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近江坂本の名物【鶴㐂そば】20140131

近江坂本の名物【鶴㐂そば】20140131


比叡山に登ると帰りは間違いなく坂本の【鶴㐂そば】によることにしている。
今回改めて【鶴㐂そば】の由来を調べてみると、HPに以下のように書かれていたので紹介したい。

(比叡山麓 坂本名物 本家 鶴喜蕎麦 之由来)
『天台宗 比叡山 延暦寺は、昔より宮様が座主として御座りになられた関係で、京都御所より度々ご来賓が在りました。山上では、食べ物も非常に不自由でしたので、累代、我祖先が蕎麦調製の為山上に仕出して居りました。
又、比叡山で断食の行を終えた修行僧たちが、弱った胃を慣らす為に、蕎麦を食しました。
坂本はかつて三塔十六谷、三千坊といわれた比叡山延暦寺の台所を預かる門前町として栄え、参詣の人々で賑わいました。享保初年に当代鶴屋喜八なる人が坂本の里に蕎麦営業の店を開設し、以来代々業務に従事致しております。其の間、実に二百九十年の古き歴史であります。
明治四十五年に滋賀県に参謀演習がありました時に、皇太子(後の大正天皇)が御成りになり、湖東彦根に御 駐泊になりました。宿舎より伊吹山を御眺めになり、当山に昔より栽培する山蕎麦の説明をお聞きになり、朕に其蕎麦を取り寄せよと仰せられました。時の滋賀 県知事川島純幹氏が当店に命ぜられましたので、早速調製して差上げましたところ、非常にご満足にて御意に召し、還幸の砌には明治天皇の御土産として御持帰 りになられました。
爾後昭和天皇御崩御迄、宮中年越蕎麦は、必ず当店より納入いたして参りました。
お陰をもちまして、日吉大社、延暦寺、西教寺に御参詣の方々は、何はともあれ話の種にと坂本名物鶴喜そばを御試食になり、皆様御満足頂いております。
現在もなお昔ながらの手打ちそばとして、創業二百九十年の伝統の味と技術を守っております。そのために、常に材料を厳選し、秘伝のたれに磨きをかけるべく、日夜研究に励んでおります。皆様方のお越しを心よりお待ち申し上げます。』

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*今回10ヶ月振りによってみた。
 味は夏と冬とでは違うのかもしれないが、いまいちだったのは残念。




この項 <完>

by mo-taku3 | 2014-01-31 13:30 | (風情)京都・関西 | Comments(2)

西国(14番)札所【三井寺観音堂】20140131

西国(14番)札所【三井寺観音堂】20140131


三井寺観音堂

三井寺(園城寺)は、壬申の乱で敗れた弘文天皇の菩提を弔うため、皇子の大友与多王が天武15年(686年)に寺を建立したのが創始と伝えられている。
当初は大友氏の氏寺だったが、平安時代に比叡山の智証大師が寺を復興して延暦寺の別院としたといわれている。伝教大師(最澄)の死後、比叡山の慈覚大師と園城寺の智証大師の対立が激しくなり、園城寺はしばしば焼かれたようである。
この対立が結果として、高僧の輩出、寺の発展を促し、東大寺、興福寺、延暦寺と共に園城寺は四大寺の一つに数えられるようになったという。

さて、三井寺の唐院「唐院四脚門(重文)」をぬけて右に1km程度道なりに歩くと、「西国14番札所 三井寺観音堂」という標石に出会う。ここが観音堂への登り口である。

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西国札所を回られた方は御存じと思うが、弘法大師の真言密教の流れを汲んでいるお寺が主であり、「修業」に基本を置いている関係上、本堂に辿りつまでにはこのような坂道は当然のごとくある。
何度か止まらなければ上りきらない。これが西国札所を回っているという実感がしてくる。

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坂を登りきると右手に、ひときわ大きな建物「観音堂」が建てられている。
「観音堂」は園城寺の寺域最南部に位置しており、西国十四番札所である。
西国三十三所の札所になっていることから参拝者は多い。
現在の堂は元禄2年(1689年)に再建されたものといわれている。
「観音堂」は滋賀県の有形文化財に指定されている。

