秋めいてきた『東山界隈』の夕日

秋めいてきた『東山界隈』の夕日

少しずつ秋めいてきた東山界隈。
しかし、紅葉は未だでしたが、山に夕日が当たり、赤く染まっていました。

ここは三条大橋。

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三条通を通ると、レトロな建物の中にもこのような洋風のスウィーツ屋さんもあります。
このLIPTONのケーキは美味しい。

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三条通を東に行った白川沿いの商店街のお店の一角に、等身大の愛嬌のある人形が置かれていました。

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そこから、知恩院まで下りてくると夕日が東山にそまり裾野の緑と好対照な景色となっていました。

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圓山公園の空に夕日が。

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もう陽が沈みかけているのに、人出は減らない「八坂神社」。

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夕陽の残り陽を背に鴨川は素晴らしい。

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この項 <完>

by mo-taku3 | 2013-09-28 00:49 | Comments(2)

初秋ののどかな『嵯峨野の風情』は・・・。

初秋ののどかな『嵯峨野の風情』は・・・。


嵯峨野は何処に行っても画になる。

大覚寺を出て暫く歩くとこのような田園風景となる。

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稲穂の先には高校野球で甲子園に出たことがある、「市立北嵯峨高校」あるが、この建物も和風を意識して造られている。

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名前は忘れたが朝顔に似た綺麗な花や、大きなザクロの木があった。

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更にその先には、広沢池があるが、もともとは近くにある遍照寺の境内池だったという。
初めて知った次第である。

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広い、「広沢池」。

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この項 <完>

by mo-taku3 | 2013-09-28 00:40 | Comments(4)

遷宮前の『伊勢神宮、内宮・外宮』を訪れて

遷宮前の『伊勢神宮、内宮・外宮』を訪れて



このブログを入力しているのは、10月3日であるが、内宮(皇大神宮)は2日、外宮(豊受大神宮)は5日に世紀の遷宮が行われる。
その遷宮の前に訪れてみることにして、セオリー通り外宮から内宮に参拝してみた。

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豊受大神宮は、新しい神様である天照大神を内宮に鎮座した後、雄略天皇のとき疫病などが起り、これを鎮めるために外宮にトヨ系の神様である、「豊受大神」を祀ったようである。
その結果、世の中が鎮まったという。

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内宮に比べると小さな橋だが、続々とお参り客が続く。

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外宮の案内図。

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正宮の前は遷宮準備の仕上げを行っている。

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外からも新しいお宮が少し見えている。

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今回は拝めないが、出来上がったらまたゆっくり来てみたい。


続いて内宮の参拝

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見慣れた風景の中に沢山の人が続く。

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遷宮行事に対する、何かのセレモニー舞台のようだ。

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遷宮の催事に使うのか、舞台が設定され出番を待っているようだった。

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手水の川でみそぎを行う。

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途中御朱印をいただき、

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本宮に近づくと準備の真っ最中であったが、隙間から新しい本宮が少しずつ覗くことができた。

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遷宮前の社への参拝客でごった返していた。

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遷宮が終わって少し落ち着いたら、また行ってみようと思っている。




この項 <完>

by mo-taku3 | 2013-09-28 00:36 | (寺社)関西の神社仏閣 | Comments(2)

京都郊外『園部の風情』園部城祉・九品寺(くほんじ)

京都郊外『園部の風情』園部城祉・九品寺(くほんじ)


京都市の郊外に『南丹市園部町」がある。
今は周囲が田園になっているが、城下町でもあるが、あまり知られていなようだ。

過去、園部の地に居城を構えた者は様々だが、室町時代末期、丹波八上城を本城とする波多野氏の家臣である荒木山城守氏綱が七頭衆として園部城を居城としていた。
しかし、天正六年(1563)明智光秀の丹波攻略で掃蕩されている。
元和五年(1619)に但馬出石より小出伊勢守吉親が入封し、新しく城地を開き、築城している。
約二年を費やして、東・西・南の三方を天神山、振天山、小向山が囲み、その中心に本丸が置かれたが、現存の城門は枡形でなく、御殿玄関に直結されている構造から、園部城は園部陣屋とも呼ばれている。
本丸には三つの二層櫓が構えられていたが、見張りの役には不十分だったのか背後の小向山に三層の小向山櫓を建て、城内外の見張りを果たしていたようだ。
また、その本丸の外側には内堀があり、さらにその外に二重櫓、その外側には外堀がめぐらされていた。
以後、小出氏十代二万六千石として明治を迎えることになったが、維新の際に京都御所が攻められる危険があったことから、万一の避難場所に園部城が選ばれることになり、城の修復が行われている。


