下がった「半木(なからぎ)の道」といって、昭和47年から植えられてきた、枝垂桜の並木があるところである。今や京都の桜の名所になっている。

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しばらく下流に下ってくると、中洲にアオサギがおり、のんびり羽繕いをしていた。
鴨川は、鳥類の憩いの場所のようなところといえる。

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ここは、下鴨神社の西側から伸びている「出雲路」の、鴨川にかかる「出雲路橋」である。
下鴨神社の祭神は元々出雲神である。
これはミステリアスな話のようである。

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この項 <完>

by mo-taku3 | 2013-06-30 08:30 | Comments(4)

【唐招提寺】鑑真和上坐像の公開(レプリカ)

【唐招提寺】鑑真和上坐像の公開(レプリカ)


唐招提寺(とうしょうだいじ)は、奈良市五条町にある鑑真が建立した寺院である。
南都六宗の1つである律宗の総本山である。
本尊は廬舎那仏、開基(創立者)は鑑真和上である。
井上靖の小説『天平の甍』で広く知られるようになった中国・唐出身の僧鑑真が晩年を過ごした寺であり、奈良時代建立の金堂、講堂を初め、多くの文化財を有している。
唐招提寺は1998年に古都奈良の文化財の一部として、ユネスコより世界遺産に登録されている。

『続日本紀』等によれば、唐招提寺は唐僧・鑑真が天平宝字3年(759年)、新田部親王(天武天皇第7皇子)の旧宅跡を朝廷から譲り受け、寺としたものである。
寺名の「招提」は、サンスクリット由来の中国語で、元来は「四方」「広い」などの意味を表す語であったが、「寺」「院」「精舎」「蘭若」などと同様、仏教寺院(私寺)を指す一般名詞として使われていた。つまり、唐招提寺という寺号は、「唐僧鑑真和上のための寺」という意味合いである。

鑑真(688年 - 763年)の生涯については、日本に同行した弟子の思託が記した『大和上伝』、それを基にした淡海三船の『唐大和上東征伝』、寺に伝わる絵巻物『東征絵伝』、井上靖の『天平の甍』などに詳しく載っている。
鑑真は仏教者に戒律を授ける「導師」「伝戒の師」として日本に招請された。
「戒律」とは、仏教教団の構成員が日常生活上守るべき「規範」「きまり」を意味し、一般の仏教信者に授ける「菩薩戒」と、正式の僧に授ける「具足戒」とがある。
出家者が正式の僧となるためには、「戒壇」という場で、「三師七証」という授戒の師3人と、証明師(授戒の儀式に立会い見届ける役の高僧)7人のもと、「具足戒」を受けねばならないが、当時(8世紀前半)の日本ではこうした正式の授戒の制度は整備されておらず、授戒資格のある僧も不足していた。
そのため、官の承認を経ず、私的に出家得度する私度僧が増え、課役免除のために私度僧となる者もいて、社会秩序の乱れにつながっていた。

こうした中、天平5年(733年)、遣唐使と共に渡唐した普照と栄叡という留学僧は、日本には正式の伝戒の師がいないので、しかるべき高僧の推薦を鑑真に申し出た。
鑑真の弟子達は渡航の危険などを理由に渡日を拒んだ。
弟子達の内に渡日の志をもつ者がいないことを知った鑑真は、自ら渡日することを決意する。
しかし、当時の航海は命懸けであった上に、唐で既に高僧として名の高かった鑑真の出国には反対する勢力もあった。
そのため、鑑真、普照、栄叡らの渡航計画は挫折の連続であった。
748年、5回目の渡航計画では嵐に遭って船が漂流し、中国最南端の海南島まで流されてしまった。
陸路揚州へ戻る途中、それまで行動を共にしてきた栄叡が病死し、高弟の祥彦(しょうげん)も死去、鑑真自らは失明するという苦難を味わったが、753年、6回目の渡航計画でようやく来日に成功するが、鑑真は当時既に66歳になっていた。
遣唐使船に同乗し、ようやく難波津(大阪)に上陸した鑑真は、同年4月、東大寺大仏殿前で、聖武太上天皇、光明皇太后、孝謙天皇らに菩薩戒を授け、沙弥、僧に具足戒を授けた。
鑑真は日本で過ごした晩年の10年間の内、前半5年間を東大寺唐禅院に住した後、天平宝字3年(759年)、前述のように、今の唐招提寺の地を与えられた。
大僧都に任じられ、後に大和上の尊称を贈られた鑑真は、天平宝字7年(763年)5月、波乱の生涯を日本で閉じたという。(数え年76歳)

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この日は非常に暑ったせいもあるが、比較的空いていたような気がした。
駐車場も半分くらい埋まっていた。

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南大門。

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南大門の脇には、「史跡唐招提寺旧境内」と書かれた説明版があった。

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唐招提寺は世界遺産に登録されている。

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境内図。
実際は、この図よりもかなり大きく感じ、全部歩くとかなりの距離であった。
伽藍配置は禅宗寺院とよく似ている。

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南大門を入って、正面が金堂である。
国宝。奈良時代建立の寺院金堂としては現存唯一のものである。

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左が、「鼓楼」国宝、右が、礼堂/東室(重文)。

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講堂。
国宝。入母屋造、本瓦葺き。正面9間、側面4間。平城宮の東朝集殿を移築・改造したもので、天平宝字4年(760年)頃、平城宮の改修に伴って移築された。

