ここところ雨続きで観光客が少ない感じがする。昨日もかなり強い雨があり、傘を持たない沢山の観光客が地下鉄の出口で雨宿りをしていた。折角の旅行でかわいそうになった。
ここ祇園白川新橋は京都の顔と言っていい場所で京都の紹介では必ずと言っていいほど映し出される。天気が今一なので、人もまばらだが白川沿いの料亭の明かりがつき始めており、なかなかの風情を醸し出していた。








この項 <完>
▲ by mo-taku3 | 2019-08-30 17:12 | (風情)京都・関西 | Comments(2)








▲ by mo-taku3 | 2019-08-30 17:12 | (風情)京都・関西 | Comments(2)








▲ by mo-taku3 | 2019-08-29 15:36 | (歴史)関西史 | Comments(2)
















▲ by mo-taku3 | 2019-08-27 13:33 | (歴史)関西史 | Comments(2)
御霊信仰は9世紀前半から民衆の間で広まり、863年(貞観5年)には公式の御霊会で祭られるようになった。
桓武天皇の時代、各地で疫病が流行した。これは御霊の祟りであるとして、貞観5年(863)5月20日、平安京の神泉苑で御霊会が催された。この時に慰霊された御霊は崇道天皇・伊予親王・藤原夫人・観察使(藤原仲成)・橘逸勢・文屋宮田麿らであった。
この御霊会が上御霊神社および下御霊神社の創祀であるとしている。
現在の下御霊神社を下出雲寺御霊堂、上御霊神社は上出雲寺御霊堂と称し、ここにあった出雲寺の御霊堂だったようで、出雲族も怨霊だったような感じを受ける。その結果か、朝廷の篤い崇敬を受け、至徳元年には正一位の神階を授けられたという。
また、室町時代の文正2年(1467)1月18日、失脚した管領の畠山政長と畠山義就との私闘が当社境内の森で行われた(御霊合戦)。この戦いは応仁の乱の前哨戦となり、応仁の乱発祥の地とされる所以である。
なお、延喜式神明帳に記載される出雲井於神社(式内大社)や出雲高野神社(式内小社)を当社に比定する説もあるが、継続性は不詳であり、神社側の由諸ではこれらの式内社について言及していない。しかし、比定は無いにしても、関係性は十分考えられるように思う。











▲ by mo-taku3 | 2019-08-24 10:32 | (寺社)京都の神社仏閣 | Comments(2)
相国寺(しょうこくじ)は、臨済宗相国寺派大本山の寺院。山号は萬年山(まんねんざん)。
足利将軍家や伏見宮家および桂宮家ゆかりの禅寺であり、京都五山の第二位に列せられている。相国寺は五山文学の中心地であり、画僧の周文や雪舟は相国寺の出身である。また、京都の観光名所として著名な鹿苑寺(金閣寺)、慈照寺(銀閣寺)は、相国寺の山外塔頭(さんがいたっちゅう)である。
足利義満が開基で無窓疎石が開山とされている。
ここで有名なのは、高さ109.1mの「七重大塔」である。史上最も高かった「仏塔」であったが4年後に落雷によって焼失した。その後、北山山荘(現鹿苑寺)・相国寺の元跡地にそれぞれ再建されたが、やはり全て落雷により焼失してしまった。
また、応仁の乱では東軍「細川氏」の陣地となりまたも廃塵に帰している。
もう一つ歴史的価値があるのは、相国寺の発掘捜査から出雲族の遺跡が見つかったことである。相国寺から下鴨神社・上御霊神社辺りまで一帯は「出雲族」の居留地で、そこには『上出雲寺』があったことがわかっている。














▲ by mo-taku3 | 2019-08-24 09:00 | (寺社)京都の神社仏閣 | Comments(2)










