西国(13番)札所【岩間山正法寺】20140221

西国(13番)札所【岩間山正法寺】20140221


滋賀県大津市と京都府宇治市の境にある標高445mの岩間山中腹に位置し、岩間山正法寺と称する。西国三十三所第十二番、ぼけ封じ近畿十楽観音霊場第四番札所となっている。
養老六年(722年)、加賀の白山をも開いた泰澄大師が第四十四代女帝元正天皇の三十三歳の本厄の病を法力により治した褒美として建立したことに始まる元正天皇の勅願寺院である。
ご本尊は、三重のお厨子に納められている御丈十五センチの千手観音で、"雷除け観音""汗かき観音""厄除け観音""ぼけ封じ観音"と呼ばれている。 雷が爪で掘った雷神爪堀湧泉は"不老長寿の水"と呼ばれ、健康長寿ぼけ封じを願う参拝者も多く訪れる。

静寂に包まれた境内には、日本一の桂の大樹群、芭蕉の池、雷神爪堀湧泉等があり、歴史と自然が共存する。
雷神爪堀湧泉と呼ばれる岩間の霊泉には元正天皇御製の、
   わきいづる 岩間の水はいつまでも つきせぬ法の み仏の影
という歌が伝えられている。

往昔は、後白河・後宇多・正親町天皇等歴代天皇の尊崇厚く日本三大霊場の一つとして隆盛していた。

岩間寺への坂道は途中から雪景色で、すれ違うにも結構大変だった。
境内に入る入り口には、山門はなく真っ黒い仁王像が二体あるだけだった。

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銀杏の銘木。

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本堂。

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縁起によれば、元正天皇の病気平癒祈願に功のあった泰澄が養老6年(722年)、岩間山中の桂の大樹から千手陀羅尼を感得し、その桂の木で等身の千手観音像を刻んで、元正天皇の念持仏である金銅千手観音像をその胎内に納め祀ったのが当寺の初めとされる。

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(観音霊験記)によると、江戸時代の俳聖松尾芭蕉は、岩間寺に参籠してご本尊の霊験を得、その俳風を確立したと言われており、本堂横手には芭蕉が、
"古池や蛙とびこむ水のおと"
を詠んだと伝えられている"芭蕉の池"が残っている。

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境内の風景。

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高台にある正法寺の展望台からみた風景。

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御朱印(御詠歌)。

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この項 <完>

by mo-taku3 | 2014-02-21 15:00 | (巡礼)西国三十三ヵ所 | Comments(2)

西国(12番)札所【石山寺】20140221

西国(12番)札所【石山寺】20140221


石山寺(いしやまでら)は、滋賀県大津市石山寺1丁目にある東寺真言宗の寺。本尊は如意輪観音。
開基(創立者)は、聖武天皇の発願により、天平19年(747年)、良弁(東大寺開山・別当)である。
京都の清水寺や奈良県の長谷寺と並ぶ、日本でも有数の観音霊場であり、西国三十三所観音霊場第13番札所となっている。
また、『蜻蛉日記』『更級日記』『枕草子』などの文学作品にも登場し、『源氏物語』の作者紫式部は石山寺参篭の折に『源氏物語』の着想を得たとする伝承がある。
「近江八景」の1つ「石山秋月」でも知られている。
石山寺の本堂は、国の天然記念物の珪灰石(「石山寺硅灰石」)という巨大な岩盤の上に建ち、これが寺名の由来ともなっている(石山寺珪灰石は日本の地質百選に選定)。
現在の本堂は永長元年(1096年)の再建と伝えられている。
東大門、多宝塔は鎌倉時代初期、源頼朝の寄進により建てられたものとされ、この頃には現在のような景観になったと思われる。
石山寺は兵火に遭わなかったため、建造物、仏像、経典、文書などの貴重な文化財を多数伝えられている。

石山寺の中興の祖と言われるのが、菅原道真の孫の第3世座主・淳祐(890-953)である。
淳祐が内供を称され、「石山内供」「普賢院内供」とも呼ばれている。(内供とは内供奉十禅師(ないくぶじゅうぜんじ)の略称で、天皇の傍にいて、常に玉体を加持する僧の称号)
その理由は淳祐は体が不自由で、正式の坐法で坐ることができなかったことから、学業に精励し、膨大な著述を残している。彼の自筆本は今も石山寺に多数残存し、「匂いの聖教(においのしょうぎょう)」と呼ばれ、一括して国宝に指定されている。
このころ、石山詣が宮廷の官女の間で盛んとなり、「蜻蛉日記」や「更級日記」にも描写されている。

