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京都高雄地区「神護寺、西明寺」の紅葉真っ盛り

紅葉真っ盛りの高雄山
=和気清麻呂=神護寺=西明寺=のつながり


京都の紅葉の名所と言われている北山にある「神護寺」に行ってきた。
神護寺は高雄山にあり、行ってみると神護寺だけでなく、高雄山全体が紅葉の中にあった。
ここでは、高雄山・神護寺参道・西明寺・和気清麻呂をご紹介したい。

『高雄山』の風景。

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『神護寺参道』
神護寺までの参道はかなりの急坂になっている。
その景色が、これまた画になるのが素晴らしい。

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『神護寺』
神護寺は洛西の紅葉の名所、高雄に位置する。
 高雄の紅葉が有名になったのはいつごろからであるか、はっきりとしたことは不明であるが、狩野秀頼の「高雄観楓図屏風」には十六世紀当時、高雄のもみじをめでに訪れる多くの人々の遊興するさまが、生き生きと描かれている。
言うまでもなく神護寺が歴史上重要な地位を占めるのは、その由緒と度重なる盛衰の歴史に耐えた数多くの文化財を保有することがその理由である。
この寺を創建した和気清麻呂である。

奈良の都が終わりを告げるころ、奈良・大安寺の僧慶俊を本願主とし、和気清麻呂が奉行となって、山背の西北にそびえる愛宕山を中心に修行の道場が開拓され、のちに愛宕五坊と呼ばれる寺々が建てられる。
そのうち現在残っているのは、高雄山寺改め神護寺と月輪寺だけである。
まもなく桓武天皇が平城京を廃して遷都されたのが、奇しくも愛宕山の眼下に広がる長岡京であった。
しかし、その造営をめぐって不吉な出来事やさまざまな悪条件が続発したので、清麻呂は桓武天皇に対し、ひそかに再度の遷都を奏上したと言われている。  延暦十三年(794)に平安京への遷都が断行されるが、二年後に清麻呂は新都市建設の長官を命ぜられ、平安京千年の基礎を固めてゆく。
そして延暦十八年(799)、六十七歳で亡くなると、高雄山中にその墳墓が祀られ、それ以後、和気氏の菩提寺として護持されてゆく。

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『西明寺』
清滝川に架かる朱塗りの橋、指月橋が見えてきました。もう少ししたら紅葉に囲まれさぞかし美しいだろうなと思いながら橋を渡り、拝観料300円を払って西明寺に入りました。天長年間に弘法大師の高弟智泉が建立し、後に神護寺から独立したお寺です。
境内には樹齢600年のマキの老木があります。この木が槇尾の由来となったそうです。
本堂に安置されている釈迦如来像は鎌倉時代の仏師運慶によるもので重要文化財に指定されています。

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「和気清麻呂」
「和気清麻呂」神護寺の開祖である。
また、道教事件で決定的な役割を果たし、道教の失脚に繋げた人物でもある。

平安遷都の提唱者であり、新都市造営の推進者として知られ、天応元年(781)、国家安泰を祈願し河内に神願寺を、またほぼ同じ時期に、山城に私寺として高雄山寺を建立している。
高雄山寺は、海抜900メートル以上の愛宕五寺のひとつといわれているところからすれば、単なる和気氏の菩提寺というよりは、それまでの奈良の都市仏教に飽きたらない山岳修行を志す僧たちの道場として建てられたと考えられる。
愛宕五寺または愛宕五坊と呼ばれる寺は白雲寺、月輪寺、日輪寺、伝法寺、高雄山寺であるが、残念ながら現在にその名をとどめているのは高雄山寺改め神護寺と月輪寺のみである。
その後、清麻呂が没すると、高雄山寺の境内に清麻呂の墓が祀られ、和気氏の菩提寺としての性格を強めることになる。

墓所は、三門から約1kmの道のりである。
場所的に言うと、訪れる人も少ないようにおもわれるが、道はきれいに整備され、紅葉も見事な参道となっている。

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この項 <完>

by mo-taku3 | 2013-11-27 09:31 | (紅葉情報)京都・関西 | Comments(2)

