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京都散策『建仁寺界隈』20141029

京都散策『建仁寺界隈』20141029


建仁寺(けんにんじ)は、京都府京都市東山区にある臨済宗建仁寺派大本山の寺院であるのはご存知と思う。本尊は釈迦如来、開基(創立者)は源頼家、開山は栄西である。この頼家が開基というのは意外と知られていないと思う。京都五山の第3位に列せられている。
俵屋宗達の「風神雷神図」、海北友松の襖絵などの文化財を豊富に伝える。山内の塔頭としては、桃山時代の池泉回遊式庭園で有名であり、貴重な古籍や、漢籍・朝鮮本などの文化財も多数所蔵していることで知られる両足院などが見られる。
また、豊臣秀吉を祀る高台寺や、「八坂の塔」のある法観寺は建仁寺の末寺である。

日本に臨済宗を正式というか本格的に伝えたのは栄西がはじめとされている。
建久2年(1191年)、虚庵から印可(師匠の法を嗣いだという証明)を得て、宋から帰国する。
当時、京都では比叡山(延暦寺)の勢力が強大で、禅寺を開くことはとても無理だった。鎌倉幕府が開かれたのが1192年だからこの時も叡山の力は強かったようだ。
そこで栄西は九州博多に聖福寺を建て、のちに北条政子の援助で正治2年(1200年)に鎌倉で建立された寿福寺の開山となる。
その2年後の建仁2年(1202年)、鎌倉幕府2代将軍・源頼家の援助を得て、京都における臨済宗の拠点として建立されたのが建仁寺である。
創建当時の建仁寺は天台、真言、禅の3宗並立であった。これは当時の京都では真言、天台の既存宗派の勢力が強大だったことが背景にある訳で、純粋禅の寺院となるのは、創建から半世紀以上経た正元元年(1259年)には宋僧の蘭渓道隆が11世住職として入寺した時となり、栄西の時代には叶わなかったわけである。
建仁寺は、応仁の乱による焼失のほか、応永4年(1397年)、文明13年(1481年)などたびたび火災にあっており、創建当時の建物は残っていない。
伽藍は、
勅使門;重要文化財。寺の南側正面、八坂通りに面した四脚門。
平教盛の館門(平重盛の館門とも)を応仁の乱後に移築したものと伝えるが定かでない。様式的には鎌倉時代末頃の建築である。

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栄西が日本に持ち帰ったお茶の木が垣根全面に使われている。

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三門;「望闕楼」(ぼうけつろう)の別称がある。静岡県浜松市(旧浜名郡雄踏町)の安寧寺から1923年に移築したもので、江戸時代末期の建築である。

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法堂;仏殿(本尊を安置する堂)と法堂(はっとう、講堂にあたる)を兼ねている。
明和2年(1765年)の建立。また、平成14年(2002年)創建800年を記念して天井に小泉淳作により双龍の絵が描かれた。

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方丈;重要文化財。室町時代の建物で、もと広島の安国寺にあり、安国寺恵瓊が慶長4年(1599年)に建仁寺に移築したもの。
各室には桃山時代の画壇を代表する画家の一人である海北友松の水墨障壁画があったが、現在は襖から掛軸に改装され、京都国立博物館に寄託されている。台風被害の復旧後は、日本画家橋本関雪による障壁画『生生流転』(しょうじょうるてん)『伯楽』『深秋』『蕭條』『松韻(寒山子)』(計60面、1940年完成)が設置されている。

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東陽坊;北野大茶会の際に千利休の高弟・真如堂東陽坊長盛が好んだと伝えられる茶室。二畳台目下座床の席。構成・意匠ともに薮内家の燕庵に共通する点が多く見られる。大正年間に現在地に移築された。





この項 <完>

by mo-taku3 | 2014-10-29 11:28 | Comments(0)

京都金剛寺庚申堂の『くくり猿』20141029

京都金剛寺庚申堂の『くくり猿』20141029


金剛寺庚申堂は八坂道の途中にあります。その説明には、
「くくり猿はまさに、お猿さんが手足をくくられて動けない姿をあらわしています。
お猿さんは人間に近い動物といわれていますが、所詮は動物、欲のままに行動します。動物園に行けば、お猿さんは欲のまま走り回っていますね。 
この姿を人間の中にある、欲望に喩えてあり、人間の中にある「欲望」が動かないように、庚申さんによってくくりつけられているのです。
くくり猿に願い事を託して、それを叶える秘訣は、欲を一つ我慢することです。
皆さんが願われたことを叶えようと努力しようとするとき、欲望のこころが動いて、それを妨げようとする、それをくくりつけ、庚申さんにうまくコントロールしてもらうためです。 ですから、ご自身の中でお猿さんが走り回るようにこの欲の心が動き出し、悪いことをしたり、努力を怠りそうなときたら、庚申さんの怖い顔を思い出して、「罰が当たる」と自身を戒め、くくり猿のように欲望のこころをコントロールしてください。
良い行いをしていれば、くくり猿も庚申のお使いとして、皆さんを助けてくれることでしょう。

