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天然記念物「玄武洞」(兵庫県丹波市)20161022

天然記念物「玄武洞」 (兵庫県丹波市)20161022



玄武洞は兵庫県豊岡市あり天然記念物に指定されている。

この玄武洞は160万年前に起こった火山活動によって、山頂から流れ出たマグマが冷えて固まる時に規則正しいきれいな割れ目を作り出している。

「柱状節理」とよばれる玄武岩の石柱が、まるで古代建造物かのように規則正しく並んでいる。石柱の断面は6角形で亀甲に似ていることから「玄武洞」と江戸時代後期に命名されたという。

火山岩は玄武岩・安山岩・流紋岩の3種ありますが、玄武岩の日本名の命名は、1884(明治17)年に「玄武洞」にちなんで命名されたものである。この玄武洞は公園となっており、この公園には5つの洞があり、玄武・青龍・白虎・朱雀(南朱雀・北朱雀)と四神の名をもっている。

160万年前の地球は磁場が逆転(N極とS極が反対)していたという。方位磁石を玄武岩に近づけるとNS極が反対になる。玄武洞公園は、地場逆転の世界的な発見場所でもある。

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この項 <完>

by mo-taku3 | 2016-10-31 11:21 | (歴史)関西史 | Comments(0)

天然記念物の【木の根橋】(丹波市)20161015

天然記念物の【木の根橋】(丹波市)20161015


この天然記念物の【木の根橋】は兵庫県丹波市にあります。

丹波市は兵庫県の中央東部に位置し京都府福知山市、篠山市、多可町、西脇市、竹田城で有名な朝来市とも境を接しています。

この天然記念物の【木の根橋】は丹波市柏原(かんばら)地区にあります。
ケヤキの木の根が太く成長し、川をまたいでいることから「木の根橋」と称されています。
樹齢1000年とも推定される巨木で、幹の径が6m、樹高22m、枝張各25mを測る丹波市内では最大のケヤキです。
本樹の根の一本が太く成長し、直下を流れる奥村川をまたいで対岸の地下にもぐり込み、長さ10mにも及ぶ自然の橋を形づくっていることから「木の根橋」と称されています。
その形成過程については明らかではないが、本樹の縁辺は万寿元年(1024)に創建された柏原八幡神社の参道にもあたり、奥村川に架けられていた土橋に沿って根が延びたものと考えられています。
現在の奥村川は、織田信包(のぶかね)の開いた第一次城下町時代に堀割として利用するため拡幅され深くなったもので、今、我々が目にする木の根橋をとりまく景観は、この時代に形づくられたと言っても過言ではないでしょう。


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この項 <完>

by mo-taku3 | 2016-10-15 16:30 | (紹介記事)関西 | Comments(2)

織田信包(信長弟)と柏原藩陣屋址(丹波市)20161015

織田信包(信長弟)と柏原藩陣屋址(丹波市)20161015


兵庫県丹波市柏原(かいばら)に柏原藩陣屋というのがある。
ここは、柏原藩2万石の居館及び政庁として正徳4年(1714)の造営から途中火災に見舞われたが、廃藩置県を迎えるまでその役目を果たした。
現存する建物は、陣屋の表御門にあたる長屋門と表御殿の一部ですが、全国でも数少ない陣屋遺構として、また明治以降小学校として使用された経緯から幕末から近代に至る学制の変遷を考えるうえでも貴重であるとされ、国の史跡に指定されています。(国指定の史跡)

陣屋とはどうゆうものなのか。
江戸時代になって3万石以下の藩は城は持てず陣屋ということになっていたようです。
柏原藩陣屋は、柏原藩2万石の居館として使用されていた全国でも数少ない陣屋遺構です。

