ビアガーデン「キエフ」から見た近辺の写真20160525

ビアガーデン「キエフ」から見た近辺の写真20160525


「キエフ」は結構な老舗のようである。
ここの社長は加藤さんと云って、歌手の「加藤登紀子」さんのお兄さんだそうです。

それはそうと料理はかなり美味しい。値段も手ごろである。
最近ここにはまっている。

5月に入って屋上ビアガーデンが始まりました。
2時間9品飲み放題で、3,600円 とリーズナブルセットである。

また行こう!

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この項 <完>

by mo-taku3 | 2016-05-25 19:11 | Comments(2)

ベランダで今年も咲いた「アジサイ」20160525

ベランダで今年も咲いた「アジサイ」20160525


ベランダの紫陽花が咲いてきた。かわいい花をつけてくれました。

この花は2年位前に奈良県の葛城の里にある「馬見丘陵公園」に行ったとき買ってきて、鉢を取り換えたりしながら大事にしてきたもので、その甲斐あってよく咲いてくれました。
2本買ってきたもう一方は残念ながら花芽は持ちませんでした。

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この項 <完>

by mo-taku3 | 2016-05-25 12:16 | (紹介記事)京都 | Comments(2)

鴨川の風情(上賀茂・西賀茂)20160520

鴨川の風情(上賀茂・西賀茂)20160520


もう夕方であるが。この頃の陽は長い。そしてこの日の日中は30℃超えで暑かったが6時を過ぎているのにまだまだ厚さが残り、、歩いているものにとっては暑さと汗で大変だが、河原のベンチに座ると風が心地いい。

この日は会社の新人歓迎会を西賀茂のバーベキュー施設ですことになっていて運動を兼ねて地下鉄「北山」からゆっくり歩こうと思い出かけてみました。
北山で下車して西へ行くと賀茂川が流れていますが(ちょっと余談ですが、この賀茂川は出町柳を過ぎると「鴨川」という字に変わります。)この賀茂川の淵で地元と思われる方に目的の場所を聞くと、予想していたところとは違い、上賀茂神社より先で 5・6kmありますとのこと。“えっ?歩くんですか?”と云われバスを勧められました。

お礼を云って、少し歩いたところで先ほどの人が見えなくなったのを幸い、思いきって歩くことにしました。

途中の風景は写真にある通りです非常にいい光景が撮れました。

この日は満月で月も明るく照らしていました。

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この項 <完>

by mo-taku3 | 2016-05-20 17:55 | Comments(2)

大覚寺大沢池畔の「嵯峨天皇御詠歌碑」20160514

大覚寺大沢池畔の「嵯峨天皇御詠歌碑」20160514


大覚寺は室町時代の建武の親政以後南北朝時代に、南朝側の後醍醐天皇が保持続けた系統で、大覚寺がその系統を表すことで「大覚寺統」と呼ばれた天皇の系譜である。
一方この南朝側に対し北朝側は「持明院統」と云われています。
この持明院も現在存在しており、それを示す石碑が建てられています。

さて、前置きはこのくらいとして、久しぶりにこの大覚寺を訪れてみました。
大覚寺と大沢の池は隣接しており、大沢の池は数々の詩にも読まれ、平安初期から嵯峨天皇の御所として崇敬を浴びてきました。

この日は北嵯峨路を回り大覚寺にはいるルートを探しつつ大覚寺の近くに来ましたが、通り抜けの道がわからずウロウロしていたら、丁度地元の人らしい方に出会い尋ねたところ、そ
の方も大覚寺に行かれると云うことで案内をしていただきました。
この方は嵯峨芸術学院の講師の方とのことで大覚寺のことを詳しくご存じでした。
私も大覚寺とは縁があり、話し込んでいるうちに話がはずみ、一時間があっという間でした。

その中で大沢の池の畔にある「嵯峨天皇御詠歌碑」について説明をいただき私のお宝となりました。
その碑は「与海公飲茶送帰山一首」(嵯峨天皇詠)は嵯峨天皇と空海の深い親交をあらわすもので、高野山に戻りゆく空海を何時までも見送っている姿が詠まれています。
ちなみに、このお二人は、橘逸勢と併せて当時「三筆」と云われていました。

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大覚寺派、華道嵯峨御流の家元になっています。
天皇の華道ということで、「華道総司所」といって一見華道全体の総元締めのように見えますが、その理由がわかりました。
やはり、大沢の池の畔に「いけばな発祥地」という石碑がありました。
調べてみますと、嵯峨天皇が大沢の池の菊島(次の写真)の菊をとって活けたのが発祥ということのようです。
池坊が発祥と思っていましたが、華道として体系づけたことでそう言われているようで、真相は仏教が伝来した時に仏様に花をささげる風習も伝わったのではないかというのが自然らしいです。

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この項 <完>

by mo-taku3 | 2016-05-18 13:48 | (歴史)京都史 | Comments(2)

北嵯峨「広沢池と児(ちご)神社」20160514

北嵯峨「広沢池と児(ちご)神社」20160514


広沢の池は平安中期から灌漑用水として続いている大きな池です。
毎年のように、この池は用が済んだ頃には水抜きがされ、底が見えるようになります。
この池をテーマとした、平安歌人がたくさんの詩を残しています。

広沢池の南西のほとりにある小さな神社です。
平安時代、ここから広沢池に沿って遍照寺山の方に行ったあたりに遍照寺という大きな寺院がありました。
遍照寺を創建した寛朝大僧正という方の子供が、児神社の祭神なのです。

