古代都市「纏向」に寄り添う『箸墓古墳』は卑弥呼のお墓?

古代都市「纏向」に寄り添う『箸墓古墳』は卑弥呼のお墓?


邪馬台国の女王・卑弥呼の墓との説がある巨大古墳、奈良県桜井市の箸墓古墳(はしはかこふん)で、宮内庁が初めて研究者の立ち入りを認め、現地調査が行われた。
もし、この箸墓古墳が卑弥呼の墓であることが証明されれば、古代史最大のミステリーともいえる卑弥呼や、邪馬台国の正体が明らかになるかもしれない。


箸墓古墳が造られたのは、最近の学説では3世紀中頃から後半と見られるようになり、古墳時代の初期に当る。
一方、我が国が歴史上登場するのは、3世紀末に書かれた中国の三国志・魏書東夷伝倭人の条(通称・魏志倭人伝)で、3世紀の日本列島と思われる倭国の模様や、邪馬台国の女王・卑弥呼が朝貢してきたことが記述されている。
その邪馬台国がどこにあったかは、江戸時代より論議され、近年は東大系が九州説、京大系が畿内・大和説を主張している。
これらのことから、畿内説の中には箸墓古墳を卑弥呼の墓とする学説もある。

この箸墓古墳とほぼ時を同じくして出現したのが、大規模な古代都市といわれる纒向遺跡である。
この古代都市が『邪馬台国』ではないかといわれており、それに隣接する「箸墓古墳」は卑弥呼の墓ではないか言われる所以である。

現在、箸墓古墳は(宮内庁により)第七代孝霊天皇の皇女、倭迹迹日百襲姫命大市墓(やまとととひももそひめのみことおおいちのはか)として管理されており、2013年2月、初めて1時間半の墳丘への調査が認められただけである。

全長約280メートルの大きな前方後円墳である。

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この項 <完>

by mo-taku3 | 2013-08-22 22:50 | (歴史)関西史 | Comments(2)

浅井姉妹と深くかかわる『養源院』とは

浅井姉妹と深くかかわる『養源院』とは


養源院 (ようげんいん)

浄土真宗遣迎院派で、三十三間堂の東側、後白河天皇法住寺陵に隣接して養源院建っている。

浄土真宗遣迎院派と標榜しているものの、天台宗の寺院であった遣迎院が独立して一派を興したもので、本尊に釈迦如来、阿弥陀如来の二尊を立てるなど、他の真宗教団とは教義的にも関連が薄く、天台系の寺院である。なお、遣迎院の院号は、浄土へ「遣」わす釈迦、浄土で「迎」える阿弥陀に由来する。本山は遣迎院(京都市北区鷹峯光悦町)。

浄土真宗遣迎院派である養源院は、質素な寺で、山門を潜り庫裡・玄関までの長い参道は、緑が美しい木立となっている。
養源院は、浅井家ゆかりのお寺と言っていい。
文禄3(1594)年に浅井長政の長女・茶々(淀殿)が、父の菩提を弔うために、秀吉に願って創建した寺院である。寺号の「養源院」は、浅井長政の法名から付けられている。
元和5(1619)年に落雷にあい、寺院は焼失するが、2代将軍徳川秀忠の正室となった長政の三女・お江によって、伏見城の遺構が移され、現在の本堂はお江によって再建されたものである。
本堂には、創建者の淀殿、再建者のお江の肖像画、そして豊臣秀頼の肖像画があり、珍しい取り合わせのお寺である。
以来、徳川家の菩提所となり歴代将軍の位牌が祀られ、さらには皇室の祈願所ともなっている。

本堂へ入ると、カセットテープによる説明によると、本堂の正面と左右の三方の廊下の天井は、慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦の前哨戦となった伏見城落城の際、鳥居元忠以下の将士が自刃した際に飛び散った血痕がついた板間の板を使用しているため、俗に「血天井」と称している。
また、本堂の廊下は左甚五郎が造った鴬張りの廊下となっている。

