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日本一高いビル『大阪あべのハルカス』20140530

日本一高いビル『大阪あべのハルカス』20140530

あべのハルカス(Abeno Harukas)は、2010年1月に着工され2014年3月竣工した、大阪市阿倍野区にある超高層ビルである。
地上60階建て、高さ300mで、日本で最も高い超高層ビルである。
また、日本国内の構造物としては東京スカイツリー(634m)や東京タワー(332.6m)に次ぐ3番目の高さであり、東京23区以外で日本で最も高い構造物となる。

ビル名称の「ハルカス」は古語の「晴るかす」に由来しており、平安時代に書かれた『伊勢物語』の一節から引用している。
このハルカスという言葉には「人の心を晴れ晴れとさせる」という意味がある。
高層ビルから晴れやかな景色を見渡して爽快感を味わえることや、多彩で充実した施設で来訪者に心地よさを感じてもらいたい、という思いが込められているとのことである。

ハルカスは遠くから眺めてもひときわみにつき、高い建物であることが分かる。

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このビルの下は近鉄デパートになっている。

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まず、2階から16階まで行き、ここから乗り換えて60階まで一気に駆け上っていく。

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60階は280m位とのことだが結構な人出となっていた。
見渡すと東洋系外国人が多いようだ。海外でもかなり有名なんだろう。

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上からの眺めはこんな感じである。

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西側には天王寺公園が真下に見える。

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真ん中に見えるのは四天王寺である。

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こちらが京都方面である。
空気が澄んでいれば京都タワーが見えるとのこと。

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パインアメ味のソフトクリームとマシュマロが乗っているプリンを買って食べた。
このソフトは、行ってきた芸人がテレビで盛んにおいしいと言っていたが、間違いなく美味しかった。

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60階の売店。

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エスカレーターに乗っても光を巧みに使った情景を作り出していた。

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*全体の感想としては、3週間ほど前にスカイツリーに上ったこともあり高さの感動はあまりなかったが、ビル形態での高層はどっしりしていてなかなかいい。一度は登っておくべきかなと思う。
強いて希望を言えば、ビルなんだから、スカイツリーとの違いを出すには、高層階での施設(遊戯施設や売店や喫茶などの休憩施設)の充実が必要ではないかと思う。そうすれば、何回も行ってみようという気になりそうである。




この項 <完>

by mo-taku3 | 2014-05-30 16:20 | (紹介記事)関西 | Comments(4)

聖徳太子の古いお寺『四天王寺』20140530

聖徳太子の古いお寺『四天王寺』20140530


四天王寺。
ここは小学生の時に学んだような気がする。
しかし、現在では諸説紛々としており、色々な文献での調査を少しやってみようと思う。

四天王寺建立は、今から1400年以上も前の推古天皇元年(593)と言われている。
古くは『日本書紀』には、「物部守屋と蘇我馬子の合戦の折り、崇仏派の蘇我氏についた聖徳太子が形勢の不利を打開するために、自ら四天王像を彫り、もし、この戦いに勝利したら、四天王を安置する寺院を建立し、この世の全ての人々を救済すると誓い、勝利の後、建立された」とある。

