足利尊氏の菩提寺【等持院】とは

足利尊氏の菩提寺【等持院】とは


等持院は南北朝の時代小説には尊氏の菩提寺として何度か聞いたことがあり、一度は訪れてみたいと思っていた。たまたま、時間ができたので探索をしてくることができた。

等持院は、暦応4年(1341)、足利尊氏(あしかがたかうじ)が衣笠山の山頂にあった仁和寺の子院を譲り受け、この地に移築して等持寺の別院として中興、改宗し天龍寺の夢窓国師(むそうこくし)を開山としたのが始まりとある(異説もある)。
その後、尊氏が没した時、この寺で葬儀を行い、等持院として天龍寺の末寺となっている。
以後、足利将軍家の菩提所となっている。

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通りに面した山門から続く参道は長い。石畳から砂利の道に変わると目の前に、立派な庫裡の屋根が見える。
表門をくぐると庫裡があり、ここで拝観料を払って右手に進む。

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正面には達磨大師の肖像がどーんと目に入る。

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庫裡へ入ると、すぐ右手に方丈(本堂)で、本尊の釈迦牟尼仏が安置されている。
方丈の前もきれいに整備された庭園になっている。
方丈庭園を眺めながら広縁を歩くと鴬張りの廊下がキュキュと鳴く。渡り廊下の向こうに霊光殿があり、ここ等持院は、歴代の足利将軍を祀る廟所なのである。

この方丈は、妙心寺の福島正則が作った塔頭を移設したものとうたっている。

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方丈を過ぎて、このような小さな太鼓橋を渡ったところに、霊光殿がある。
中は撮影禁止なので写してはいないが、正面中央には足利尊氏の念持仏の地蔵菩薩像が祀られており、周囲両側には歴代足利将軍木像が13体並んで安置されている。(理由は分からないが、五代義量(よしかず)と十五代義栄(よしひで)の像が無い)、そして徳川家康像が並べられている。
この家康像は、家康が42歳の時に厄落としの為に作らせたものが、石清水八幡宮・宝蔵坊に在ったのを移されたものである。
この背景には、戦国時代にのし上がった徳川家を、源氏の棟梁としての正当性を強調したのであろうことが伺える。

さて余談であるが、文久3年(1863)2月、尊攘派浪士が木像のうちの初代将軍尊氏(たかうじ)、二代将軍義詮(よしあき)、三代将軍義満(よしみつ)の首を抜き取り、三条河原でさらし首にするという事件にあっている。

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方丈と書院の前に広がる庭園は、夢窓国師の作庭と伝えられる。
庭園は回遊式で、茶室「清漣亭(せいれんてい)」と芙蓉池(ふようち)を持つ西庭と、心字池(しんじち)中心の東庭とに分けられる。
特に西庭は、衣笠山を借景に取り入れ石組みの間に草木、花木をあしらいており、書院にすわりお茶をいただきながら眺めると気持ちも安らぐ。これら庭園は回遊式となっているので、ゆっくりと散策すると珍しい野鳥と出会えることもある。
庭園は本来は衣笠山を借景としていたが、立命館大学衣笠キャンパスの拡充により、校舎に眺めを遮られたため、現在では樹木を高く伸ばして校舎を隠している。

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庭の中程には尊氏の墓と伝えられる宝篋印塔がある。

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(等持院の歴史)
尊氏は暦応4年(1341年)に現在の京都市中京区柳馬場御池付近に等持寺を建立し、その2年後の康永2年(1343年)、現在の京都市北区等持院北町に別院北等持寺を建立したとされている。ところが、柳馬場にあったとされる等持寺建立に関する異説として暦応元年(1338年)頃に尊氏の弟である足利直義が古先印元を開山として建立したとする説が出されている。これは、南北朝時代の公家の日記である『師守記』(暦応2年9月1日条)には武衛(左兵衛督=足利直義)が坊門三条殿の等持院で父足利貞氏追善の法華八講を主催したことが記されていることによる。ここに登場する等持院は後の等持寺のことで、その隣地には直義の三条坊門殿があり、等持院も元は直義が一門のために建てた持仏堂であったと推定する考えである。康永元年(1342年)頃に等持院が諸山に叙せられた際に寺号も等持寺と定められたという。また法勝寺の恵鎮(円観)が等持寺にて足利直義に『太平記』を見せられたという逸話(『難太平記』)も当時の等持寺が直義ゆかりの寺院であったと示すとされている。なお、後に直義は観応の擾乱によって滅亡し、坊門三条殿は尊氏の嫡男足利義詮の邸宅になり、等持寺も義詮が管理するところとなった。直義建立説によれば、一連の戦乱で等持寺も大きな被害を受けたために尊氏は同寺を足利氏の菩提寺に相応しいものに大改築を行っているが、その際に寺伝を改竄して開山を夢窓疎石とするとともに、等持寺建立における直義と古先印元の事績を抹殺したとしている。

