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西本願寺の二つの【大銀杏】の紅葉20151205

西本願寺の二つの【大銀杏】の紅葉20151205


京都駅から北を見ると正面の烏丸通に東本願寺、左に七条通りを10分程度進むと西本願寺がある。
お寺にかかわらず、神社もそうであるが、クスノキと銀杏の木はよく見るパターンのような気がする。

調べてみると、クスノキは天然防虫剤(樟脳(しょうのう))の原料で虫除けになること。銀杏は精進料理の食料として使うのかもしれない。

さて、西本願寺の大銀杏は見るが如く素晴らしいの一言ではないかと思う。
特に低く横に這わせている銀杏は否が応でも目に焼きつく感じである。
写真に入れるには結構離れなければ全体が入らない。しかし傍で見ると歴史を感じさせるこぼくであり、その枝ぶりの素晴らしさがわかる。
ご覧ください。

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横銀杏のほぼ全景だが、前に写っている人と比べてみていただくときぼがお分かりになると思う。

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御影堂門の横にもかなり大きな銀杏がある。

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滴翠園の中にある立派な鐘楼があり、その奥には飛雲閣(国宝)がある。

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阿弥陀堂の前には、もうひとつまっすぐ上に伸びた大銀杏そびえる感じである。
落ち葉の絨毯も厚さある。

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境内の南側には京都の三大唐門(国宝)の一つがある。

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境内の南側は北小路通りと云って同じ真宗興正寺との間のとおりであり、大宮通りまで続いている。

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龍谷大学の校舎。甲子園で有名な平安高校はこの大学の付属高校である。

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この項 <完>

by mo-taku3 | 2015-12-05 16:13 | Comments(2)

久坂玄瑞や新撰組も通った【島原遊郭】20151205

久坂玄瑞や新撰組も通った島原遊郭20151205


京都の遊郭は「五花街」といって、祇園甲部・宮川町・先斗町・祇園東そして少し離れた北野に上七軒があるが、これらは街道筋の茶屋が起源の花街であると云われている。

しかし、江戸時代歌舞伎や浮世絵、読み物に出てくる花街は殆どがこの「島原遊郭」であり、幕末の維新の志士や新撰組、古くは忠臣蔵などが通ったことで有名である。

島原(嶋原;しまばら)とは、
京都市下京区に位置する花街である。
正式名称は西新屋敷で6つの町(上之町、中之町、中堂寺町、太夫町、下之町、揚屋町)で構成されている。室町時代に公許された日本で最初の郭(くるわ)が三度の移転を経て嶋原と呼ばれるようになった。
しかし、昭和時代後期に衰退し、京都花街組合連合会を脱会したため「京都の五花街」には含まれていない。

この有名な花街は、今でも細々と?続けられているようだが、この地区にある花街としての名残を残すものとして幾つが紹介したい。

まず、島原の入り口にある「大門」である。
わが国最古の公許遊廊島原の正門で、花屋町通にある。
一間幅、本瓦ぶき、切妻の高麗門で、門をくぐると往時は通りの左右に格子造りの古い揚屋、置屋が整然と並んでいたという。
門前に通称「出口の柳」「さらば垣」、門前の道筋には、「思案橋」と粋に名づけられた橋もあった。
京都市指定建造物。

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大門の前には島原伝統保存会による石板に書かれた説明があった。
(このような説明板はあちこちに建てられており、島原を知る上で非常に有効である。

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この「輪違屋」は島原の置屋兼お茶屋で現在も営業を続けている。
創業は元禄元年(1688年)、置屋として始まり、お茶屋兼業は明治5年(1872年)よりとある。
かつては芸妓等も抱えていたが、現在は太夫のみを抱え、太夫の教育の場であり、また、宴席の場として営まれている。
表に「観覧謝絶」の札が架かっているこれはいわゆる「一見さんおことわり」の店ということである。
現在の建物は安政4年(1857年)に再建されたものであり、明治4年(1871年)にほぼ現在の姿となったということである。

