<   2015年 08月 ( 35 )   > この月の画像一覧

薬師如来の古刹『神蔵寺(亀岡市)』20150826

薬師如来の古刹『神蔵寺(亀岡市)』20150826


神藏寺は亀岡市にある、歴史のある古刹である。
延暦元年(782) 最澄が開基道場を開いたことに始まるとされている。
正暦年間(990~994)仏堂伽藍塔頭が26院もあったといわれる大寺で、源氏一門の崇拝が篤く隆盛を極め、源頼光(鬼退治で有名)が帰依した寺と云われ、頼政も帰依した寺であったと云われる。
そのためもあり、治承4年(1180)以仁王の綸旨により平家追悼の源頼政の挙兵のさい、三井寺(園城寺)の挙兵に参加、敗戦により、平氏により所領は没収されて堂宇は荒廃しました。
しかしその後、嘉禎元年(1235)天台宗達玄僧都により堂宇を再建された。
さらにここは女人禁制の寺であったの解き、再び丹波随一の名刹として復元された。
また、応永年間(1390~1420)には室町幕府の管領、細川頼元の庇護をうけ補修されたことにより往時の隆盛を取り戻した。
明智光秀の丹波平定ために兵焚天正3年(1575)に罹り一宇を残さず焼亡した。
しかし、ご本尊は信者達によって山中に隠され難を逃れている。

その後江戸時代になり、承応2年(1653)浄土宗光明寺派の願西法師が本堂及び阿弥陀堂、鐘楼を再建している。現在の本堂はその当時のものといわれる。

しかし理由は定かではないが、延宝7年(1679)亀山城主松平伊賀守忠昭が臨済宗妙心寺派の高僧高隠玄厚を請じて中興、依頼継承されて今日に至っている。 

お寺の清掃も行き届いており、気持ちよく参拝させていただきました。

e0237645_10335640.jpg


e0237645_1034689.jpg


e0237645_10342127.jpg


e0237645_10343145.jpg


e0237645_1034417.jpg



e0237645_23394120.jpg


e0237645_10352170.jpg


e0237645_10353619.jpg



薬師如来は、正しくは薬師瑠璃光如来といい、東方の瑠璃光世界の教主であり、瑠璃光王とか大医王尊などと呼びます。
灌頂経や薬師瑠璃光如来本願功徳経には、十二の大願、すなわち除病安楽、諸根具足、苦悩解脱などがあり、現世利益の仏として信仰を集めました。
脇侍として、向かって右に日光菩薩、左に月光菩薩、さらに眷属として十二神将を従えています。これがごく一般的な形式です。
十二神将は、それぞれ七千の兵を率いて、本願の成就と衆生の護持をすると言われています。
後には十二神将を十二支に配するようになったようです。

e0237645_10361515.jpg


e0237645_2338233.jpg









この項 <完>

by mo-taku3 | 2015-08-26 15:26 | (寺社)京都の神社仏閣 | Comments(2)

五穀豊作、家内安全を祈願する『走田神社(亀岡市)』20150826

五穀豊作、家内安全を祈願する『走田神社(亀岡市)』20150826


亀岡の市街地から少し離れた西郊の農村地区にある「走田(はせだ)神社」。
境内は細長く、遠目にはこのあたりによくある河畔林かとも見える。
映画やテレビの時代劇の撮影場所としても有名である。

当社の創立については書き記したものがなく不明であるが、口伝によれば奈良時代の和銅四年(711)に創建されたという。
平安時代初期に記された「延喜式」の丹波国桑田郡の項にその名が見え、その存在が確認されている。
祭神は、古事記の神話「海幸・山幸」に登場する「山幸」にあたる彦火火出見尊と、その妃で龍宮に住む海神の娘・豊玉姫命と、その御子彦波瀲武鵜鵜草葺不合尊の三神である。