尊氏の死後、別院北等持寺は尊氏の墓所となり、その名前を「等持院」と改称した。その後、応仁の乱で柳馬場の本寺が焼失したため、別院だった現在の等持院が本寺になった。





この項 <完>

by mo-taku3 | 2013-07-24 10:24 | (寺社)京都の神社仏閣 | Comments(2)

祇園祭①山鉾巡行その3;籤(くじ)改め

祇園祭①山鉾巡行その3;籤(くじ)改め


祇園祭、伝統の籤改めです。

元々この四条通りは狭い通りでした。
この通りに巡行日は競って順番を勝ち取るべく前日から競り合いががあり、喧嘩が後を絶たなかったそうです。これを解消すべく順番を決める籤引きが始まったと言います。

では、現在どうなっているかと言いますと、7月2日京都市役所の議事堂にて籤引きが行われています。
長刀鉾は祇園祭の象徴として別格の扱いをされ先頭に位置付けられています。
したがって、2番目以降の籤引きとなります。
この場で決まった順に巡行日は運行します。

長刀鉾の会所から東に100mほど行った所に籤改めの場所があります。

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次の3枚の写真が典型的な、籤改めの儀式と言っていいでしょう。
この方はもう80歳を超え、祇園祭一筋にやってきて、今後も足腰を鍛えて続けたいとのこと。
素晴らしいですね。

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各山鉾はそれぞれこのような籤改め全て行っていく。

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この項 <完>

by mo-taku3 | 2013-07-17 15:31 | (祭特集)祇園祭他 | Comments(2)

祇園祭①山鉾巡行その2;巡行

祇園祭①山鉾巡行その2;巡行


いよいよ祇園祭の『山鉾巡行』である。
いままで気が付かなかったが、山鉾巡行は「祇園会」が先導する形になっている。

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籤改めを終えた【長刀鉾】が先頭で始まりました。

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長刀鉾には、三人の稚児さんが乗っております。
稚児さんが乗るのは、この長刀鉾の三人だけで、他の鉾は何時からか全て稚児人形を乗せている。

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三人の稚児さんの親御さんでしょうか、しっかり鉾の傍に付いて子供たちを見守っていました。

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ここからは山鉾の巡行を見ていただきたい。

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後に続く山鉾は延々と続きます。

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鉾車は真っ直ぐしか進めません。またブレーキもついておりません。
ここにいる人達は、これらの役割で重要な裏方さんです。

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この項 <完>

by mo-taku3 | 2013-07-17 09:00 | (祭特集)祇園祭他 | Comments(2)

祇園祭①山鉾巡行その1;巡行の準備風景

祇園祭①山鉾巡行その1;巡行の準備風景


今日はいよいよ山鉾巡行です。

巡行をスムーズに進行するために、それを支える脇役の活躍が重要になってます。
その準備状況を、巡行を前にして少しご紹介したい。

巡行の始まる約2時間前くらいから、準備作業が始まっていく。
山鉾の準備が全て終わり、それぞれの山鉾の出陣式が会所で行われているころ、籤改め(くじあらため)処の設定、来賓者の観覧席の設定などが行われいます。

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背の高い鉾が通るには、障害物があってはならないため、電柱や電線・電話線が全て地中に埋められている。しかし、交通量の激しいこの四条通は信号機は必須で、巡行当日にこのように除かれていきます。
これが、1kmにわたって行われるから大変です。裏方さん、ご苦労様です。

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記録員が配置についていきます。

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観衆も位置を確保していきます。準備万端。

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いざ、出陣!