さて、三十三間堂の東側の一角にこの養現院がある。
山門から境内を覗くと良く整備された石畳の参道が庫裡まで続いている。

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一方山門の前には、このように「桃山御殿 血天井」の表札が掲げられている。

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「駒札」である。

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訪問したのは、一番暑い盛りだが夏の花である、サルスベリが境内全体に咲き誇っていた。

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庫裡の玄関には、三つ葉葵(徳川家)の紋の幕がかけられている。

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今回は、時間がなかったので本堂には入らなかったが、次回に本堂内部の模様をお伝えしたい。

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本堂の南にある堂宇。

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養源院について「あれこれ」を紹介。
■養源院は徳川家の菩提所となり、2代将軍秀忠から14代将軍家茂までの位牌が安置されている。
お江と秀忠の位牌をよく見ると、「菊」「葵」「桐」の3つの紋があります。3つの紋を拝見できる寺院は日本でここだけ?。
理由は、「菊」は天皇家の紋で、お江と秀忠の子、和子が後水尾天皇のもとに入内したことからつけられて、さらに「葵」は歴代の位牌がまつられている徳川家の紋、「桐」は養源院を建立した豊臣家の紋
■血天井;養源院は伏見城の「中の御殿」から移築されたものが、今の本堂。
本堂の天井では380余人兵士の血痕や、元忠が自害した場所といわれる跡を見ることができる。
■絵師・俵屋宗達の絵画が見れる。『白象図』や『唐獅子図』は、杉戸の中から今にも白象と唐獅子が飛び出してくるかのような技法で描かれている。
■うぐいす張りの廊下は、江戸時代初期に活躍した有名な彫刻家・左甚五郎の作品といわれている。





この項 <完>

by mo-taku3 | 2013-08-22 22:47 | (寺社)京都の神社仏閣 | Comments(2)

送り盆『大文字焼』

送り盆『大文字焼』


大文字焼きと五山の送り火

毎年、8月16日午後8時から、京都盆地の周囲の山に、炎で描かれた、二つの「大」、「妙、法」、「鳥居」、「船形」が次々に浮かび上がる。
お盆に迎えた精霊をふたたび冥府に返す精霊送りの意味を持つ、あくまで宗教行事である。
市内の川沿いや御所など開けたところから遠望することができ、関係者は静かに手を合わせ先祖に思いを馳せて欲しい、としている。

東山如意ヶ嶽(支峰の大文字山)の「大文字」がもっともよく知られていて、送り火の代名詞になっている。

江戸時代後期には「い」(市原野)、「一」(鳴滝)、「竹の先に鈴」(西山)、「蛇」(北嵯峨)、「長刀」(観音寺村)などの字形もあったが、途絶えたといわれている。

京都市北部の地域で現在も行われている「松上げ」と同じような起源を持つと考えられている。

京都三大祭(葵祭・祇園祭・時代祭)に五山送り火を加え、京都四大行事と呼ばれる。


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あちこちのマンションやホテルの屋上がらの見物で賑やかになる。・

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この項 <完>

by mo-taku3 | 2013-08-22 22:40 | Comments(4)

天神祭の『大阪天満宮』を初めて訪問

天神祭『大阪天満宮』を初めて訪問


大阪天満宮の創社(鎮座)は、平安時代中期になる。
天満宮というと菅原道真公(菅公)であるが、菅公は、延喜元年(901年1月25日)、政敵であった藤原時平の策謀により、昌泰4年(901年)九州太宰府の太宰権帥(だざいごんのそち)に左遷された。
菅公は、色んなところに立ち寄ったとの逸話がのこっているが、ここでは摂津中島(ここ天満宮の境内にある)の大将軍社に参詣した後、太宰府に向ったとなっている。
しかし、大宰府では、幽閉と同様の扱いを受けたといい、劣悪の環境下で2年後にわずか59歳でその生涯をとじている。憤死したようだ。(延喜3年/903年2月25日)
その約50年後、天暦3年(949年)のある夜、この大将軍社の前に突然七本の松が生え、夜毎にその梢は、金色の霊光を放ったと言われている。
この不思議な出来事を聞いた村上天皇は、これを菅公に繋がる縁として、勅命を出し官公を鎮座している。

