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黄金に輝く久し振りの『金閣寺』20190920

黄金に輝く久し振りの『金閣寺』20190920



金閣寺です。特に説明をするまでもありませんが、簡単にご紹介しますと、
正式名称を鹿苑寺といい、銀閣寺とともに相国寺(臨済宗:京都五山)の塔頭寺院の一つです。
舎利殿「金閣」が特に有名なため一般的に金閣寺と呼ばれるようになったようです。
元は鎌倉時代の公卿、西園寺公経の別荘を室町幕府三代将軍の足利義満が譲り受け、山荘北山殿を造ったのが始まりとされています。

義満の死後、遺言によりお寺となり、夢窓国師を開山とし、義満の法号鹿苑院殿から二字をとって鹿苑寺と名づけられました。



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この項 <完>

by mo-taku3 | 2019-09-20 10:09 | (寺社)京都の神社仏閣 | Comments(0)

「床もみじ・床みどり」の岩倉実相院20190919

「床もみじ・床みどり」の『岩倉実相院』20190919


岩倉実相院は、名のとおり幕末で有名となった岩倉卿の里である。

『岩倉実相院』が門跡寺院である。門跡寺院とはその寺院の住職を天皇家の血を引く方々が務められていた、格式の高い寺院のことをいう。

元は京都北区紫野にあったのが、京都御所の近くに移っていた。 更にここ岩倉に移ったのは応仁の乱の戦火を逃れるためであったと言われている。
庭はきれいだし、名称の変わった磨かれた床に映し出される庭の景色(床みどり)が何とも言えない風情がある。
また、東山を望む庭園もきれいに整備されて素晴らしい。

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東山を借景とした庭園。
右端に比叡山が隠れている。


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中庭の庭園。(箱庭にしては広い。

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これが「床みどり」。
ここは写真撮影禁止となっている。
この2枚の写真は貼ってあったポスターの写真である。うつりがわるいのご勘弁ください。

実物はもっときれいです。

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この項 <完>





by mo-taku3 | 2019-09-19 14:00 | (寺社)京都の神社仏閣 | Comments(0)

江戸の町人の暮らし(江戸東京博物館)20190913

江戸の町人の暮らし(江戸東京博物館)20190913



江戸東京博物館の中に江戸の暮らしがつくられていました。
その中で、町人の暮らしを取り上げてみました。
色々な職人の仕事や住まい、町火消しの様子、「時の鐘」などがあり、特にこの時の鐘によって時刻が分かるようになっていたようです。しかしこれは有料だったというのが面白いというか何というか…。
面白いのは、「町の支配と運営」というのが描かれており、仕組みがよくわかりました。

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この項 <完>






by mo-taku3 | 2019-09-13 11:15 | (紹介記事)全国 | Comments(2)

江戸東京博物館20180913

江戸東京博物館20180913



東京の両国国技館の奥に「江戸東京博物館」というのがあります。なかなか楽しい施設で、平成5年に建てられたとあります。
中は江戸の様子を大規模な街の模型を造り展示してあり、エスカレーターを下りて入ると日本橋が見えてきます。かなり大きな橋です。
江戸の特長をよく捉えた、機構体制・仕組み・風習・息吹き・風俗、などを感じることができます。
これ造られた頃はもう東京に居なかったので今回初めて知ることができたのは幸いでした。

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この項 <完>






by mo-taku3 | 2019-09-13 09:32 | (紹介記事)全国 | Comments(2)

聖武天皇と紫香楽宮跡(しがらきぐう)0190910

聖武天皇と紫香楽宮跡(しがらきぐう)0190910



紫香楽宮跡は、松林に覆われた丘陵地に残る、国指定の史跡です。

聖武天皇は奈良の平城京で政治を行っていましたが、天平12740)年10月末に奈良を離れ、年末には奈良の北(木津川市加茂町)とその周辺に新しい都を造り始めました。

恭仁京(くにきょう)の建設が進められている間、恭仁京から甲賀郡紫香楽村に通じる道(恭仁東北道)が開通し、天皇は紫香楽村に離宮を造り、後にこの地を都としています。そして、三つ目の宮である難波宮(今の大阪市森ノ宮周辺)を都にする準備を進め、同年2月末には正式に難波を都とする宣言をしました。

