④梅宮神社(2012年3.3)

④梅宮神社(2012年3.3)の梅便り


今年初めて、梅宮大社に行ってきた。
カメラの撮影会があるらしく、30名近い老若男女(殆ど老男だったが)が集まっていた。
ここは梅林がある訳ではないが、立派な庭もあり、適度に梅がちりばめてあり、きれいに掃除もしてあり、気持ちの良い神社だった。
ご覧ください。
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この項 <完>

# by mo-taku3 | 2012-03-03 22:49 | Comments(0)

日本初の電機鉄道と京都の市電

日本初の電機鉄道と京都の市電


京都では、明治28(1895)年2月1日~昭和53(1978)年9月30日の83年間,市電、いわゆる路面電車が走っていました。
先の①でも述べましたが、明治28(1895)年,民営の京都電気鉄道会社(京電)が東洞院塩小路下るの七条停車場(京都駅)と伏見町下油掛間の営業を開始されました。
すなわち、京都に日本初の路面電車が誕生したわけです。
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しかし、明治45(1912)年6月に京都市営電車(市電)の営業が開始され,京電と激しく競合しましたが,大正7(1918)年7月,京都市が京電を買収し,競合区間があった路線が市電で統一されました。
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昭和30年代の後半(1959~1964)になると,市電と競合する市営バスや民間会社バスが増加し,更に自動車も多く走りはじめこともあり,路線変更の自由がきかない市電の経営は徐々に行き詰まりを見せ始めました。
昭和45(1970)年3月31日,日本最古の路面電車路線だった伏見線(塩小路高倉と中書島間)と稲荷線(勧進橋と稲荷間)が廃止されたのをはじめとして,路線が次々と廃止されていき,昭和53(1978)年9月30日には,残る外郭線(北大路・西大路・九条・東山・七条・河原町の各線)すべてが廃止され,京都の路面電車の歴史に終止符が打たれました。
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(こぼれ話)
1) 電気鉄道事業発祥の碑(下京区塩小路通東洞院南西角 )が京都駅に・・・。
伏見線は,明治28(1895)年2月1日,日本で初めて開通した路面電車で,下京区東洞院通東塩小路踏切(旧東海道線)南側を起点とし,この地点までの約6キロメートルを走りました。
その石標が,日本最初の路面電車伏見線開業80周年を記念して昭和50(1975)年に、東洞院塩小路交差点に建てられています。
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2) 疏水による電力で起動してました。
京電は琵琶湖疏水による水力発電によって電力が供給されていました。疏水の流れが止まってしまうと,京電もとまってしまいました。
京電の定期休業日は,疏水の掃除に併せて組まれていたようです。その他,水利事務所の機械故障や琵琶湖の増水などによっても電車が止まりました。
明治32(1899)年,東九条村(現南区東九条東山王町)に火力発電所が開設され,その結果、輸送能力が一気に向上しました。

3) 告知人制度
京電が開業して後、雑踏や街角,橋上では事故が起こったため、昼は旗,夜は提灯をもち「電車がきまっせえ。あぶのおっせえ」と叫びながら線路を走る告知人がいました。
告知人は,12歳から15歳の少年で構成されていて,先走りと呼ばれました。
仕事は危険な上に汗とほこりにまみれての重労働なことや,少年が電車にひかれるなどの危険がともなったため、この告知人制度はやがて廃止されました。




この項 <完>

# by mo-taku3 | 2012-03-01 15:23 | 京都発の初物 | Comments(4)

日本電気鉄道事業の発祥

日本電気鉄道事業の発祥は京都


たまたま京都駅まで史跡らしきものを見つけ、読んでみると【電気鉄道事業発祥地】の記念石碑でした。

内容は、
明治28年2月1日に京都駅の200m位北にあたる、七条東洞院通り~伏見下油掛通り(南に6km位)までの区間を、日本で初めて電気鉄道が走ったと刻まれておりました。
この成功が元で、全国の電気鉄道事業が進み、今日では新幹線に至っているわけだそうです。
JRの電化よりも早かったということですね。
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この記念碑が建てられたのは、37年前で、字も読みづらくなっていました。
この碑が建てられた当時は、京都の市電はまだ残っていたようで(1978年9月末全廃)、その数年後に市電が無くなってしまったとき、関係者は複雑な想いだったのではないかと思います。

