大阪城の梅林を見た帰り、梅田まで歩くことにした。
大阪城の西側の多聞櫓をぬけたところが大手門で、そこを抜けて西への道を進むと府庁の一角に行きあたる。

その辺りの道端に大阪英語学校跡の石碑が建っていた。
読んでみると面白い発見があった。
一口に言うと旧三高(現京都大学)の前身にあたるという。
文献を調べてみると紆余曲折があったにせよ間違いはなさそうだ。
文献にはこのように書かれている、
「大阪洋学校(明治2年)と大阪理学校(大阪舎密局の後身)とから「大阪開成所」が設立された。
その後「第四大学区第一番中学」、官立外国語学校の一つである「開明学校」に転換され、通訳養成および高等教育機関進学の課程を担うことになった。
更に「大阪外国語学校」と改称そして、「大阪英語学校」と再改称した。
それがこの石碑にある大阪英語学校のようである。
大阪英語学校は大阪専門学校となり、官立大阪中学校(1880年)、大学分校(1885年)と改編を重ね、1886年第三高等中学校(1894年に第三高等学校と改称)となったわけである。
(それでもここに書ききれない部分はある)
ここにある第三高等学校が、いわゆる三高で京都大学の前身と云われているものであるが、そんな単純な話でもない。
京都帝国大学が設立された時、三高は京都帝大に校舎と設備を譲り、南側の隣接地域(二本松、現:京都大学吉田南構内)を京都府から寄贈されて校舎を新設している。(このときは未だ三高として存続)
その後、学制改革に伴い、京都大学に包括され、一般教養を担当する分校となる。
京都大学分校はその後京都大学教養部(と改称され)を経て総合人間学部となったわけである。」
一つの石碑から紐とくとこのような歴史が見えてくる。
今度機会があれば、一高も調べてみたいと思う。


谷町通りを歩いていると、桐も門が目立つお寺「欣浄寺」があったので足を止めてみた。
秀吉にゆかりがあるのではなく、徳川幕府の命でここに移ってきたらしい。
玉日姫像があり(大阪府指定文化財;昭和50年3月31日指定) 玉日姫は宗祖親鸞聖人の室とのこと。(桃山時代)


「将棊島粗朶水制跡(しょうぎじま そだ すいせい あと)碑」
漢字が難しすぎるが、石碑には、
『将棊島は、淀川の水が寝屋川・鯰江川に逆流して水害を引き起こすのを防ぐために、三つの河川の合流点の網島から天満橋を越えて236間(約430m)余り下流まで築かれた隔流堤で、幅7間(約13m)あった。
淀川治水のため、明治6年(1873年)に来日したオランダ人技師デ・レーケ、エッシェル、ティッセンの3人は、その翌年、将棊島地先にオランダ式の粗朶沈床による水制工を実施した。これは木の枝を束ね、組み合わせたものに石を詰め、河岸から河の中央に向かって設置された突起物で、水の勢いを弱め、護岸に効果があった。この工法はケレップ水制とも呼ばれ、現在でも城北公園北側の淀川左岸にその名残を留める。デ・レーケは来日してから29年間、大阪にとどまり、淀川の治水と大阪湾の建設に尽力した。』 大阪教育委員会。
要約すると、大川が氾濫する原因となっている、寝屋川、鯰江川と大川が合流するあたりの水をコントロール工事を行なった、ということですな。*




「淀川三十石船舟唄碑」などの石碑がある。

「天満子守唄」の碑。

ライオン橋で親しまれている「なにわ橋」。

*将棊島粗朶水制跡 のこぼれ話。
今とは地形が違っているので、わかりにくいのだけれども、寝屋川、鯰江川と大川が合流するあたりには、備前島と将棊島という、堤のように突き出た陸地があったようで、突堤になる以前は、どちらも独立した中州だったということです。
そこに、櫛みたいなものを陸地から延ばしていくことで、水流を弱め、氾濫しないようにする工法だそうです。
この櫛みたいなのが、「粗朶」(そだ)と言うそうです。
「粗朶」とは木の枝を束ね、組み合わせたものに石を詰め、河岸から河の中央に向かって設置された突起物のことです。
これを発明したのがオランダ人で、明治の初め、デ・レーケさんら3人のオランダ人技師たちが、日本に来て伝えてくれたそうです。
オランダと言えば、低地の改良に明け暮れたところです。そのため、こういう技術が発達したようです。
この項 <完>
▲ by mo-taku3 | 2016-02-27 15:18 | (紹介記事)関西 | Comments(2)


























































