聖武天皇が遷都を考えた理由には色々な説がありますが、有力と思われるのは中国の複数都制があったのではないかということです。恭仁京は物流、難波京は外交・貿易、そして紫香楽宮は仏都(廬舎那仏の建立)ということのようです。

その仏都として造られた『紫香楽宮跡』は、緑の松林に囲まれた緩い坂の参道をたどると、金堂跡があり、背後を囲むように僧坊跡・経堂跡・鐘楼跡・塔院跡などの礎石(そせき)が並び、東大寺とよく似た伽藍配置の寺院跡であることがわかります。この寺院は、聖武天皇が紫香楽宮で大仏造立をはじめた甲賀寺跡だと考えられています。
東西90m・南北110mにわたる広い丘陵地には、建造当時の335個の礎石が残り、はるか天平時代の雅やかな雰囲気が偲ばれます。


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この項 <完>





by mo-taku3 | 2019-09-10 14:30 | (歴史)関西史 | Comments(2)

洛北の名刹「正伝寺」京都20190910

洛北の名刹「正伝寺」京都20190910



洛北・西賀茂にある正伝寺は、鎌倉時代に宋から来日した、兀菴普寧(ごったんふねい)禅師が今出川に建てた仏殿が始まりといわれ、その後、兀菴禅師の意志を引き継ぎ東巌慧安(とうげんけいあん)によって建立された。

その正伝寺は、慧安が国家安泰・蒙古降伏の祈願を行なったことにより、亀山上皇から吉祥山正伝護国禅寺という寺号を授り、という。

その後、比叡山の宗徒の焼打ちにあった正伝寺は、慧安に帰依する賀茂社の社家・森経久からの寄進によってこの地に移り伽藍を整えたようだ。

室町時代には将軍の祈願所にもなった正伝寺は、応仁・文明の乱で焼失してから復興と荒廃を繰り返したが、江戸時代に入り金地院崇伝によって再興され、臨済宗南禅寺派の寺院となり現在に至っている。

金地院から移設された方丈は伏見城の遺構といわれ、方丈の襖絵は狩野山楽の山水画で国の重要文化財に指定されている。

方丈の東に広がる比叡山を借景とする庭園は、白砂が敷きつめられ、石ではなく刈り込まれたサツキが南から七・五・三と並び「獅子の児渡し庭園」ともいわれる枯山水の庭園です。

龍安寺の石庭を思わせる庭園に出会え、何か得をした気分になった。

この庭園は、江戸初期に作庭した庭であるが、金地院から方丈がこの地に移された年代から考えて、小堀遠州ではなく弟子の手によるものであろうとのこと。

サツキの先の白壁と塀の南の杮葺きの門(勅使門)の屋根は、境内の木々の緑の中で味わいのある雰囲気を演出している。

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この項 <完>





by mo-taku3 | 2019-09-10 11:13 | (寺社)京都の神社仏閣 | Comments(2)

宇治市にある黄檗(おうばく)山「萬福寺」20190908

宇治市にある黄檗(おうばく)山「萬福寺」20190908



黄檗山萬福寺は楽しく、気持ちのいいユニークなお寺である。
というのはお寺自体のユニーク性は勿論のこと、定時のお勤めの時間でも見学者にもオープンで、びっくりした経験があります。

黄檗山萬福寺は1661年に中国僧「隠元(いんげん)禅師」によって開基された。禅師は中国明朝時代の臨済宗を代表する僧で、中国福建省福州府福清県にある黄檗山萬福寺のご住職をしていました。その当時、日本からの度重なる招請に応じ、63歳の時に弟子20名を伴って1654年に来朝されました。宇治の地でお寺を開くにあたり、隠元和尚は寺名を中国の自坊と同じ「黄檗山萬福寺(おうばくざんまんぷくじ)」と名付けられた。