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角屋(すみや)は、もと京都・島原花街で営業していた揚屋(料亭・饗宴施設)である。
明治5年(1872年)まで営業した後、お茶屋に編入された。
幕末には久坂玄瑞、西郷隆盛などの勤王の志士が密議を交わしたり、豪商からの資金調達のために接待に使用されていた。
また、新選組もここでの遊興を楽しんだ。特に芹沢鴨との関わり合いは深く、文久3年(1863年)6月ここで暴挙をはたらき、その際に出来た刀傷が今でも残っている。
また、角屋の前には「長州藩士久坂玄瑞の密議の角屋」、「新撰組刀傷の角屋」の石碑が建てられている。

平成元年(1989年)より1日30人限定で内部を公開しており[2]が、平成10年(1998年)4月には「角屋もてなしの文化美術館」が開館し、一般に公開されている。

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東鴻臚館址(とうこうろかんあと)
平安時代、京の中央を南北に朱雀大路が貫き、その七条以北の東西にふたつの鴻臚館が設けられていたが、この島原付近は東鴻臚館址にあたる。当時この館を利用したのは、唐ではなく、渤海国の使節に限られた。

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島原住吉神社。
島原の鎮守の神として崇められ、例祭とともに、太夫・芸妓等の仮装行列である「練りもの」が盛大に行われていたという。
もとは島原大銀杏を含む大きな境内だったようだ。

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樹高(20m)、幹周り(3.5m)ともに樹齢300年相応の島原一の巨木となっている。

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*京都の五花街とは
【上七軒】
京都市上京区真盛町から社家長屋町に位置する。 室町時代に北野天満宮の再建の際に残った機材を使って7軒の茶店を建てた。これが「上七軒」の由来で、桃山時代に豊臣秀吉が北野で大茶会を開いた折に茶店側は団子を献上したところ大いに誉められて以来、また西陣の結びつきで花街としての繁栄を極める。毎年春になると『北野をどり』が上演されて少数ながらにして良い技芸を磨き披露している。

【祇園甲部】
京都で最大の花街で日本国内のみならず海外でも知られている。江戸時代初期に八坂神社の門前で水茶屋を営業したのが始まりで以後、花街として発展し正式に許可された。このときに団子をモチーフにした紋章が作られ、現在も祇園甲部と祇園東の紋章として使われている。江戸末期にはお茶屋が500軒、芸妓、舞妓、娼妓合わせて1000人以上いたという。明治5年、東京奠都で寂れかけた京都を立て直そうと槇村正直が博覧会の余興として都をどりが上演された。振り付けの担当が三世井上八千代(本名 片山春子)が務めた。以後、祇園の舞は井上流一筋となる。祇園は多くの歌人や政治家等の著名人たちによって愛された。

【祇園東】
京都市東山区、四条花見小路上る東側に位置する花街。明治に入り祇園甲部から分離独立し、甲部に対し『祇園乙部』と称された。乙部は主に娼妓数が多かった。

【先斗町】
京都市中京区に位置し、鴨川と木屋町通の間にある花街。もともとは鴨川の州で、江戸時代初期に護岸工事で埋立てられ、新河原町通と呼ばれていた。江戸初期、鴨川の周辺を開発し、そこに茶屋、旅籠などが置かれたのが始まりで、すでに芸妓、娼妓が居住するようになり何度も取り締れていたが、川端二条にあった『二条新地』(にじょうしんち)の出稼ぎ地として認められ、明治初期に独立をした。

【宮川町】
京都市東山区に位置しており、宮川筋二丁目から六丁目までが花街。出雲阿国の歌舞伎踊りの時代から始まり、最初は若衆歌舞伎の小屋と茶屋が立ち並び10代の少年が接待をしていたので「陰間」と呼ばれていた花街だった。その後形態が変わり宝暦年間、正式に認可された。明治、大正、昭和33年3月15日の売春防止法施行までは遊廓であり、今でも遊廓時代の建物が残っている。






この項 <完>

by mo-taku3 | 2015-12-05 14:43 | (歴史)京都史 | Comments(2)

平安遷都1200年記念して作られた【梅小路公園】20151205

平安遷都1200年記念して作られた【梅小路公園】20151205


梅小路公園は京都駅の西、大宮通りに隣接する京都市営の総合公園です。
1990年(平成2年)3月に移転した日本貨物鉄道(JR貨物)梅小路駅(現在の京都貨物駅)の跡地に、平安遷都1200年を記念して作られ、面積117,133m²、1995年(平成7年)4月29日に開園しました。
公園には、芝生広場、中央広場、いのちの森、朱雀の庭、緑の館、すざくゆめ広場、市電ひろばなどの施設があり、広大な敷地が各種行事(緑化フェア、サーカス、京都音楽博覧会など)に利用されることもある。
また、週末には朱雀ゆめ広場と市電ひろばの間を結ぶ線路で明治時代の京都市電の車両の保存運転が行われている。
この公園の南部は平清盛の広大な邸宅西八条第に位置していたそうです。
同じこの敷地にある「若一神社」は更に公園の西にある。

