大阪市内をぶらり散策20160227

大阪市内をぶらり散策20160227


大阪城の梅林を見た帰り、梅田まで歩くことにした。

大阪城の西側の多聞櫓をぬけたところが大手門で、そこを抜けて西への道を進むと府庁の一角に行きあたる。


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その辺りの道端に大阪英語学校跡の石碑が建っていた。
読んでみると面白い発見があった。
一口に言うと旧三高(現京都大学)の前身にあたるという。
文献を調べてみると紆余曲折があったにせよ間違いはなさそうだ。

文献にはこのように書かれている、
「大阪洋学校(明治2年)と大阪理学校(大阪舎密局の後身)とから「大阪開成所」が設立された。
その後「第四大学区第一番中学」、官立外国語学校の一つである「開明学校」に転換され、通訳養成および高等教育機関進学の課程を担うことになった。
更に「大阪外国語学校」と改称そして、「大阪英語学校」と再改称した。
それがこの石碑にある大阪英語学校のようである。

大阪英語学校は大阪専門学校となり、官立大阪中学校(1880年)、大学分校(1885年)と改編を重ね、1886年第三高等中学校(1894年に第三高等学校と改称)となったわけである。
(それでもここに書ききれない部分はある)

ここにある第三高等学校が、いわゆる三高で京都大学の前身と云われているものであるが、そんな単純な話でもない。
京都帝国大学が設立された時、三高は京都帝大に校舎と設備を譲り、南側の隣接地域(二本松、現:京都大学吉田南構内)を京都府から寄贈されて校舎を新設している。(このときは未だ三高として存続)
その後、学制改革に伴い、京都大学に包括され、一般教養を担当する分校となる。
京都大学分校はその後京都大学教養部(と改称され)を経て総合人間学部となったわけである。」

一つの石碑から紐とくとこのような歴史が見えてくる。
今度機会があれば、一高も調べてみたいと思う。

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谷町通りを歩いていると、桐も門が目立つお寺「欣浄寺」があったので足を止めてみた。
秀吉にゆかりがあるのではなく、徳川幕府の命でここに移ってきたらしい。
玉日姫像があり(大阪府指定文化財;昭和50年3月31日指定) 玉日姫は宗祖親鸞聖人の室とのこと。(桃山時代)

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「将棊島粗朶水制跡(しょうぎじま そだ すいせい あと)碑」
漢字が難しすぎるが、石碑には、
『将棊島は、淀川の水が寝屋川・鯰江川に逆流して水害を引き起こすのを防ぐために、三つの河川の合流点の網島から天満橋を越えて236間(約430m)余り下流まで築かれた隔流堤で、幅7間(約13m)あった。
淀川治水のため、明治6年(1873年)に来日したオランダ人技師デ・レーケ、エッシェル、ティッセンの3人は、その翌年、将棊島地先にオランダ式の粗朶沈床による水制工を実施した。これは木の枝を束ね、組み合わせたものに石を詰め、河岸から河の中央に向かって設置された突起物で、水の勢いを弱め、護岸に効果があった。この工法はケレップ水制とも呼ばれ、現在でも城北公園北側の淀川左岸にその名残を留める。デ・レーケは来日してから29年間、大阪にとどまり、淀川の治水と大阪湾の建設に尽力した。』 大阪教育委員会。

要約すると、大川が氾濫する原因となっている、寝屋川、鯰江川と大川が合流するあたりの水をコントロール工事を行なった、ということですな。


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「淀川三十石船舟唄碑」などの石碑がある。

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「天満子守唄」の碑。

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ライオン橋で親しまれている「なにわ橋」。

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将棊島粗朶水制跡 のこぼれ話。
今とは地形が違っているので、わかりにくいのだけれども、寝屋川、鯰江川と大川が合流するあたりには、備前島と将棊島という、堤のように突き出た陸地があったようで、突堤になる以前は、どちらも独立した中州だったということです。
そこに、櫛みたいなものを陸地から延ばしていくことで、水流を弱め、氾濫しないようにする工法だそうです。
この櫛みたいなのが、「粗朶」(そだ)と言うそうです。
「粗朶」とは木の枝を束ね、組み合わせたものに石を詰め、河岸から河の中央に向かって設置された突起物のことです。

これを発明したのがオランダ人で、明治の初め、デ・レーケさんら3人のオランダ人技師たちが、日本に来て伝えてくれたそうです。
オランダと言えば、低地の改良に明け暮れたところです。そのため、こういう技術が発達したようです。





