奈良【東大寺】国分寺の総本山

奈良【東大寺】国分寺の総本山




東大寺(とうだいじ)は、奈良県奈良市雑司町にある華厳宗大本山の寺である。
金光明四天王護国之寺(こんこうみょうしてんのうごこくのてら)ともいい、奈良時代(8世紀)に聖武天皇が国力を尽くして建立した寺である。
「奈良の大仏」さんとして知られる盧舎那仏(るしゃなぶつ)を本尊としている。
『奈良の大仏』さんのお寺として、古代から現代に至るまで、日本の文化に多大な影響を与えてきた寺院でもある。
また、聖武天皇が当時の日本の60余か国に建立させた国分寺の中心をなす「総国分寺」と位置付けられている。
奈良時代には中心堂宇の大仏殿(金堂)のほか、東西2つの七重塔(推定高さ約70メートル以上)を含む大伽藍が整備されたが、中世以降、2度の兵火などで多くの建物を焼失した。
東大寺は1998年に古都奈良の文化財の一部として、ユネスコより世界遺産に登録されている。

東大寺は新たに建てられたのではなく前身のお寺があり、金鐘寺という(謂れについては諸説あり)。
『続日本紀』によると、この金鐘寺は大和国の国分寺と定められ寺名は金光明寺と改められた。
聖武天皇が大仏造立の詔(みことのり)を発し、大仏の鋳造が始まったのは天平19年(747年)で、このころから「東大寺」の寺号が用いられるようになったといわれている。

この当時、都は恭仁京(くにのみや 京都府相楽郡加茂町)に移されていたが、天皇は恭仁京の北東に位置する紫香楽宮(しがらきのみや 現・滋賀県甲賀市信楽町(信楽焼きのたぬきの焼き物で有名))におり、大仏造立も当初はここで始められている。
2年後の天平17年(745年)、都が平城京に戻ると共に大仏造立も現在の東大寺の地で改めて行われることになった。この大事業を推進するには幅広い民衆の支持が必要であったため、朝廷が弾圧していたが当時民衆に絶大な人気が会った行基を聖武天皇自らが要請して大僧正として迎え、協力を得ることとなった。
大仏の鋳造が難工事の末終了し、天竺(インド)出身の僧・菩提僊那を導師として大仏開眼会(かいげんえ)が挙行されたのは天平勝宝4年(752年)のことであった。
そして、大仏鋳造が終わってから大仏殿の建設工事が始められて、大仏殿が竣工したのは天平宝字2年(758年)になる。

東大寺では大仏創建に力のあった良弁、聖武天皇、行基、菩提僊那を「四聖(ししょう)」と呼んでいる。

東大寺参道の途中にモダンな石碑があった。

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華厳宗大本山東大寺。
奈良時代のいわゆる南都六宗(華厳宗、法相宗、律宗、三論宗、成実宗、倶舎宗)は「宗派」というよりは「学派」に近いもので、日本仏教で「宗派」という概念が確立したのは中世以後のことである。それまでの寺院は、複数の宗派を兼学することが普通であった。
東大寺の場合、近代以降は所属宗派を明示する必要から華厳宗を名乗っているが、奈良時代には「六宗兼学の寺」とされ、大仏殿内には各宗の経論を納めた「六宗厨子」があった。平安時代には空海によって寺内に真言院が開かれ、空海が伝えた真言宗、最澄が伝えた天台宗をも加えて「八宗兼学の寺」とされていた。

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南大門に繋がる参道。
奈良時代の東大寺の伽藍は、南大門、中門、金堂(大仏殿)、講堂が南北方向に一直線に並び、講堂の北側には東・北・西に「コ」の字形に並ぶ僧房(僧の居所)、僧房の東には食堂(じきどう)があった。
更に、南大門 - 中門間の左右には東西2基の七重塔(高さ約70メートル以上と推定される)が回廊に囲まれて建っていた。現在、中門-大仏殿は回廊に囲まれて芝生の庭が整備されているが、建設当時は、この七重の塔の周りも回廊に囲まれてきれいな庭になっていたものと推定される。