私は京都に住んで、京都人の気骨を感じることがあります。
自分たちだけの伝統を大切にすることが京都人と思っておりましたが、どうしてどうして、京都は新しいことに積極的に取り組む新進気鋭の精神が脈々と流れていることが、京都を知れば知るほどわかってきます。

また、京都には外車が多いことと、外人の多さには驚きます。
私が住んでいるマンションの駐車場は、半分が外車です。
ということから、京都発、世界への発信が多くみられるのは頷けます。

京都には未だ未だ興味深いことや、日本初というものもあるようです。
都が江戸(東京)に移ってからの、京都人の合言葉は、「第二の奈良にしない」ということでした。

また、東京遷都にあたり、明治天皇は色んなことに気を使っています。東京としたのも東の京ということで、企業でいう、東京本社ということではないかと思われます。
知らない人が多いと思いますが、平安時代に日本は今の満州あたりにあった“渤海国(韓流ドラマ:テジョヨンで有名)”と盛んに交易しておりました。
この渤海国の首都も何度か変わりましたが、東京・西京などが遷都の度につけられました。
都が移っても、東京ならまた戻ってくるとの、かすかな期待を持たせたのではないか思います。
明治天皇の気持ちにも、大都市の人心を安定させる意味の遷都ではなかったかと感じることもあります。
天皇が武家の本拠地に移るということは、本来屈辱だと思うのが普通でしょうから。

「時代祭」も明治天皇のお声がかりで、京都の歴史を忘れないためにやらせたとのことです。
しかし、残念なことに時代祭は、明治天皇の思いを汲まない一部の政治家や町内会のボスが、途中から個人の名声のために利用したようになったのは情けない。

等々、これから京都にまつわる事象を、できるだけ歴史的な見地から検討し、今後とも追々調べて掲載していきます。




この項 <完>

# by mo-taku3 | 2012-02-29 23:01 | 京都発の初物 | Comments(2)

⑤北野天満宮の梅便り(2012年2.19)

⑤北野天満宮の梅便り(2012年2.19)


今年(2012年2月19日)京都で比較的梅の開花が早い北野天満宮に出かけてみた。
しかし、未だ1・2分咲きという状態だった。
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開花情報を見て再度出直すことにして、京都御苑を後にした。




この項 <完>

# by mo-taku3 | 2012-02-19 22:53 | Comments(0)

羅城門跡と矢取地蔵

羅城門跡と矢取地蔵


東寺の山門には仁王像は無かった。仁王門があったであろう場所は、空っぽの状態だったのがさみしい。
きっと何度も災難に遭い、何度も作ることができなかったのではないかと思う。
南北朝時代東寺は南朝、北朝それぞれの拠点に繰り返しなったところであった、
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その門をくぐり、九条通りを西に500m位歩くと羅城門跡の位置に着いた。
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羅城門は平安時代の2度目暴風雨での倒壊以来の復元は行われなかったようだ。
これは、大内裏の荒廃も同じだったようだ。その結果、朱雀門と羅城門を結ぶ朱雀大路が全く見る影もなくなったと云われている。
羅城門の説明が書かれていたのでお読みいただきたい。
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羅城門の石碑が建てられていたところは公園になっていた。(花園児童公園)
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羅城門の石碑の前に、矢取地蔵があった。
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説明板には、淳和天皇の時代に日照りが続いたため、守敏と空海に雨乞いの詔がくだり神泉苑で雨乞いが行われた、空海が勝った。その遺恨で空海が矢を射られたとき、間に入ったお地蔵さんがこの、矢取地蔵とのことであった。この地蔵には背中に傷があるとのことであった。
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色々なところに平安京の遺跡が存在している。
羅城門もいつの日か復活することを期待したい。



この項 <完>

# by mo-taku3 | 2012-02-19 00:40 | (歴史)京都史 | Comments(2)