この大阪天満宮は、江戸時代の記録に残るだけで七度もの火災に遭い、なかでも大阪市中を焼き尽くした享保9年(1724年)の妙知焼けや、大塩平八郎の乱による天保8年(1837年)の大火では、全焼している。
それでも、その約6年後に、大阪市中の献身的な人達によって、現在のご本殿が再建されている。
それが現在の本殿である。


表門から見た、「大阪天満宮」。

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この門の脇には手書きのカラフルな「境内の図」が描かれていた。

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「なにわ七幸めぐり」の一つとなっている。

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現在の本殿は、天保14年(1843年)に再建された物である。

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社殿の前の狛犬が、ちょっと変わった中国風のものではと思っている。

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神武天皇聖蹟難波之碕(なにはのみさき)顕彰碑は昭和15年に起工式が行われたものである。
これは日本書紀に記載された内容をもとに、神武天皇が上陸を果たせなかった難波之碕激戦地を東征の記念碑として起工されたようだ。

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大将軍社 本殿
現在の本殿は、弘化2年(1845)に再建された物で権現造りです。

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蛭子門。
大阪天満宮には六つの門があり、蛭子門は、もともとこの門を入ってすぐ左手に戎社が祀られていたことから「蛭子門」と呼ばれている。

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日本で大阪が珍しい色のガラス玉細工を始めた最初で、日本のガラス工業界は大阪のここが発祥地とされている。

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裏門にあたる「大工門」がある。

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大工門を抜けるとそこには『繁昌亭』がある。
上方落語協会会長 桂 文枝はホームページで、
『大阪の噺家にとって、長年の悲願でございました天満天神繁昌亭が、多くの方々のご厚志とご支援により、2006年9月15日にオープンいたしました。
天満天神繁昌亭のホームページでは天満天神繁昌亭の様々な情報、また200人を超える上方落語家の動きや情報を満載し、随時新情報を更新してまいります。ぜひごらんください。』とあった。

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公演は、朝・昼・夜の三部作となっている。

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この項 <完>

by mo-taku3 | 2013-08-22 22:33 | (寺社)関西の神社仏閣 | Comments(0)

業平(なりひら)寺とも呼ばれる、京都大原野の『十輪寺』

業平(なりひら)寺とも呼ばれる、京都大原野の『十輪寺』


「十輪寺」は、京都市西京区大原野小塩町にある天台宗の古刹寺院である。
嘉祥3(850)年、文徳天皇が染殿皇后の安産祈願のため伝教大師作の延命地蔵を安置したのが起こりとされている。
平安時代初期の貴族・歌人である在原業平(ありはらなりひら)が晩年閑居したとされており、塩竈やお墓が残されている。
ここは、業平寺とも呼ばれている。

さて、お寺に入るにはこのようなくぐり戸を潜り抜ける感じである。

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境内の緑がきれいに整備されている。「なりひらもみじ」なるものもある。

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本堂:
創建当時の伽藍(がらん)は応仁の乱で焼失しており、現存のものは寛延3年(1750)に再建されたものである。
屋根は鳳輦形(ほうれんがた)という御輿をカタチどった非常に珍しい形で、内部天井の彫刻も独特の(手前が神社風で、奥側が寺風)意匠が施されている。文化財に指定されている。
普段は秘仏としているが、毎年8月23日に御開帳している。

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方向指示に沿って、業平のお墓と塩竈へ。

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業平が焼いたという塩竈。
平安時代の歌人・在原業平は、当時、勢いを増してきた藤原氏に抑えられ、政治的には不遇の日々をおくっていたようだが、50歳過ぎからこの十輪寺に住み始めており、業平にとって、この大原野の里は美しい自然と静かな環境に恵まれ、心を癒すのに都合が良かったと思われる。
当時、貴族の風流な野遊びの一種に塩焼きを実践していたようである。
業平は、境内の小高い丘に塩竃(しおかま)をもうけて、煙をたなびかせていたという。