欲望がおっこたら、、合掌して、庚申さんを念じて真言を唱えてください
「オン デイバ ヤキシャ バンタ バンタ カカカカ ソワカ」

願いが叶いましたら、庚申堂へお送りください。撥遣(念を抜く)しお焚きあげいたします。 」

とありました。

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この項 <完>

by mo-taku3 | 2014-10-29 10:30 | Comments(2)

一時隆盛を極めた古刹『正法寺(霊山)』20141029

一時隆盛を極めた古刹『正法寺(霊山)』20141029


急峻な坂道に続く石段を昇り切り、東山(の霊山)の山腹にある正法寺 (しょうほうじ)に着く。
かつては隆盛を誇ったが、現在は本堂(旧歯仏阿弥陀堂)、庫裏を残すのみになっており往時の面影は全くない。
この正法寺は、霊山 (りょうぜん)、霊山寺、無量寿院、また、鷲の尾寺、鷲の尾山、山号より霊鷲山 (りょうじゅせん)などとも呼ばれる。
時宗霊山派の本山で、本尊は釈迦如来である。
洛陽四十八願所地蔵めぐり(京都四十八願寺)の第40番札所。札所本尊は身代地蔵である。

平安時代の延暦年間(728-805)に最澄(767-822)が開創した霊山寺、または、天台別院霊山寺があったといわれているようだ。
第58代・光孝天皇(830-887)の勅願所になったというから当初は天台宗だったのだろう。
寛平年間(889-898)、第59代・宇多天皇(867-931)が釈迦堂を建立し勅願所としている。
また、治承年間(1177-1181)、名刹七十四か寺の一つに列した。
鎌倉時代、元久年間(1204-1206)或いは1205年とも言われているが、法然(1133-1212)が念仏の道場としたといわれている。この時期、浄土宗の影響があったようだ。
その後、荒廃するが、南北朝時代(室町時代)、1383年、住持・光英は時宗の国阿に教化され寺を譲る。
国阿は時宗道場とし、正法寺と改めて再興し、阿弥陀堂を建立し、以後時宗霊山正法寺派(霊山派)の本山になった。
北朝第6代、歴代第100代・後小松天皇(1377-1433)、室町幕府第3代将軍・足利義満(1358-1408)も帰依し寺運は興隆を迎えたが、室町時代、応仁・文明の乱(1467-1477)でまたもや荒廃する。
さらに、天文の錯乱(天文の乱、1532-1535)では、細川氏・畠山氏が戦い荒廃したが、安土・桃山時代諸堂が整備されている。 
また天正年間(1573-1592)、豊臣秀吉は寺領を寄進している。
江戸時代には山上に多くの伽藍、14の塔頭が建ち並ぶ。末寺42を数え、朱印地23石を受け、眺望がきいたことから一帯は庶民の憩いの場ともなり、僧坊では料理などを供していたというほど賑やかだったようだ。場所的には大変不便な所とは思うが・・・。
寛文年間(1661-1673)、第112代・霊元天皇の命により、僧・宝山が洛外・六地蔵以外の48か寺の地蔵尊を選んだ洛陽四十八願所の霊場のひとつになる。
近代、1868年、神仏分離令後の廃仏毀釈、上知により境内の大部分、伽藍、塔頭も二つを残して廃され、以後衰微した。

ここには、品川弥二郎夫妻の墓がある。
江戸時代末期-近代の政治家・品川弥二郎(1843-1900)は、長門藩士から尊攘派として活動した。維新後、農商務大輔、第1次松方内閣内相となる。
また、名水として、境内には二つの井戸がいまも湧く。「鏡池(山の井)」がある。

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この項 <完>

by mo-taku3 | 2014-10-29 10:30 | (寺社)京都の神社仏閣 | Comments(0)

東山の『霊明神社と霊山界隈』20141029

東山の『霊明神社と霊山界隈』20141029


幕末期、志士の遺骸が葬送された霊山正法寺道沿いの急坂途中(三方向が急坂)に、小社・霊明神社(れいめいじんじゃ)がある。
この地は招魂社・招魂祭の起源の地であったらしく、維新後、この霊明神社は東京招魂社・靖国神社へと引き継がれている。
祭神は本社に、天御中主尊(あめのみなかぬしのみこと)、熊野三柱大神として、菊理媛尊(くくりひめのみこ)、速玉男命(はやたまおのみこと)、事解男命(こととけおのみこと)である。
相殿に天照皇大神(あまてらすすめおおかみ)、猿田彦大神(さるたひこのおおかみ)、天鈿女命(あめのうずめのみこと)、武甕槌命(たけみかづちのみこと)、經津主命(ふつぬしのみこと)とそうそうたる神様が祀られている。そして、末社に、猿田彦御神石を祀ってあり、これらの神様は、日本書記に詳しい方であればこの神社が一時期重要視されたことがわかると思う。