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この項 <完>

by mo-taku3 | 2013-07-17 08:00 | (祭特集)祇園祭他 | Comments(2)

祇園祭②宵山その3;日和神楽

祇園祭②宵山その3;日和(ひより)神楽


日和(ひより)神楽です。
これは、一般には馴染みのない、地元の人に披露される行列で、“明日の巡行が天気に恵まれるようにお祈りする神楽”です。
宵山が静まってきた夜の10時過ぎから、お世話になった山鉾町内を回り、また、天気を御旅所に祈願していきます。

以下の写真は、大きなホテルに立ち寄ったところを写したものです。
お神酒が振舞われています。

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この項 <完>

by mo-taku3 | 2013-07-16 22:30 | (祭特集)祇園祭他 | Comments(2)

祇園祭②宵山その2;人々の風情

祇園祭②宵山その2;人々の風情


今年の宵宮は例年とは少し変化があった。
まずは、13・14・15日が休日だったことから、家族連れが多かったことで、老若男女が混在していた。
通常年は、若い子やお年寄りが目立ったが、今年は小さな子供をつれた家族連れ多かった。
そのせいか、全体の雰囲気が非常によかったように思う。
また、期間を通して天気がよかったこともあり、人出が非常に多かったが整然としていたように思う。

この画は16日の夕方です。
ここは四条烏丸の烏丸通を南に向かって写っています。

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マナー良く、秩序良くで関係者は努力をしていました。
しかし毎年気になるのは、水のないところでの出店によって、翌朝には近辺が汚れており、出勤時に異臭がするのがいつも気になるところです。

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凄い人出がお分かりいただけると思う。
浴衣姿がいつも多く、若い男女の浴衣姿もかなりいる。京都らしい雰囲気をかもし出している。

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山鉾によっては、上に上らせてくれる“一般公開”がある。タイミングさえ合えば、そんなに並ばなくても登ることができる。
しかし、一般公開していない鉾もあるのでご注意。

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すっかり化粧が終わり、準備が出来上がった“長刀鉾”。
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狭い路地の出店には多くの人が群がっている。

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お囃子組みも最高潮に達している。

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この項 <完>

by mo-taku3 | 2013-07-16 20:00 | (祭特集)祇園祭他 | Comments(2)

祇園祭②宵山その1;大店のお宝お披露目

祇園祭②宵山その1;大店(おおだな)のお宝お披露目


祇園祭もいよいよ宵山に入りました。
宵山は、14・15・16の三日間ですが、多くの鉾は“引き初め”(希望者を事前に受付、組みあがった鉾を引いてもらう)をやっており、12日の夜から粽(ちまき)うりが店開きします。
そして、14日の夜からは本格的に宵宮が始まります。

さてその期間山鉾町では、秘蔵のお宝を特別公開展示する習慣があり、これまた圧巻です。
これを見ようと場所によっては30分・1時間待ちがあるくらいです。

ここにはほんの一部を載せましたが、もっと豪華なものが沢山でています。

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大船鉾のお囃子とポスターです。
以前は、巡行が2回に分けて行われていました。(17日・24日)
交通事情等を顧慮して、一回にまとめられましたが、このたび火事で焼失した【大船鉾】の復活が進んでおり、これを機にまた2回に分けた、後祭りの復活が予定されています。
大船鉾の土台・骨組みができたことと、数年前からこの“お囃子”が活躍を始めています。

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この項 <完>

by mo-taku3 | 2013-07-16 16:35 | (祭特集)祇園祭他 | Comments(3)

祇園祭③鉾立て

祇園祭③鉾立て



祇園祭のメインとなる、鉾の組み立て(鉾立て)が始まりました。
これを組み立てるのには、2日を要します。
組立ての基本は、釘・針金などは使わず、木組みと縄絞めで行います。
見ていると、上手く連携が取れて見事な、芸術的な組立てが進んでいきます。
本当に惚れ惚れしますよ。

鉾がならぶ、四条烏丸界隈も段々雰囲気が出てきました。

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これがまさしく芸術的な鉾の組立てです。

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組立てと巡行時に必要な資材です。

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この日は35度超えで猛暑の中、ちょっと休憩です。
でも皆さんいいお顔をされてますねぇ

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あちこちで一斉にこのような鉾が組み上がっていきます。

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翌日にはこのように見事に組みあがってます。
何時見てもいいもんです。