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在原業平のお墓。
在原業平は、父が平城天皇の皇子である阿保親王、母は桓武天皇の皇女である伊都内親王である。
天長2年(825)に誕生、元慶4年(880)5月28日、56歳で死去している。
十輪寺では毎年、命日にあたる5月28日、業平をしのぶ「業平忌三弦法要」 を行っている。
本堂横の細い道を登ると、見逃しそうな小さな石塔と出会う。それが業平の墓である。
本当に見逃しやすい場所にある。
現在、この墓は恋愛・結婚成就にご利益があるとされ、多くの女性が訪れているとのこと。

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庭園(三方普感の庭)や極彩色の襖絵なども。
寛延3年(1750)、右大臣藤原常雅公が本堂再興したときに造られたもので、高廊下、茶室、御殿の三ヶ所から、場所を変え見る人に様々な想いを感じさせる、”心の庭”とも言われている。

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この項 <完>

by mo-taku3 | 2013-08-22 22:26 | (寺社)京都の神社仏閣 | Comments(2)

奈良の『三輪素麺』(山本館)

奈良の『三輪素麺』(山本館)


奈良に出かけた帰り道、三輪そうめん山本の看板を見つけ寄ってみた。
「三輪そうめん山本」直販店だった。
三輪そうめん発祥の会社とのことであった。

館内には展示室があり、“手延べそうめん年表”と手延べそうめんが展示されていた。

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そうめんの乾燥状態の展示。

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この店で有名な、超極細(白髪)、極細(白龍)の麺などを、大量に買い込んできた。




この項 <完>

by mo-taku3 | 2013-08-22 22:23 | (紹介記事)関西 | Comments(2)

蓮華王院(三十三間堂)の横にたつ『後白河天皇法住寺陵』

蓮華王院(三十三間堂)の横にたつ『後白河天皇法住寺陵』と法住寺


平安時代中期に藤原為光(従一位、太政大臣)によって創設され、その後院政期にはこの寺を中心に後白河上皇の宮廷「法住寺殿」がいとなまれた。
法住寺殿が木曾義仲によって焼き討ちされ、その後、数年を経て後白河上皇もなくなると、法住寺は後白河上皇の御陵をまもる寺として江戸時代末期まで存続し、明治期に御陵とお寺が分離され現在にいたっている。

寺内の「身代不動明王(みがわりふどうみょうおう)」像は、平安期の作風とされる。
この不動像は寺伝では慈覚大師が造立したといわれ、後白河上皇の信仰も篤かった。
義仲の放火のさいに、上皇の身代わりとなったと伝えられており、現在も毎年11月15日には不動会(ふどうえ)がいとなまれる。

さて、後白河天皇の御陵であるが、法住寺の脇に「旧御陵正面」とい石碑がある。
間に法住寺があるが、この奥の正面に御陵がある。
ということは、御陵とお寺が分離される以前は、ここから御陵に行ったということか。

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法住寺の正面。

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法住寺の隣りには、御陵の参道がある。

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正面からみた御陵。
この御陵には他にも何人かの皇子などが祀られている。

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法住寺の境内。
この境内の奥が御陵となる。

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この項 <完>

by mo-taku3 | 2013-08-22 22:19 | (歴史)京都史 | Comments(0)

日本で一番古い神社の一つ『大神(おおみわ)神社』(奈良)20160822

日本で一番古い神社の一つ『大神(おおみわ)神社』(奈良)20160822


日本で最古の神社の1つとされているが、建てられた年代は勿論不明である。
神体(神体山)は、三輪山そのものとしており、本殿はもたず拝殿から三輪山自体を神体として仰ぎ見る古神道(原始神道)の形態を残している。
自然を崇拝する原始神道の形態をとっており、この三輪山信仰は縄文時代か弥生時代にまで遡るといわれている。
例年11月14日に行われる醸造安全祈願祭(酒まつり)で拝殿に杉玉が吊るされる、これが各地の造り酒屋へと伝わっていった。