歴史をたどると、1809年、初代・村上都愷(くにやす)が正法寺塔頭・清林庵所有の山林1000坪を買い受け、霊明社が建立され、徳川政権下で神道による葬式、神葬祭を行っている。
その後、1862年、3代・村上都平(くにひら)の時、神葬祭を勧める長州・毛利家とつながる。在京志士の葬送、祭礼地になっている。安政の大獄(1858-1859)以降の殉難志士や、宮地宜蔵 (1838-1863)、池田屋事件で暗殺された吉田稔麿(1841-1864)、坂本龍馬(1836-1867)、中岡慎太郎(1838-1867)。

ここの神石にはこんな謂れがあるという。
神石は五条御幸町の借家裏に、数百年にわたりあったという。住人が崇りに遭うことが数度続いた。普請の際に出入作業の二人が落ちて大怪我をした。このため、家主が道者に依頼しお祓いをする。その夜、夢告に猿田彦大明神が顕れた。平安時代、源融(822-895)の六条河原院造営に際し、御殿内に道祖神として祀られていたという。その後、祇陀林寺(ぎだりんじ)となる。後、数百年に渡り神徳が隠れた。だが、この度、悪水の不浄に耐えかね遷座を望んだものという。夢覚め、「お限り稲荷」と号されたという。
初代がお祓いを執り行ったことから、末社として遷座されたという。
道路安全、旅立ち安全、縁結び、厄除け、方位などのご神徳があるという。

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この項 <完>

by mo-taku3 | 2014-10-29 10:30 | (歴史)京都史 | Comments(0)

(紅葉)観光シーズン到来の『清水寺』20141029

(紅葉)観光シーズン到来の『清水寺』20141029


この写真を写したのは、朝の8時半頃です。
凄い人でしょう。
清水寺は人気が高い割には駐車場や道路が狭く、大型バスが早乗りで駐車場にやってくるようです。
そのため、当然団体客が増えこのような混雑状態が発生するわけです。

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この項 <完>

by mo-taku3 | 2014-10-29 09:23 | Comments(0)

じっくり眺めたことがないが『八坂の塔』は20141029

じっくり眺めたことがないが『八坂の塔』は20141029


八坂の塔は法輪寺というお寺の五重塔で、霊応山(れいおうざん)と号し、臨済宗建仁寺派に属する。
寺伝によると、聖徳太子が如意輪観音の夢のお告げにより建立したとある。
往時は延喜式7ヶ寺のひとつに数えられ隆盛を極めたが、現在は八坂塔(五重塔)と太子堂、薬師堂の2つの伽藍を残すのみである。
八坂塔は本瓦葺5層、方6メートル、高さ46メートルの純然たる和様建築で、白鳳時代の建築様式を今に伝えるものである。創建以来たびたび災火により焼失したが、その都度再建され、現在の塔は1440年に足利義教(よしのり)によって再興されたものである。
塔内には本尊五智如来像5体(大日、釈迦、阿しゅく(あしゅく)、宝生、弥陀)を安置し、須弥壇(しゅみだん)の下には古い松香石製の大きい中心礎石があり、中央には舎利器を納めた3重の凹孔が残っている。
寺宝としては塔を中心に当時の社寺を描いた紙本著色八坂塔絵図のほか、足利義教画像、法観雑記など貴重な文化財を蔵している。

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この項 <完>

by mo-taku3 | 2014-10-29 09:20 | (歴史)京都史 | Comments(0)

秋の気配が深まり活気を帯びる『清水寺界隈』20141029

秋の気配が深まり活気を帯びる『清水寺界隈』20141029


紅葉の時期が近づいてくると、一気に観光客が増えてくる。
この時期、未だ紅葉シーズンには早いが、それを見越して修学旅行生がバスとともに増えてくる。
ここ清水寺は、地元人間でも行ってみたいところとあって、こむはずである。
この時間は朝の9時頃であるが、駐車場が少ないせいもあり、観光バスで来る団体さんは早く来て駐車場確保に動いている。もう満杯である。



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一般的に(錦もそうであるが)京都の観光地のお店の開店は遅いといつも思う。
これは、怠けものではなく、年寄りが多いせいではないかといい意味に解釈している。
それでも生八つ橋などの競争率tか高い店は、早くからあの手この手で商売熱心だ。

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有名な唐辛子の店

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ゆどうふの奥丹。

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この項 <完>

by mo-taku3 | 2014-10-29 09:00 | Comments(0)