2012年(平成24年)3月14日に開業した内陸型水族館であり、日本初の完全な人工海水利用型水族館で、JR線から、タイミングがあえばアシカショーが見られることがあるそうです。

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公園は丁度紅葉の終わりに近づいた時期で、それでも鮮やかな紅葉がまだ残っていた。

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この広場の奥(南側)の紅葉の森は「いのちの森」といい、老若男女を問わずの散歩道となっている。

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朱雀の森の出口の近辺も紅葉一色でした。

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この項 <完>

by mo-taku3 | 2015-12-05 13:50 | Comments(2)

昔の面影を伝える梅小路公園のチンチン電車20151205

昔の面影を伝える梅小路公園のチンチン電車20151205


広大な梅小路公園には幾つかの施設がある。
このチンチン電車もその一つである。

東側から公園に入ると直ぐにチョット新しいチンチン電車が置いてあり、ここは観光案内所となっている。

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暫く歩くと右手に「電車ショップ」、「電車カフェ」と書かれた車両があり、表示の通りの機能を持っているようだ。

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そのすぐ先には250mの距離を走ってくれる「初期型のチンチン電車」が客待ちをしていた。
小さな子供たちには大人気のようで、次から次に乗りこんでいく。

このチンチン電車は、昭和36年に廃止された堀川線(北野~京都駅間)の車両を使っているとのことで、位置に乗車券が300円、片道乗車券は150円となっている。
何度も何度も載ってはしゃいでいる子供が沢山いる。
乗り場には車掌さんが切符を切ってくれる。

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電車が動き出した。運転手の方も何となく誇らしげにみえる。

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この項 <完>

by mo-taku3 | 2015-12-05 13:13 | (紹介記事)京都 | Comments(2)

京都【梅小路公園緑の館・朱雀の庭】の紅葉20151205

京都梅小路公園緑の館・朱雀の庭】の紅葉20151205


梅小路公園は、京都駅から西へ徒歩約20分にあります。
ここは緑と花で憩える空間として作られ、また災害時には避難場所として、1995(平成7)年から開園しています。面積約13.7haの都市公園です。
公園内には、広々とした「芝生広場」、賑わいのあるイベントが開催される「七条入口広場」、などがあり、有料施設として、建都1200年記念の日本庭園「朱雀の庭」や、自然がいっぱいのビオトープ「いのちの森」、昔懐かしい「チンチン電車」、 レストランや貸室(和室・茶室・イベント室)のある「緑の館」があります。
また、2012年3月に、京都市では初の本格的な水族館「京都水族館」がオープンしました。
公園の隣には、蒸気機関車のことならなんでもわかる「JR梅小路蒸気機関車館」(2015年8月30日閉館)があましたが、 旧「ふれあいひろば」部分と合わせ、2016年春京都鉄道博物館に生まれ変わる予定のようです。

緑の館は「庭園の上部に屋根をかけた空間」をイメージしてつくられています。
平安遷都1200年を記念してつくられた「朱雀の庭」と一体となっております。
2階が朱雀の庭・いのちの森への入り口となっています。

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二階に上がると直ぐに眼下に朱雀の森を見ることができます。

丁度紅葉で庭を引き立たせていました。

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一階にはレストランがあり、京野菜などの菜食がならんでおりました。

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この項 <完>

by mo-taku3 | 2015-12-05 12:57 | Comments(2)

この時期訪れる人の少ない落着いた【東本願寺】20151205

この時期訪れる人の少ない落着いた【東本願寺】20151205


12月初旬のこの時期、特に大きなイベントがないらしく、参詣者がいつもより少なくゆっくりお参りすることができました。
また、ここ数年行われている改装工事も終わりに近付いているようで正門も素晴らしい姿を現していた。
もう少しで出来上がりそうです。

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御影堂(みえどう)にはいつもよりかなり少ない参詣者です。
お参りするには絶好で、落ち着いていれそうです。