東福寺の紅葉・・・塔頭も見事でした。

『東福寺』の紅葉・・・塔頭も見事でした。


京都の紅葉のメッカ、というか、誰でもが知っている定番の『東福寺』に行ってきました。

このお寺の前を走る「鳥羽街道」から続く参道はすごい人波で、また海外・国内を問わずバスできている団体も含め、特に入門付近は行列となって、ごった返していた。
出足も遅れたことのあり、東福寺の紅葉のスポットの中には入らずじまいで、周辺を攻めてみることにした。

幾つかの塔頭も秋の特別公開をしており、それらも含めてご紹介したい。

【東福寺】
多分皆さんもご存じとは思うが、摂政の九条道家が,奈良における最大の寺院である東大寺に比べ,また奈良で最も盛大を極めた興福寺になぞらえようとの念願で,「東」と「福」の字を取り,京都最大の大伽藍を造営したのが慧日(えにち)山東福寺である。
嘉禎2年 (1236年)より建長7年(1255年)まで実に19年を費やして完成している。

工事半ばの寛元元年(1243年)には聖一(しょういち)国師を開山に仰ぎ,まず天台・真言・禅の各宗兼学の堂塔を完備したが,元応元年(1319年)、建武元年(1334年)、延元元年(1336年)と相次ぐ火災のために大部分を焼失してしまった。
しかし、延元元年8月の被災後4ヶ月目には早くも復興に着手し,貞和3年(1346年)6月には前関白一条経道により仏殿の上棟が行われ,延元の火災以降実に20余年を経て,再びよみがえっている。
建武被災の直前にはすでに京都五山の中に列せられおり,再建後の東福寺は完全な禅宗寺院としての寺観を整えることとなったようである。
仏殿本尊の釈迦仏像は15m,左右の観音・弥勒両菩薩像は7.5mで,新大仏寺の名で喧伝され,足利義持・豊臣秀吉・徳川家康らによって保護修理も加えられ,東福寺は永く京都最大の禅苑としての面目を伝え,兵火を受けることなく明治に至っている。

明治14年12月に,惜しくも仏殿・法堂(はっとう),方丈,庫裡(くり)を焼失したが、その後,少し間をおいて大正6年(1917年)より本堂(仏殿兼法堂)の再建に着工,昭和9年(1934年)に落成した。
明治23年(1890年)に方丈,同43(1910)年に庫裡も再建され,鎌倉・室町時代からの重要な古建築に伍して,現代木造建築物の粋を遺憾なく発揮している。
また,開山国師の頂相,画聖兆殿司(ちょうでんす,明兆)筆の禅画など,鎌倉・室町期の国宝・重要文化財は夥しい数にのぼっている。

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塔頭【最勝金剛院】
最勝金剛院(さいしょうこんごういん)は、九条家の墓所を管理する非公開寺院のようだが、秋には特別公開し、長い参道付近が紅葉に色付いて、東福寺を訪れた観光客にもお馴染みの場所となっている。
最勝金剛院は、東福寺創建以前に遡る由緒ある寺院の名を継いでいる。
現在の東福寺のある地域一帯は、平安時代中期の延長三年(924)に関白藤原忠平が氏寺として法性寺を建立した場所だった。

代々の藤原氏は法性寺の造営に努め、平安末期の藤原忠通とその子兼実の頃に全盛期を迎えた。
当時の法性寺は、現在の東福寺の約5倍という広大な寺域(南北は稲荷山~東福寺周辺、東西は鴨川~山科に至る)に多くの大伽藍を構えている。
最勝金剛院は、久安六年(1150)、この法性寺の山内東方一帯に、摂政藤原忠通夫人・宗子が建立した塔頭寺院で、法性寺山内で最大の面積を誇った寺院だった。
しかしその後、法性寺は鎌倉時代初期には衰退して、嘉禎二年(1236)に摂政九条道家(九条兼実の孫)は、法性寺跡地に19年の歳月をかけて東福寺を建立した(建長七年(1255)完成)あと、最勝金剛院は、東福寺に吸収されてその塔頭となり、代々の九条家に継承されたが室町時代に衰退している。