さて、異説に目を向けると、当初の四天王寺は現在地ではなく、摂津の玉造(大阪城公園の東南角、JR森ノ宮駅前)の岸辺にあり、593年から現在地で本格的な伽藍造立が始まったという解釈もある。
森之宮神社の社伝では、隣接する森之宮公園の位置に「元四天王寺」があったとしているようだ。
また建立の動機も、丁未の乱で敗死した物部守屋とその一族の霊を鎮めるため、とりあえず守屋の最後の拠点の玉造の難波邸宅跡(元大阪樟蔭女子大教授今井啓一は鵲杜宮が難波の守屋の宅跡と推測する)に御堂を営んだ六年後、荒陵の地に本格的な伽藍建築が造営されたのだとされる。
現在の四天王寺には、守屋祠(聖徳太子の月命日22日に公開。物部守屋、弓削小連、中臣勝海を祀る)があり、寺の伝説には「守屋が四天王寺をキツツキになって荒らしまわり、それを聖徳太子が白鷹となって退治したとの縁起がのこっており守屋らの社を見下ろす伽藍の欄干に太子の鷹の止まり木が設置されているなどから、御陵社の意味合いを推察する向きもある。
なお、山号の「荒陵山」から、かつてこの近くに大規模な古墳があり、四天王寺を造営する際それを壊したのではないかという説もある。四天王寺の庭園の石橋には古墳の石棺が利用されていることはその傍証とされている。
他にも、地下鉄・上本町駅から北に約300mに鎮座している『東高津宮』は、仁徳天皇の皇居であるとする明治31年(1898年)の大阪府の調査報告などがあることから、歴代天皇のいずれかの皇居であったのではないかという説もある。
さらに、近年「日本仏教興隆の祖としての『聖徳太子』は虚構であった」とする言説が盛んになり、『書紀』の記述に疑問を呈する向きもある。また、上記の『書紀』批判の記述とは別に、四天王寺は渡来系氏族の難波吉士(なにわのきし)氏の氏寺ではないかとの説もある。

このような諸説だが、四天王寺の伽藍配置の源流は中国や朝鮮半島に見られ、6~7世紀の大陸の様式を今日に伝える貴重な建築様式とされており、これを「四天王寺式伽藍配置」といい、南から北へ向かって中門、五重塔、金堂、講堂を一直線に並べ、それを回廊が囲む形式で、日本では最も古い建築様式の一つとなっている。

まず西側の入り口には、「石の鳥居」がある。
お寺なのに鳥居とはと思われるかもしれないが、神仏混合であって廃仏毀釈を逃れられたのではないか。
この鳥居は、鎌倉時代の永仁2年(1294)に建立されたといわれ四天王寺で現存する建物で最も古い建築物となる。
高さ9m、掲げられている扁額には「釈迦如来転法輪処当極楽浄土東門中心」と書かれており、重要文化財に指定されている。

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この鳥居をくぐってすぐ左手に大阪屈指の進学校である、『四天王寺学園』(中高一貫)

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西大門(極楽門)。
石の鳥居は、極楽浄土と現世との結界であり、その手前にある西大門は極楽浄土の入り口である「極楽浄土東門」へ通じる門ということで「極楽門」と呼ばれ四天王寺の中で最も大きく荘厳なもの。

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四天王寺を西から参拝するすると鳥居、西大門を経てこの西重門に至り、右手に五重塔、左手に金堂を一望することができる。四天王寺伽藍の美しさを知るにはこのポイントは外せない。

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本尊である救世観音菩薩を安置し、周囲に四天王が配置されている『金堂』。

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これがとは思えない見事な塔である。緩やかな各屋根の傾斜が法隆寺五重塔とは異なる優雅でしなやかな姿が印象的だ残念ながら、昭和34年再建の鉄筋コンクリート造り『五重塔』。
全高37.05m。相輪は全高の三分の一を占める。

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天台宗を起こした最澄が弘仁7年(816)に四天王寺に居住したとき六時堂を創建したという。現存のものは、江戸時代初期の元和9年(1623)に再建されたもので重要文化財に指定されている。
*六時礼讃とは、浄土教の法要の一つである。一日を六分割し、その六分割の時刻が到来ごとに読経・礼拝・念仏を行う。

手前が、江戸時代の文化5年(1808)に再建されたもので日本の三舞台のひとつに数えられ重要文化財に指定されている。聖徳太子の命日とされる4月22日に終日雅楽がこの舞台で奉納される。

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引導鐘の『北鐘堂』。

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六時堂の前、石舞台の横の池には、縁起のいい亀が沢山甲羅干しをしていた。

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西大門を入ったすぐ左には「義経よろい掛け松」があった。

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ここ、四天王寺はもっともっとじっくり見て回ることが必要であると感じた。
歴史を感じる、中身の深さがありそうだ。
反面、多くの戦火・火災によって伽藍の構造が近代的(例えば、鉄筋コンクリートで作られた五重塔)に生まれ変わったアンバランスも感じる。