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堂内に安置されている本尊「如意輪観世音菩薩」は平安時代の作とされ、三十三年毎に開扉される秘仏である。本尊の他に、愛染明王坐像、蓮如上人木像が安置されている。
本尊「如意輪観世音菩薩」、「愛染明王坐像」は重要文化財に指定されている。

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「観音堂」前の広場の隅にある石段を上ると展望台があり、大津市街や琵琶湖を遠望することができる。
紅葉の季節は素晴らしいらしい。

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坂道を上がって、直ぐ左側に「百体堂」がある。
これがなかなか素晴らしい。
百体はあろうかと思われる観音像が安置されている。そして一体一体が見事な造りで美しい。
「百体堂」は滋賀県の有形文化財に指定されている。

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まだ新しいのか、見事な「大津絵」が入り口にかけられており、ひときわ目立っている。

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「観月舞台」。
嘉永3年(1849年)の建立とされており、琵琶湖を眼前に見通すことのできる位置にあり、観月のための場所として好適である。「観月舞台」は滋賀県の有形文化財に指定されている。

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御詠歌で書いていただいた「御朱印」。
1月31日に行ったが、30日となっているのは残念である。
また、字のへたくそなこと、これも・・・である。

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御朱印を除いては充実した参詣であった。
とにかく三井寺全体が素晴らしい構図であり、またそれぞれの堂宇もきれいに整備されていた。




この項 <完>

by mo-taku3 | 2014-01-31 12:40 | (巡礼)西国三十三ヵ所 | Comments(2)

不死鳥の寺といわれる 【三井寺(園城寺)】の所以は?20140131

不死鳥の寺といわれる 【三井寺(園城寺)】の所以は?20140131


三井寺(園城寺(おんじょうじ))は、滋賀県大津市にある、天台寺門宗の総本山。
開基は大友与多王(天智天皇の皇太子である大友皇子の皇子)といわれ、本尊は弥勒菩薩である。
日本三不動の一つである黄不動で著名な寺院で、観音堂(別項で載せた)は西国三十三所観音霊場の第14番札所である。
(ちなみに日本の三不動とは、
黄不動-滋賀・園城寺(三井寺)蔵 絹本着色不動明王像(国宝)
青不動-京都・青蓮院蔵 絹本着色不動明王二童子像(国宝)
赤不動-和歌山・高野山明王院蔵 絹本着色不動明王二童子像(重要文化財)
をいい、何故か赤不動だけは重文である。)

三井寺は7世紀に大友氏 (古代)の氏寺として草創され、9世紀に唐から帰国した留学僧円珍(天台寺門宗宗祖)によって再興された。
三井寺は平安時代以降、皇室、貴族、武家などの幅広い信仰を集めて栄えたが、10世紀頃から比叡山延暦寺との対立抗争が激化し、比叡山の宗徒によって三井寺が焼き討ちされることが史上度々あった。
近世には豊臣秀吉によって寺領を没収されて廃寺同然となったこともあるが、こうした歴史上の苦難を乗り越えてその都度再興されてきたことから、三井寺は「不死鳥の寺」と称されている。
三井寺は「不死鳥の寺」といわれる所以は、
「円珍の没後、比叡山は円珍の門流と、慈覚大師円仁の門流との2派に分かれ、両者は事あるごとに対立するようになった。その後両派の対立は決定的となり、円珍派は比叡山を下りて、三井寺に移った。
比叡山延暦寺を「山門」と別称するのに対し三井寺を「寺門」と称することから、両者の対立抗争を「山門寺門の抗争」などと呼んでいる。
比叡山宗徒による三井寺の焼き討ちは永保元年(1081年)を始め、中世末期までに大規模なものだけで10回、小規模なものまで含めると50回にも上るといわれている。
三井寺は、平安時代には朝廷や貴族の尊崇を集め、中でも藤原道長、白河上皇らが深く帰依したことが知られている。
これら勢力者からの寄進等による荘園多数を支配下におき、信州善光寺も荘園末寺として記録に著れる。
また、中世以降は源氏など武家の信仰も集めた。源氏は、源頼義が三井寺に戦勝祈願をしたことから歴代の尊崇が篤く、源頼政が平家打倒の兵を挙げた時にはこれに協力し、平家を滅ぼした源頼朝も当寺に保護を加えている。
その後、文禄4年(1595年)、三井寺は豊臣秀吉の怒りに触れ、寺領の没収、事実上の廃寺を命じられているが、三井寺が何によって秀吉の怒りを買ったものかは諸説あって定かではない。
そのため、三井寺の本尊や宝物は他所へ移され、金堂をはじめとする堂宇も強制的に移築された。
当時の三井寺金堂は比叡山に移され、延暦寺転法輪堂(釈迦堂)として現存している。
慶長3年(1598年)、秀吉は自らの死の直前になって三井寺の再興を許可している。
これは死期を悟った秀吉が、霊験あらたかな三井寺の祟りを恐れたためとも言われているが、秀吉の再興許可を受け、寺の再興が進められた。現在の三井寺の寺観は、ほぼこの頃に整えられたものである。」
という経緯からきている。