この陣屋に先立ち、関ヶ原の戦いの前慶長3年(1598年)織田信長の弟信包が3万6千石で入り、その後徳川の世になっても3代続くが慶安3年(1650年)嗣子なく断絶した。
以後45年の長きにわたり天領となっていた。
元禄8年(1695年)信長の次男信雄の孫の宇陀松山藩主信休がお家騒動の咎により領地を半減され2万石で入封された。
移封より19年経た正徳3年(1713年)幕府より陣屋を築く事が許され、以後10代にわたり織田氏が治め、明治にいたる。

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この項 <完>

by mo-taku3 | 2016-10-15 15:33 | (歴史)関西史 | Comments(2)

丹波篠山デカンショ街道の由来とは20151015

丹波篠山デカンショ街道の由来とは20151015


「デカンショ~デカンショ~をで半年暮らす (ヨイヨイ!) 
           後の半年ゃぁ寝て暮らす (ヨ~イ ヨ~イ デッカンショ!)

私も子供の頃からこの歌で親しんできた。
これは旧一高生が学生歌として歌っていたという経歴を持つことから、かけ声の「デカンショ」は、「デカルト」「カント」「ショーペンハウエル」の略であるということを聞いていた。
しかしどうも起源は違うらしい。
デカンショ節(でかんしょぶし)は、兵庫県丹波篠山市を中心に盆踊り歌として歌われる民謡であるが、それを伝え聞いて独自の歌詞を作り学生歌としても広く歌われたようである。

篠山市は京都に近く、丹波黒大豆の産地でもあるため、毎年のようにここに黒豆を買いに行くが、途中「デカンショ街道」というのがあり、デカンショ節とどんな繋がりがあるのか疑問に思っていた。
今年も同じように黒豆を買いに馴染の「小田垣商店」に出かけてみて少しわかりかけてきた。
帰って詳しく調べてみると上記のようにかなり以前から篠山市では盆踊りとして使われてきていることが分かった。

ではなぜ旧制一高の学生歌として伝わったかというと以下のようなエピソードが載っていた。

旧篠山藩主の青山家は、明治維新後は学問を奨励し、篠山に鳳鳴義塾等の私立の中学校を作り、その中の優秀な者を東京に寄宿舎を作り遊学させていたという。
この遊学生は、明治31年(1898年)の夏、宿泊先の江戸屋の二階で郷土の盆踊り歌を大声で歌っていた。それをたまたま階下に宿泊していた旧制一高の水泳部員がこの歌を聞きとめ、すっかり気に入り、篠山出身の若者たちと意気投合した。
それを、東京に戻ってからも歌ったのが始まりで、その後多くの学生や若者の共鳴を受けて愛唱され、全国に広まっようだ。

街角には沢山の歌詞灯篭があり篠山市民の生活に溶け込んでいるようだ。

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*2015年(平成27年)4月24日、文化庁により日本遺産の最初の18件の一つとして「丹波篠山 デカンショ節―民謡に乗せて歌い継ぐふるさとの記憶」が選ばれた。
(現在は篠山市無形文化財となっているとのことである。) 





この項 <完>

by mo-taku3 | 2016-10-15 14:41 | (紹介記事)関西 | Comments(2)

丹波篠山秋祭り「鋒山巡行、太鼓神輿運行」20161015

丹波篠山秋祭り「鋒山巡行、太鼓神輿運行」20161015


丹波篠山(ささやま)市の「鋒山巡行、太鼓神輿運行」とは篠山城の北側にある春日神社のおまつりである。
これは、篠山地方の三大祭の一つで、豪華な9基の鉾山、2基の金御輿、さらに、8基の太鼓神輿が春日神社の境内の中を所狭しと 練り込んだり、宵宮、本宮祭の両日とも、城下町篠山は大賑わいとなる。
豪華な鉾山は京都の祇園祭を彷彿させる。
時期は10月の第3週の土日となっている。(この土曜日の宵宮に行ってきた。)