また、全国各地に大神神社・神神社(美和神社)が分祀されていることについては、『延喜式神名帳』(『延喜式』巻9・10の神名式)にも記述があるとおりだが、その分布は、山陽道に沿って播磨(美作)・備前・備中・周防に多い。これは、吉備国を征服する時に大和王権によって分祀されたのではないかと推測されている。

祭神は、
主祭神  大物主大神 (おおものぬしのおおかみ、倭大物主櫛甕玉命)
配神   大己貴神 (おおなむちのかみ)、少彦名神 (すくなひこなのかみ)

大物主神は蛇神であり水神または雷神としての性格を持ち稲作豊穣、疫病除け、酒造り(醸造)などの神として篤い信仰を集めている。また国の守護神(軍神)、氏族神(太田田根子の祖神)である一方で祟りなす強力な神(霊異なる神)ともされている。
とにかく、出雲神が祀られているということから、大和古代都市国家成立における過程を想像すると非常に興味深く感じられる。

大神神社の起源については、記紀に次の記述がある。
「大国主神(大己貴神)は出雲国を拠点に国造りに励んでいたが、協力者である少彦名神が常世国に去ったため思い悩んでいると、突如、海原を照らして神が出現した。
その神は「吾はお前の奇魂幸魂である」といい、「吾は大和国、三輪山に住みたいと思う」といったという。」
その神が大物主神であるが、大物主神は大国主神の同一神であるという説もある。
崇神天皇7年に天皇が物部連の祖伊香色雄(いかがしこを)に命じ、三輪氏の祖である意富多多泥古(太田田根子)を祭祀主として大物主神を祀らせたのが始まりとされる。
日本書紀では天皇が天変地異に加え疫病の流行に宸襟を悩まされているとき、夢枕に大物主神が立ち、「こは我が心ぞ、意富多多泥古(太田田根子)をもちて、我が御魂を祭らしむれば、神の気起こらず、国安らかに平らぎなむ」と告げたとされる。
天皇は早速、太田田根子を捜し出し、三輪山において祭祀を行わせたところ、天変地異も疫病も収まったという。
国史には奉幣や神階の昇進など記事が多数あり、朝廷から厚く信仰されていたことがわかる。
貞観元年(859年)2月、神階は最高位の正一位となっている。

桜井と天理の間の国道169号線沿いにこのようなひときわ大きい大神神社の一の鳥居がたっている。
その下には、『三輪明神』の標柱もたっている。

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その鳥居をくぐって進むと駐車場があり、そこからは徒歩でお参りとなる。
お参りの最初は、二の鳥居で、横には「大神神社」と書かれた石標がある。

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「駒札」には『大和一の宮 三輪明神 大神神社』と書かれている。

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拝殿を正面に見て、階段を上がると『拝殿がある』。
先にも述べたが、ここは三輪山そのものがご神体となっており、お参りするところは拝殿となる。

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『巳(み)の神杉』。
日本書紀には、大物主大神が蛇神に姿をかえていた、ことが載っているが、この杉の祠から出入りしたことから、『巳(み)の神杉』として崇められている。

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『久すり道』。さまざまな薬になる草花や木がこの道沿いに植られている。
この道を通り三輪さんへの入り口がある『狭井神社』へ向かう。

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薬の神様としての、「少彦名神」が祀られている、磐座神社があり、背後には神体山である三輪山がある。

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摂社の『狭井神社』

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御神体山への上り口。よく説明を聞いて登って、神聖な空気を感じましょう。

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御神水が狭井神社にあります。

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末社である、久延彦神社に向かう途中に展望台がある。
ここから見える景色は、古代人が躍動した大地として展開している。

