この神社に関する資料は沢山存在するが、秦氏が社殿を造営したのは間違いないようだ。
そして秦氏自身まだ謎が多い一族である。
松尾山の山頂付近には「御神蹟」と称する磐座が残こってる。
古い神社は磐座が残っているが、磐座信仰を引き続いた場合とこの松尾大社みたいにつながりのない?形での神社はよくよく見ると違いが出ているのは確かである。資料によると、
「上古には松尾山頂の磐座(御神蹟)で祭祀が行われたといわれるが、『秦氏本系帳』では、大宝元年(701年)に勅命によって秦忌寸都理(とり)が現在地に社殿を造営し、松尾山の磐座から神霊を同地へ移したのが創建になるという。
また秦忌寸知麻留女(ちまるめ)が斎女として奉仕し、さらに養老2年(718年)に知麻留女の子の秦忌寸都駕布(つがふ)が初めて祝(神職)を務めたといい、以後はその子孫が代々奉斎するとしている。
社殿創建以前の祭祀については、未だ明らかではない。
前述(祭神節)のように松尾大社に関する古い伝承には、大山咋神が鎮座するという『古事記』の伝承、宗像の中部大神(中津島姫命)が鎮座するという『秦氏本系帳』の伝承、秦氏に加えて賀茂氏も創立に関与したとする『秦氏本系帳』の別伝承の3種類が存在するが、これらの解釈には不明な点が多い。
また、大宝元年(701年)に社殿が造営されたとする記事は『伊呂波字類抄』(平安時代末頃)にも確認されるが、『続日本紀』の同年記事に山背国葛野郡の月読神・樺井神・木島神・波都賀志神等の神稲を中臣氏に給すると見えることから、松尾大社の祭祀についても中臣氏の神祇政策が背景にあると指摘されている。
なお、社殿を現在地に定めた理由も定かでないが、平成26年(2014年)3月に本殿背後の樹木を伐採した際に巨大な岩肌があらわとなったことから、松尾山頂の磐座での祭祀にならってこの巨岩のそばで祭祀を行うことを志向したとする説が挙げられている。」
この神社はまだ解明されていない部分が多くあり、今後とも興味をもって調べていきたいと思っている。






この項 <完>
▲ by mo-taku3 | 2017-01-29 13:06 | (寺社)京都の神社仏閣 | Comments(2)