遍照寺を建立した寛朝大僧正が亡くなった後、その子供が嘆き悲しみのあまり、広沢池に身を沈めたといわれ、これを不憫に思った地元の人が、この子供を祀ったのが神社の始まりとされています。

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この項 <完>

by mo-taku3 | 2016-05-18 13:44 | (寺社)京都の神社仏閣 | Comments(2)

京都三大祭の一つ「葵祭」20160515

京都三大祭の一つ「葵祭」20160515


5月15日上下賀茂社のお祭り「葵祭(あおいまつり)」の巡行がありました。
何はともあれ巡行をご覧ください。

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この項 <完>

by mo-taku3 | 2016-05-15 11:03 | Comments(2)

嵯峨天皇山上陵と嵯峨野・京都の風景20160514

嵯峨天皇山上陵と嵯峨野・京都の風景20160514



もう2年以上前になりますが、嵯峨天皇の「嵯峨山上陵」に行ってきました。
ご覧の通り山の上にありますが、前の年に行ったときは階段を工事中で通行止めになっていたので、工事が終わった今回はということで必死に上ってきました。
というのもかなりのハードな坂道(階段)でびっくりしました。
嵯峨天皇は個性の強い方のようですが文化人であることは歴史が物語っています。
また空海を崇敬しているのは有名で、京都の東寺を与えたりしています。大覚寺には空海を見送った詩が石碑として残っています。
とにかく嵯峨天皇にかかわる史跡は多い。

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この項 <完>

by mo-taku3 | 2016-05-14 11:53 | (歴史)京都史 | Comments(0)

広大な敷地を持つ若狭の名刹『天徳寺』20160502

広大な敷地を持つ若狭の名刹『天徳寺』20160502


福井県三方上中郡若狭町にある高野山真言宗所属の寺で天徳寺(てんとくじ)というのがある。
ここは名水で有名な「瓜割の滝」を擁している。

寺伝によれば、今からおよそ1300年前の養老年間、加賀・白山を開いた泰澄大師がこの地宝篋ケ嶽に上り、馬頭観音像一躯を刻んで山腹の岩窟に安置したことが起源としている。
泰澄大師の開山から200年を経た天暦年間、「この馬頭観音が岩上にあって七日七夜奇瑞を示現したため、元真僧都が急ぎ草堂に移した」としるされている。
観音の霊異は天聴に聞こえ、時の村上天皇は宣旨を下して堂宇の建立に着手したという。
天徳元年、七堂伽藍を建立されている。
次いで村上天皇より斎田二十町歩が寄進され、正治2年北条政子が源頼朝の菩提を祈る法華堂を建立寄進した等々と伝えている
爾来、本尊馬頭観音所在に約して山号を宝篋山とし、村上天皇治世の元号になぞらえて天徳寺と称すようになったという。
また、起源を、門前の湧き水の水神に対する強い信仰によるものとする説もある。
(和歌森太郎編『若狭の民俗』)によると、水源地である水の森に祀る水神(ここでは不動明王)に対する近郷の信仰は篤く、旱魃の際に近郷こぞって雨乞いの祈願をした記事がいくつかの史書に見えることからも水神信仰に起源をおいたことは明らかというものである。

瓜割の滝上方の山道を100メートルほど進んだところに四国八十八ケ所石仏霊場がある。
ここは江戸・文化年間、時の住持本如上人が空海(弘法大師)の夢告を受け造営したもので、佐渡島で彫られた石像88体が安置されている。

かつて若狭から出た作家水上勉はその随想集の中で「石仏で名高い天徳寺。石仏は石段をあがりつめた山腹だが、四国八十八ケ所石仏といわれている。(中略)枝の混んだ杉、檜の木の木もれ陽の中で、静かに正座しておられる石仏をみていると、暗い奥山だけに、幽邃である。天徳寺は、また湧き水で名高い水の森があり、この石仏群のしじまのへ水音はきこえてくる。若狭は、やはり仏の国だと思う」と言っている(『若狭路』)。

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この項 <完>

by mo-taku3 | 2016-05-02 14:51 | (寺社)全国の神社仏閣 | Comments(2)

日本で2番目に美味しい『瓜割の滝名水』20160502

日本で2番目に美味しい『瓜割の滝名水20160502


湧き水とは、境内の杉や檜の群立する通称「水の森」と呼ばれる一角に湧く冷水のことで、昭和60年、当時の環境庁が全国名水百選に選定した「瓜割の滝」である。
この冷たい湧き水を瓜割清水と呼び、それが滝のように落ちるから総体に瓜割の滝と呼んでいる。そして「全国2番目においしい水」となっているようだ。
江戸・元禄期に小浜藩から出た『拾椎雑話』という地誌書に「天徳寺門前に岩窟より湧出する清泉あり。此所を水の森といふ。夏の日には其の冷なること氷のごとく、水中の小石を十拾い取るものなし。瓜ひやし置かはおのつから破るに俗に瓜割水と呼」とあり、古来、この水がいかに冷たい水として周辺地域に知られていたかが窺える。

和歌森太郎編『若狭の民俗』によれば「この湧き水を中心に寺が出来、ムラが出来た」という。それによれば、「天徳寺の所在地が、村氏神の岩上神社発祥の地、水の森に近く、集落を足下に控える渓口に位置し、かつその寺名を集落の名称としているところから、この寺が集落成立の草分け的役割を担った」という。

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この項 <完>

by mo-taku3 | 2016-05-02 14:38 | (紹介記事)全国 | Comments(2)