四天王寺は、総面積3万3千坪(約11万㎡)。甲子園球場の三倍の広さを有する境内には四天王寺式伽藍のほか、聖徳太子の御霊を崇る聖霊院(太子殿)があり、創建当時の品々など500点あまりの国宝・重要文化財を所蔵する宝物館もある。
日本庭園の「極楽浄土の庭」にたたずむと、都会にありながら喧騒とは無縁の世界が広がる。新西国三十三観音霊場第一番など多くの札所にもなっている。
ここを訪れるきっかけは、西国三十三札所の番外ということであった。
毎年21日の大師会と22日の太子会は四天王寺の縁日で、露店も多く並び庶民の太子信仰の寺としての姿勢を貫いている。




この項 <完>

by mo-taku3 | 2014-05-30 14:39 | (寺社)京都の神社仏閣 | Comments(4)

『ビルを突き抜ける高速道路』大阪西梅田20140530

『ビルを突き抜ける高速道路』大阪西梅田20140530


阪神高速を池田を経由して、梅田出口へ向かうと、ビルのど真ん中に道路が突入する。
通過すればほんの数秒。

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このビルは梅田ゲートタワービル。地上16階の5~7階部分に開いた穴の中を道路が通っている。ビルは貸し会議室だが、案内板の5~7階部分はちゃんと「阪神高速道路」と書いてある。
1980年代半ば、ビル新築計画が浮上した際、ここに高速の梅田出口を作る計画があり、建築許可が下りなかった。
ビルの所有者は、数年に及ぶ交渉の末、今の形に落ち着いたという。

ここに行くには、梅田の地下街を西へ行き、西梅田を越えるとこのようなオアシスがある。

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毎日新聞のビルを越えたところで地上に出ると、この『梅田ゲートタワービル』がある。
このビルを貫通する高速道路がある。
初めて見るとなんだろう? と思う。

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何とまあ、びっくりである。
ちなみにこのビルと高速道路はそれぞれ独立した構造となっている。



この項 <完>

by mo-taku3 | 2014-05-30 12:32 | (紹介記事)関西 | Comments(2)

『来迎院』と内蔵助ゆかり茶室『含翠軒』20140527

『来迎院』と内蔵助ゆかり茶室『含翠軒』20140527

弘法大師が唐土で感得した三宝荒神を奉安して開いたと伝えられ、今も大師ゆかりの独鈷水がある。
400年後の健保6年(1218)、月翁智鏡(がっとうちきょう)長老が堂宇を開創して泉涌寺子院とした。
高所に建つ広幅殿荒神堂には、木像荒神坐像一躯・木像護法神立像五躯(共に重文)が奉祀され、古くは皇后宮の安産祈願所となり、現在も信者が多い。
また本堂に霊元天皇の御念持仏であった幻夢観音菩薩坐像も祀られている。

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境内一角に赤穂義士・大石義雄建立の茶室「含翠軒(がんすいけん)」があり、念持仏・勝軍地蔵尊は本堂に祀られている。院内庭園には小さいながらも独特の雰囲気をかもし出しており、殊に晩秋の紅葉はすばらしい。

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この項 <完>

by mo-taku3 | 2014-05-27 14:28 | (歴史)京都史 | Comments(3)

