<   2016年 03月 ( 21 )   > この月の画像一覧

京都【木屋町を流れる高瀬川の桜並木】20160329・30

京都【木屋町を流れる高瀬川の桜並木20160329・30


京都木屋町と云うと四条通から上(北)は飲食店街があり、下(南)はやはり飲食店街があるが「どんぐり橋」あたりから高級料理店(老舗割烹)が多く立ち並んでいる。

さらにこの木屋町通には高瀬川(たかせがわ)が流れている。
この高瀬川は、江戸時代初期(1611年)に角倉了以・素庵父子によって、京都の中心部と伏見を結ぶために人造運河であるり、開削から大正9年(1920年)までの約300年間京都・伏見間の水運に用いられていた。
この川沿いに(5条から御池通りまで)桜並木が続いている。
ところどころ柳も植えられ、さくらと柳の新芽のコラボも美しいガ、今年は桜が先に咲き見慣れたものにはちょっとさみしい感じがする。

e0237645_17153635.jpg


e0237645_1716731.jpg


e0237645_17161731.jpg


e0237645_17162634.jpg


e0237645_17163590.jpg



e0237645_17164810.jpg


e0237645_1717081.jpg


e0237645_1717105.jpg


e0237645_17172017.jpg






この項 <完>

by mo-taku3 | 2016-03-30 18:07 | Comments(2)

京都『祇園白川』の桜の風情20160329

京都『祇園白川』の桜の風情20160329


京都「白川」とは、
滋賀県と京都府との境界付近に連なる東山の山々のうち比叡山と如意ヶ岳の間に位置する滋賀県大津市山中町の山麓(俗に「白川山」)に源を発し西へ流れ京都府京都市左京区に入る。
吉田山北東部の鹿ヶ谷付近で南西に転じ、南禅寺の西側で琵琶湖疏水を合わせる。
その後、西行し、平安神宮へと続く神宮道の西で琵琶湖疏水と分かれ、東山区に入り知恩院の西側を流れ、四条通の北側で鴨川に合流する。

その途中の祇園新橋の辺り(たつみ橋)が非常に風情があるとされ、この橋の傍の辰巳大明神は京都の紹介のロケには必ずと言っていいほどでてくる。
そこから白川沿いに春は桜、秋は紅葉と、京都にいる人間としても寄りたくなる場所である。
その「さくら(夜)」を捉えてきたので紹介したい。
(昼間を写すと観光客ばかりになるので夜が最適)

e0237645_16412167.jpg


e0237645_16413045.jpg


e0237645_16413950.jpg


e0237645_16414950.jpg


e0237645_1642056.jpg



e0237645_1642126.jpg


e0237645_16422538.jpg






この項 <完>

by mo-taku3 | 2016-03-29 20:36 | Comments(2)

『松坂城址』は紀州藩の支城だった20160326

『松坂城址』は紀州藩の支城だった20160326


1588年蒲生氏郷は、築城を開始し、工事は領内の寺社を取り壊して転用するなど、急ピッチで年内に完成させている。
城は東に大手、南に搦手を配し、外郭に深田堀及び水堀を巡らせた。
四五百森北峰に本丸を配し、その南側に二の丸が置かれた。本丸には3重5階の天守が構えられた。
城下町建設にあたり、直前までの松ヶ島城下町の住人を強制的に移住させ、旧領の近江商人を町の中心部に呼び寄せて日野町とし楽市楽座を設け更に湊町に伊勢大湊の豪商角屋氏を呼び寄せて商都としての松阪の礎が築かれた。
その後、城主は服部一忠、古田重勝・重治となり、古田氏転封の後は南伊勢が紀州藩の藩領となった。
松阪城は当地を統括する城として城代が置かれた。このころ造られたのが今も残っている紀州藩の武士が入った「御城番屋敷」である。