観月の大沢の池と『大覚寺』20141025

観月の大沢の池と『大覚寺』20141025


大覚寺と聞けば南北朝をすぐ思い出す。いわゆる南朝の大覚寺統と北朝の持明院統である。

嵯峨野の北東にある大覚寺の歴史を遡ると、平安時代初期に在位した嵯峨天皇が離宮を営んでいた場所に、嵯峨天皇の信任を得ていた空海が、五大明王を安置する堂を建て、そして修法を行ったのが起源とされている。
嵯峨天皇が崩御してから30数年後の876年、皇女の正子内親王(淳和天皇皇后)が離宮を寺に改めたのが大覚寺である。
淳和天皇の皇子(嵯峨天皇には孫にあたる)恒貞親王が開山(初代住職)したとある。

鎌倉時代になると、亀山法皇や後宇多法皇が入寺し、ここで院政を行ったことから、嵯峨御所(さが ごしょ)とも呼ばれるようになった。後宇多法皇は伽藍の整備に力を尽くしておりそのため、「中興の祖」といわれる。
亀山法皇・後宇多法皇の皇統は「大覚寺統」と呼ばれ、後深草天皇の皇統の「持明院統」と交代で帝位につくようになった(両統迭立)。
南北朝が対立したが、後年(1392年)、南北朝の和解が成立し、南朝最後の天皇である後亀山天皇から北朝の後小松天皇に「三種の神器」が引き継がれたのも、ここ大覚寺においてである。
ただ、ここで注意しなければならないのは、南北朝時代を通じて南朝方寺院と思われがちであるが、けっしてそうではなく、南北朝が和解した時期には北朝・室町幕府方の有力寺院となり、後に室町幕府3代将軍であった足利義満の子・義昭を門跡に迎えている。
このように、皇室ゆかりの寺院であり、代々法親王が住職となった門跡寺院であるため、現在でも御所風の雰囲気がただよっている。御所跡地が国の史跡に指定されている。

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大沢池は中国の洞庭湖を模して嵯峨天皇が築造したものといわれ、当時の唐風文化の面影を今に残し1923年に国の文化財として名勝に指定されている。
また、この池の水は周辺にある水田の灌漑用水として重要な役割を果たしてきたことも知られている。
平安時代前期の名残をとどめ、日本最古の庭池とされている。

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池畔には桜や楓が、また、池内には多くの蓮が自生しており、平安時代から変わらない風光明媚な風景を今に楽しむことができる。また日本三大名月観賞地であることから観月の名所として知られ、中秋の頃には観月の夕べが開催される。

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華道のいけばな嵯峨御流の礎となった菊ヶ島があり、大覚寺はいけばな嵯峨御流の総司所としても知られている。





この項 <完>

by mo-taku3 | 2014-10-25 15:54 | Comments(0)

手入れが行き届いた後宇多天皇廟(北嵯峨野)20141025

手入れが行き届いた後宇多天皇廟(北嵯峨野)20141025


後宇多天皇陵は、北嵯峨の大沢池から北東へ、広沢池から北西へ歩いて同じくらいの8分くらいの地点にある。
嵯峨天皇陵が西へ1km位のところにあり、嵯峨天皇陵が山上にあるのに比べ、後宇多天皇陵は道路脇にあるため、比較的訪れ易い。
後宇多(ごうだ)天皇は第91代天皇で、この陵は正式には「蓮華峯寺陵(れんげぶじのみささぎ)」という。
後宇多天皇(1267~1324)は亀山天皇の第3皇子で、第94代後二条天皇、および第96代後醍醐天皇の父に当たる。
鎌倉時代中ごろの1274年に即位して1287年に退位し、1324年に大覚寺において58歳で崩御している。
仏教に熱心で学問に優れていたため、「好学の天皇」ともいわれている。
後宇多天皇陵の前には池があり、大きな錦鯉がたくさん泳いでおり、また秋の紅葉が美しいところで有名。
ここには後宇多天皇とその母親が仲良く葬られている。


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この項 <完>

by mo-taku3 | 2014-10-25 15:34 | (歴史)京都史 | Comments(0)

どこか牧歌的な雰囲気を感じる『北嵯峨野』20141025

どこか牧歌的な雰囲気を感じる『北嵯峨野』20141025


ここは北嵯峨野である。
掲題にあるように、自然が、田舎がという感じがする。
そういえば、京都に住んで感じたことは市街10km四方の北側・西側を進んでいくと自然が俄然多くなる。
ここ北嵯峨野は嵯峨野の中でもまったく風景がことなり、自然が満載である。
以下の写真をご覧いただければ雰囲気がお分かりいただけると思う。

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この項 <完>

by mo-taku3 | 2014-10-25 15:29 | Comments(0)