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元々、原始信仰は御神体山としての磐座信仰であったと言われています。
大和に古代都市国家があったことが、纏向遺跡で明らかになったが、三輪山信仰はそれ以前の大和地域の住人の磐座信仰だったのだろう。
大神神社そのものは、天孫族が入り込んでから建てられたものと思われる。




この項 <完>

by mo-taku3 | 2013-08-22 13:38 | (寺社)関西の神社仏閣 | Comments(0)

奈良「春日大社」の分霊を祀った『大原野神社』

奈良「春日大社」の分霊を祀った『大原野神社』


大原野神社鎮座の一帯は山城地方でも古くから開けたところで一萬年も以前の有柄尖頭器が山の手から発見されている。
人皇五十代桓武天皇が都を奈良から京都向日市を中心とした長岡京(七八四-七九四)に遷された時 鷹狩を愛した天皇はしばしば大原野に足を運んで鷹を放たれた。

萬葉集の編者大伴家持が
「大原やせがいの水を手にむすび 鳥は鳴くとも遊びてゆかん」
と詠んだのも狩に供奉した時のものであろう。またこの風景を賞で藤原氏の人達は氏神春日大社の御分霊を遷し祀ることにした。これが起こりである。
御祭神は以下の4柱(春日神と総称)で、春日大社と同じ。()内は春日大社での表記。
 第一殿 建御賀豆智命(武甕槌命)
 第二殿 伊波比主命(経津主命)
 第三殿 天之子八根命(天児屋根命)
 第四殿 比咩大神(比売神)
が祀られている。

当初は桓武天皇の皇后である藤原乙牟漏の意によって藤原氏のとして長岡京に勧請されたが、嘉祥三年(850)藤原冬嗣の奏請神殿が建てられ、京都の守護神としてこの地に祀られたものである。
平安時代の中期には藤原氏の隆盛とともにその氏神として大きな地位を占め、天皇や皇后の崇敬も厚く、官祭である大原野祭には勅派遣されていた。
また、伊勢の斎宮や加茂の斎院にならって当社斎女がおかれていた。しかし、応仁の乱後は社運が次第に衰え、祭儀絶えがちになり、社殿は荒廃した。
現在の春日造総檜皮葺の本慶安年間(1648~1652)に再建されたものである。

仁寿元年(851)始めて勅祭がな行われ、春秋二季を例典とされた。
はじめ藤原氏の一族では女が生まれると、中宮や皇后になれるように、この社に祈り、幸にして女が祈願通りの地位につくと美くしく行列を整えて参拝することが例となり、なかでも寛弘2年(1005)3月8日に中宮彰子が本社に行啓、御父左大臣藤原道長、紫式部以下がお供をした、その行列の絢爛さは、人々の眼をみはらせたと云われている。
また清和天皇の皇后藤原高子が、まだ皇太子の御息所であった時、当社へ参詣になり、供奉の在原業平が、「大原や小塩の山もけふこそは 神代のことも思い出づらめ」との和歌を詠じて奉ったことは、有名である。
このように栄えた神社であったことで、六国史、大鏡等や、源氏物語、その他有名な古典には当社のことがしばしば書きとどめられている。

春季には名にしおう小塩桜、霧島、ぼたん、つづじなど到るところに研を競い夏季は新緑にはほととぎす、秋季は紅葉、冬季は丹朱社殿の雪景が一しおの尊厳、優雅さを添え、その風景は今なお王朝の余香を感じることもできる。

御田刈祭(みたかりさい) は9月の第二日曜日に行われる。
五穀豊穣を奉謝する祭儀で、古くよりある特殊神事である。
「神慮を慰め奉り 氏子が平穏無事に過ごせるよう 享保2年(1717年)より、毎年神相撲の神事が行われています。神相撲とは、古式にのっとり、南北の氏子の代表による神相撲力士により相撲がとられます。」
とある。