丹波は1000年にわたり都の舞台裏から京文化を支えてきたといわれている。
時に強い京都の影響を受けながら逆に都の文化、創造に欠かせない素材の供給源でもあった。
篠山地方には、その風土や歴史の土台の上に京都の祇園祭の強い影響をうけ、華麗な鉾山の賑やかな囃子、そして荘厳な神輿が城下の町並みや黄金の穂波立つ田園を巡行する素晴らしい祭が残されている。

「鉾山は9基」
三笠山、鳳凰山、孔雀山、高砂山、剣鉾山、猩々山、諫鼓山、蘇鉄山、鏡山。
京都祇園祭の山鉾を模してつくられている。
明治の頃は、屋根の上にそれぞれの鉾山の象徴である鉾をつけて巡行しましたが、明治43年電灯線が街路を横切り以来鉾をつけての巡行が出来なくなり、お祭の当日、鉾は各町内に飾りつけられている。

「太鼓神輿8台」
太鼓神輿がいつから祭礼に参加するようになったかの明確な記録はないそうで、古老の言い伝えによると、文化、文政の頃(約150年前)王地山焼の陶工が祭例に賑わいをそえるため、かつぎ出したのがその始めといわれている。

身なりもバッチリ決まっており、それでも優しいお顔が印象的だった。

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この項 <完>

by mo-taku3 | 2016-10-15 14:38 | (祭特集)祇園祭他 | Comments(2)

丹波篠山(ささやま)市の街並み20161015

「丹波篠山(ささやま)市の街並み」のご紹介20161015


丹波篠山市は兵庫県の中東部にあり、古くから京都と山陰、山陽間の交通の要衝の地でした。
江戸時代には軍事上重要な位置づけとされ、慶長14(1609)年に徳川家康の命による天下普請によって篠山城が築城され、丹波国篠山藩5万石(文政10年から6万石)の中心地として栄えました。

丹波と云うと何んといっても「丹波の黒豆」が門外不出の種豆から育てられたものとして有名です。
商家町の母屋は、切妻造妻入が主で、正面に下屋庇をつけ、二階窓上には主屋桁まで延ばした特色ある庇をつけます。
次には丹波栗、更に猪肉となるでしょう。
ここでは丹波の焼き栗を食べたが、京都で売っている焼き栗とは違って、一つ一つがきれいに剥けてしかも形の大きさが均一でこれが本場という感じがしました。
また、猪を屋根からつるした豪快な飾りも度肝を抜きました。

元篠山町役場だったところが、「大正ロマン館」となり雑貨・土産物などが売られていました。
懐かしい感じのする街です。

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この項 <完>

by mo-taku3 | 2016-10-15 13:43 | (紹介記事)関西 | Comments(2)

丹波篠山「伝統的建造物保存地区」20151015

丹波篠山「伝統的建造物保存地区」20151015


丹波篠山市は兵庫県の中東部にあり、古くから京都と山陰、山陽間の交通の要衝の地でした。
江戸時代には幕府により大坂城の豊臣氏と西日本の大名を分断する格好の地として軍事上重要な位置づけがされ、慶長14(1609)年に徳川家康の命による天下普請によって篠山城が築城されました。

篠山市篠山伝統的建造物群保存地区は、天下普請による篠山城跡を核とし、武家町や商家町の町割りを残すなど、近世の城下町の基本的構造を良く残すと共に、武家屋敷や近世から近代にかけて建てられた商家及び寺院など、城下町の要素を全体としてよく残し、その歴史的風致を良く今日に伝え、全国でも価値が高い町並みであると評価され、平成16(2004)年12月10日付けで国の重要伝統的建造物群保存地区(重伝建地区)に選定され、平成19(2007)年2月には城下町篠山の町並みが美しい日本の歴史的風土100選に選ばれました。
また、平成21(2009)年1月には伝建地区のまちづくりを積極的に行っている篠山まちなみ保存会の活動などが評価され、文化庁長官表彰(文化芸術創造都市部門)を受賞、平成26(2014)年5月には都市景観大賞(都市空間部門)を受賞しました。