さて石山寺の「東大門」である。左右の仁王像は囲いもなくしっかり入山者ににらみを利かせているようだ。

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東大門をくぐって右手には、大津市観光キャラクター「おおつ光ルくん」がお出迎え。

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境内図。境内は継続的に奥の方まで整備が進んでおり、梅園の拡張・光堂/紫式部像がある「源氏の苑」の開発などが出来上がってきている。

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「くぐり石」。大理石の石のトンネルをくぐってみた。

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本堂。内部は撮影禁止なのでお伝えできないが、重厚な造りとなっている。

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その本堂への階段の上った正面に「源氏の間」が設けられており、紫式部が鎮座していた。

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天然記念物の「石山寺珪灰石」の景観。上の方に、日本で最初の「多宝塔」見えている。

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「月見亭」の横からみた琵琶湖の眺望。
この月見亭は後白河法皇をはじめとして多くの天皇・皇族がここを訪れている。

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石山寺の梅林がつとに有名だが、まだ早いようで“蝋梅”だけがきれいに咲いていた。

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御朱印をいただきました。「西国、

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この項 <完>

by mo-taku3 | 2014-02-21 12:40 | (巡礼)西国三十三ヵ所 | Comments(2)

『寺町通りと下御霊神社』 20140216

『寺町通りと下御霊神社』 20140216


桓武天皇の時代、各地で疫病が流行した。これは御霊の祟りであるとして、貞観5年(863年)5月20日、平安京の神泉苑で御霊会が催された。この御霊会が下御霊神社および上御霊神社の創祀であるとしている。古来より京都御所の産土神として崇敬された。享保年間に霊元天皇の霊を配祀した。
元は出雲路の上御霊神社(上出雲寺跡)の南にあったことから下御霊神社と呼ばれるようになったと伝えられる。(御霊神社は奈良市にもある。)
後に新町出水に移され、天正18年(1590年)、豊臣秀吉の都市整備にともない現在地に遷座した。
なお、式内社研究家の志賀剛は延喜式神名帳に記載される出雲井於(いずもいのへ)神社(現在は下鴨神社内にある)を比定しているが・・・。

山門の手前に鳥居があるが、この作りは他の御霊神社と同じである。

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下御霊神社の縁起が書かれた駒札。

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舞殿には「下御霊祭の天保絵図」があった。

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本殿と説明の駒札。

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木の下に時期的には珍しい、ぎんなんが落ちていたので、見上げるとこのようなまだ落ちていない鈴なりの銀杏の木があった。

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横井 小楠(よこい しょうなん、文化6年8月13日(1809年9月22日) - 明治2年1月5日(1869年2月15日))は、日本の武士(熊本藩士)の暗殺の石碑があった。
小楠は、幕末・維新に活躍した儒学者であり、政治家でもあった。
維新の十傑の1人といわれている。
熊本藩において藩政改革を試みるが、反対派による攻撃により失敗したが、その後、福井藩の松平春嶽に招かれ政治顧問となり、幕政改革や公武合体の推進などにおいて活躍した。
明治維新後は新政府に参与として出仕するが暗殺された。
ここが場所である。

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1717年(享保年間)、京都の寺町二条に「近江屋」として創業した300年の老舗「一保堂茶舗」である。
茶や陶器を商う。
伝統を大切にしながら、変えるべきところは柔軟に変えていくという姿勢は、京都の老舗企業に共通するもので、京都府の「Kyoto Japan海外市場販路拡大推進事業」の一環として本年8月に香港の高級百貨店で実施した「京都物産展in香港」にも参加し、現地の消費者に大人気であったらしい。

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「伝統の技法や心を後世に伝えていかなければ」「和蝋燭、京蝋燭の灯火を消すわけにはいかない」と、京蝋燭を作り続けて120年の老舗。
TVの取材も受けてにわかに脚光を浴びてきている。
絵蝋燭が素晴らしい。

