知恩院「法然上人浄土宗開宗850年式典」20230414
「法然上人浄土宗開宗850年」一大イベントの様子です。宗教というものを全く理解していない私には、ただ「おめでたいことなんだ!」程度にしか感じないのは不遜なのでしょう。しかし歴史感覚から見ると成り立ち・生い立ち・他宗派との関係性などなどが見えてきて、実は楽しいことと思っています。
ということですが、色々な資料を元に、ちょっとその一部を覗いてみたいと思います。
さて、
「2024年(令和6)は、法然上人が浄土宗を開かれて850年目にあたる年です。南無阿弥陀仏ととなえれば、すべての者が救われる――。
善導大師(中国・唐の高僧)のお言葉との出会いにその確信を得た上人は、京都・東山吉水の地でお念仏の教えを弘めました。その教えは850年を経ようとする今もなお脈々と伝えられています。
(お念仏とともに歩む生き方)
私たちは生活の中でいろいろな時に幸せを感じます。
健康でやりたいことが精一杯できる時、家族とともに和やかに過ごす時、欲しかったものを手に入れられた時など。しかし、そうしたことはいつまでも続くとは限りません。予想しなかった大きな病気に見舞われることもあるでしょう、突然愛する家族と離れ離れになることもあるでしょう。欲しくても、どうしても手に入らないということもあるでしょう。私たちの人生はままならないものであり、自分の願い通りにならないという点において、全ては苦しみであると説くのが仏教の真理です。
このような人生の中、お念仏はどのような幸せを私たちにもたらしてくれるのでしょうか。
それは消えてしまうかもしれない、どうしても手に入らない、そのような「はかなさ」を超えた、変わることのない幸せです。ままならない人生は阿弥陀さまにすべてお任せし、お念仏をとなえることで、阿弥陀さま、ご先祖さま、懐かしいあの方の温かな眼差しがあなたの元に届きます。
想像してください、あなたの幸せを祈り、優しく見守り続けてくれる方がいることを。どんな時も、ひとりではありません。南無阿弥陀仏ととなえることは、その祈りを受け取り、ほんとうの幸せを叶えるための第一歩。お念仏から、あなたの幸せがはじまります。
(この命を終えたらどうなるのだろう――。)
誰もが抱く不安に寄り添ってくださるのが阿弥陀さまです。阿弥陀さまはまだ仏となる前、自分はこんな仏になりたい、と願われました。その願いとは、私たちの死後の行き先として極楽浄土を建立し、私たち一人ひとりをそこに迎え入れること。阿弥陀さまはこの願いを実現させ、仏となられました。
(極楽浄土は阿弥陀さまの功徳に満ち溢れた世界です。)
誰一人として悩み苦しむ者はなく、みな幸せに包まれながら仏道を歩むことができると、経典には説かれています。 では、どうやって極楽浄土を目指せばよいのか。
阿弥陀さまは、「南無阿弥陀仏」とお念仏をとなえる者の極楽往生を叶えると願い、その願いを実現させています。 お念仏を、私たちと極楽浄土を結ぶ架け橋としたのです。
私たちは救いを求めその名をとなえるたび、私たちを極楽浄土に迎え入れようとする阿弥陀さまの願いに出会うことができます。お念仏をとなえ続けることが、阿弥陀さまの願いとともに歩むことになるのです。
法然上人は、修行を重ねても煩悩を断ち切ることができない自分の身を嘆き、どのように仏道を歩めばよいか思い悩まれていました。そうしたなか、中国・唐の善導大師が著した『観無量寿経疏(かんむりょうじゅきょうしょ)』の一節に出会います。 それが冒頭の「開宗の文」と呼ばれているものです。
この一節により法然上人は阿弥陀さまの願いに出会うことができました。そしてお念仏をとなえ、み仏の願いとともに歩むことこそ我が仏道であり、同時に万人の仏道であると確信して浄土宗を開かれました。承安5年(1175)の春のことと伝えられています。それからもうすぐ850年。
令和の世に生きる私たちも、お念仏をとなえるならば、み仏とともに歩むことができます。極楽浄土へと続く確かな道を歩むことができるのです。」
とこのような感じです。こんな短い文章では当然言い表せないでしょうけど、人々の気持ちをつかんだ核心は何だったんだろうと思います。
機会があれば、宗派比較の上調べてみたいと思います。
この項 <完>