見えていたのは城ではなく、国際交流センターとかいう建物でした。

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城跡はそのすぐ横にある園部高校の正門がそのまま城門となっており、その脇には重々しく隅櫓が建てられている。まさかこれが高校だなんてとても信じられません。

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この門の手前には園部城址を示す、石標が立っていた。

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天守閣の前の公園には大きな鳥の彫刻があった。
一緒に写真を撮ってみた

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このお城からしばらく行くと、九品寺あると地図に載っていたので、NAVI を入れて出かけてみた。
残念ながら、お寺はかなり老巧化して修復も行き届いていなかった。

九品寺は、
【宗派名】真言宗御室派 旧門跡
【別名】船阪観音
【住所】京都府船井郡園部町船阪大門
【本尊】十一面千手観世音菩薩・大日如来
【開山】白河天皇
【開基】弘法大師
【由緒】九品寺の開山は白河院で、平安時代永保年間(1018~83)に院自ら勅願御廟寺の意をこめて伽藍を建立し、船井郡十一郷に及ぶ広大な寺田を寄進した上、第三皇子の覚行法親王を住職と定められた名刹である。
古くから船阪観音の名で親しまれ、その霊験をもって信仰が普及し、九品安楽の浄土と慕われ、鎮護国家の道場ともされた。
その後寺運は栄えたが、南北朝、室町時代の戦乱期に諸堂裏微し、元和9年(1623)園部領主小出吉次によって修造再建されて一旦旧観に復した。
しかし、昭和の戦中戦後になると、管理に人を得ず、大門を残して諸堂悉く廃絶に頻したことで、その間に観音、不動明王等の多くの寺宝もまた流出してしまった。
その一部はアメリカ・メトロポリタン美術館に収蔵されている。
昭和63年(1988)には白河院・覚行法親王の850年御忌が厳修された。
その名残とも受け止められる標識などが道路わきにあった。

重要文化財の大門(附 棟札、扁額)は、入母屋造、檜皮葺の楼門。仁王門ともいう。鎌倉時代後期の建立。

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ここにある、「天宗」は何の意味か調べた見たが分からなかった。

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大門の中に仁王像が覗いている。

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由緒が駒札に書かれているが、何故かこの駒札は新しい。

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参道と寺門。
中を覗いてみると、古い朽ちかけた鐘楼があった。
しかし、社殿などは見当たらなかった。

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旧門跡寺院とのことだが、旧というのはおかしい。
れっきとした由緒ある歴史が明らかなので、門跡寺院として修復していただきたいと思う。
真言宗御室派ということなので、仁和寺のテコ入れを期待したい。




この項 <完>

by mo-taku3 | 2013-09-27 08:38 | Comments(4)

驚愕!台風18号による『京都の洪水』哀れ渡月橋も・・・。

驚愕!台風18号による『京都の洪水』哀れ渡月橋も・・・。


ここ数年気候がおかしい。特に京都においては、暑さが尋常ではない。
今年が35℃以上の猛暑日が1ヶ月以上続いたのにはびっくりである。
しかし、この暑さが少し収まったと思ったら、今度はびっくりする大雨を伴った、台風がやってきた。
台風の来た夜中に大雨が降り続いたことにより、大変なことになった。
朝起きてテレビをみて、この画面が盛んに流れていた。
桂川に架かる“渡月橋”の欄干に水がかかってるではないか。あり得ないことがおきていた。

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私の家は、水害とは無縁のところにあるが、その日の昼ごろ鴨川に行ってみて、目にしたのがこの光景である。これもありえないことである。

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鴨川には床が背一致されているが、この時点の水位より1.5m以上の上昇していたのがわかる。
ということは、鴨川も危なかったことになる。

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翌日になると普段の鴨川に戻っていたが、よく見ると石堤がところどころえぐられたようになっていることが分かった。

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台風・大雨被害の模様である。





この項 <完>

by mo-taku3 | 2013-09-27 08:29 | Comments(2)