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南大門は国宝に指定されている。
平安時代の応和2年(962年)8月に台風で倒壊後、鎌倉時代の正治元年(1199年)に復興されたものである。
建築様式が大仏様(だいぶつよう、天竺様・てんじくようともいう)を採用した建築として著名である。
中国・宋から伝わった大仏様式の特色は、貫と呼ばれる、柱を貫通する水平材を多用して構造を堅固にしていることや天井を張らずに構造材をそのまま見せて装飾としていることなどが挙げられる。
門内左右には金剛力士(仁王)像と石造獅子1対(重文)を安置している。

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(この写真は中側から写したものです。悪しからず。)


木造金剛力士立像も国宝である。
高さ8.4メートルの巨大な木像。門の向かって右に吽形(うんぎょう、口を閉じた像)、左に阿形(あぎょう、口を開いた像)を安置する。これは一般的な仁王像の安置方法とは左右逆である。1988年から1993年にかけて造像以来初めての解体修理が実施され、像内からは多数の納入品や墨書が発見された。それによると阿形像は大仏師運慶および快慶が小仏師13人を率いて造り、吽形像は大仏師定覚および湛慶が小仏師12人と共に造ったものである。これは、「阿形像は快慶、吽形像は運慶が中心になって造った」とする従前の通説とは若干異なっているが、運慶が製作現場全体の総指揮に当たっていたとみて大過ない。

(吽形像、口を閉じた像)
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(阿形像、口を開いた像)
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大仏殿 (別項に掲載してあるのご参照のこと

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道しるべ(二月堂、正倉院、手向山天満宮方面)もわかり易い。

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二月堂。
旧暦2月(3月初旬の約2週間強)に「お水取り(修二会)」が行われることからこの名がつけられている。
東大寺は数々災難に見舞われ、またお水取りの最中に失火で焼失したこともあったが、休むことなく続けられている、唯一の行事である。
二月堂は平重衡の兵火(1180年)、三好・松永の戦い(1567年)の2回の戦火には焼け残ったが、寛文7年(1667年)、お水取りの最中に失火で焼失し、2年後に再建されたのが現在の建物である。
本尊は大観音(おおかんのん)、小観音(こがんのん)と呼ばれる2体の十一面観音像で、見ることを許されない絶対秘仏である。
建物は2005年12月、国宝に指定された。

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法華堂(三月堂)。
東大寺建築のなかで最も古く、寺伝では東大寺創建以前にあった金鍾寺(きんしょうじ)の遺構といわれている。また、「羂索堂(けんさくどう)」とも云われ、不空羂索観音を本尊として祀るためのお堂である。
旧暦3月に法華会(ほっけえ)が行われるようになり、法華堂、また三月堂ともよばれるようになった。

正堂は天平初期の建築だが、礼堂は大仏様(だいぶつよう)の特色が見られる鎌倉時代の建築。時代の異なる建築が高い技術によって結ばれ、調和の取れた美しい姿を見せる。

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四月堂。
法華三昧という法華経の修行が行われていた事から三昧堂と呼ばれていたそうです。また法華三昧が4月に行われていたことから四月堂と呼ばれるようになりました。現在も四月堂に安置される普賢菩薩が本尊とされた時期もあり、その当時は普賢三昧堂と呼ばれていました。
丁度、普賢菩薩の特別拝観があり、呼び止められて丁寧に説明を受けてきた。

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四月堂から鐘楼に向かう山道も綺麗に掃かれて気持ちがよかった。

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鐘楼・大鐘。
東大寺の梵鐘は、総高3.86m、口径2.71m、重量26.3tあり、撞木はケヤキ造りで、長さ4.48m、直径30cm、重さ180kg、金具を入れると約200kgもある。 大きな釣鐘であるところから古来東大寺では大鐘(おおがね)と呼んでいる。
この大鐘をつっている鐘楼は、俊乗堂と念仏堂にはさまれた鐘楼ヶ丘と呼ばれる場所に建っている。
現在のこの建物は、栄西(ようさい)禅師が鎌倉時代(承元年間・1207~10)に再建したものである。
大鐘は天平勝宝4年(752年)に鋳造されたといわれてり、最古の釣鐘の類に入るらしい。その後、延久2年(1070)10月と永長元年(1096)10月に地震のため墜落し、又延応元年(1239年)6月には龍頭が切れて転落したが、すぐに修理されたことが修理銘によって知られている。