当社について、中世の記録はなく、江戸時代になり、亀山藩松平家の支配地の安町村・余部村・河原町村・新家村・穴川村の氏神として厚い尊崇を受けてきた。
本殿は元禄15年(1702)にほぼ現在と同じ規模のものが建築され、盛大な正遷宮の祭典が行われたことが記録に残され、その棟札の文面も現存している。
以後、末社および付属建築物がつぎつぎと建ち、境内の燈篭は寛永元年(1624)建立のものを最初として、元禄、享保、元文、宝暦、安永、寛政、天保と年号を記した20基を越す燈篭が並んでいる。
五穀豊作、家内安全を祈願し、また、亀山藩主の尊崇も厚く、銀五枚が毎年寄進されることになったことが寛文6年(1666)日付の文書に残っている。
明治に入り亀岡町制がしかれると、その西部の氏神として東の鍬山神社と旧亀岡町を二分した形となって今日に至っている。

鳥居から位境内が続いている。

e0237645_10394236.jpg


e0237645_10392950.jpg


e0237645_10395541.jpg


正面から見た本殿である。
作りが一段高くなっているのは、気品が漂ってくる。

e0237645_1040864.jpg


e0237645_10402612.jpg


境内は巨木の杉を中心に様々な樹種が茂り、境内は昼なお暗く森閑としている。
また、亀岡の名木「ナギ」が駒札で紹介されている。

e0237645_10404991.jpg


e0237645_1041368.jpg


末社としては、長吉稲荷の別称をもち倉稲魂命を祭神とする稲荷社があり、文政9年(1828)の燈篭が立ち、江戸時代から商売繁盛を祈願する人が絶えない。

e0237645_18172038.jpg


e0237645_10415319.jpg


玉依姫命の弁財天社があり、湧水の池の中に鎮座している。

e0237645_1042167.jpg


e0237645_10422650.jpg


駒札には
「走田神社は社伝等によると和銅四年(711)に創祀されたといわれます。また、平安時代の書物である「延喜式」の「神名帳」に記載されている丹波国桑田郡十九座の内の一社です。祭神は彦火火出見尊、豊玉姫尊、彦波瀲武??草葺不合尊の三柱をお祀りしています。この彦火火出見尊は神話「海幸彦・山幸彦」に登場する山幸彦にあたります。豊玉姫尊は、山幸彦が海幸彦の釣針を探しに行かれた龍宮に住む海神の娘で、彦火火出見尊の妃となった方です。彦波瀲武??草葺不合尊は、この二神の御子です。
社伝等によると、昔、社殿に掛けられていた絵馬から馬が毎夜抜け出て草を食べ歩き、やがてその蹄の跡が窪地となり川となったといわれます。この川は増水の時でも川音を立てないことから「不鳴川」とも呼ばれます。この川は、干ばつの時でも枯れることがなく、近隣の田畑を潤しました。また、この川の改修や浚渫(泥さらえ)等をするときは、故事にしたがってその日には馬の鉱物である青豆を供え祈願する風習が今も続いています。また、境内の中に、「垂乳味池」と呼ばれる清水があり、次のような話が伝わっています。豊玉姫尊が葺不合尊を出産した後、御子を波瀲に残し龍宮に帰ってしまいました。そこで、残された葺不合尊は豊玉姫尊の妹である玉依姫により養育されることになりました。玉依姫は、この清水の水で粥を作り乳の変わりとしました。これより「垂乳味池」と呼ばれるようになりました。後に、この清水は、乳の出の悪い婦人がこの清水で作った粥を食べると、乳がたくさん出るようになったといわれています。





この項 <完>

by mo-taku3 | 2015-08-26 14:30 | (寺社)京都の神社仏閣 | Comments(2)

亀岡一の大鳥居『稗田野(ひえだの)神社』(亀岡市)20150826

亀岡一の大鳥居『稗田野(ひえだの)神社』(亀岡市)20150826


出雲神の宝庫として、亀岡の神社は出雲路に沿って点在している。
その感じに触れようと今回は亀岡の寺社めぐりをしてみた。
その一つ「薭田野神社」(京都府亀岡市薭田野町佐伯)を訪れてみた。