京都の北部に位置する『丹波の里』の風景

京都の北部に位置する『丹波の里』の風景

京都市の北西に丹波の郷がある。
昔(信長の時代)は明智光秀の領地で、光秀は善政を敷いていたこともあり、ここではの評判は今でも悪くはないようだ。
周りはさほど高くない山々に囲まれたのどかな農村である。今は幾つかの町(篠山市・園部町など)が合併し、南丹市となっている。

その一角の「道の駅;新光悦村」に寄ってみた。
理由は、先日の放送でイノシシの燻製が紹介されていたからだ。

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イノシシと鹿の燻製を買って食べてみたがイノシシは脂っこい。でもシカ肉は歯ごたえがあり非常に旨い。
ので、買い増ししたのがこれである。

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道の駅から見た丹波の郷の風景。何と気持ちの良いことか。

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道端の彼岸花が咲きはじめていた。見事だった。

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この項 <完>

by mo-taku3 | 2013-09-23 23:08 | Comments(4)

京都大雲院『祇園閣』特別公開と五右衛門の墓

京都大雲院『祇園閣』特別公開と五右衛門の墓


「ねねの道」の北の突き当たりに大雲院がある。
祇園祭の鉾をモデルにしたひと際高い、「祇園閣」が道から見え、これが目印となる。

さて、大雲院は、もとは浄土宗知恩院に属していた寺であったが、現在は浄土教系の単立寺で龍池山と号している。通常は非公開の寺だが今回は特別公開だったのでお邪魔してみた。
大雲院とは、織田信忠公(織田信長嫡男)の法名の大雲院を寺号としている。

大雲院はその後、豊臣秀吉が寺域の狭いことを憂い天正18年(1590)寺町四条南に移転し、さらに島津以久(ゆきひさ:日向国佐土原(さどはら)城主)の帰依を受け栄えたが天明(1781~)・元治(1864)の大火で焼失している。
さらに明治初期(1868~)に復興したが、今度は寺域周辺が商業・繁華街化したため昭和48年(1973)に現在の地へ移転した。
本堂の裏(西側)にある祇園閣は、高さ36メートル、鉄筋コンクリート造りの三層建。
建物は祇園祭を模した鉾の形で、鉾先には金鶏が取り付けられている。
塔の最上階には平和の鐘が架けられ、一層には阿弥陀像が安置されている。
一層から三層への通路壁面には、中国・敦煌莫高窟に描かれている壁画を模写した壁画が描かれている。

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境内の一角には、島津以久が寄贈した鐘楼がある。

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本堂にある本尊は、阿弥陀如来坐像で、如来の着衣は通肩で、六丈(約3メートル)と大きい。
残念ながら撮影はできなかった。

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祇園閣背後の墓地には、織田信長、信忠父子碑の他、島津以久、画家の望月玉川・富岡鉄斎、さらに大盗賊の石川五右衛門などの墓がある。

門の奥に見えるのは島津以久一族の墓が見える。

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織田信長・信忠親子の墓。

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石川五右衛門の墓。これは本物らしい。

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この項 <完>

by mo-taku3 | 2013-09-23 23:03 | (寺社)京都の神社仏閣 | Comments(2)