ここの係りの人が、古い3大鐘のひとつと説明していた。
しかし、ぞんざいな態度だったので、あまり聞く気にもなれなかった。四月堂の方とは全然違う。

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大仏殿建立に貢献した、行基の御堂があった。
特にこれといった説明が施されていなかった。

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穏やかな奈良公園では、鹿がのんびりと草を食んでいた。

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このほか転害門、開山堂、戒壇堂などがある。

転害門。
境内西北、正倉院の西側にあり、三間一戸八脚門の形式をもつ堂々とした門である。
平重衡の兵火(1180年)、三好・松永の戦い(1567年)の2回の戦火にも焼け残った寺内で数少ない建物のひとつで、天平時代の東大寺の伽藍建築を想像できる唯一の遺構である。
尚、10月5日の転害会では、この基壇上において手向山八幡宮の祭礼が何故か行われることになっている。

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また、特に有名なのは、正倉院であるが、これは東大寺の持ち物ではなく、国の所有なので、東大寺のホームページには載ってない。
すっかり、東大寺の正倉院と思っていたが・・・。
それと、法華堂(三月堂)の傍にある、「手向山天満宮」は、これも別法人とのこと。

今回は具体的にしっかり見学することを狙いとしたため、色々な発見があった楽しい旅だった。

(文中の文章の一部を東大寺HP を参照させていただいた。)






この項 <完>

# by mo-taku3 | 2012-08-29 23:24 | (寺社)関西の神社仏閣 | Comments(2)

奈良【東大寺大仏殿】

奈良【東大寺大仏殿】




東大寺大仏殿(とうだいじだいぶつでん)は、知らない人が居ないくらい有名なところで、殆どの人は、修学旅行で一度は訪れているのではないかと思う。
正式には東大寺金堂というが、「大仏殿」の名で広く知られている。
大仏殿には、盧舎那仏坐像(奈良の大仏)が安置されている。
現在の建物は1691年(元禄4年)に完成、1709年(宝永6年)に落慶したもので、日本の国宝に指定されている。
現存する大仏殿は、正面の幅57.5m、奥行き50.5m、棟までの高さ49.1mで、奥行きと高さは創建当時とほぼ同じだが、幅は創建当時(約86m)の約3分の2になっているようだ。
木造軸組建築としては現在でも世界最大となっている。

最初の大仏殿の建設は大仏の鋳造が終わった後に始まり、758年(天平宝字2年)に完成した。
1181年(治承4年)1月15日(旧暦12月28日)、平重衡などの南都焼討によって焼失。その後、1190年(建久元年)に再建され、落慶法要には源頼朝なども列席した。

1567年(永禄10年)、東大寺大仏殿の戦いによって焼失(多聞院日記)。仮の仏堂が建設されたが、1610年(慶長15年)の暴風で倒壊した。
その後、現存する大仏殿の建設が始まり、1691年(元禄4年)に完成、1709年(宝永6年)に落慶した。
また、1879年(明治12年)から1915年(大正4年)までと、1973年(昭和48年)から1980年(昭和55年)まで、それぞれ修理が行われているほか、1952年(昭和27年)3月29日には国宝に指定された。

県道を左折すると、参道があり南大門が見えてくる。
この参道を進んでいくと、正面に大仏殿が見えてくる。

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大仏殿の全景はこのように見える。
この建物が聖武天皇の時代に建てられたということは、驚異的なことではないか。科学的な進歩がない中で人間の知恵と能力には感嘆される。

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大仏殿の前に建つ中門。これまた半端なく大きい。

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中門の左の袖から中に入ると、大仏殿がドーンと目に入る。
前庭の緑に映えて、凄いというより美しい。

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中門の入口の外から見える大仏は、大仏殿が大きいせいかそんなに大きくは感じないが、近くに寄ると、見上げるような、想像以上の大きさである。
写っている人の大きさと比較してみると、お分かりいただけるだろう。