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*全体的に傷んでいる。修復の予定があるようだ。
*祭神の解説を、資料から載せてみる。
本 殿
吉備聖霊
吉備真備との説がありますが真備公は大変成功された方であり御霊には当てはまりません。 当社では六座の御霊の和魂と解釈しております。

崇道天皇(早良親王)
平安京が開かれる9年前にある事件が起こりました。
延暦4年(785)8月長岡京造営長官の藤原種継が何者かによって暗殺されたのです。長岡京は桓武天皇が初めに都と定めた所で、種継は天皇の信頼厚くこの大事業の責任者に抜擢された人物でした。
天皇は大いに怒り犯人逮捕を命じます。捕えられたのは大伴継人らで種継をはじめとする藤原式家の台頭に対する警戒がこの事件を引き起こしたと考えられています。この時既に故人であったあの大伴家持までが官位を剥奪されております。
ところが事件はこれで終わらず、裏で糸をひいていたのは皇太子である早良親王であるとの疑惑が持ち上がり、親王は捕えられ皇太子を廃されて乙訓寺に幽閉されます。
全くの無実であると10日余り一切の飲食を絶って抗議されましたが聞き入れられず、淡路国に流される途中で絶命されました。
事件ののち桓武天皇の周辺に不幸が襲いかかります。夫人旅子の死、母高野新笠の死、皇后乙牟漏の死、皇太子安殿親王の度々の病。
占わせてみたところこれは「早良親王の祟り」であると…
天皇はすぐに淡路国に使いを遣り早良親王に謝しました。さらに崇道天皇と追号し名誉を回復されます。
しかしその後も災禍が起こるたびに自責の念に苛まれ、一生を通じて早良親王の御霊を慰め続けられたのでした。
 
伊豫親王と藤原吉子
桓武天皇夫人とその皇子で、天皇の寵愛を受られ親王は管絃に秀でておられました。桓武帝が薨去され平城天皇の御代大同2年(807)10月藤原宗成が親王に謀反を勧めます。もちろん親王は固く拒まれ従われませんでした。やがて天皇の耳に達すると帝の前で一切を否定されたのです。
しかし捕えられた宗成は首謀者は親王だと告白し、天皇はこれを信じて親王号を剥奪し御母藤原夫人とともに河原寺に幽閉します。お二人は飲食をさせてもらえずついに毒を仰いで亡くなりました。
親王が謀反を企む必要があったようには思えません。一説には桓武天皇の寵愛を受けた親子に対する平城天皇の嫉妬が一因ではないかとも言われています。幼い時から病弱で性格も猜疑心が強く精神的に不安定であったようで、たった3年で嵯峨天皇に皇位を譲ります。
上皇となってのちに藤原仲成・薬子兄妹の野望に耳を傾け平城京遷都の詔勅を発し、いわゆる「薬子の変」が勃発します。
温厚な嵯峨天皇もさすがにこれを許さず、仲成は射殺され薬子は服毒自殺します。平城上皇は失意のうちに出家されたのでした。

藤原廣嗣
藤原式家の祖宇合の長子で、生まれながら魁偉にして頭上肉角あり、典籍に通じ武芸絶倫、また天文陰陽や管弦歌舞に精通した才能ある人物と称せられております。しかしながら激しい性格も災いしてか太宰少弐に左遷され筑紫に赴かれます。
廣嗣公はかねてより抱いておられた政事、世の災異の元凶は僧玄ぼう(日ヘンに方)らであると朝廷に上奏されます。聖武天皇からは召喚命令が下りますが、これを拒絶し天平12年(740)9月君側の奸を除かんとして筑前国でついに挙兵に至ります。これに対して朝廷は大野東人らに討伐を命じられます。
「官軍来たり」との報に廣嗣公は豊前国板櫃川で馬を下りてこう申されました。『廣嗣敢えて朝命を拒むに非ず、ただ朝廷の乱臣を誅せんことを希うのみなり』と。舟で西に進もうとされますが風に阻まれ11月肥前国で処刑されます。
のちに玄ぼうが亡くなると廣嗣の祟りに因るものだと人々は恐れたのでした。吉備真備公は廣嗣公を祀られ祠を立てて、朝廷に請うて鏡尊廟と号されたのでした。
 