まず驚くのは、亀岡一の鳥居である。確かに細い通りに面していて際立って見れる。
『神社の説明板には』、
「当神社は和銅二年(709)の創建でその後平安時代 には延喜式(927)に記された古社。
御祭神は保食命 (うけもちのみこと) 大山祇命(おおやまずみのみこと) 野椎命(のづちのみこと)の三柱で五穀豊穣の守護神。
「鎮守の森」中央の土盛は、弥生時代以来の祭祀跡である。
神殿南側 堀内の京式八角石燈籠は、鎌倉時代の作品と言われ、旧法で 国の重要美術品の指定を受けていた。8月14日に行わ れる四社合同の夏祭りは「丹波佐伯郷の燈籠祭」と呼ばれ、食物の豊作を祈願する平安朝以来の大祭として伝えられている。
平安時代に御所より当社に下賜された「五個の 神燈籠」は当時の稲作の様子を五場面に表わし神輿や大 太鼓とともに五穀豊穣祈願の神事の中心となり燈籠祭と 呼ばれる所以である。また、背丈三十cmほどの日本最小 の串人形で浄瑠璃が演じられる。
京都府より無形文化財 の指定を受け国の無形文化財記録保存に採択されている。
尚、当神社は鎌倉時代より神宮寺として栄え、稗田八幡宮 とも称し疫病退散・健康長寿の霊験あらたかな社として 称えられ又女性の守り神として若い女性の参拝も多い。
最近は悪病退散・癌封治の社として全国より参拝者も多 い。(保食命は別名豊受大神で伊勢の外宮と同じ御祭神)」       -境内案内板-
とある。

e0237645_1130164.jpg


e0237645_11301221.jpg


e0237645_1130246.jpg


e0237645_11303453.jpg


e0237645_11304554.jpg



e0237645_11315670.jpg


e0237645_11323120.jpg


e0237645_11324854.jpg


e0237645_11332267.jpg



e0237645_11333223.jpg


e0237645_11335630.jpg


e0237645_11341828.jpg






この項 <完>

by mo-taku3 | 2015-08-26 13:20 | (寺社)京都の神社仏閣 | Comments(2)

『愛宕神社』全国1,000社の総本宮は京都亀岡市20150826

『愛宕神社』全国1,000社の総本宮は京都亀岡市20150826


京都では愛宕(あたご)信仰は古代からの根強い信仰である。
その信仰の対象は愛宕山の愛宕神社と思っていたが、どうも元々は元愛宕があり、そこには色々経緯があったらしい。
そこで元愛宕であり、総本宮とも呼ばれている、京都郊外の亀岡市にある「愛宕神社」 について調べてみた。

古代、この地は愛宕(おたぎ)と呼ばれていた。
飛鳥時代、645年の大化の改新以来、国司制度に伴い境内西方に国府が置かれ、国分と呼ばれるようになったという。
741年以降、この地に丹波国分寺、国分尼寺が建立され、近くに国府も置かれたとみられている。

飛鳥時代、第40代・天武天皇(673-686)在位時?、当社の分霊が山城国鷹峯(北区)に遷されたという。
その際に、神霊は境内北にある山道を白馬に載せ出御となった。
その際の馬の足跡とされる岩石が、いまも山中に残されているという。
以後、愛宕信仰の絶大な崇敬により、上賀茂、大宮、紫野、鷹峯一帯(京都市北区、左京区)を、1949年に至るまで愛宕郡(おたぎぐん)と呼んいた。

古えより山を神籬(ひもろぎ;「ひ」は霊,「もろぎ」は籬 (まがき) で神を守る意とされる。神霊が憑依している山,森,老木などの周囲に常磐木を植え,玉垣を結んで,神座としたもの。)として祭祀していたという。
(その流れが今も続いている。)

飛鳥時代、507年、神殿が創建されたという。
また、飛鳥時代第40代・天武天皇(673-686)の時、当社の分霊が山城国鷹峯(京都市北区)に遷されたともいう。
奈良時代、729年、手向山に和気清麻呂等により社殿が造営されたという。
和気清麻呂は、第49代・光仁天皇に請願し、鷹峯より分霊を遷し、阿多古神社(愛宕神社;手向山)と称したという。

平安時代後期、国分寺の衰退により僧侶が当社で奉仕したこともあって、神仏習合の両部神道となり愛宕権現(あたごごんげん)とも呼ばれた。
結果、境内東北の山上は干山(ひやま)呼ばれ、坊舎の東本坊、西本坊があったという。