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いよいよ、奈良の大仏さんである。
もう何年ぶりになるだろうか、多分30年振りと思う。
奈良の大仏として親しまれている盧舎那仏坐像は、聖武天皇の発願で天平17年(745年)に制作が開始され、天平勝宝4年(752年)に開眼供養会(魂入れの儀式)が行われたが、大仏は中世、近世に焼損したため大部分が補修されており、建立当時の部分はごく一部である。
盧舎那仏坐像(奈良の大仏)は「銅造盧舎那仏坐像」の名で彫刻部門の国宝に指定されている。

中に入って大仏を見上げると、すべてが桁違いで壮大だということがわかる。大仏殿の大きさから想像してみると、それほどとはという感じだったが、そうではない。凄い!

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また、この他、大仏の左右には木造の如意輪観音坐像と虚空蔵菩薩坐像を安置され、堂内北西と北東の隅には四天王のうちの広目天像と多聞天像が安置されている。
いずれも江戸時代復興期の像だそうだ。

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更に近づくとその大きさが実感できる。

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大蓮弁の一枚の大きさに圧倒される。

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横のお姿も見事。

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背中もしっかりした彫刻・飾りを施している。

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堂内には明治42年(1909年)の日英博覧会用に製作された、東大寺旧伽藍の模型がある。
模型を見ると、大仏殿の横、東西に七重の塔が建っていたようだ。
今は全く面影もないが、何度も被害に合い、塔までは手が回らなかったようである。

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柱のくぐり抜けを見ていると、外人が盛んにチャレンジしていたり、意外と女性の姿が目につく。
子供があっさり潜り抜けた。拍手喝采!

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土産物売り場。外人が多いせいか英語の表示が目立つ

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丁度天気に恵まれ、もう一度全体を眺めるとやはり壮観だった。

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大仏殿の正面には、国宝の金銅八角燈籠がたっている。
たびたび修理されているとのことだったが、基本的には奈良時代創建時のものだそうである。
火袋羽目板(写真)4面には楽器を奏する音声菩薩(おんじょうぼさつ)像を鋳出している。

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良い目の保養をさせていただいた。







この項 <完>

# by mo-taku3 | 2012-08-29 23:07 | (寺社)関西の神社仏閣 | Comments(2)

【奈良公園】

【奈良公園】



奈良公園といえば"鹿”が有名でしょう。
現在、約1200頭以上の鹿が生息しているようだ。

さて、奈良の都は、約1300年前の710年(和銅三年)平城京に始まる。
それから長岡京に移るまで74年間都があり、華やかな仏教文化が天平文化として栄えたところである。
この頃の信仰の場として東大寺、興福寺など南都七大寺と春日大社等の寺社仏閣が創建されたり、或いは飛鳥京などから移築され、それぞれ門前町として発展してきたが、その後、観光へと時代は変遷した。

長岡京、平安京に遷都して以降も、奈良の寺社は移築されることなく存在しており、その中で奈良公園はこれら寺社仏閣を結ぶ緩衝地帯となっているように見える。
奈良公園は500ヘクタールを超える広大な地域にまたがり、貴重な歴史的文化遺産を包み込むように、東大寺、興福寺、春日大社、保存のための文化施設である国立博物館、正倉院等々と、これらをとりまく雄大で豊かな緑の自然美が調和して、他に類例のない歴史公園とも称されるようになった。
木々に映える堂塔伽藍、若草に萌える芝生、鹿の群れ遊ぶ風情、「大仏と緑と鹿」で代表される奈良公園は古都奈良の顔になっている。
と、言っていい。
(データ)
  名称 奈良県立都市公園 奈良公園
  開設年月日  明治13年2月14日
  総面積   502.38ha (内、平坦部 39.82ha ・ 山林部 462.56ha) 平成17年9月改正告示
  観光客数  年間約1,300万人
  主な動物  シカ(約1200頭)

ここは殆どが旅行者のようだ。特にこの日は真夏にもかかわらず、沢山の人手だった。

奈良公園を近鉄奈良駅から、東大寺に向かうと途中”せんとくん"に出会った。
「ゆるキャラのせんとくん」は未だ健在のようだ。

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奈良公園を中心に、東大寺、興福寺、春日大社などの位置を示した「歴史の道」と称した案内板があった。
これを見ればそれぞれの位置がわかるので、旅行者もちょくちょく覗いて、確認していた。