橘逸勢
書の才能に長じておられ、嵯峨天皇、空海とともに三筆の一として数えられました。延暦の末に遣唐使で入唐しその才学は唐人から橘秀才と称賛されました。
但馬権守に任ぜられますが、承和9年(842)伴健岑とともに皇太子恒貞親王を奉じて東国で謀反を企てていると密告があり逮捕されます。逸勢公は拷問を受けたのち、伊豆へ配流される途中の遠江国で亡くなられました。
「承和の変」として知られる事件で、藤原良房が娘の生んだ道康親王を皇太子にする為に陰謀を企てたのではと言われています。この後道康親王は文徳天皇となり良房は人臣では初めて摂政まで登り詰め、藤原北家隆盛の基礎を築くのでありました。
 
文屋宮田麻呂
承和7年(840)に筑前守に任ぜられますが、後に官を辞して京に住まいされておりました。同10年(843)に突然謀反の疑いありとの訴えにより左衛門府に拘禁され、遂には伊豆へ配流されました。

火雷天神
よく菅原道真公と解釈されがちですが、道真公が天神として祀られるのは当社が鎮座された後になり時代が合いません。当社では六座の御霊の荒魂と解釈しております。

相 殿
霊元天皇
後水尾天皇の第18皇子として御降誕され、有職故実に精通され応仁の乱以降、皇居の荒廃に伴い中断されていた朝儀の再興に努力され、御子である東山天皇の即位の際に大嘗祭を復活せられたのであります。
当社への御崇敬誠に深く二度御参拝あらせられております。崩御の後は当社に併祭すべしとの勅命により、御霊(みたま)を天中柱皇神として奉斎しております。
霊元天皇宸翰御祈願文は重要文化財です。






この項 <完>

by mo-taku3 | 2014-02-16 17:00 | Comments(2)

一歩進んだ『京都御苑』の梅の花20140216

一歩進んだ『京都御苑』の梅の花20140216

京都御苑の梅の様子を見に出かけてみた。
そこで、「桜町」という紀貫之の邸宅や、源氏物語に出てくる末摘花(すえつむはな)の邸宅などがあった場所を示す駒札を発見できた。

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寒さは続いているが、御苑の梅の木は少しずつほころび始めていた。

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この項 <完>

by mo-taku3 | 2014-02-16 10:34 | Comments(2)

京都高島屋南側『遺跡発掘現場』

京都高島屋南側『遺跡発掘現場』

平安京外への道初めて確認(平安~鎌倉期)

発掘作業が行われたのは、京都高島屋南側隣接地(民間発掘調査会社が発表)

京都市下京区の寺町旧域で見つかった平安後期-鎌倉時代初期の道路跡=18日午後確認。
ここはマンション開発に伴う京都市下京区の遺跡「寺町旧域」の発掘調査で、平安時代後期~鎌倉時代前期(12世紀後半~13世紀初め)の道路跡が見つかり、民間発掘調査会社「イビソク関西支店」が18日、発表した。平安京の外へ延びる道路跡が、発掘で確認されたのは初めてという。

道路は幅約4メートル、長さ約50メートル、高さ約0・8メートル。土と砂利を交互に敷き詰めていた。
東西を通る「綾小路」の延長と考えられ、平安京の東端から、東に約80メートルの場所から出土した。
後世の開発で複数ヵ所に穴が空いていた。

調査を指導した京都市の担当者によると、平安時代後期から鎌倉時代にかけて平安京の域外の開発が進み、道路は建仁寺(京都市東山区)方面に通じていた可能性がある。
調査会社は「当時の平安京域外の開発の研究に役立つ成果が得られた」としている。

現場は、「京都高島屋」南側に隣接するマンション開発予定地の一角。

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*現地説明会は22日午後1時半~午後3時の予定。
(問い合わせ先) イビソク関西支店((電)080・9609・3882、当日午前9時からのみ)。




この項 <完>

by mo-taku3 | 2014-02-10 15:34 | (歴史)京都史 | Comments(2)

京都散策。いくつか発見!

京都散策。いくつか発見!