今回、久しぶりに見る(本格的に訪れるのは30数年ぶり)三井寺は、こんなに広い敷地にこれだけの堂宇があったか、と思うほどの見ごたえがあり満足感がある。

大門(重文)-仁王門とも呼ばれる。
広い駐車場から大門に向かうが、大門は立派で重厚だが、入り口を張っているという感じがしない。
というのは、大門の左側は車がどんどん通るしなど、垣根もないからである。
(工事の車が正面から入る大寺は珍しい)
造りは、入母屋造の楼門(2階建ての門で、下層と上層の境には屋根の出を造らないもの)。
もとは近江の常楽寺(滋賀県湖南市)にあった門を、慶長6年(1601年)徳川家康が寄進したもので、墨書銘等から室町時代の宝徳3年(1451年)の建立と推定されている。

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食堂(釈迦堂;重文)。
大門を入ってすぐ右手にあり、天正年間(16世紀末)造営の御所清涼殿を下賜され移築したものと伝えられている。

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金堂(国宝)。
三井寺再興を許可した豊臣秀吉の遺志により、高台院が慶長4年(1599年)に再建した。入母屋造、檜皮葺きの和様仏堂である。
以前の三井寺金堂は、比叡山に移され延暦寺転法輪堂(釈迦堂)として現存している。

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鐘楼(重文)-金堂の左手前にある、「三井の晩鐘」で知られる梵鐘は「近江八景」の一つであり、平等院鐘、神護寺鐘と共に日本三名鐘として数えられている。

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「三井寺」の由来となった井戸「閼伽井屋」(重文)
三井寺の起源については、
「大津京を造営した天智天皇は、念持仏の弥勒菩薩像を本尊とする寺を建立しようとしていたが、生前にはその志を果たせなかった。天皇の子の大友皇子(弘文天皇)も壬申の乱のため、25歳の若さで没している。
大友皇子の子である大友与多王は、父の菩提を弔うため、天智天皇所持の弥勒像を本尊とする寺の建立を発願した。
壬申の乱で大友皇子と敵対した天武天皇は、朱鳥元年(686年)この寺の建立を許可し、「園城寺」の寺号も与えている。
「園城」という寺号は、大友与多王が自分の「荘園(田畑屋敷)」を売って一寺を建立しようとする志に感じて天武天皇が名付けたものという。
通称「三井寺」の起源は、この寺に涌く霊泉が天智・天武・持統の3代の天皇の産湯として使われたことから「御井」(みい)の寺と言われていたものが転じて三井寺となったという。
現在の三井寺には創建時に遡る遺物はほとんど残っていない。しかし、金堂付近からは、奈良時代前期に遡る古瓦が出土しており、大友氏と寺との関係も史料から裏付けられることから、以上の草創伝承は単なる伝説ではなく、ある程度史実を反映したものと見ることができる。」

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弁慶の引き摺り鐘。
金堂裏に霊鐘堂があり、この梵鐘が展示されている。
伝承では、田原藤太秀郷がムカデ退治のお礼に琵琶湖の竜神から授かった鐘だと言われている。
その後比叡山と三井寺の争いに際して、この鐘を弁慶が奪って比叡山に引き摺り上げたが、鐘が「イノー」(「帰りたいよう」の意)と鳴ったので、弁慶が怒って谷底へ捨てたという。
現状、鐘の表面に見られる擦り傷やひびはその時のものと称する。
歴史的には、この鐘は文永元年(1264年)の比叡山による三井寺焼き討ちの際に強奪され、後に返還されたというのが史実のようである。
無銘だが、奈良時代に遡る日本でも有数の古鐘のようである。

