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関ヶ原古戦場跡を訪ねて20140830

関ヶ原古戦場跡を訪ねて20140830


「関ヶ原の戦い」はあまりにも有名であるので、皆さんもご存じのことと思います。

1600年9月15日美濃関ヶ原(現在の岐阜県不破郡関ヶ原町)で徳川家康らの東軍が石田三成らの西軍を破った戦いです。
豊臣秀吉の死後,天下の実権を握った家康は三成と対立し,それぞれ諸大名を糾合して戦ったが,小早川秀秋の寝返りなど東軍に心寄せた大名が西軍の中に多くあったため、西軍は惨敗しました。
結果、三成や小西行長、大谷吉継ら西軍大名は処刑され,更に豊臣秀頼は摂津・河内・和泉60万石の一大名に転落させられています。
この結果,徳川氏の覇権が確立したため、これを「天下分け目の戦い」といわれるようになりました。
(詳細は末尾で述べます。)

三成の陣所址にある関ヶ原合戦陣くばりの観光案内図があり、全体の配置がよくわかります。

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三成本陣は、全体を見渡せる絶好の位置にあり、ここには三成大好きの小学生が甲冑に身を包んで父親と一緒にこられてました。

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三成本陣跡には史蹟の石柱が建てられていました。

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馬止め策を再現。

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三成陣地からは決戦の火ぶたが切られた「決戦地」の幟が見える。

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決戦地は少し西軍が高くなっているが、周囲を見渡せる力勝負ができる絶好の地形です。

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ここは戦いの終盤、それまで沈黙を守っていた島津隊が家康本陣の敵前突破をはかり、薩摩まで帰り着いた島津義弘の陣地跡

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小西行長の陣地跡。

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家康の最後に移動した本陣跡。

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家康の最初の本陣跡「桃配山(ももくばりやま)」。
壬申の乱の大海人皇子(天武天皇)の戦勝にあやかって陣を置いた模様。

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関ヶ原に居た「武将隊」。左は裏切り者の小早川秀秋。

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(解説1)
豊臣政権で家康はその実力でナンバー2の座を維持しつづけ、秀吉の末期には家臣団最高の地位五大老の筆頭として重きをなしていました。
秀吉没後の政治はその五大老と、石田三成を筆頭とする五奉行の手にゆだねられていましたが、次第に双方第一の実力者、徳川家康と石田三成の対立が表面化するようになりました。
それでもまだ五大老で家康に次ぐ実力者であり秀吉の昔からの親友、前田利家の存命中は小康状態が保たれていましたが利家が没し、いよいよ双方の対立は険悪なものとなってしまいました。
その後三成に反感を持つ黒田長政、加藤清正、福島正則らが三成を襲うという事件が起こり、家康の仲裁により助かりましたが、三成は自分の居城佐和山城に蟄居させられています。
その翌年の1600(慶長五年)、家康は五大老の一人上杉景勝が領国帰ったままで、しかも領内の城を固めるなど戦備を整えているという情報を聞き景勝に上洛を命じました。
ところが景勝がその要求を拒否したため、家康は景勝が謀反を企てているという理由で上杉征伐をする決断をしました。
家康は三成に挙兵させる機会をつくるためにこの会津征伐を利用したわけです。
その年、家康は五大老の一人として軍勢をひきいて大阪城を出発しました。そのため、他の豊臣家の武将の多くもこの征伐に従軍しました。
一方三成は畿内から家康の軍勢がいなくなったことからチャンスと考え、親しい大谷吉継を味方に引き込み、五大老の毛利輝元を総大将に迎え、味方を集めました。
この三成の動きを知った家康は三成を討つことを決め、大阪に引き返す先鋒隊を向かわせましたが、三成らは家康の家臣、鳥居元忠のこもる伏見城を攻め落し、美濃の関ヶ原に近い大垣城に入りました。

家康は江戸を発ち、関ヶ原に到着。関ヶ原で家康を食い止めるべく、西軍は関ヶ原へ移動した。
これにより両軍は関ヶ原に陣を敷き、対峙する形となったのです。
そして翌日15日、この関ヶ原で東西両軍が戦った合戦が、関ヶ原の戦い、もしくは関ヶ原合戦と呼ばれるものです。