初秋の嵯峨野の風情『大覚寺と大沢の池』

初秋の嵯峨野の風情『大覚寺と大沢の池』

真言宗大覚寺派の本山。(資料を引用)
876年(貞観18年)、嵯峨天皇の離宮嵯峨院を寺に改め、歴代の天皇や皇族が住持された門跡寺院であり、嵯峨御所として知られている。
山号は嵯峨山。本尊は五大明王。
平安初期、嵯峨天皇は当地に離宮をつくり、譲位後は仙洞(せんとう)御所とし嵯峨院と称したが、811年(弘仁2)に空海に勅して五大明王像を刻し、五大明王の秘法を修せしめた。
818年(弘仁9)春、疫病流行の際、天皇は紺紙金泥(こんしこんでい)の『般若心経(はんにゃしんぎょう)』を書写して心経堂を建て、空海が奉供した。この縁でいまでも心経写経を進めている。
876年(貞観18)嵯峨天皇の皇女正子内親皇(淳和(じゅんな)天皇皇后)が嵯峨院を譲り受けて仏寺に改め、嵯峨天皇の孫にあたる恒寂(こうじゃく)法親王が開山となり、以後、代々法親王が入った。
1268年(文永5)後嵯峨(ごさが)上皇が、続いて亀山(かめやま)法皇が入寺。また1308年(延慶1)には後宇多(ごうだ)法皇が入寺して伽藍(がらん)の造営に努めたので、大覚寺法皇と称せられ当山の中興開山とされる。
その後、亀山院、後宇多院の皇統に属する皇族が代々住持を勤めたので、この皇統を大覚寺統とよび、後深草(ごふかくさ)天皇の皇統である持明(じみょう)院統と勢力を二分し、南北両朝分立の原因ともなった。1336年(延元1・建武3)兵火により全焼、のち再建された。1392年(元中9・明徳3)南朝(大覚寺統)と北朝(持明院統)の講和のおり、南朝の後亀山(ごかめやま)天皇から北朝の後小松(ごこまつ)天皇に三種の神器が授受された歴史的舞台としても知られる。
応仁(おうにん)の乱でふたたび焼失したが、豊臣(とよとみ)・徳川両家の保護・寄進によりしだいに旧に復したが、江戸末期から明治初期にかけて一時無住となり衰退したが、1876年(明治9)に宮中から200石を受けて復興し、1900年(明治33)に真言宗大覚寺派として独立した。

ここは表門だが、ここからの眺めを見ると、よく整備されているように見受ける。

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中に入ると「嵯峨御流」のいけばなが展示されていた。
嵯峨御流は、池坊よりも古く、嵯峨御流の礎となった菊ヶ島があり、嵯峨天皇がこの島の菊を生けたのが最初と伝わっているそうで、お弟子さんが日本一という。その大覚寺はいけばな『嵯峨御流の総司所』としても知られている。

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この玄関は、御所から移設されたもので、狩野永徳の「松に山鳥図」がバックに描かれている。

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境内は広く、建物もゆったりと配置されているため、平凡ではない回廊が幾つかある。

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大沢の池は、もと嵯峨天皇が弘仁年間(810~824)に造営された離宮「嵯峨」の苑池の一部で、現在大覚寺境内に属している。
中国の洞庭湖(どうていこ)になぞらえて「庭湖」ともいい、作庭当時は泉・滝・名石等の美を極めたとある。
池中に菊島・天神島のほか、巨勢金岡(こせのかなおか)が置いたという庭湖石などを配した池泉舟遊式庭園で、ひろびろとした大陸的雰囲気をただよわせた我国最古の庭園の一つといわれている。
また、日本三大名月観賞地であることから観月の名所として知られ、中秋の頃には観月の夕べが開催される。

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これは、内側から見た唐門(勅使門)である。

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境内に書院造の正寝殿(重文)には、後宇多天皇が院政を執った部屋があり、狩野山楽筆の襖絵や墨絵などの障壁画が多数所蔵している。
また、宸殿(重文)は徳川2代将軍秀忠と浅井長政の三女である江の間に生まれた東福門院和子が女御御殿の宸殿として使用していたものである

この宸殿の襖絵は狩野山楽筆の牡丹図・紅白梅図(重文)などである。

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安井堂(御霊殿)の天井画。

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この項 <完>

by mo-taku3 | 2013-09-23 22:55 | (紹介記事)京都 | Comments(2)

鯖街道で一番繁栄した若狭『熊川宿』と『瓜割の滝』

鯖街道で一番繁栄した若狭『熊川宿』と『瓜割の滝』


与謝蕪村が「夏山や通ひなれたる若狭人」と詠んでもいるように若狭と京都はきわめて近い関係あった。
「若狭街道」は、大陸文化の玄関としての小浜から若狭町(旧上中町)の日笠を通り、熊川を経て、滋賀県高島市朽木(旧朽木村)を越え、大原・八瀬から京都へ入る道をいう。
「鯖街道」もいつの頃から言われだしたのか資料では見当たらないそうであるが、18世紀後半になって若狭湾で大量の鯖が水揚げされるようになった事から、これを京都の人々が大衆魚として広く庶民が賞味し、また祭礼にも欠く事が出来なかったとの記載が資料に見られる。
これらが運ばれた道は幾通りもあったが、鯖の運ばれた道の総称が「鯖街道」である。そして、中世以降は熊川・朽木経由の「若狭街道」が輸送量の多い「鯖街道」として、最も相応しい道であった。