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弁慶の引き摺り鐘の隣りに、「弁慶の汁鍋」(大鍋)も置かれていた。

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金堂の横の山手には、「孔雀明王経」についての由来が駒札に書かれており、孔雀も飼われていた。

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一切経蔵(重文)。
室町時代の建築。毛利輝元の寄進により、慶長7年(1602年)、山口市の国清寺の経蔵(輪蔵)を移築したものという。
「輪蔵(りんぞう)とは、仏教の寺院内等に設けられる経蔵の一種である。転輪蔵。
経蔵の中央に、中心軸に沿って回転させることが可能な八面等に貼り合わせた形の書架を設け、そこに大蔵経を収納した形式のものである(回転式書架)。一般には、この経蔵を回転させると、それだけで経典を読誦したのと同等の御利益が得られるものと信じられている。」
この経堂は解放しており、このように開放しているのは珍しい。中に入ると、沢山の写経が棚に並べられているのがよく見ることができる。

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三重塔(重文)。
鎌倉時代末期から室町時代初期の建築。
奈良県の比曽寺にあった塔を豊臣秀吉が伏見城に移築したものを、更に慶長6年(1601年)、徳川家康が再度移築させたものといわれる。

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三重塔の手前に映画『るろうの剣』の撮影が行われたとの掲示があった。

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唐院。
灌頂堂(左手;重文)、唐門(重文)、大師堂(重文)、長日護摩堂(右手)などをいう。
智証大師円珍が唐から帰国後、請来した経巻法具などを納めたところとされる。
現在は、宗祖円珍の廟所ならびに灌頂(密教の儀式)の道場として寺内でも最も重視されている区域である。


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毘沙門堂(重文)。
観音堂の近くにある小堂。元和2年(1616年)の建立と伝える。

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*歴史上の苦難を乗り越えてその都度再興されてきた寺院にしては、数多くの国宝・重文などの宝物がある。それだけその時代時代での重きを置かれた存在だったのであろう。
非常に見るべきものが多く、境内もゆったりと作られ、気持ちのいいお寺であった。



この項 <完>

by mo-taku3 | 2014-01-31 12:03 | (寺社)関西の神社仏閣 | Comments(2)

京都にある【出雲大社分院】とは

京都にある【出雲大社京都分院とは


出雲大社京都分院
出雲大社京都分院は、本社である出雲大社(島根県出雲市大社町)の祭神、大国主命(おおくにぬしのみこと)の分霊を祀っている。
一般に「大国様(だいこくさま)」として親しまれている祭神は「えんむすびの神」 「福の神」としても、広く知られている。
日本書紀によると、だいこくさまは、あらゆるものが豊かに実る国、 豊葦原の瑞穂の国(今の日本)を造り上げ、その国を天照大神に返され、これが有名な“国譲り神話”である。
この国譲りの条件として、出雲の宇迦山の麓に壮大な宮殿(出雲大社)を造営してもらったとある。
出雲大社京都分院は、出雲大社大宮司・第八十代出雲国造であった千家尊福により、 明治六年に創立された出雲大社教の一分院として、平成五年、京都・亀岡の地に遷宮造営されたもの。
出雲大社京都分院の本殿は、数千年もの間、大切に守られ受け継がれてきた、日本独自の造形美を現在に伝える大社造りとなっている。
そして拝殿は参拝の方々が祭神に手を合わせると、体が自然と出雲の御本社に向くように建てられている。

出雲大社京都分院は、京都市郊外にある京都府亀岡市にあるが、場所的には非常に分かりにくい不便な場所である。神社はきれいに整備されている。
この亀岡市は“古代出雲族”とは関係の深い場所のようで、この神社とは別に“出雲大神宮”という立派な神社が存在している。
この出雲大神宮は非常に古い神社で、神社が保有する古文書には、出雲大社はここから遷宮されたと書かれており、ここが“元出雲”といわれる所以である。

