乙訓(おとくに)地名ですが、元は葛野(かどの)郡から分離して新しく郡を作るとき、葛野を「兄国」とし、新しい郡を「弟国」(乙訓)としたと言われています。
『日本書紀』によると、第26代継体天皇は河内で即位され、その12年(518年)3月、都を弟国に移され(弟国宮)、乙訓寺は宮跡として有力視されています。
乙訓寺は真言宗豊山派(本山:長谷寺)で、創建は古く、太秦の広隆寺(603年創建)とほぼ同時期の創建と見られており、寺伝では推古天皇勅願、聖徳太子創建となっています。発掘調査の結果もこれを裏付けるように、設計には法隆寺と同じ高麗尺が使われていると言われています。
桓武天皇は平城京から長岡京(乙訓郡を含む現長岡京市)に延暦3年(784年)遷都しましたが、わずか10年で都を平安京に移しています。
理由はいろいろ言われていますが、大きな要因としては早良親王の謀反疑惑事件が起こり、早良親王は延暦4年(785)乙訓寺に幽閉されています。その後、長岡京では疫病や天皇の回りでの重病・死亡が相次ぎ、早良親王の怨霊と噂され、弘法大師の乙訓寺別当就任弘仁2年(811)は、宮廷がこのたたりを恐れ弘法大師の祈祷の効験に期待したという説もあるようです。
また、空海は中国でも密教の高僧として扱われ、最澄が教えを請うたことが有名でこの寺で二人が密教について法論を交わしたという記録が残っているそうです。
また、ボタンの寺としても有名です。その昔、本山である長谷寺からボタン2株を寄進されたのが始まりとされ、今では4月下旬から5月上旬頃には、約2,000株の花が大輪の花を咲かせています。











この項 <完>
▲ by mo-taku3 | 2019-04-26 14:19 | (寺社)京都の神社仏閣 | Comments(2)