さて、熊川は、もともと戸数40ほどの小さな寒村であった。室町時代以降、戦略上の交通・軍事の要地として考えられていたようで、浅野長政が小浜城主になった時、熊川に対し天象17年(1589)に諸役免除の布告を発している。
以来、若狭代々の領主はこの政策を受け継ぎ、熊川は江戸時代を通じて近江国境に接する宿場町として大いに繁栄していた。

鯖街道「熊川宿」の入り口である。

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熊川宿の現在の街並み。

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典型的な民家。

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元役場の「宿場館」。
この中を見学し、宿場の歴史を感じることができた。

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宿場の街並み(対面から)。

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若狭町の天徳寺境内奥に位置する「瓜割の滝」は、山あいの岩間から湧き出る清泉で、一年を通して水温が変わらず、夏でも水につけておいた瓜が割れるほど冷たい事から、その名前がつけられました。 瓜割の滝から湧き出る瓜割の水は、幾重もの地層が自然のフィルターとなり、長い歳月をかけてろ過した純度の高いミネラル成分が溶け込んだ水となっており、多くの人々に愛飲され親しまれています。 保存可能期間についても、名水百選の中でトップクラスにランクされます。 その水中の赤い石には、この水質水温でのみ生育する、めずらしい紅藻類(ヒルデンブリンチアリブラリス)が繁殖しています。

「瓜割の滝」の入り口。

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大きな滝ではないが良い水の流れをしている。

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現天皇・皇后ご夫婦も皇太子時代に訪れている。

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この項 <完>

by mo-taku3 | 2013-09-23 22:50 | (紹介記事)全国 | Comments(2)

女人高野『室生寺』を訪ねて

女人高野 『室生寺』 を訪ねて


室生寺は「桓武天皇」が東宮時代に病気になられた時、龍神信仰の室生山で行われた祈祷の霊験で快癒されたことを感謝され、天皇の発願で興福寺の僧・「賢璟(けんきょう)」が国家鎮護の寺、室生寺を建立されたという。「宀一山(べんいちさん)」は室生寺の山号。

室生寺は現在、「真言宗室生寺派」の大本山だが、法相宗、天台宗、真言宗の影響を受けその都度変革すると言う数奇な歴史をもっているだけに、多種多様な仏教美術が保存されており、特に、初期の密教美術の宝庫となっているらしい。
室生寺は僧兵を持たなかったことと平安京の都から遠い位置に存在したため、内乱、焼き討ち等に遭うことがなかった。

室生寺は、奈良県宇陀郡室生村という村に(現在は宇陀市室生)にあり、三重県に接している秘境に近い地域である。
春の石楠花(しゃくなげ)は有名で、秋の紅葉、雪景色のシーズンなど、観光スポットとなっている。
室生寺は平地が少ない傾斜地にあり、山岳寺院の典型的な伽藍配置となっており、階段状に伽藍が配置されている。この階段も結構な段数と勾配である。

鮮やかな朱色の「太鼓橋」と前を流れる「室生川」

室生山は龍神を祀る聖地として崇められており、人々は室生川の清流で禊をして身を清めた後、神々しい気持で礼拝されたことが伺える。

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「表門の石標」には「女人高野室生寺」とあるが、これは「女人禁制の高野山」に対してだが、最初からこうだったわけではなく、江戸時代の元禄11年(1698年)、興福寺の法相宗から独立して、真言宗寺院となったとき、女人の入山が許されたことから「女人高野」と呼ばれ、これは室生寺の代名詞にもなっている。
「桂昌院」の実家本庄家の家紋「九目結文(ここのつめゆいもん)(緑矢印)」。

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仁王門と仁王像(左、吽形の仁王像と阿形の仁王像)
「仁王門の石標」にはここにも「女人高野 大本山室生寺」とある。

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金堂への鎧坂
自然石が積み上げられた急坂の「鎧坂(よろいざか)」である。
この坂を上がりきると正面の台地に華麗な「金堂」、その前庭の東側に「天神社」、西側に「弥勒堂」があります。
鎧坂の両側には、今は咲いていないが石楠花が咲くそうで、これでこのお寺が有名になっている面もある。 