松坂城は縄張りも大きかったようで一回りすると大きく立派なお城だったことがわかる。

e0237645_1349584.jpg


e0237645_13492067.jpg


e0237645_13494619.jpg


e0237645_13495415.jpg


e0237645_13501044.jpg



e0237645_13502823.jpg


e0237645_13515033.jpg


e0237645_135378.jpg


e0237645_13531822.jpg


e0237645_13532865.jpg



e0237645_13534031.jpg


e0237645_1354836.jpg


e0237645_13544955.jpg


e0237645_1355361.jpg


e0237645_13551940.jpg






この項 <完>

by mo-taku3 | 2016-03-26 15:13 | (歴史)関西史 | Comments(0)

紀州藩派遣武士の『御城番屋敷』(松坂城)20160326

紀州藩派遣武士の『御城番屋敷』(松坂城)20160326


御城番屋敷(ごじょうばんやしき)とは、三重県松阪市殿町にある江戸時代末期の武士の住宅で、松坂城の御城番が居住した現存する組屋敷(長屋)遺構である。

紀州藩家老田辺安藤家に紀州藩主徳川頼宣から遣わされていた与力衆の40石取り紀州藩士が、安藤家の陪臣(陪臣は直臣の家臣を指す。安藤家の家臣になること。安藤家は直臣だから、その家臣は殿様から見ると陪臣になる)となるよう命じられたことに抗議して、幕末の1856年(安政3年)与力衆20人が脱藩して浪人となった(田辺与力騒動)。
脱藩から6年後、紀州藩主の直臣として帰参が許され、松坂御城番職に就いた。1863年松坂城南東の三の丸に藩士とその家族の住居として新築されたのがこの組屋敷である。
武士の住宅建築である組屋敷が、ほぼ当時のまま住居として継続して使用・維持管理されている。
2004年12月10日付けで「旧松坂御城番長屋」として国の重要文化財に指定されている。

松坂城の搦手から続く小路の両側(東西)に、東棟10戸・西棟9戸の平屋が並んでいる。
各棟は1戸あたり間口5間・奥行き5間が基準となっている。
建物を取り囲む槙の生垣や前庭、上り框のある玄関、畑地などがあり、住人も居てる。

明治維新後に、士族授産で得た資産を元手に住民士族が合資会社苗秀社を設立し、以来建物の維持管理にあたってきた。
現存する19戸中12戸が借家として貸し出され、内1戸を1990年(平成2年)から松阪市が借用して内部を創建当時の姿に復元、苗秀社に運営を委託して一般公開している。
松阪市はこの一般公開に先立つ1989年(平成元年)、電柱の移転・共同受信によるテレビアンテナの撤去・中央の小路の石畳化工事を行うなど景観整備を集中して行っている。
築140年を越える老朽化が目立ち、修復工事が必要となった。
2006年松阪市は修復計画策定委員会を設置、耐震・防災も考慮した修復計画が策定され、2010年(平成22年)12月15日、修復整備工事が完了して現在に至っている。

この住宅の小路を歩くと何か異次元の雰囲気を味わうことができる。

e0237645_17483991.jpg


e0237645_17485035.jpg


e0237645_1749072.jpg


e0237645_17491145.jpg


e0237645_17492119.jpg



e0237645_17493056.jpg


e0237645_17493979.jpg


e0237645_17495343.jpg






この項 <完>

by mo-taku3 | 2016-03-26 14:07 | (歴史)関西史 | Comments(0)

「伊勢神宮参道」は相変わらず人気スポット20160326

「伊勢神宮参道」は相変わらず人気スポット20160326


伊勢神宮に行ったらここに寄らなきゃあ~っというところでしょうね。
休日ということもあるんでしょうが、参道そのものが混雑していました。
勿論「おかげ横丁」は云うに及ばずでした。