▲ by mo-taku3 | 2019-08-22 15:10 | (寺社)京都の神社仏閣 | Comments(2)
大徳寺は京都北大路通沿いの大宮通西にある臨済宗大徳寺派の大本山で勅使門、山門、仏殿、法堂がほぼ一直線に並び、更に奥には方丈および玄関(国宝)唐門(国宝)*があり、これら中心伽藍の他20以上の塔頭寺院が並んでいる。
大徳寺の開祖である禅僧・宗峰妙超は正和4年(1315年)ないしは元応元年(1319年)に、洛北紫野の地に小堂を建立した。これが大徳寺の起源という。
建武の新政では京都五山の上位になったが、後醍醐天皇と関係の深かった大徳寺は足利将軍家から疎んじられ、十刹の第9位まで落とされている。
足利政権の庇護と統制下にあって世俗化しつつあった五山十刹から離脱し、座禅修行に専心するという独自の道をとった。(五山十刹の寺院を「叢林」(そうりん)と称するのに対し、同じ臨済宗寺院でも、大徳寺や妙心寺のような在野的立場にある寺院を「林下」(りんか)という。)
その後の大徳寺は、貴族・大名・商人・文化人など幅広い層の保護や支持を受けて栄え、室町時代以降は一休宗純をはじめとする名僧を輩出した。
更に有名にしたのは、豊臣秀吉が織田信長の葬儀を営み、菩提を弔うために総見院を建立、併せて寺領を寄進、それを契機に戦国武将の塔頭建立が相次ぎ隆盛を極めたという。その後徳川幕府により、大名の京都にある臨済宗の禅寺はこの大徳寺と妙心寺に寄せられたようである。
明治に入って「上知令」によって困窮し、堂宇を維持するため明治11年(1878)、塔頭13寺を合併、4寺を縮小、20寺を永続塔頭とする縮小を行ったが、その後寺運は栄え今日に至っている。










*唐門(国宝)は西本願寺と京都豊国神社の唐門とともに「桃山の三唐門」と呼ばれている。仏殿などの中心伽藍の北東に位置し、方丈南の土塀に接続する。かつてこの位置には明智門と呼ばれる本能寺の変直後に明智光秀が寄進した銀を元手に建築された門があったようだが?明治19年(1886年)に明智門を南禅寺金地院に売却し聚楽第の唐門を移築したと伝わる。
現在この唐門を含め大徳寺伽藍は敷地内に入れず、写真は敷地の外から写している。年に一度特別公開があるようだ。
この唐門は京都府教育委員会により解体修理が行われその際、飾り金物から「天正」の刻銘が発見されたことから、伝承通り聚楽第の遺構であることがほぼ確定している。▲ by mo-taku3 | 2019-08-22 14:36 | (寺社)京都の神社仏閣 | Comments(2)
京都と鎌倉にそれぞれ五山がある。これは、日本の禅宗のうち、臨済宗の寺院を格付けする制度として決められたものである。この制度の目的は、幕府が任命した住持(住職)を順次上位の寺に昇進させることにより、幕府の管理下に置き、コントロールしようというものである。
鎌倉幕府の5代執権・北条時頼の頃、中国の五山の制にならって導入したのが始まりで、その後いくつかの変遷を経て最終的には、京都と鎌倉にそれぞれ五山が決められ、その上に「五山之上」という最高寺格として南禅寺が置かれた。
現在の五山の順位が決まったのは、至徳3年(1386)、室町幕府3代将軍・足利義満の時である。
この建仁寺は京都五山第三位に格付けされている。
禅宗のお寺の伽藍配置の特長は、下の写真の二枚目にあるように、伽藍が一直線に並んでいることである。ここ建仁寺もそのように作られている。
建仁寺の開山は中国から日本に茶を広めたことで知られる栄西禅師であり、何と開基は源頼家とある。建仁寺には、国宝である俵屋宗達筆「風神雷神図」がある。










▲ by mo-taku3 | 2019-08-16 16:14 | (寺社)京都の神社仏閣 | Comments(2)






▲ by mo-taku3 | 2019-08-13 11:20 | (寺社)京都の神社仏閣 | Comments(2)






▲ by mo-taku3 | 2019-08-12 12:45 | (風情)京都・関西 | Comments(2)
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