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この項 <完>

by mo-taku3 | 2016-10-15 11:48 | (歴史)関西史 | Comments(2)

漆黒の夜空に浮かぶ「京都タワー」201610012

漆黒の夜空に浮かぶ「京都タワー」201610012


何度も見慣れた「京都タワー」。
今年からか、去年からか定かではないが、京都タワーがカラーで装飾されている。

この日は一杯飲んだ帰りにふと見上げると京都タワーが良い色をしていたのでパチリ。
酔っ払いの撮った写真だが後で見てみるとなかなかいい。
でご紹介に至った次第である。

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この項 <完>

by mo-taku3 | 2016-10-12 20:34 | Comments(2)

久々に訪れた「東大寺大仏殿」20161004

久々に訪れた「東大寺大仏殿」20161004


奈良と云えば、春日大社・興福寺とともに何んといっても東大寺が際立つが、広大な敷地の中に世界的に有名な「大仏殿」がドーンと構えている。
東大寺の参道には沢山の鹿が気ままに闊歩しており、観光客のお煎餅をねだる姿があり、修学旅行生や外国人観光客の人気の的となっている。
この日は火曜日という平日にもかかわらず、大変な賑わいを見せており、車の我々は駐車場を探すのにも一苦労でした。

東大寺の大仏殿は、東大寺の本尊、奈良の大仏(盧舎那仏坐像)を安置している。
正式には東大寺の金堂であるが、「大仏殿」の名で広く知られている。
聖武天皇の発願で天平17年(745年)に制作が開始され、天平勝宝4年(752年)に開眼供養がなされた。
その後、中世、近世に焼損したため大部分が補修されており、当初に制作された部分で現在まで残るのはごく一部である。
大仏殿は、その後1181年(治承4年)と1567年(永禄10年)の戦火で2度にわたり焼失し、現在の建物は1709年(宝永6年)に落慶したもので、 「銅造盧舎那仏坐像」(昭和33年(1958年))ともども国宝に指定されている。
東大寺の伽藍の中央に位置し、境内で最大の建物である。
現存する大仏殿は、正面の幅57.5m、奥行き50.5m、棟までの高さ49.1m。奥行きと高さは創建当時とほぼ同じだが、幅は創建当時(約86m)の約3分の2になっている。
「東大寺要録」の「大仏殿碑文」によると創建時の大仏殿の規模は、幅29丈(約85.8m)、奥行き17丈(約50.3m)、高さ12丈6尺(約37m)、柱数84という。

また、現存の大仏は像の高さ約14.7メートル、基壇の周囲70メートルで、頭部は江戸時代、体部は大部分が鎌倉時代の補修であるが、台座、右の脇腹、両腕から垂れ下がる袖、大腿部などに一部建立当時の天平時代の部分も残っている。台座の蓮弁(蓮の花弁)に線刻された、華厳経の世界観を表す画像も、天平時代の造形遺品として貴重である。
大仏殿の正面には、国宝に指定されている金銅八角燈籠がある。

大仏殿の内部には大仏の鼻の穴と同じ大きさと言われる穴があいた柱があり、そこをくぐることを柱くぐりと言う。そこをくぐり抜けられればその年にいいことがある、あるいは頭が良くなるなどと言われ沢山の人、特に修学旅行生などは列をなしている光景が見られる。


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この項 <完>

by mo-taku3 | 2016-10-04 14:29 | (寺社)関西の神社仏閣 | Comments(2)

日本一古いと云われる「大神神社」実は・・・20161004

日本一古いと云われる「大神神社」実は・・・20161004


大神神社(おおみわじんじゃ)、皆さんはご存知でしょうか。
関西以外の人や歴史好きでない方は正しく読めない方が多いかと思います。

さて、大神神社は古事記や日本書記にも登場する由緒ある神社で、昔から神が宿るといわれる三輪山が御神体(本殿)として古代信仰の形態を残す日本一古いと云われる神社と云われています。