この写真を見てもお分かりになると思います。

e0237645_1142919.jpg


まずは「赤福」でしょうね。

e0237645_11421989.jpg



更に伊勢うどん。

e0237645_11422987.jpg



ここから、おかげ横丁です。
お昼を過ぎていましたが相変わらずです。


e0237645_11424232.jpg


このおかげ横丁では、まずここのメンチカツかコロッケ。

e0237645_11425212.jpg



食事も「海老丸」山で定番の魚介とてこね寿司です。
毎回の定番料理の食事です。行く度殆ど同じものです。

これは海鮮丼。

e0237645_1143582.jpg


マグロのてこね寿司。

e0237645_11431549.jpg


右が大アサリ。左がホタテの一種のアッパ貝。

e0237645_11433122.jpg


おかげ横丁では専属?の「神恩太鼓」もやってました

e0237645_11452362.jpg



また参道に戻り、おた福ならぬ「たこ福」。

e0237645_11453349.jpg


松坂牛の串牛も。

e0237645_11454386.jpg


堪能しました!!!





この項 <完>

by mo-taku3 | 2016-03-26 12:53 | (風情)京都・関西 | Comments(2)

『伊勢神宮』参拝(内宮)20160326

『伊勢神宮』参拝(内宮)20160326


伊勢神宮は年に2回以上は必ず参拝します。
一月は年賀、そのあと2回目はお札を納めお札をいただきに行きます。
今回はその2回目に当たります。
少し遅すぎたきらいはありますが、今年も例年通りお参りを済ますことができました。

土曜日ということで、混むことは覚悟をしていきましたが、思ったほどではなく比較的スムーズにお参りすることができました。

e0237645_1110767.jpg


伊勢神宮は内宮と外宮があります。

伊勢神宮はできた当初は内宮だけで「天照大神(あまてらすおおみかみ)」を祀っていました。
何処の神社にも同じような言い伝えがありますが、ある時期疫病がはやり、これは神のお怒りだと云うことになりました。
(少し長くなりますがご容赦を!)
そこで天皇は疫病の原因を占わせたところ、元伊勢の「籠神社(このじんじゃ)」に祀られている「豊受大神(とようけのおおかみ)」を合祀するとよいとのお告げがあり、それを外宮として祀ったようです。
その結果疫病も収まったということです。
外宮の説明に食の神様と説明があると思いますが、このような逸話も伝わっているようです。


e0237645_10595968.jpg


e0237645_1101169.jpg


e0237645_1102010.jpg



五十鈴川でのお清め。

e0237645_1103054.jpg


e0237645_1103883.jpg



本殿への参拝。

e0237645_1104944.jpg


e0237645_1105931.jpg


パワースポットを2つ。

e0237645_1111062.jpg


e0237645_1111815.jpg


神宮司庁の前の大きな桜の木はみごとでした。

e0237645_1112834.jpg






この項 <完>

by mo-taku3 | 2016-03-26 11:46 | (寺社)関西の神社仏閣 | Comments(2)

京都桂川も草木が少し色づいてきました。20160325

京都桂川も草木が少し色づいてきました。20160325


ここは桂川が天神川と合流する久世橋の少し上流にあたり、JRの線路が新幹線を含めて3本走っている辺りになります。
ここは桜の季節になると、桂川と天神川の堤防沿いに500m位のソメイヨシノが咲く素晴らしい景観の隠れた云わば桜の名所の穴場と云っていいでしょう。

この時期はまだ少し早く、早咲きに桜が申し訳程度に咲いています。
やっと河原も春めいてきました。


e0237645_15283939.jpg


e0237645_15285764.jpg


e0237645_1529991.jpg


e0237645_15291895.jpg


e0237645_15292820.jpg



e0237645_1529391.jpg


e0237645_15294938.jpg






この項 <完>

by mo-taku3 | 2016-03-25 12:30 | Comments(2)

京都西本願寺の飛雲閣(国宝)と鐘楼(重文)20160319

京都西本願寺の飛雲閣(国宝)と鐘楼(重文)20160319


 飛雲閣(国宝) 
飛雲閣(国宝)は鹿苑寺の金閣、慈照寺の銀閣と共に「京の三名閣」の一つに数えられる、京都西本願寺の一角にある国宝の建造物である。

境内地東南に位置する「滴翠園」の中に建てられている柿葺の三層からなる楼閣建築で、前面が滄浪池に面し、舟で出入りするように造られている。
金閣・銀閣が左右対称であるのに比べ、建物全体が非対称に造られている。
左右非対称でありながら調和がとれ、見る位置によって変化するように巧みに造られてる。