2月16日に京都マラソンがある。
これは去年から始められたもので、今年は前宣伝もいいので多くの人出がよそうされるようだ。
このようにスポーツ店の前も宣伝されていた。

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京都を守る「御土居」跡が寺町通りにあった。
この御土居は秀吉の命により、京都を戦火から守るように作られた京都を囲む土塁である。
この寺町通りにあるのは東側の土塁である。

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「立命館学園発祥之地碑」が京都府立医科大学の図書館・看護学校の敷地内に建立されている。
現代の立命館大学は、京都市北区衣笠(一部は、滋賀県草津市)に移転しているが、ここが発祥の地
西園寺公望が明治2(1869)年、の私塾「立命館」として創設したのがここでの始まりである。

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そこから寺町通りをもう少し下がると、小規模ながら「京都市歴史博物館」があり、覗いてみると歴史好きな私にとって興味をそそるイベント「愛宕信仰と山麓の村」というのをやっていた。
時間がなかったので、資料をいただいて帰ってきた。

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最後に錦市場に寄ってみたが、市場の一番西の入り口にこのような幕が張られていた。
初めて気づいたが、よく見るとこの場所が画家の【伊藤若冲】の生家とのことであった。

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この項 <完>

by mo-taku3 | 2014-02-09 17:30 | Comments(2)

会津藩主『松平容保」の療養寺【清浄華院】 20140209

会津藩主『松平容保」の療養寺【清浄華院】 20140209


清浄華院(しょうじょうけいん)は京都市上京区にある浄土宗の寺院。浄土宗七大本山の一つであり、同宗の京都四箇本山の一つである。
寺伝によれば平安時代に清和天皇の勅願により円仁が開基したとされる。

『清浄華院誌要』によれば、貞観2年(860年)、円仁(慈覚大師)が清和天皇の勅願により宮中に建立した仏殿・禁裏内道場として発足し、当初は円(法華)密(密教)浄(浄土)戒(戒律)の四宗兼学の寺院であったという。
後白河天皇・後鳥羽天皇・高倉天皇の三天皇に授戒した浄土宗祖・法然がその功績により当院を下賜され、以後浄土宗寺院となったと伝える。このため円仁を開創開山、法然を改宗開山として仰いでいる。
皇室の帰依篤く当初より現在まで御所の近くに有り続けたため、都以外に伽藍を構えたことがないことから「山号がない」とされている。
室町時代を通して京のメインストリートであった室町通りに面して境内を営み、土御門東洞院殿や室町第に程近い政治と文化の中心地に伽藍を構えた。
こうした立地も幸いして室町時代には皇室や公家はもちろん、幕府や武家の帰依を受けるようになり、特に称光天皇と足利義教より篤い帰依を受けた佛立恵照国師等凞は鎮西派浄土宗初の香衣と国師号の勅許を得ている。

これは等凞の称光天皇の臨終善知識を務めた功績と、清浄華院が伝える円頓戒脈と鎮西派法脈が正統として評価されたことによる。
しかし戦国時代の混乱の中で朝廷や幕府の権威が失墜し、織豊政権、徳川幕府と政権が移り変わっていくにつれて、かつての繁栄は失われていくことになる。
江戸時代に入って以後も大本山としての権威は保たれることになったものの、幕府の朝廷統制が厳しくなる中で皇室との公的な関係は断たれていくこととなり、紫衣勅許も徳川幕府の帰依を得て総本山となった知恩院の仲介が必要となり、勅命により晋山してきた住持職も台命勅許(幕府が命じ朝廷が許す)という形を取るようになっていった。
また、将軍上洛警護や治安維持のために諸藩の藩士が多数上洛した幕末には、御所警備を担当した肥後熊本藩や阿波徳島藩、薩摩藩、会津藩などの藩士の宿所となった。
特に会津藩は藩主松平容保が半年ほど逗留した。
明治期に入ると明治初年まで戊辰戦争の薩摩藩の陣所の一つになった他、廃仏毀釈や浄土宗内の混乱、そして失火で伽藍を焼失するなど災難が続いたが、明治44年の法然上人七百年大遠忌には伽藍を再興、現在に至っている。

このように寺院はどこもあまり変わらない数奇の運命の中にあるが、歴史をたどるとこのようにそれぞれの時代の役割があったことが伝わってくる。
今回訪れるまでは全く知らず、小さな境内なので境内を回ってもあまり歴史の重みを感じることができなかったが、御影堂の造りをみると重厚さが感じられる。