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やはりしめ縄は太い。

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拝殿の前には「二礼 四拍手 一礼」とある。
四拍手は神が集まることによるものだが、分院での参拝方向が本社に向いているとのことでそうなっているのだろう。

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この項 <完>

by mo-taku3 | 2014-01-28 12:33 | (寺社)京都の神社仏閣 | Comments(5)

西国(21番)札所【穴太(あなおう)寺】20140128

西国(21番)札所【穴太(あなおう)寺】20140128

ここが、西国三十三ヵ所の21番札所【穴太(あなおう)寺】である。

奈良時代末期、慶雲二年(705)の文武天皇の治世に大伴古磨によって創立されたと伝えられている。
丹波でも屈指の古刹である。
本尊には本来の本尊と札所本尊の二尊がある。
札所本尊聖観世音菩薩は縁起で言われている平安時代の本尊とは異なるようで、胸に矢の傷あとがつけられた模刻の仏像であるという。
本尊の薬師如来は厳重な秘仏であり開帳されたことはないとされ、札所本尊聖観世音菩薩も秘仏であるが、三十三年ごとに開帳されるようである。勿論、いずれにしても両本尊共に直接の拝観は出来ない。
今回は庭園を見なかったが、庭園は本堂や多宝塔の東部を借景にしており、江戸中期から末期にかけての手法をよく表現した名園のひとつらしい。
また、この寺は「身代わり観音」の寺として信仰を集めてきている。

穴太寺の「仁王門」(左の写真)は三叉路になった道の傍に面して建てられており、門の直前を車が通行するという、一寸珍しい場所にある。

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「仁王門」をくぐって直ぐ左側に「多宝塔」が建っているのが見える。
現存の「多宝塔」は文化元年(1804年)に建てられたものといわれており、京都府亀岡市では唯一の木造塔であり、他の建造物と同様、古寺としての雰囲気によくとけ込んでいる。

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「仁王門」をくぐると参道が真っ直ぐに伸びており、その先に「本堂」がある。何回かの火災にあっており、現存の本堂は享保20年(1735年)に上棟、再建されたものといわれている。

「本堂」内陣の厨子の中には本尊の薬師如来と札所本尊の聖観世音菩薩が安置されている。
また、「本堂」内の右脇壇に、横たわった等身大の釈迦如来大涅槃像が祀られている。
この涅槃像は明治29年(1896年)に本堂の屋根裏で発見されたという。
涅槃像を堂内に祀ると当時の住職と孫娘の病気が平癒したことにより、諸病厄除けの「なで仏」として多くの人に撫でられてきたようである。(これが、身代り観音としての所以かもしれない。)
なぜ屋根裏にあったかわからない。

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駒札に詳しい説明が載っている。

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この項 <完>

by mo-taku3 | 2014-01-28 11:27 | (巡礼)西国三十三ヵ所 | Comments(2)

京都市内を散策20140125

京都市内を散策20140125


寒くなって、散歩も滞りがちなので、散策に出かけてみた。
この3年間で殆ど近くは歩きつくした感があり、写真を撮ろうにも以前撮ったものと同じようなものになってしますが、ご勘弁願いたい。

寺町2条辺りを歩いていると、このあたりの寺町通は老舗が立ち並んでいる。
しかし、新しい店も内容を変えた店もあり、このような工芸の店も出てきている。
なかなかしゃれたものを置いていたので写してみた。

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二条通りを東に歩くと二条橋の東詰に旧フジタホテルの跡地に、リッツカールトンホテル京都が立てられている。殆ど出来上がっている。3月オープンとのことである。

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少し戻って木屋町2条下がったところに高瀬川(角倉了以が作った運河)の起点があり、そこに以前運行していた高瀬船が新しく作られ三代目高瀬舟として登場していた。

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そこから木屋町通をしばらく下がると「佐久間象山と大村益次郎」の慰霊碑がある。
緑が濃くなるとこの慰霊碑も見えにくくなるが、葉が落ちるとよく見える。

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また散策を続けて行きたいと思っている。



この項 <完>

by mo-taku3 | 2014-01-25 16:30 | Comments(2)