(後日談)になりますが、中山道を別働隊として徳川恩顧の大名を率いた、徳川秀忠は真田昌幸・幸村に惑わされ、関ヶ原の決戦には間に合わず、家康から手痛い叱責を浴びました。

(解説2) 『黒田官兵衛の関ヶ原』
石垣原の戦い 資料によると、
当時九州の豊前中津城には黒田如水(官兵衛孝高)がおり、家康に従って出陣した子の長政の留守を守っていました。三成挙兵の報せを受けた如水は、チャンス到来とばかり微妙な動きを始めます。

(豊後の情勢)
豊前の隣国・豊後(現大分県)には、竹田城の中川秀成を筆頭に、臼杵城の太田一吉・佐伯城の毛利高政・高田城の竹中重利・富来城の垣見一直・安岐城の熊谷直盛・府内城の早川長政といった大名たちがおり、また細川忠興所轄(本領は丹後宮津)の杵築城には城代松井康之と有吉立行がいた。
関ヶ原直前の時点では熊谷・毛利は大垣におり、早川は丹後田辺城攻撃に加わり、太田もまた西軍方に属していたが、竹中・中川ははっきりとは態度を決めかねていた。
(策士如水始動)
隠居して悠々自適の日々を送っていた如水のところへ、三成からの西軍加担要請の密書が届いた。
彼は使者に笑って「九州において七カ国の恩賞を頂けるのならお味方いたしましょう」と答えて返し、すぐさま行動を開始した。
もちろん本気で西軍に加担するつもりはない。三成の敗戦を予想した彼は、高田城主で故竹中半兵衛重治の従兄である伊豆守重利を東軍に誘った。
この機会に隣国を攻略し、少しでも所領を拡大しておこうとしたのである。しかし、策士如水のこと、本気で九州を平定して家康と互角に対峙するつもりだったのかもしれない。
ただ城内の兵の大半が長政に同行していて少なかったため、彼は備蓄していた米や銭を大量に放出して老若男女を問わず兵を募り、ひたすら浪人をかり集めた。そして第一次募集だけで三千六百人が集まり、あっという間に八千程の兵力を作り上げたという。
同じ頃、西軍の総大将に担ぎ上げられた毛利輝元や宇喜多秀家は、大坂にいた太田一吉の子一成に豊後杵築城の接収を命じた。
彼は早速領国へ戻って杵築城の守将松井康之に使者を発するが、康之は怒ってこれを追い返した。
太田父子は杵築城を攻めにかかるが、如水は大砲三門を、加藤清正は食糧と弾薬などを城中に送ってこれを支援した。
元豊後国主大友宗麟の子である義統は、毛利輝元等の誘いに乗じ、「御家再興のチャンス」とばかりに九州へ攻め入った。
義統は長門から海路豊後に上陸、立石(現別府市)に陣を構えて杵築城に狙いを定める。この挙を聞きつけた大友旧臣が合流、あっという間に三千近い軍勢となった。
如水は義統に東軍につくよう勧めるが、彼は聞き入れない。
杵築城の松井康之から救援要請を受けた如水は、杵築に向って出陣した。
(如水、杵築城へ)
中津から杵築までの間には、順に高田・富来・安岐の各城がある。
如水は竹中勢を加えて軍を進め杵築へと向かった。
杵築城ではすでに大友勢の攻撃を受けており、三の丸・二の丸は破られ、本丸で激闘が行われていた。
如水の先発隊が到着したため、大友勢は囲みを解いて立石へと撤兵した。まさに間一髪のことであった。
さて援軍を得て勇気百倍した杵築城の松井康之と有吉立行は、如水の先発隊とともに出陣、立石へ向かった。そしてこの日の昼頃、両軍は激突した。その場所が石垣原の戦いの場である。
(石垣原の戦い)
両軍は三日間で計七度の激闘を演じたという。
如水は翌十四日に大友方本陣の立石を三方から囲み、降伏勧告を行った結果、大友方の総大将義統は翌十五日に剃髪して降伏し中津へと送られた。
この後如水はすぐに軍を返し、安岐城を落とし、数を増した如水勢は続いて富来城へ軍を進め、誘降の使者を出し、富来城も無血開城、城兵の大半をこれまた収めた。さらに如水は臼杵城をも収め、別働隊に佐伯・角牟礼・日隈城を攻略させ、あっというまに豊後を平定してしまう。
次に如水は北へ向かい、香春岳・小倉両城も落とし、わずか一ヶ月余で豊前・豊後二カ国を手中に収めてしまったわけである。
ここ九州北東部では、秀吉さえ恐れた如水の知謀と行動力・統率力が遺憾なく発揮された。
しかしその如水にも、さすがに西軍がわずか一日で敗れ去るとは予想できなかった。西軍の敗報を知った如水は、この後久留米城や柳川城攻めにも活躍したが、家康は子の長政には筑前に大封を与えたものの、如水には何の恩賞の沙汰もなかった・・・。