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開山堂は江戸時代初期、徳川将軍家歴代の御霊殿として建立。鑑真和上坐像などを安置していたが、老朽化のため解体。平成22年10月から建て直し工事を進めていた。
5月31日に完成落成式を行ったばかりである。
ここには鑑真和上坐像のレプリカが置かれ、いつでも拝観できる。

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北原白秋の歌碑があった。

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このお寺はハスの花でも有名であるが、あまりいいハスの花を見ることができなかった。

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苔庭がきれいに作られていた。

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いつ来てもいい感じのお寺である。




この項 <完>

by mo-taku3 | 2013-06-29 12:13 | (寺社)関西の神社仏閣 | Comments(2)

ハスの花で有名な【奈良喜光寺(きこうじ)】「試みの大仏殿」ともいわれる

ハスの花で有名な奈良【喜光寺(きこうじ)】「試みの大仏殿」ともいわれる


喜光寺(きこうじ)は、奈良県奈良市菅原町にある法相宗の寺院。山号は清涼山。本尊は阿弥陀如来。奈良時代の高僧・行基が没した地とされている。薬師寺の別格本山。

奈良時代に架橋、土木工事などの社会事業に携わり、東大寺大仏造立にも貢献した僧・行基が創建したと伝わる。
行基研究の基礎文献の一つである『行基年譜』(安元元年・1175年成立)によれば、喜光寺の前身である菅原寺は、養老5年(721年)、寺史乙丸なる人物が自らの住居を行基に寄進して寺としたものであって、行基建立の四十九院の一つであるとされている。
行基は天平21年(749年)この寺で82歳で死去し、生駒の竹林寺に葬られている。
一方、「菅原寺記文遺戒状」という史料によれば、この寺は霊亀元年(715年)、元明天皇の勅願により建てられたものという。
創建当初は菅原道真の生誕地と伝わる菅原の里にあることから「菅原寺」と呼ばれていた。
伝承によれば、聖武天皇が参詣した際に当寺の本尊より不思議な光明が放たれ、これを見た天皇が喜んで、「菅原寺」を改めて「喜光寺」としたという。『続日本紀』によれば、延暦元年(782年)、この地に住んでいた土師氏が桓武天皇から菅原姓を賜ったという。

中世には興福寺の末寺となり、直接には興福寺の塔頭の一つであった一乗院に属した。
戦国時代に伽藍のほとんどが兵火により焼失したが、間もなく再建された。
明治時代には薬師寺の末寺となった。現在は同寺唯一の別格本山という。

南大門 - 再建後に再び焼失。再び再建され2010年5月に落慶法要が営まれた。

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喜光寺縁起。

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本堂(重要文化財) - 室町時代に再建された単層裳階付き建物。
この建物は、元々は行基が東大寺大仏殿を建立する際の参考にしたと伝承されており、大きさとしては大仏殿の十分の一のサイズになっている。
このことから、「試みの大仏殿」とも呼ばれる。

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ハスの寺としてのハス。
午後になってしまい、きれいな開花が見られなかったのは残念だった。

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弁天堂。7月中旬にご開扉3日間がある。

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この項 <完>

by mo-taku3 | 2013-06-29 11:09 | (風情)京都・関西 | Comments(2)

家康のお声がかりで作られた【東本願寺】

家康のお声がかりで作られた【東本願寺】


東本願寺は具体的に取り上げていなかったのでここで改めて簡単に歴史を述べる。
東本願寺は、京都市にある真宗大谷派の本山としての礼拝施設の通称である。正式名称は、「真宗本廟」である。
堀川七条に位置する「西本願寺」(正式名称「本願寺」)の東に位置するため、「東本願寺」と通称される。また、真宗大谷派(以降、大谷派)としても、「東本願寺」の通称を公式ホームページ・出版物などに用い、正式名称「真宗本廟」と併用している。他に、「お東」、「お東さん」とも通称される。
東本願寺(真宗本廟)は、宗教法人格を有していない。大谷派が所有する礼拝施設等(伽藍)の総称であり、宗教法人法による寺院ではない。

「本能寺の変」で信長が没した後、本願寺は大坂・天満を経て、京都・堀川に移る。
しかし、その直後、顕如上人が亡くなられ、長男の教如上人が跡を継いだが、翌年には豊臣秀吉の裁定で、弟の准如(じゅんにょ)上人に職を譲(ゆず)り、隠居(いんきょ)させられる。
しかし1602(慶長七)年、教如上人は徳川家康から烏丸(からすま)六条の土地を寄進され、本願寺を別立し、教団も二分されることになる。この時から東西分派し2つの本願寺が存在する。
その後も東西の勢力の均衡を保つ意味で、徳川幕府は東の後押しを続けている。
徳川家康は特定の宗教勢力の没頭を防ぐ意味で、寺町作り、大徳寺に大名の寺院を集めたり、それまで勢力の弱かった浄土宗3本山設立と城作りの寺構え、智積院の設立等々、勢力の分散化に力を入れた宗教政策を徹底している。

私は、真宗の信者ではないが、こよなく東本願寺のハスの花を楽しみにしている一人である。

さて、東本願寺の前からは化粧直しをした京都タワーがよく見える。

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東本願寺の駒札。先程載せた内容が書かれている。

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ハスの花である。お寺の南側の堀沿いにある。
毎年夏なると訪れている。

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また北側にはスイレンがさいていた。

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この項 <完>

by mo-taku3 | 2013-06-28 11:00 | (寺社)京都の神社仏閣 | Comments(2)