この項 <完>

by mo-taku3 | 2016-02-27 15:18 | (紹介記事)関西 | Comments(2)

関西随一の種類を誇る『大阪城梅林』20160227

関西随一の種類を誇る『大阪城梅林20160227


JR大阪環状線「大阪城公園駅」からはすぐの所に大阪城公園があり、その奥の青屋門をくぐって左手に大阪城梅林があります。ここは大阪城の東側の庭園にあたり、梅林からは大阪城も眺められます。

この梅林の起源は比較的新しく、大阪万縛の2年後の1972年に大阪北野高校同窓会から、22種880本を寄贈されたのを機に1974年3月に開園されています。
現在では約100品種1200本以上を数える規模になっており、品種の豊富さでは関西随一の梅園と云われている。
大阪は大阪城の城下町として発達してますが、商才の秀吉のこと、また堺も近いことから天下の台所として大いに栄えました。
天下が徳川の時代に変わってからも大きくさびれることが無く大阪城を中心に栄え、その大阪の中心にある大阪城の規模に見合った大きなそしてあでやかな梅林が存在することが当たり前のことのように映ってきます。大阪の人もこの梅林を自慢するでもなく地震楽しんでいるようです。

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この項 <完>

by mo-taku3 | 2016-02-27 13:16 | (梅情報)全国 | Comments(2)

下鴨神社(御手洗祭り・輪橋と光琳の梅)20160217

下鴨神社(御手洗川・輪橋と光琳の梅)20160217


昨年10月に式年遷宮が行われました。
今回訪れてみると、平日ということもあるが訪れる人もまばらであった。
今回の目的の一つは「光琳の梅」で、行ってみると期待にたがわず満開の花を付けていた。
そして、この梅の傍には「足つけ神事」の御手洗池・川や「御手洗社」、輪橋(そりはし)等がある。

下鴨神社末社のひとつ御手洗社の例祭「みたらし祭」は「足つけ神事」とも呼ばれ、境内の御手洗池に足を浸したままろうそくを供え、無病息災を祈る神事が行われる。
また、安産にもご利益があるといわれている。

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輪橋(そりはし)。

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「光琳の梅」。
国宝の「紅白梅図屏風」は尾形光琳がこの梅を描いたといわれています。

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みたらし祭(御手洗祭)という神事が毎年7月(土用の丑の日)に行われる。
このみたらし祭は、かつて宮中などで季節の変わり目にけがれを祓う習慣があったものを、下鴨神社において御手洗池の清水に足を浸すかたちで受け継いでいるもの。
「足つけ神事」とも呼ばれ、参拝者は素足でここ御手洗池に入り献灯することで無病息災を祈る。

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普段はこのような静けさの中にある。

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この項 <完>

by mo-taku3 | 2016-02-17 14:42 | (風情)京都・関西 | Comments(2)

下鴨神社の糺の語源と木島神社の元糺とは20160217

下鴨神社のの語源、と木島神社の元糺とは20160217


糺の森
境内に自然遊園・糺(ただす)の森(国指定史跡)が広がっている。
清水の湧く森として、鴨川水源の神の地とされてきた。
湧水と切芝の森自体が磐座とされ、神の鎮まる地とされてきた。
平安時代には「神の游庭(かんあそひのゆにわ)」として、神と人との交感の場になった。
森は、古代山背原野にあった原生樹林と同じ植生がいまも見られる。

糺の語源として、
・「直澄」(ただす、清泉が涌く州)、
・「只州」(ただす、川の合流する三角州)、
・神の御座する地神が顕れる地(顕、たつ、出顕、たづ)、
・神が偽りを糺す地、
・蓼(たで)の群生地で蓼(たで)巣とする説、
・河合神社の祭神・玉依姫玉より「多々須」とする説などがある。
また「糺の森」は「河合(ただす)の森」ともいわれていたこともあるらしい。

「糺の森」という文が出てくるのは「新古今集」である。
京都の太秦木島坐天照御魂神社(蚕の社、木島神社)の境内には「元糺の池」「元糺の森」があり、下鴨神社との関わりがあるらしいが解明はされていない。

下賀茂神社では、「直澄」(ただす、清泉が涌く州)を採用しているようだ。
手水舎の説明書きによると、
御手洗は、ご祭神の神話伝承にちなむ「舟形磐座石」とあり、見事な手水受けとなっている。
また、糺の語源としては、「直澄」(ただす)とあり、清水の湧くところという意味が伝わっている。

