賀茂県主(かも あがたぬし)は、上賀茂神社の祭神・賀茂建角身命(かもたけつぬのみこと)の子孫とされる。
「山城国風土記」を引用すると、日向国曾の峰(そのみね)に天降った賀茂建角身命は、神武天皇の東征に従い、大和国、山城国岡田鴨を経て、木津川、鴨川、賀茂川と入り、京都の地に賀茂社を創祀したとある。
古代、賀茂氏は、大和政権(大和朝廷)の勢力拡大に伴い、大和国南部により京都に移住したとみられ、愛宕郡賀茂郷に定住し、葛野県(かどのあがた)の県主(あがたぬし)となる。
県主とは、朝廷の地方行政区画の「県(あがた)」の支配・管理者を意味している。
旧勢力の葛野(かどの)氏に代わるもので、賀茂氏もまた、後に秦氏の伸張により衰微している。
奈良時代から平安時代にかけて、賀茂氏は、宮廷に薪炭、氷などを献上し、賀茂両社の神事を司っていた。
社家とは、世襲制神職の家柄であり、社司家ともいう。
上賀茂神社の社家は、「五官(神主、禰宜など)」と二十一職の「社司」、奉仕する一般人の「氏人」などがある。
鎌倉時代までは、賀茂県主の後裔という「賀茂十六流」(氏、平、清、能、久、俊、直、成、重、幸、季、保、宗、弘、顕、兼→経)の中からのみ、上賀茂神社の世襲神職が選ばれていた。
社家町の町並一帯には現在、30数軒の社家と町屋が残されている。
明神川、庭園の緑、山並みと一体になった景観美を形成し、京都市の「上賀茂伝統的建造物群保存地区」(1988)、国の「重要伝統的建造物群保存地区」に指定されている。社家の町並みが形成されたのは、室町時代からで、上賀茂神社の神官(社司と氏人)の屋敷町になった。江戸時代、300近い屋敷が建ち並ぶ。社家でもっとも古いのは、南大路町の岩佐家というが、現在の社家町に上賀茂神社の神官は住んでいないのが残念である。








この項 <完>
▲ by mo-taku3 | 2017-06-30 21:07 | (歴史)京都史 | Comments(2)
















































































