この項 <完>

by mo-taku3 | 2014-08-30 14:47 | (歴史)関西史 | Comments(2)

(開通50周年)伊吹山ドライブウェイ20140830

(開通50周年)伊吹山ドライブウェイ20140830


伊吹山は初めての訪れである。
ただただ山の上まで有料道路が続いているのだろうと想像し、出かけてみた。
まず、入り口のゲートで、3,000円と聞いて驚いた。きっと難所で大変な工事だったのではないかと想像して進むと、かなり長いドライブとなった。
そうゆうことだったかとここで納得。
山に進むにつれて、下界の晴れがだんだん怪しくなってきて、ついに霧雨に代わってきた。それに下は30数℃あるのに空気が肌寒い。
山頂の駐車場に着くと凄い沢山の車の量には驚いた。

改めてNETで調べてみるとこのように出ていた。
「伊吹山ドライブウェイ(区間:岐阜県不破郡関ヶ原町~滋賀県米原市大久保(伊吹山頂))は、滋賀県及び岐阜県の両県にまたがるように所在し、名神高速道路関ヶ原ICから2kmのところより伊吹山に至る全長17kmのドライブコースです。ドライバーの不安を取り除くため、直線をスムーズにつなぐようにカーブの設計などに工夫がこらされています。
山項の駐車場から山頂まで3コースの遊歩道が整備されており、西には比良山系や竹生島などびわ湖の北部の風景、また北には白山から御嶽山付近までの雄大なパノラマが楽しめます。
2013年春、山頂駐車場レストハウス『スカイテラス伊吹山』がリニューアルオープン!伊吹山の自然の中に溶け込みつつも、使いやすく、くつろぎやすく、買物しやすい店舗となっております。」
と紹介があった。

こうゆうこととは露知らず、後悔しつつまた来ようということで、山頂までは登らず、主に山頂駐車場からの景色を中心に写真に収めてきたのでご覧いただきたい。

山頂駐車場の2kmほど手前の展望台からは山並やドライブウェイが悠然として眺められる。

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山頂駐車場。
沢山の車が駐車している。
レストハウスには人もまばらなので、かなりのお人が山頂に向かっているものと思われる。

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伊吹山1,377m。駐車場1,260mとある。

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晴れていると素晴らしいパノラマが見れるということだが残念ながら霧がかかっていて見えない。
しかし里の景色を見ることはできた。

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山項の駐車場から山頂まで3コースの遊歩道が整備されており、西には比良山系や竹生島などびわ湖の北部の風景、また北には白山から御嶽山付近までの雄大なパノラマが楽しめるようだ。
駐車場からの登り口の山頂方面説明板には「琵琶湖国定公園および国指定天然記念物 伊吹山頂お花畑ご案内」とあり山頂までの3コースをカラフルに描かれている。

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山頂への道は次々と登山者が登って行くのが見える。
しかし、装備を持っていない我々は次回トライすることにした。

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芭蕉の句碑があった。

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「恋人の聖地」。
全国に100か所ある聖地の一つとして若者の間では、パワースポットとして人気があるそうだ。

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「伊吹ハートロックキー」

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この項 <完>

by mo-taku3 | 2014-08-30 11:50 | (紹介記事)関西 | Comments(0)