江戸時代、亀山藩主松平家の当社への崇敬厚く、毎年弊帛(へいはく)を供進していた。

1977年、神殿は国の重要文化財に指定されている。

しっかりとした歴史を持っている社(やしろ)であった。


e0237645_11363241.jpg


e0237645_11364350.jpg


e0237645_11365972.jpg


e0237645_113718100.jpg


e0237645_1137328.jpg


境内にある八幡宮は、天平年間に宇佐八幡宮から分霊して国分寺境内に祀っていたものを、国分寺の衰退とともに、西紀1835年にこの地に遷して奉祭することになったものだ。

e0237645_10274462.jpg


e0237645_11374841.jpg


e0237645_11381261.jpg


e0237645_11382680.jpg


*こぼれ話・・・
歴史好きな私の感想としては、
この愛宕(おたぎ)地区は古文書を見ても(京都歴史資料館)神社の祭神をみても、出雲とのゆかりが顔を出している。
極めつけが、出雲大神宮(丹波一之宮)であろう。
社伝によると、島根の出雲大社はここからの遷宮と伝えられている。
その頃、出雲大社は「杵築大社(きづきたいしゃ)」呼ばれていたようで、明治になって初めて「出雲大社」と呼ぶようになったようだ。

しかし、この愛宕神社は大和政権の誕生から、大神(おおみわ)神社や伊勢神宮もそうであるように徐々に出雲色を薄める動きが続いたようで、祭神も天照大神の流れが主体になってくるようになったのではないかと思われてくる。
これにまつわる裏話として、
伊勢神宮は内宮に天照大神、外宮に豊受大神を祀っているが、元伊勢の神社は「籠神社(丹後一の宮)」で遷宮当時は、現奥の宮の「真名井神社」であったが、ここは元々磐座(いわくら)信仰で今でもそのながれで御神体は山そのものになっているが、祭神は豊受大神であった。
伊勢神宮の外宮の説明では、豊受大神は「食の神様」となっているが、一時期疫病などがはやり、それが元伊勢の神様(豊受大神)を祀っていないからだと云う御神託により、外宮に豊受大神を祀ったいきさつがあったように聞こえています。
「元XX」とあるのは後世に言われ始めたもので、当時はそれを口にするとそれこそ出雲族のように弾圧対象になったと思われる。
出雲神話も多少レジスタンスはあるが、やはり日本書記のゆがめられた日本古代史感の影響からは抜け出せないものがあったような気がしている。





この項 <完>

by mo-taku3 | 2015-08-26 12:07 | (寺社)京都の神社仏閣 | Comments(2)

『北野天満宮』は梅干しに囲まれた本殿20150826

『北野天満宮』は梅干しに囲まれた本殿20150826


北野天満宮は菅原道真を祀った神社で、北野の天神さん(てんじんさん)として知られています。
菅原道真は学問の神さまとしても知られ、受験生などの祈願、絵馬の奉納が絶えません。福岡の太宰府天満宮とともに天神信仰の中心となっています。
北野天満宮では毎月25日に天神さんと呼ばれる市が催されます。特に梅が咲き誇る2月25日は梅花祭といわれるお祭りがあり、上七軒の芸妓さんによる野点も行われます。

創建は、天暦元年(947年) です。
主祭神は勿論菅原道真公 です。

北野天満宮の主祭神である菅原道真が太宰府左遷の時に詠んだ有名な歌があります。
道真の和歌

  「東風(こち)吹かば 匂い起こせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ」

その梅が主である道真を慕って、一晩のうちに太宰府に飛んでいったという「飛梅伝説」が生じました。
この伝説により北野天満宮の神紋には梅があしらわれています。
北野天満宮には50種約2000本の梅が植えられ、2月初旬から3月末までは梅苑(有料)も公開されます。梅の香りに誘われるように梅の季節には大勢の参拝客が訪れます。