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この通りは東大寺の大仏殿に続く道だが、遠くに仁王門が見える。
この通りは人通りが多いが、観光役目宛の鹿せんべい売りがおり、鹿も沢山寄って来ている。
この日は、風も殆どないため鹿の糞の匂いがかなり強かった。いままで、何度か来ているが、この強烈な匂いは今回が初めてである。

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公園全体がかなり整備されており、手入れが行き届いているので、鹿ものんびり、落ち着いている。
遠くを眺めても、様になる風景である。

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大仏殿の入口前で、鹿に声をかけると、こちらを向いてくれたので、いいショットが撮れた。

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鹿の角は鋭くとがっている。
発情期などは、かなり興奮していることも多い。そのため、このような注意版があちこちにあった。
皆さん気をつけましょう。

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鹿もすっかり利口になって、もらえそうなところが鹿せんべい売りのところだと知っているようだ。

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外国人の観光客も多かったが子供を中心に、鹿せんべいがかなり売れていたようだ。
面白いのは、鹿が子供の服の前側を口に含んでなめる仕草があった。子供だから何かをこぼした味があったのではないか。

とにかく、くさいのを何とかしてほしい。






この項 <完>

# by mo-taku3 | 2012-08-28 23:58 | (紹介記事)関西 | Comments(2)

【飛鳥資料館】 飛鳥の写真展もやっていた。

【飛鳥資料館】 飛鳥の写真展もやっていた。


明日香村は遺跡の宝庫で、今でもあちこちで発掘が行われている。
新しい歴史の遺跡が次々と顔を出していますが、この資料館では、こうした発掘遺跡もとに研究が行われ、最新の飛鳥研究の成果を分かりやすく展示しているとしています。

飛鳥資料館の駐車場横には、石人像のレプリカの上に飛鳥資料館の看板が掲げられている。

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チケットを買って、この飛鳥資料館を見るとかなり広い敷地に、建屋と大きな庭園が配置されていた。
また敷地を横切るように川が流れている。

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橋を渡るとすぐ左の前庭に大きな「亀石」が目に入る。
他に広い庭園にはゆったりと、須彌山石、酒船石、石人像から水が流れ、飛鳥の石造物の往時の様子をレプリカで再現されている。

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資料館の内部は、一階には玄関ロビー、第一、第二の常設展示室、図書閲覧室があり、小さなミュージアムショップも付属している。地階は、ビデオ映像で飛鳥の遺跡を紹介する映写ロビーやポスターギャラリー、キトラ古墳壁画を紹介するコーナーや特別展のときに用いる第三展示室(特別展示室)もおかれている。

しかし、生憎一階は全面改装工事か何かで見学することはできなかった。
水落遺跡の再現建屋が見られると聞いてきたが、残念でした。

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正面から入れず、側面から入って地下に降りると、明日香の写真展をやっていた。
明日香の四季が撮られた、しかも入選作品のみだがかなりの量で、明日香のことがよくわかるすばらしいものばかりだった。

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その横には、飛鳥寺の塔芯のところから出土した、珍しい皮製の甲(かぶと)の桂甲(けいこう)が展示してあった。

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その横には「キトラ古墳」の石室の内部写真が展示してあった。
かなり鮮明に写っているところを見ると、発掘初期に写したようだ。

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アンタッチャブルな遺跡として手付かずだった、蘇我倉山田石川麻呂の菩提寺である山田寺の発掘が進められ、その遺構の一部が再現され展示されていた。
(蘇我倉山田石川麻呂とは)
“乙巳(いっし)の変”の際、中大兄皇子、中臣鎌足と共謀して入鹿の誅殺をはかった人物である。
蘇我入鹿暗殺後、脱出した古人大兄皇子が述べた「韓人(からひと)、鞍作(入鹿)を殺しつ」(「韓人殺鞍作臣」)の韓人は、先祖にその名を持つ、蘇我倉山田石川麻呂を指すという説もある。
その後、改新政府において右大臣に任命されるが、異母弟の日向に石川麻呂が謀反を起こそうとしていると密告され、孝徳天皇により兵が派遣されたため、長男の興志ら妻子と共に全く抵抗せず、山田寺で自害した。
なお、この事件は中大兄皇子と中臣鎌足の陰謀であったとされている。