上高野にある小野郷の『栖賢寺(せいけんじ)』

上高野にある小野郷の『栖賢寺(せいけんじ)』20140829


左京区上高野水車町にある栖賢寺(せいけんじ)は、蓮華寺や崇道神社の横にある入り口があまり目立たないお寺です。境内は自由に散策でき、秋には紅葉などを楽しめるお寺です。
栖賢寺は、臨済宗大徳寺派の寺院で、元々は、兵庫県尼崎の寺町にありました。
永禄年間(1558―70)に再建された記録がある古刹ですが、江戸時代には無住となってます。
その後、1932年に、京都のこの地に廃寺を移設・建立したのが現在のお寺だそうです。
本堂には本尊薬師如来を祀っています。本堂の「竺堂円瞿坐像(じんどうえんくざぞう)」は南北朝次第の作で、京都府指定文化財に指定されています。
また、境内は約3000㎡の広さが有り、1968年に火事で消失した書院以外は、本堂、観音堂、茶室、鐘楼(千人鐘という、高さ168m、口径約1mの鐘)があります。
西明寺山を背景にした広い境内には、休憩できるような所などが設けられていますが、「境内は自由にご利用下さい。ただし観光寺院で無いので整備していません」と書かれているように、境内は自然のままといった感じでなかなか趣あると言えます。

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この項 <完>

by mo-taku3 | 2014-08-29 15:21 | (寺社)京都の神社仏閣 | Comments(2)

早良親王の御霊を鎮める『崇道神社』20140829

早良親王の御霊を鎮める『崇道神社』20140829


創祀は貞観年間(859~877)といわれている。
この時期は大きな地震・噴火があった時代と伝わっている。
この時期その影響で、御霊を鎮めることが盛んに行われ、御霊神社がさかんに作られた時期でもあり、また既存の神社にも御霊鎮魂をやらせた時期でもある。
現在のように科学で解き明かすことのできる時代と違って、天変地異、疫病などは誰かの怨霊としてとらえていた。

早良親王は光仁天皇と高野新笠の子で、桓武天皇の異母実弟であったが、反桓武勢力の中心とされ、延暦4年、長岡京で起こった藤原種継暗殺事件に連座とみなされ、乙訓寺に幽閉された後、淡路に流される途中に絶食し憤死したと伝えられる。
屍は淡路島に葬られたが、御霊神となったため、桓武天皇は早良親王に「崇道天皇」の諡を贈り、お墓を八島陵へ改装し怨霊を鎮めようとした。

崇道神社の地は都の鬼門に当たり、北陸への要衝を押さえるためにも、御霊社として早良親王を祀ることになったようだ。
『三代実録』には「所謂怨霊者は崇道天皇・伊予親王・藤原夫人」とあり崇道天皇を第一に上げ、これが御霊会に関する初めての史料になっている。
崇道神社は高野御霊とも呼ばれ、高野村の産土神であり、例祭は伊多太神社のには「神輿一基がでて、祭礼の時の道が定まっていない。ただただ神慮で、田畑川筋に限らず、常に道なき所を渡る。これに逆らう時は神輿が重くなり、神輿が人家の方へ赴くときは軒を破る。御霊の心が伴わなければ動かない。村民は手に汗を握り、神威を恐れ奉る」という奇祭であったといわれている。

国道に面して崇道神社の「一の鳥居」が建っている。

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鳥居の横には「伊多太大社址 伊多太神社」の石碑や、

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「太政官兼刑部大卿 小野毛人朝臣之墓」の石碑が建っている。

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長い参道が続いている。

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正面に本殿が見える。

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本殿へ続く拝殿。

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本殿。

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社務所。
平日のせいか、人の気配が全くしない

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伊多太神社
伊多太神社は洛北唯一の古い神社で、大社であった。祭神伊多太大神は元この村の氏神で有った。
湧水の神で有り農業の神で有り、都の丑寅に当り、小野神社二座(祭神小野妹子、天武天皇重臣小野毛人677年)と共に王城鎮護神として延喜五年延喜式内社と成った。
伊多太は湯立の訛で社前には池ノ内、市川、大湯出、等良田が有った。
往古の伊多太神社の神事(湯立儀)は出雲系同様の神事で、巫子は宮中に奉仕したとされる。
近世は学問の神として都人士多数に崇奉されている。
明治四一年七月崇道神社に合祀された。
延喜式には、京都市内は49座の内上高野は出雲高野神社、出雲井於、伊多太、小野二座の四社五座が記載されている。(由緒書)