階ごとに趣を異にした特異な意匠の飛雲閣は、豊臣秀吉が贅を尽くして造った「聚楽第(じゅらくだい)」から移築されたものと伝わるが、移築の痕跡はどうも認められず、最初からこの場所に建てられた建築だと考えられているようである。

説明によって、左下には「船入の間」の唐破風、右下には「招賢殿」の千鳥破風がかろうじて見てとれる 。
現在は飛雲閣の前に橋が掛けられているが、往時はそれが無く、飛雲閣へ入るには舟に乗って池を渡る必要があったという。
飛雲閣の一階、左側下部に口を開いた階段へと舟を着け、そこから直接飛雲閣内に入ったという。それ故、その階段の部屋を「船入の間」と呼ぶという。

e0237645_15323128.jpg


e0237645_15324310.jpg


e0237645_1532594.jpg


滴翠園の手前に建つ鐘楼(重要文化財) 
1618年の建立で、これもまた装飾鮮やかな桃山様式の建築である。

e0237645_15343525.jpg


e0237645_15345453.jpg



*飛雲閣(国宝)の拝観
  ・拝観時間は1日2回です。午前10:30と午後14:30の1日2回。
   完全予約制。拝観料は無料。
  ・西本願寺の参拝志納部に直接赴くか、電話で可能です。定員になり次第締め切り。

  ※お寺からのガイドさんが付き、説明をしていただけるようで書院玄関の虎の間、南能舞台、対面所及び   白書院、北能舞台、虎渓の庭、それと「飛雲閣」を拝観する事ができます。

  ・拝観参加申込は
   「参拝教化部」へ電話で申し込みし、当日現地で記入か、直接申し込みFAXするどちらか。
     〔連絡先 Tel 075-371-5181(代表)〕





この項 <完>

by mo-taku3 | 2016-03-19 14:28 | (歴史)京都史 | Comments(2)

京都西本願寺のイチョウの大木20160319

京都西本願寺のイチョウの大木20160319


大銀杏と西本願寺
日本には銀杏を植えたお寺が数多くありますが、何故だかご存知でしょうか?
銀杏は水分が多く大火があった時に火の手から建物を防いでくれる効果があると云われています。
落ち葉も紅葉とかと比べると非常に湿気を帯びているのを感じます。
西本願寺にはそれはもうビックリするほど大きい銀杏(イチョウ)が鎮座しています。
ひとつは横に大きく広がり、ひとつ高く伸びています。

御影堂(ごえいどう)前の大イチョウは、江戸時代中期・1788年の「天明の大火」の際に水を吹いて御影堂を守ったということから「水吹き銀杏」の別名が付けられています。阿弥陀堂前にも京都市指定の天然記念物に指定された大イチョウがあり、秋の黄葉時には参拝者の目を楽しませています。また国宝・唐門のすぐそばには龍谷大学(大宮学舎)のイチョウもありますので訪問の折りには是非お寄りください。

e0237645_15234566.jpg


境内の平地で、約30cmの盛土の外周は石の玉垣でかこわれている。地上1.5m~3m付近から各方向へ太い水平枝ないしは斜上枝を出す形状はイチョウとしては特異で、逆さ銀杏と呼ばれる。天明8年(1788)火災の時、御影堂へ水を吹きかけ類焼を防いだといわれ、「水吹きイチョウ」「火伏せのイチョウ」とよばれる。市指定天然記念物。

e0237645_1524097.jpg


e0237645_15241018.jpg


e0237645_15241839.jpg



丁度新芽は膨らみ始めました。

e0237645_15242718.jpg



阿弥陀堂(重文)前の銀杏もなかなかすごいものです。これも京都市指定の天然記念物に指定されています。この木は「水吹き銀杏」より早く黄色くなっていました。これはかなり高く上へ伸びています。この木は「経蔵」(重文)の前を見事な黄金色に染めてしまいます。