楼門
「三の鳥居」の北側に堂々とした造りの「楼門」が建っている。
※現在梅園の一部を削って「会館」を建設中である。

e0237645_14555921.jpg


e0237645_14561067.jpg


e0237645_14562160.jpg



三光門(中門)
「楼門」をくぐり参道を奥に進むと、「三光門(中門)」に着く。
現存の「三光門」は、慶長12年(1607年)に豊臣秀吉の遺命に基づき、豊臣秀頼の寄進によって建てられたものとされている。
「三光門」には見事な彫刻が数多く施されている。直下左の写真は門の通路の上中央にある彫刻である。
また、「三光門」に掲げられている『天満宮』と書かれた額は後西天皇の筆になる勅額であるといわれている。
「三光門」は重要文化財に指定されている。


e0237645_14565176.jpg


拝殿
「三光門」の奥に中庭があり、その奥に「拝殿」が建てられている。
拝殿の正面向かって左側には桜、右側には松が植えられている。 
「拝殿」の正面近景である。よくみるとかなり派手な感じに造られているが、拝殿前に立つと厳粛さのほうが勝っており、一寸目には派手さが隠されてしまう。
現存の「拝殿」及び後述の「本殿」等の社殿は慶長12年(1607年)豊臣秀吉の遺命に基づき豊臣秀頼が片桐且元を奉行として造営したものといわれている。
「拝殿」は国宝に指定されている。

e0237645_1457457.jpg


この拝殿の前には毎年恒例の梅干しが行われていた。
境内で収穫された梅の量は半端なく多い。

e0237645_14572894.jpg


e0237645_14592075.jpg


e0237645_151973.jpg


本殿の西側には京都の街を守るために秀吉が造らせた『御土居跡』があるが、今は遊歩道として境内の庭園の組み込まれている。

e0237645_1512139.jpg


楼門の内側で神官が枯葉を集めているのが、白く眩しく印象的だった。

e0237645_1522942.jpg


会館工事中の梅園である。

e0237645_1532899.jpg



※北野天満宮には牛の像がたくさんあります。
牛は天満宮では神使(祭神の使者)とされているからですが、その理由は次のように言われています。
牛が神使となった理由
1.道真の生まれた年が丑年
2.道真が亡くなったのが丑の月の丑の日
3.道真は牛に乗り大宰府へ下った
4.牛が刺客から道真を守った
5.道真の墓(太宰府天満宮)の場所を牛が決めた
どの説も伝承なので真偽のほどはわかりません。ただ、4番の「牛が刺客から道真を守った」という話は、護王神社の和気清麻呂の猪伝説に通じる話です。




この項 <完>

by mo-taku3 | 2015-08-26 10:50 | (紹介記事)京都 | Comments(2)

明智光秀首塚がある『谷性寺(亀岡市)』20150826

明智光秀首塚がある『谷性寺(亀岡市)』20150826


谷性寺の創建は平安時代と伝えられているが、鎌倉時代ともいわれておりこのあたり明確ではないと思われる。明智光秀が天正3年(1575年)に始めて丹波の地に入って以来、当寺の本尊不動明王を崇敬し、本能寺の変を決意した際は、不動明王に誓願し将兵はその加護を受け本懐を遂げたとされている。
谷性寺は別称で『光秀寺』といわれるほど明智光秀との関係は深い。

中央に入り口に当たる山門が見え、その奥にわずかに赤い屋根の見えている建物が本堂である。寺の規模は大きくない。
参道入り口左側に上述した寺名を彫った石の標識が見える。

e0237645_1141767.jpg


参道を上がりきったところにある「山門」で、この奥に「本堂」がある。
e0237645_11411822.jpg


本堂は赤い屋根の建物で、この写真ではよく分からないが、その造りはおよそ寺らしくなく一般の民家のようである。

e0237645_11421997.jpg


掲示板には、別名「桔梗寺」との説明がある。

e0237645_11424057.jpg


「本堂」に向かって左側に「光秀公首塚」がある。
明智光秀が豊臣秀吉の軍に山﨑の戦いに敗れ、坂本城に向かう途中、天正10年(1582年)6月に山科小栗栖で民衆に襲われ殺された。
溝尾庄兵衛は光秀の首を隠しておき、後に光秀が生前に信仰していた本寺に運び懇ろに埋め葬ったといわれている。
「光秀公首塚」の石碑は安政2年(1855年)に建てられたとされており、光秀が殺されてから270年余りの年月が経過している。この首塚は光秀の怨念を鎮めるために建てられたとされている。

e0237645_1143860.jpg


e0237645_11432248.jpg


何ゆえかわからないがえびすさんがいた。

e0237645_11434536.jpg


狸の像が三体置かれている。頭のリボンがかわいい。

e0237645_11442685.jpg






この項 <完>

by mo-taku3 | 2015-08-26 10:24 | (寺社)京都の神社仏閣 | Comments(2)