総門(表門、高麗門)、東裏門;正門は寺町通側にある総門で、河原町通側には東裏門がある。東裏門には延宝4年(1676年)の棟札が打ち付けられており、境内現存最古の建物。

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松林院;幕末に松平容保が逗留したところ。

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御影堂(みえいどう)-大殿(だいでん)とも呼ばれる。
本尊は法然上人の御影(肖像)。
寺伝では法然が後白河法皇より禁裏内道場を賜ったのは42歳の時であったとされ、その頃の姿であるとされる。脇壇にはゆかりの皇族の位牌を安置する尊牌壇があり、外縁西側には勅使門から続く皇族用の玄関が設けられているのが特徴。現在の建物は明治44年の法然上人七百年大遠忌に落成したもの。西側に骨仏を安置した納骨堂が付属する。

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島津藩の篤姫は御存じと思うが、この篤姫の曾祖母が公家の出で、ここにお墓(宝塔)が立てられていた。

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*山科 言継(やましな ときつぐ、永正4年4月26日(1507年6月6日)
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戦国時代の公家。山科言綱の子。内蔵頭から正二位・権大納言に昇った。現存する『歴名土代』の編纂者であり、多くの戦国大名との交友でも知られている。
山科家は藤原北家四条家の分家であり、羽林家の家格であったが戦国期には他の公家と同様不振の時代を迎えていた。天文17年(1548年)には室町幕府によって代々の家領であった山科荘が事実上横領される(天文17年5月25日)という事態に遭遇している。
そのような時代の中で言継は家業である有職故実や笙、製薬のみならず、和歌(三条西公条の門下)、蹴鞠から漢方医学や酒宴、双六などの多彩な才能の持ち主であったが、彼の持った最大の特長は「人脈作り」とそれを生かした困窮する朝廷の立て直しのための活動であった。
晩年には山科家では初めて権大納言(1569年)に昇進し、織田信長との交渉役としても活躍した。信長もこの年に二条城築城視察の帰りに山科邸を訪問している。
著書としては自撰歌集『言継卿集』(『拾翠愚草抄』(1527年 - 1541年)と『権大納言言継卿集』(1562年 - 1574年)から成り立つ)と日記『言継卿記』がある。特に後者は大永7年(1527年)から天正4年(1576年)にかけての50年の長期にわたって記されており、当時の公家や戦国大名たちや上泉信綱などの動向が詳細に記されているだけでなく、彼自身が治療に携わった医療行為に関する詳細な記録も残されており、現存する日本で最古のまとまった診療録であるとも言われている。
死後300年以上経た大正4年(1915年)11月に、朝廷の財政と対外交渉にあたって朝廷の存続に尽くした功績をもって従一位という破格の贈位が行われた。





この項 <完>

by mo-taku3 | 2014-02-09 17:10 | (寺社)京都の神社仏閣 | Comments(0)

【京都御苑】の見事な「松の銘木」

【京都御苑】の見事な「松の銘木」


京都御苑は松の木が多い。また結構古い銘木も存在する。
更に伝統的にかどうかわからないが、風流を好む植木職人がいるのではないかと、銘木を見ているとうれしくなってくる。
そのいくつかをご覧いただこう。

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この項 <完>

by mo-taku3 | 2014-02-09 16:54 | Comments(2)

そろそろ梅が・・・と出かけてみたが。【京都御苑】0209

そろそろ梅が・・・と出かけてみたが。【京都御苑】0209


今日は、2月9日そろそろ梅がと思い「京都御苑」に出かけてみた。
残念ながらここんところの急激な寒さのため開花時期がかなり遅れているように思える。

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早咲きである蠟梅がきれいな花をつけていた。

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紅梅が花をつけ始めていた。多分この状態は開花というんだろう。

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その他の梅はまだまだという感じである。

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御所の前だけでなく、御苑は整備が行き届いており、きれいな良い眺めであるが、東の方向の山手には“大文字山”が見えている。

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御苑にはこのような門がいくつもある。

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この項 <完>

by mo-taku3 | 2014-02-09 13:30 | Comments(2)