元々黄檗宗とは臨済宗に含まれる宗派だったので、そのため当初「臨済宗黄檗派」と称していたが幕府の政策等により、明治9年、一宗として独立し「黄檗宗」を公称している。日本でいう「禅宗」は、臨済宗、曹洞宗、黄檗宗の三宗に分類されてきた。

他の2つの禅宗と黄檗宗が大きく違う点として、中国的な特徴を色濃く残しているということが挙げられます。江戸初期から中頃にかけて、黄檗宗の総本山・黄檗山萬福寺(京都府宇治市)の住職は、殆どが中国から渡来した僧侶でした。朝夕のお勤めをはじめ儀式作法や法式・梵唄(太鼓や銅鑼など様々な鳴り物を使い読まれる、黄檗宗独特の節のある御経)にはその伝統が受け継がれており、今日の中国・台湾・東南アジアにある中国寺院で執り行われている仏教儀礼と共通する部分が数多く見られます。
機会を作って是非拝観することをお勧めしたい。



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この項 <完>

by mo-taku3 | 2019-09-09 15:21 | (寺社)京都の神社仏閣 | Comments(2)

京都「五条大橋」の歴史20190904

京都「五条大橋」の歴史20190904



義経と弁慶で有名な京都「五条大橋」の駒札がありました。その駒札には五条大橋の成り立ちが詳しく書かれていました。また、五条大橋の近くには「義経と弁慶の石像」が置かれています。
現在の五条大橋は現「松原橋(旧五条大橋)」から橋を移設したとあり、ここは元々「六条坊門小路」と言って橋は無かったそうです。
秀吉の京都愛は深く、戦乱に巻き込まれていた歴史を繰り返さないことを考え、京都の区画整理・路の整備・御土居など行う一方、祇園祭の復活も行いました。
その道路整備の一環として、この新五条通りを造り、そして今の「五条大橋」も造られました。



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天正14年(1586),秀吉は平安京の大内裏跡である内野を利用して「聚楽第(じゅらくてい)」の建設に着手した。そこは御所の西,僅か1キロメートル余りの場所であったが,それも計算の上であったろう。内野には農家や町家も点在し,町化が進みつつあったが,彼はこの地域を含め市街化された二条までの一帯を縄打ちした。
工事は諸大名に命じられ,10万余の人夫によって進められた。深さ54メートル,幅36メートル,全長1800メートルに及ぶ堀も瞬く間に完成し,諸大名の邸宅も順次竣工,千利休も葭屋町に屋敷を与えられた。そして着工から1年後には金箔瓦に覆われた聚楽第が,偉容を現した。周辺には武家屋敷,公家屋敷,町家などが整然と区画されて城下町のような景観を呈していた。同15年(15879月,聚楽第に移った秀吉は,翌年4月,室町幕府当時の先例にしたがって,後陽成天皇,正親町上皇らを新装なった聚楽第に招く「聚楽行幸」を実現した。それは,権力者としての地位を内外にしめす絶好の機会であった。

御所の修築も行われた。御所修築は信長時代にもあったが,秀吉のそれは新造ともいうべき本格的なもので,同17年(1589)から約2年の歳月をかけた結果,御所は面目を一新。聚楽第と御所の偉容は,上京の景観を完全に変えた。
 秀吉は都市改造も断行している。

まず、同19年(1591),洛中を取り囲む「お土居(どい)」の構築と街区の再編成を命じたのである。お土居は,東は鴨川,北は鷹峰,西は紙屋川,南は九条に至る延長225キロメートル,高さ約45メートルの土塁で,外側には幅4メートルから18メートルの堀を伴った。この土塁は,外敵侵入を阻止する軍事的意味合いと同時に,鴨川など河川の氾濫から市街地を守る役割を持っていた。秀吉は,かつての平安京をイメージしながらも,京都の地形並びに治水対策を考えた綿密な計画のもとに都市改造を行ったのである。工事は5カ月で完成し,京都は聚楽第を中心に巨大な城塞都市に変貌した。
 お土居の造成に前後して寺院街の建設も行われた。各寺院を強制移転させ,市街地の東側には「寺町」を,北部には「寺之内」を形成したのである。この寺院街の造成もまた,上京に新たな景観を生み出した。また,市街地も四条室町を中心に四分割して,それぞれに特徴を持たせ,条坊制に基づく平安京の町(120メートル四方)を短冊形に改め道路幅も縮小,ほぼ現在の道幅に変更した。改造された京都の街は,平安京のイメージは残すものの,聚楽第と御所を中心とした軍事的性格を持つ城下町的形態となり,平安京の左右対称的な構造は失われた。しかし,これが近世以降の城下町の原形となり,以後,この形式が全国各地に受け継がれたのである。