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この項 <完>

by mo-taku3 | 2013-07-12 10:10 | (祭特集)祇園祭他 | Comments(2)

祇園祭④御神輿祭

祇園祭④御神輿祭



祇園祭は八坂神社のお祭りで、7月の一ヶ月をかけて行事が行われます。祇園祭では、山鉾が中心を占めておりますが、元々は“雨乞い神事”が起源となって居ります。

その中で特に重要な役割を占めているのが、多くの神社で執り行われる「神幸祭/還幸祭」です。
通常、神幸祭といわれますが、八坂神社では【御神輿祭】言われるように、御神輿(おみこし)が主役を占めており、立派な御神輿が3基+子供神輿が登場します。

この南門の奥に舞殿があり、そこに御神輿が鎮座します。

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神輿3基のうち、この中御座の神輿が約300人の担ぎ手によって、大きな松明を掲げながら、神輿洗いに向かいます。
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7月10日は鴨川にて神輿洗いが行われます。
この位置から水を汲んで神輿を洗います。

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ムクゲの花です。八坂神社の社紋です。
この社紋はキュウリの切り口に似ているところから、氏子(私もですが)は7月一杯はキュウリを口にしない習慣がありました。

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この項 <完>

by mo-taku3 | 2013-07-10 09:15 | (祭特集)祇園祭他 | Comments(2)

長岡京の一角にあたる『向日神社』とは

長岡京の一角にあたる『向日神社』とは


向日神社の鎮座する向日山は、向日市西部の向日丘陵の最南端に位置しているが、その山上に向日神社と元稲荷古墳(神社の北側の勝山公園内)がある。
神社と古墳があることからも向日山は、古代からこの乙訓地域のシンボル的な山として、乙訓地域を治める人々にとって神聖な場所と考えられてきたと思われる。
そして、向日神社の創建も、この元稲荷古墳と何らかの関係があったとのではないかと考えられている。

さて、この向日神社は延喜式神名帳に記載された式内社であり、神名帳においては、山城国乙訓郡向神社(むこうじんじゃ)と称され、後に火雷神社(ほのいかづちじんじゃ)を併祭して、今日に至っている。
この両社は、同じ向日山に鎮座されたので、向神社は上ノ社、火雷神社は下ノ社と呼ばれていた。

向日市の資料によると、
「神武天皇が大和国橿原より山城国に遷り住まわれたとき、神々の土地の故事により、向日山麓に社を建てて火雷大神を祀られたのが創立である。
同じ向日山に鎮座された二つの社は、向神社が上ノ社(カミノヤシロ)、火雷神社は下ノ社(シモノヤシロ)と呼ばれていた。
養老2年(718)社殿改築遷座の折、火雷大神の妃神・玉依姫命を、また創立の因縁により神武天皇を併祭し、建治元年(1275・北条執権期)下ノ社社殿荒廃により上ノ社に併祭、以降下ノ社の再興がならず、上ノ社に上記4神をお祀りし、向日神社として今日に至っている」

というが、この弊祭の経緯について、旧聞抄によれば、
「向神社と火雷神社とは本来別社であったが、承久の変(1221)に火雷神社の神主六人部(ムトベ)氏義が天皇方に組して敗れ、その子孫が丹波に隠棲した。曾孫氏貫の代に至り、建治元年(1275)旧里に戻ったが、社殿の頽廃はげしく、向神社の神主葛野義益の建議によって、火雷神社の樋代を向日神社に納めた」

また、上ノ社は五穀豊穣の神として、下ノ社は祈雨、鎮火の神として朝廷の崇敬の特に篤い神社であったことは、古書に数多く見られます。

乙訓地区は、歴史上なぞの多い秦氏との関係が深く、出雲神との関係も引きずっているようなので、これからは史跡の解明が進み、空白の時代が解き明かされることを期待したい。

鳥居と駒札。

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見事に整備された、真っ直ぐな「参道」。

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境内図。

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併設されている「勝山稲荷神社」。

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舞楽殿。

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本殿。

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勝山神変大菩薩(役行者尊像)を鎮座させている岩窟。

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この項 <完>

by mo-taku3 | 2013-07-06 12:52 | (寺社)京都の神社仏閣 | Comments(2)