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金堂(懸造の金堂)
このような段差のある場所に建築せねばならないほど室生寺は地理的なハンディがあったが、それが反って日本人好む風雅な金堂となっている。庇を葺き下ろして礼堂としてある。
懸造の建物には、「東大寺二月堂」「清水寺本堂」「長谷寺本堂」などがある。ただ、正面に舞台のような大きな縁を持っている場合は「舞台造」とも言われている。
中世には根本堂、薬師堂、本堂といわれていたが、真言宗に改宗した頃から、灌頂堂が本堂と称されるのをうけて金堂と改称されたようだ。
「十一面観音像」も本尊と同じく榧の一木造だ。
「女人高野」にふさわしい優しさと品格のある清浄無垢の像といえよう。

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弥勒堂
「弥勒堂」は素朴で飾り気のない建物である。

「釈迦如来像」は榧の一木造です。
膝高がありしかも膝幅が広くどっしりと座っておられいかにも男性的な像である。

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本堂(灌頂堂)
本堂に行くには、やはり結構な階段を上っていく。
本堂の全景はカメラの画面に収まる場所が見つからない。

室生寺が、真言密教のお寺になった頃、一山の中心堂宇であった「金堂」が「本堂」になったという。
日本古来の重要な建物と同様に桧皮葺である。
本堂には「本尊如意輪観音像」が祀られていまる。
これは、「観心寺(大阪)」、「甲山神呪寺(かぶとやまかんのうじ)(兵庫)」とともに、日本三大如意輪観音といわれているが、残念なことに「秘仏」である。
本堂では真言密教の重要な儀式である「灌頂(かんじょう)」が行われる。

*灌頂(かんじょう)とは、主に密教で行う、頭頂に水を灌いで緒仏や曼荼羅と縁を結び、種々の戒律や資格を授けて正統な継承者とする為の儀式をいう。

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北畠親房の墓所としては、2ヶ所伝えられている。
・奈良県五條市西吉野町黒渕の北畠親房公墳墓
・奈良県宇陀市室生区室生の室生寺

この室生寺にある五輪の塔は、この五輪塔は大正5年に確認のための発掘調査が行われ、五輪塔内部からは丁寧な仕事の木製五輪塔が発見されている。
この調査では埋葬者を確定することはできなかったが、お墓の形式から考えても室町時代初期のものとの結論付けがされているようである。

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五重塔
室生寺では最古の建造物と言われている。
本尊を祀るお堂より先に「五重塔」が建立されたそうで、何故なのか?よく分かりません。

高さは16.2メートルで、屋外の五重塔では我が国最小の塔であり、塔高は通例の五重塔の高さの三分の一で設計されております。
五重塔は小さいながらも、この室生寺の魅力の一つとなっている。
下から見上げる五重塔はこの写真のように風情があり、石段が仏像の台座のようにも見えるといわれる。

実はこの五重塔は、1998年の台風7号で、樹齢650年の杉の巨木が、五重塔に倒れ掛かり大きな被害を受けたが、その後、関係者の努力で見事に復元していた。

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「奥の院」への参道の途中からみた、五重塔。

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「奥の院」への参道の最後は急階段だが、このような300段以上の階段となっている。
この日は、生憎、気温が30℃以上もあり、汗びっしょりになりながら上りきった。

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位牌堂
懸造(かけつくり)の「位牌堂」。下から見上げると、少しだけだが清水の舞台を連想させる。
懸造の舞台には休憩場所が設けられており、その舞台から見下ろすと、木の僅かな隙間から室生の里が見える。

懸造(かけつくり)とは、山の崖(がけ)や河の岸に張り出してつくられた建造物。懸崖(けんがい)造、崖(がけ)造ともいう。京都市の清水寺(きよみずでら)本堂はその代表的なもの。

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御影堂
小作りの「御影堂(みえどう)」は鎌倉時代に建立され、「弘法大師」を祀っている。

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石造の七重塔が見えます。

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柱昌院のお墓と功績
「表門の石標」には「桂昌院」の実家の家紋(緑矢印)があるのと、「灌頂堂」の隣に桂昌院のお墓まである。
桂昌院は五代将軍「徳川綱吉」の母で、仏教に厚く帰依され、古都奈良をはじめ、寺院の維持に大変な貢献をされたようである。
京都・奈良のお寺には所々に桂昌院の墓所が建てられている。





この項 <完>

by mo-taku3 | 2013-09-03 01:10 | (寺社)関西の神社仏閣 | Comments(2)