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出雲高野神社の由緒は、
式内社で平安遷都以前、出雲郷の雲上里・雲下里のうち雲上里の産土神と考えられる。
中世までに廃絶していたが近世に再祀されたといわれている。
崇道神社本社も論考社であり、御蔭神社・御陰神社・御霊神社・猿田彦神社なども論考社になっている。

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小野神社
祭神  小野妹子・小野毛人(妹子の子が毛人で親子)
由緒は、
小野氏が創祀した神社で小野一族を祀る。
以前は崇道神社里堂の南方に石垣があり、ズンショの森と祠があったが、現在の小野神社は昭和46年、地元有志により再建された。
慶長18年、崇道神社境内の山腹から小野毛人の鋳銅製の墓誌が発見されたことから、大正3年、墓が調査され、板石で作られた石室は長さ2.5m、幅及び高さ1mで封土が施されていた。
墓誌は国宝に指定され京都国立博物館に保管されている。

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観世音堂。
「如意輪観音大菩薩尊」が祀られている。

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*とにかくこの崇道神社は、早良親王の怒りが未だに収まらないのかどうか、幽霊? の目撃証言もとても多いそうです。京都で一番怖い神社といわれています。




この項 <完>

by mo-taku3 | 2014-08-29 11:04 | (寺社)京都の神社仏閣 | Comments(2)

『三明院(旧小野郷)』眺望が素晴らしい20140829

『三明院(旧小野郷)』眺望が素晴らしい20140829


京都市左京区の上高野(かみたかの)という地域は、高野川の上流に位置し、八瀬・岩倉・修学院・松ヶ崎に囲まれた比較的小さな区域です。上高野には、昔懐かしい山里の雰囲気がいまでも残っています。
上高野で有名な観光名所としては蓮華寺があり、神社では三宅八幡宮・崇道神社(すどうじんじゃ)が有名です。
三宅八幡宮の境内から、山麓の細い小道を歩いていくと真言宗のお寺の三明院(さんみょういん)に行きつく。この三明院というお寺は、高台にあって眺望が良く、また多宝塔はひときわ目立っています。
この多宝塔、遠くから見ると由緒ある建物のようにも感じられて、上高野を代表する風景にもなっています。
三明院(さんみょういん)は、山号を延壽山(えんじゅざん)という真言宗醍醐派の寺院です。
三明院は石段を登った高台にあるため、境内からは上高野の田園風景を一望できます。
また、境内には本堂、鐘楼、庫裏、香取大明神社等が点在しています。

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この項 <完>

by mo-taku3 | 2014-08-29 09:50 | (寺社)京都の神社仏閣 | Comments(4)

『三宅八幡宮』(旧小野郷)小野妹子の関係20140829

『三宅八幡宮』(旧小野郷)小野妹子の関係20140829


「三宅八幡宮」は前から一度行ってみたいと思っていた所です。
行って見て分かったことですが、(私だけかもしれませんが)非常に興味深いことが発見できました。
一つは「小野郷」の存在です。
京都は、あまりにも歴史史跡が多く、また、観光と併せて有名な寺社仏閣も多いことから、この地区のことはあまり資料には取り上げられておらず、意外と知られていなかったというのがほんとのところではないかと思います。
というのも、平安京遷都以前の古代の京都の様子がだんだん明らかにされてきているような気がしています。
中心は愛宕山信仰を中心に色々な種族が愛宕郡で形成されていたような形跡が明らかになりつつあるようです。
この辺のお話はいずれ別項で述べたいと思います。

さて、三宅八幡宮ですが、
御祭神  第15代天皇 応神天皇(八幡大神)
御利益は、「子供の守り神として、「かん虫封じ」「子供の病気平癒」「夜なき」「学業成就」のご利益で知られています。他にも、虫退治の神様 として「害虫駆除」 などの御利益で知られ、通称 「虫八幡さん」(むしはちまん)とも呼ばれて親しまれています。」