e0237645_15243643.jpg


e0237645_1525068.jpg



*如春尼 東西本願寺分裂の要因をつくった女性
文禄元年(1592)、顕如が病没すると、太閤豊臣秀吉は長男である教如を後継者として指名した。しかし、翌年生母如春尼は顕如が三男准如を後継にするという生前の譲り状を添えて訴え出た。地位を追われた教如であったが、関ヶ原の役に際して家康の陣中見舞いに参じ、後の東本願寺建立の基礎をつくっている。一方、准如は西軍石田三成側につき、西本願寺として幕末まで豊臣恩顧の大名を支持する教団としての色彩を強めた。こうして本願寺は二つに分裂したが、徳川政権下、幕府は一向宗の力を削ぐ目的で東西本願寺両方の存続を許可したようだ。
如春尼が確定していた本願寺法嗣の坐から教如を引き摺り下ろし、本願寺を東西に二分した要因をつくったことは紛れもない事実である。だが、そこに至った経緯となると、信憑性のない憶測まで含めいくつかの説を見ることが出来る。中には、有馬温泉に湯治に来ていた秀吉を如春尼が色仕掛けで説き伏せたなどというものまであるほどだ。
 上記したものはあまりにありえないと思われるが、如春尼が少なくと教如よりも准如の方を後継に据えることを強く望んでいたことは間違いない。これは彼女が教如の三番目の内室と折合いが悪かったために、その子供の系統が本願寺を継承していくことを受入れられなかったためとされている。そこで、なんの前触れもなく顕如の譲り状が突如出てくることになる。この原本は西本願寺が所蔵しているが、古来よりその真偽は問題視されてきた。その存在に対して反撥したのは当の教如以上に、彼を取り巻く側近たちの方であった。
 秀吉は如春尼の訴えに対して、当初は准如への委譲を10年後とする提案をし、教如もこれを了承していたのだが、教如の家老衆は本来譲り状とはまず自分たちに示されてから後、はじめて明るみに出されるものとし、譲り状がでっち上げであると主張した。自らの裁決に水を差され秀吉が腹を立てたのはいうまでもない。譲り状に従い、直ちに准如に移譲するよう厳命した。
 教如の家老たちが贋作であることを主張した譲り状であるが、これは現在学会でもニセモノである確立が高いとされている。使用されている紙や墨は当時のものであるようだが、一番の決め手とされているのは、やはり他の顕如の書状の筆跡とは明らかに違うということがその根拠であるようだ。
 さて、このように愛する我が子を後継者に据えようとする如春尼を見てしまうと、どうしても自分の願望のためには形振り構わず策を弄する悪いイメージは拭い切れない。だが、顕如との夫婦仲は至って良好であったようで、二人揃った画が描かれていることからも本願寺への思いは夫と同様であったろう。
 如春尼は天文十三年(1544)に太政大臣まで務めた三条公頼の三番目の姫として生まれた。生まれてまもなく一番上の姉の嫁ぎ先である細川晴元が自分の養女とし、1歳であった証如上人の子顕如と娶わせるよう要請した。晴元は天文元年に、当時仏国と呼ばれるほど隆盛を誇った山科本願寺を焼討ちしている。不測の事態を恐れた証如は已む無くこれを承知せざるを得なかった。
 当時本願寺は堺港からの日明貿易に出資し、莫大な利益を上げていた。そのため、かつては敵として一向宗を排除しようとした戦国大名たちから借金の申出が盛んに行われるようになった。こうした金銭援助という名目で晴元も縁戚を望んだわけだが、更に山科本願寺焼討を命じた佐々木六角氏の猶子として如春尼を嫁がせ過去の遺恨を強引に帳消しさせてしまっているほどだ。
 如春尼の本当の人物像を知るというのは難しいかもしれない。だが、彼女の2番目の姉で武田信玄に嫁いだ三条夫人を見てみると、少しでもその実像に近づけるということはないだろうか。ドラマや小説などでは公家の出であることから信玄とは打ち解けず、更には勝頼の生母諏訪御寮人と何かと比較されてしまう損な役回りである。しかし、元亀元年(1570)、50歳で身罷れた三条夫人の葬儀のなかで、心頭滅却すれば火もまた涼しで有名な快川国師は、「円光の如く、和気春に似たり」と語っている。すなわち、彼女は太陽の光のように輝いた存在で、その人柄は春のようにおだやかであったと。死者への賛美と言ってしまえばそれまでだが、少なくともフィクションのイメージとは異なり、笑顔を絶やさない静かに佇む女性であったようだ。
 もちろん、いくら血を分けた姉妹とはいえ性格まで似通っていたろうとは私も思わない。ただ、強引ともいえる教如の追放、本願寺分裂の張本人というレッテルを彼女一人が負おうというのもどうかと思う。これらは確かに如春尼の動機がはじまりではあったろうが、そこには本願寺教団の内部抗争が加わっていたことも確かなようだ。
 顕如と織田信長が石山本願寺を巡り10年あまり続いた合戦も、朝廷を通じて大阪からの退去を条件に本願寺は講和を了承した。ところが、教如は顕如が大阪を退いた後も信長に抵抗を続けたため親子は義絶となり、顕如は教如と共に主戦派であった家老衆80余人を破門した。顕如の死後、本願寺を継承した教如はこの破門された家老らを再び側近官僚として召出した。この時、政権を追われた穏健派の家老衆が如春尼を擁して譲り状を偽作したというのが真相とされている。前法嗣の妻であることから、権力の移譲期にその中心にいた彼女はタイミング良く担がれてしまった。これこそ、紛れもない如春尼の真実の姿なのであろう。