その後、たたりを恐れて埋もれたままになっていたが、1980年頃から発掘が始まった。
過去殆どの遺跡建材は他で利用されたりして残っていないのが普通であるが、史実どおりこの山田廃寺(東回廊他)は、倒壊したままの姿で発掘された非常に珍しい例である。

説明板にそのことが書かれている。のでお読みいただきたい。

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その山田廃寺の東回廊が再現されている。

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その時の発掘の様子を見ることができる。

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山田寺講堂にあった如来像の仏頭。
この如来像は興福寺に移されていたが、やはり運命か火災に合い仏頭だけがのこされた。
非常に上品なお顔である。

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このように、遺跡が発掘されるにつれ、史実の正しさが証明されてきている。
また、歴史的なノンフィクションの物語が現れてくることにより、当時の人々の心情もうかがい知ることができる。







この項 <完>

# by mo-taku3 | 2012-08-23 13:19 | (歴史)関西史 | Comments(2)

【藤原宮】 平城京の前の都

【藤原宮】 平城京の前の都



藤原京は、中国の都城制を模して造られた日本初の本格的な都である。
持統天皇が飛鳥から藤原の地に都を遷したのは694年のこと。新たな都の造営は、亡き夫・天武天皇を意志を受け継いだ中央集権国家の確立には欠かせない一代事業だったと思う。
その大きさは、東西方向約5.3km、南北方向4.8kmで、平城京、平安京をしのぐ古代最大の都であった。
藤原京時代に大宝律令が制定され、貨幣も発行された。
また、初めて「日本」という国号を使用したのも藤原京を発した遣唐使だった。

藤原京は、東西南北に張り巡らされた道路によって街並みが碁盤目状に区切られ、その中に多くの寺院や役所のほか、市場や役人、庶民の住宅や寺院などが計画的に配置されていた。
人口は約3万人と推定されている。
藤原宮では初めて屋根に瓦を葺いている。

藤原京の大きさを現在の地図で見ると、大和三山がすっぽりと入っており、さぞ、美しい情景だったに違いない。藤原宮跡から見る朝陽・夕陽は、平成23年6月には、藤原宮跡からの大和三山の稜線の眺めが、「重要眺望景観」に指定されている。

大極殿は藤原京の中心となる建物で,それを囲む、東西115m,南北155mの範囲を大極殿院という。
大極殿院の南の中央に朝堂院につながる門があった。この門は「大極殿院閤門(だいごくでんいんこうもん)」と呼ばれている。
奥に見える無数の柱はこの門の発掘遺跡を示すもの。

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上で述べたが、藤原宮跡の詳しい説明の駒札がある。

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また駒札の横に藤原宮跡も見取り図が併示されている。
平城京よりも規模が大きい。

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藤原宮の中心地点に、「持統天皇文武天皇藤原宮跡」の石碑があった。文字も削れて見え難い状態でかなり以前に立てられたものに見える。

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現在、藤原宮跡では、季節ごとに美しい花が植えられ、菜の花やコスモス、キバナコスモス、ハスなど色とりどりの大地のカーペットを楽しむことができる。
これもコスモスジュータンのポスターである。

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藤原宮跡は、藤原京の中心施設である藤原宮のあったところである。
藤原宮は一辺約1kmの中に、大極殿や朝堂院といった国をあげての儀式や政治を行う施設や天皇の住まいである内裏などがあり、現在の皇居と国会議事堂、霞ヶ関の官庁街を合わせた性格を持っていた。
藤原京は16年間の短い都だったが、藤原宮の構造はその後の都にも引き継がれている。
朱雀大路(すざくおおじ)は、藤原京を東西に分ける幅24mの道路です。
現在、朱雀大路は藤原宮の南から日高山までの範囲が復元され、当時の道幅を知ることができる。







この項 <完>

# by mo-taku3 | 2012-08-23 13:09 | (歴史)関西史 | Comments(2)