建礼門院徳子(平徳子)は、高倉天皇の中宮で安徳天皇の母。
父は平清盛、母は平時子であることは御存じの方も多いと思う。
高倉天皇に入内(中宮)して第一皇子・言仁親王(後の安徳天皇)を産む。
安徳天皇の即位後は国母となるが、高倉上皇と清盛が相次いで没したあと、木曾義仲の平氏討伐の攻撃に会い都を追われ、更に源頼朝による平氏討伐により「壇ノ浦の戦い」で安徳天皇・時子などとともに入水したが、徳子は引き上げられて生き残り京へ送還されて出家している。安徳天皇も亡くなりここに平氏一門は滅亡したわけである。
徳子は罪に問われることはなく京の祇園の東の長楽寺に移され、1185年、5月長楽寺の印西を戒師として出家し、直如覚比丘尼と称したという。その年の10月に侍女「阿波内侍(あわのないじ)*後述」とともに大原・寂光院に移ったとされる。
大原寂光院で安徳天皇と一門の菩提を弔い、侍女たちとともに閑居して終生を過ごしたと云われている。



寂光院の入り口である。

建礼門院は寂光院の第3代門主で当時営われた庵後に石碑が建っている。



*阿波内侍(あわのないじ)は出家して、証道比丘尼と称した。
出家以前は宮中にあった建礼門院徳子に仕え、寂光院のある草生の里では柴売りで有名な「大原女(おはらめ)」のモデルとされている。
この項 <完>
▲ by mo-taku3 | 2016-06-28 12:30 | (歴史)京都史 | Comments(2)













































