出雲の大国主神(おおくにぬしのかみ)が大物主神(おおものぬしのかみ)を三輪山に祀ったことが由緒とされています。
三輪山を御神体としており、直接三輪山に祈りを捧げるという古代の神を祀りの様式を伝える神社です。
三輪山は神の宿る聖地として禁足地にされています。
地元では、「三輪明神」「三輪神社」などとも呼ばれており、地元はもちろん遠方からの参拝客も多いそうで、最近は益々増える傾向にあるとのことです。

「大神」と書いて「おおみわ」と読むように、古くから神様の中の大神様として尊ばれ、第十代崇神すじん天皇の時代には国造り神、国家の守護神として篤あつく祀まつられました。平安時代に至っても大神祭(おおみわのまつり)、鎮花祭(はなしずめのまつり)、三枝祭(さいくさのまつり)が朝廷のお祭りとして絶えることなく斎行され、神階は貞観じょうがん 元年(859)に最高位の正一位(しょういちい) となりました。延喜式(えんぎしき)の社格は官幣大社(かんぺいたいしゃ)で、のちに大和国一之宮、二十二社の一社にも列なるなど最高の待遇に預かりました。

ここで幾つかポイントとをご紹介します。

・拝殿奥にある三ツ鳥居
明神鳥居3つを1つに組み合わせた特異な形式のものである。
三つ鳥居から辺津磐座までが禁足地で、4〜5世紀の布留式土器や須恵器・子持勾玉・臼玉が出土した。
三輪山から出土する須恵器の大半は大阪府堺市の泉北丘陵にある泉北古窯址群で焼かれたことが判明した。

・摂社の檜原神社
倭姫命が天照大神を磯堅城の神籬を立てて磯城の厳橿の本にはじめて宮中の外に祀った「倭笠縫邑」の地であると伝えられ、元伊勢の始まりの地となっている(垂仁記二十五年三月条)。

・狭井神社
祭神:大神荒魂神
式内社「狭井坐大神荒魂神社五座」。病気平癒の神社。
御神体である三輪山への登拝口が境内にある。但し、三輪山は御神体であり山そのものが神域であるため、軽率な気持ちで入山することは出来ない。(明治に渡るまで「神域」として一般の入山禁止であった。)登拝料を払い受付より渡されるたすきを首にかけるなどの厳守すべき規則があり、それを了承した上で登拝することが義務づけられている。

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*独り言!
何故大神と書いて“おおみわ”と読むかと云うと、元々は古代氏族の三輪氏の祭神「大三輪明神」が、三輪氏が征服されてから大三輪ではなく大神と呼ばれるようになったと解釈するのが妥当ではないかと云われる。
ではこの大神神社の祭神と云うと「大物主神」(大三輪神)であるが、これはどうも素戔嗚尊/須佐之男命の
6世孫の大国主命の後裔にあたるという説がある。
素戔嗚尊は紛れもなく出雲神とされているところから、大物主神を出雲神と云える。
ということはこの三輪地区は出雲族の土地だったのではないかということが浮かび上がってくる。
ましてや、隣りには出雲ムラがあったとされ、日本書記にもも出雲族の元祖として、野見宿禰の相撲の一説が出てくる。(大王が声をかけたら出雲から翌日出てきた。というくだり)
こうしてみて行くと子だしとして興味のでることが満載のようだ。

また、三輪氏は天武天皇との結びつきは大きい。
三輪氏は姓(カバネ)は初め君だったが、天武天皇13年(684年)11月に朝臣姓を賜り、改賜姓五十二氏の筆頭となり、飛鳥時代の後半期の朝廷では、氏族として最高位にあった。





この項 <完>

by mo-taku3 | 2016-10-04 13:23 | (寺社)関西の神社仏閣 | Comments(2)