(由緒)
社伝によりますと、推古天皇の時代(6~7世紀)、聖徳太子の命により小野妹子が遣隋使として隋におもむこうとした折に、道中、築紫の辺りで病気になったところ、近くにあった宇佐八幡宮に祈願するとまたたくまに全快し、随に渡った後も、数々の危難を免れ、無事帰国することができたといわれています。
そして、聖徳太子が亡くなった後、上高野の地(小野郷)に移り住んだ小野妹子はその時の恩に報いるため、宇佐八幡宮を勧請し、八幡神をお祭りしたと伝えられています。これか起源のようです。
更に後には、南朝の忠臣であった、「備後三郎三宅高徳」がこの地に移り住んで大神を崇敬したことから、いつしか「三宅八幡宮」と称するようになったといわれています。

また、応仁の乱の戦火によって全焼しましたが、数十年後に里人たちによって復旧され、明治時代に入ってから拝殿(明治2年)、本殿(明治20年)が再建されました。
皇室との深い関わりもあるといわれており、明治天皇の幼い頃、重い病を罹い、三宅八幡宮に祈祷が命ざれたそうです。そしてその祈祷の効あって天皇の病が治ったといわれています。
これが「子供の守り神」を確固とした所以かとも思います。

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神様の使い
「三宅八幡宮」の鳥居前には狛犬ならぬ「狛鳩」が置かれ、境内にも鳩がいて参拝者はえさをあげることができます。又、拝殿の幕にも「鳩」が描かれ、石燈籠や瓦にも「鳩」の模様があり、絵馬にも「鳩」が描かれています。
宇佐八幡宮から石清水八幡宮へ八幡神を勧請した際に、白い鳩が道案内をしたと伝えられ、以来、八幡宮の 「鳩」 は 「神様の使い」 として大切にされてきたという言い伝えがあります。
鳩は八幡神の使いとして武士などに信仰されましたが、三宅八幡宮と鳩との関係がこれほど深いものとなったのはいつ頃か、又その理由など、詳細は不明です。

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正面が舞殿でその奥に本殿がある。

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本殿。

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9代目市川団十郎が寄贈した、「井桁(いげた; 井戸の上部構造」。

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琵琶湖の水を引いた「手水」。

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*名物「鳩餅」があると聞いて寄ろうとしましたが、平日だったので閉まっていました。
鳩をかたどった「鳩餅」は、三宅八幡宮でしか頂くことができない隠れた人気商品です。米の粉を蒸したもので、白、ニッキ、抹茶の三種類。茶店で頂く事ができます。むっちりとした口さわりの、素朴な味のするお菓子だそうです。

*三宅八幡神社奉納育児・成人儀礼関連絵馬133枚
京都市有形民俗文化財指定
説明資料によりますと、
「三宅八幡宮」では、数年前、百年ぶりに行われた絵馬堂の整理に際し、大絵馬が大量に発見され、京都市の有形民俗文化財に指定されています。 
俗に虫八幡ともいわれる「三宅八幡宮」は、子供の「かん虫封じ」の神として信仰を集めてきました。地元の伝承では、もともと「田の虫除け」の神であったが、後に「子供の虫除け信仰」に移ったとされています。
詳細はあきらかではありませんが、幕末から明治にかけて信仰が拡大し、京都市内と南近江を中心に、山城、摂津、そして北河内、大和までを含む広範囲に及んで信仰が広がったといわれています。
幕末から昭和初期までの間に奉納された大絵馬のうち133点の絵馬が「子供のかん虫封じ」を中心に「育児習俗」および「十三参り」などの成人儀礼に関連したものです。
なかでも幕末から明治30年代にかけて奉納された、「かん虫封じのお礼参り」の参詣行列を描く絵馬群がよくまとまっており、描かれる人数の最多のものは638人が描き分けられています。
「行列に参加する人物」それぞれに個人名が記された付箋が貼付されている他、服装や子供たちの遊び方などの風俗が克明に描き分けられています。