現在の最勝金剛院は、九条家一族の墓の管理と由緒ある寺院の復活を兼ねて、昭和四十六年(1971)、旧地付近の現在の地に再興され、東福寺の特別由緒寺院となっている。
中央の八角堂が兼実を祀る廟で、その他九条家以下歴代十一人の墓がその東方に有りるようだ。

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塔頭【即栄院】
即宗院は、東福寺塔頭のひとつで、東福寺方丈の東側(龍吟庵の東側に隣接)にある。
即宗院の山門は、江戸時代初期の慶長18年(1613)の遺構で左右に石造りの仁王像を配した貴重な建造物である。
その仁王像は木枠で囲まれているが、覗き窓から見ることができる。

即宗院は、南北朝時代、元中4年(1387)藩主島津氏久が島津家の菩提のため、東福寺第五十四世住持、剛中玄柔和尚を開基として東福寺山内南部に創建されたのが始まりで、その後、永禄12年(1569)に焼失したため、慶長18年(1613)この地に再建され、現在に至っているという。
また、石畳の参道を行くと市指定の名勝庭園があり、植え込みや苔、灯篭、池などが配置され、静かで落ち着いた庭園となっている。
庭園は、いまから約八百年前、平安時代末に関白藤原忠道(ふじはらただみち)が御所の東御堂として建立したもので、子の兼実(かねざね・公家九条家の始祖)に伝えられ、兼実は月輪殿と称し山荘として使っていた。山と樹林に囲まれ閑静な地にあり、寝殿造系庭園として広く知られていた。
明治になって一部が荒廃してしまい、昭和47年(1972)以降、順次整備がすすめられ往年の姿を取り戻してきた。
即宗院庭園は、平安時代以来の地割りを受け継いでいることや、月輪殿の滝跡の石組み の残存や池などは当時を偲ばせ、その価値も高いため平成元年((1989)4月1日に京都市指定名勝にされている。

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【東征戦亡士之碑と西郷隆盛】
境内の東の奥には、西郷隆盛と清水寺成就院の僧月照(法名忍向)などが倒幕へむけ密議を交わしたと伝えられる茶室「採薪亭」跡や、謡いで有名な自然居士の石塔(墓碑)がある。
西郷は、採薪亭に隠れ住み、ここからさまざまな令を発して維新の大業をやり遂げたという。
また総師西郷は、鳥羽伏見の戦いに始まり会津若松の(白虎隊)東征が終わって、この間に難に倒れた島津藩士524柱(名)の事績を永く称えるため、当院に滞留すること半年、斎戒沐浴(身を清めて)して自ら工事を監督し筆をとって銘文をつくり、顕彰碑を建立している。


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塔頭【竜吟庵】
東福寺の主要伽藍の東北、本坊庫裏の背後から偃月橋(えんげつきょう)を渡った正面に位置する。東福寺第三世住持、無関普門(大明国師)の住居跡で、東福寺塔頭の第一位に置かれている。毎年11月に一般公開。

龍吟庵は東福寺の塔頭第一位の位置に置かれています。ここの庭園は1964年に重森三玲によって作庭されました。ここ龍吟庵の方丈は国宝で、そこを囲む東・西・南に三庭園があります。いずれも枯山水庭園になります。

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本坊庫裏の背後からみた偃月橋(えんげつきょう)。

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東福寺龍吟庵・西庭
龍門の庭、清光苑ともいわれます。龍が海から顔を出して黒雲に乗って昇天する姿を、石組みにより表現されています。竹垣に稲妻模様が施されています。

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東福寺龍吟庵・南庭
方丈の前庭で白砂を敷いただけのシンプルな庭です。奥の竹垣が重森三玲を思わせます。

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東福寺龍吟庵・東庭
不離の庭ともよばれています。大明国師(東福寺を開山、龍吟庵を住居として使用)が幼少の頃、熱病にかかって山中に捨てられた時、2頭の犬が国師の身を狼の襲撃から守ったという話を表現したものです。赤い砂は、鞍馬の赤石を砕いて敷いています。