西国(19番)札所【行願寺革堂】20140125

西国(19番)札所【行願寺革堂】20140125


行円上人が寛弘元年(1004年)に一乗小川に堂を建てたのが行願寺の創始と伝えられているが、行願寺という正式名称よりも革堂とという名称の方が一般にはよく知られている。
理由は行円上人が鹿皮を身につけていたことによるといわれている。

本尊が行円上人の作であるのが真実とすれば、約千年もの長い間、何回もの火災の難をくぐり抜けてきたことになる。由緒あると思われるこの仏像が、何故か文化財の指定がない。きっと真意の決め手がないのであろう。

御池通りの京都市役所の北にあり、寺町通りにはお寺が多数あるが、西国三十三ヵ所巡礼地はここ革堂のみである。
山門前にはかつて一条小川に革堂があったことを示す石碑が置かれている。

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「本堂」正面には「革堂観音」と書かれた「大提灯」が下がっており、印象的である。
納経所は本堂にある。 また、本堂には御本尊である千手観音像がまつられており、毎月17、18日ご開帳される。

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*8月22~23日には幽霊絵馬が供養公開される。この幽霊絵馬の逸話は、
「これはとある質屋の主人が子守りとして近江からきたおふみという名の女性を雇ったが、その女性が子どもをあやすときにここ革堂にきてはご詠歌を口ずさんでいた。
無信教の主人はこれを気に入らず、やめるように言ったがやめず、さらには子供が主人の前でまで歌うようになり、とうとう我慢の限界となった。
主人はおふみを折檻をしたが、度を超してしまい殺してしまう。
主人は遺体を埋めて隠して「駆け落ちして逃げた」とおふみの両親には報告した。
ある日おふみの幽霊が両親に現れて、殺されたことと、自分を愛用していた手鏡と一緒に革堂で埋葬して欲しいことを告げた。
その後、遺体を発見した両親は愛用の手鏡と絵馬を奉納して供養したという。
そのときの絵馬がこの幽霊絵馬で、この絵馬には手鏡がはめ込まれており、板におふみが描かれているという。」




この項 <完>

by mo-taku3 | 2014-01-25 14:35 | (巡礼)西国三十三ヵ所 | Comments(2)

西国(18番)札所【頂法寺六角堂】20140125

西国(18番)札所【頂法寺六角堂】20140125


「六角さん」の名称で、京の町の人々に昔から親しまれてきた六角堂は、寺号が紫雲山頂法寺。
西暦587年、聖徳太子を開基として創建されたと伝えられている。
本尊は太子の護持仏といわれる御丈1寸8分(約5.5cm)の如意輪観世音菩薩で、平安時代から霊験をたたえた記録や説話も数多い。
平安遷都の折、東西小路のひと筋が通る所に六角堂があたってしまい天皇が使者をたてて今少し南北どちらかに御動座頂くよう祈願されると、礎石(へそ石)一つ残し御堂がにわかに5丈(約15m)ばかり北へ退いた話は有名。
境内東北隅には聖徳太子を祀った太子堂があり、2才の頃の南無仏像が安置されている。
この地は、太子沐浴の池の跡ともいわれ、池のほとりに小野妹子を始祖とする住持の寺坊があったところから「池坊(いけのぼう)」と呼ばれ、この池坊代々の執行によって池坊いけばなが完成されました。つまり、六角堂は池坊いけばな発祥の地である。

六角堂は西国巡礼三十三所の第十八番札所でもある。
花山法皇が996年正月、六角堂へ行幸されたのが巡礼の始めと伝えられ、観音信仰が盛んになるにつれて霊場として庶民の信仰を集めるようになった。
六角堂は創建以来、数度の火災にあっており、現在の建物は明治10年(1877年)の建造物とのこと。

山門の前には、「西国18番霊場 六角堂」 の大きな石碑が建っている。

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山門を入ってすぐ正面に本堂、右手に「へそ石」、親鸞堂、納経所、本堂裏には聖徳太子沐浴の伝説にちなむ池や太子堂がある。

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礎石。

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いけばな池坊の説明が載っている。

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御朱印は御詠歌で書いていただいたが、なかなかの達筆である。