何時も賑わっている石庭【竜安寺】

何時も賑わっている石庭【竜安寺】


龍安寺(りょうあんじ)は、京都府京都市右京区にある臨済宗妙心寺派の寺院。
京都の龍安寺といえば「石庭」。知らない人は少ない。教科書でも必ず習う。
本尊は釈迦如来で、開基(創立者)は細川勝元、開山(初代住職)は妙心寺5世住持の義天玄承である。
「古都京都の文化財」として世界遺産に登録されている。
龍安寺は、開基細川勝元自身が一方の当事者であった応仁の乱(1467-1477年)で焼失。勝元の子の細川政元と、4世住持・特芳禅傑によって長享2年(1488年)に再興された。寺では特芳を中興開山と称している。その後、豊臣秀吉と江戸幕府が寺領を寄付して保護している。

「龍安寺の石庭」として知られる枯山水の方丈石庭は、室町幕府に仕えた相阿弥の作庭と伝えるが、作者、作庭年代、表現意図ともに諸説あって定かでない。室町時代末期の作で特芳禅傑らの優れた禅僧によって作られたものとも伝えられる。

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鏡容池。
寺の南側には広大な鏡容池(きょうようち)があり、周囲は回遊式庭園になっている(国の名勝)。

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方丈に入った正面にはこのような書が置かれている。

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石庭に入る手前には、石庭の模型が置かれ、配置がよくわかる。
(石庭は何処からみても一個の石が隠れて見えないといわれこの模型ではよくわかる。)

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方丈庭園(史跡・特別名勝)
いわゆる「龍安寺の石庭」である。
幅 22 メートル、奥行 10 メートルほどの敷地に白砂を敷き詰め、帚目を付け、15個の石を一見無造作に5か所、点在させただけのシンプルな庭である。
巨大な中国の山水の世界を日本人独特の感性を研ぎ澄まして写した「枯山水」の庭である。
最大の特徴は、「水を感じさせるために水を抜く」ということで、水を見立てられるようなものを作る。
白砂も大海をイメージし、岩は島というより山である。
近世の地誌類には、室町幕府に仕えた相阿弥の作庭と伝えるが、作者、作庭年代、表現意図ともに諸説あって定かでない。室町時代末期の作で特芳禅傑らの優れた禅僧によって作られたものとも伝えられる。

しばらく眺めていた。観光客が多い。

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知足の蹲踞(つくばい) 。
茶室蔵六庵の露地にある。蹲踞は茶室に入る前に手や口を清めるための手水を張っておく石のこと。ここの蹲踞には「吾唯知足」(われ、ただ足るを知る)の4字が刻まれているが、その意味合いから石庭の石が「一度に14個しか見ることができない」ことを「不満に思わず満足する心を持ちなさい」という戒めでもあるといわれる。また水を溜めておくための中央の四角い穴が「吾唯知足」の4つの漢字の「へん」や「つくり」の「口」として共有されているのが見どころであり、そのため一見「五・隹・疋・矢」と読める。水戸光圀の寄進と伝承されているが、一般拝観者が見ることのできるものは複製である。

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明治の廃仏毀釈により財政難に陥り、1895年に手放すこととなった龍安寺方丈襖絵のうち6面が2010年10月に当寺に戻った。
東本願寺に売却後、伊藤傳右衛門など個人の手に渡るなどして散逸したもので、その一部は米国シアトル美術館に分蔵されている。
2010年に戻った襖絵は、狩野派の絵師である狩野孝信の作と言われる「群仙図」20面のうち4面と「琴棋書画図」20面のうち2面で、米国のオークションに出品されたものであるが、落札者が匿名で龍安寺に寄贈した。
この襖絵は2010年12月から2011年3月まで、帰還後初めて一般公開された。
旧方丈襖絵のうち、他に所在の確認されているものは、メトロポリタン美術館所蔵の8面(襖4枚の表裏)、シアトル美術館所蔵の4面、イギリス個人所蔵の9面の計21面である。

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庭はきれいに整備されている。

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*境内北側には方丈(本堂ともいう)、仏殿、茶室蔵六庵などが建ち、これらの西側には非公開の「西の庭」 がある。西の庭には開基細川勝元の木像を祀る細川廟などがある。
*寺の背後には第66代一条天皇を含め5人の天皇の陵墓がある。
*真田幸村として知られる信繁夫妻の墓が、境内の鏡容池(弁天島)に存在する。(非公開)





この項 <完>

by mo-taku3 | 2014-02-06 10:30 | (寺社)京都の神社仏閣 | Comments(2)