この項 <完>

by mo-taku3 | 2016-03-19 14:25 | Comments(3)

平安京の菅原道真公の邸跡『菅大臣神社』20160319

平安京の菅原道真公の邸跡『菅大臣神社』20160319


菅大臣神社は菅原道真を祭神とする神社で、この地は菅原道真の旧邸宅跡で、道真以前から菅原家の邸宅地であったという。
道真が幼少のころ研学したところといい、それに因んで社殿を造営したのが起こりであるとされる。
ここは古くは天神御所または白梅殿とも云われたこともある。
度々兵火にかゝり、鎌倉期には南北両社に分かれ、当社を天神御所、 白梅殿社、北社を紅梅殿社と呼んでいた。
応仁の乱後1614年(慶長19年)に、 管家ゆかりの曼殊院宮良恕法親王により再興され、明治維新まで曼珠院が管轄していたが、1873年(明治6年)独立した。
この間、天明の大火、元治の兵乱で再度焼失するが、現本殿は、 明治の初めに下鴨神社の旧殿を、移築し、その後幣殿を建立して、現在に至っている。
境内には火御子社、白太夫社、老松社、福部社、春崎稲荷社、三玉稲荷社など多くの摂末社がある。


e0237645_1539488.jpg


現地の解説板によると、「現在の本殿は、 1835年(天保6年)造立の三間社流造という下鴨神社の旧殿を、
1869年 (明治2年)に移築し、その後幣殿を建立して、いわゆる八棟造)をなしている。」とのことである。

e0237645_15391350.jpg


e0237645_15392476.jpg


e0237645_15393229.jpg


e0237645_15394077.jpg



e0237645_15394857.jpg



本殿前の狛犬は珍しい。
児連れ阿形と片手玉上げ.吽形のセットのである。この型は、調べてみると出雲地方にが発祥の地らしい。
出雲地方には多く見られるそうです。

e0237645_15395825.jpg






この項 <完>

by mo-taku3 | 2016-03-19 14:12 | (寺社)京都の神社仏閣 | Comments(3)