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竜吟庵の表門からみた、偃月橋(えんげつきょう)。

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この項 <完>

by mo-taku3 | 2013-11-23 09:35 | Comments(3)

台風の洪水の痕は癒えた『嵐山』の紅葉は今一歩

台風の洪水の痕は癒えた『嵐山の紅葉』は今一歩


嵐山は、報道でも大々的に報じられた、台風18号による京都としては前代未聞の桂川の大洪水がみまわれた。



それ以来の訪問であった。
傷痕は? 殆ど修復されているようだ。安心!安心!

さて、いつものコースで散策を始めてみる。
駅を出てから、渡月橋を眺めると、何にもなかったように存在していた。


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吉兆の前を通り、嵐山公園を目指す。

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嵐山公園の上からは、色づき始めた保津川を囲む景色が眺められる。
山あいを流れる保津川には何艘かの屋形船が回遊していた。

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嵐山公園から下りてくる途中に、きれいな紅葉が見ることができた。

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この項 <完>

by mo-taku3 | 2013-11-16 12:37 | (紹介記事)京都 | Comments(2)

嵯峨野の『常寂光寺の紅葉』を際立たせいる苔庭

嵯峨野の『常寂光寺の紅葉』を際立たせいる苔庭


嵯峨野のお寺では、ここ常寂光寺が祇王寺と並んで際立っているように思う。
ここは意外と規模が大きいし、高台にあるがゆえに京都の街を眺められる景観も好きである。
また、紅葉や桜で意外と目立たないが、苔庭もすばらしいところである。

今回は紅葉をご覧いただきたい。

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この項 <完>

by mo-taku3 | 2013-11-16 11:08 | (紹介記事)京都 | Comments(2)

少し色つき始めた『嵯峨野』を散策

少し色つき始めた『嵯峨野』を散策


紅葉の季節になってきた。
いつも思うことだが、嵐電の嵐山駅を降りると半端ない人の波にもまれて嵯峨野に抜けてみた。
人がいてもやはり嵯峨野は紅葉が始まると、何んとなく落ち着くところである。
その散策の中からとらえた風景をご覧いただきたい。

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この項 <完>

by mo-taku3 | 2013-11-12 22:06 | (紹介記事)京都 | Comments(2)

真言宗智山派の大本山『智積院』は

数奇の運命をたどった真言宗智山派の大本山『智積院』


智積院は、もともと紀州根来山(ねごろさん、現在の和歌山県岩出市)大伝法院(根来寺)の塔頭であった。
大伝法院は真言宗の僧覚鑁が大治5年(1130年)、高野山に創建した寺院だが、教義上の対立から覚鑁は高野山を去り、保延6年(1140年)、大伝法院を根来山に移して新義真言宗を打ち立てた。
智積院は南北朝時代、この大伝法院の塔頭として、真憲坊長盛という僧が建立したもので、根来山内の学問所であった。
その後、根来山大伝法院は豊臣秀吉と対立し、天正13年(1585年)の根来攻めで、全山炎上した。
当時の根来山には2,000もの堂舎があったという。
当時、智積院の住職であった玄宥は、根来攻めの始まる前に弟子たちを引きつれて寺を出、高野山に逃れた。玄宥は、新義真言宗の法灯を守るため智積院の再興を志したが、念願がかなわないまま十数年が過ぎた。

関ヶ原の戦いの翌年、家康は東山の豊国神社(豊臣秀吉が死後「豊国大明神」として祀られた神社)の付属寺院の土地建物を玄宥に与え、智積院としてようやく復興した。
その後、三代目住職日誉の代、元和元年(1615年)に豊臣氏が滅び、隣接地にあった豊臣家ゆかりの禅寺・祥雲寺の寺地を与えられてさらに規模を拡大し、山号を現在も根来に名を残す山「五百佛山」、復興後の智積院の寺号を「根来寺」とした。

