不死鳥の寺といわれる 【三井寺(園城寺)】の所以は?20140131
三井寺(園城寺(おんじょうじ))は、滋賀県大津市にある、天台寺門宗の総本山。
開基は大友与多王(天智天皇の皇太子である大友皇子の皇子)といわれ、本尊は弥勒菩薩である。
日本三不動の一つである黄不動で著名な寺院で、観音堂(別項で載せた)は西国三十三所観音霊場の第14番札所である。
(ちなみに日本の三不動とは、
黄不動-滋賀・園城寺(三井寺)蔵 絹本着色不動明王像(国宝)
青不動-京都・青蓮院蔵 絹本着色不動明王二童子像(国宝)
赤不動-和歌山・高野山明王院蔵 絹本着色不動明王二童子像(重要文化財)
をいい、何故か赤不動だけは重文である。)
三井寺は7世紀に大友氏 (古代)の氏寺として草創され、9世紀に唐から帰国した留学僧円珍(天台寺門宗宗祖)によって再興された。
三井寺は平安時代以降、皇室、貴族、武家などの幅広い信仰を集めて栄えたが、10世紀頃から比叡山延暦寺との対立抗争が激化し、比叡山の宗徒によって三井寺が焼き討ちされることが史上度々あった。
近世には豊臣秀吉によって寺領を没収されて廃寺同然となったこともあるが、こうした歴史上の苦難を乗り越えてその都度再興されてきたことから、三井寺は「不死鳥の寺」と称されている。
三井寺は「不死鳥の寺」といわれる所以は、
「円珍の没後、比叡山は円珍の門流と、慈覚大師円仁の門流との2派に分かれ、両者は事あるごとに対立するようになった。その後両派の対立は決定的となり、円珍派は比叡山を下りて、三井寺に移った。
比叡山延暦寺を「山門」と別称するのに対し三井寺を「寺門」と称することから、両者の対立抗争を「山門寺門の抗争」などと呼んでいる。
比叡山宗徒による三井寺の焼き討ちは永保元年(1081年)を始め、中世末期までに大規模なものだけで10回、小規模なものまで含めると50回にも上るといわれている。
三井寺は、平安時代には朝廷や貴族の尊崇を集め、中でも藤原道長、白河上皇らが深く帰依したことが知られている。
これら勢力者からの寄進等による荘園多数を支配下におき、信州善光寺も荘園末寺として記録に著れる。
また、中世以降は源氏など武家の信仰も集めた。源氏は、源頼義が三井寺に戦勝祈願をしたことから歴代の尊崇が篤く、源頼政が平家打倒の兵を挙げた時にはこれに協力し、平家を滅ぼした源頼朝も当寺に保護を加えている。
その後、文禄4年(1595年)、三井寺は豊臣秀吉の怒りに触れ、寺領の没収、事実上の廃寺を命じられているが、三井寺が何によって秀吉の怒りを買ったものかは諸説あって定かではない。
そのため、三井寺の本尊や宝物は他所へ移され、金堂をはじめとする堂宇も強制的に移築された。
当時の三井寺金堂は比叡山に移され、延暦寺転法輪堂(釈迦堂)として現存している。
慶長3年(1598年)、秀吉は自らの死の直前になって三井寺の再興を許可している。
これは死期を悟った秀吉が、霊験あらたかな三井寺の祟りを恐れたためとも言われているが、秀吉の再興許可を受け、寺の再興が進められた。現在の三井寺の寺観は、ほぼこの頃に整えられたものである。」
という経緯からきている。
今回、久しぶりに見る(本格的に訪れるのは30数年ぶり)三井寺は、こんなに広い敷地にこれだけの堂宇があったか、と思うほどの見ごたえがあり満足感がある。
大門(重文)-仁王門とも呼ばれる。
広い駐車場から大門に向かうが、大門は立派で重厚だが、入り口を張っているという感じがしない。
というのは、大門の左側は車がどんどん通るしなど、垣根もないからである。
(工事の車が正面から入る大寺は珍しい)
造りは、入母屋造の楼門(2階建ての門で、下層と上層の境には屋根の出を造らないもの)。
もとは近江の常楽寺(滋賀県湖南市)にあった門を、慶長6年(1601年)徳川家康が寄進したもので、墨書銘等から室町時代の宝徳3年(1451年)の建立と推定されている。


食堂(釈迦堂;重文)。
大門を入ってすぐ右手にあり、天正年間(16世紀末)造営の御所清涼殿を下賜され移築したものと伝えられている。


金堂(国宝)。
三井寺再興を許可した豊臣秀吉の遺志により、高台院が慶長4年(1599年)に再建した。入母屋造、檜皮葺きの和様仏堂である。
以前の三井寺金堂は、比叡山に移され延暦寺転法輪堂(釈迦堂)として現存している。