木々に包まれて静かにたたづむ『泉涌寺』20140527

木々に包まれて静かにたたづむ『泉涌寺』
20140527


寺地の一角から清水がこんこんと涌き出たことから泉涌寺(せんにゅうじ)という。
この泉は今も枯れることなく涌き続けている。

東山三十六峯の一つ、月輪山のふもとに大きな寺域をしめる泉涌寺がある。
その横には皇室の菩提所として壮大な月輪陵がある門跡寺院である。
資料によると、天長年間、弘法大師がこの地に草庵を結び、法輪寺と名付けられ、後に仙遊寺と改名されている。
建保6年(1218)に、当寺が開山と仰ぐ月輪大師 (がちりんだいし)が宇都宮信房からこの聖地の寄進を受け、宋の法式を取り入れた大伽藍の造営を志し、嘉禄2年(1226)に主要伽藍の完成をみた。
その時、寺地の一角から清水が涌き出たことにより泉涌寺と改めたという。
この泉は今も枯れることなく涌き続けている。 
大師は肥後国(熊本県)に生まれ、若くして仏門に入り、真俊大徳に師事して修学、大志をもって求法のため中国の宋に渡り、滞在12年、顕密両乗の蘊奥(うんおう)を究めて帰国した。
帰国後は泉涌寺において戒律の復興を計り、当寺を律を基本に、天台・真言・禅・浄土の四宗兼学の道場とし、北京律の祖と仰がれた。
当時朝野の信仰篤く、後鳥羽・順徳上皇、後高倉院をはじめ、北条政子、北条泰時も月輪大師について受戒するなど、公家・武家両面から深く帰依された。
大師入滅後も皇室の当寺に対する御帰依は篤く、仁治3年(1242)正月、四条天皇崩御の際は、当山で御葬儀が営まれ、山稜が当寺に造営された。
その後、南北朝~安土桃山時代の諸天皇の、続いて江戸時代に後陽成天皇から孝明天皇に至る歴代天皇・皇后の御葬儀は当山で執り行われ、山稜が境内に設けられて「月輪陵(つきのわのみさぎ)」と名づけられた。
こうして当山は皇室の御香華院として、長く篤い信仰を集めることとなる。
泉涌寺が「御寺(みてら)」と尊称される所以である。

総門内の参道両側をはじめ山内一円には塔頭寺院が建ちならび、奥まった境内には大門、仏殿、舎利殿を配した中心伽藍と天智天皇、光仁天皇そして桓武天皇以降の天皇・皇族方の御尊牌をお祀りする霊明殿と御座所、庫裡などの建物が連ねている。

御寺泉涌寺と書かれた総門をくぐって進むと

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緑の濃い参道が続く。

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左右の幾つかの塔頭を過ぎると、大門がある。
ここでお金を払って入り、なだらかな坂道を下って行くと正面に「仏殿」がある。
ただ堂宇の中は撮影禁止であるため、中はご紹介できない。

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すぐ後ろには「舎利殿」がある。
ここには、「太平記」という古書にも載せられている天下に二つとない霊宝が安置されており、これを題材とした「謡曲」が作られている。

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今も枯れることなく涌き続けている泉の取水場。

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菊の御門がある霊明殿とその内部。

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燦然と輝く「月輪陵」沢山の皇族が眠っている。
ここは天智天皇系列の皇族たちである。天武系は入っていない・・・。

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丁度さつきが満開でよく選定されたものがあった。

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中国から贈られた、楊貴妃観音のお堂。

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全山木々に包まれて静かにたたづむ堂宇、玉砂利の境内は、春は新緑、秋は紅葉に色どられて、一種別天地の雰囲気をかもしだす。
是非一度訪れて見ては如何でしょう。



この項 <完>

by mo-taku3 | 2014-05-27 13:53 | Comments(2)

西国(第15番)札所『今熊野観音寺』(京都市)20140527

西国(第15番)札所『今熊野観音寺』(京都市)20140527


東山に大きな寺域を占める「泉涌寺」がある。
泉涌寺の参道を左に折れて進むと意外と(個人的な感想)瀟洒な今熊野観音寺がある。

このお寺の謂れは、1200年程前、空海が唐からの帰国後、京都の東寺で修業をしていたとき、白髪の老翁が現れ、空海に「十一面観世音菩薩と宝印」を与えられた。
空海は白髪の老翁から熊野権現のお告げを受け、お堂を建立し、ご本尊として安置したことが今熊野観音寺の始まりとされている。
今熊野観音寺は、「頭の観音様」として、頭痛封じ・ぼけ封じのご利益を授かるといわれている。
後白河法皇(1127~1192年)は、持病の頭痛が激しく、そこでご本尊の十一面観音様に頭痛平癒の祈願を行い、頭痛が治ったと伝えられている。
このことから、頭痛封じをはじめとする、ぼけ封じ・智慧授かり・学業成就など頭全般にご利益を授けてくださる「頭の神様」として世に広められた。