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この項 <完>

by mo-taku3 | 2014-01-25 13:30 | (巡礼)西国三十三ヵ所 | Comments(2)

古代歴史を感じさせる【等彌(とみ)神社】

古代歴史を感じさせる【等彌(とみ)神社】


等彌神社(とみじんじゃ)は、奈良県桜井市桜井にある神社。『延喜式神名帳』に掲載されている大和国城上郡等彌神社に比定されている。
明治時代までは能登宮と呼ばれていた。
本社にあたる上ッ尾社の祭神は大日霊貴命とされるが、饒速日命とする説も存在する。

創建年月は不詳であるが、社伝によると当社は古来より鳥見山に鎮座していたとされる。鳥見山は初代天皇とされる神武天皇が皇祖神を祀った場所と伝えられる。天永3年(1112年)、山崩れにより社殿が埋没。社殿修復して現在の地に移した。
昭和15年(1940年)、県社に列格した。

派手さはないが、落ち着いた神社だ。
鳥見山は、神武天皇が橿原宮に即位し、皇祖天津神を祀って大孝を申し上げた地。
当社は、式内社・等彌神社に比定される古社。

鳥見山の内の能登山の麓にあり、能登宮とも称されていた。
明治以前の能登宮は、下津尾社が祭祀の中心だったらしいが現在は、上津尾社が中心。下津尾社は末社となったようだ。
現在の祭神は大日孁貴尊だが、饒速日命とする説もある。

下津尾社。

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旧参道。上津尾社へは側面に通じている。

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上津尾社。この神社の本殿である。作りもしっかりしている。
現在は上津尾社が中心になっている。

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この石碑をご覧いただきたい。
旧華族・皇族の方が参拝されている。どのような歴史的背景があるのか、非常に興味深い。
何かの機会に調べてみたい。
鳥見山・神武天皇・橿原宮・皇祖天津神 に関係してくるのではないか?

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これは、等彌神社の手前にある「桜井護国神社」である。
存在価値は薄そうである。

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*鳥見山へは登らなかったので、とりあえず、目に付いた末社を紹介している。




この項 <完>

by mo-taku3 | 2014-01-24 15:00 | (寺社)関西の神社仏閣 | Comments(2)

安倍文殊院にある『西古墳』『東古墳』

安倍文殊院にある『西古墳』『東古墳』


安倍文殊院の境内には、2つの古墳がある。
西古墳と古来から存在する閼伽井窟(あかいくつ)というのがある。

これが、「文殊院西古墳」である。
ここは「特別史跡」であるが、特別史跡は全国で7つあり、そのうち奈良県で5つある内の一つで貴重な古墳である。(ただし宮内庁管理の古墳は数には入らない。)

本堂近くにある7世紀中頃の古墳で、豪族安倍(阿倍)氏一族の墓であることはほぼ確実とされ、安倍倉梯麻呂の墓であるともいわれてる。
古墳の原状は不明だが、径25メートルほどの円墳であったと思われる。しかし、墳丘の東斜面が当初のままとすると方墳の可能性がもある。また、境内に散在する花崗岩が、墳丘を保護した外護列石とすると多角形(八角形)墳説も考えられる。
横穴式石室が露出しており、切石造石室の代表的なものとされている。
古墳内部の石材は築造当時のもので、加工技術の高さは素晴らしく、日本一美しい古墳として称賛をもらっているようだ。
また、いつでも出入りが可能になっている。
石室は、全長12.48メートル、玄室の長さ5.09メートル、羨道の長さ7.385メートル、玄室現存の高さ2.77メートル、羨道現存の高さ1.97メートル

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文殊院東古墳。
これは7世紀前半に築造されたといわれる古墳で、古来から閼伽井窟(あかいくつ)と呼ばれ、信仰の対象とされてきた。
智恵の水「閼伽水」が湧き出る泉があり、閼伽水とは仏に供える清浄かつ神聖な水のこと。
古来より閼伽井の窟を参拝すると知恵が湧くことで知られている。
この石室は自然石での乱石積となっています。ここは奈良県の史跡である。

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この項 <完>

by mo-taku3 | 2014-01-24 14:30 | (歴史)関西史 | Comments(2)