鐘楼(重文)-金堂の左手前にある、「三井の晩鐘」で知られる梵鐘は「近江八景」の一つであり、平等院鐘、神護寺鐘と共に日本三名鐘として数えられている。


「三井寺」の由来となった井戸「閼伽井屋」(重文)
三井寺の起源については、
「大津京を造営した天智天皇は、念持仏の弥勒菩薩像を本尊とする寺を建立しようとしていたが、生前にはその志を果たせなかった。天皇の子の大友皇子(弘文天皇)も壬申の乱のため、25歳の若さで没している。
大友皇子の子である大友与多王は、父の菩提を弔うため、天智天皇所持の弥勒像を本尊とする寺の建立を発願した。
壬申の乱で大友皇子と敵対した天武天皇は、朱鳥元年(686年)この寺の建立を許可し、「園城寺」の寺号も与えている。
「園城」という寺号は、大友与多王が自分の「荘園(田畑屋敷)」を売って一寺を建立しようとする志に感じて天武天皇が名付けたものという。
通称「三井寺」の起源は、この寺に涌く霊泉が天智・天武・持統の3代の天皇の産湯として使われたことから
「御井」(みい)の寺と言われていたものが転じて三井寺となったという。
現在の三井寺には創建時に遡る遺物はほとんど残っていない。しかし、金堂付近からは、奈良時代前期に遡る古瓦が出土しており、大友氏と寺との関係も史料から裏付けられることから、以上の草創伝承は単なる伝説ではなく、ある程度史実を反映したものと見ることができる。」



弁慶の引き摺り鐘。
金堂裏に霊鐘堂があり、この梵鐘が展示されている。
伝承では、田原藤太秀郷がムカデ退治のお礼に琵琶湖の竜神から授かった鐘だと言われている。
その後比叡山と三井寺の争いに際して、この鐘を弁慶が奪って比叡山に引き摺り上げたが、鐘が「イノー」(「帰りたいよう」の意)と鳴ったので、弁慶が怒って谷底へ捨てたという。
現状、鐘の表面に見られる擦り傷やひびはその時のものと称する。
歴史的には、この鐘は文永元年(1264年)の比叡山による三井寺焼き討ちの際に強奪され、後に返還されたというのが史実のようである。
無銘だが、奈良時代に遡る日本でも有数の古鐘のようである。


弁慶の引き摺り鐘の隣りに、「弁慶の汁鍋」(大鍋)も置かれていた。


金堂の横の山手には、「孔雀明王経」についての由来が駒札に書かれており、孔雀も飼われていた。



一切経蔵(重文)。
室町時代の建築。毛利輝元の寄進により、慶長7年(1602年)、山口市の国清寺の経蔵(輪蔵)を移築したものという。
「輪蔵(りんぞう)とは、仏教の寺院内等に設けられる経蔵の一種である。転輪蔵。
経蔵の中央に、中心軸に沿って回転させることが可能な八面等に貼り合わせた形の書架を設け、そこに大蔵経を収納した形式のものである(回転式書架)。一般には、この経蔵を回転させると、それだけで経典を読誦したのと同等の御利益が得られるものと信じられている。」
この経堂は解放しており、このように開放しているのは珍しい。中に入ると、沢山の写経が棚に並べられているのがよく見ることができる。



三重塔(重文)。
鎌倉時代末期から室町時代初期の建築。
奈良県の比曽寺にあった塔を豊臣秀吉が伏見城に移築したものを、更に慶長6年(1601年)、徳川家康が再度移築させたものといわれる。


三重塔の手前に映画『るろうの剣』の撮影が行われたとの掲示があった。

唐院。
灌頂堂(左手;重文)、唐門(重文)、大師堂(重文)、長日護摩堂(右手)などをいう。
智証大師円珍が唐から帰国後、請来した経巻法具などを納めたところとされる。
現在は、宗祖円珍の廟所ならびに灌頂(密教の儀式)の道場として寺内でも最も重視されている区域である。

毘沙門堂(重文)。
観音堂の近くにある小堂。元和2年(1616年)の建立と伝える。


*歴史上の苦難を乗り越えてその都度再興されてきた寺院にしては、数多くの国宝・重文などの宝物がある。それだけその時代時代での重きを置かれた存在だったのであろう。
非常に見るべきものが多く、境内もゆったりと作られ、気持ちのいいお寺であった。
この項
<完>