今熊野観音寺の入口にある朱色の橋「鳥居橋」を渡って進んでいくと、

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仁王門などというごっつい門は無く、安心感を与える総門がある。

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駒札には謂れが書かれている。

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子どもの心身健康・学業成就・諸芸上達・交通安全にご利益がある「子護(こまもり)大師」像をお参りできます。

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さらに奥に進むと、本堂と大師堂がある。
その近くには弘法大師がここを開かれるときに地面を錫杖でついた際に湧き出した水「五智水(ごちすい)」があり、今日でも病気平癒などにご利益があるとされています。

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未だ新しい鐘楼もある。

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御詠歌の御朱印。

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また、こちらの境内には四季折々の草木があり、季節の風景を楽しむことできるようだ。
紅葉の時期は素晴らしいと思う。



この項 <完>

by mo-taku3 | 2014-05-27 10:53 | (巡礼)西国三十三ヵ所 | Comments(2)

西国(番外)札所『元慶寺』(京都市)20140523

西国(番外)札所『元慶寺』(京都市)20140523


元慶寺(がんけいじ)は、京都府京都市山科区にある天台宗の寺院である。
資料によると、藤原高子の発願により、僧正遍昭を開基として、元慶元年(877年)に建立された。
ここは西国三十三所の番外札所である。本尊は薬師瑠璃光如来である。
寛和2年(986年)、花山天皇がこの寺で藤原兼家、道兼父子の策略により出家させられた。
この時、兼家は外孫である懐仁親王(一条天皇)を帝位につけている(寛和の変)。
また、花山法皇の宸影を安置する寺で花山寺とも呼ばれ、大鏡では花山寺と記述されている。
このお寺の場所は「京都市山科区北花山河原町」であり、花山とつく地名が多い。

山科は、道も昔のままなので、道幅は狭い。
この道は渋谷街道といい、山科と京都を結ぶ道として古くからあったが、あまり使われることはなかった。
ただ、それなりに利用されていたことから、1747年に急坂を削る改良工事をしたり、明治時代に東山を超えるための花山トンネル(旧東山トンネル)が作られ、1967年には渋谷街道のすぐ南にある五条通(国道一号線)が整備されていることから、重要と位置づけられていたことはたしかなようだ。

総門はこのような白壁になっており、中には沢山の千社札が願掛けのため張られている。

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本堂。
花山という地名が広範囲にあるが、創建時は広い地域に立派な堂宇が並んでいたのかもしれない。

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小さな境内の中にはきれいに花が配置されていた。

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これがここの御詠歌の御朱印。

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※花山法皇(天皇)は数奇な運命をたどった人生であった。
(資料によると)、
安和2年(969年)、叔父円融天皇の即位と共に皇太子になり、永観2年(984年)、同帝の譲位を受けて即位している。 生後10ヶ月足らずで立太子している。
その理由は、摂政であった外祖父の藤原伊尹の威光によるものだが、17歳で即位時には既に伊尹は亡くなっており、有力な外戚をもたなかったことが、2年足らずの在位という後果を招いたようだ。
寛和2年(986年)6月22日、花山院は19歳で突然宮中を出て内裏から元慶寺(花山寺)に入り、剃髪して仏門に入り退位したとある。
これは、退位を迫る藤原兼家の陰謀によるものと言われ、「寛和の変」と呼ばれている。

花山天皇は当世から「内劣りの外めでた」等と評され、乱心の振る舞いを記した説話が残されているが、その一方で、彼は絵画・建築・和歌など多岐にわたる芸術的才能を発揮している。

出家し法皇となった後には、奈良時代初期に奈良の長谷寺を起こした「徳道上人」が観音霊場三十三ヶ所の宝印を石棺に納めたという伝承があった摂津国の中山寺(兵庫県宝塚市)でこの宝印を探し出し、紀伊国熊野から宝印の三十三の観音霊場を巡礼し修行を行っている。
花山法皇が行った観音巡礼が、西国三十三所巡礼として現在でも継承されており、各霊場で詠んだ御製の和歌が御詠歌となっている。
晩年には巡礼途中に気に入ったとされる場所の摂津国の東光山(兵庫県三田市)で隠棲生活を送っていたとされ、この地にある花山院菩提寺には御廟所があり、西国三十三所巡礼の番外霊場ともなっている。
花山院菩提寺の真南に位置する六甲山山頂付近の六甲比命神社の磐座群の中の仰臥岩に、花山法皇、仏眼上人、熊野権現連名の碑がある。