一の鳥居。

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御由緒(駒札)。

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二の鳥居。秋の参道は紅葉狩りの人々で賑わう。

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三の鳥居。中門が見える。

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源氏物語ゆかりの地。とある。

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中門の両側には狛犬ならぬ、狛鹿(こましか;右が雄)がある。

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手水舎には、通常“龍”であるが、さすが藤原氏ゆかりの奈良「春日大社」の分霊を祀っているだけあって、ここも“鹿”になっている。

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京都市指定有形文化財の本殿。
これは、中門だが、この門の奥が本殿となる。

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中門から覗いた本殿。

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境内には古歌に多く詠まれた「瀬和井の清水」と呼ばれる名水がの井戸がある。

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奈良の猿沢の池を模した「鯉沢の池」。

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この項 <完>

by mo-taku3 | 2013-08-15 01:06 | (寺社)京都の神社仏閣 | Comments(2)

出雲系によって祀られる京都大原野の『大歳神社』

出雲系民族によって祀られた京都大原野の『大歳(おおとし)神社』


御祭神 大歳大神
配祀  石作神 豊玉姫命
合祀 式内社 山城國乙訓郡 石作神社 火明命 (あるいは 建麻利根命)

向日町駅から西へ3.5Kmほどの灰方に鎮座している。
善峰川の北側に南東向きに境内があり、境内入口を入ると、垣に囲まれて社殿がある。
本殿は、長岡天満宮の本殿を皇紀2600年事業で移したものとのことである。

社伝によると、
養老2年2月(718年)の創建とされる。
当地が、山城から出雲への出口にあたるため、出雲系民族によって開拓され、その祖神を祀った神社であるという。
式内・大歳神社に比定されており、当時は、かなりの大社であったと思われる。
境内は、「栢森」と称され、栢(かしわ)の木が繁茂していたらしく、栢の社とも呼ばれていた。
相殿に、式内・石作神社を祀る。
現在地である灰方の隣に石作という地名の場所があり、石棺などの制作者であった石作氏の居住地であった。
石作氏の衰微により、いつの頃か、大歳神社に合祀されたらしい。
石作神社の旧鎮座地に関しては不詳だが、
三鈷寺のそばにある早尾神社であるとも、長峰にある八幡宮であるとも言われているらしい。
境内右手に、境内社が並んでいる。天満宮、稲荷社、向日社、西ノ宮社、春日社。


由緒
祭神は大歳神で養老二年二月の創建と云ふ。
延喜式神名帳に記され、山城國鎮座社の内大社に列せられていた。
この境内は栢の森と称し社を栢の社とも云ふ。
農耕生産の神、ひいては方除祈雨にも霊験ありと知られ当地方の守護神である。
相殿に石作神と豊玉姫命を祀ってある。石作神は代々石棺などを造っていた豪族の祖神であり、火明命の後裔である。
垂仁天皇の后、日葉昨姫命おかくれの時、石棺を献上し石作大連公の姓を賜った。
石作連を祀った石作神社は延喜式神明帳に記され、貞観元年従五位下に昇格している。
大日本史に石作神社今灰方村大歳神社内にありと記され、石作氏衰微後、当社に合祀さられたものである。石作神は昭和49年6月愛知県岡崎市に建立の石工団地神社に分霊す、豊玉姫命は海人であり彦火火出見命の后である。
例祭は十月二十一日、氏子祭は十月第三日曜に行い、江戸中期より引続き金剛流家元による奉納舞あり。

 大歳神社系
┏ 天照大神
┗ 素盞嗚命 ┓┏ 大歳神(当社奉祀)━向日神(向日神社奉祀)
        ┣┫
 大市比売 ┛┗ 宇賀之御霊神(稲荷大社奉祀)

以上が-社前由緒書き-。

今はこじんまりとしているが、往時はかなりおおきな社だったようだ。

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この項 <完>

by mo-taku3 | 2013-08-13 16:30 | (寺社)京都の神社仏閣 | Comments(2)