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太秦に「木島神社(このしま)」というのがある。前述の木島坐天照御魂神社(蚕の社、木島神社)のことであるが、ここにはこのような珍しい「三角鳥居」がある。
この鳥居が建っているところが「糺の池」だが、これを「元糺の池」と呼ばれている。 さらにこの奥の方が「元糺の森」と呼ばれている。
下鴨神社の「糺の森」よりは先に会ったことは確かなようである。

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*秦氏の存在と時の権力者との関係から、色々な変遷を経て現在目にする文献や社伝などになってきているが、大化の改新以前の文献が殆ど存在しない中では、口承伝達・語り部などの内容を後世になって記述することになったが、肝心の権力者が介在する政治的な世界はいかようにも創作できる。
ということでこの件もそうであるが現在伝わっている歴史認証が全てただしいとは言い難いなかでも、あれこれ想像することが歴史ロマンとして素晴らしいことではないかと思われる。




この項 <完>

by mo-taku3 | 2016-02-17 14:18 | (歴史)京都史 | Comments(2)

「出雲井於神社」(下鴨神社摂社)20160217

「出雲井於神社」(下鴨神社摂社)20160217


もとの鎮座地を明らかになっていない。
出雲氏の衰微によって、いつ頃にか現在の地に移ったと伝えられている。古くは一乗寺村の西、比良木ノ森(柊森)にあつたとも言われている。
(祭神) 建速須佐乃男命

一説によると、相国寺東門の東、毘沙門町・毘沙門横町付近を当社の旧鎮座地と推定している。
また、本社である御祖神社が摂社たる比良木神の次位(式の順)に記載されている のは不思議である。摂社が本社よりも先に掲げられて式社となつている例はほとんどない。
ここにこの神社の不思議さがあるわけで、色々な資料・説を総合してみると、云えるのは、
・鴨社よりは以前に存在していたのではないか。
・鴨社は後から参入したのではないか。というのも奈良御所市に鴨社の総本社があり、そこから何かの政策で移され、出雲勢力を抑えにかかったのではないか。
・下鴨神社は上出雲寺跡といわれ、上御霊神社の辺りまで敷地があったとされている。
・下鴨神社の西側には出雲路橋があり出雲路という地名が残っている。出雲路橋の西岸は出雲郷と云われている。またこの道の延長線上には出雲神を祀る神社ばかりが目立つ。

ここで出雲族とはを考察してみたいと思う。
古事記・日本書紀以降は出雲は島根の出雲となっているが、それより以前には地名から見ると宇陀市・桜井市の出雲地区あたりから京都の北部・亀岡市にかけては出雲の軌跡が色濃く残っている。
また、出雲族の力士「野見宿禰(のみのすくね)」の出身は桜井市出雲が有力。
亀岡の出雲大神宮の社伝には、ここから出雲の大社に遷宮したとあり、元々現在の出雲大社は杵築神社と呼ばれていたという。

このようなことから、(私見ではあるが)出雲族は元々のやまとの先住民ではなかったかということが考えられる。それが新興勢力にどんどん追いやられていったのではないかと思われる。
まだまだ面白い不思議な話が沢山あるようだ。それらは別の機会に譲りたいと思う。
出雲神を祀る神社は全国に沢山分布されている。

ここに行く度にこの神社が気になってしょうがない。

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この項 <完>

by mo-taku3 | 2016-02-17 14:04 | (寺社)京都の神社仏閣 | Comments(3)

一時期隆盛を誇った【山科本願寺】とは20160210

一時期隆盛を誇った【山科本願寺】とは20160210


『山科本願寺』とは
現在浄土真宗山科本願寺の跡地には真宗本願寺派(西本願寺)と真宗大谷派(東本願寺)の山科別院が建っています。
山科本願寺は、本願寺第8世法主蓮如上人により建てられ、1483年に完成しました。

それに先立つこと約20年前、本願寺第8代宗主蓮如上人の時、1465(寛正6)年、京都東山・大谷本願寺(現知恩院のある場所)が比叡山の僧徒により破却され、ご開山親鸞聖人のご真影は大津・近松御坊にご避難することを余儀なくされていました。
蓮如上人64歳の時、1478年、近州・金森道西の願いにより、京都山科郷に坊舎を建てました。これが、山科本願寺のはじまりです。 
その後、1480年8月に御影堂が新築され、翌1481年6月には阿弥陀堂が完成、ここに松林山山科本願寺と号す本山本願寺が、歴史上にその姿を現したのでした。
山科本願寺は一説によれば、御影堂・阿弥陀堂を中心に43万坪ともいわれる広大な寺領を有し、その後第9代実如上人、さらに第10代証如上人と続いて諸堂宇が整備され、寺内町は足の踏み場も無く、お念仏の声絶えることも無いと言われるほどのにぎわいをみせました。