とありました。




この項 <完>

by mo-taku3 | 2014-08-29 09:20 | (寺社)京都の神社仏閣 | Comments(3)

『須磨水族園』③ラッコの餌やり20140821

『須磨水族園』③ラッコの餌やり20140821


「新しい設備の宣伝文句がありました。」
須磨海浜水族園では、ラッコ館飼育水槽内の音響工事を行い、餌やり時に飼育員が解説を行うことになりました。
それまで、飼育エリアには音響設備を整えておらず、観覧エリアの音は一切聞こえないようになっており、観覧通路から行う解説を行っておりました。しかし、ラッコの様子がタイムリーに紹介できないこともありました。
そのため、園では飼育エリアにスピーカーを増設し、観覧エリアの解説を飼育員が聞くことができるようにしました。その結果、より効果的にラッコたちの餌を食べる様子や生態について紹介できるようになったということです。また、飼育員も解説を行うようになり、飼育員目線のラッコの様子についても紹介されています。

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この項 <完>

by mo-taku3 | 2014-08-21 15:30 | (旅行)国内旅行全般 | Comments(0)

『須磨水族園』④電気ウナギの高圧電流20140821

『須磨水族園』④電気ウナギの高圧電流20140821


電気ウナギ。まずはデカイうなぎである。
(デンキウナギの発電器官)資料によると、
「筋肉の細胞が「発電板」という細胞に変化したものである。数千個の発電板が並んだ発電器官は体長の5分の4ほどあり、肛門から後ろはほとんど発電器官と言ってよい。
この発電器官は頭側がプラス極、尾の方がマイナス極になっている(デンキナマズは逆)。
発生する電圧は発電板1つにつき約0.15 V にすぎないが、数千個の発電板が一斉に発電することにより、最高電圧600-800 V ・電流1 A にも達する強力な電気を発生させることができる。ただし、この高電圧は約1000分の1秒ほどしか持続しない。
デンキウナギはもっと弱い電流の電場を作ることもでき、弱い電場を作ることにより、濁った水中で障害物や獲物を探知していると考えられている。」

若いお兄さんが説明してくれる。
高電圧・高電流。低電流も作れるようだ。だから表示も低電流・高電流の表示がある。
低電流でエサのドジョウを探しているのは面白い。

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この項 <完>

by mo-taku3 | 2014-08-21 15:05 | (旅行)国内旅行全般 | Comments(0)

『須磨水族園』②イルカショー20140821

『須磨水族館』②イルカショ―。20140821


イルカショーは何処の水族館でもやっていますが、私が感じた、ここの特徴はまずオープニングの音楽に合わせたウエルカムショーです。女の子の動作・表情がすこぶるいい。
次にはイルカによる、水かけショーです。
まえの5・6列はびっしょりです。常連さんもいるらしく、ビニールコート持参でした。
みんなで楽しい時間を過ごしました。

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この項 <完>

by mo-taku3 | 2014-08-21 14:30 | (旅行)国内旅行全般 | Comments(0)

『須磨水族園』①孫との旅行に行ってきました。20140821

『須磨水族園』①孫との旅行に行ってきました。20140821


神戸市立須磨海浜水族園は、1957年に開園された水族館です。
バンドウイルカたちが華麗な技を披露する「イルカライブ」、サメ・エイなどがゆうゆうと泳ぐ「大水槽」、世界最大級の淡水魚ピラルクが見られる「アマゾン館」など、わくわく楽しい見所が盛りだくさん!
ピラニアやテッポウウオの餌とりが見られる「さかなライブ」や、ラッコのお食事タイムを解説つきで実演する「ラッコのお食事ライブ」など、大人から子供まで楽しめるアトラクションがいっぱい。「ペンギン館」では、かわいいペンギンたちの餌やり体験も実施しています。また、2012年に新施設「アザラシ“ふれ愛”プール シールピース」がオープンしました。

ちょっと驚いたのは、水族館ではなく水族園とあったことです。
でも色々なイベントや遊園などから見ると“園”が合うような気がします。

それでは園内の雰囲気をご覧ください。

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この項 <完>

by mo-taku3 | 2014-08-21 13:00 | (旅行)国内旅行全般 | Comments(0)