京都郊外(亀岡市の)田園風景20150826

京都郊外(亀岡市の)田園風景20150826


京都の郊外に亀岡市があるが、ここは明智光秀の亀岡城があったところであり関係も深いところである。
更に亀岡市の郊外は穀倉地帯でもあり、この時期稲穂も黄いばんできている。

この日は前日からの雨もやみ透き通るようなそれには、雲の塊がぽかぽか浮いてのどかな風景がみられる。
多分コサギだと思うが、トンビの威嚇?の泣き声に驚いて、飛び上がったり降りたりを繰り返していた。

e0237645_16554169.jpg


e0237645_16555414.jpg


e0237645_1656728.jpg


e0237645_16561763.jpg






この項 <完>

by mo-taku3 | 2015-08-26 10:17 | (紹介記事)京都 | Comments(1)

赤い水草で真っ赤な「荒池」(奈良)20150818

赤い水草で真っ赤な「荒池」(奈良)20150818


奈良春日大社の一の鳥居から坂を下りてくると、道を挟んで両側に広がる「荒池」というのがあります。
先日この池が真っ赤な水草に覆われたという報道を目にして、ここ荒池に立ち寄ってみた。

さすがに現物を目にして唖然とするぐらい池一面が赤く覆われていたのにはびっくり。
非常に珍しい現象ではあるが、10年位前にもこのような状態が見られたとのことであった。
ちなみに近くに猿沢の池などがあるが、そちらはこのような現象は見当たらなかった。

e0237645_1745394.jpg


e0237645_1751068.jpg


e0237645_1763030.jpg


e0237645_177164.jpg


e0237645_1771891.jpg



e0237645_1772971.jpg


e0237645_1774135.jpg


e0237645_1775892.jpg






この項 <完>

by mo-taku3 | 2015-08-18 15:15 | (紹介記事)関西 | Comments(1)

奈良の観光名所を散策20150818

奈良の観光名所を散策20150818


8月18日晴天なりの炎天下で、奈良の散策をしてきた。
興福寺・春日大社・奈良公園がメインの散策として、その間に目にとまった幾つかの観光名所?というより観光ポイントを紹介したい。

春日大社の参道の途中に万葉植物園がある。
今回は花のいい季節ではないと思いパスしたが、直ぐ横にスウィーツ何処ろがあり、ついつい寄ってしまった。

e0237645_1710844.jpg


e0237645_17102096.jpg


ここは名門「奈良ホテル」。寄らず。

e0237645_1710559.jpg


大乗院庭園。庭園は無料です。

e0237645_1711654.jpg


e0237645_17111712.jpg


e0237645_1711316.jpg


猿沢の池と直ぐ横の采女神社。

e0237645_17114213.jpg


e0237645_17115670.jpg






この項 <完>

by mo-taku3 | 2015-08-18 15:04 | (紹介記事)関西 | Comments(2)

鹿も暑がる真夏の「奈良公園」20150818

鹿も暑がる真夏の「奈良公園」20150818


この日(8月18日)も暑い日だった。ん?37℃とのこと。

興福寺何円堂に西国札所の御朱印をもらうのを目的に出かけてみたが、暑さは尋常ではない。しかし、来た以上はと思い、お参りを済ませた後春日大社に向かうことにした。
その途中にあるのが奈良公園である。
この日は暑さのせいか鹿の数も少ないようにおもえる。またこかげでやすんでるのもけっこうみられた。
このように人出も少ないせいかシカせんべいに群がっていた。

この風景は素晴らしい風物詩である。

e0237645_17491686.jpg


e0237645_17492872.jpg


e0237645_17493913.jpg


e0237645_17495472.jpg


e0237645_17501357.jpg



e0237645_17502366.jpg


e0237645_17503812.jpg


e0237645_17505782.jpg






この項 <完>

by mo-taku3 | 2015-08-18 14:35 | (紹介記事)関西 | Comments(2)