寛弘5年(1008年)2月花山院の東対にて崩御、紙屋上陵(現在の京都市北区衣笠北高橋町)に葬られた。





この項 <完>

by mo-taku3 | 2014-05-23 12:05 | (巡礼)西国三十三ヵ所 | Comments(2)

毘沙門堂の山内寺院『山科聖天(双林寺)』20140523

毘沙門堂の山内寺院『山科聖天(双林院)』20140523


『山科聖天(双林院)』は毘沙門堂門跡の山内寺院として建てられたようだ。
春は桜、秋はもみじが見どころの落ち着いた寺院である。

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毘沙門堂塔頭の護法山双林院。
1665年後陽成天皇の勅により徳川家綱(四代将軍)から安祥寺の寺領の一部を与えられ、天海僧正、公海大僧正に至って本坊とともに再興されたこじんまりとした寺院である。
当初、本尊は阿弥陀如来であったが1868年(明治元年)に聖天堂を建立し、毘沙門堂公遵法親王の念持仏であった聖天像「大聖歓喜天」を賜り本尊とし、その他武田信玄や源勝政など多くの信徒や寺院から奉納された聖天像を約80体合祀している。
山科聖天として広く信仰されている。

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お滝不動さん。

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この項 <完>

by mo-taku3 | 2014-05-23 11:30 | (寺社)京都の神社仏閣 | Comments(2)

門跡寺院『山科毘沙門堂』20140523

門跡寺院『山科毘沙門堂』20140523


毘沙門堂(びしゃもんどう)は京都市山科区にある天台宗の寺院。護法山安国院出雲寺ともいい、本尊は毘沙門天である。
天台宗京都五門跡寺院の一つであり、「毘沙門堂門跡」とも呼ばれている。

寺伝には、毘沙門堂の前身の出雲寺は文武天皇の勅願により、大宝3年(703年)行基が開いたという。
しかし、前身寺院である出雲寺は、京都市上京区の上御霊神社付近にあったと推定される。また、一帯には現在も「出雲路」の地名が残されている。
この出雲寺は平安時代末期には荒廃していたことが『今昔物語集』の記述などから伺われる。
その後、平安時代末期・中世末期には荒廃していたが、近世に至り、天海とその弟子の公海によって現在地に移転・復興され、天台宗京都五門跡の一として栄えたようだ。

仁王門に繋がる参道は結構な階段となっている。
また、山科駅からここに来るまでもなだらかな坂道となっていてかなりのきつさである。
毘沙門堂までの両側は閑静な高級住宅街となっていた。

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仁王門

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本尊毘沙門天像(秘仏)を安置する本堂。

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狩野益信筆の障壁画がある宸殿。

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大きな枝垂れ桜(西行桜)。

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勅使門に繋がる参道。

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この項 <完>

by mo-taku3 | 2014-05-23 10:57 | (寺社)京都の神社仏閣 | Comments(2)

歴史を感じる「京都山科疎水」を散策20140523

歴史を感じる「京都山科疎水」を散策20140523


テレビで紹介のあった山科「毘沙門堂」へ行く途中山科の琵琶湖疏水の開渠があった。
琵琶湖疏水は、琵琶湖の大津から京都を縦断して宇治までの長い行程で発電・浄水・農業への供給を目的に造られたものである。
琵琶湖疏水でよく耳にするのは、南禅寺境内を通過する水路閣がある。

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水路及びその周辺は以前からきれいに整備されてきているようだ。

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環境に良い所に府立洛東高校がある。
登校道を歩いていると運動部の生徒とすれ違い、都度大きな声であいさつがある。非常に気持ちがいい。

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疎水沿いにこのような花が咲いていた。

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この項 <完>

by mo-taku3 | 2014-05-23 10:26 | Comments(2)