勢力が強まるにしたがって他宗派からの脅威を受けたため、周囲には堀と土塁を築いて、寺内町を形成していました。
しかし、1532年日蓮宗徒、比叡山僧徒が、六角定頼の兵とともに本願寺を襲撃、やがて御堂に火が放たれ、ついに華麗を極めた山科本願寺もことごとく灰尽に帰しています。
そのため、本願寺は蓮如上人が造営されていた大阪・石山本願寺(現在の大阪城)に移り、53年間に亘って隆盛を極めた山科本願寺は消滅しています。

その後、徳川幕府により本願寺派から大谷派(東本願寺)が新たに興されたため、2つの本願寺となり、従来の本願寺が本願寺派(西本願寺)、大谷派(東本願寺)として存在することになりました。
そのため、1732年、期を同じくしてそれぞれ山科別院を設立しています。
写真にある「本派本願寺山科別院」は本願寺派であり、「東御坊」は大谷派の山科別院として現在に至っています。

「東御坊」は大谷派の山科別院

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「本派本願寺山科別院」は本願寺派。

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蓮如上人の南殿址。

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仏光寺址の石碑が東御坊に近い所に建っていました。
この石碑は異常に大きなもので仏光寺の往時をしのぶものである。

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この項 <完>

by mo-taku3 | 2016-02-10 09:47 | (歴史)京都史 | Comments(2)

京都植物園②ランの花・乱舞20160206

京都植物園②ランの花・乱舞20160206


植物園の温室では、ランの展示及び即売会をやってました。
温室に入るとらんが満開でいたるところに展示し、咲き乱れておりました。
最近品評会があったらしく、この時期に合わせた階下のようで見た目のきれいな花に少し心を表われたような気がしました。
種類も豊富で、今回初めてみる花もかなりありました。
展示とは別に一つのコーナーには販売用の花も置かれていました。

一般コーナーの中にも沢山のランが咲き乱れていました。

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ここからがランの特別展示コーナーとなります。

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以下即売コーナーで、変わった品種のものもあり値段もお手頃のようです。

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この項 <完>

by mo-taku3 | 2016-02-06 11:30 | Comments(2)

京都植物園①の温室は別世界20160206

京都植物園①の温室は別世界20160206


今の時期緑と花が恋しくなる。
しかし、今は梅が咲き始め、椿が咲いているくらいだが、温室は別世界である。
花は勿論のこと、木々も青々として、何よりも気温が穏やかで豊富な花や木が楽しませてくれる。

それを求めて京都植物園にでかけてみた。
期待に違わず迎えてくれた感じである。

言葉よりも花木を楽しんでいただきたい。

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この項 <完>

by mo-taku3 | 2016-02-06 11:15 | Comments(2)

京都植物園④の桜の古木20160206

京都植物園④のの古木20160206


京都植物園の桜は、京都でも10指に入ると思う。
特に大きな木がたくさんあり、また古木を大事に生かし続けているのは素晴らしいし、技術者にとっても誇りに思っている様子だ。
この素晴らしさを素直に素晴らしいとお声掛けすると、本当にうれしそうに「ありがとうございます」と帰ってくる。これまたこちらもうれしくなる。

ここの桜は咲くとこのようになる。しかし・・・

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今の時期の桜を見るとこのような古木が沢山ある。
これを大事に生かして、たわわな花をつけるようにメンテナンスするのが素晴らしい。
これを見て、いつも感心している。

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これらの古木が桜の時期にはこんな感じで花を咲かせる。と云うより蘇らせると云った方がいいだろう。

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この項 <完>

by mo-taku3 | 2016-02-06 11:03 | Comments(2)

京都植物園・ランの品評会入賞作品20160206

京都植物園③・ランの品評会入賞作品20160206


京都植物園の洋ラン展(1月26日~2月7日)では、ここで開かれたコンテストの入賞作品が展示されていた。
この展覧会は植物園長賞が上位のようで、その下に努力賞、京都洋ラン協会長賞が並んでいた。

写真写りは今一だがご覧ください。

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この項 <完>

by mo-taku3 | 2016-02-06 10:20 | Comments(2)