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慶田の北の方角に京都タワーが望める。

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東本願寺の南側のお濠には夏にはハスをきれいにさせている。
今はこんな状態である。

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この項 <完>

by mo-taku3 | 2015-12-05 12:30 | Comments(0)

私のルーツ先祖の戸籍探しの旅;東京根岸20151203

私のルーツ先祖の戸籍探しの旅;東京根岸20151203



私は北海道札幌市の生まれ育ちですが、母方は屯田兵で広島(芸州浅野藩)から明治の初めに約2,000名で移住してきて、札幌の郊外(現北広島市)に入植したと聞いています。
しかし父方は詳しい話を聞かずになってました。
父親は公共放送に就職し、東京から広島村の電波受信所に転勤となったそうです。
母方は上級士族なことは明確でしたが、父からはどうも下級武士だったらしく、母方の本家筋から結婚にクレームがあったという話を聞き伝わっています。
父方は曽祖父がイギリス人の商社に勤め、ペルーに数年派遣され帰国してから貿易商として独立したと聞いています。
以前父親が所有していた写真には海外での曽祖父の軌跡が残っておりました。
例えば、サンフランシスコやロンドンでの山高帽をかぶった写真やロシアのニコライ2世が未だ皇太子だった頃、その家族と一緒に写った写真などが残されていました。
しかし、今はこの写真が所在不明となっています。兄弟の誰かがもっていてくれるといいんですが…。

さて、前置きが長くなりましたが、東京時代の軌跡とし記憶にあったのは本籍地ですが、旧住所表示だったため現在の住所は何処かを台東区役所に確認して場所が特定できました。

特定した住所に行ってみると、残念ながら全く手がかりになるものは見当たらず、別な手段が必要になってきていますが、今後の手がかりなりそうなことも見つけましたので今後それを追ってみようかと思っています。

この写真先にJR鴬谷の北口があります。

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歩道橋から見た、「言問通り」。
右手が根岸小学校で次の機会に尋ねてみようと思う。(父親の軌跡があるような気がする)
先を左に曲がるとこれは新しい道で、新王子通り。

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しかし、曲がって直ぐの所に二股があり、左手の細めの道が旧?王子通りである。

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この辺りは、上根岸と云ったようで、また正岡子規と縁の深いところのようである。
(同じ根岸二丁目に「子規庵」が今でも保存されている。)
このような、正岡子規の詩があちこちに見られる。

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この一角の奥の方が私の本籍地にあたり、聞き伝えによると大きな屋敷があったと云うことのようです。

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左手をみてもマンションばかりである。
聞いたところによるとこのあたりは何度か建て替えられ、今はマンションになっているとのことであった。

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このように古い家もあるようだが、勇気がなくて聞けずじまいだった。

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本籍地の東側はこんな感じでした。

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ここは少し日暮里寄りにある、善性寺です。
ここ善性寺は荒川区東日暮里になり(日蓮宗)のお寺です。
寛文4年六代将軍徳川家宣の生母長昌院が葬られて以来、将軍家ゆかりの寺となり ました.

当家も日蓮宗なので、100mと近い日蓮宗のお寺との関係があったやもしれず、写真を写してきました。

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この王子街道沿いに、文政二年(1819年)創業の「羽二重団子」という老舗が今でも元気に操業してました。
このお店に入ると昔に戻ったような古い作りのままで、なんか懐かしい感じがしました。
ここでは羽二重団子の抹茶セットを食べましたが、醤油の団子は抜群に美味しかったです。
こんどもぜひ食べたいと思わせるものでした。

ここに寄ったのは、やはり100m圏内ということと、このおいしいお団子は近所でも評判のようだったろうということから、何か情報はとはという思いからでした。

ここには間違いなく先祖が通ってきていたのではないかと確信しました。

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ここにも正岡子規と関係ある詩が説明されていました。

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*今回は本籍地の旧住所が新住所としてはっきりしたことが一番の収穫で、また近辺の様子も分かり、次は 小学校、善性寺、羽二重団子などです。
 また、区役所にも行き古い地図を探して屋敷の平面図でも見つけられたら云うことがないとおもっております が。いつまた行けることやら・・・。




この項 <完>

by mo-taku3 | 2015-12-03 15:35 | 個人関係情報 | Comments(2)