祥雲寺は、豊臣秀吉が、3歳で死去した愛児鶴松(棄丸)の菩提のため、天正19年(1591年)、妙心寺の僧・南化玄興を開山に招いて建立した寺であった。
現在、智積院の所蔵で国宝に指定されている長谷川等伯一派の障壁画は、この祥雲寺の客殿を飾っていたものであった。
近代に入って1947年にも火災があり、当時国宝に指定されていた宸殿の障壁画のうち16面が焼失した。
この時焼けた講堂は1995年に再建されたが、講堂再建に先だって、1992年に発掘調査が実施された結果、祥雲寺客殿の遺構が検出され、日本でも最大規模の壮大な客殿建築であったことがあらためて裏付けられたという。

このお寺に行くといつも感心するのは、若い修行僧が沢山おり、はきはきとした挨拶、きびきびとした掃除の動きである。
その結果、寺域の手入れが行き届き、この時期紅葉もすばらしい。


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この項 <完>

by mo-taku3 | 2013-11-12 20:12 | (寺社)京都の神社仏閣 | Comments(2)

紅葉の京都『豊国神社』

紅葉の京都『豊国神社』


11月12日現在の『東山豊国神社の紅葉』です。
まだまだという感じでしょうか。
訪れる人も少なくひっそり感が漂っています。


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この項 <完>

by mo-taku3 | 2013-11-12 19:16 | (寺社)京都の神社仏閣 | Comments(2)

改装なった『京都博物館』2013

改装なった『京都博物館』2013


京都博物館。行ったことがありますか。
さすが、古都京都ということで、歴史的展示物が豊富に取り揃えてあります。
是非一度京都に来られた時は足を運んでみたら如何でしょう。

さて、その博物館が先ごろ改修が終わり、きれいに生まれ変わっていました。
一部レンガ作りの建物で、以前よりも格調高くなったような気がする。

今度、興味あるイベントがあれは、内側からもしっかり見てきたいと思っている。

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この項 <完>

by mo-taku3 | 2013-11-12 18:06 | (紹介記事)京都 | Comments(2)

比叡山『延暦寺の紅葉』2013

比叡山『延暦寺の紅葉』2013


11月12日、もう紅葉が始まっているだろうと思い、比叡山に出かけてみた。
さすが高所だけあって紅葉が始まっていた。
見事な紅葉をゲットすることができ満足だった。

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この項 <完>

by mo-taku3 | 2013-11-12 14:37 | Comments(2)

先ごろ報道された、方広寺大仏殿跡の発掘調査結果2013

先ごろ報道された、方広寺大仏殿跡の発掘調査結果2013


先日方広寺大仏殿跡地の報道があったので現地に出かけてみた。

方広寺は東山のふもと、あの太閤・豊臣秀吉が建立した寺で、現在、伝教大師作・豊太閤護持の大黒尊天を祀っている。
記録では、天正14年(1586)に秀吉が奈良・東大寺にならって大仏造立を決定し、文禄4年(1595)にはほぼ大仏殿が完成していたようだ。
しかし、慶長元年(1596)伏見大地震のため大仏は倒壊。秀吉は、
「うぬは、京の町を守るを忘れ、まっ先に倒れるとは、慌て者が!」 と弓矢を打ちつけたという逸話が残っている。
慶長9年頃、放火により炎上したあと、豊臣秀頼が再興している。
現在は『大仏殿跡緑地公園』なっており、2000年に遺構の状態を確認するため、部分的な発掘調査が実施されました。
現在も発掘が続いており、大仏殿の基礎部分の強固な地盤が話題を呼んでいる。
また、大仏の全高18mという東大寺大仏殿をもしのぐ壮大さであったことが改めて確認されました。

発見された遺構は地下に埋め戻して大切に保存し、小舗石や板石などで位置を地表に明示しています。
偉容を誇った大仏殿は、残念なことに寛政10年(1798)に落雷による火災で大仏もろとも焼失した。




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尚、方広寺の「梵鐘」は、大坂夏の陣のきっかけを作った 「国家安康・君臣豊楽」 で有名。




この項 <完>

by mo-taku3 | 2013-11-12 12:13 | (歴史)京都史 | Comments(2)