余談だが、16世紀後半,「小袖」という単純形式の衣装が流行した。小袖は,素材や意匠の差が身分差を識別する唯一の要素であり,それまでの形による身分の隔たりを狭めたことから大流行。海外からもたらされた製織技術や染色技法ともあいまって,小袖の新鮮な意匠や色彩が日常生活に華やぎと潤いをもたらした。そうした服装品の供給源が西陣であった。当時,西陣機業は21町に及び,京都はいうに及ばず日本を代表する高級織物生産地としての地位を確立していた。










この項 <完>





by mo-taku3 | 2019-09-04 12:14 | (歴史)京都史 | Comments(2)

北野天満宮(京都)20190904

北野天満宮(京都)20190904



北野天満宮の大きな駐車場の一角に「北野大茶湯之碑」とそれに使用した井戸があります。

それは、天正15年(1587年)10月1日,豊臣秀吉が京都北野天満宮の神域と松原において,広く人々を集めて催した開放的な大茶会がの跡でした。

秀吉は宮中などでしばしば茶会を開いたが,中でもこれはとくに盛大で,史上最も有名な茶会でもありました。この年の8月より洛中,奈良,堺などに高札を立てて沙汰を出し,「貧富の別なく,数寄者であればだれでも,手持ちの道具を持参し参加せよ」と呼びかけた。

北野松原で行った大茶会は、境内から松原にかけて1500軒余の数寄屋(すきや),茶屋を建てて客をもてなしたという。

この大茶会は初め10日間の予定であったようだが,肥後の国一揆(くにいっき)が起こり、1日で終わったという残念な結果だったようである。

北野天馬宮では暑さもあり参拝客は少なく、静かでしたが、神社では名物の梅干し(大福梅)が用意されてました。



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この項 <完>





by mo-taku3 | 2019-09-04 10:31 | (寺社)京都の神社仏閣 | Comments(2)

東京震災慰霊堂(関東大震災)20190901

東京震災慰霊堂(関東大震災)20190901



関東大震災は伝え聞いているだけで、色々な資料を見てもひどい状態として認識していた。

関東大震災は、192391日午前115844秒,相模湾で起こった大地震(関東地震)による災害である。この地震のマグニチュード(M)は 7.9、震源地は相模湾の北西部である。

家屋倒壊率の高かった地域は湘南地方、三浦半島、房総半島南部であるが、震災は東京を中心に千葉、埼玉、静岡、山梨、茨城、長野、栃木、群馬の各県に及んだ。

死者・行方不明者は、約105000人あまり(最近の調査)。建物の被害は、全壊約 13万棟、半壊約 13万棟、焼失約45万棟で、特に被害の大きかったのは東京で死者は 6万人をこえたが、その多くは 122ヵ所から発生した火災によるものとみられる。
地震の翌 92日午後、東京市と府下 5郡に戒厳令が布告された。

97日に山本内閣は「治安維持ノ為ニスル罰則に関スル件」という緊急勅令第403号を公布、治安維持に努めた。99日には 32000人が焼死した本所被服廠で合同法要が行なわれた。

政府は治安が乱れた背景に朝鮮人と社会主義者がいると宣伝し、朝鮮人虐殺、大杉栄らの虐殺、亀戸事件、社会主義者弾圧などが起こった。痛ましい大震災であった。

その慰霊のため、また、忘れないため、この「東京都慰霊堂」が建てられている。



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この項 <完>





by mo-taku3 | 2019-09-01 11:58 | (紹介記事)全国 | Comments(1)